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Yu Tamura について

第二言語習得の研究者。博士(学術)。英語教育のことや統計・データ分析に関わること、趣味のサッカーのことなどについて書いています。

KELESセミナーでいただいたコメント・質問に答えます(前半)

先月のKELESセミナーでは,最後にフロアからの質問やコメントを紙で受け付けて,それに各講演者が答えていくというようなセッションがありました。その場でうまく答えられなかった質問もありましたので,ここで改めていただいた質問やコメントについて,私なりの回答を書いておきたいと思います。質問に答える順番は単純に今持っている用紙を上から順番に書いていきますので,特に他意はありません。


コメント①

You need to study more and experience teaching English before giving your presentation in a seminar.

The data on 言語活動 might be rubbish if you don’t define 言語活動 clearly.

What you said today sounded sharrow [原文ママ] or fake.

It’s waste of time for us to listen to you. Sorry to be harsh but it’s quite true.

お返事①

大変率直なご意見をお聞かせいただき,ありがとうございました。講演のお話をいただいたときから,「私のようなものに講演者が務まるのだろうか」という不安はありました。その不安が的中してしまったようです。年末の貴重な土曜日のお時間や参加費が「無駄」になってしまったこと,大変申し訳ありませんでした。

さて,言語活動の定義についてですが,補足させていただきたいと思います。投影資料の11ページ目からになりますが,授業時間における言語活動の割合というお話をさせていただき,中高で比較して,中学校の方が多いということを申し上げました。言語活動は学習指導要領においては概念的に定義されているというよりも,具体的な活動として示されていると私は理解しています。また,中学校で求められる言語活動は,高等学校で求められる言語活動よりも基礎的・基本的なものも多いです。その意味で,高等学校での言語活動の割合が低いというのは,言語活動という言葉でカバーされる活動がそもそも中学校の方が多いので,授業時間内に占める言語活動の時間の割合が高くなっているのかもしれません。質問者の方のコメントが私が推測したような論理に基づいているのだとすれば,その点についてはご指摘のとおりかと思います。

ただし,もし仮にそうであったとしても,中学校と高等学校で全く同じ内容の指導が行われるのだとすれば,それは中学から高校へとあがっても教科内容が発展していないことになります。その点で,高校でより発展的なことが言語活動として設定されることは自然なことだと思います。もちろん,現実には中学校での内容が身についておらず,高校でもまた中学校の内容から,という場合も多いかと思います。それは理解した上であえて申し上げるならば,「これは現実として仕方ないのだ」としてしまうのではなく,松村さんが指摘したように,英語教育が「どこで躓いて落ちるかのゲーム」になってはいないだろうか,と考えることもできるかと思います。

このように考えると,言語活動が指し示すものが中学と高校で異なっていることや,そのことで言語活動の割合が変わることは事実かもしれませんが,それだけで私がお話した内容が”rubbish”になるとは思っていません。なぜなら,言語活動の話はその後の19ページ目からの教員の意識という話と接続していくからです。高校での言語活動の割合が低いから高校教員はダメなんだ,というようなことを私はお話したかったわけではありません。また,最初にお断りしたように,大規模調査の結果は日本のすべての教室の現場と100%一致するわけではありません。言語活動をたくさん取り入れた授業をしておられる先生方も多いかと思います。私が言語活動の話や教員の意識の話を持ち出したのは,「ざっくりと」現状を見て,言語活動の割合が低下したり,音読・発音練習・文法説明が行われる頻度が高かったりするとき,それが必ずしも教員の意識改革だけで達成される問題かという部分に焦点をあてたかったからです。ある指導の選択に関わる要因は教員のビリーフだけではありません。つまり,どれだけ優れた指導力があって,タスク・ベースの言語指導にシンパシーを感じても,それが実行に移せないケースもあるということです。その状況で,どれだけ理念を説いたり理解を促そうとしても,「できないものはできない」となってしまいます。これは,研究者1人が何か研究をすることで,あるいはそれを広めることで打開できる問題ではありません。しかし,だからといって,いわゆる「現場」への介入や干渉を求めるような外国語教育研究者が無視していい問題でもありません。

質問者の方に満足していただけるかはわかりませんが,私からのコメントは以上です。これからもっと勉強して,また,指導の経験も積んでから出直してきたいと思います。ありがとうございました。

コメント②

学習者の自由度を保障することと,学習者が発案した言語形式・表現形式(インターランゲージであっても)を形式的に評価すること,コミュニケーションが成立した事例を相互分析して次のタスク達成へのヒントとすることで,学習に発展が期待できるのでは?

