
いつからだろう。人と話すのが苦手だなと感じるようになったのは。昔から人見知りだったのは間違いない。初めて会う人と上手に話をするのは苦手だった。でも,家族と過ごしているときはいつでもずっと自分が喋っていて,そういう意味では「おしゃべり」というラベリングをされて育ってきたと思う。「5分黙ってたらお小遣いあげるから」とか母親に言われて。もちろん黙ってられなかったわけだけど。
学校生活でも,誰かと喋らずにはいられなかった思い出がある。中学の時も,高校の時も,授業中に隣や後ろのクラスメイトと(それが男子でも女子でも)ずっと喋っていてよく注意されていたような気がする。それに,先生の発問に対しても自分が当てられてないのに答えをいうこともあったらしい。久しぶりにログインしたmixiで友達からの紹介メッセージが並ぶページを見ていたら,高校3年生のときのクラスメイトが英語の授業のときにいつも私が答えを言ってしまうことが嫌だったというようなことを書いていた。全然覚えてないけど,そういうことがあっても不思議ではない。
大学に入ってからも,授業中はいつも喋っていたし,1年次のとある授業のとき,温厚で優しい先生(3, 4年次はその先生のゼミにも出ていたし,卒業してからも定期的に食事を行くほど仲良かった)に教室から出ていけと言われたのも今でも覚えている。
でもいつからか,喋らなくなっていったと思う。おそらく私が大学を卒業して以降に私と知り合った人は,私のことを「おしゃべり」と思ったりすることなんてないだろうと思う。いつからか,自分が話すことがつまらなくて価値のないことのように思えてきた。面白い話,価値のある話ができないなら,その話を聞かなくてはいけない相手に迷惑なので話さないほうがましだと思うようになった(それはきっと,自分が面白い話や価値のある話以外は聞く価値がないと心のどこかで思っているのかもしれないと疑っている)。
特に,”How was your day?”みたいな感じで聞かれるのがおそろしく苦手なのだ。なんのへんてつもない日常なのだから,取り立てて会話の話題になるようなものでもないし,それをそのまま話しても何も面白くない。仮に自分が話し相手として聞いたら「へえ〜」としか言いようがないことしかないような毎日だからだ。2011年にTwitterを初めてからは,しょっちゅうツイートしてた。面白くもない話を延々と。それに,毎日の出来事についてもツイートしてた。誰も興味ないのに。それがTwitterだから良かった。自分も若かったので周りなんか気にしてなかった。まあそういう使い方が本来の”tweet”であるべきなのだ。今でもそれなりにツイートする数は多いほうだと思うけれど,昔に比べたらずいぶん減ったと思うし,ツイートしようと思ってやめるということも増えてきたように思う。それでも,人と話すよりはツイートするほうがよっぽど楽なのだ。なぜなら相手からの反応がなくて当然だから。
皮肉なことに,そういう人間が人前で話すことを仕事にしているわけだ(しかもコミュニケーションを重視した授業とかやっちゃってる)。授業中も,あまり自分が話す時間が長くなると苦痛だと感じる事が多い。それでも,そうではない場面(日常生活における会話)よりはさほど話すことに苦痛を感じないのは,きっとそこに権威性が存在しているからだと思う。教員は話すのが当然で,学生はその話を聞くのが当然であるというような。でも本音で言えばそういう権力関係がある状態で話すのは本当に辛い。常に,自分の話を苦痛に思いながら聞いている学生に申し訳ないなと思ってしまうからだ。そうやって話す側と聞く側のパワーバランスがはっきりしている場面で話すのは(そうじゃない場面の会話のほうがむしろ少ないのが普通かもしれないが),メンタルのリソースを著しく奪う。研究発表もそうだし,経験は数えることしかないがセミナーだったりワークショップだったりの講師となるとその傾向がより強くなる。
昔は『スラムダンク』のフクちゃんのように,「もっとホメてくれ」と思っていた。自分という存在が他者からの承認をうけるべきだと思っていた時代があった。ところがいつしか,ゲーム・オブ・スローンズでいう”no one”のほうが心地よく感じるようになった(そこに作中で描かれるような信仰はないにせよ)。自分のアイデンティティを真っ白なものとして生きるほうが楽に感じるのだ。そこには背負うべきものが何もないから。だからこそ,その道を捨てて私はアリア・スタークだと言って自分のアリア・スタークとしての役割(責任)を全うした(自分が自分であることを引き受けた)アリアは尊いのだ(もしゲーム・オブ・スローンズをご覧になっておらず,なおかつ観ようとしている人がいたとしたら唐突のネタバレになってしまうことを大変申し訳なく思う)。
