サッカーでは手を使わない,というたとえについて

はじめに

下記のツイートについて,補足が必要だったかなと思うので,補足です。人の名前を出していますが(私のアイデアではないので引用であることを明示したつもりでしたが),それで誤解を招くと引用元の松村さんにも迷惑がかかるので説明します。

タスク中の母語使用についての話

もともとの文脈はタスク中の母語使用の話です。タスクをやらせても母語を使ってしまうことがあって,それではタスクの意味がない,じゃあどうするか,というときに,サッカーの例えを学生に伝えているという話です。

英語の授業でタスクが行われるとしたら,その目的は英語が上手になるために必要なことで,それは英語でやることに意味がある。だから,英語でやるんだよっていうことなのですが,それはサッカーでも同じことだよね,と。サッカーというスポーツの競技力を向上させる目的で行われるゲーム形式の練習において,足だとうまくボールがコントロールできない,思うようにパスやドリブルができない,だから手を使う,そういうことはしないはずだよね。それじゃあいつまで経ってもサッカーはうまくならない。だから,難しいと感じる部分もあるかもしれないけれど,今できる自分の精一杯を英語でやってみよう。

こんなふうに学生に伝えたらどうかということです。これは「大体こんな意味」ということから私が言語化したものなので,もともとの松村さんの発言に正確ではないかもしれませんが,内容的には外れてないと思います。

冒頭のツイートの文脈

で,私が冒頭のツイートをしたのは,本日行われたLET62における全体シンポジウムの中で議論になった英語でやりとりする必然性の話題の派生です。

教室の中で,日本人である学習者同士が英語でやりとりをする。このことに必然性がない。「なぜ英語でこれをやらないといけないの?」となる。よって,英語でやりとりすることが自然であるような目的・場面・状況を作らないといけない。みたいな話。

それに対して私は,英語でやりとりする必然性を過剰に心配する必要はなくて,これは英語の授業で,これを英語でやることに意味がある,それが英語力を向上させるために必要だから,でいいじゃないですかという思いで,「必然性はいらない」とツイートしました。そのあとに,冒頭のサッカーの例えを出したわけです。英語でやらないといけない理由を説明する際に,サッカーで例えるということですね。

というご意見も頂戴しましたが,「なぜ英語でやらないといけないのか」という問いが出てくるっていうのは,「目的・場面・状況」が設定されていないからじゃないはずだと思っています。もし仮に学習者がそういうことを言うのであれば,それは英語学習自体をやりたくないと思っているはずで,「目的・場面・状況」を整えれば「これは英語でやる意味がある」と考えて活動を英語でやるようになるわけではないでしょう。つまり,問題は学習意欲の問題です。だとしたら,どうやって英語学習へのモチベーションを上げるかを考えるべきだと私は思います。その仕掛けづくりですよね。登壇者の一人である奥住先生は,必然性がなくても,なにか言いたいという気持ちを活動の仕掛けによってうまく刺激できたら,英語でやる必然性なんか考えずに英語使いますよ,とおっしゃっていました。

試合やろう

また,サッカーのたとえについて,教室内で試合の状況を作るのは難しいのではないかという反応もありました。

私は,「難しいと思う人がいる」と書きましたが,「できない人がいる」とは書いていません。むしろ,難しいと思う人もいるだろうけどそれは信念の問題だと思います。その意味で,「誰でもできる」と思いますね。

「合う」・「合わない」という話はこの問題の本質とは関係ないと思います。もちろん,教育というのは何かを選択した際には必ず排除される存在の学習者が生まれます。ただし,それはどの指導方法を選択しても同じです。「試合はできない」と思う人がやる授業も,「試合はできる(しやったほうがいい)」と思う人がやる授業もそうです。割合の話にすると,少なければいいという話になりますが,もしも排除の問題にするのであればそれは割合の問題では解決できません。というか,そういう捉え方は悪手だと思います。少数であればいいだろうという考え方になるので。少数でもだめなんだけども,そのことに自覚的であるかどうかというのが問題です。

話がズレましたが,試合をやるかどうかという問題は,私にとってはサッカーの試合(11 vs. 11ではなくとも,決められた範囲のフィールドがあり,ゴールがあり,そこにボールを入れると得点となり,得点の多いほうが勝つというルールのゲーム形式の練習)をやらずにサッカーがうまくなるようにする,ということだと思っています。で,その時に,例えばですけどいわゆるオン・ザ・ボールの技術の未熟さがあったらゲーム形式の練習しないのかってことなんですよ。みんなそれぞれのレベルで,それなりに,サッカーというスポーツに取り組んで,その中で色々ことを経験して,うまくできたことに喜んだり,うまくできなかったことに悔しがったりするんじゃないでしょうか。そりゃ運動が苦手な子もいるわけですけどね。

で,その,「ゲーム形式」に合う,合わない,とかあるんでしょうか。カギカッコを使用されているのでそれが意味するところがよくわかりません。

人数の話

「タスクじゃない授業でも一緒」と書かれていますが,本当にその通りで,だから私は信念の問題と言いました。私は性善説の立場なので,基本的に学習者のことを信じています。みんなできるはずだしやるはずだと思っていつも授業をしています。講義型の授業でも,私の話に耳を傾けてくれると信じて一生懸命話しています。もちろん,現実には一定数engagementが低い学習者が教室にはいるでしょう。ただ,私はやらない学生がいる覚悟がいると思ったことは基本的にはありません。

もちろん理想は全員が高いengagementを示すことなわけですが,でも多様な学生が教室の中にはいていいはずなので,多少engagementが低い学習者はいても仕方ありません。教室の中の人数が増えればそういう学習者の発見が難しくなることは容易に想像できますけど,だからといってクラスサイズが小さくなったらengagementの低い学習者がいなくなるわけではないですしね。ただし,私は良いタスクであれば,engagementの問題をかなりの程度解決できると思っています。やり方の問題じゃなく,コンテンツの問題ですね。

おわりに

個別に返信するのめんどくさくなった大変なのでまとめてブログに書きました。

締めの合言葉を書こうとして,今日の学会で「ブログ読んでます」と声をおかけいただいたことを思い出しました。眠い。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

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