お返事②

コメントありがとうございます。「形式的に評価」というのがどのレベルでの評価かはわかりかねますが,学習者が使用した言語形式や表現と,タスクが成功したか否かを分析するというのは意義があると思います。タスクの達成の鍵となるのは言語にかぎらず非言語的ストラテジーである場合もありますが,タスクの後のフィードバックでは基本的に「どのようにしたらタスクができたか,あるいはもっとスムースにできたか」といった点に焦点をあてるようにしています。質問者の方のご指摘のとおり,自由にやらせてみて,そのあとに「こういう質問をしてたけど,でも質問の仕方をこういう言い方にしたら相手も答えやすかったんじゃないかな?」というような具合です。

研究的に考えると,タスクの達成と非達成を分ける言語的要因を探るということになるかと思います。これは,言語形式を細かくみるということではないですが,例えば流暢さ,正確さ,複雑さの要因のうち,プロダクトの全体評価を予測する要因は何か,といったようなかたちでの研究はすでに行われています(e.g., Plakans, Gebril, & Bilki, 2016)。これを,あるタスクを達成したかどうかと,言語形式の使用という観点で見ていくというのは面白そうです。ただし,このアプローチの問題点の1つは,帰結として,タスク達成のためには「この形式を使えば良い」ということになり,それはつまり会話パターンを覚えて使えばよいということになってしまいます。これは,タスク・ベースの言語指導のもつ理念とは相容れないものです。

だからといって,あるタスクを達成するためにどんな言語的・非言語的リソースが役に立ちそうかというフィードバックを一切与えないわけにもいきません。大事なことは,どんなときでも「それを選択する」機会が保障されていることかなと思います。つまり,あるタスクが与えられたとき,自分が持つリソースの中からそのタスクでusefulな言語的表現をその場で学習者自身で選んで使えることを保障したいということです。

コメントをいただきありがとうございました。

コメント③

本日はお話ありがとうございました。教員が感じている課題に対し,発想の転換を提案していただき,考えさせられました。

少しずつでもタスク・ベースを取り入れていける様,努力したいと思います。

お返事③

コメントありがとうございます。少しでも私の話しを肯定的に捉えている方がいらっしゃってホッとしています。実践のことについてはタスク本をご参照ください(宣伝。ただしリンクは貼りません)。

コメント④

本日はありがとうございました。御著書を事前に拝読してから,今日のお話をうかがったので,より理解を深めることができました。

  • PPP型の授業より,かなり教員の指導力(手腕)が問われるかなと感じます
  • ”何ができるようになったか”生徒自身に言語化させる(ふり返らせる)時間はやはり取るべきでしょうか?
  • タスク型の自宅で取り組む課題を考える時,留意すべき点はありますか?(T-S,S-S間のinteractionは授業中の活動のように行えないので)また,例としてどのようなものが考えられますか?
お返事④

コメントありがとうございます。タスク本をお読みいただいたとのこと,誠にありがとうございます。3つの質問とコメントについて順番に答えさせていただきます。

1つ目,教員の手腕ということですが,「よりも」かどうかは明確に言えないかなと個人的には思います。PPP型であっても,oral introductionやpattern practiceをスムースに展開したり,最後の言語活動をどう構成するかやどう取り組ませるか,についてはそれなりの指導力が必要かと思います。ですから,PPP型で良い授業をされる先生は仮にタスク・ベースでこんな指導やってみてもらえませんかとお願いしても,うまくやれるのではないかと思います。

どのような指導形態であっても,英語力や学習者への臨機応変な対応などはよい授業を作るために教師に求められる能力だと思います。ただし,事前に準備したり,学習者の対応を予測しづらいというのはタスク・ベースの方が少しあるかもしれません。ただどんな授業でも予測できないことが起こるのが教室という場所だと思いますし,それをうまく学びに変えたり,教師自身が楽しめるのが大事かなと思います。

