名詞の数の処理に関する実験の論文が出ました

はじめに

日本語を第一言語とする英語学習者の数の処理について,International Journal of Bilingualismから論文が出ました。

https://journals.sagepub.com/doi/10.1177/13670069261422017

Tamura, Y. (2026). Singular–plural asymmetry in L2 English number processing: A sentence-picture matching study of Japanese learners of English. International Journal of Bilingualism. https://doi.org/10.1177/13670069261422017

オープンアクセスですので,どなたでも全文ご覧いただけます。論文の要約は私の個人ウェブサイトに記事を書いたので,そちらを引用しておきます。

日本語を第一言語とする英語学習者が,英語の単数・複数形を文処理中に自動的に概念的意味へとマッピングできているかどうかを調べた研究です。

先行研究(Jiang et al., 2017)では,文中に単数形名詞が出てきたとき,それが複数の物が写っている写真とペアになると,母語話者の反応時間が遅くなることが示されていました。これは,文処理中に単数形の意味(=1つ)が自動的に活性化され,写真の内容との概念的な不一致が干渉を生んでいることを意味します。ただし,Jiang et al. の研究では「単数名詞×複数の写真」という一方向のミスマッチしか検討されていませんでした。では逆方向,つまり「複数形名詞×1つの物の写真」ではどうなのか,については誰も調べていなかったのです。

本研究では,文と写真のマッチング課題を用いて,この両方向のミスマッチを同時に検討しました。実験の仕掛けはこうです。まず参加者に写真(物が1つか3つ写っているもの)を見せ,続いて写真の内容(物の位置や色)を説明した英文を提示します。参加者は「文が写真を正しく説明しているか」をできるだけ速く判断します。肝心なのは,ターゲット試行では単数・複数のミスマッチが仕込まれていること,そして参加者には「数のズレは気にしないでいい」と明示的に教示している点です。それでも反応時間に遅れが生じるならば,数の処理は意識的な注意とは独立して自動的に行われている,ということになります。L1英語話者32名と日本語がL1の英語学習者96名を対象に実施し,反応時間データを逆ガウス分布の一般化線形混合モデルで分析しました。

結果として,L1英語話者は両方向のミスマッチで反応時間の遅れを示しました。単数名詞が複数の写真とペアになっても,複数形名詞が1つの物の写真とペアになっても,どちらも干渉が起きていたわけです。一方,L1日本語英語学習者は,単数名詞が複数写真とペアになった条件では反応時間の遅れが見られたものの,複数形名詞が1つの写真とペアになった条件では有意な遅れが見られませんでした。

この非対称性の説明として,本研究では意味的有標性(semantic markedness)の概念を援用しています。単数形の意味(=正確に1つ)は精確で特定性が高いのに対し,複数形の意味(=1より多い)は本来ぼんやりしていて,特定の数を指すわけではありません(Sauerland et al., 2005; Patson et al., 2014)。学習者にとっては,この「単数のクリアさ」があるからこそ自動的な概念マッピングが成立するが,「複数の意味のぼんやりさ」に加えて,日本語には義務的な複数形形態素が存在しないという母語の影響(Morphological Congruency Hypothesis; Jiang et al., 2011)も重なり,複数形と複数概念のリンクが自動化されるに至っていない,という解釈です。

この結果がとくに重要なのは,これまでの研究の解釈に修正を迫る点です。Tamura (2025)でも論じたように,先行研究で見られてきた学習者の複数形態素への「非敏感性」は,複数形を処理できていないとか意味が載っていないということを必ずしも意味しません。本研究の文脈では,単数形から複数形への方向ではきちんと干渉が生じていることから,問題は形式と意味のマッピングの有無ではなく,その自動化の度合いや方向性によって異なる,という可能性を示唆しています。両方向のミスマッチを一つの実験で検討したのは本研究が初めてであり,この非対称性を明らかにした点に独自の意義があると考えています。

https://tamurayu.wordpress.com/2026/02/27/tamura-2026/

出版に至るまでの裏話

最初は,元の研究になっているJiang et al. (2017)の追試研究として書きました。もともと博論を構成する研究のうちの一つだったのですが,そのときは実験2つを組み合わせた解釈をしてたから割といけたんですが,この実験だけ取り出して新規性とか議論を膨らませるのが結構難しくて,全然書き進められていなかったのが原因でした(5000語くらいでずっと塩漬けになっていました)。

そこで開き直って追試として論文書いたら,元研究との比較を軸にディスカッションできるなと思ったのです。ところがまあそれはリジェクトされてしまいまして。そのアプローチはうまくいかんかー。ということで,元々書いていた追試ではないオリジナルリサーチの方向でなんとか最後まで書き切って別のジャーナルに投稿しました。しかしそれもまた落ちまして。

どうするかーと悩んでいたところで,Jiang et al (2017)が掲載されているIJBに出そうかなと考えました。IJBは語数制限が厳しいので,イントロもコンパクトに,ディスカッションもコンパクトにという感じで,逆にそれがこの研究には良かったのかもしれません。

投稿したらエディターに,「うちはもうSLAの論文載せてないのよ〜バイリンガリズムとSLA研究は違う分野になっちゃったからさ」(大意)みたいなことを言われて,「まあでもconvince meしてくれたら査読回すよ」(大意)と言われたので「いやバイリンガリズムの観点からも意義ありまんがな」と必死にアピールして査読に回してもらい,査読自体は時間はかかりましたが,さほど査読プロセスは厳しくなくminor revision -> acceptとなりました。

この実験の着想

英語には,名詞の単数・複数を形で区別する仕組みがあります。この複数形形態素の習得というのは,簡単そうに見えて実は数の一致の誤りにはなかなか気づけないこともあるなど,第二言語習得研究の関心事でした。私の博士論文は,「数の一致」の誤りに気づけるかどうか,という,いわゆる誤文反応検知(anomaly detection)
先行研究(Jiang et al., 2017)では,「単数形の名詞と複数の絵を見せると,母語話者は処理が遅くなる」という結果が示されていました。つまり,頭の中で「あれ,合ってないぞ」という衝突が起きるわけです。

ところが,Jiang et al. (2017)では,「単数形名詞 vs. 複数の絵」という実験はありましたが,「複数形名詞 vs 1つの絵」(実験3)では常にseveralやtwo,manyのような語彙的な複数を表すマーカーが含まれていて,これがあると不一致条件で遅れが出る(例:several paper bagsと読んでbagが一つだけなら遅れる)という結果が出ていました。しかしながら,こうした語彙的サポートがない複数形名詞の処理で反応時間が遅れるのかということは実験されていませんでした。私は,それをやって初めて,複数形の形態素をどう処理しているのかがわかるのではないか?と考えて,今回のような実験をするに至りました。だって,「単数形名詞 vs. 複数の絵」の条件では,実際には言語として複数形名詞を処理していないわけですから。

リジェクトされた原因

2回のリジェクトの割と大きい理由のひとつは,元の研究と実験の手順を微妙に変えたことなんです。この課題の肝は,上の要約にも書きましたが,絵と英文の位置関係を判断する課題の中で,物体の数が異なったりしているという条件があることです。例えば,

(a)The red onion is right above the yellow cup.

