明示的・暗示的知識に関する新しい論文が出版されました

はじめに

福田さんと一緒に書いた明示・暗示的知識について批判的な検討をした論文が,Studies in Second Language Acquisition(SSLA)に掲載されました。

Tamura, Y. & Fukuta, J. (2026). A critical examination of the relationship between explicit and implicit knowledge and language teaching. Studies in Second Language Acquisition. Advance Online Publication https://doi.org/10.1017/S0272263126101946

ざっくりと論文の内容を説明すると

この論文で言いたかったことをものすごく雑に言うと,「明示的知識・暗示的知識って,何かを説明した気になっているけど,実際には説明になっていないのでは?」ということです。さらに,その区別を使うことで,教え方や学習者の理解について何がわかるようになるのか。そこも一度立ち止まって考えたかったんですよね。

授業で教えた文法が,実際の会話ではなかなか出てこないっていうの,言語教師なら誰しもが直面しますよね。こういった現象を説明するために(もちろんそのためだけではないのですけれども),第二言語習得研究では学習者の知識を意識して説明できるような「明示的知識」と,意識せずに使える,母語話者の流暢な言語運用を支えるとされる「暗示的知識」に分けて考えることが広く行われてきました。今回の論文で検討したのは,この区別がそもそも成り立っているのか,という点です。先行研究では,測定の方法にいくつもの問題が積み重なっていました。本来は複数の課題を組み合わせて初めて意味を持つはずの指標が単独で使われていたり,どの課題がどちらの知識を測るのかについて研究者の見解が一致していなかったりします。

さらに,教室場面で使いやすい課題ほど,どちらの知識が使われたのかを切り分けられなくなります。なぜなら,私たちが言語を使う時には,どちらの知識も総動員されるからです。意識的な知識が介入しないと理論的に想定されるような課題をやって暗示的知識を測定しようと思えば,かなり心理言語学的な実験課題をやることになります。でもその課題は,教室の指導の一環としてやるには実際の言語使用からかけ離れてしまうという問題です。

そして,多くの場合,明示的知識や暗示的知識が説明に使われる時には「この生徒は明示的知識はあるが暗示的知識はまだない」という形式になります。

これだと,課題成績の違いから知識の種類を推論したうえで,その種類によって当該のテストの成績の違いを説明していることになり,循環論法になってしまいます。この区別を捨てるべきだとまでは考えていませんが,明示的知識・暗示的知識の話を教室に持ち込むときには,これまで以上に慎重であっていいのではないか?ということで,もしも研究者が明示・暗示という区別を研究で使うのであれば,最低限これだけは守ってくださいねという”Conditional Principles”というものを最後に提案しました(この提案がなにかはぜひ論文をお読みください。オープンアクセスでどなたでもお読みいただけます)。

ちょっとした昔話

明示・暗示についての主に測定の観点からの批判的な検討というのは,2010年代前半頃にメソ研(LET関西支部メソドロジー研究部会)で盛んに議論されていたトピックです。そこから,明示・暗示という知識の二分法を指導法と結びつけることについて,2016年に私自身がこのブログに書いた問題意識(https://tam07pb915.com/2016/08/25/implicit-explicit-instruction/ )をベースに,キソケン世代の田村と福田がたどり着いたアンサーソングがこの論文です。読んでください。どうぞ。

「メソ研はメソドロジーでブーム起こしたけど、キソケン世代は何やってるの???」(大意)

っていう,博士終わる頃だったか関大に就職したころだったかに言われた問い(これを私に伝えてくださった方は覚えていらっしゃらないかもしれませんが,私は当時これを言われたことがまあまあ深く刺さりまして。多分,これ言われた直後に福田さんに「こんなこと言われちゃった。俺はだめだ。」みたいな相談をした気もします)。今回の論文は,自分に課せられたこのデカい問いに対する自分なりのアンサーでもあります。

あと,自分は新谷奈津子にはなれないし,水本篤にもなれないし,浦野研にもなれないし,亘理陽一にもなれないし,草薙にもなれないし、鈴木祐一にもなれないし(敬称略,順番は頭に浮かんだ順です)。俺は田村祐だ。スーパーオリジナル!そんな気持ちもあります(※ハイボール6杯飲んだ時に書いた文章です)。

参考:

https://www.uta-net.com/song/15264/

ちょっとした出版までの背景

それと,招待論文ではなく,意見論文を通したっていうのも個人的には嬉しいなって思っています。上に書いたとおり,元々は2016年に書いたブログ記事の問題意識があって,どっかで論文にしておかないとな〜と思いつつ,ずっと放置してしまっていたんですよね。それこそ博論の研究をパブリッシュしないといけないなとか,科研の研究のデータを取らないと,とかもありましたし。それでも,明示・暗示に対する問題意識自体はその後も継続して持ち続けていて,でもなかなか論文にするところまでもっていけていない状態でした。数年前には,もう学部の紀要にとにかく出しておくか,というところまでいきました。それ用のメモも残していましたが,それすらできませんでした。

そこから,締切のあるとある国内学会の紀要に出そうと決意して,とりあえずタイムリミットを設けて自分にプレッシャーをかけて投稿しました。ところがどっこい。こういう意見論文って,学会の紀要だとそもそも枠として受け入れられない感じになっているんですよね。実証研究というのがメインだから。実践報告みたいなのはあるけど,データのない論文っていうのは,査読するのも難しいですしね。ということで,まあダメ元で投稿したからそうなるだろうなというのも覚悟はしていたのですが,査読ができないということでデスクリジェクトというクリスマスプレゼントをもらいました。その後すぐに体裁をSSLA仕様に作り直して再投稿しました。

R&Rを2回して,3回目はエディターのチェックのみでアクセプトという流れでした。R1で査読者2人,R2ではR1からの継続1人+新規査読者1人追加で,R2で新しい論点を指摘されて結構がっつり修正もしました。

関連する論文が所収されている書籍もぜひ

10年越しでのパブリッシュ。でも,分野の内側への批判的な論文も出るような流れがある今だからこそ,この問題意識が査読者にも理解されたのかなという気持ちもあります。

ちなみに,「俺はこっちの論文よりブックチャプターの論文のほうが完成度高いと思ってたんだけどな」と福田さんに言われた論文が所収されているのがこちらの書籍。

こちらは,「Psychological approaches to the ‘Dual-System Model’ in SLA」というタイトルで,教育への応用ということだけではなくて,もっと理論的な部分にフォーカスして明示的知識・暗示的知識について批判的に検討しています。以下,こっちのアブストラクトです。

This chapter critically examines the application of dual-system models in Second Language Acquisition (SLA) by drawing parallels with the dual-process framework from cognitive psychology. While the implicit/explicit knowledge distinction has played a key role in SLA theory and practice, recent critiques of dual-system models in psychology — such as logical inconsistencies, oversimplification, and the switch problem — emphasize the need for a deeper reevaluation of SLA’s theoretical underpinnings. By distinguishing between instrumental and substantial views, this study argues that if the goal is to investigate the cognitive mechanisms underlying conscious and unconscious knowledge, the focus should shift from a functional categorization of knowledge (implicit/explicit) to the underlying mechanisms themselves. This approach highlights the limitations of existing models, such as Skill-Acquisition Theory (SAT) in SLA, and advocates for integrating personal and subpersonal levels of explanation to address long-standing questions in SLA. The chapter concludes that a more flexible and context-sensitive integration of dual perspectives is essential for advancing theoretical development and practical applications in SLA research.