2つ目,振り返りの時間のことですが,これはやったほうがいいと個人的には思います。どんな授業をやったとしても,その日になにを学んだかや次の授業にどんな目標をもって臨むかということを少しでも考えてもらわないと,学びが蓄積されていかないのではないかなというのが個人的な考えです。特に,学習の成果が教科書やノートを見ればわかるようなものではなく,その日に教室で自分がした行動が学習の成果になるわけですので(もちろんワークシートに何らかの軌跡は残るでしょうが),それを蓄積していく手段をなんらかの形でとらないと,「なんかやって楽しかった」,で終わってしまうと思いますし,最悪の場合「結局なにもできなかった」,となってしまうかもしれません。

振り返りをするにも,ただ単にふり返らせたり,できたこと・できなかったことを自由に書かせると有意義な振り返りにならないこともあるので,その授業時間の目標を明確に提示して意識させたうえで,場合によってはそれを学習者自身に書かせた上で,それが達成されたかどうかを書かせたり,達成されなかったとしたら原因はどこにありそうかを考えさせたりという方法で最初はやっていくのがよいかもしれません。

3つ目,自宅学習についてですが,自宅学習でタスクと考えるのではなく,授業の構成を考えて,教室場面でしかできないことと,教室でなくてもできることに分けてみて,教室でなくてもできることを自宅学習に回すと考えるのが良いのではないかと思います。例えば,メインのタスクに入る前の事前タスクとして何かを読んでくる,あるいはキーワードの意味を調べてくる,といったようなことを自宅学習の課題にするという発想です。こうすれば,メインのタスクのために十分な時間を授業内で確保することが可能ですし,タスクを繰り返し行うことにもつなげられるかもしれません。また,話した内容について,事後タスクとしてのライティング課題を宿題として書かせてくるということも考えられます。個人的には,教室に学習者が集まっているからには,その中で1人1人が黙々と個人で作業する時間はもったいないと思ってしまうので,そうした時間を自宅学習に回すようにと考えています。ただし,1人ではできないというケースもあるかもしれませんので,授業でいきなり全員が事前タスクをやっている前提で始めたりせず,まずはペアやグループ,隣近所で確認したり教え合ったりする時間を少し設けることも必要かもしれません。事前タスクが渡された授業を休んでいたという場合も,ここでcatch upさせてあげられます。

もう1つ考えられるのは,どうしても文法演習や単語学習,音読などを含む,「既存」の英語授業と併用してタスクベースの授業を運営しなければならず,授業時間が足りないという場合に,文法演習やその解説を自宅学習にまわしてしまうということも考えられます。今風の言葉でいえば,「反転学習」とも言えるでしょうか。私は昨年度後期から,教科書の文法演習のセクションについてはすべて宿題として,授業用ウェブサイトにアップロードした自作の解説動画を見て答え合わせをさせるようにしています。もちろん,このことによってほとんど宿題をやらないというケースも出てくることは危惧されますよね。そこで,その対応として,やった「証拠」として,答え合わせ後のページを写真に撮って提出させています。これを見れば,「全部赤で書いてあるやん」とか「答えを全部書き写してから全部○したな」とかすぐにわかってしまいます(たまに答えを間違えているのに○されていたりとかしますので)。もちろん,これだけで全員に100%で取り組ませることはできていないかもしれませんが,それは教室内で時間を取って解説したり問題を解かせたりしても同じことかなと割り切ってしまっています。

ということで,自宅学習については事前タスク・事後タスクとして1人でもできる部分があるものを自宅学習課題として位置づけるという方法が1つです。もう1つは,文法演習や単語学習,音読課題など,既存の英語授業で行っていた活動を授業外の学習にあてるという方法です。

ご質問にうまく答えられているかわかりませんが,私からのお返事は以上です。コメントありがとうございました。


あと4枚残っているのですが,ここまででだいぶ長くなってしまったので,後半は別の記事としてアップしたいと思います。ここまで読んでいただいた方,また,この記事を御覧頂いているかわかりませんが,コメントを書いてくださった方,ありがとうございました。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

