2023年の振り返り

毎年恒例の振り返り記事です。これまでの振り返り記事も興味がお有りの方はどうぞ。

過去の振り返り記事

ブログのこと

この記事を書いている2023年12月30日時点でのこのブログのpage viewは183,189です。年間のアクセス数は21,444で,2021年に近い数字になりました。2022年で落ちたのが戻ったという感じです。今年は投稿数が昨年と同じくらい(1本減少)です。ただ,記事の分量は昨年より増えて2021年度と同じくらいです。一本書くのに結構ハードル高いなと感じるのは分量ですかねぇ。

今年の記事で閲覧数が多かったのは以下のような記事でした。

1番目の話は,雑誌『英語教育』に記事を書いたのですが,2ページの原稿では書ききれない補足をブログ記事にしたという感じです。まあブログ記事の方が本体の雑誌原稿より長いんですけどね。2本目はquerie.meの質問に答えたものです。聞く人ちゃうやろ〜ってやつですね。3本目の話は後述するとして,4本目は読んだ本の話,5本目は学会のシンポジウム登壇後の雑感です。こうやって振り返ると,2023年度は自分的には反響がある記事を書けなかったんだなと思いますね。2023年のアクセス数1位はいまだに2022年の記事ですし。まあブログ記事ってview数稼ぎでやってるわけじゃないのですが,やっぱり読まれる記事かどうか,というのは気になっちゃいますよね。

仕事のこと

2023年の仕事での大きな変化は,大学院の科目を教えるようになったこと,3つの大学で非常勤をやるようになったことかなと思います。

これが変化として大きいのは,初めて英語科目やゼミ以外の講義科目を教えることになったからです。どの授業もとにかく授業の準備がとても大変で,講義科目を自分が満足できるレベルで教えるにはまだまだ勉強が足りないことを思い知らされました。来年度以降改善を重ねていきたいです。

非常勤のうちの一つは教職科目の英語科教育法です。この授業の担当は個人的にもすごく感慨深いものがあって,その事を書いた記事が上記の「はじめての英語科教育法 」でした。詳しくはブログ記事をお読みください。

授業以外では,これまでのように同僚の先生についていくだけではなくて,自分がリードしていくような仕事をいくつか任されたというのも仕事面での変化かなと思います。今までは誰かの決断にいい意味で乗っかっていれば仕事をが進みました。ところが,今年経験した仕事のいくつかは自分が決断をして周りをリードしていけないというものでした。もう6年目なのでそういう仕事もこれから増えていくと思いますし,小さいことでもそれが経験できたのは自分をまた成長させてくれたかなと思います。

昨年の振り返り記事で次のような事を書いていました。

来年度は,また学内で今とは違う役割になることや,授業の担当で大学院の科目をもつようになることなど,今から不安なくらいたくさんのことが待ち受けているので,チャレンジングな2023年になるだろうなと思います。自分の中でも,そこが一つの分岐点というか,一皮むけるために必要な,色々耐える年になるだろうと思っているので,そういうのを楽しみつつ,それらを乗り越えた先に自分が成長したと思えるようになっていたいと思います。

正直なところ,自分の中で分岐点になるというほど何か大きな自分の成長があったのかというとどうなんだろうと思います。ただ,2023年が始まる前にはそれくらい大きくとらえていた事を乗り越えて,そのことを後から低く見積もっているというのは,自分が成長したということなのだと捉えるようにしたいと思います(実際は大したことをしなかっただけという可能性もあるんですけどね)。

2023年は,研究という意味では単著論文が1つと共著論文が1つ,出版されました。そして,共編著書も出ました。

第二言語研究の思考法:認知システムの研究には何が必要か

本の方は福田さんが担当編集者と著者陣のお尻を叩きまくって頑張ったからこそこのタイミングで出版されたと思います。そうじゃなかったらあと1年かかっててもおかしくなかったのではないかと。その他にも学会ワークショップ,学会シンポジウムの登壇,学内の全学FDでの登壇,併設校での講演等々の喋る仕事も結構やったなと振り返ってみると思います。お腹いっぱいです。

運動習慣と健康面

2023年も自転車と筋トレの2本柱をある程度継続してやっていくことができました。今年も腰の調子が悪くなったりもしましたが,整骨院に通ってメンテナンスをしているからか,そこまで酷くはならずに1年過ごせたかなと思います。夏にサボったのはありますが,今でも毎週ちゃんと運動しているのでそういう意味での健康面については維持できていそうです(7月に声が出なくなるくらい喉がおかしくなりましたけど)。

プライベートのこと

2023年の年明けすぐに再婚をしました。1年近くお付き合いをしていた方です。それがまず大きなことでしたね。それから,家を建てたこともすごく大きな出来事でした。同棲を考えたときに,ふたりとも家のことにこだわりがあって,その家にあったものを揃えるタイプだったので,賃貸で暮らすよりも家買ったほうがよくない?と考えました。そして,8月くらいから家を探し始めました。基本的に私が物件を探しました。いろんな会社から資料を取り寄せたりInstagramの広告に出てくる会社に登録して物件を見つけては妻と共有しているEvernoteにクリップしていきました。最終的に注文住宅を建てることになり,家の設計的なところは妻がInstagramでたくさん調べてどういうところを抑えないといけないのかとかどういう間取りが便利なのかとか,妻が主導で決断していった感じです。「家を建てる時奥さんとはどんな風に意見を出し合ったんですか?うちはなかなか夫婦で揉めることが多くて難航してます。」という質問に答えたこともあります。4月に完成して引っ越しました。そこから色々買い揃えたり等々で家の環境が整うまでには結構時間がかかった気もしますね。でも,本当に家を買ってよかったなと思います。QOLが爆上がりです。

おわりに

2023年も多くの方々に支えられて,幸せな1年を過ごせたと思います。公私ともに,たくさんの方にお世話になりました。直接お会いできた方も,できなかった方も,本当にありがとうございました。学会で初めてお会いして,ブログ読んでますと言われることもあって,嬉しいけど恥ずかしくて「あわわ」って感じになりますが,そういう出会いがあるのもブログを書いていることの良さかなと思っています。

このブログを読んでいただいている方も,そうでいない方にも,私に関わるすべての方に感謝申し上げます。

今年も1年お世話になりました。来年もよろしくお願いします。皆様,良いお年をお迎えください。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

「生徒のレベルの差があるとうまくいかないのでは」という懸念についての疑問

はじめに

特急サンダーバード50号の中で書いています。

タイトルのような話は非常勤でやっている英語科教育法の授業でよく聞かれる質問です。

これはできる子には楽しいかもしれないけれど,できない子はなかなか発言ができないのでは。

できない子が「何もできなかった」と劣等感を覚えるのではないか。

できる子ができない子の分も頑張って損するのではないか。

というような。一語一句この文言ではなかったとしても,そういうたぐいの懸念を学生は抱くようです。これはおそらく学生に限った話ではなく,ある程度広く共有されることであるのかもしれません。学校教育に限らず,高等教育でも同じような懸念を持たれている人がいても驚きません。