認知心理学においても,いわゆる「デュアル・メカニズム」に対する見直し的な動きが起こっていることを援用して,そこでの批判って,SLAの明示・暗示にも当てはまるところ結構あるよね?っていう。

このブックチャプターを書いていたからこそ,今回の論文も書けた,というところはあると思います。実際,SSLA論文でもブックチャプターの論文を引用していますしね。ちなみに,こっちのブックチャプターの原稿に基づいて行ったのが,昨年度のLET全国大会での発表です。この発表に関心を持たれた方は,ぜひ,今回のSSLAの論文も読んでいただきたいなと思います。

おわりに

私の後輩である寺井くんが修論をSSLAに通したとき,まだ博士修了&関大就職直後でトンガリ絶好調だった私は彼に対して,「俺はあんな権威主義の権化みたいなジャーナルには一生出さねーよ」とか言ってたんですよね。嫉妬半分本音半分。あんなデカいこと言っておいて,結局SSLAに出してしまったことを謝ります。ごめん。

ここまで読んだ古参ツイッタラーの皆さんは,田村がTwitterに現れてからの15年のあれやこれやのエピソードと,最強盆栽と英語教育0.2の成長に思いを馳せながらお酒を飲んでくださいな。古参ツイッタラーではないのにここまで読んでくださった方,ありがとうございます。論文読んでいただいて,この問題についてぜひいろんなところで議論してください。

私は久しぶりに,福田さんとZoom飲み会をしたいと思います(いやそんな暇はないかもしれない)。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

国際誌に通せるよう今からできることはあるんでしょうか

はじめに

Querie.meでいただいた質問に答えるブログ記事です。

質問

国際誌を主戦場にしている人たちを見ると、やっぱり国際誌にバンバン出している人たちの研究室出身なので、そういうところでちゃんと国際誌に通すような教育を受けておきたかったと思います。今からできることはあるんでしょうか。

回答

それは国際誌を主戦場にして国際誌にバンバン出している人に質問すべきことでは…というのが最初に思ったことです。この記事を読んだ色んな人が,自分の経験をこの質問者の方の目に触れるところで共有してもらえたら嬉しいです(JSLARFの方々の方を見ながら

私の大学院生時代

私は名古屋大学大学院国際開発研究科というところで博士号を取りました。私が在籍していた当時は,全然国際誌にトライしてる院生とかいなかったですし,なんなら指導教官から国際誌に通す教育とかは受けていませんでした。博士後期課程(D)の院生は基本的に独立した研究者として見られていて,学会発表とか論文投稿とかは,いちいち報告したり指導を受けたりもせずに院生同士で勝手にやっていました。

私は,1学年上に現在学習院大の福田先生がいらっしゃって,彼がトライ&エラーで国際誌投稿を色々やってる経験を間近で見て,自分も見よう見まねでやってみていました。それでも,私は,大学院生の時に国際誌に通すことはできなかったです。firstで投稿したのはたしか3回(3誌)で,3回目の投稿で何ラウンドか査読のやりとりを経て,就職してから採択が決まったって感じでした。

なので,やっぱり国際誌に投稿する経験をしてる人と話すことがとても有効なのではないかと思いますね。教育受けるとかももちろんあると思いますけど,それは学生のときにしかできないと思うので。私がD生だった時には,現在立教大学にいらっしゃる中田達也先生とたまに2人でご飯に行く機会が何回かあって,その時にいろんな投稿の経験を聞いた記憶がありますね。それから,2017年に,近畿大でやってたKELES&LET関西の大会のときに,「英語論文を書いて国際ジャーナルに掲載させるためのストラテジー」という水本篤先生と斎藤一弥先生のWSがあったのも記憶に残っています。

国際誌のハードルは高くない

まあでも,国際誌とか国内誌とかっていうのは、届けたい読者層の違いだけだと私は思っています。私個人の経験でも,国内誌でリジェクトされた論文が国際誌に採択されたことが2回ありました。なので,普通に英語の論文の形になってるものを投稿すれば,採択される可能性は十分にあるでしょう。「国際誌」といってもピンキリですし。今は雑誌の数も増えてますから,選択肢も多いでしょうしね。もちろん,領域によってはscope的に選択肢がかなり限られるということもあるでしょうけど。

一度国際誌に載ってくると,国際誌の査読者としての経験を積むことをできるようになってくる(査読の依頼がくるようになる)ので,そうすると,そこでまた投稿されてくる論文のクオリティだとか,あるいは査読でどんなやり取りがなされるのかというインプットを得ることもできます。ジャーナルによっては査読コメントが公開されているものもありますね(例:International Journal of Applied Linguistics)。そうやって,learning by doingでどんどん知識とスキルを積み上げていくものなのかなというのが私の個人的な感覚です。まあこれも自分がそうやってやってきたからっていうバイアスがかなり入ったものだとは思いますけれども。

結局はやり続けること

最終的には,どれだけ時間かかっても載るまでやり続けるだけですね。不採択になった経験は表に基本的に出てこないですから,採択されてすごいってのだけが見えてきますけど,通してる人はそれと同じ分だけ不採択の経験もあると私は思ってます。書いてる本数も違えば投稿してる回数も違うっていう。

これはよく私が引き合いに出すんですが,Fukuta, Nishimura, and Tamura (2023)という論文は,最終的にJournal of Second Language Studiesに採択されるまでに,8回リジェクトされてます。そして,最初のジャーナルに投稿してから最終的に採択されるまで,約4年4ヶ月かかりました。

Fukuta, J., Nishimura, Y., & Tamura. Y. (2023). Pitfalls of production data analysis for investigating L2 cognitive mechanism: An ontological realism perspective. Journal of Second Language Studies, 6, 95–118. https://doi.org/10.1075/jsls.21013.fuk

まあその何度もリジェクトされるような理由もあるほど「過激」なことを書いていたからっていうのがあるんですが,それでも,心折れそうになりますよね。第一著者の福田先生に,「この論文は絶対に世に出す価値があるからやり続けよう」と言い続けて,採択までたどり着きました。この経験を,いつだったか私のD生時代の指導教官の先生にお話したことがあったんですね。それで,「あの話を聞いたときに,福田くんと田村くんは絶対に(研究者として)やっていけると思いました」と言われて,それがすごく嬉しかったことを覚えています。私は博論の研究(の一部)を出版するにも最長8年とかかかってますからね。(cf. 名詞の数の処理に関する実験の論文が出ました)。まあこれは単に論文として仕上げられていなかっただけですけど。

ということで,書いて投稿する,採択されるまで出し続ける,これしかないです。

おわりに

頑張ってください。私の経験でよければ,質問があったらお答えするのでまた聞いてください。応援してます。

私に質問したい方は下記URLからどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

別業種の求人サイトを見てしまうという質問

はじめに

Quería.meでいただいた質問への回答シリーズです。

質問

先生と(広くみれば)同じ分野の者です。ここ最近の学界のいざこざと,派閥的な雰囲気に嫌気がさしてしまったことと,自分自身の研究がうまく進まない(←自分の能力の低さと,ある種の研究上の疎外感ゆえ)ことの双方が重なりあい,研究することを面白いと思えなくなってしまいました。すでにポストは得ているので,大学運営や教育上は一定程度貢献していますが,どうも自分が今後研究をすることを生業にしていくことはよくないのではという考えを持っています。そのため,まったく別業種の求人サイトをみて休日を過ごす日々が続いています。何か答えが欲しいわけではありませんが,聞いてほしいという気持ちです。