Comprehensibilityってなんなのさ

ずっと下書き状態で放置していたのですが,「田村さんがJ-SLARFのあとにcomprehensibilityについてブログを書くとおっしゃっていたので楽しみにしていたのですが…」という問い合わせをいただいてしまったので頑張って加筆して公開することにしたいと思います。


最近の(私より)若い人たちの間では,comprehensibilityといわれる尺度(注1)と相関する変数をあげたら優勝大会というのがどうも人気のようです。しかしながら,このcomprehensibilityというのがまた得体の知れない曲者で,そういう大会に参加されている方々でも「よくわかっていない」もののようです。

とりあげられる変数は,音声発話から算出される言語的特徴量であることが多いようで,言語的特徴量から近似的に予測できる人間の主観的な心理尺度の1つということなのかなと思いますが,私にもよくわかりません。「comprehensibilityは心理的に実在するものか」という質問をさせていただいて,この質問があまり良くなかったことを反省しています。comprehensibilityが,人間の主観であるとすれば,それは人間の主観を離れて存在することが不可能ですから,実在はしないものであるといえるのかもしれません。私がお尋ねしたかったことは,comprehensibilityが構成概念だとしたとき(注2),そのモデルはどういったものになっているのだろうかということでした。言語的特徴量の数値それ自体には良い悪いという主観的な判断は存在しないはずで(注3),その個々の数値についてのなんらかの価値判断の総体となったものがcomprehensibilityというものだと考えてよいのか,とも言えるかもしれません。あるいは,個々の数値というよりもその数値が正確さ,流暢さといった概念を形成し,そうした概念についての主観的な判断の総体なのかもしれません。あるいは,可能性としては低そうですが言語的特徴量のようなものについてはなんの価値判断もなく,comprehensibility評価装置のような機構に言語的特徴量の値を入力した時,そこから初めてcomprehensibilityについての主観が生まれるのかもしれません。

このとき,正確さや流暢さといったものとしていくつかの変数をまとめる(あるいはまとめずに解釈する)ことに対する問題点はCAF警察の後輩にまかせるとして,人がある言語産出の理解(発話の理解や作文の理解など)に取り組んだとき,「この人の発話(作文)は文法的に正確だ」とか思うその主観的な判断は,その人の「文法的に正確な言語を産出する能力」と同じものなのかということも考えてみるとおもしろそうです。主観から離れた能力が存在するのかという意味で。

そして,このcomprehensibilityというのはいわゆる「スピーキング能力」と何が違うのかや,スピーキング能力とcomprehensibilityはどういう関係性なのだろうかというのも気になるところです。発話にあらわれる言語的特徴量は人の持つ「スピーキング能力」が反映されたものだと考えると(注4),言語的特徴量はスピーキング能力を反映したものだともいえます。そして,その同じ言語的特徴量を用いてcomprehensibilityというものをこちらは形成モデル的に測定しようとしているようにみえます。スピーキング能力がテキストに反映されていると考えれば,反映モデルでスピーキング能力を測定しようとすれば良いはずです。それを形成モデルでcomprehensibilityという新しい指標値を立てることによる利点はなんなのでしょうか(私の不勉強かもしれませんので,この論文を読めば書いてあるということでしたらご教示ください)。また,三者(comprehensibility, 言語的特徴量,スピーキング能力)の関係はどのようになっているのでしょうか。comprehensibilityに詳しい方にぜひ教えていただきたいです。

蛇足ですが,「よくわからない」ものを応答変数にして回帰する前に,comprehensibilityというヤツの正体を少しずつでもいいから明らかにする研究はやったらどうだろうとも思います。例えば,聞き取りにかかるmental effortが聞き取りやすさということなら,聞き取りづらい発話を聞くことにmental effortが割かれているのかどうか,逆に聞き取りやすい発話を聞くときにはmental effortがそれほど必要ないのかどうか,ということを確かめる実験をやってみるというのはどうでしょうか。これは,心理実験的にそこまで難しいことでもないと思います。

では,このへんで。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注1. 妥当化されてないので尺度というのもあれですが。スコア?ですかね。

注2. comprehensibilityは構成概念ではないという見方もありえます。つまり,comprehensibilityは単純に能力の影響を受けたテキストの値を変換したものであって,comprehensibilityという固有の値をもつわけではないと考えるということです。