私は,その根本をとりあえず考え直してみようという話をいつもしています。

以下,この記事では,便宜的に「できる子」「できない子」とか「上の子」「下の子」といった書き方をしますが,それは単純に,「英語が得意・不得意」とか,「英語の熟達度が高い・低い」という意味でそれ以外のことで人を序列化する意図は全くありませんのでその点はご留意ください。

根本の問題

上述の懸念が発生するときに,教師として,差があってもうまくいくような仕組みを作ろうとか,あるいは,熟達度が同じくらいの学習者同士が一緒に課題に取り組むようにしようと考えること,それ自体は全く悪いことではないし,むしろ授業をより良い方向に持っていこうとする営みとして奨励されるべきことでしょう。しかしながら,私はその手前の「そもそも論」を考えてみたいのです。

その「そもそも論」とは,なぜ学習者の熟達度にギャップがあるときに,できる子ないしはできない子が学習に対してネガティブな感情をいだいてしまうのか,ということです。そして,その原因となっているattitudeというか考え方というか,そこに対してアプローチしてあげたくない?ってことなんですね。

そもそもそれはペアワーク・グループワークでやるべき活動か

その原因を考える前に一つだけ述べておくと,そもそもそれってペアワークが適している?みたいなのは考えたいです。ペアやグループでやることが目的化してしまうと,この問題にぶち当たるでしょう。
一緒にペアワークをさせるでも,結局は「個人ワーク」をペアワーク「風」にしただけなら,できる子ができない子に教えてあげて終わり,ですよね。もしそういうレベルの活動を想定しているのであれば,そもそもその活動の仕掛け自体を見直すべきでしょう。一方で,「コミュニケーション活動」とか「タスク」と言われるようなものをやるときに,レベルの差があるから「難しい」と感じるのだとしたら,それはなぜそう考えるのか,ということを解きほぐしたいです。

なぜうまくいかないと思うのか

とりあえず英語の授業で何らかのペア/グループ・ワークをすることを考えてみます。その際に,学習者の英語熟達度に差がある,というのは,次の二つのケースが想定できるはずです。それぞれについて,どういう懸念なのか,それの根本はどういうことなのかを考えてみます。

  • できる子を”demotivate”してしまう可能性
  • できない子を”demotivate”してしまう可能性

レベルを下に合わせるのは損?

できる子ができない子の「レベルに合わせてあげる」ことが,できない子にとってはマイナスだという認識があるのではないか,というのが1つ目の論点です。確かに,できる子ができない子をただただ「待ってあげる」というのは,できる子にとっては「時間の無駄」と感じられてもおかしくないでしょう。でもそうではなかったとしたら,つまり,二人で協力してなにかに取り組み,一つのゴールに辿り着く,というような設定がされているのであれば,そこに対する取り組みは,「それぞれのレベルで,自分のベストを尽くしていればそれでよくない?」と私は思っています。

冒頭の,

できる子ができない子の分も頑張って損するのではないか。

みたいなのは,貢献度がイーブンじゃないときに上の子が損した気持ちになってしまうっていう話ですよね。で,この問題を解決するために,ターンを固定したり,一人何回は発言しようと目標を決めたり,とすると思うんです。その工夫自体はあってもいいと思いますし,その制限のかけ方がいい方向に作用することもあると思います。ただ,それをやる方がむしろ,できる子にとっては自分がどんどん発言できるのに,それが抑制されてしまう,ということにもなりかねません。また,その事自体が,「自分だけが頑張っている」という気持ちにさせてしまう可能性もあるわけです。そういうときに,レベルが上の子が,下の子をうまく引き上げられるかどうか,が問われてくるし,そのレベルを求めることは,上のレベルの子をさらに一段上に引き上げることにもつながるわけです。

これは私がいつも授業で言うことなのですが,基本的には,英語教師はクラスの中で一番英語のスキルがある存在だからこそ,このタスクを私と一緒に行うことになったら,必ずタスクを達成できるに決まっているし,私が誰と組んでもそうできる自信がある。さらに,英語の熟達度が高い人とやることによって自分のレベルも必ず引き上げられるよって言うんですね。

ペアワークのときに割り切れなかったらもちろん3人グループを作ることもありますが,どうしてもペアでやりたいなというときには教員が入ってペアの相手になります。そうすると,やっぱり学習者としては,先生とペアだと緊張するとかそれは避けたいとか思うわけじゃないですか。でも,そうじゃなくてむしろレベルが高い人は苦手な人を引き上げられる存在だし,そうであるべきじゃない?って私は思います。どんな言語のコミュニケーションでも,母語話者同士でなければ(母語話者同士でももしかしたら),熟達度の差が大なり小なりあるのはある種当たり前,という環境のほうが多いのではないでしょうか。その時に,レベルが上の人は,「なんだ,この単語も知らないの?」とか,「こんなにゆっくりはっきり喋ってるのに伝わらないの?」とか,普通の言語コミュニケーション環境では思わないはずです。むしろ,伝わりやすい語彙選択をするようにするだろうし,難しい単語が理解されなかったらそれを説明するでしょう。相手のレベルに合わせることが当然のように求められるし,そのことを不満に思う人がいたとしたら,それってその人の「人間性」みたいな部分を疑いたくなっちゃいませんかっていう。

本来私達の社会は,そうやってみんながみんなを助け合って,得意なところと苦手なところを組み合わせながら生きているはずです(もしそうなっていないとしたら私はそれは理想の社会ではないと思います)。教室環境もある種小さな社会だと考えたら,そこでも同じ論理が適用されていいのではないでしょうか。というのが私の考えです。

下の子が劣等感を覚える原因

上の子が損した気分になる,ということは,下の子が劣等感を覚えるということのコインの裏表だと思います。つまり,下の子が「私なんかとペアになって,相手の人は迷惑じゃないだろうか」と思ってしまうのは,「上の人と下の人が組むと上の人が損する」というのがどこかで内面化されているからではないかなと思うのです。

何らかの活動の中で,自分の中にも与えられた役割があり,自分のレベルで何らかの貢献をして,その結果として相手と一緒に何かのゴールを達成できたのだとしたら,それは下の子の自信につながると思うのです。

例えば,間違い探しのタスクをやったときに,とにかくできる子がたくさん”There are two cups on the right end of the desk. Is your picture the same?”, “The man on the left has long hair. What about your picture?”とかたくさん質問して,できない子はその質問に対して”yes” or “no”という短い応答でしか答えられなかったとします。で,確かに,一人ひとりのパフォーマンスを評価したら,できない子は全然質問してないから評価が低くなる,のかもしれません。実際に成績をつけるとなればこのペアの二人に同じ評定はつかないでしょう。それでも,下の子は上の子の質問を正確に聞き取って理解し,相手から受け取った情報と自分の手元にある情報を照らし合わせて,yes or no(あるいは別の短い応答)を返していたのだとしたら,それはそれでその子は意味理解の部分ではすばらしいパフォーマンスを見せていたと言えると思うのです。そこを評価してあげた上で,じゃあ今度は自分の持っている絵の情報を一つでも相手に伝えられるようにしようね,と声がけをして,その上でそのために必要なサポートを教師が提供してあげれば,その子の自尊心が傷つけられることなく,前向きに課題に取り組めるのではないでしょうか。

