はじめに
以下のツイートを読んで考えたことを書きます。もともとの投稿日時はだいぶ前なのですが,最近寺沢さん自身がリポストされて目に止まりました。
なぜ目に止まったのか
私自身もどちらかというと,先行研究に乗っかっていくよりも先行研究を乗り越えていこうとするようなことを考えるようになってきているという自覚があるからだと思います。
研究キャリアの初期がだいたいどれくらいの時期を指すのかはわからないけれど,一応いまでもまだ私は初期(若手にギリギリ出せるくらいなので)だと考えています。もしかすると初期が終わったくらいなのかもしれませんが。大学院生時代+博士号取得直後くらいがキャリア初期だとすると,もうその時期は終わっていますね。まあそれはともかく,先行研究を乗り越えることそれ自体が自己目的化しすぎてしまうというのは注意しなければいけないなと思います。
寺沢さんの指摘は,先行研究を乗り越えることが悪いということではなくて,それを意識しすぎると,視野が狭くなってしまって,自分の都合のいいようにデータや現実を解釈してしまうので注意が必要だということだと思います。都合のいいように解釈しすぎないようにすることっていうのは大事だと思っていますが,でも,どこかで確証バイアスかかってないかっていうのは気にしないといけないなと思いますよね。
「学術書」というところがポイントなのかなと
おそらくですが,学術書だと,そういうアイデアを批判的に検討してもらう機会がないんですよね。学術雑誌に載るプロセスのような査読があるわけではないので。出版されるかどうかというのは学術的正しさとは別のところで決まるものだと思っています。
そうなると,上の投稿の用語で言う「セルフ査読」はもちろん,やっぱり外部査読(というシステムの是非はおいておいて)とか学会発表とかで,批判を受けながら研究を進めていかないといけないよなという気持ちは結構あります。
「先行研究を乗り越える」というときの「乗り越える」は結構多義的だと思いますが,そういう目的もあった『第二言語研究の思考法』は,身内というか届いている範囲だと好意的に受け止められてはいるのかなとは思いますが,一方で,あそこで論じたことも,「確証バイアスとチェリーピッキングだ」という批判が当てはまらないのかどうか,そう感じられた人がいたらそういう批判は受けたいなと思います。
同じように,昨年11月の外国語教育メディア学会(LET)の全国大会で発表した内容についても同じ気持ちです。発表後には一定程度の共感をもらえた一方で,批判も大いにありうる主張だと思うので,そこは批判も受けながら議論を進めていきたいなという思いです。
こちらはブックチャプター原稿をベースにした発表でしたが,一応原稿自体は”peer review”も受けてはいます。とはいえ,学術雑誌に投稿論文として出したら同じままで通るかと言われるとあまり自信はありません。
明示・暗示については,いま査読中の論文が1本あるのですが,そちらも,かなり,「先行研究を乗り越える」という強い気持ちで書いたものです。何年後にその原稿のことを自分自身がどう評価するかは未知数ですが,自分の中ではマイルストーンと呼べるような論文になるような気がしています(原稿の「思考の種」自体はこのブログで過去に書いた記事の内容も含まれています)。何回リジェクトされても,必ずどこかに載せないといけないですね(cf. 名詞の数の処理に関する実験の論文が出ました)。
おわりに
春休みになるとめちゃくちゃブログ書いちゃいますね。
なにをゆう たむらゆう。
おしまい。