という英文を読んで,でも実際に見えている画像には黄色いカップが3つあるという単数名詞不一致条件と,

(b)The birds are on the right side of the orange cups.

という英文を読んで,実際に見えている画像にはオレンジ色のカップは1つしかないという複数名詞不一致条件がありました。

このような数が一致しない条件でも,「カップの上に玉ねぎ」とか,「カップの右に鳥」というような位置関係は一致していました。

英文が表している空間的な位置関係は正しいが,名詞の単数・複数に違いがあり,その時に,この「数の違い」に反応して,「あれ?数が違うぞ?」となって反応時間が遅れるかどうかというところがポイントです。オリジナル研究のJiang et al. (2017)では,「位置関係だけに着目して「絵と英文がマッチしているかどうか」を判断するように求められていました。

ところが,私がこの実験をやる前に行ったパイロット調査で,「数が違うときに,合っていると判断したらいいのか,どうしたらいいのか迷った」というコメントが英語母語話者からも日本語話者からも複数聞かれました。指示の曖昧性がある状態で実験をするよりも,思い切って,明示的に,「数が一致しなくても無視して,絵と英文の一致を判断する」としたほうが良いだろうと判断して,私は実験前に,名詞の単複の違いは無視するように参加者に伝えました。

結果として,Jiang et al. (2017)では学習者群で反応時間の遅れが見られなかった(a)の条件で反応時間の遅れが見られたんですよね。ところが,(b)の条件では遅れが見られなかったのです。この結果をどう解釈するのかというのが結構難しくて,最終的に意味的有標性という概念を使いました。これは博論でも使っています。

ところが,査読者(おそらくNan Jiang先生かあるいはあの研究の著者のどなたか)からは,指示を変えたのが結果が変わった大きな要因だ。元の研究と同じ条件でもう一度実験をやり直すべきみたいな感じで言われました。「練習試行で慣れさせれば,明示的な指示を与える必要はない(私たちはそうだった)」みたいな。私としては,でも,母語話者は指示があってもどっちの不一致条件でも遅れているわけで,その指示が母語話者には影響しなくて学習者にだけ影響したのか,どうやって説明するんですかという気持ちでした。さらに,その指示の影響でどちらの条件でも有意差が出たり出なかったりするのならまだしも,片方は有意差があり,片方の条件では出なかったという非対称性についてもなぜそうだったのかの説明が必要になります。

やめないこと

博論を構成する研究は,未出版のものであることというのがまあ約束としてあったのですが,それは,就職して間もないころは忙しいので,すでに出来上がった研究を投稿論文にすることでとりあえずは「食いつなげるように」ということだったわけですが,私はそれすらもできずに,結局この研究を8年間も引っ張ることになってしまいました。情けないなと思う気持ちもある一方で,辞めなかったことだけはポジティブにとらえています。そんだけ時間が経っていたら内容のことも記憶から薄れてしまっていますし,時間とともにモチベーション自体もやっぱり下がってきます。この論文の投稿プロセスについて相談していたGeminiには次のような厳しいことも言われましたしね…苦笑

昔,私の先輩である草薙さんが,

研究者は自分を「書けないタイプ」だとみなしたら終わり。せいぜい「たくさんは書けないタイプなだけ」とか「今はまだ書けないだけ」と思うこと

というアドバイスをしてくれました。たぶん,このブログでも何回か書いたことのある話ですね。

私は就職してからずっと,自分はたくさん論文を書けるタイプではないと思っていました。就職後2年間は本当にそうでしたし,コロナ禍後に心がボロボロになったときも,「今はまだ」と思っていました。でも,とにかく辞めない,書いて投稿することをどんなにペースが遅くてもやり続けようと思ってここまでやってきました。私の場合,研究をデザインして出版までいくのに平均して3-4年はかかっているので,時間はかかりすぎているとは思います。でも,何もやらないよりは100倍ましだと思ってやっています。私は一流の研究者でもないし,たくさん引用されるような論文を書いているわけでもない,人より優れた才能があるわけでもない,平々凡々なただの人ですが,とにかくやめないこと,これだけはこれから何十年も続けたいと思います。

最近,「博士課程で連続的に成長する」というnote記事を読みました。

私はもう「まずは一本だ出す」とかそういう段階は通り過ぎた研究者ですが,「前に進んでいない感覚」は今でも持っています。関連するようなことをnoteの方にも書いています。

同じ4年間と違う4年間と次の4年間

「次の4年間」

前に進んでいる感覚はないけれど,とにかくやり続けて,最後に最終講義(というようなものが未来に存在するかわからないですが)とかで,自分のこれまでの研究人生を振り返ったときに,「まあ,なんかやったっちゃやったわな」と思えたらそれで御の字だなと思います。

おわりに

最後はなんかちょっと論文の紹介からズレてしまいましたが,これからもほそぼそとやっていきます。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

書き出しをどう書くか

はじめに

querie.meでいただいた質問への回答です。質問は以下です。

質問

論文やレポートを書く際に、いつもイントロの書き出しや、各セクション(特にイントロと先行研究)の書き出しを考えるのに非常に苦労します。アウトラインを作ってあっても、どうしても最初の1文~5文ぐらいが書けないと、どうしても前に進めません。逆に、一度書き出してしまえば、スラスラと書くことができます。そのため、どうしても書き出しが締め切り直前となってしまい、「どうにでもなれ!」という感じで一夜漬けのような感じで書き上げてしまいます。そして、修正する段階でも、各論文やレポート、セクションの書き出し”以外”のところだけ修正し、書き出しはどうにもなりません。。。書くのは嫌いではなく、むしろ好きです。ですが、いつも書き出しに苦労してしまいます。一晩で変わるものではないと思いますが、アドバイスや心構えみたいなものがあれば、教えてください🙇🙇

回答

質問ありがとうございます。アウトラインを作ってから書き始めているということ,素晴らしいです。アウトラインを考えることで,論文の各部分の間の一貫性を俯瞰することができるので,とても良いと思います。

結論から言うと,私の答えは次の2つです。

  • 最初の1〜5文はオリジナリティ勝負ではなく「型」で書く
  • 書き出しから書かない(RQから逆算して後ろから作る)

この2点を押さえるだけで,「アウトラインはあるのに最初の数文だけ書けない」という悩みはかなり軽くなるはずです。以下,順に説明します。

最初の1〜5文は「型」で書く

学術論文のイントロの冒頭(いわゆる漏斗の一番上)には,分野や雑誌ごとにある程度の定石があります。アウトラインがあっても筆が止まるときは,「背景」といった抽象的な見出しを,自分の言葉でゼロから文章化しようとして止まっていることが多いです。

そこでおすすめなのが,「メタ的に分析する」という読み方を,論文全体ではなく「イントロの最初の1パラグラフ」に限定してやることです。自分が好きな論文,書き方がうまいな,読みやすいな,という論文を3〜5本用意して,イントロの最初の1パラグラフだけを横並びにして眺めます。

