はじめに
11月4日(土)に開催された2023年度外国語教育メディア学会(LET)関西支部秋季大会のシンポジウムに登壇したので,その雑感みたいなものを忘れないうちに(その日の夜はほぼ記憶を失いましたが)メモしておきたいと思います。私の資料はウェブに公開しているので,下記から御覧ください。
この資料の中のメインの話は以下の2つの書籍を読めばほとんど書いてあることなので,詳しい話はそちらをお読みください。
特に,私の話は結構端折っているので,本を読んでいただかないとつながりとかも分かりにくくなっていしまっていると今になって反省しています。
ちなみに,下の本についてるAmazonのレビューは全く参考にならないので,レビューでこき下ろされているからといって買うのを躊躇しないでください(このブログ記事を読む人が私のこの記事の内容とAmazonのレビューで後者を参考にするとは思いたくないですけど)。
全体をざっくり
司会の浦野先生をはじめ,南先生,私と,3人とも言いたいことが結構あったなと思いましたし,それぞれに違うポイントを強調されていたのが(当然ですが)よかったなと思いました。浦野先生は,司会だから抑えめにされていたと思いますが,学会誌の投稿基準の話や追試,外的妥当性・内的妥当性の話など,外国語教育研究の大きなところの中で重要なところをピンポイントに指摘されていた印象です。南先生はとにかく実践研究を広めたい,もっと多くの人に実践研究に取り組んでもらうことで実践も研究も状況が良くなるという信念があるように感じました。
機材のトラブル等があって最後のディスカッションの時間が短くなってしまったことや,オンラインで参加された方に議論を届けられなかったことが非常に残念でした。あと何より私が残念だなと思ったのは,登壇者の南先生がマイクを持って質問者のところに行っていたことです。あれ,南先生がいい人だから自然と身体が動いてそうなりましたし,私も最初マイクを持って走り出そうとして南先生とぶつかりそうになったのですが,あの場にいた実行委員(運営委員を含めても良い)の中の誰もがその役割(シンポジウムを回す役割)を積極的に担おうとしなかったことは,端的に言って登壇者に失礼だったと思います。参加者としてあの場にいたから意識が向かなかったのかもしれませんが,さすがにシンポジウムの登壇者がやることではなかったと思います。そのこともあってか,南先生が議論になかなか加われていませんでした。私も登壇者だったのでなかなか南先生の代わりに誰かとその場で声をあげるほどの頭の余裕がその時はなくて何もできなかったのですが,後から冷静に振り返るととても心苦しかったです(途中から誰かが変わっていたかもしれませんが,記憶がそこはありません)。
フロアとのディスカッションで出た質問
私が覚えている限りの質問について,書いてまとめます。質問された方で私のまとめ方が異なるようでしたらご指摘ください。
実践研究と理論研究が相似系であること
私は探求の論理学の例で,アブダクションによる仮説形成と演繹的推論を用いた予測,そして実験から一般化するというプロセスを提示しましたが,そのプロセス自体は実践研究でも同じことなのではないかということでした(その前にも色々な話があったと思いますが)。それはそういうところもあるかなと思いましたが,アブダクションによる仮説形成時に理論的構成概念を扱うことを重視するという点は理論と実践の違いと言えるかもしれないと思いました。実践の時には構成概念の実在はそこまで重要視されないかなと思うので。
オルタナティブ・アプローチについて(※注)
SLAの話の中にいわゆる認知的「ではない」アプローチをとる研究が一切出てこなかったのですが,というコメントが有りました。私が認知的アプローチを取る研究者を代表して今回登壇したということを浦野先生が補足してくださいました。私がまず答えたのは,社会文化理論なり複雑系理論なり,Atkinson (2011)に収録されているような「オルタナティブ・アプローチ」で言われているように,認知的アプローチでは第二言語習得はわからないのだ,大事なものを捨象しているのだ,というようなものがもし仮に真であったとしても,そのアプローチを取る人たちが,認知的メカニズムを一切仮定しない第二言語習得理論を作ることはできないし,学習者の外側の要因がどれだけ重要であったとしても何からの認知的メカニズムを考えずに第二言語習得を研究することはできないというものです。あらゆる要因をすべて考慮して,全部を包括的に説明することを目指そうとというのは個人的には失敗だと思っています。let all the flowers bloomでは無理だったということを,少なくともメカニズムの探求をするのであればそれを認めた上で(まあ最初からそう思っていた人が多いと思いますが),説明する対象を限定した上でメカニズムの探求をする必要があるだろうというのが「思考法本」の中で書いてあることでもあります。
事例研究の積み重ねの重要性
医学の分野では,厳密なRCT実験ではない事例研究も全く意味がないわけではなく,それはそれで価値のあるものだと認識されているので,事例研究も…というような意見がありました。事例研究の話はこれまた寺沢さんのブログで言及されている話があるので(EBEE本の寺沢さんの5章の最後にも事例研究の話があったと思います),そちらをお読みいただくと良いと思います。