おわりに

もちろん,私の言っていることは理想論だとは思います。実際にはそんなにうまくいくわけないとおっしゃる方もいると思います。人と比べるのではなく,過去の自分と比較するんだよなんて言ったところで,大人だって他人と比べて羨んだり蔑んだり落ち込んだりする気持ちをコントロールすることは容易ではないわけです。それを児童・生徒・学生に求めたってそんなうまくいかないよってこともあるとは思います。しかしながら私は,そういう自分にフォーカスする練習というのは早く始めたっていいと思うしむしろおとなになってからその壁にぶち当たって病むよりはもっと若いうちからそういう経験したっていいんじゃないとすら思います。

そうやって,学校の中でのよい関係性がどんどん社会に広まっていくことで,世の中がもっといい場所になればいいなと思っています。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

「教師の職権濫用では?」というご相談

はじめに

最近なんか連投してますね。質問コーナー。

先生たちが職権を濫用し、講義を好きなようにすることができる事に腹立たしく思ってしまいます。教員が職権を濫用している例として)休講の場合、必ず補講を入れるべきであると思いますし、それができないのであれば、一講義の授業分のお金を返金することが普通であると思ってしまいます。学生がレポートを書く時間や最終プレゼンの練習に一講義の授業を全て費やす先生もいらっしゃいますが、それもどうなのかなとも思ってしまいます。この考え方っておかしいでしょうか?

回答

おかしいとは思いません。すでにそのようにされているかもしれませんが,補講の問題を解決したいと考えているのであれば,ご自身の大学のしかるべき部署に連絡した方が問題が解決される可能性が高いと思います。後者の授業形態の話は担当者に直接伝えるのが良いかと思います。実際に直接伝える機会がなくとも(あるいはそれが難しいと感じられるようであれば),授業評価アンケートなどで学生から意見を送ることはできると思いますので。

休講に対する補講

さて,休講に対する補講ですが,これが職権濫用と言えるかはともかく,休講の補講をしないのは良くないですね。私が関大に着任して学務委員をやっていたときには,休講の場合に補講してるかチェックした資料が会議に出ていたような記憶があるので,組織によってはそこを徹底していると思います。お金を返せという気持ちはわかりますが,授業料を返すというのは難しいでしょうね。1講義いくら,という形で授業料を払っているわけではないので,1コマ分がいくらという計算ができないでしょう。

授業中にレポート書いたりプレゼン準備したり

学生がレポートを書く時間やプレゼンの練習というのは休講の補講とまた違うレベルの話かなと思います。授業形態の話なので,こちらはより教員個人の裁量が大きいと思います。授業の中で書いたり準備をする時間を取ることに意味があるならともかく,質問者さんがこういうことを私に問うということは,受講者の中にそのように感じられていない人がいるということですね。教員の説明不足か,活動の組み方が有効ではないのでしょう。

私は,英語ライティングの授業で,授業内に書く時間を取っていました。それは,その授業の中で書いている途中に即時フィードバックをするためでしたね。書いているその場でフィードバックがもらえる,ということに学生側のメリットがあるということでそのようにしていました。
個人的には,授業形態は学生も関与できる部分だしどんどんしていいと思っています。教員が全べてを決めるのではなく,学生とともにいい授業を作っていく,つまりある程度の教員側の権威を手放す勇気が求められていると思っています。学生側の要求がすべて認められるべきとかそういうことではなく,学生の要求を教員が検討し,妥当であれば授業にそれを反映させる,ということをしてもいいと思うし(逆に言えば妥当ではないと考えるのであればそう説明すればよい),それは学生側の権利でもあるよな,ということですね。

おわりに

個別具体的な事情が色々あると思うので,質問者の方からの断片的な情報だけでそれぞれのケースについてなにか言うことはできないと思っています。したがって,上に書いたことはあくまで一般論として,休講したら補講すべきだし(そういう運用になってる大学がほとんどではないかと),授業形態や授業の活動に対して学生が不満に思う現象があるのであればそれはうまくいっていないので何らかの形で改善が必要だろうと思う,という話でした。

質問したい方はどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう

たむらゆう。

サッカーをやっている息子さんについての相談

はじめに

Querie.meでいただいた質問シリーズ。子どもがいない私がこの質問にどう答えたらいいのか,かなり難しいのですが,頑張って回答を書いてみます。

質問

小2の息子についてですが、夏から強豪チームに移籍して週5練習です。前は息子だけが上手くて井の中の蛙状態で、舐めプばかりしていましたが、今のチームでは上手い子ばかりで、息子は弱腰です。親としてどうやってかかわっていったらよいでしょうか。チームメイトはみんな上手いし毎日サッカーをしているので彼らに追いつく方法もわかりません。自信をもってプレーしてほしいです。

回答

私の経験

まず,少しだけ私の話を書かせてください。私はサッカーが好きというのは知られていることかと思いますが,サッカーをプレーしていたのは幼稚園の年長から小学校の6年生までの7年間です。中高の部活はバスケ,大学でもバスケサークルに所属していました。サッカーは体育でやったり,あるいは大学に入ってからはフットサルをやったり程度でした。

この質問を読んで最初に思い浮かんだのは自分が中学から高校に進学したときのことです。中学のときは,自分自身,バスケがそれなりにうまいと思っていました。中学は人数が少なかったので井の中の蛙状態で,チームは別に強くなくていつも3回戦くらいで地域の強い中学校と当たったら負ける,という程度でした。でも,バスケが強い学校でやりたいと強く思っていたので,バスケの強い高校(二個上はIH,WC両予選で東京優勝,自分たちの代はIH予選東京4位)に進学しました。人数も1学年20人くらいました。東京中から,中学時代はキャプテンだったツワモノ達が集まってきていて,それこそ「弱腰」でしたね。それでも,自分なりに勉強して,自主練はしていました。全体練習のあとにトレーニング・ルームに行って,帰れと言われるまで筋トレしたり,朝早く来て坂道ダッシュしたり,昼にシュート練習をしたり。自分なりにはその時にできる精一杯をやったつもりでいましたが,今考えればがむしゃらさが足りなかったな,気持ちが弱かったな,と思います。

結果的に,公式戦の試合は一度しか出たことがありません。それも,3年生の時の最後の夏の予選の一回戦とかで何十点も差がついた第4ピリオドの残り1分くらいです。一度だけボールに触って,スリーポイントシュートを打って,無様に外れました。それが私が高校三年間で出た最初で最後の公式戦の思い出です。それでも,レベルの高い高校でやったことで自分自身,バスケがうまくなったのは間違いありません。大学はサークルに入っていました。普段の活動はバスケ初心者もいたし,まあ「ぬるい」と1年生のときは思っていました。それでも,夏はサークルの中でも「ガチ」の人たちで集まって,大会合宿に出ていましたし,市民大会に出れば本気の大人たちとの真剣勝負でした。勝ったり負けたりで,別にチームもそんなに強くはなかったし,自分自身もその中で特別うまいわけではありませんでしたが,程よい緊張感の中でバスケができたことは本当に楽しかったという記憶があります。