回答

質問(?)ありがとうございます。

広く見たら同じ分野とのことですが,「学界のいざこざ」というのは私は全然認知していないので,少なくとも自分が同分野だと思ってリスト化している人たち,よりはもっと広そうです。私が所属している学会も派閥的雰囲気をあんまり感じたことがない……のは私がどこかの派閥に属しているのか……。その辺,私は事情がわからないですし,詳細に書いたら身バレの可能性もあってぼかしてらっしゃるのかなと思うので,「研究が面白くない」の話について考えたことを以下に書いてみますね。

「研究上の疎外感」について

まず,質問にある「研究上の疎外感」というのがちょっと気になりました。これが具体的に何を指しているのかわからないのですが,自分の研究が評価されていないとか,自分と関心を共有する人が周りにいないとか,あるいは最初に書かれていた派閥的な雰囲気の中で疎外感を感じるとか,そういうこともあるのかなと想像しました。

私自身,自分の研究が国内外ですごく評価されている,みたいな感覚は全然ないです。もちろん,そもそも幅広くインパクトが与えられるような研究をやっていないという自覚もあります。でも,だからといって「受ける」研究を狙いにいくべきだともあんまり思っていなくて,自分が大事だと思うこと,自分が追いかけたいと思うことを淡々と研究していくしかないかなと思っています。研究の価値って,イマココで周りからどう評価されているかだけで決まるものでもないと思うので。

研究って,学会みたいな集まってワイワイって雰囲気がある一方で,どうしても孤独な営みの部分もあると思うんですよね。最終的には自分で考えて,自分で手を動かすしかないというか,自分との戦いというか。ただ,そういう研究そのものに伴う孤独と,特定の研究コミュニティの中で感じる疎外感は,ちょっと別の話かもしれません。

もし後者が大きいのであれば,「今いる研究コミュニティが嫌になった」ということと,「研究そのものが嫌になった」ということは,分けて考えてみてもいいのかなとは思いました。どういうコミュニティに属しておられるのかわからないので簡単には言えませんが,国内でも少し違うところに行けば違う人たちがいるでしょうし,国外まで広げれば研究コミュニティなんてものすごくたくさんあります。いろんなところで発表したり論文を書いたりしていると,「ああ,誰かは読んでくれてるんだな」と思うこともあるし,数は少なくても自分と関心の近い人が見つかることもあるんじゃないかなと思います。

研究がうまく進まないことと,能力のこと

研究がうまく進まないことも,まあ長い研究者人生のどっかのタイミングにはあるよなと個人的には思っていますし,なんなら今までの人生で,「うまく進んでる」って思ったこと,私は一度もないですね,たぶん。何をもって「うまく進んでる」と捉えるかは人によって違うと思うので,質問者様がどう思われているかわかりませんし,私との比較とかしても意味ないような気もしますけど。

そもそもうまくいくもんじゃぁないと思いながらやっているっていうことと,人の成果や進捗と比べないっていうこと,これをこの5年くらいで努力して身につけてきたので,それが大きいかもしれません。でも,心のどっかでは比べちゃいますよ。その気持ち完全に消せるようになったというより,抱えてコントロールできるようになったという方が近いかもしれません。

「自分の能力の低さ」とも書かれていますが,能力不足って,研究者とか大学教員に限らず,誰しもどこかで感じながら生きているんじゃないかなと思うんですよね。少なくとも私は,自分がインパクトの大きな研究ができる能力があるとも思っていないし,成果をバンバン出せるとも思っていません。だからといって,その自己評価についてずっと考えて下を向いていても仕方がないので,私はとにかく地道に自分のできることをやり続けるしかない,というところに落ち着きました。亀の歩みでもいいからやめないこと,それだけできてりゃいいやって思いながらやっています。

研究を「生業」にするということ

面白いから研究をやっている側面ももちろんあるとは思いますけど,仕事として,研究者として,研究しないといけないからやっているって側面もありますね。私は純粋な知的好奇心だけでずっと研究をドライブできるわけではないです。

もちろん,研究していない(ように外から見えるような)大学教員もいると思いますし,そういう人だっていろんな葛藤や事情がある中でそういうふうになっているんじゃないかなと個人的には思います。そして,大学教員が純粋な研究職ではない以上,大学運営も教育も大事な「生業」です。質問者様は,大学運営や教育上は一定程度貢献していると書かれているわけですし。

私はそれでも,自分自身については,なんていうか,研究(というよりはパブリケーションと言ったほうが適切かもしれないです)がゼロみたいなのは,そりゃ違うだろうという矜持みたいなものを持っているので研究を続けています。でも,これはあくまで自分自身のこだわりです。そのこだわりで他の大学教員を判断したりはしません。人それぞれ事情がありますし,いつ自分が研究できなくなるかだってわかりませんので。

別業種の求人サイトを見るということ

あとは,「まったく別業種の求人サイトをみて休日を過ごす日々が続いています」というところは,率直にちょっとすごいなと思いました。もちろん,実際に転職したいというより,今の状況がしんどくて現実逃避的に見ている部分もあるのかもしれません。でも,私だったら「別の仕事をする自分」という可能性を少しも考えていなければ,たぶん求人サイトを開くところまでいかないと思うんですよね。

私は今のワークライフバランスと待遇(具体的には年収)を維持したまま別業種に転職してやっていけるともあまり思っていないですし,研究や教育という仕事自体は好きです。また,これまで大学教員として積み上げてきたものを捨てるコストも大きいし,そもそも別業種で自分に何ができるのかもよくわかりません。なので,今のところ別業種の求人を見ようとすら思わないです。

逆に,今と同じくらいの働き方と待遇で,「これ面白そうだな」「自分の能力を発揮できそうだな」と思える仕事があったら,私は全然そっちに行く可能性もあると思います。大学教員を辞めて別の仕事をすること自体をネガティブなことだとも思っていません。やってみて,やっぱり違ったなと思ったら,また大学で働くことを目指すことだってできるでしょうし(あるいは転職した先の業種の他社とか)。

なので,質問者様が別業種の求人を見ていることについて,「そんなこと考えずに研究を続けましょう」とは私は全然思わないです。

おわりに

なんかまとまりのない話になりましたが,「何か答えが欲しいわけではない」とのことなので,私なりに質問を読んで考えたことを書いてみました。少なくとも,こういうことを考えながら大学教員をやっている人間も一人います,ということで。

私に質問したい方は下記URLからどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

【宣伝】TBLTの連載が始まりました(第1回公開)

はじめに

このたび,アルクの『Web版 英語の先生応援マガジン』で,Task-based Language Teaching(TBLT)についての連載を始めることになりました。全3回で,タイトルは「英語を『身につける』とはどういう経験かータスクから考える英語授業」です。その第1回がこのたび公開されました。登録は必要ですが,無料でお読みいただけますので,少しでも多くの方にお読みいただければと思います。

記事はこちら:TBLTとはなにか―PPP型授業との違いを整理する(https://alc-nds.com/k-alc-magazine/2026/07/task-01/)※ログイン・会員登録が必要です

「効果的だから」とは書きません

宣伝の記事なので,本当なら「TBLTは効果的な指導法です,ぜひ授業に取り入れましょう」と書くのが筋なのだと思います。でも,この連載ではそういうスタンスを取らないと決めてから構想を練り始めました。第1回の冒頭でもはっきり宣言しているのですが,「TBLTは英語力を伸ばすのに効果的なのだ」という立場から書くつもりはありません。

これは以前このブログにも書いたこと(例:『英語教育』2023年5月号記事の補足)なのですが,私にとってのTBLTは,研究によって効果が「科学的に」証明された方法論だから選んでいる,というものではありません。正直なところ,単に自分の言語教育観にマッチしているからそういうアプローチにシンパシーを感じている,というのが正しいです。

