「英語を使う必然性」の呪縛

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はじめに

もうかれこれ2ヶ月前くらいですが,大阪府の英語コーディネーター連絡会というものでお話する機会をいただきました。その準備をしながら,また関係者の方々とお話をさせていただく中で思ったことをブログ記事にまとめようとして,下書き状態のままずるずるとここまで来てしまいました。

実は学会のようなイベント以外でお話するというのは今回が初めての経験でした。学校英語教員を目指していた私が偉そうにこういうところに呼ばれてお話するようになったのかと思うと,権威性が自分の意図とは関係なくまとわりついてしまうものなのだなとも思いました。そこに自覚的でなくてはいけないなと。

そのお話の中では,タスクの定義というレンズを通して様々な活動を見てみることで,その活動に何が足りないのか,どういう目的でその活動が行われるのかといったメタ的な視点が手に入り,それが授業内の活動を設計するために有用ではないかという話をしました。関連して,真正性(authenticity)という概念をとりあげ,コミュニケーション場面の具体性(その場面を学習者が将来的に経験する可能性があるかどうか)を過度に重視する必要もあまりないということも述べました。

打ち合わせをする中で,「英語を使う必然性」というものが強く求められているような状況があり,そこに苦労されている先生が多いということも伺いました。私の答えは以下に述べるとおり,コミュニケーションの必然性,は大事であっても「英語を使う」必然性に拘る必要はないかなというものです。

英語を使う必然性とはなにか

英語を使う必然性というのは,「なぜ英語でそれをやるのか」ということであるのでしょう。連絡会前の打ち合わせでも「それって英語でやる必要ないよね?日本語でもよくない?」というようなことが話題にあがるという話を聞きました。そもそも,日本のような外国語として英語を学ぶ環境では,「英語を使う必然性」というのは教室外ではないに等しく,教室の中で英語を使う必然性というのは,「英語の授業だから英語を使う」以外に設定できないと思います。そもそも,日本語話者同士で英語でやりとりするわけですので。

必然性の重視は実用性論争にもつながる

それって英語でやる必要ある?は悪手

この問自体が少なくとも日本の学校教育における英語教育ではあまりいい問ではないと思います。英語教育の存在自体を自明視するという文脈であればまた別の議論になると思いますが,教室内の活動の質を高めようという営みにおいては大事なことはそこではないというのが私の考えです。

必然性が実用性につながってしまう

学校教育に対して実用性を求めるような人たち(最近で言えば三角関数の話)への反論で,実社会における実用性の過度な重視に反論するような人たち)でも,英語教育においては実用性を求めているのではというようなケースも見られる気がしています。最近(と言っても書いたのはこの記事を公開するよりもだいぶ前なんですけど)英語教育で道案内とかやるよりはウェブ上で(例えばYouTubeで)自分の手に入れたい情報にたどり着けるかどうかとかそういうほうが実用性高いと思う,というようなTweetが私のタイムラインに流れてきたりもしました。その比較でいえばそうかもしれませんが,だから授業でそれをやればよいかというと,そういうわけにもいかないと思います。

学校教育の内容が実用性という観点のみにおいて構成されることは結構危ういと思うからです。誰がその実用性を決めるのかという問題がありますし,その実用性が学校教育を受ける世代が「社会」に飛び出したときに実用性があるかもわからないからです。教育がもたらす恩恵というのは,変化の激しい社会においても揺らぎができる限り少ないものを対象にすべきであるのではないかと思いますし,変化が激しいからといってそれに合わせて頻繁にコロコロと内容が変わるべきものでもないような気がします。そう考えれば,今の世の中で必要になっているものがこの先も同じ程度に必要であるとは限りませんし,未来にどんなものが必要になるかを私達は予想することはできません。

その観点で言えば,道案内もYouTubeの動画検索も学校教育における英語教育の目標として適切であるというようには私は思いません。私たちが現実にその具体的行動を英語を用いて行うことがあり得るか,そしてそれができるように学校教育における英語授業の活動が構成されるべきか,とは思わないということです。むしろ,一見するとそんなことは私たちの実生活では起こりようがない,というような活動の背後にある,あるいはそこで発生する言語使用を抽象的なレベルで観察したときに,そこに私たちが日常的に行う言語行為に近似したものが含まれているのかどうか,ということを考えるほうが有用だと思うのです。

真正性(authenticity)という考え方

2つの真正性: 状況的真正性(situational authenticity)とやりとりの真正性(interactional authenticity)

やりとりの真正性とは,その行為自体が現実には起こり得ないとしても,そこで発生する情報のやりとりであったり,言語を使用する際に頭の中で起こることが,現実場面のものと同じ(または限りなく近い)ということを意味します。Michael Longは前者を重視する立場で,Rod Ellisは後者の役割も認める立場で,私個人的にも後者の立場です。なぜなら,言語学習の明確な目的を設定できるような場合以外ではsituational authenticityを重視したタスクを中心に授業を計画することの妥当性が疑われるからです。

状況的真正性を過度に重視することの妥当性

なんらかの職業訓練の一環としての言語教育などは,言語の使用場面が非常に限定的であり,学習者が身につけるべき言語能力も基本的にはそうした場面で適切に言語を使用して業務を遂行できるためのものになります。しかしながら,日本のような英語を外国語として学ぶ環境で,なおかつ学校教育において行われる英語教育では学習者全員が身につけるべき具体的な場面における言語使用を定義することがほぼ不可能であるといえます。したがって,そうした場面を考えるよりもむしろ一段階抽象度をあげて,描写する,比較する,説得する,説明する,順位付けをする,取捨選択をする,などの行為が含まれるようなタスクを考えるほうが現実的でしょう。