なぜサッカーをやっているのか

いただいた質問だけでは,なぜサッカーをやっているのかはわかりませんが,当然,「サッカーが楽しいから」という理由があると思います。また,夏から強豪チームに移籍したとのことですので,もっとサッカーがうまくなりたい,そのためにサッカーが強いチームでやりたい,という気持ちがあったのではないかと推察します。

となると,「サッカーがうまくなる」のが目的なのであって,「他のチームメイトに追いつく」,ことが目的ではないように思います。周りに仮に追いつけるかどうかよりも,どうやったらサッカーがうまくなるのかを息子さんと一緒に考えてみてはどうでしょうか(と子どものいない私がアドバイスをするのも失礼な話ですが)。もちろん,小学校2年生の子どもに,「周りと比べないで,自分の成長にフォーカスしよう」って声かけたところでそれがうまくいくとも限りません。大人でも周りと比べずに自分に矢印を向けるのは難しいことですから。

自信を持ってプレーするためには,自分の得意なことを伸ばす,というのも一つの方法かもしれません。私は普段Jリーグをよく見ていますが,やっぱりサッカー選手って何かこれっていう特徴がありますよね。ダワン選手だったら跳躍力がすごくてヘディング強い,食野選手なら両足で強烈なシュートが打てる,山本選手は相手を剥がしたり決定的なパスを通すのがうまい,黒川選手はドリブル突破,みたいな。

本人がどうしたいか

夏の移籍が自分の意志によるものだったとすると,移籍したいと自分の希望でしてはみたものの,うまくいっていないことに本人もどうしたらいいのかわからなくなっているのかもしれません。自分に矢印を向けて,その(より厳しい)環境で頑張れるのであれば,それを応援したいですよね。

ただ,もしかすると,移籍が失敗だったと思っている可能性もあります。そうはいっても自分で移籍したいと言いだしたのだし,ここで,「やっぱりここは嫌だ」といってしまったらそれが「逃げ」とか,「弱虫」だとか思われてしまうかもしれない。あるいは,せっかく親に移籍を実現してもらったからこそ,また環境を変えるということに二の足を踏んでいる可能性もあります(迷惑をかけたくないとか)。私は地域のサッカー・クラブのことはよくわかりませんが,もしも,他にもっと息子さんのレベルにあった場所で楽しくサッカーができる場所があるのなら,そういう場所に移ってもいいのかもしれません。私は,スポーツは自分のレベルにあった場所で楽しく取り組めることが一番だと思っていますし,やっぱり試合に出てなんぼだよなとも思っています。

おわりに

自分にもし子どもができて,こういう状況になったら自分はどう考えるのだろうなと色々思いながら書きました。相談者の方が,お一人で息子さんを育てているのではなく,パートナーの方がいるのであれば(そういうのもわからないので言い方が難しいです),パートナーの方ともこのことを話し合ってみてはいかがでしょうか(もう話し合った上で質問いただいているのかもしれませんが)。また,いちばん大事なのは息子さん本人の正直な気持ちだと思いますので,まずは親が子どもを全力でサポートするという姿勢を見せた上で,本音を聞いてあげてください。息子さんが楽しくサッカーを続けていくことができるよう願っています。

あまり有益なことは書けませんでしたが,私からは以上です。

質問したい方はどうぞ。

なにをゆう

たむらゆう。

https://querie.me/user/tam07pb915

おしまい。

この数年で博士号をとったり、大学教員になった先生方に望むものはなんですか?

はじめに

久しぶりにブログ記事で回答します。

質問

ヤットさんに憧れ、宇佐美選手と同年代です。 次節、勝ちましょう!!!! (中村俊輔選手の引退試合も熱いです!!!) ここ数年に権力がある世代は、英語教育を研究として成立させるために尽力していただいた世代(学会の偉い先生方など)。次の世代は、ネットを駆使して英語教育を一般化した世代だと思っています(発信力が強い先生方)。そこで、この数年で博士号をとったり、大学教員になった先生方に望むものはなんですか?

回答

ヤットさんは代表でずっと見ていて好きな選手でした。ガンバを好きになったのもヤットさんを生で見れるというのも大きな理由としてありましたね。実際に,初めて買ったユニはヤットさんのでしたし。宇佐美選手と同年代ということはプラチナ世代ですか。私は倉田選手・藤春選手と同い年です。

私は味スタの近くが地元なので,中学生のとき,鹿島,浦和,横浜FM,ガンバなど,強豪チームが来るときにはによく500円でアウェイ・ゴール裏席に行っていました(当時はFC東京もヴェルディも強くなかった)。横浜FM戦に行って,眼の前で中村俊輔選手の直接FKを見たこと,今でも覚えています(ゴールは決まらなかったんですが)。ちなみに,一番怖いなと思ったのはガンバ大阪のゴール裏でしたね笑 今はそこに自分もいつも座っている(立っている)わけですが。

さて,急に英語教育の話になったのでサッカー界隈の人ではなく英語教育界隈の方ですかね。私個人が他人になにかを「望む」ようなことはないですね。以前,querie.meで「大学教員が求める小学校外国語科の授業の在り方は?」と聞かれたときに,「求めたりしない」とブログに書きました。

自分自身に求めて行かないといけないと思っているのはこれまでの英語教育研究を顧みて反省することでしょうか。私自身は英語教育研究のど真ん中にいるとは思っていないですが。英語教育研究とはやや異なりますが,この前出た本は一つ,そういう仕事かなと思ったりしています。

第二言語研究の思考法:認知システムの研究には何が必要か

質問したい方はどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

英語嫌いと体育嫌い

はじめに

体育がきらい (ちくまプリマー新書 437)

英語と体育ってなんか似ている部分もあるのではないかと思いながら手にとって読んだ本。そこから色々考えたことを書きます。

英語と体育って似ている

英語指導って,結構体育会系のノリで,とにかく練習あるのみとか,根性とか,忍耐とか,そういうのも実際ある気がしています。そういう側面が言語学習に全くないと否定するつもりはないのですが,そういうのが前景化したときにそれに対して拒否感を覚える人がいることを忘れたくないなと思います。

体を動かすことやスポーツで全員がプロアスリートを目指すわけではないのと同じで,英語だって,みんながそれぞれそれなりのレベルで,でも英語を使うことや英語を学習することにポジティブに向き合って,自分の成長を感じられる,そうであれば良いはずだと思います。

運動は健康との繋がりがあるので,そういう,自分のペースで,自分にあったレベルで,とにかく続けることがいいと言いやすいというのはあるかもしれません。メンタル的にも運動でリフレッシュされる部分はありますしね(このあたりは非専門家なので感覚で言ってますが)。ただ,言語学習ってなかなかそういうのを感じにくい部分はあるかもしれません。運動に比べると。

