はじめに
Querie.meでいただいた質問シリーズ。質問はタイトルのとおりです。「もしも」の話だというのは当然理解した上で以下の回答は書いていますが,真面目に考えすぎたかもしれません。
回答
私は自分が担当する授業の中に,語学,講義科目,ゼミ,という3つの種類があります。よって,語学の担当がない大学教員の方と私では,大学の授業に対する考え方や,あるいはどのように大学教員の仕事を捉えているか,自分の大学教員としての今後のキャリアに対する考え方も違うのかなと思います。
何が言いたいかというと,「授業だけ」といったときに,それが語学の授業だけなのか,講義科目だけなのか,ゼミだけなのか,またはいずれかの組み合わせなのか,色々なパターンが考えられますよね。よって,「授業だけ」と言ったときのイメージって人によって違いそうだなということです。また,「だけができる」というのを私は「それしかできない」と読みましたので,授業だけしかできない(研究はやりたくてもできない),研究だけができる(授業はやりたくてもできない),という環境は,大学教員という職業を前提に考えたときには前者はあっても後者は少なくとも私の分野ではないのではと思います。
さらに,前者の場合でもその場合の「授業」というのは語学の授業のみを指すことがおそらくほとんどで,講義科目やゼミだけしかできないというのはありえないのではないかと思います。もしそういうのがあるとしたら,それは授業だけしかできないのではなく,「研究はできるけれども授業だけしかやっていない」ということでしょう。そして,私はそうなっちゃいけない,なりたくないと思っています。もちろん,勉強と研究は違いますから,めちゃくちゃ勉強すれば良い講義はできると思いますが,それをする意欲や時間はあっても研究をする意欲や時間はないっていうのはあまり想像できません。さらに,ゼミとか研究の指導とかをするのであれば,研究をやっていないのに研究の指導をすることはできないのではと思います。
したがって,私は英語教員としてのアイデンティティはありますが,英語の授業だけをやっていればいい環境があったとしても,そちらは選ばないと思います。英語だけ教えるのでいいのであれば,この職業を選んでいないというか。最初の動機というか,学校教員にならなかった理由の一つとしては,自分には授業以外の部分の教育活動が向いていないと思った(つまり,授業を中心にやっていたかった)という部分が大きいです。しかしだからといって,英語を教えることだけをやりたいがために博士課程までわざわざ行きませんよね。
それはやはり,自分には研究者としてのアイデンティティも備わっているということだと思います。また,研究者というのは研究コミュニティの維持と発展というのも仕事の一部だと思っています。そのためには,研究コミュニティに参画する人を増やしたり,そのコミュニティに属する人たちの知識やスキルを上げていくことにコミットすることも必要になると思います。そして,教育というのはまさにそこに繋がる仕事だと思っています。したがって,教育はできないけど研究だけはできる,という状況は,研究者としての仕事の一部を奪われているとも言えるのではないかと私は思います。
(私の分野の)世界的に有名な研究者をどれだけ思い浮かべてみても,その人達って絶対にそこで学生を指導して,そしてその人達がまた活躍していく,そういうところに絶対いるように思います。派閥的なことになっていくとそれが良いか悪いかみたいな議論も出てくるかと思いますし,そんなことあんのかよっていう話を聞いたこともないわけではないですが,ようするに研究だけじゃなくて教育活動もやってるよね,ということです。分野の特性ももちろんあるでしょうけれども。
さらに,自分に研究者としてのアイデンティティがあると言っても,それだけで今と同じ待遇を得られるほど研究者としての才が秀でているというようにも思えません。となると,やはりそれ以外の部分での自分のスキルも生かすことのできる仕事だからこそ(裏を返せば授業をやらなければいけない仕事でもあるからこそ),今の待遇で仕事をできているのだろうなと思います。
ということで,一言でまとめると,どっちも選びたくない,選べない,ということですかね。どちらかを選ばないといけないとしたら,相当な覚悟を持っていずれかを選択することになるだろうなと思います。
なんだか回答しているようで全然回答になっていないかもしれませんが。とりあえずこんなところで。
質問したい方はどうぞ。
https://querie.me/user/tam07pb915
なにをゆう たむらゆう。
おしまい。