そういう「効果的」というのとは別の観点から,「タスクを授業に取り入れること」ってどういうことなんだろうということを考えたいと思っています。

じゃあ何を書くのか

その代わりに連載を通して考えたいのは,TBLTと,多くの教室でおなじみのPPP(Presentation-Practice-Production)との違いは,一見すると「授業の手順の違い」に見えて,実はもっと根っこのところにある,ということです。

形式を先に教えてから使わせるのか,それとも,使いながら必要な形式に出会っていくのか。これは単なる技術的な選択ではなくて,「英語を”身につける”とはそもそもどういう経験なのか」という学習観そのものに関わってくるわけです。そこを読者のみなさんと一緒に考えていきたい,というのが,私がこの連載を引き受けた理由です。

第1回で書いたこと

第1回では,その入り口として,こんなことを書きました。

  • そもそも「タスク」とは何か(意味中心であること・ギャップがあること・学習者が自分のリソースを使うこと・言語外の明確な成果があること,という4つの条件)
  • タスクを使った授業って具体的にどんな流れになるのか(プレタスク → メインタスク → ポストタスク)
  • TBLTへのよくある誤解(「文法を教えない」「タスクをやらせて放任するだけ」って本当?)

なるべく抽象的な話が中心にならないよう,教室での具体的なイメージが持てるように書いたつもりです。「3つのうち1つは嘘」を質問攻めで見破る,といった具体的なタスク例も入れています。

これからの予告

第2回では,TBLTのメリットとデメリットを正面から扱います。ここが連載の山だと思っていて,そのメリットを「英語力が伸びるかどうか」だけで測ろうとすると,かえって本質を見誤るのではないか,という話をするつもりです。第3回では,日々の授業で先生方が扱う教科書を中心とした既存の教材とTBLTがどう折り合うのか,というもう少し地に足のついたところを考えます。

おわりに

依頼としては,「高校の英語の先生に向けて」と言われたのでそのイメージで書いていますが,どの校種の先生方にも,あるいはどの言語の教育に携わる先生にも興味をもっていただけるのではないかと思います。ぜひ,ご登録いただき,連載をお読みいただければと思います。また,Xで感想をポストいただいたり,あるいは,匿名の質問サービス(https://querie.me/user/tam07pb915)で感想をお寄せいただけたら嬉しいです。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

スケジュール管理(タスク管理)はどのようにされていますか?

はじめに

querie.meでいただいた質問への回答です。質問は以下です。

質問

日々、多くのタスクを抱えている中で、スケジュール管理(タスク管理)はどのようにされていますか?

回答

スケジュールとタスクは分けてますね。スケジュールはGoogleカレンダー使ってます。タスクはMicrosoftのTo doです。Microsoftもoutlookにカレンダーあると思いますが使い慣れてるのがGoogleカレンダーなのでそれを使ってます。年度初めにもらう保育園の予定表をAIでCSVでカレンダーに取り込めるようにしてもらって取り込んだりしてます。毎月のお弁当日は前日にリマインド仕込んだり。

会議とか、イレギュラーな土日の仕事などは妻とも共有してますね。家族の予定調整との兼ね合いがあるので。

タスク管理は、フォルダごとに、授業のこと、学内の仕事、非常勤の仕事、学会の仕事、それ以外の学外の仕事みたいな感じで分けるのと、研究はプロジェクトごとに分けてます。その中にやらないといけないことと締切日、リマインダーなどを登録していくかんじです。メールの返信とかも忘れがちなので、スマホでoutlookでメール開いて、2タップくらいでcreate a taskという選択肢が出るのでそれでとにかくタスク管理アプリに流しこんで、いつまでに返すとかをその場でパッと入力します。フォームへの回答が必要とか、書類の提出が必要とかも、依頼はメールなので,そのメールをタスク管理の方に移す感じです。もっと簡単にスライドしてフラグ立てらこともできるのですが、そうするといろんな仕事のメールが一つの場所にまとまっちゃうんですよね。私はフォルダ分けをかますことで、仕事の内容に関する記憶を整理してる感覚があって、その方が一つひとつのメールを返すハードルが下がるように思うのでそうしてます。

Macを開いてるときには常にTo do起動しています。plannedを見れば、直近のことだけでなく、ある程度先のことも含めてどれくらいのやらないといけないことがあるかの見通しもわかるので気に入ってますし、今日やるぞと決めたことはMy Dayのマークつけておけば、締切がその日のタスクと一緒にまとまります。明日やるぞというものはリマインドを次の日にすればいいですしね。

なんかTo Doアプリの使い方みたいになっちゃいますけど,私の中で必要なのは,

  • 期限日の設定ができること
  • サブタスクの設定ができること(授業Aの準備というタスクの中に,小テスト作成,パワポ作成,座席表作成みたいな細かいタスクを入れられること)
  • カテゴリごとにリスト化できること
  • その日だけじゃなく,先のTo Doも一覧で見れること
  • メールへの返信をメールアプリからそのままTo Doリストに流し込めること

なのかなと思います。私はもともとWunderlistというアプリを使っていました(https://tam07pb915.com/2020/02/13/wunderlist-shut-down/ )。そこからMicrosoftTo Doに移行したので,慣れでこれを使っています。もしかしたらもっといいものもあるかもしれません。

おわりに

https://querie.me/user/tam07pb915

私に質問したい方は下記URLからどうぞ。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

A winding path constructed from stacked books running through a lush forest landscape at sunrise.

先行研究を読む段階がありますが、その位置づけについて疑問を抱いています

はじめに

querie.meでいただいた質問への回答です。質問は以下です。

質問

M2の学生です。論文を書く際には、先行研究を読む段階がありますが、その位置づけについて疑問を抱いています。私自身は、関連する先行研究を幅広くレビューし、その流れの中から研究設問や予測(やりたいこと?)を形成していくものだと考えていました。しかし、指導教員からは、「まず自分なりの予測や見通しがあり、それが研究設問として成立するように文献を探してストーリーを組み立てていくものだ」と指導を受けています。一方で、その進め方では、自分の仮説に都合のよい文献だけを選択してしまい、先行研究のレビューが恣意的になってしまうのではないかという疑問を拭えません。例えば、既に十分に行われてきた研究を再生産するだけとか、先行研究で指摘されていることを繰り返すだけになるなど。先生の先行研究のレビューについてのお考えをお聞かせいただければ幸いです。

回答

質問ありがとうございます。最近質問来ないなと思っていたので,シンプルに嬉しいです。

分野が違うとまた研究の進め方に対する考え方も違うかもしれないですし,同じ分野でも考え方も違うかもしれないので,あくまで私の考え方では,ということを最初にお断りして書きますね。

基本的に質問者の方と同じような考えを持っています。「自分なりの予測や見通し」はどこから出てくるのか?と考えると,それがなんとなくの自分の直感じゃなくて,先行研究の結果とか,あるいは何らかの理論や仮説から導出されるはずなんですよね。なんとなく私はこうだと思うんですけど,では研究になりませんから。となると,やっぱり,まずは文献を読むのが最初に来るべきでしょう。実際に今いる学部とMのゼミ生を指導する際にも,文献を読むところからスタートしてもらってます。もちろん,「どこから読み始めるか」を決めるのは自分の興味や関心がないとどこから手を付けていいのかわからないということになるので,興味や関心が不要だとも思っていません。

