はじめに
学内の広報誌に原稿を書きました。字数の制限があったので,結構削って以下のツイートで言及していただいているような文章になりました。
記事執筆の構想は,主にツイッターにいくつかつぶやいたことがもとになっています。
迷惑と寛容さ
政治的なことと社会の「雰囲気」
初稿
削る前の初稿は以下のとおりです。
私の専門は第二言語習得と言われる分野です。人間は,障害があるなどの場合を除いて第一言語の獲得に失敗することはありません。この文章を読んでいる方も,私の書いた日本語の文章を理解することにほとんど苦労することはないと思います。しかしながら,第一言語を身につけたあとに学習する第二言語(日本で生まれ育つ多くの人にとってはおそらく英語)の学習は,私達が日本語を身につけたように英語を身につけた人たちのようにはなかなかなりません。そして,なかなか身につかない英語に対して苦手意識をもったり,英語を使うときに間違うことを恐れるようになったりします。しかしながら,どのような言語を身につける赤ん坊や幼児であっても,言語を身につける過程で誤りを犯します。誤りを犯しながら,ときにはそれを周りの大人から(優しく)修正されながら(大人は修正しているという意識すらないこともあるでしょう),ときには自然と,言語の知識を身に着けていくのです。そのことに対して,間違ってはいけないと厳しく叱りつけたりする大人はいないはずです。言語の習得,もっと言えば広く学習とは誤りを犯しながらも知識を拡張していく営みだからです。
翻って,学校で英語を学んだ(多くの)人達は,子どものように間違いを犯せなくなります。間違ったら恥ずかしい,間違ったら怒られるという意識が出てきてしまうからです。考えてみると,間違うこと,失敗することに対する否定的な考え方はなにも英語に限らず,社会のあらゆる場面にはびこっているような気がします。学生の皆さんでいえば大学受験に失敗すること,就活に失敗することは避けたほうがいいことだと思う人が多いでしょうしょう。大学を卒業してからも,就職してすぐ会社を辞めることを否定的に思う人が多いと感じる人が(実際に否定的な考えのヒトが多いかはともかく)多いでしょうし,結婚をして,その後離婚をすることになった人についてもネガティブなイメージがつきがちです(本当は我慢して婚姻関係を継続している人より「バツ」のついた人のほうが幸せかもしれないのに)。
人間は,失敗して,そこから学び,そして成長していくものですし,人生とはそういうものだと思います。それなのに,社会は周りと同じペースで同じステージに進まなかった人に対してあまりにも否定的すぎると思います(結婚はまだか,子どもは作らないのか,みたいな発言も,言っている人は善意だったり相手を心配しているのかもしれませんが,そもそも「世間一般」と違うことを心配するんじゃあないよと)。私が死ぬまでには,もう少し失敗すること,そこから学びを経て前に進もうとする人に優しい社会であってほしいと願っています。
なにをゆう たむらゆう。
おしまい。