運動の分野でも,どれくらいハードなトレーニングをやっているかとか何キロ挙げたとか何キロ走ったとか,そういうので競争する人たちはいるでしょう。でも,そういうのにコミットしない人もいるはずです。言語学習は何かみんなが競い合っているような感じがしてしまうんですよね。そこに,体育会系っぽい要素を感じずにはいられません。先日anf先生とお話したときに,「英語マッチョ」という表現がまさに英語と体育会系というものの親和性の高さを表しているよねなんていう話題も出ました。

本を読んで印象的だったこと

私が本を読んで印象的だったのは以下のことです。

  • 好きにならなくていい(体育好きが体育教師になるし体育を好きにさせようとする)
  • 「まずやってごらん」という先生の一言が体育が苦手な人にとってきつい
  • 体育の授業を少中高大と経験しても,大人はお金を払ってジムに通わないと自分の体をコントロールできない(体育の敗北)

どれも,英語との類似点だと思ったからこそ印象に残っています。1つ目は,英語が好きな人が英語教師になるし,英語教師は英語を好きにさせようとする,英語(言語)ってこんなに面白いんだよとアピールしてくる,というように考えると,結構当てはまるよなぁと。他の教科がどうなのかわからないですが。もちろん,そのポジティブさが英語学習に対してポジティブな態度の学習者を増やしている側面は否定できないでしょう。それ自体が悪ではありません。一方で,著者の結論は,好きか嫌いかの二択にしなくていいし,その間にグレーゾーンがあるというものです。つまり,「嫌い」にはなってほしくないけれども,「好きにならなくてもいい」ってことですね。

2つ目は,私も結構こういうスタンスで授業をやってしまっていると思いました。体育というのは,自分の体がみんなの注目を浴びることになるので,とても辛いという話です。とくに,跳び箱やマット運動など,一人ずつやるような種目だとどうしても自分がやっているところを誰かが見ていることになりますよね。そこで,苦手な子に「まずやってごらん」と言うのは体育が苦手な人にとってはとても苦痛だということです。英語でいうと,みんなの前で音読したり,みんなの前で英語で発表したり,意見を述べたり,というのが自分のことば(体の一部といってもいいでしょう)がみんなの注目を浴びるという点で類似性があると思いました。基本はペアワークやグループワークでも,その成果をクラス全体で共有したいですよね。せっかくだからそこも英語でやりたいと思いますが,クラス全員の前で英語を口にする機会,やはり結構ハードルは高いですよね。

よくある,「英語っぽい発音が笑われる」という話や,その逆で「発音に自信がないから恥ずかしい」というのもつながるものがあるかもしれません。まず,どんな言語だろうが,母語話者だろうが第二言語話者だろうが人が喋っているのを笑うなと言う話なんですけども。体育でもそうなんですが,仮に周りがどんなにサポーティブな雰囲気でいてくれたとしても,やっぱり自分自身が自分の体やその動きを「無様」なものだと思ってしまったらみんなに見られたくないと思うのは当然ですよね。

3つ目は,語学教育ビジネスと相似系だなとすぐ思い浮かぶ人も多いのではないでしょうか。小中高(大)と英語を勉強しても,お金を払って英会話学校に通ったりオンライン英会話プログラムに通わないと言語学習ができない,ということですよね。本屋さんに行けば語学関連書籍がたくさんあったり,テスト対策本もたくさんあったりしますよね。書籍があれだけあるのも,売れるから,ですよね。「痩せる」とか「ムキムキになる」とかを煽るのと,「ペラペラ」とか「ネイティブのように」を煽るのは,似ているよなとやはり思ってしまいます。ただし,書籍は基本的に自学なので,ジムに通うこととはまた違うのかなとは思います。

そうは言っても,自律的に言語学習をする術を身に着けさせることなく社会に放り出しているのかもしれない,とは言えると思います。大人がジムに通うことを体育の敗北と呼ぶならば,英語学習についての現状は「英語の敗北」と呼べるのかもしれません。

おわりに

体育も英語も,その教科に対してポジティブなイメージを持っている人が一定数いることは事実でしょう。だからこそ,そのイメージを誰しもが持っていると思い込んでしまいがちです。そこで立ち止まって,英語嫌いや体育嫌いを考えてみることが大事なのだと思います。これって別に一般的に多くのことに当てはまることで,陳腐な言い方をすれば「客観視をする」とも言えるかもしれません。「体育会系っぽい」授業を自分がしていないか,振り返って考えるいい機会になりました。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

2023年度LET関西支部秋季大会を終えて

はじめに

11月4日(土)に開催された2023年度外国語教育メディア学会(LET)関西支部秋季大会のシンポジウムに登壇したので,その雑感みたいなものを忘れないうちに(その日の夜はほぼ記憶を失いましたが)メモしておきたいと思います。私の資料はウェブに公開しているので,下記から御覧ください。

この資料の中のメインの話は以下の2つの書籍を読めばほとんど書いてあることなので,詳しい話はそちらをお読みください。

特に,私の話は結構端折っているので,本を読んでいただかないとつながりとかも分かりにくくなっていしまっていると今になって反省しています。

第二言語研究の思考法: 認知システムの研究には何が必要か

英語教育のエビデンス: これからの英語教育研究のために

ちなみに,下の本についてるAmazonのレビューは全く参考にならないので,レビューでこき下ろされているからといって買うのを躊躇しないでください(このブログ記事を読む人が私のこの記事の内容とAmazonのレビューで後者を参考にするとは思いたくないですけど)。

全体をざっくり

司会の浦野先生をはじめ,南先生,私と,3人とも言いたいことが結構あったなと思いましたし,それぞれに違うポイントを強調されていたのが(当然ですが)よかったなと思いました。浦野先生は,司会だから抑えめにされていたと思いますが,学会誌の投稿基準の話や追試,外的妥当性・内的妥当性の話など,外国語教育研究の大きなところの中で重要なところをピンポイントに指摘されていた印象です。南先生はとにかく実践研究を広めたい,もっと多くの人に実践研究に取り組んでもらうことで実践も研究も状況が良くなるという信念があるように感じました。

機材のトラブル等があって最後のディスカッションの時間が短くなってしまったことや,オンラインで参加された方に議論を届けられなかったことが非常に残念でした。あと何より私が残念だなと思ったのは,登壇者の南先生がマイクを持って質問者のところに行っていたことです。あれ,南先生がいい人だから自然と身体が動いてそうなりましたし,私も最初マイクを持って走り出そうとして南先生とぶつかりそうになったのですが,あの場にいた実行委員(運営委員を含めても良い)の中の誰もがその役割(シンポジウムを回す役割)を積極的に担おうとしなかったことは,端的に言って登壇者に失礼だったと思います。参加者としてあの場にいたから意識が向かなかったのかもしれませんが,さすがにシンポジウムの登壇者がやることではなかったと思います。そのこともあってか,南先生が議論になかなか加われていませんでした。私も登壇者だったのでなかなか南先生の代わりに誰かとその場で声をあげるほどの頭の余裕がその時はなくて何もできなかったのですが,後から冷静に振り返るととても心苦しかったです(途中から誰かが変わっていたかもしれませんが,記憶がそこはありません)。