ポイントは「何が書いてあるか」ではなく,「その数文が何をしているか」です。たとえば,

  • 1文目は何を主語にして,どのような時制で書かれているか
  • 2〜3文目で,そこからどのように焦点を一段階絞っているか
  • どのタイミングで「未解決の問題(ギャップ)」が導入されるか

こういう観点で見ていくと,「最初の5文」が果たすべき機能と,具体的な語彙や構文のパターンが見えてきます。見えてきたら,それを真似して,自分の研究のキーワードを当てはめればよい,ということになります。

あとは,ムーブという概念を知るのも大事ですね。アカデミックライティングというのは,文をゼロから自分で生み出すというよりもむしろ,パターンをうまく組み合わせていくということでもあるので(下に書いた文献やウェブサイトをご参照ください)。

書き出しから書かない(RQから逆算して後ろから作る)

次にもう1つ。漏斗の一番上から書こうとすると難しいのは,どの広さから書き始めるかが決まっていないからです。一方で,論文を書き始める時点で,RQと規定の語数は決まっているはずです。となると,RQが漏斗の一番狭い部分ですから,ここから徐々に広げていくほうがスタート地点が固定されていて書きやすいです。

私が意識しているのは,自分のRQと全体の分量から逆算的にスタート地点を決めることです。論文といっても,例えば学位論文と投稿論文で長さが違いますし,投稿論文でも学術誌によって語数の規定が異なります。自分が全体としてどれくらいの分量の論文を書いていて,各セクションに大体どれくらいの語数を割り当てるのかがまずは一つのポイントです。それが決まれば,funnelの広げ方または狭め方が決まるからです。

例えば,私は第二言語習得研究の中でも文法,特に形態素の習得や処理に興味があってそういう論文を書きます。その時,書き出しは「第二言語習得研究とはこういう学問である」にはおそらくならないですよね。せいぜいが,「第二言語の形態素習得研究の主たる関心はXである」とかでしょう。そこからスタートして,なぜXの研究が分野全体にとって重要なのか,Xが関心を集めているのはなぜか,そして自分の研究はそのXの研究の中でどういう位置付けで,その位置付けの研究は分野全体の研究にどういう貢献をもたらすのか,みたいなことを書いていきます。ここにあげたのはあくまで例で,常に全てがいつも盛り込まれるわけでないです。

バックグラウンド(先行研究)で意識していること

「特にイントロと先行研究」のセクションが書きづらいと感じられているとのことなので,バックグラウンドについても少しだけ書きます。

バックグラウンドのセクションは先行研究のレビューなわけですが,私はいつもサブセクションを作るようにしています。サブセクションの分け方をどう決めるかは,先行研究の学術的な概念の紹介と,過去に行われた先行研究でわかっていること,という感じで私は分けることが多いです。

バックグラウンド全体のイントロ的なパラグラフをおくかどうかも,論文の構成と全体の分量とのバランスで決めているかなと思います。

また,「この論文を理解するためには,これとこれとこれについては読者に知っておいてもらわないといけないよね」ということを絞って書くようにしています。投稿論文の査読でも学位論文の審査でも,審査する人が自分の専門と全く同じ研究をしている人であることは稀です。したがって,自分の研究で重要な概念についてはそれがどういうものなのかをわかってもらわなくてはいけません。もちろんイントロでその概念が出てくるのでその時に説明はするわけですが,より詳しい説明はバックグラウンドのところに持ってくることが私は多いです。

論文の別の箇所に似たような内容が書いてあると,「冗長である」という査読コメントをもらうことがある一方で,何回も繰り返し説明しても,「説明がされていない」と書かれることもあるので難しいところではあります。自分が査読者として論文を読むときは,重要なことは繰り返し書いてもらった方が理解がしやすいので,自分もそういう書き方をしているのかなと思います。

参考になるリソース

ここから先は補助的な話です。型のストックを増やす,あるいは言語化するための材料として,次のようなものが役立ちます。

まずは,日本語で書かれたアカデミック・ライティングの教科書を何冊か読んでみることをおすすめします。どんなものがあるのかわからない場合には,学部や大学院のアカデミック・スキル導入系科目で指定されている教科書か,参考図書にあたられると良いでしょう。多くの大学では,レポートの書き方というのは必須のアカデミックスキルとして大学の初年次で配当されていることが多いです。私の所属先である関西大学外国語学部では,「基礎演習」という科目がそれにあたります。

私の手元にある書籍だと,

あとは,最近だと生成AIを利用して論文を執筆する方法として,水本先生が作成されたページも参考になります。

生成AIを用いた倫理的・効率的な英語論文執筆

さらに,ムーブという概念を使いながら,丁寧に論文執筆の過程を紐解いているのが,『英語科学論文をどう書くか:新しいスタンダード』です。これがおそらく一番,質問者の方の悩みにダイレクトに効く処方箋になると思います。英語で論文を書いていなくても,ロジックは同じなので参考になると思います。

上記書籍にも多くの表現が収録されていますが,私はライティングの授業で必ず,Academic PhrasebankというWebサイトを紹介しています。このサイトにも,論文の様々な場面で有用な表現がまとめられていて,かなり便利です。

おわりに

こういう質問に対して,適切な文献を案内するだけではなく,自分がどのように書いているのか(書いてきたのか)を経験とともに伝えることができるよう,論文を書き続けなければいけないという気持ちになりました。

私に質問したい方は下記URLからどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

心理言語学実験デモ集のコードをGitHubに公開しました

はじめに

先日,下記の記事を書きました。

この記事の中で,実験コードは別途GitHubで公開すると書いていましたが,準備ができたので公開しました。今回はその告知です。

GitHubで公開しているもの

以下のURLが,GitHubのレポジトリです。

https://github.com/tam07pb915/tamura-jspsych-demos

詳細はREADMEに書いたのでそちらを読んでもらえればと思いますが,一応この記事でも簡単に説明します。

上のGitHubのページは,「デモを動かしてみたい」という方は特に参照する必要はありません。そういう方は,以下のデモページを直接ご覧ください。

https://tamura-jspsych-demo.netlify.app/

GitHubページは,この実験デモがどういうコードで動いているのかを知りたい人向けです。「自分でjsPsychで実験を作ってみたい」「デモ実験をカスタマイズしてみたい」「研究に利用したい」というような方々が,コードを確認しやすいようにしています。もちろん,でもページ開いてそのページをInspectしたらコードわかるといえばわかるわけですが。

デモ自体はウェブ上で体験できますが,もしもローカルで実行したいという方は,レポジトリのファイルを全てDLしていただければ,ローカルでも実行できると思います。

今後の予定

とりあえず,今は自己ペース読み課題以外は説明等がすべて日本語で作ってあるので,英語版も作ろうかなとは思っています。今のGitHubの構成を変えるのか,新しいレポジトリにするのか,実験ページは同じNetlifyのプロジェクト上に置くのかとか全然そのあたりはまだ考えていませんが,またそのあたりはおいおい考えていく予定です。