例えば,今のB4のゼミ生は,「集合名詞」に関心を持っています。なんで集合名詞なの?というと,それが数の一致の揺らぎと関係しているからなんですね。The government is/are…みたいな。そこからスタートすると,集合名詞に限らず,数の一致という現象を扱った研究論文を読むことになりますし,それらがどういう理論的基盤で行われているのか,みたいな論文も読みますし,数の一致という現象の記述的な言語学の論文を読むことにもなりますよね。こうやってどんどん論文を読んでいくなかで,今までどういうことがやられていて,やられていないのか,ということを考えていきます。

でも,ただ,「先行研究でやられていないから」は研究の動機としては弱いです。これはたぶん過去にブログで書いたこともあると思うんですが,「やる価値がないから先行研究でやられていない」という可能性もあるからです。つまり,先行研究でやられていない,というだけではなくて,そのやられていないことをやることにどのような価値があるのか,ということを論じることができなければ,それを研究課題にすることはできないんですよね。で,それはどっから出てくるのか?っていうと,自分の予測とか見通しとかじゃなくて,研究領域がどこを目指しているのかという理解と,その営みのどこに貢献しうるのかという理解,これが必要ですよね?その理解は何から生まれるの?って考えたらそれはやっぱり先行研究を読むこと,そしてそれを体系的に整理できること,だと思います。そのために先行研究のレビューをする,というように私は考えているし,実際にそう指導しているつもりです。

おわりに

M2ということは,修論に本腰入れて書き始めるような段階なのかなと思います。頑張ってください。また悩んだことがあれば相談お待ちしています。

私に質問したい方は下記URLからどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

Young woman with glasses studying papers at desk with books, tablet, and lamp at night

水本先生の「生成AIを用いた倫理的・効率的な英語論文執筆」をスキル化しました

はじめに

学期が始まっているっていうのに,まだ春休みモードで今すぐにやらなくてもいいことが捗ってしまっている田村です。

少し前に,Claude CodeやChatGPTを使って論文を丸ごと書くワークフローを紹介するX上の記事をいくつか目にしました。その中には「AIが書いた文章のAI臭さを消すツール(Humanizer)」を強く推奨しているものもあって,正直なところ,うーん…となりました。

AI臭さを「消す」ことが前提になっている時点で,それはもう「AIが書いた論文をAIが書いたとバレないようにする」ワークフローなわけで,なんでそんなものにみんな群がっているのだろうかと。学術倫理的にかなり危ういですよね。

じゃあどうするのか

同僚の水本篤先生が,「生成AIを用いた倫理的・効率的な英語論文執筆」という非常に体系的なWebガイドを公開されています。このガイドは「隠す」のではなく「適切に使って,ちゃんと申告する」という思想で設計されていて,Augmented Competence(AIで拡張できる能力の範囲)の原則や,AI利用の倫理的な判断基準が明確に示されています。

このガイドでは,使えるプロンプトも豊富に掲載されているのですが,論文を書いている作業の中で,あの水本先生のガイドの中のプロンプトを使おうって思っても,探しに行くのに手間取ってしまったり,気づいたら水本先生のXのポストを見に行ってしまって時間を空費してしまう可能性もありますよね。そこで,ガイドの原則をClaude上で自動的に適用できるようにスキル化したら便利じゃないかと思い,水本先生の許可をいただいた上で作りました。

ethical-academic-writing

GitHub: https://github.com/tam07pb915/ethical-academic-writing

日本語版と英語版の両方を用意しています。詳しくはGitHub上のREADMEやそれぞれのマークダウンファイルをお読みいただければと思いますが,簡単にこの記事でも紹介します。

何ができるか

  • 倫理ガードレール:受容能力の範囲内での支援に限定。「自分では書けない表現は使わない」を自動チェック
  • AI生成文で目立ちやすい表現への注意喚起:一律禁止ではなく,不必要な反復を点検
  • 8つの失敗パターン検出:AI丸投げ,架空引用,文体キメラ(文体のツギハギ状態)などを警告
  • 3段階の洗練プロセス:内容の英語化→文体調整→表現の磨き上げ
  • セクション別テンプレート:CARSモデル(Introduction),ムーブ分析(Discussion),APA統計書式(Results)など
  • AI利用申告の自動生成:使用状況に応じた5段階のテンプレート
  • 査読対応:模擬査読,Response to Reviewers,カバーレター支援

何をしないか

  • 本文の丸ごと生成(ユーザーの骨格が必要)
  • 文献・引用・DOIの生成
  • AI検出回避を目的とした書き換え

要するに,AIに「論文を書かせる」のではなく,「自分が書いた論文をAIで診断・洗練する」ために,生成AIに読み込ませる指示書ファイル群です。

使い方

claude.aiのProjectに入れて使うのがおすすめです。論文執筆用のProjectを作って,SKILL.mdをProject Instructionsに貼り,references/のファイルをProject Knowledgeとしてアップロードするだけです。

Claudeの用途がほぼ論文執筆だけの人は,ユーザースキルとしてインストールして全会話に適用してもいいと思います。

私はいつも,Claude Code使おうかなってClaudeに相談すると,「あなたの用途なら全然必要ない。」って言われていまだにclaude.aiとCoworkしか使っていないのですが,Claude Codeの場合は ~/.claude/skills/ にフォルダごとコピーすればOKのようです。

作る過程で面白かったこと

このスキル自体は,水本先生のウェブガイドをソースにしてClaudeに作らせました。ところが,最初のバージョンで参考文献の書誌情報が間違っていました。Kobak et al. (2025) のタイトルが不正確だったり,Mizumoto et al. (2024) のDOIパスの一部を論文タイトルだと誤認していたりという。私が見ていたら,参考文献がなんか怪しそうだなと気づき,調べてみたら誤りだと気づきました。「文献はAIに生成させるな」「DOIは必ず検証しろ」とスキル自身が書いているのに,スキルを作ったAI自身が(というか私がといってもいいんですが)それをやっている。なかなか皮肉な話です。これは他にもありそうだなと思って,ChatGPTにファクトチェックさせたらそっちも著者名を間違えていたので(実在する筆頭著者+架空の共著者という部分捏造型ハルシネーション),最終的にCrossrefで検証して修正しました。

この経験自体が,水本先生のガイドが言っている「AIの出力を無批判に採用しない」「ファクトチェックは人間がやる」の重要性を実証しているなと思って,ちょっとだけ肝が冷えました。最近,論文を書くときに先行研究のレビューでこんなことやってるor言ってる研究ないかなとGeminiのDeep Research使って調べてもらったのですが,自分がよく読んだことのある論文に「XXXX」という直接引用があってこれがまさにあなたが知りたかったことですよね,みたいなレポートを出してきたんですよ。「おまえ自分では(アクセスできないから)ほとんどの論文のアブストしか読めないくせにそんな自信満々に書いてきて胡散臭いぞ」と思って論文の中身を検索したら全然そんなことは書いてありませんでした。ということもありました。Xのおすすめとかは私が興味あることもあって割とAIすげえええみたいなのとか,研究への利用の話も流れてくるのですが,冒頭で私が言及した記事とかもマジでありえん話でしたし,ほんとXは140字でも胡散臭いのたくさんあったのに長文記事は長く書いてある文だけ信憑性がありそうな雰囲気が漂っていて,マジでひどいです。長文記事も長文ポストも,途中まで読んでAI臭がしてだめだってなるの多いですよねほんとに。あれ,なんか脱線して愚痴っぽくなってしまいました。

おわりに

私的には,AIを論文執筆に使うこと自体は止められない流れだと思います。だからこそ,「隠す」方向ではなく「ちゃんと使って申告する」方向でやっていかないといけないなと感じていますし,でもかといってまだまだ試行錯誤の真っ只中でもあるので,あれこれ試しながら,自分にあった方法も使いながらって感じでやってます。ブログ記事も,生成AIに整えてもらうことはあるんですが,それで自分らしさがなくなっちゃっちゃーいやよね,とか思ったりもしました。