フロアとのディスカッションで出た質問

私が覚えている限りの質問について,書いてまとめます。質問された方で私のまとめ方が異なるようでしたらご指摘ください。

実践研究と理論研究が相似系であること

私は探求の論理学の例で,アブダクションによる仮説形成と演繹的推論を用いた予測,そして実験から一般化するというプロセスを提示しましたが,そのプロセス自体は実践研究でも同じことなのではないかということでした(その前にも色々な話があったと思いますが)。それはそういうところもあるかなと思いましたが,アブダクションによる仮説形成時に理論的構成概念を扱うことを重視するという点は理論と実践の違いと言えるかもしれないと思いました。実践の時には構成概念の実在はそこまで重要視されないかなと思うので。

オルタナティブ・アプローチについて(※注)

SLAの話の中にいわゆる認知的「ではない」アプローチをとる研究が一切出てこなかったのですが,というコメントが有りました。私が認知的アプローチを取る研究者を代表して今回登壇したということを浦野先生が補足してくださいました。私がまず答えたのは,社会文化理論なり複雑系理論なり,Atkinson (2011)に収録されているような「オルタナティブ・アプローチ」で言われているように,認知的アプローチでは第二言語習得はわからないのだ,大事なものを捨象しているのだ,というようなものがもし仮に真であったとしても,そのアプローチを取る人たちが,認知的メカニズムを一切仮定しない第二言語習得理論を作ることはできないし,学習者の外側の要因がどれだけ重要であったとしても何からの認知的メカニズムを考えずに第二言語習得を研究することはできないというものです。あらゆる要因をすべて考慮して,全部を包括的に説明することを目指そうとというのは個人的には失敗だと思っています。let all the flowers bloomでは無理だったということを,少なくともメカニズムの探求をするのであればそれを認めた上で(まあ最初からそう思っていた人が多いと思いますが),説明する対象を限定した上でメカニズムの探求をする必要があるだろうというのが「思考法本」の中で書いてあることでもあります。

事例研究の積み重ねの重要性

医学の分野では,厳密なRCT実験ではない事例研究も全く意味がないわけではなく,それはそれで価値のあるものだと認識されているので,事例研究も…というような意見がありました。事例研究の話はこれまた寺沢さんのブログで言及されている話があるので(EBEE本の寺沢さんの5章の最後にも事例研究の話があったと思います),そちらをお読みいただくと良いと思います。

寺沢さんの話は,何を事例として取り上げるのかという選択が非常に重要で,その事例が何らかの形で理論構築なり他者なりに貢献できるような事例でなくては事例研究としての価値が低いということだと理解しています。私はそれ以外にもう一つ医療系と教育系で違う点があると思っています(これは懇親会で亘理先生とも話したことですが)。それは,介入の手順や測定の厳密性や標準化度合いです(これもEBEE本の中でPKテストが扱われる8章で述べられている話でもあります)。医療では,おそらく何らかの介入を行う際に,その手順が厳密に規定されていて,その効果を測る手段も標準化されていると思います。よって,そこのブレがない分だけ事例の共有が容易でしょう。しかしながら,言語教育において何かしらの介入指導の手順がどのくらい厳密に規定されていて,それがどれくらい標準的なものとして共有されているかというと,そこが難しいと思います。「ディクテーション」とか「英作文」とかそういうざっくりしたものは当然のこと,「間違い探しタスク」や「他己紹介」のように多くの人が内容を容易に思い浮かべることができる活動であったとしても,それをどう実施するかには多くの選択肢やバリエーションが存在しています。そして,そのバリエーションが有ることは何ら悪いことではないというか,文脈に即した活動にするためにそのバリエーションが有効に機能します。効果の測定についても,パフォーマンスで評価するにしても正確さ,流暢さ,複雑さを使って言語使用を仮に測定できたとしても,無数の指標からどれを選択するのかについて,合意形成はなされていませんし,あるタスクに固有の標準化されたルーブリックのようなものもないでしょう。これでは,仮に事例研究が多く行われていったとしてもそれを解釈するのは難しいように思います。

ただし,何をやったらどうなったのか,についての主観的な記述を蓄積していくことには意味があると思います。ある実践を行ったとき,その手順についての詳細な記述とそれを実施した教師がどういう主観的な見方をしたのか(うまくいったのか,うまくいかなかったのか),なぜそういう見方をしたのか,というようなものが蓄積されていけば,それはあとから参照する価値の高い資料になると思います。上の寺沢さんのブログでは量的な事例研究もあるので質的なものだけが事例研究だけではないと書いてあって,そこはとても大事な指摘です。量的な事例研究もありますが,教育系で理論に貢献しうる事例研究って結構難しそうだなと個人的には思っています。

おわりに

今回のシンポジウムに登壇することで,自分の考え方もより整理されたなと思います。ただ,発表自体はまだまだで,もっと伝え方を工夫しないとなかなか理解されないということも痛感しました。これは私の力不足です。意見論文をある程度の国際誌に載せるのが簡単じゃないのはよくわかっているのですが,そういうことしないと結局何も変わらないので,たくさんの人と議論を重ねながら,学界がいい方向に進んでいくといいなと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注(2023年11月8日追記)

オルタナティブ・アプローチの話のところで,質問いただいた方からTwitterで補足・訂正をいただいたので追記します(直接メールももらいました)。

まず,私が質問を理解できていなかったことが原因で噛み合ったやりとりにならなかったこと,お詫び申し上げます。多分聞いてるときにバイアスがめちゃくちゃかかってしまっていたのだと思います。申し訳ございません。

さて,英語教育研究の中にオルタナティブ・アプローチがどう位置づけられるのかという話ですが,オルタナティブ・アプローチが今後何を目指していくのかによるのかなと思いました。認知的メカニズム以外の部分の言語習得のメカニズム的説明を目的としてやっていくのであれば,それはそれで意味があると思うので,やっていったらいいのではと思います。ただし,メカニズム的説明をやるのであれば,私が扱った批判というのはいわゆるオルタナティブ・アプローチの研究にも当てはまることだと思っています。

英語教育研究の中にどう位置づけられるのか,という話だと,「socialな側面を研究するスタディ」がどれだけ英語教育研究の「中で」やられているのかっていうと,ほとんどやられていないのではと個人的には思っています。英語教育学会に入っている人が,そういうところに興味があるのかっていうのもどうなんだろうなと個人的には思っています。だから意味がないということではなくて,だからこそ位置づけるって難しいなと言う話です。合意形成を得るのが難しそうなので。浦野先生が下記のツイート内で補足してくださっているように,”broad SLA research”と考えるとそこにはsocial SLAも入ってくるでしょうね。じゃあその”broad SLA research”と英語教育研究(外国語教育研究)がピッタリ重なるのかっていうとなんかそういう感じはしないな〜と個人的には思います。というのが私の個人的な理解ですね。