おわりに

前回の記事でも書きましたが,今のコードは「とりあえず動く」というレベルで,改善の余地がある部分はたくさんあると思います。コードを見た方で,修正が必要な箇所に気づかれた方や,より発展的な課題の提案がある方などは,ぜひGitHubのIssueに投稿していただければと思います。よろしくお願いいたします。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

jsPsychを用いた心理言語学実験デモ集を作りました

はじめに

私は,所属先の関西大学外国語学部で,3・4年次生向けに「心理言語学研究」という講義科目を担当しています。本講義では,心理言語学で参照される代表的な実験について,授業中に学生自身がコンピューター上で体験できるようなデモを用意しています。その実験デモはjsPsychを用いてブラウザ上で動作する実験になっていますが,いくつかの実験素材をまとめた「デモ集」のページをまとめたので,URLを公開します。

https://tamura-jspsych-demo.netlify.app/

注意点

授業内で完結できるようにするために,実際に研究で使われるような実験ほどの厳密性は有していません。例えば,実際の研究で用いられた手続きに近いものもあれば,「効果」自体を体験してもらうために実際の実験とは違う作りにしているものなどもあります。そういう注意点はありつつ,実験やその結果を言葉で説明されるよりは体験することでより理解しやすくなるかなと思っています。あくまで,教育目的での利用が前提であるということをご理解ください。

なお,参加者のデータがサーバー上に保存されるというようなことは一切ありません。よって,個人情報が収集されたりはしません。また,結果画面を誤って閉じるまたはリロードしてしまうなどをすると,そのデータの復元はできませんのでご注意ください。

動作環境ですが,基本的にはキーボードのついたデバイスがマストです。キーボード付きのタブレット端末ではうまく動作しないケースもあるようです(手元にあるiPad+Smart Folioでは動作しましたが,授業中にタブレット端末でうまく動いていない学生が割といました)。したがって,推奨環境ははラップトップまたはデスクトップのデバイスです。

基本的な構成

基本的には,説明があって,実験をやって,最後のページで結果が表示される,という流れになっています。私自身も自転車操業で学期中の授業準備を回しながら実験デモを作っていたので,練習施行があるものとないものがあったり,一番最後に生データが表示される実験があったりなかったりと,実験によって構成にばらつきがあるという点,ご留意ください。

コードの公開について

現在は,デモ体験用のページのみを公開していますが,各デモ実験に用いている実験コード(jsPsych)は今後私のGitHubで公開予定です。公開した際には,改めてこのブログでも紹介します。

要望について

もうちょっとこの実験はこういう風にできないのかですとか,この実験コードのここは誤りではないかといったフィードバックについては,GitHubにコードを公開した際にGitHub上で受け付けていこうかなと思っています。

また,「こういう実験のデモもあったらいいな」みたいなのがあれば,そのアイデアとその実験を扱っている原著論文を教えていただけたら,作れたら作ってみたいなと思います。必ず作りますということをお約束はできませんので,そこだけはご理解ください。

おわりに

個人の授業だけで利用するものなので,公開するかどうかは迷ったのですが,より多くの方に体験していただく公益性のある教材かなと思いましたので公開することにしました。授業等での自由な利用を歓迎します。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

博士号の要件としての査読付き論文

はじめに

以前書いた,以下の記事に少し関連する話です。

いや,関連しないかもしれません。タイトルに書いたように,博士論文(博士号)と査読付き論文の関係についての話です。ググったところ,以下のような記事も見つけました。

博士号取得に査読付き論文は必要か否か

査読付き論文の「求められ方」

博士号取得の要件として,何らかの学術的業績(典型的には査読付き論文がX本,といったもの)が求められる場合,それが博士論文それ自体を構成する一部になっているかどうかということと,そういうものとは独立しているかどうかが一つ分かれ道になるのかなとなんとなく思います。

そして,博士論文研究の一部が外部の査読付き学術誌に公刊されていること,というのは,博士論文研究それ自体のクオリティを担保することなるというロジックからの制度設計なのかなと思います。

一方で,博士論文研究との関わりが必ずしも明示されない場合,それは博士論文研究のクオリティとは別に,「博士号取得者」としての適格性を判断する要素としての学術業績を求めているということなのかなと個人的には理解しています。

ちなみに,私の所属先は前者のパターンです。一方で,私自身が博士号を取得したときは後者のパターンでした。よって,私の博士論文を構成する主要な実験研究2本は,博士号取得後に就職してから学術誌にそれぞれ独立した研究として投稿して採択されました。博士課程時代に筆頭著者の査読付き論文はおそらく5本だったと思いますが,そのどれもが博士論文研究とは関係のないものでした。

博士論文が査読付き論文から構成されているときに起こり得る問題

博士論文研究の一部が査読付き論文で構成されているということは,一見,その研究の質がある種外部査読というシステムによって担保されているという見方ができそうです。一方で,査読付き論文といってもその中身には当然のことながらばらつきが多く見られます。ジャーナルのランキングのようなものを持ち出すまでもなく,です。先行研究として世の中に存在する査読付き論文はすべて正しいという前提で研究を進めていくことができないのと同じように,博士論文の一部が査読を通過した論文に基づいたものであっても,見る人が変わればその評価は変わる可能性があると私は思います。

人によって評価が変わるなんてそんな属人的な基準で評価されたら博士号を取得しようともう人も「たまったもんじゃない」と思うでしょうね。しかしながら,そもそも査読というシステムは完璧でもなんでもありませんし,限界があります。仮に同じ「国際誌」という名前で括られるジャーナルでも,査読の厳しさが違いますし,同じ雑誌でも,査読する人が違えば通ったり通らなかったりすることは普通にあります。むしろ,そこは運の要素もあるでしょう。もちろん,学生の立場にたてば,複数回の査読のやりとりがあり,審査に時間もかかる国際誌に掲載するハードルが高いことは間違いないでしょう。しかも,そこを博士課程在籍中に超えていくことを奨励しているのだから,そして,なおさらそれを超えたのだから,それがそのまま博士論文の研究を前に進めることに繋がっているという感覚になって当然だと思います。

しかしながら,ある研究が査読付き論文に掲載されている,ということは,博士論文の審査とは別のモノとして考えるべきだと私は思っています。少なくとも私が審査をする側の立場にたったと仮定して,その研究が業界のトップジャーナルに掲載されていたら審査の基準が緩くなるとか,あるいは「まあここはざっくり流して読めばいいか」みたいになるかと言われると,絶対にそうはならないと思います。専門的なところのドメイン知識が要求されるところは一旦置いておいて,次のようなところを考えながら読むでしょう。

  • 書いてあることの曖昧性がないかどうか(Aという解釈でも読めるしBという解釈でも読めるみたいなことがない)
  • 基本的なロジック(論理関係)の破綻がない
  • 因果推論に対して慎重である

上の3つのどこかで引っ掛かれば,その研究が査読付き論文として公刊されているかどうかには関係なくコメントつけますし,それが改善されないのなら改善されるまで私は「納得」しないと思います。