そこで,私は自分が2012年からやってるこのブログの全記事をxmlファイルでダウンロードして,それをマークダウンファイルに変換してNotebookLMに読ませて文体の分析をさせました。それをClaudeにスキル化してもらって,最終的に私らしさが失われないようにチェックしてもらうようにしようかなとか思っています。

私はまあ数は多くないですが,生成AI登場以前も論文を書いたことがあるので,それを使って自分の論文のスタイルとかロジックとかの「クセ」をNotebookLMに抽出してもらって,生成AIとやりとりしながら作った文章が,過去の自分の書いた論文とズレがないかをチェックしてもらうみたいなのも同じ発想でできそうですよね。

おわりにとかいって全然終わらせる気がない感じになってしまいましたが,水本先生のガイド(https://langtech.jp/ai-writing/)は本当によくできているので,スキルを使うかどうかに関わらず,一度目を通すことをおすすめします。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

追記(2026-04-14)

使い方について訂正

上で「claude.aiのProjectに入れて使うのがおすすめです」と書いたのですが,実際にやってみたら全然制御が効きませんでした。

Project InstructionsにSKILL.mdを貼って,referenceファイル(プロンプトテンプレート集やチェックリスト)をProject Knowledgeにアップロードする方法だと,Claudeがreferenceファイルを「必要」と判断したときしか読みに行かないので,せっかく作ったテンプレートやチェックリストがまったく参照されないことがありました。

現在の推奨はカスタムスキルとしてのアップロードです。

  1. GitHubからZIPでダウンロード
  2. claude.aiで Settings > カスタマイズ に移動(現行ではコネクタにいくと,カスタマイズへの移動を促されます)
  3. カスタマイズの中の「スキル」を選択
  4. +ボタンでスキルを作成を選択し,
  5. 「スキルをアップロード」を選んでZIPをアップロード

これでスキルのdescriptionに基づいてClaudeが自動判断で読み込むようになります。「論文の英語を直して」とか「査読コメントへの返事を書きたい」みたいな依頼をすると勝手に効きます。効いてないなと思ったり,「ここで呼び出そう!」みたいなタイミングがあったら意図的にスキル呼び出すのもいいと思います。

なお,Claude Codeの場合は ~/.claude/skills/ にフォルダごとコピーすれば,/ethical-academic-writing のようにスラッシュコマンドで明示的に呼び出すこともできます。

文体チェックスキルの話

「おわりに」で書いた,ブログの文体分析→自分らしさのチェックの話ですが,実際にスキルとして実装しました(こちらは個人用で非公開)。

やったことは以下のとおりです。

  • ブログの全記事XMLをマークダウンに変換してNotebookLMに読ませ,文体の特徴を抽出
  • 論文の方も,自分の単著・筆頭論文のPDFをNotebookLMに読ませて,語彙・文構造・論理展開の3層で特徴を抽出
  • 抽出結果をプロファイルとしてまとめて,ドラフト完成時にプロファイルとの乖離をチェックするスキルを作成

論文用のプロファイルでは,たとえば「mightをmayより好む」「Looking at Table X, … でデータを参照する癖がある」「Limitationsは率直に認めた上で”In spite of these limitations, the study does add to…”で締める」みたいな自分のクセが抽出されていて,ちょっと面白かったです。AIで推敲した後にこういう個性が消えていないかを点検する,という使い方をしています。

ポイントは,プロファイルは「正解」ではなく「ベースライン」だということです。乖離が見つかったとしても,それが意図的な改善なのか,AIに引きずられた無自覚な変化なのかは自分で判断します。voiceチェックでフラグが立ったら即修正しないとけないというわけではなくて,あくまで自分では見逃してしまっていた箇所がないかということを確認するためのツールです。


更新履歴

  • 2026-04-13(初版公開):スキルの紹介,使い方(Project方式),ファクトチェックの失敗談
  • 2026-04-14(追記):使い方をProject方式からカスタムスキル(ZIPアップロード)に変更(Project方式ではreferenceファイルが参照されない問題が判明)。文体チェックスキルの実装報告

論文ページからワンクリックでTeamsに共有できるChrome拡張を作った(というかほぼClaudeに作ってもらった)

はじめに

矢野雅貴さん(@masayano_)がXで「Claudeにお願いしたら,ジャーナル論文のウェブサイトでクリックするだけで,タイトルや簡単な概要・解説を研究室のDiscordに投稿するアドオン作れた」と投稿されていて,これめちゃくちゃ便利やんと思いました。

私はゼミではDiscordではなくTeamsを使っているので,Teamsで同じことができないかと試してみたところ,できました。Gemini APIの無料枠を使えば,論文の日本語解説まで自動生成して一緒に投稿できます。とはいえ,ウェブで取ってこれる情報に依存するので,論文全体を読んでの解説ができるものとできないものに分かれるのかなとは思います。「解説」は今の段階ではアブストの日本語訳って感じですね。

コードはGitHubに公開しています。

https://github.com/tam07pb915/paper-to-chat

完成イメージ

論文ページで拡張のアイコンをクリックすると,こんな感じのポップアップが出ます。

拡張のポップアップ画面(論文情報が表示された状態)

「投稿する」を押すと,TeamsのチャンネルにGeminiが生成した日本語解説付きで投稿されます。数秒かかりますが,Geminiが解説を生成しているのでしょうがないです。

Teamsに投稿された結果(解説が途中で省略されます)
Teamsに投稿された結果(詳細表示後はこうなります)

仕組み

やっていることはシンプルで,Chrome拡張が論文ページからメタデータ(タイトル,著者,DOIなど)を抽出して,Gemini APIで日本語解説を作って,Power AutomateのWebhook経由でTeamsに投稿する,という流れです。Highwire Press標準の citation_* メタタグに対応しているので,PubMed,Wiley,ScienceDirect,JSTAGE,CiNiiあたりはだいたい動くらしいです(あまりよくわかっていない)。

セットアップ

1. Chrome拡張のインストール

GitHubからZIPをダウンロードして解凍したら,chrome://extensions/ を開いてデベロッパーモードをONにし,「パッケージ化されていない拡張機能を読み込む」から解凍したフォルダを選ぶだけです。インストールできたら,アドレスバー右のパズルアイコンからピン留めしておくと使いやすいです。

2. Power Automateの設定(ここが一番面倒)

ここが一番の沼でした。2025年末にTeamsの旧Incoming Webhook(コネクタ方式)が廃止されていて,「to be retired」と表示されているのに新規追加しようとしてもできないようでした。Power Automate経由にするしかないんですね,今は。これも時間が経つと変わるかもです。

Power Automateにアクセスして,「インスタント クラウド フロー」を作成,トリガーに「Teams Webhook 要求を受信したとき」を選びます。

トリガーの下にアクションを追加して,「チャットまたはチャネルでメッセージを投稿する」を選択。投稿先のチームとチャンネルを設定して,メッセージ欄には fx(式)タブ から triggerBody()?['message'] と入力します。ここは⚡(動的コンテンツ)タブではなくfxタブです。最初そこで詰まりました。

保存したら,トリガーを展開してHTTP URLをコピーします。これがWebhook URLになります。

もう一点ハマったのが認証の話で,トリガーの認証設定が「すべてのユーザー」になっていないと拡張からの投稿がエラーになります。OAuth認証が求められる場合はトリガーの設定で認証を外してください。

