どうもみなさんこんばんは。
どうやら僕がRSSとばして見てるブログにコメントつけてTwitterに流したらそっからちょっと盛り上がって、そのことで件のブログの方がdisられたから反論する。という以下のような記事をお書きになっていました。
ツイッターでディスられていたので反論
一応僕が火付け役でこういうことになってしまったので反論への反論ということで書いておきたいと思います。僕が最初にTwitterにながしたブログ記事はこちら。
音読・暗唱至上主義はやめよう
とりあえず僕のツイートだけ直接引用しときますが、それ以外のつぶやきはまとめを作ったのでそちらを御覧ください。以下僕がこれから述べることは僕自身の見解であり、ワタリ先生やウラノ先生にはそれぞれこの反論記事に対して仰りたいことがある(あるいは逆に何も言うつもりはない)ということがあると思いますので、そこはご了承いただきたいと思います。
学年と熟達度で変わるでしょう。中学とかは練習「寄り」にどうしてもならざるを得ないと思うし。/ “音読・暗唱至上主義はやめよう – 英語教育挑戦記” http://t.co/Ww7NsvfqS2
— Yu Tamura (@tam07pb915) July 18, 2013
そんで「研究に裏付けられた科学的知見」であってもジャスティス大会になるような気もするんですけどね。
— Yu Tamura (@tam07pb915) July 18, 2013
僕が最初のツイートで言いたかったのは、音読や暗唱の至上主義(音読できることや暗唱できることを最終のゴールとすること)はともかく、低熟達度話者や初学者はどうしても機械的な練習や、closedなoutput活動の割合が多くなってしまうのはやむをえないし、その割合が熟達度があがるごとに減っていけばいいしそうあるべきだという程度の意味です。
2つ目に関しては、「よくわからない日本語(おそらくジャーゴン)」ということで、たぶん「ジャスティス大会」というのが意味わからなかったところであろうと思いますのでその補足をさせてください。
僕が言ったのは科学的であることを厳密に追求しすぎるといえることって結構限られていて(推測統計を用いて結果を一般化するデザインであってもその母集団というのが英語学習者全体になることはほぼないわけで)、そんでそういう科学的な側面に慎重になった上で英語教育に何か言おうとすると何も言ってないに等しいような抽象的なレベルの話になってしまいがちであるということ。そこからもう少し下に降りていったときには研究者の中でも微妙にスタンスが違ったり支持するモデルが違ったりして、「科学的知見」の中であってもコンセンサスってないんじゃないのかな。それぞれが自分の正しさを主張しあっている段階なのではないのかな。それほどにまだまだわかってないことってたくさんあるんじゃないのかなという意味です。
それで、まあそのあとの、なんでNationなのよとか科学的ってなによあたりの話に関しては、少し稚拙だったと思っています。
すいません
こちらの勘違いでしたね。
あと僕は「理論を勉強している中高の先生たちを上から目線で馬鹿」にしたことはありません。むしろ尊敬します。中高の先生の激務をこなしつつ理論を勉強するということはそう簡単ではないと思うからです。「自身の体験を唯一の根拠にしている」という人は僕もいつもそれはちょっとなあと思っているので、そのへんは共感します。また、
ここで私が「科学的」の反対として想定しているのが「唯一のソースは自身の体験」である某カリスマ教師のことです。そしてそれは現場で働いている、私の知る限り多くの教員も同様です。私の言う「研究に裏付けられた科学的知見を利用したほうがいい」というのは、理論とは無数の体験の集積なので、理論を学ぶことでもう少しソースの量を増やしませんか、少なくともソース1よりソース100のほうが説得力あるでしょ
というのも前段は同意です。後段の、「理論とは無数の体験の集積」というのは違うと思います。100人の先生の体験を聞いてもそれが科学的知見にはならないと思うからです。複数の事象を説明することができて文脈によらない普遍的で応用可能な原理が理論だと思います。ただし、教育の分野では科学的であることへの反発みたいなのもあって、他の物理や生物のような分野で守られるべき科学性とか実証性みたいなものが、そのまま応用できる、同じ枠組みで研究ができるというわけではないというのが難しいところなんですよね。そういう意味で、SLAみたいな分野っていうのはつらいところがあって、なんでもかんでもlanguage teachingのすべての現場に結果を直接還元できるものじゃない場合も多々あるわけなんですね。そのうえで、「あきらかにこれは今までの研究の成果から判断すると間違っているだろう」というような指導法なりカリキュラムなりを指摘したり、助言をするのが広い意味での言語教育研究者の使命なんだと思います。教室内で発生する様々な要素の影響が言語習得には関係しているとかんがえられるわけですが、それを一番わかっているのは教室で実際に教えている先生方なわけです。ですから、例えば研究授業なんかで大学の先生が見に来てそのあとご助言をみたいなことも結構あると思うんですがああいうのも結構難しいと思うんですね。大学の先生だって、自分の信念はあると思います。ただ自分の信念だけをもって「こうしたほうがいい」あるいは「これはだめ」ということは到底「科学的知見」に基づいたアドバイスではないですよね。そして、そこに保守的になりすぎると、結局学校の先生方が求めているようなレベルでの話にならなかったりして、「結局それを授業にどう取り入れたら」とかそういうことになってしまうわけで、そこが大学教員の先生方が感じるジレンマなのではないかと思っています。