自分が審査の立場になるということは,それすなわちそれがレコードとして一生残り続けるということです。ブラインドの向こう側にいる査読者とはそういう意味で立場が違うのです。もちろん,昨今では査読者が身分を明かした状態で査読を行うジャーナルもありますし,査読プロセス自体はブラインドでも,あとから査読のレコードをオープンに公開するジャーナルも出てきています。それでも,まだまだダブルブラインドまたはシングルブラインドの査読の方が多いでしょう(少なくとも私の経験している範囲ではそうだと思います)。

また,査読者が担保するのは,広い意味では学術界の研究の質担保ですが,もう少し狭い視野ではジャーナルの質を守っています。つまり,同じ査読者でもジャーナルが違えば当然審査の基準も(場合によっては観点も)違うわけです。それぞれのジャーナルがそれぞれのスタンダードを持っていますからね。一方で,学位論文の審査員は,自分の所属機関(学部審査であれば依頼を受けた先の機関)が授与する学位の質の責任を負っているわけです。それを「他のジャーナルが認めたから」という理由で,博士論文審査の基準を動かすようなことをすれば,自分たちの機関では学位に値するかどうかを審査できないという宣言にもなりかねません。

おわりに

この記事は,査読付き論文が学位審査の要件になる際に,個人的に感じた問題点を書きました。査読付き論文そのもの自体を否定したいわけではまったくなく,博士論文の審査と学術誌の査読は役割が違うのではないかというのが私の今の段階での考えです。では,博士論文の審査において実際に問われているものは何なのでしょうか。また,査読付き論文が博士論文の一部になるような要件として課されている場合に,その経験は博士論文のどの側面の保証として機能しうるのでしょうか。このあたりについては,また機会があれば改めて考えてみたいと思います。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

2025年の振り返り

毎年恒例の振り返り記事です。これまでの振り返り記事も興味がお有りの方はどうぞ。

過去の振り返り記事

ブログのこと

この記事を書いている2025年12月26日時点でのこのブログのpage viewは219,415です。年間のアクセス数は17,706で,昨年よりもさらに微減,2022年よりも低い数字になりました。2023年で増えたのがまた少し落ちたという感じです。投稿自体は23本と昨年よりも増えて,平均で月2本くらいのペースだったので,一つの記事あたりの閲覧数が少なかったという感じですね。

今年の記事で閲覧数が多かったのは以下のような記事でした。

1番目は,ここ数年で自分の仕事の一部になったノートアプリ関係の記事です。Obsidianは研究のために使っているのと,授業関係のメモを残すのに特化して使っています。基本的に,デバイスすべてにアプリが入っているし,常に開いています。ToDoリストではなく,終わったことをリスト化していく,というやつです。これも,結構毎日やっていたのが最近はあんまり毎日デイリーノートにやったことを書いておくみたいな週間はとぎれとぎれになって来てしまっているかもしれません。理由は簡単で,「仕事終わり」の時のクールダウン的な時間が一切取れていないからですね。そんな暇ねーって感じで帰宅しています。

2番目の記事は,匿名質問への答えをブログ記事にしたものです。最近は,あんまり質問が来ないのと,質問もらっても長文ブログを書くような気力がないことも結構多いです。

3番目はXの投稿に触発されたものですが,これも別にそこまで閲覧数伸びなかったなーって感じです。

仕事のこと

2025年は,昨年度の秋学期に始まった執行部の仕事を年間通してやるというのが結構自分の中ではハードでした。特に,広報の仕事は,ルーティン的にできる部分(Xへのポストなど)と,クリエイティブさが要求される仕事(広報媒体の企画や動画の企画)があって,後者が自分の中で全然しっくり来なかったというか,自分がこの学部の何を誰にアピールしたいのか,というはっきりしたビジョンを持っていないことを痛感した1年に感じています。今年で8年目なわけで,いろんなポジションで仕事をこなしてきてはいるし,学部もどんどん変化していっているわけなのですが,それでも自分は学部のことをまだまだわかっていないし,この学部をどうしたいのかっていうのも明確な答えを持っていないのだなと。ずっとこの職場に居続けるのだとしたら,そういうことを考えずにやっていけるわけがないと私自身は思っています。でも,そういうことを考えるのは,誰でもやることでもないのかもしれないと思うこともあります。執行部に入ったからこそそういう意識の変化が生まれたのかもしれませんが,任されるのにはそれなりの理由があるのだと勝手に自分の中で腹落ちした感覚もあります。

授業に関しては,今年はゼロから新しい授業を担当しているってことはないのですが,昨年度初めて担当することになった学部の講義科目(心理言語学研究)を,180度やり方を変えて取り組んでいるので,それなりに大変さを感じています。ただ,昨年度よりは遥かに自分の中でも手応えを感じられている部分はあります。毎回反省はありますが,この方向性をどんどん追求していけばもっと良い授業ができるという見通しはたったような気がしています。あとは,久しぶりに学部のゼミ生が入ってきてくれて,嬉しいですね。何か少しでも自分の研究に関する知見を還元できたらいいなと思っています。お酒をやめてしまったので,お酒を飲みに行けないのが残念なのですが。

そして,修士課程の学生を受け入れられるようになりました。ついに〜という感じです。着任10年目くらいでようやくそこにたどり着けるかなと思っていましたが,それよりは少し早まったという感じです。それでも,着任して割とすぐに院生指導をするような同世代の人たちもいることを考えたら,私は院生指導という意味では随分とスタートが遅いような気もしています。そういうキャリアパスは見えていて納得したうえで着任したし,院生を持つようになればそれはそれで授業の時間数が単純増になるので,「学部のゼミも持って大学院のゼミも持って,学部の講義科目と大学院の講義科目と学部のスキル科目と教養外国語の科目と….そりゃ半期10コマとか担当する先生がいるわけだ…」みたいな感覚です。ただ,初めて学部の科目を担当した2024年に,担当しないとわからないことがあるなと思ったことと同じように,きっと院生の指導もやらないとわからないことがたくさんあるだろうと思います。何回も繰り返せば繰り返すだけ良くなる気がするっていうのはどんな仕事でも思っていることなので,経験を重ねて良い研究指導ができるようになれたらと思います。自分のウェブサイトにこういうページも作ったので,私の指導を希望される方はお読みください。

研究指導で思い出したこととして,今年強く思い出に残っていることは,博士論文試験の副査を務めたことです。M院生の指導よりも先にそちらを担当したということがもしかしたらあまりないことなのかもしれませんが,とても光栄なことでした。信頼して任せてくださった新谷先生には(常にいろんなことで感謝しまくっているのですが)本当に感謝しています。部屋に入って同じく学外審査員の超大御所の先生が座っているのを見て,「ふぁ!?!?対面で!?」ってなったのも含めていい思い出でした。

2024年の記事を見返していたら,研究のことをなにも書いていませんでしたw 研究をやっていなかったわけではなくて,学会発表もしたし,論文を書いて投稿したりもしていましたが,ファーストの論文は結局採択ゼロになってしまいました。2025年も,結局アクセプトサンタは来なかったのでファーストの論文は結局ゼロなのですが,投稿中の本数は3本なので,来年はこの3本がどどんと出るといいなと思います。杉浦先生の退官記念論集や,福田さんが若林先生たちと編者になっている本(後述する口頭発表の元の原稿が掲載される予定の書籍)も順調にいけば2026年に出そうだという話なので,そちらも合わせて,全然研究できなかったと思うような年ではなかったです。直近では外国語教育メディア学会(LET)の全国大会で口頭発表しました。実は,LET全国大会で第一著者として口頭発表したのは今回が初めてでした。