あと,Power Automateには「カードを投稿する」(Adaptive Card)というアクションもあるんですが,外部からのJSONに対する制約が厳しくて何度もエラーが出たので,「メッセージを投稿する」のほうを使うのが無難らしいです。

私はブラウザ版Teamsを使っていますが,デスクトップ版でも「…」メニューに「ワークフロー」が表示されなかったので,そういうときはPower Automateに直接アクセスして設定したほうが早いとClaudeに言われてこういうめんどくさいことをやりました。

3. Gemini APIキーの取得(無料,カード不要)

Google AI StudioにGoogleアカウントでログインして,「Create API Key」をクリックするだけです。無料枠が1日1,500リクエストまであるらしく,論文共有に使う分には全く問題ないと思います。

4. 拡張の設定

拡張のアイコン → ⚙ (歯車アイコン)設定を開いて,Webhook URLとGemini APIキーを貼り付けて,「Gemini APIで解説を自動生成」をONにして保存します。解説不要で素早く投稿したい場合はこれをOFFにすれば即投稿されます。

研究室での使い方

これはTeamsの使い方に依存すると思います。みんなが見れるチャンネルに情報共有的な意味合いで論文貼るみたいなことだと,全体のチャンネルに投稿することになるでしょう。私は,自分含めて学生の名前のついた個別のチャンネルを作って,そこに自分の研究の進捗だとかメモだとかそういうのを書き込んでいくという方針でやろうと思っています。私のチャンネルがあるのは,自分が率先して「思考をみんなが見れる場所に投稿していく」というモデルになれればという気持ちです。そういうわけで,私の個人チャンネルに投稿できるような設定にしました。もちろん,院生にも同じ拡張をインストールしてもらって各自のWebhook URLを設定すれば,院生が自分用メモとして自分のチャンネルに投稿できるようになります。文献共有の専用チャンネル作って各自がそのチャンネルのWebhook URLを共有して設定すれば,輪読候補の論文ストックとして扱うみたいなこともできるのかもしれません。「面白い論文見つけたけどそれをとりえあずどこかにストックしておくのが面倒」という摩擦を下げるのが目的なので,そこは運用してみないとわかりません。ちなみに,論文自体はZoteroとNotionDBを連携して学生にはそちらにストックしていくように指導にしようと思っているので,そういう意味では今後やってみて運用方針を変える可能性は大いにありそうです。

おわりに

矢野さんのアイデアはDiscord + Claude APIでしたが,Teamsに合わせてPower Automate経由にして,コスト面からGemini APIに差し替えました。アイデアをシェアしてくださった矢野さんに感謝します。

Chrome拡張を更新(リロード)した後は論文ページもF5で再読み込みしないとcontent scriptが再注入されないので注意です。これも地味に引っかかりました。

コードはGitHubに公開しています。改善提案やPull Requestも歓迎です。

GitHub: https://github.com/tam07pb915/paper-to-chat

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

国際誌至上主義について考えたこと

はじめに

このブログは,研究者の「アウトリーチ」的な意味合いでやっているわけでもなく,田村祐という個人の思考を言語化するという目的でやっています。この記事に書くことももれなく,私がタイトルに掲げたことについて考えたことを書くものです。

きっかけ

最近,ある研究コミュニティについて語られた文章を読みました。そこでは,国際誌で論文を出版していることが研究者として「第一線」にいる証であり,そうした研究者が集まる場だからこそフラットで建設的な議論が成り立つのだ,という趣旨のことが書かれていました。権威主義を否定し,役職や過去の業績ではなく「今何をしているか」が大事だという主張もありました。

一見すると,研究者として健全な価値観のようにも思えますし,自分もそうあらねばという気持ちになる人もいるかもしれません。しかしながら,私はどうしても違和感が残りました。もやもやしました。そのもやもやを端的に表したのが以下のポストです。

「反権威」が作り出す別の権威

役職や過去の業績で人を序列化することへの批判というのは,それ自体は真っ当だと思います。かくいう私も,自分のことを,「反権力」と自認していますし,アカデミアの世界に飛び込んだのも,研究という場では誰もがフラットに議論できると感じたからです。私はサッカーが好きなのでサッカーの例えを出しますが,ピッチの上では歳下も歳上も,若手もベテランも関係ない。若手が歳上の選手に要求することだってあるでしょうし,強い気持ちでフリーキックやPKのキッカーを志願することだってあるでしょう。高校時代に私はバスケ部に所属していましたが,その時の顧問の先生も,オンザコートでは先輩・後輩は関係ないと常々言っていました。先輩相手だからビビってるようじゃだめだってことです。

しかしながら,権威主義を批判しようとする際に,その批判と同じ口で「国際誌で出版していることが第一線の定義だ」と言ってしまうのは,構造的な矛盾があるように思います。つまり,「権威主義」とレッテルを貼った「古い」物差し・価値観を否定して,「別の権威主義」を持ち出しているだけではないかということです。そして,それがなぜ正当化されるように感じられたのかというのはまさにその「別の権威主義」の恩恵を自分自身が受けているからだと思います。

国際誌に論文を出し続けるためにどんな労力がかかるのか,私自身ももちろん経験があるのでそれを理解しています。理解しているからこそ,バンバン国際誌に出している研究者は年齢に関係なくリスペクトの気持ちを持っています。私ももっと頑張らねばという気持ちもあります。しかしそういう気持ちがある一方で,今ある学術出版の仕組みや研究業績の評価の仕組みというのが,ある特定の価値観によって形作られているだけである,という自覚は常に持っているべきだという気持ちも同時にあります。

さらに,私が「国際誌至上主義」という言葉で形容した物差しには入れ子構造があります。国際誌に出しているかどうかというのがまずひとつ目の序列です。そしてその中でも,どのジャーナルに載せたかというインパクトファクターであったりジャーナルランキングであったり,あるいは研究者の間の投稿経験に基づく出版の難易度などに基づくふたつ目の序列です。例えば,Language LearningやStudies in Second Language Acquisitionなどに論文が掲載されるほうが,あまり聞いたことのないけれども国際誌というラベルのつくジャーナルに載った論文よりも「優れている」とか,あるいはそちらに載せるほうが「すごい」というような。

私自身が,そういう国際誌の序列に対する気持ちがないかといえばそれは嘘になります。トップジャーナルと呼ばれるところ(に私は出版できたことはないですけれども)に載るのは簡単ではないですし,「まあこのレベルのジャーナルなら通るよね。でもこっちには出しても通らなそう」みたいな感覚は,国際誌の投稿経験があればどんどん生まれるでしょう。その査読を受けた経験(や自分が査読者側に回ったときの経験)が蓄積・シェアされていくことで,より一層その主観的な序列は強化されていくと思います。しかしながら,研究者というのは本来はどんな研究をやったのか,という研究の中身で評価されるべきなはずです。それを,掲載ジャーナルというラベルで価値判断してしまえば,権威主義の否定ではなく,権威の基準を入れ替えただけになってしまうでしょう。

出版先は戦略であって価値ではない

私自身,国際誌に論文を出版するという経験をしてきていますし,それを辞めることはないと今のところは思っています。しかしながら,それは自分の研究テーマに関心を持っている人が世界中に散らばっているからです。国内誌に出しても,私の研究に興味のある人はそんなにいない。でも,国際誌に載ったら,自分の知らないところで自分の研究が読まれる可能性が広がる。ただそれだけです。

