教育と研究と学問と

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はじめに

以前,「なんでゼミやるの?」というブログ記事を書きました。それに関連するような話かなと思います。もしかすると,どこかに以下に書くようなことと同じような意見が書いてあるかもしれません。それを私が昔に見たことがあって,そのことが自分の思考を形作っているのかもしれません。ただ,一応自分の頭で今考えた(と思っている)ことを,今の自分の言葉で書きます。

最近,学部のこれからをどうするのかみたいな話が会議の話題にあって,それ以降ぼんやりと考えていたことを書こうと思います。自分の中で結論が出ていたりするわけではないのですが,書くことで考えをまとめようというような意図で書き始めています。話が大学教育というような大きな語り口になっていますが,基本的には私の所属先のことを念頭において書いています。

教育と研究は別?

よく,「研究大学」というような言葉である特定の大学を指すことがあります。国内の大学の中でも研究をリードしていく大学というような意味合いで使われると思います。じゃあそういう大学は教育はやっていないのかというとそういうことではなく,そうした大学でも教育は行われているはずです。一方で,私の所属先は人によってどういう形容をするかは変わるでしょうし大学を偏差値的な意味でランク付けする発想も好きではないですが,二流私立大学とか中堅私立大学とか言われるようなところだと思います(有名私大という呼び方もあるかもしれませんね)。で,そういうところでは研究だけやってればいいわけじゃなくて,教育もしないといけないみたいなことが話として出てくると,そういうことなのかな?と思ってしまいます。ここでは教育というのを授業(または授業の体系としてのカリキュラム)として考えています。そうしたときに,授業っていうのは研究に基づいているものなのではないのかなと思うわけです。

教育というのを学生目線で「社会」に出て役に立つようなものとか,就職に役に立つようなものとかっていうふうに考えてしまうと,それは大学の,そして大学教員の価値や立場を自ら貶めるようなことにつながってしまうのではないかということを少し危惧しています。私たち大学教員がやるべきことは,というか私の所属学部の教員のような人文系の研究者がやるべきことは,自分たちが授業で扱うことがどうやって社会人になったときに役に立つかを語ることではなく,私たちの学問はこんなに面白いし,学問に真摯に向き合うことそれ自体に意味がある,そしてそのことは君たちの今後の人生を豊かにする,ということではないでしょうか。

就職も大事だけど

学部,ひいては大学としては,卒業していく学生たちが「社会」で活躍することを対外的に示したいというのは現実的な話として理解できます。そして,それがいわゆる就職率だとか,就職先の企業名だとかいうものにわかりやすく現れるのだということも理解できます。そして,大学についての評価を下す側の人たち,そして大学を選ぶ側の人たちも,それを一つの判断材料にしているという現実も大いにあるでしょうし,そこを一切無視していては大学の運営は成り立たないでしょう。しかしそれはあくまで「建前」的なものであるということを教員が思っていなければ,入ってくる学生も,そして在籍している学生も,それが大学に求められることであるという態度でカリキュラムをこなすのではないでしょうか。

「就職」というものをゴールとして設定することは,その先の学生の人生については君たち次第だという突き放した態度のようにも思います。今は,最初に就職した先でずっと退職まで働き続けるような時代でもありません。最初に就職した先が名の知れた「良い」企業であればその後の人生の幸せが保証されるわけでもなければ,就職が決まった時点ではその学生が満足していたとしても実際に働いてみたら全然幸せではなかったということだって当然のようにあるはずです。

また,就職がうまくいかなければ「失敗である」というメッセージを暗に学生に伝えてしまうことになるような気もしています。私は,それはあまり好ましいことであるとは思いません。それは,ある意味では先の見えない不安な状況に学生を追い込むような面もあるかもしれません。そして,そのことは一見すると学生に意地悪をしているように見えるかもしれません。