私の研究はこんなに満員御礼になんてなったことがないので,きっと最初で最後の満員御礼だろうと思いますw 明示的知識・暗示的知識はいま科研費をもらっているので,精力的にアウトプットしていこうと思います。と書いて思い出しましたが,今年は3回目の正直で基盤Bが採択されたのでした。夏の集中講義でお世話になっている神戸市外国語大学で以前,ランチにお蕎麦を食べていたときに,濱田さんに,予算規模が大事だとアドバイスをいただき,満額で2000万まで申請できる基盤Bの半分くらいの額で申請したら通りました。濱田さんにはめちゃくちゃ感謝しています。明示・暗示といえば,この前タイムラインのおすすめの方にこんなポストが流れてきました。

反射的に,私が昔書いた同じ本のレビューブログのリンクをリプライしそうになりましたが,やめました。

運動習慣と健康面

運動は,ChatGPTに筋トレ相談というプロジェクトを作って,そこでメニューとか食事の提案をしてもらいながらするというのを秋学期からやり始めました。きっかけは,妻から,「私と出会ったときは,腹筋割れてたよね?」と言われたことです。最近,なかなか体脂肪が落ちないなと思っていたのもあって,気合を入れ直したっていう感じです。腰痛とか,体の疲労感,睡眠なども報告して,今は無理しなくていいとか,今日はこのトレはやめておこうとかそういう細かい調整をしてもらえるので,パーソナルトレーナーを雇っているような感覚です。ちなみに,ChatGPTとのやりとりで,補食に羊羹がいいというのを教えてもらって,30個くらい箱買いして研究室においています。1, 2限がある月曜などは,出勤してから筋トレして,そこから昼までに空腹が長く続いてしまうので,1限の始まる前に羊羹を摂取しています。あとは,5限のある金曜は夕方にガス欠になりがちなので,そこでも羊羹を入れたり。脂肪がなくて炭水化物が手軽に取れるので,重宝しています。3ヶ月くらいで体脂肪率が3%くらい落ちました(体重は3キロくらい)。筋トレ自体はいつも10分くらいで,本務校授業日の3日間だけしかやっていないので,これくらいの習慣は続けていきたいなと思います。

健康面だと,7月末に入院して足裏の小さな腫瘍を切除する手術をしました。入院自体は大学生時代に腰椎椎間板ヘルニアで歩行困難になって2回入院したことがあるので,それ以来かなと思います。手術の前日は,論文書けるぜ〜とか余裕ぶっこいていたのですが,術後は痛すぎてそれどころではなかったのと,退院後すぐに出勤しないといけない用事があって足を引きずりながら出勤したのもいい思い出です。経過観察をちょうど今日もしてきて,特になんの問題もありませんでした。

プライベートのこと

子どもが4月から保育園に通い始めました。最初は保育園の給食を全く食べることができず,これでは保育園に預けられないということで,妻の仕事復帰を先延ばしにして,退園させるかどうかみたいなことも真剣に検討したこともありました。また,保育園の洗礼というやつで,とにかく毎週のように小児科に通い,親もくらって耳鼻科の大行列に並び,みたいなことも5, 6月くらいはありました。鼻水がやばすぎて,関学の非常勤に行ったときにマスクの下で鼻水ぐっちゃぐちゃだったことが一度ありました。帰りに仁川のマツキヨでティッシュと鼻炎薬買いました。息子は保育園の先生方のおかげで徐々に保育園に慣れていき,今ではむしろ保育園の給食では野菜やお肉などもよく食べるけれども家では米とパンとフルーツしか食べないみたいな状態です。保育園で頑張っているから,という気持ちもありつつ,家でもなんでも食べてくれたら嬉しいなと思ってしまっています。

保育園に通わせるというのは,送り迎えや保育園の準備といった今までに経験したことのないことをするということを意味します。今ではだいぶそれが自分の日常に刻み込まれてきている感覚がありますが,慌ただしさは増した感じがします。会議を途中で抜けなければいかなかったり,息子が保育園を休まないといけないときには授業を休講にしたりしないといけないというのもあります。昨年度の秋学期はまだ妻が育休中だったので,そういう意味では仕事に集中すればよいという状態でした。春学期はとくに,授業を休講にすることへの躊躇というか,絶対にそれはしたくないという気持ちが非常に強く,妻とそれで口論になったことも何度もありました。今では,それはやむを得ないこととして自分の中でもうまく処理できるようになってきたと思います。

それでも,子育ては悩みがつきないですね。

買ってよかったもの

最後におまけ。

パナソニック電動自転車

除湿機

自転車のリンク先は最新モデルなので,私が買ったやつと同じではないですが,当時の最上位機種を買いました。自転車の鍵がボタン一つで解除できるのが気に入っています。保育園の送り迎えや,近所の公園やスーパーに行くのにも必需品で,これなしでは生きていけません。子育て世代の強い味方です。

除湿機は,夏の寝室の快適さが爆上がりしました。エアコンの除湿機能を使うと温度のコントロールが難しいなと感じていたんですよね。子どもも同じ部屋で寝ているので,ガンガン冷房効かせて布団かぶって寝るみたいなことはできません。でも,除湿機をかけると,冷房でそこまで温度を下げなくてもめっちゃくちゃ快適に眠れるんですよね。本当に買ってよかったです。冬の今の時期は,洗濯物がなかなか乾きづらくなってきたので,洗面所に部屋干ししているときにサーキュレーターに加えて除湿機もかけるようにしています。

おわりに

2025年は,もしかすると,飲み会に一度も行かなかったかもしれません。いや,それは言い過ぎですね。たぶん,2月に中崎町に飲みに行ったっきりです。お酒を飲むのをやめたのは10月の終わりからなので,それまではお酒は飲んでいましたし,妻の友人家族と外で食事するみたいなのは何回かありましたが,私が夜に1人で出かけたのはたぶんその1回だけですね。サッカーを夜に観に行ったのは何回かあったとは思いますが。サッカーも,年間チケットは買っていますが,半分以上はリセールしてますねおそらく。

子どもと離れるのが嫌だという気持ちと,夜の時間帯のワンオペの大変さがわかっているので,それを妻に任せるのが申し訳ないという気持ちが両方あると思います。きっと,あと数年は泊まりがけの出張や飲み会は避けることになるだろうな,いや,数年どころか何年経っても夜に出歩くのが憚られるぞ?というのが正直な気持ちです。

たくさんの方に気を使っていただいて,だからこそ,仕事も子育ても両立できていると思うので,そういう方々への感謝の気持ちを伝えないといけないんですけどね。夜に出歩けないとなったら,そうか昼にTRATTORIA TAMURAを開業すればいいんですね。そうだそうだ。