私が初めて海外の学会で発表したのは,2019年のSLRFでした。その時,口頭発表の同じ部屋にアメリカの大学の院生さんがいらっしゃって,私と似たような領域(数の一致)の研究を発表していました。発表後に少しお話をしたら,「Applied Psycholinguisticsに論文出してましたよね?」と言われたのです。びっくりしました。あんなマイナー現象の文処理の論文を読んだことがあるのかって。国内誌でそういう論文を出そうと思うと,投稿先を選ぶのがなかなか難しい。でも,国際誌ならいくつか選択肢を考えられる。そして,そこに出したら読んでもらえるだろう。私はただただそういう気持ちです。

一方で,例えばですが,日本の英語教育現場が抱える固有の問題に取り組む研究者はどうでしょうか。日本の中学校で生徒が文法をどう学んでいるかを調査し,その知見を日本の教員に届けたいと考える研究者が,国内誌に書くことは「第一線ではない」のでしょうか。

そんなはずがないですよね。

どこに出すかは「誰に読んでほしいか」という戦略的な判断であって,研究の質や研究者としての格とは「本来は」(ここが重要)無関係のはずです。この二つを混同した瞬間,研究者としての多様な貢献を,「国際誌への出版」という一つの評価軸に押し込めてしまっているのではないかと感じるのです。

「フラット」を内部で判断できるのか

きっかけとなった文章では,ある研究コミュニティがフラットで開かれた場であるとも語られていました。しかしながら,そのフラットさを実感できるのは,そのコミュニティの基準に自分がたまたま合致しているからではないかと思います。

国際誌に出版し,英語で議論ができ,分野の主流パラダイムの中で仕事をしている人間にとって居心地がいい場所を,「フラットだ」と感じるのは自然なことです。しかし,それはその場の開放性を証明しているのではなく,自分と場の基準が一致していることを証明しているに過ぎません。そこでの議論が本当にフラットかどうかは,その基準に乗れていない人間がどう感じているかということからしか検証できないのではないかと思います。

次の世代に何をインストールするのか

研究コミュニティが影響力を持つことは,責任を伴います。「国際誌に出版している研究者が集まる場こそが建設的だ」とも解釈できるようなメッセージは,その場に集う次世代の研究者たちに何を伝えることになるかも考えたいです。

国際誌に載った研究が優れた研究であり,国内誌に書いている研究者は第一線にいない。こうした前提が無批判に共有されたとき,どういうことが起こり得るでしょうか。例えば,「国際誌至上主義」のパラダイムの恩恵を受ける営みだけが「正しい研究」や「価値のある研究」として承認され,それ以外の貢献が暗に格下げされるかもしれません。「国内の既存の学会に行ってもしょうがない」,「あの人は国際誌に論文を出していないから大した事ない」,そういう目で同業者を見るようになる可能性はないでしょうか。もう今の時点で,「国際誌になんて縁のない私は…」と悲観的になる人や,「一生懸命頑張って自分の実践を地方学会で発表して紀要に載せたけれど,私のやったことなんて大した事ないよね」と卑下してしまう人を生み出してしまっている可能性すらあると思います。反対に,「国際誌に載っているからあの先生はすごい人だ」,「あの人は有名な先生だからあの先生の言っていることは正しい」というように,無批判に権威を受け入れてしまう人を生み出す可能性もあるかもしれません(学会というのは望まなくともそういう機能が多かれ少なかれあるはずだと思いますが)。

「非建設的な批判」を批判するのは大歓迎なのですが,研究コミュニティが本当に建設的であるとはどういうことなのでしょうか。それは,特定の出版基準に合致する人間だけが居心地よく過ごせる場を作ることではないはずです。

おわりに

この記事では,「国際誌至上主義」が権威主義の否定ではなく,形を変えた権威主義ではないかということについて考えました。研究者である以上,何らかの軸で評価を受けることは避けられません。しかし,その軸を無自覚に受け入れることと,自覚した上で選ぶことは違うはずです。私自身も国際誌に論文を出版して,その枠組の中でここまで研究者としてキャリアを築いてきた側面はあります。そういう立場の人間として,自分が「乗っかっている」構造を問い直すために書きました。

研究の価値は,それがどこに掲載されたかということではなく,何を明らかにしたのか,そしてそれが何に(誰に)役に立ったのか,そういう視点で測られるべきだと思います。国や行政や大学がいろんな指標で研究や研究者の評価をしていようが,それをそのまま研究者がインストールすべきではないでしょう。少なくとも,私はそう信じてこれからも研究者としてやっていきます。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

「先行研究を乗り越えること」の自己目的化

はじめに

以下のツイートを読んで考えたことを書きます。もともとの投稿日時はだいぶ前なのですが,最近寺沢さん自身がリポストされて目に止まりました。

なぜ目に止まったのか

私自身もどちらかというと,先行研究に乗っかっていくよりも先行研究を乗り越えていこうとするようなことを考えるようになってきているという自覚があるからだと思います。

研究キャリアの初期がだいたいどれくらいの時期を指すのかはわからないけれど,一応いまでもまだ私は初期(若手にギリギリ出せるくらいなので)だと考えています。もしかすると初期が終わったくらいなのかもしれませんが。大学院生時代+博士号取得直後くらいがキャリア初期だとすると,もうその時期は終わっていますね。まあそれはともかく,先行研究を乗り越えることそれ自体が自己目的化しすぎてしまうというのは注意しなければいけないなと思います。

寺沢さんの指摘は,先行研究を乗り越えることが悪いということではなくて,それを意識しすぎると,視野が狭くなってしまって,自分の都合のいいようにデータや現実を解釈してしまうので注意が必要だということだと思います。都合のいいように解釈しすぎないようにすることっていうのは大事だと思っていますが,でも,どこかで確証バイアスかかってないかっていうのは気にしないといけないなと思いますよね。

「学術書」というところがポイントなのかなと

おそらくですが,学術書だと,そういうアイデアを批判的に検討してもらう機会がないんですよね。学術雑誌に載るプロセスのような査読があるわけではないので。出版されるかどうかというのは学術的正しさとは別のところで決まるものだと思っています。

そうなると,上の投稿の用語で言う「セルフ査読」はもちろん,やっぱり外部査読(というシステムの是非はおいておいて)とか学会発表とかで,批判を受けながら研究を進めていかないといけないよなという気持ちは結構あります。

「先行研究を乗り越える」というときの「乗り越える」は結構多義的だと思いますが,そういう目的もあった『第二言語研究の思考法』は,身内というか届いている範囲だと好意的に受け止められてはいるのかなとは思いますが,一方で,あそこで論じたことも,「確証バイアスとチェリーピッキングだ」という批判が当てはまらないのかどうか,そう感じられた人がいたらそういう批判は受けたいなと思います。

同じように,昨年11月の外国語教育メディア学会(LET)の全国大会で発表した内容についても同じ気持ちです。発表後には一定程度の共感をもらえた一方で,批判も大いにありうる主張だと思うので,そこは批判も受けながら議論を進めていきたいなという思いです。

こちらはブックチャプター原稿をベースにした発表でしたが,一応原稿自体は”peer review”も受けてはいます。とはいえ,学術雑誌に投稿論文として出したら同じままで通るかと言われるとあまり自信はありません。

明示・暗示については,いま査読中の論文が1本あるのですが,そちらも,かなり,「先行研究を乗り越える」という強い気持ちで書いたものです。何年後にその原稿のことを自分自身がどう評価するかは未知数ですが,自分の中ではマイルストーンと呼べるような論文になるような気がしています(原稿の「思考の種」自体はこのブログで過去に書いた記事の内容も含まれています)。何回リジェクトされても,必ずどこかに載せないといけないですね(cf. 名詞の数の処理に関する実験の論文が出ました)。

おわりに

春休みになるとめちゃくちゃブログ書いちゃいますね。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。