自分が何者でもないと思うことはそう簡単なことではないと思う。誰だって,自分は人から承認されるべきなにかを持っていて,それがこの社会に何かしらの意味を与えていて,それが自分が生きることを肯定する材料になっていると思いたいものだと思う。だって,この世の中でそういう人たちが称賛を受けている,そういう世の中で生きているのだから。だがしかし,本来はそんなことはどうだっていいのだ。世の中の役に立つとか立たないとか,「生産性」があるとかないとか,そんなことに関係なく人は生きる権利があり,人権をもっているのだ。そうやって自分以外の他者をリスペクトすることはできるのに,自分を肯定できないことのジレンマにきっと今陥っているのだと思う。
人と話すことに戻ろう。私はもともと,どちらかというと年上の人といるほうが気が楽なタイプだ。家族の中でも自分が一番下で(2歳年上の姉がいる),昔から年上の人と過ごす機会のほうが年下の人と過ごす機会よりも多い中でずっときたこともあるかもしれない(近所に年上の人が多くいたのと,家族ぐるみの付き合いがあったのが姉と同い年の家族だった)。高校,大学と,上下関係がより強調されるような環境で自分が上になったとき,あまり年下とうまく人間関係を築くことができなかったし(高校にいたっては年下とほとんど接点がないといっていい),苦手だからそういうのを避けてきたと思う。大学のときはそれでも何人か仲良しな後輩もいたかもしれない(専修の中では何人か思い浮かぶ。どちらかというとサークルの後輩は親しみやすい子が多くて自分も楽しかった記憶が多い)。大学院でも,先輩とうまくやるより後輩とうまくやるほうが難しいと思っていたし,結局あまりうまくやれなかったと今でも思っている(自分の先輩が偉大すぎたという言い訳くらいしてもいいはずだ)。
本当はつまらない話をしたっていいし,面白くなくたっていいし,たわいもない話こそが人間が本当に必要としてる会話なんだと思う。そのはずなのに,たわいもない話をするのが苦手なのだ。きっと昔は,人がどう思ってるかなんて何も考えずにしゃべることができたし,周りも聞いてくれたから自分が喋りたいように喋っていただけなんだと今になっては思う。その結果として,話を聞く側に対する想像力がほとんど育たなかったのだ。だからこそ,自分の話を相手が聞いた時にどう思うかがわからなくて,問題が起こることが増えた(問題が顕在化することが増えたという方が適切かもしれない)。オトナになると(本来オトナコドモ関係ないんだが),自分が喋りたいことだけ喋っていればいいようでもなくなってくるから難しい。そのことが,自分がなにかを話したところで相手は「へえ〜」しか言うことないよねで片付けてしまうような思考回路になってしまっている要因かもしれない。
とはいえ,「くだらないことだって話していい」は世の中でそこまで受け入れられてないのかもしれないと思ったりもする。だからこそ,お金を払ってどんな話(それでも許容範囲はあるだろうが,他の場所よりは許容範囲がおそらく広いと思われる)でも聞いてくれる場所に足繁く通うオトナがいるんだろうと思う(典型的な例がキャバクラ)。きっとそういう人は,聞いてもらえる感覚がない(不特定多数に発信する)ようなツイートでは満たされることはないのだろうなと思う。別に軽蔑ではなくて,むしろ気持ちはよくわかるなと思う。おそらく20代前半くらいの若者だったときは,お金を払うなら性的サービスが受けられるところにいくでしょって思ったと思う(そういう経験は人生で大学生のときの1度きりしかかないが)。むしろ,性的サービスですら,お金を払わなくても女性を口説けば事足りるのにって思っていたと思う。
私は88年生まれの33歳だが,今同じことは思わない。それは金銭感覚が学生のそれとは違うというのも大きいだろう。時間的コストをお金で買えるという考えになったといってもいいかもしれない。しかしながら,それと同時にあのときはなぜそんなエネルギーがあったのだろうとも思ったりする。若いってすごい。純粋なスポーツテストで測定されるような「体力」ではないようなエネルギーがあった。今はない。だから,自分よりひと回りも(場合によってはふた回りも)年上の人がギラギラしてるのをたまに見かけたりすると,最近はすごいなと思うようになった。その年でもそんなエネルギーあるなんてすごいですねって。リスペクト。それこそが「生きるチカラ」なんじゃないかと思わざるを得ない。
私にはそういう「生きるチカラ」なるものが欠けていると思う。それに加えて,自分という人間の人生について,それが自分だけのものであるという妄想も抱かないようになった。むしろ全くの逆で,自分の人生は他者の存在なしにはありえないものだと思うようになった。自分が生きているのは自分の意志ではないとすら思うくらいだ。自分の意志だけで生きていけるほど強くない。少なくとも自分はそんな超人的な精神力を持ち合わせていない。自分が死んだら困る人がいる(悲しむかどうかではなく困るかどうか)だろうなと思うから,まあそれなら生きてるほうが世の中のためかと思う。
こんな話も,誰か人にするもんじゃないからここに書いている。
なにをゆう たむらゆう。
おしまい。