寺沢さんの話は,何を事例として取り上げるのかという選択が非常に重要で,その事例が何らかの形で理論構築なり他者なりに貢献できるような事例でなくては事例研究としての価値が低いということだと理解しています。私はそれ以外にもう一つ医療系と教育系で違う点があると思っています(これは懇親会で亘理先生とも話したことですが)。それは,介入の手順や測定の厳密性や標準化度合いです(これもEBEE本の中でPKテストが扱われる8章で述べられている話でもあります)。医療では,おそらく何らかの介入を行う際に,その手順が厳密に規定されていて,その効果を測る手段も標準化されていると思います。よって,そこのブレがない分だけ事例の共有が容易でしょう。しかしながら,言語教育において何かしらの介入指導の手順がどのくらい厳密に規定されていて,それがどれくらい標準的なものとして共有されているかというと,そこが難しいと思います。「ディクテーション」とか「英作文」とかそういうざっくりしたものは当然のこと,「間違い探しタスク」や「他己紹介」のように多くの人が内容を容易に思い浮かべることができる活動であったとしても,それをどう実施するかには多くの選択肢やバリエーションが存在しています。そして,そのバリエーションが有ることは何ら悪いことではないというか,文脈に即した活動にするためにそのバリエーションが有効に機能します。効果の測定についても,パフォーマンスで評価するにしても正確さ,流暢さ,複雑さを使って言語使用を仮に測定できたとしても,無数の指標からどれを選択するのかについて,合意形成はなされていませんし,あるタスクに固有の標準化されたルーブリックのようなものもないでしょう。これでは,仮に事例研究が多く行われていったとしてもそれを解釈するのは難しいように思います。
ただし,何をやったらどうなったのか,についての主観的な記述を蓄積していくことには意味があると思います。ある実践を行ったとき,その手順についての詳細な記述とそれを実施した教師がどういう主観的な見方をしたのか(うまくいったのか,うまくいかなかったのか),なぜそういう見方をしたのか,というようなものが蓄積されていけば,それはあとから参照する価値の高い資料になると思います。上の寺沢さんのブログでは量的な事例研究もあるので質的なものだけが事例研究だけではないと書いてあって,そこはとても大事な指摘です。量的な事例研究もありますが,教育系で理論に貢献しうる事例研究って結構難しそうだなと個人的には思っています。
おわりに
今回のシンポジウムに登壇することで,自分の考え方もより整理されたなと思います。ただ,発表自体はまだまだで,もっと伝え方を工夫しないとなかなか理解されないということも痛感しました。これは私の力不足です。意見論文をある程度の国際誌に載せるのが簡単じゃないのはよくわかっているのですが,そういうことしないと結局何も変わらないので,たくさんの人と議論を重ねながら,学界がいい方向に進んでいくといいなと思います。
なにをゆう たむらゆう。
おしまい。
注(2023年11月8日追記)
オルタナティブ・アプローチの話のところで,質問いただいた方からTwitterで補足・訂正をいただいたので追記します(直接メールももらいました)。
まず,私が質問を理解できていなかったことが原因で噛み合ったやりとりにならなかったこと,お詫び申し上げます。多分聞いてるときにバイアスがめちゃくちゃかかってしまっていたのだと思います。申し訳ございません。
さて,英語教育研究の中にオルタナティブ・アプローチがどう位置づけられるのかという話ですが,オルタナティブ・アプローチが今後何を目指していくのかによるのかなと思いました。認知的メカニズム以外の部分の言語習得のメカニズム的説明を目的としてやっていくのであれば,それはそれで意味があると思うので,やっていったらいいのではと思います。ただし,メカニズム的説明をやるのであれば,私が扱った批判というのはいわゆるオルタナティブ・アプローチの研究にも当てはまることだと思っています。
英語教育研究の中にどう位置づけられるのか,という話だと,「socialな側面を研究するスタディ」がどれだけ英語教育研究の「中で」やられているのかっていうと,ほとんどやられていないのではと個人的には思っています。英語教育学会に入っている人が,そういうところに興味があるのかっていうのもどうなんだろうなと個人的には思っています。だから意味がないということではなくて,だからこそ位置づけるって難しいなと言う話です。合意形成を得るのが難しそうなので。浦野先生が下記のツイート内で補足してくださっているように,”broad SLA research”と考えるとそこにはsocial SLAも入ってくるでしょうね。じゃあその”broad SLA research”と英語教育研究(外国語教育研究)がピッタリ重なるのかっていうとなんかそういう感じはしないな〜と個人的には思います。というのが私の個人的な理解ですね。
また,オルタナティブ・アプローチがメカニズム的説明を求めるのであれば,私の資料でいうと11枚目の浦野先生の作ったスペクトラムの中に英語教育研究を位置づけたものの中には入らないと思います。オルタナティブ・アプローチであったとしても,メカニズム的説明を求めるのであればそれは政策科学ではないからです。もしもオルタナティブ・アプローチがそうではなく意思決定の科学を目指すのであれば,あのスペクトラムの中の真ん中より右側に位置づけられるのかもしれません。

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