ではでは,毎年の事になりますが,このブログを読んでいただいている方も,そうでいない方にも,私に関わるすべての方に感謝申し上げます。

今年も1年お世話になりました。来年もよろしくお願いします。皆様,良いお年をお迎えください。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

何の役に立つのかは教員が語らなくてもいいのかも

はじめに

学部の講義科目,「何の役に立つの?」と思われるって自分で思い込んでたけど,その問いは学生が自分たちで自分の日々の経験や他の授業で学んだことと関連付けて答えを出そうとしてくれていることを,毎週のリアクションペーパー(以下,リアぺ)を読んでると感じます。
こちらが,「この話はこういう点で役に立つよ」なんて言わなくてもいいのかもしれないなと。

教員と学生が一緒に作る授業

そのことを,教員の責任を放棄してるとか,学生頼みとか考える人ももしかしたらいるのかもしれませんが,私は授業は教員が一方的に学生に知識を授けるものではなくて,教員と学生が一緒に作っていくものだと思っています。そういう意味では,その理想に近いのかなと。

指示しなくても,学生は自然と

しかも,私は学生に,この授業が何の役に立つか考えなさいとか,自分の経験に照らし合わせて考えなさいとか,そういう指示は出していません。そういう指示は出さなくとも,学生は自然と自分がした経験や考えたことと授業で扱ったことを関連づけようとしています。「私が経験したあの出来事は,もしかして今日の授業のこの説明が当てはまるんじゃなかろうか」とか,自分で思考を深めたり,問いを導き出していったり。
もちろん,そういった書き込みの中に,本当は自分で考えていなくて,生成AIで書いたようなことももしかすると含まれているのかもしれないし,それはもうわからないのでなんとも言えません。でも,そうは思えないコメントがたくさんであることは間違いないと自分では思っています。

「学の実化」は学生がもたらすもの

私はずっと,自分が研究していることは現実世界に直接的に役に立たないとか,現実世界の問題を直接的に解決するようなものではないと思っていました。最近,研究と社会との関わりについて考えさせられるポストも目にしました。


少なくとも授業という文脈では,私の所属先である関西大学が掲げる「学の実化」というものは,教員が学生に与えるようなものではなく(そういう場合もあるのでしょうが),むしろ学生の側が主体的に,「私が今学んでいることは,私の生きている人生や,この社会にどう関係しているのだろうか」ということを考えることによってもたらされるのかなと最近は思います。
私の授業はそうやって受けるものなのだということを明示的に指示しなくても,外国語学部の学生が主体的に,そして自然とそのような姿勢で授業を受けてくれていることに,私は感銘を受けています。そして,その事でとても誇らしい気持ちになると同時に,彼らがきっと,それぞれの場所で今も,そしてこれからも輝きをはなってくれるに違いないという確信めいたような気持ちになります。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

考え方真反対でいいじゃない

はじめに

秋学期がそろそろ始まりますが,春学期の終わり頃に聞いて嬉しかった話。

「考え方が真反対」

大学院の授業で,「別の曜日に受けている実践系の授業の先生と考え方が真反対」みたいなことを言われました。その話を聞いて,私自身も,「あー。その先生とは(理論と実践という対立ではなく実践レベルで)考え方違うだろうな」とは思ったんです。でも,それをその学生さんがネガティブに捉えていなかったのが素晴らしいことだなと思いました。

学部生とかだとまだやっぱり,同じ現象に対して違う意見を持つ人に出会ったら,どっちが正しいの?ってなって,混乱することもあると思うんです。

私はよく,特に研究寄りの授業であればあるほど,Aという説明もあるしBという説明もあるし,Bという説明の中にもB1という見方とB2という見方があって…みたいな感じで,「この現象はAで説明できます」みたいな断定的な言い方をしない(できない)んですよね。そんなに確定的なことが言えることのほうが少ないと思っているというか…。英語授業の話であればそんな回りくどくする必要はないんですよね。「私はAが正しい実践だと信じている(ただし,その「正しさ」は英語熟達度の伸長を確約するという意味ではない)」と言えばいいので。でも,なんか研究に関しては,「自分がこの立場が正しいと思っている」と言えるだけの自信というか,深め方が足りていないんだろうなと。それが授業のわかりにくさの話にもつながると思うんですけど。

ただ,そんな一意に決まるものではないっていう理解が大事だよねという思いも同時にあります(世の中のほとんどの問題には正解がないと思っている)。その中で,大事なのは自分(学生)自身がどういう選択をするか,その価値観をどうやって教員側が育んでいくのかってことなのかなと思います。

正解のパフォーマンスをするのではなく

誰かに教わった正解のパフォーマンスするんじゃなくて,自分で正しいと思ったことをしたらええやないのと。それが周りにどう受け止められるかは別の話というか,それも考えていいけど,一番優先されるべきことではないと思うんです。正解が一つに決まらないからこそなおさら。その,自分が大事にしていることは何で,それはどういう理由で大事なのかっていうのを見つけるのも大学院で学ぶことの意味なのかなと思います。

ちょっと話は違いますが,選挙に行って投票するのだって似たようなところがあると思います。投票に正解とかないですよね。その中でも,自分が考えて,一番納得できる候補者や政党の名前を書くんでしょう。大事なのはそこでしょう。と思うわけです。

そうやって考えると,冒頭の学生さんのように,私の意見を客観視して,別の先生とは言ってることが違うという見方をした上で,自分の考える方法を自分は選ぶ,という選択をできる(実際にそういう趣旨の発言があったと記憶しています),そういう発言は私からしたら素晴らしいというか,「こうであって欲しい」を体現されてるなと思いました。それが自分の所属する研究科の学生さんだったことが嬉しかったです。

おわりに

もちろん,カリキュラム的な一貫性とかを考えたら,いろんな授業で言ってることが違うっていうのはどうなんだっていう見方もあるとは思います。ただ,私はみんながみんな同じことを教科書みたいに伝えるような授業ばっかりだったらそれはそれでつまらないし,逆にそういう授業ばかりだったら考えも凝り固まっていってよくないと思うのです。

そんな関西大学外国語教育学研究科に興味が少しでもお有りのみなさん,10月と11月に進学説明会がありますよ。

2026年度4月入学の入試(12月募集・2月募集)のスケジュールはこんな感じですよ。

https://kansaigradsch.kansai-u.ac.jp/admission/graduate/fl.html

お待ちしております。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

SLA批判のXポストを読んで考えたこと

はじめに

SNSで「SLAの知見で授業が刷新されるなら,学習者の熟達度はもっと上がっているはずだ」という投稿を見ました。もっともに聞こえます。ただ,読み終えたあと,批判の照準が少しズレているのではないかと感じました。この記事では,その自分が感じた違和感を整理し,誰にどの問いを投げるべきかを書いてみます。

何が問われているのか(論点の整理)

この投稿から私が感じたことは次のとおりです。

  • 授業内の言語活動をいくら精密に記述しても,短期には熟達度上昇につながらないのではという疑問
  • 「適切に研究してその成果が適応されていれば能力は上がるはずだ」という短絡的な因果推論への違和感
  • SLAはそもそも授業の即効性を直接示す分野なのか,という素朴な問い