注3. 言語的特徴量自体に対して主観的な判断を尋ねる場合もあるようですが。

注4. 能力は全部形成モデルだ,という考えもありますが,テスティング系の研究者はおそらく能力がパフォーマンスやテストにあらわれると考えていると理解しています。

p.s. 新年一発目の挨拶もせず,このようなブログを更新してしまいました。年末年始は例年よりも長く1週間も実家に滞在したのが災いしたのか,名古屋のアパートに帰ってきてからキーケースを東京の実家の玄関に置き忘れるという大失態を犯し,寒空の中途方に暮れるという波乱の幕開けとなった2018年。何か悪いことが起こるという前兆かもしれませんので,いつも以上に気を引き締めて生活していきたいと思います。

 

2017年の振り返り

2017年の振り返りを書こうと思っていたら,年末に入ってもなかなかゆっくりブログを書いている時間がなく,ギリギリでの更新になりそうです。とりあえず,過去の振り返り記事のリンクは以下のとおりです。

過去の振り返り記事

最初に,このブログについてのことですが,アクセス数が50,000アクセスを超えました。今年だけで約20,000のアクセスがあり,特にR関係の記事が上位を占めています。やはり,ネットで調べる方の数はとても多いようですね。今年はめっきり料理の写真をあげることが少なくなってしまったので,来年からは少しずつ料理の写真もアップするようにしないとなと思います。

さて,2017年は,なんといっても「博論」の年でした。とにかく博士論文の研究に追われました。これまでの3年間でほとんど研究を進めていなかったので,最後の1年でダッシュしてなんとか提出までこぎつけたという感じです。まだ最後の教授会で承認されるまでは終わりではないですが,提出というステップはクリアしたのでほっとしています。

その反面,博論研究以外の研究や論文執筆についてほとんど手をつけられず,私のキャパシティの狭さを痛感する年ともなりました。研究自体をまったくやっていないわけではないのですが,「あーあの論文書かなきゃ」というのが手元にある状態というのはやはり良くないですね。口頭発表自体は,最近はあまり「発表ばかりしていても…」という気になってしまっていて,口頭発表ももちろん意味はありますが論文を書いて引用してもらえて初めて研究の意味があると思うと,たくさんの人の目に触れる場所に論文を出版してこそだよなと思います。それが2017年中に達成できなかったことは力不足と言わざるを得ません。博士論文研究というもののプレッシャーに勝つことが出来ませんでした。

ポジティブな面に目を向けると,今年は書籍の分担執筆と講演という経験をすることができました(後者では,参加者の一部の方から「講演するには早いのでもっと勉強して出直してくるように」(大意)という厳しいコメントもいただきましたが…)。この若さでなかなか経験できることではありませんので,今後に生かせるようにこれからも精進していきたいと思います。

2週間まえほどに風邪をひくなど,体調を崩すことが年に1, 2回ありましたが,今は健康です。

駆け足ですが,以上が振り返りです。

最後になりましたが,みなさん,今年一年お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

第43回KELESセミナー資料

いよいよ今週末,12月23日(土)に迫ってまいりました。龍谷大学梅田キャンパスで行われる第43回KELESセミナーの私のトークの投影資料(暫定版)をspeakerdeckにアップロードしました。まだ暫定版ですので,本番前まで修正の可能性があります(2017年12月20日23時現在)。

80分という長丁場が3本というセミナーですので,参加者の方は眠気との戦いとなるかもしれませんが,私のスライドはここにありますのでご心配なく。

大阪でお会いできる方,楽しみにしております。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

2017年12月26日追記

若干修正したものをアップしています。一部(不要なもの)を除いて,発表時に使用したスライドと同様です。

答えは渡さない理由

タイトルは,答えを「渡せない」理由と言ってもいいのかもしれません。何か問題があって、その答えが1つに決まるようなものの時,私個人としては,学生や生徒に答えやあるいは全訳を渡してしまってもいいと思っています。

ところが,答えを学生が所有している状態をひどく嫌う先生というのが世の中にいるようです。「授業時に渡すのならいいが、授業が終われば回収する」ということもあるようです。残念ながら,私にはどうしてそのことが禁じられるような事なのか理解できていません。よくある理由としては,「学生が答えを写してしまう」であるとか,「学生の間で答えが出回るとよくない」というようなものでしょうか。