また,オルタナティブ・アプローチがメカニズム的説明を求めるのであれば,私の資料でいうと11枚目の浦野先生の作ったスペクトラムの中に英語教育研究を位置づけたものの中には入らないと思います。オルタナティブ・アプローチであったとしても,メカニズム的説明を求めるのであればそれは政策科学ではないからです。もしもオルタナティブ・アプローチがそうではなく意思決定の科学を目指すのであれば,あのスペクトラムの中の真ん中より右側に位置づけられるのかもしれません。

関西大学の院生向けキャリア関係イベントでトークしました

はじめに

関西大学キャリアセンターのイベント(主催は学内のプロジェクト)に声をかけていただき,関大の院生の方々に向けてトークをしました。

「多様な博士のキャリア」と銘打ったイベントで大学教員が呼ばれている理由はよくわかっていませんでしたが,事前の打ち合わせで,第1弾では企業に勤められている方がゲストだったということを聞いて納得しました。主に博士課程の院生さん向けのイベントで,自分の所属先の研究科の院生さんも何名か参加されていました。私の話は博士課程のうちにこういうことをやっておいたらどうですかという内容です。一緒に登壇されたおふたりの先生のお話もとても面白くて,他分野の方々の考え方やキャリアのことを聞けてとても新鮮でした。

将来を見据えて注力しておくべきこと

私のトークの話をすると,この部分が半分くらいの内容を占めています。正直,生存バイアスなので,話半分くらいで聞いてもらうのがいいかなと思って話しました。自分はこうしたほうがいいと思っているし,それが今の自分に繋がっているとは思っていますが。

得意なことの掛け算を意識

これは結構意見が分かれるかもしれません。得意なことでとがりまくれという意見もあるかもしれません。私は凡人なので,そういう生き方は無理でした。何か一本でここにいるというよりは,英語授業の実践(タスク),第二言語習得,心理言語学,統計,R,みたいな色々なことの掛け合わせで自分の強みになっているかなと思います。それぞれどれをとっても自分より知識・技術に優れた人はいるでしょうけれど,それを複数持っている人っていうと,あまりいないのかなという。アカデミアに就職するとなったら,狭い専門性しかなければ担当できる授業も限られてしまいますし,出せる公募の数も少ないでしょう。

博論にまっすぐ進むな

この話は実は先日,関学のT先生と話したことでもあります。博論に直接関係ないことは「必要ないこと」として切り捨ててしまう人がいるけど,それってどうなの,みたいな話だったと記憶しています。例として出てきたのはたしか,データ分析のために統計が必要だけど,統計を学ぶことそれ自体は直接関係ないから自分の手持ちのデータを分析するツールの使い方とその解釈だけ分かればいい,というようなことでした(たぶん)。

フルタイムの職を持ちながら博士課程をやるとなると,なりふり構わずやるしかないみたいな感じなのかもしれませんが,私としては博士課程の時って直接的に関係ないことでも全力でやるからこそその後につながるということばかりな気がしています。勉強でも研究でも,やれるものはとにかくなんでもやる,というスタンスでいる人のほうが,博論だけに集中している人よりも道が開けているように,名大時代の後輩を見ていても思います。むしろ,博士課程にいて博論の研究しかできなかったら,アカデミアで就職してから研究を続けていくことなんて到底できないのではとすら思います。どのような就職先でも,1つの研究だけをやれる環境であることなんてないわけですから。

とはいっても,あれこれ手を出した結果として博士論文がずっと書けないということになっては本末転倒であることは確かです。よって,博士論文をおろそかにしてもいいということでは決してありません。でも1年中,3年間ないしは4年間の博士後期課程の間,ずっと博士論文のことだけを考え続ける,それしか時間がない,なんてことあるのだろうかと思います。

もう一つ,博論関係のアドバイスでいうと,完璧な博士論文を目指さないということです。そもそも完璧な研究などないし,完璧な学位論文などありません。完璧を求めていたら一生終わらないし,完璧でないと博士号がもらえないわけでもありません。これは私自身が博士論文執筆中に副査の先生だった方にも言われたことです。博論はpassかfailなんだから,passしたらいいだけだと言われました。博士号を取ったあともずっと長く研究人生は続いていくわけで,そのプロセスの中で少しでも良いと思える研究ができるように頑張るということでいいと思います。

パネルディスカッション

パネルディスカッションでは登壇者3人にいくつか質問が投げられて順に答えるという感じでした。私が印象に残っているのは,「これからの博士に求められること」という質問でした。印象に残っている理由は,私以外の2人の先生は,社会にインパクトを与える研究ができるかどうかや社会実装ができるかどうか,という点を挙げられていたことです。私は人文科学の代表として,別に社会に自分の研究成果を直接的に還元しようと思わなくてもいいと思っていると言いました。念頭にあったのは,それを意識しすぎてなのか,そこまで言えないでしょう,もっと抑制的にならないと,というような発言してしまうことがこの分野だと散見されるという私の個人的な認識でした。ただ,じゃあ自分のやりたいことをやりたいようにやっていればいいかというとそういうわけではなくて,自分の研究が社会に直接役に立つわけではなかったら何に貢献しているのかを考えることがとても重要だと思います。以前参加した学内の科研費獲得セミナーでも,人文科学系では申請書の評価の際に社会実装・社会へのインパクトの重要度が他分野と比較して高くないという話を聞いたので,そういうのも頭にあったからこその発言ではあるなと今振り返って思います。

懇談会

社会科学,人文科学,自然科学の3つの領域から1人ずつ登壇したので,最後にそれぞれのグループに分かれてコーヒーを飲みながら懇談会がありました。私は一応人文系代表ということで、外国語教育学研究科,文学研究科,心理学研究科,東アジア文化研究科の院生さんたちと話をしました。話をするといっても,一人ひとりに今の不安とか悩みとかを聞いたり,質問をもらったりという感じでした。先の見えない不安だったり,自分が何をやりたいかわからなくなっていたり,というのが話題でした。

おわりに

もっと院生さんたちと話したり,終わった後に登壇者の先生方と話をしたかったのですが,アウェイ大阪ダービー参戦という大事な用事があったので,時間を少しすぎたところでお暇しました。すごく良いイベントだと個人的には思ったので,院生さんたちにも参加して良かったと思ってもらえていたら良いなと思います。

ちなみに大阪ダービーは0-1で敗戦したので,この記事を書くことで心を沈めています。今から反省会です。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

主な著作は、まだない

久しぶりにブログ記事を書く。思ったように書く。

私は,論文や書籍などの著作のbio欄(著者紹介)を書くのが苦手である。できれば書きたくないといつも思っている。なぜそう思うのかと考えていると,そこには自分はこんな本を書いたことがあるとか,こんなジャーナルに論文を載せたことがあるとか,そういうことを書くことが慣例になっているからかなと思う。