SLAとISLAの役割の仕分け

(私が思う)SLAはメカニズムの説明に重心があり,ISLAは教室(または指導環境)という条件での因果検証に重心があります。SLAの役割は,第二言語がどのように習得されるかという仕組みを記述・説明することです。これにより,介入の設計図に相当する理論的コンパスを提供することもできますが,それは第一義的な目標ではないでしょう。

一方で,ISLAの役割は,教室(指導場面)という条件のもとで,タスクやフィードバックなど,教育的介入や学習方法の違いがどの程度効くかを検証することでしょう。よって,件のポストに対しての一次的な応答責任はここにあります。

ポスト主の方がおっしゃるディスコース研究の価値もあるでしょう。それは,学習の過程を可視化する「街灯」です。どんな学習環境なのか、そこで実際にどんな指導・学習が起こっているのかを記述することは,そこを明らかにできるでしょう。街灯そのものは目的地ではないですが,道を安全に歩かせることができます。こういう研究には,即効性のあるなんらかの処方箋的なものは期待できません。

要するに,「SLAの知見では英語教育は変わらない」という問いを投げるなら,まずISLAの設計と測定に向けて問うのが筋であって,SLA研究に向けられる批判なのかなという気がしてしまいました。

効果検証の設計(ISLAが明示すべきこと)

言語の熟達度というのは,そんなに即効性をもって観察できるようなものでは本来ないはずです。発達は,遅いんです。よくある実証研究であるような短期的な観察で効果を断じるなら,観測設計に対する説明責任が生じますよね。そうなると,ISLAが明示すべき最小セットはこんな感じではないでしょうか。

  • 成果指標は何か(テストスコア,パフォーマンス,転移など)
  • どの時間幅で測るか(短期,中期,追跡)
  • どの比較を置くか(統制群,対照群,事前事後)
  • 効果量と不確実性の示し方をどうするか
  • 測定が中間過程の所見(ディスコース)とどのように結び付くか

これらを明示すれば,「役に立つ/立たない」という印象論から,検証可能な議論へと移行できるのではないかなと思います。それはISLA研究者だけの問題ではなく,その研究の成果を受け取る側も,こういった視点で研究を読むことで,研究の成果に対して過度な期待を抱くことも抑制できるのではないかなと思います。

研究の成果が能力が大きく向上させることはそもそもない

そもそも,私はなんらかの言語教育研究の成果が,何かの能力を大きく向上させる結果を生み出すということはないと思っています。そんな単純なことではない。一般化可能なレベルの知見なんて誰でもわかるような「そりゃそうだろう」クラスのことだと思いますし,新しい発見!なんてものはおそらく別の要因でかき消されてしまうような小さな効果しか生み出さないでしょう。件のポスト主の方も,だからこそ教室ディスコースの大事さを訴えているのかもしれませんが。

おわりに

SLAは仕組みを語り,ISLAは効果を測るのだ,というような役割分担がある気がしています。「SLA」というおおざっぱな括りでの批判の照明を当て直し,誰の主張にだれがどう答えるべきかを私は整理したいのです。SLA一般への不信ではなく,授業の有効性に一次的に答えるのはISLAであって,SLA=メカニズムの説明,ISLA=指導環境での因果検証という前提は,言語教育に関わる人,SLA研究をやっている人,そして得にISLA研究をやっている人,それを広めようとしている人には自覚的であってほしいです。そしてもう一つ大事なこと。言語教育研究が熟達度の大きな向上という結果を教育現場に広く行き渡らせることはないのだ(それは相当に実現可能性の低いことだ)という自覚も同時に必要なのだと思います。SLAだろうがISLAだろうが,研究はそんなに単純なものではないし,それが社会に適応される過程だってそんなに単純なものではないのですから。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

どんな研究が必要か

はじめに

私の所属する関西大学外国語教育学研究科には,博士論文研究の計画書を提出し,その計画について口頭試問を行う「研究基礎能力試験」があります。この記事は,その発表を聞いて私自身が考えたことを整理したものです。あらかじめ強調しておきますが,ここで述べるのは特定の方の研究や指導に対する批判ではなく,あくまで一研究者としての私のスタンスです。

当たり前を疑う

私は常々,研究者には「既存の研究を乗り越える視点」を持っていてほしいと思っていますし,自分自身もそうありたいと考えています。本当に面白い研究というのは,多くの人が「当たり前」だと思ってきた前提を揺さぶり,新しい視点を提示するものだと感じています。そうした挑戦がなければ,研究の発展には限界があるでしょう。なぜなら,もし前提に誤りや誤解が含まれていれば,その上に積み上げられる研究も十分な価値を持たなくなってしまうかもしれないからです。

もちろん,先行研究は大切です。しかし「大切である」と「常に正しい」は同義ではありません。すべてを疑ってかかる必要はありませんが,「本当にそうなのか」という視点は,博士論文のような規模の研究プロジェクトでは特に必要だと思います。

既存の枠組みに従って研究を進めるのは比較的容易です。たとえば「先行研究ではA → Bという関係が示されているが,AがCに影響している可能性もある。さらにA → Dの関係は検討されていない。そこで本研究ではA → CやA → Dも扱う」といった展開は典型的です。このように要因の組み合わせを増やしていく研究は確かに進めやすいのですが,それだけを積み重ねても,背後にある本質的な法則や仕組みの理解につながるのかは常に問い直す必要があると思います。

新しい道筋を示す研究の好例

私は常に,「既存の前提を問い直し,そこから新しい道筋を示す」研究には強く惹かれます。実際,最近の研究でその好例と言えるのが,『Revisiting Universal Grammar in L2 acquisition: Weak conformity and linguistic dissonance resolution』という論文です。この研究では,第二言語習得における普遍文法(UG)の役割を見なおし,「UG」が学習者の中間言語(interlanguage)に一時的に現れるUG非整合的なルール(いわゆる “wild grammars”)を検出し,修正へと導く「モニター装置」として機能するという枠組みを提示しています。従来のUGに対する理解を単純に否定するのではなく,より包括的な枠組みとして再定義することで,説明力を拡張しようとするこのアプローチには,非常に示唆を受けました。既存理論の限界を踏まえつつ,新たな理論的視野を開拓する好例だと思います。

研究の成果を社会に直接役立てることは重要ですが,それだけが研究の価値ではありません。研究そのものの営みをより良いものにすること,それ自体が大きな社会的意義を持つはずです。人文学の研究はまさにそうした側面を強く持っています。「SLAは役に立つのか」という議論も,しばしば「役に立つ」という言葉を狭い意味でとらえすぎているのではないかと感じます(関連:英語教育学会に平和を!「教育的示唆」という用語は禁止!)。

おわりに

私が大事にしたいのは,「当たり前」に見える前提を一度立ち止まって問い直す姿勢です。それが回り道に見えても,長い目で見れば研究の厚みや意義を広げていくのだと思います。そういう営みに貢献できる研究者を目指したいですね。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。