「必然性」を活かす手はある

ここまで,英語を使う必然性というのはあまり有用ではないというスタンスで述べてきましたが,私が批判的に考察したのは必然性に縛られすぎることで,その英語を使う必然性というのを活かすことはありえると思います。その一つがALTの活用です(人という存在に対して活用というのはあまり良くないかもしれないですが他に表現が思い浮かびませんでした)。ALTは多くの学習者たちにとっておそらく唯一コミュニケーションの際に英語を使う必然性の生まれる存在だと思います。その特性を生かして,ALT相手に何かをプレゼンさせたり質問させたりするような仕組みを作っている方も多くいらっしゃると思います。仮にALTは日本語であったり,あるいは日本語話者が犯しがちな誤りが発話に含まれていても理解できたとしても,”What do you mean?” “What does X mean?”などと聞き返してもらうようにすることも不自然ではありませんから,そこにnegotiation for meaningも生まれるでしょう。下記のanf先生の記事で紹介されているのはそうした活動かと思います。

目的・場面・状況

少し関連するかもしれないのが,学習指導要領のキーワードにもなっている「目的・場面・状況」というワードです。外国語科の目標に入っている文言ですね。個人的には,「目的・場面・状況」というのがセットになっていると活動の構想が難しく,あえてそれらの文言を使うとすればまずは目的を先に設定し,そのあとに場面と状況を考える,というようにすることが多いです。具体的には次のような手順で活動を構想するのがやりやすいと思っています。

  1. タスクタイプ(e.g., 情報伝達,情報合成,問題解決,意思決定,意見交換)を決める
  2. タスクの目的(goal)を決める(e.g., 順位付けする,選択肢の中から選ぶ,アイデアを生み出す)
  3. 場面と状況を決める
  4. 実施形態を決める

1と2は一緒に考えることになる,または2が先に来ることもありうるかと思いますが,私はまず最初に,「教科書の今回のユニットの内容は意思決定タスクでやろう」のように決め打ちしてまうことが多いです。そうすると,必然的に考えなくてはいけないことが狭まるからです。そのタスクで求められることに合わせて場面を構成していくほうが,それらを全部合わせて考えるよりも楽だと思っています。意思決定タスクに決めたら,次はどのような意思決定をさせるのかを考えます。年老いた父親の介護という問題に直面している夫婦の話(私が担当している授業の一つで使っているImpact Issues2のUnit 9にでてきます)であれば,この夫婦に対して何かアドバイスを考えてメールを書く,ということをタスクのゴールに設定したとしましょう。そこが決まったら,場面と状況を考えます。夫婦たちとの関係性はどうなのか(友人,親族,隣人,etc.)とか,教科書には描かれていない夫婦の背景的なところ(e.g., 親との関係性,夫婦の家族の状況,etc.)とかを考えるわけです。仮にその年老いた父親が自分の父親でもあるという設定(これでも自分が長女・長男なのかどうかで随分話は変わりますけど)であれば,親の介護の問題は他人事ではなく自分ごとになります。一方で,いくら仲良しでも友人としてアドバイスを,ということなら,家族の問題は非常にセンシティブな問題ですから,そこに対してのアドバイスは相手から求められていてもかなり慎重さが求められるはずです。

しかし,そのような場面や状況の設定は,あくまで最終的なゴールである「アドバイスをする」という部分を変えるわけではありません。あくまで,どのような内容を伝えるか,それをどのように伝えるか,に変化を与えるいわば「設定」の部分なわけです。前述のように,そしてまた以下のスレッドで亘理先生が指摘しているように,そこが曖昧であればタスクに取り組みにくくなるのは当然です。

設定の部分をタスクに実際に取り組む学習者の想像に委ねてしまうことになるわけで,まずはその想像しないといけない部分をペアやグループですり合わせる作業が必要になるからです。もちろん,そこをプレタスクとしてしまうのも一つの手ではあると思いますが。例えば,うちのペアはこういう関係性の友人としてのアドバイスです,とか,うちのペアは自分が怠け者長男で,妹が介護を引き受けようとしているという設定にしました,とか。そのうえでタスクに取り組ませれば,友人なのでこういうところに気をつけました,とか,怠け者の長男にもこれこれこういう事情があって….というように様々な場面や状況で学習者は言語を使うことになるでしょう。そして,そのバリエーションの差によって生まれる言語使用の差を取り上げて形式面に着目させるのも一つの授業でしょう。

少し脱線しましたが,場面と状況が決まったら実施形態を決めます。ペアでやるのか,グループでやるのかというのもそうですし,準備は何をどのようにどれくらいの時間をかけてやらせるのか,タスク後にはどんなことをさせるのか,というようなことを考えるわけです。タスクを考える,そしてゴールを決める,そのあとに場面と状況を決めるというのが私がいつも授業を考える道筋です。タスクを考えるほうが楽,というのはもちろん私のドメイン知識に依存する部分も大きいとは思いますが,本当にそう思っています。そして,「思考・判断・表現」をどうするかということを考える上では,タスク(タイプ)を考えることから始めるというのは一つのストラテジーでありなんじゃないかな,ということですね。下記のツイートで言いたかったのはそういうことでした。

おわりに

なんだかタイトルからだいぶ脱線してしまいました。記事を書き始めたときから2ヶ月近く経ってしまったからですね。ただ,後半部分の話は先日の学会のときのTwitterでのやりとりをきっかけに考えたことでもあるので,学会をきっかけに思考が刺激されるという体験は結構久しぶりだったな,なんて思ってしまいました。良くないですね。このブログの記事の更新スピードも下がっていますが,まだいくつか下書き状態の記事があるので,また時間をみつけて記事を更新していきたいと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

「英語を使う必然性」の呪縛」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 2022年の振り返り | 英語教育0.2

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