もちろん,新しく論文が出版されればX(旧Twitter)にポストするし,誰かがポストしてくれていたらリポストする。自分のウェブサイトにも新しく出版された論文等の情報は更新するし,researchgateやresearchmapなどの更新もする。

それでも,私はいつでも「自分は何者でもない」と思っている。 “no one”というやつだ。私には人様にお伝えするような輝かしい経歴や,多くの人に読まれるべきと自分で思う著作などない。私のことを知らない人からすれば,本を手に取り,どんな人が書いたものなのかと著者紹介のページを見て,そこに何が書いてあるのかは重要な情報だろうということはわかる。私も,自分が存じ上げない方であれば著者紹介を見るし,どんな書籍だろうと著者紹介の部分は読む。

そうはいっても,私はそれを自分で書くのが嫌なのだ。かと言って人に勝手に書かれたものが載るのはどうなのかというと,気持ち的にはそちらのほうが幾ばくかは楽かもしれない。それは,例えば講演で講演者として自分が紹介されるときに,「田村先生は名古屋大学大学院で博士号を取得され….」といった具合に紹介されるのと似たような感覚だからである。

ちなみに,これは人が何を書いているかという問題ではない。誰かが何かを書いているのが気に入らないとか,書く内容の慣例が気に入らないとか,そういうことではない。他の人のことはどうでもいい。これは私の個人的な問題である。

そのようなことの解決策として私が考えついたのが,このブログ記事のタイトルである,「主な著作は,まだない。」なのだ。私のような凡人には,人様にお伝えするような主な著作は「まだない」。そういうのが一つでも書けるように,死ぬまでには,自分で自信を持って,これはぜひ紹介したい,ここで言及したいと思えるような自分の書籍や論文を書けるよう,頑張っている。しかしながら,「今の時点では」,私の業績表にあるものは私が胸を張れるようなものではない。

最近書籍情報がウェブに出たとある本の原稿の著者紹介にも,私は,「主な著作は,まだない」と書いた。「ふざけてんのか」って思われるなら,「ふざけてんのか」と言われる方が良い。そうなったら,「まあはい、さーせんした」となる。ところが,そういうやりとりもなしに,私の著者紹介のうち,「主な著作は,まだない」という一文はしれっと削除されていた。再校のときまでは,特に何もなかった。三校になって,急に削除された。そして,削除しましたとも言われなかった。削除されたということは,それはだめだという判断なのだろうということは理解している。ただし,何の連絡もなく,共編著者の方がお気づきにならなければ,私も気づくことはなかったと思う。

最初は書籍情報がウェブに出たときにそこで削れられていたので,さすがにウェブサイトには載せられなかったのか,と思った。

ところが,実際の原稿でも削除されていたのだ。

これがオリジナル版。
末尾に青い印があるのは,共編著者に促されて他の方々と同じようなことを最終的に書き足したからである。

別に本文じゃないのだけれど,何の相談もなしにしれっと削除するのは、書き手からすると編集者への信頼がゼロになる。正直に言って,もう絶対に一緒に仕事したくないなと思う。こういう書籍を出版させていただいたことには本当に感謝はしています。しかしそれとこれとは話が別。書いている内容(消された内容)がどうこうという問題ではなく,人の書いたものを勝手に削除するという行為が,どれほど侮辱的な行為なのか,こういう仕事に関わっているならそのことをどうかご理解いただきたい。

余談だが,ChatGPTは次のように言っていた。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

[宣伝] 言語テスト学会(JLTA)第26回全国研究大会でワークショップをやります

はじめに

言語テスト学会の第26回(2023年度)全国研究大会(9/9-10 @ 東北大学)で下記のタイトルでワークショップをやります(私のWSは10日午前です)。

Rを用いた一般化線形混合モデル(GLMM)の分析手法を身につける:言語研究分野の事例をもとに

過去の資料について

資料を準備している中で,私自身が最初にLME関係でウェブに上げた資料がslideshareにあり,それが有料版でないとダウンロードできないことに気づきました。そこで,その資料をそのままspeakerdeckにもアップロードしました。

2014年の資料なのでもう9年前になり,かなり古いですが,全く知らない人にとってはわかりやすいのかなと思います。

その後,2016年には下記のテクニカルレポートを書きました。

田村祐(2016)「外国語教育研究における二値データの分析-ロジスティック回帰を例に-」『外国語教育メディア学会中部支部外国語教育基礎研究部会2015年度報告論集』29–82. [リンク]

Rでロジスティック回帰をやる方法についてコードとともに解説したものです。このレポートをベースにしたワークショップも2019年に行いました。

田村祐(2019) 「統計ワークショップ」JACET英語語彙・英語辞書・リーディング研究会合同研究会. 早稲田大学. (2019年3月9日)[資料]

そして,2021年にはこれまでに書いたり話したりしたものよりももう少し違う視点からの講演も行いました。

今回の内容

今回のワークショップは,2019年にやったロジスティック回帰がメインですが,もう少し「泥臭く」,実際に出版された次の論文のデータを使って,下処理のところからモデリングのところまでをやる予定です。

Terai, M., Fukuta, J., & Tamura, Y. (2023). Learnability of L2 collocations and L1 influence on L2 collocational representations of Japanese learners of English. International Review of Applied Linguistics in Language Teachinghttps://doi.org/10.1515/iral-2022-0234 

この論文のデータはOSFで公開されているものですので,どなたでもアクセスできます。

Terai, M., Fukuta, J., & Tamura, Y. (2023, June 7). Learnability of L2 Collocations and L1 Influence on L2 Collocational Representations of Japanese Learners of English. https://doi.org/10.17605/OSF.IO/ZQE56

この研究の分析ではカテゴリカル変数は使っていないのですが,カテゴリカル変数も扱いたいなと思ったので,データは Terai et al. (2023)ですが,論文中に行っている分析とは異なる分析をする予定です。

当日使用する資料は下記のページにまとめています(当日ギリギリまで投影資料は微修正すると思います)。

https://github.com/tam07pb915/JLTA_2023_WS

投影資料を直接ウェブでご覧になりたい方は,下記のURLで投影資料をご覧いただけます。

https://tam07pb915.github.io/JLTA_2023_WS/

一応前半は理論編,後半は実践編となっていて,Rのコードをアウトプットに文章の解説を入れています。ごちゃごちゃして見にくいかもしれませんがご容赦ください。

今回のWSは3時間ですが,たぶんそれだけでは消化不良になると思うので,私が過去に公開している他の資料と合わせて読んでいただくと良いのではと思います。

おわりに

統計関係の話は専門家ではないのですが定期的にお声がけいただき,そのたびに勉強し(なおし)ているような気がします。

仙台までお越しになれないという方も,学会ウェブサイトにて動画が後日公開されるようですので,そちらをご覧いただければと思います。また動画が公開されましたらこのブログ記事にも追記します。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

追記(2023年9月13日)

動画が公開されたようです。前後半に分かれています。