で、Paul Nationへの反論というわけではないのですが、ネットで無料で手に入ったThe Four Strandsという論文を読んだのでそのことを少し。
この論文の中で、Outputをさせることが言語習得に有用であるという文脈で、Izumi (2002)という論文が引用されています。この論文は、Inputとoutputのグループで、どちらのトリートメントがよりnoticingを引き出せたかというのを調べた実証研究です。
僕もこの「気づき」というのに興味があり修論もそれに関するものでした。この先研究を続けることになるとすればこの問題に突っ込みたいと思っているんですが、この気づき関連の研究って、ほとんどが、「どうしたら気づきをより引き出せるか」ということに関する研究で(Izumi先生の一連の研究もそう)、「気づきが増えると言語習得が促進されるのか」ということを研究したものって実は限られているんですね。さらに、この「気づき」っていうものがなんなのかということと、その操作化も難しくて(何に気づかなければならないのか、気づいたかどうかをどう測定するか)「気付きが増えると言語習得が促進される」というのは、「形式に対する注意の量が多い学習者のほうが言語習得が促進された」あるいは「意識的注意のレベルが高いほうが言語習得が促進された」のようなかたちに読み替えられている場合が多いです(cf.Leow, 1997, 1998, 2000; Rosa & Leow, 2004; Rosa & O’Neil, 1999)。そして、このような実証研究で「気づきが大事!」となっていても、学習者の熟達度、EFL or ESL環境(この二分もざっくりしすぎだということは亘理先生がこの前おっしゃってましたが)、ターゲット項目が限られている(Leowの研究はスペイン語の屈折なので英語の習得研究ではないです)という点には注意する必要がありますし、英語のどの項目(form)に対して気づきが習得を促進するのかしないのか(項目間の差があるか)、あるいはSchmidt (1993)で取り上げられているようなpragmaticsも気づきがいるのかということもまだわかっていません。また基本的にこの気づき仮説は文法習得の話なので、語彙の習得ともまた話しは違いますし、文法の中でも形態素レベルの話と統語レベルの話も分けて考える必要があります。
なので、「言語習得には気づきが大事だ!」という前提が、実は結構妥当性はありそうなのですが科学的にはまだ論拠が弱いといえるのではないかと僕は思っています(だからこそそこを研究したいと思っているわけで)。Focus on Formに関しても同じようなことが言えると思っています。
とはいえ、やっぱりこの話は「科学的」にどこまで厳密であるかということの話に尽きるような気はします。学術雑誌や専門書に載っていたら全部科学的だとか研究者が言っていることは科学的だとかそういうことでもないですし、じゃあ科学的に厳密な研究が現場への示唆を示せないとしたらなんの意味もないじゃないかという話になってきます。実際の教室環境での実証研究にも倫理的な問題がはらんでいたりとなかなか難しい面もあって、どうしても厳密な意味で科学的で様々な環境での個別事象を説明する理論を提唱するのは難しいです。それが、「絶対的な教育法はない」ということにもつながってきますし、その中でも教員は決断を下さねばならず、というくだりは共感します。繰り返しになりますが、そのギャップが少しでも埋まるように英語教育研究というものが発展していけばいいなと思っていますし、この先どのようなキャリアを歩むにせよそこに貢献していきたいと思っています。以上です。
なにをゆう たむらゆう
おしまい。
Reference
Izumi, S. (2002). Output, input enhancement, and the noticing hypothesis.Studies in Second Language Acquisition, 24(4), 541-577.
Leow, R. P. (1997). Attention, awareness, and foreign language behavior. Language Learning, 47(3), 467-505.
Leow, R. P. (1998). Toward operationalizing the process of attention in SLA: Evidence for Tomlin and Villa’s (1994) fine-grained analysis of attention. Applied Psycholinguistics, 19, 133-160.
Leow, R. P. (2000). A study of the role of awareness in foreign language behavior. Studies in Second Language Acquisition, 22(04), 557-584.
Rosa, E. M., & Leow, R. P. (2004). Awareness, different learning conditions, and second
language development. Applied Psycholinguistics, 25(2), 269.
Rosa, E., & O’Neill, M. D. (1999). Explicitness, intake, and the issue of awareness. Studies in
second language acquisition, 21(04), 511-556.

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