しかしながら,私たち大学教員が伝えなくてはいけないのは,「そうじゃないんだよ」ということです。そういう不安な状況とか,先の見えない不安とか,あるいはある意味での人生の挫折を味わうような状況になってしまったときに,そこで自分で考え,決断をし,そして勇気を持って自分の人生を切り開いていけるようになってほしいということではないでしょうか。

長い目で見たい

大事なことはもっと長いスパンでの学生の人生の幸福です。大学で学ぶことというのは,そういう人生の財産となるべきものではないでしょうか。というよりも,教育というのはそうした営みのことではないでしょうか。どのような学校種であったとしても,出口のすぐ先の未来だけを見据えるのではなく,その後に続く長い人生のことを見据え,そして願わくばそこを見つめさせることができるような場所が教育の場であってほしいと思います。理想論だという一言でこのことを片付けてしまうのは簡単ですが,それでもそうした理念的なことを大真面目に語ることが教育者としての役割だというようにも思っています。

それをやめてしまったら,「社会」から要請されるままの,そして「政治」から要請されるままの機関になってしまうような気がします。それは本当に大学のあるべき姿なのかというと,私としてはそうでないと言いたいです。

外国語学部ならではの問題

はじめに言及したブログの過去記事の中でも書きましたが,私の所属する外国語学部という組織自体が,文学部との差別化という側面も(おそらく)あって,いわゆる実学的な側面を組織のアイデンティティとして持っているという点は無視できないと思います。

5つあるプログラムの中で「通訳・翻訳プログラム」が最も人気があるのは,学生にとっても役に立ちそうな感じであるとか,それが自分のキャリアに直結するというイメージがしやすいことが要因ではないかと思います。ただし,そのことは通訳・翻訳のプログラムがただただ通訳や翻訳のトレーニングであるということではないはずです。あくまで大学で開講される授業であり,通訳も翻訳も研究があるわけです。担当する教員もそうした研究に基づいて授業をそしてプログラムとしてのカリキュラムを作り上げているはずです。

言語教育プログラムも達人技とか現場で役立つスキルだけを授けるわけではないでしょう。言語を教えるには言語そのものの知識も必要ですし,言語の学習に対する理解も必要です。そしてこれらのことも研究に基づいた蓄積があるわけです。それらをすべて理解させ身につけさせなければいけないとは言いません。しかしながら,ただただ外国語の運用能力があがればそれで「外国語のプロフェッショナル」だなんていう考えをぶち壊し,上っ面だけの異文化理解とかではない学問の世界を学生に見せつけることが外国語学部の教員の使命であるように思います。

4年間全力で学業に励んでもまだまだこんなにも知らないことがあり,そのことを胸に卒業後も学び続けられる学生を私は送り出したいです。そして,学び足りないと思ったらいつでも研究科に「戻って」学べるんだよということを伝えたいです。学びたいという欲求を全力で受け止める環境を私たちは用意していますよと。もちろん,うちの研究科でなくてもどこでもいいですし,学ぶ続ける場所が研究科(大学院)である必要もありません。どこかの学部に入り直したっていいでしょうし,海外の大学に行くことだってアリだと思います。

おわりに

本当は,私の所属先の看板である留学プログラムについても書こうと思ったのですが,それはそれでまた長くなりそうなので,またそれについて考えがある程度まとまったら別の記事で書こうと思います。かといってこの記事がまとまっているのかというとまだまだ消化不良な部分もありますが,今の私の考えとしてここに記録として残しておきたいと思います。5年後,10年後に(どこで何やってるか,生きてるかはわかりませんが),もしこの記事を私が見直したらどんなふうに思うのか,若かったなぁあの頃は思うのか,それを楽しみにしたいと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

2021.10.18 訂正

通訳・翻訳プログラムが最も人気のあると書きましたが,実際には最も人気があるのが異文化コミュニケーションプログラムでした。お詫びして訂正します。

教育と研究と学問と」への1件のフィードバック

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