私は個人の指導観や授業観のようなものとして,「教師は答えを教え,それを学習者は学ぶ」という形態があまり好きではありません。好きではないというより,それが授業の重要な部分を占めるようなものに否定的といった方が良いでしょうか。

もちろん,学習者が教師の知識を必要とする場面は授業の中にたくさんあるでしょうし,そうした場面がなければ教師は必要ありません。ただし,「答えを知っている存在」というのが教師の存在意義だというような考え方にどうしても馴染めないのです。

「答えを渡したくない」と考える人は,それこそが自分の存在価値であるというように考えているか,あるいは授業とは教師が学習者に答えを教えるという活動がメインであると考えているのかなと思ってしまいます。

しかし,教師だけの責任であるとも思いません。学習者も答えを欲しがります。訳を欲しがります。だからこそ,教師は答えをあげることや自分が訳してあげることに意味があると思ってしまうのかもしれません。あるいは,答えを教えるのが学習者のエンゲージメントを最大化するのだという判断のもとなのかもしれません。

そうであったとしても,問題には答えがあり,それを教師のみが知っていて,それを学習者に教えることが授業だという考えにはやはり同意できないところがあります。例え学習者が答えを知っていたとしてもなお,教師の役割がある,学習者が教師の助けを必要とする,そんな授業をしたいと個人的には思います。そして,答えを写すことや,問題には答えがあり,与えられた問題に答えることが学習である,というような考えから学習者を解放することも教師の役割だと思っています。

他の教科や科目のことは詳しくありませが,英語という教科はそうしたことが可能だと思います。なぜなら,言語の使用場面で答えがひとつに定まるという場合は多くないからです。もちろん,教師個人の努力ではどうにもならないこともあるでしょう。カリキュラムレベルでの目標や組織としての目標と授業設計が常にあり,全ての教師がそこに意思決定権をもたない場合もあるからです。

私は研究者の卵であると同時に,英語教師の卵でもあると思っています(後者については20代後半で卵というのもアレですが)。教員養成課程の出身だということもありますし,英語の授業も仕事だからです。授業研究の専門家ではありませんが,授業のことはこれからも考えていきたいです。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

第43回 KELESセミナー

2017年12月23日(土)に龍谷大学大阪梅田キャンパスで行われる第43回KELESセミナーにお招きいただき,タスク関連のお話をする機会をいただきました。

関西英語教育学会 第43回KELESセミナーご案内

タスク本が出版されてから,お招きいただいてお話をする機会はこれで3回目となりますが,関西英語教育学会からお声がかかるとは思ってもいなかったので,非常に嬉しく思っています。

私の他にも,名城大学の松村先生と大阪府立鳳高等学校の溝畑先生が登壇されます。講演タイトルや講演概要は上記のウェブサイトで公開されていますのでそちらから御覧ください。私の話す内容としては,あえてTBLTの課題を指摘し,それをどのように乗り越えていくかということを考えてみたいと思っています。研究からの示唆や批判的な検討というよりも,どちからというと自分が実践している上で感じている課題のようなものです。

資料の準備などはこれから(というよりも博論提出してから…)になりそうですが,なんとなくの構想は頭で作ってあります。参加登録も開始されたようなので,ご興味がおありの方はぜひお越しください。

以上,告知でした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

アボカドとスモークサーモンと豆のサラダ

ここ最近料理の記事を全然アップしておらず,ついに名古屋の闇に飲まれて自炊を放棄したのかと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが,そういうことではまったくなく,単純に写真撮ってもブログにあげるのがおっくになっていただけでした。

さて,そんな中ですが,先日,「これうますぎでは…?」という料理をひらめいてしまったので,記事に書いておきます。タイトルの通りで恐縮ですが,おつまみにもなるし,栄養も(きっと)抜群なサラダです。

たまたまアボカドがあって,そろそろ食べないとなと思っていて,スーパーで買い物をしていたら安く売っていたスモークサーモンが目に入り,「これはアボカドとスモークサーモンだな」と思って歩いていたら私が冷蔵庫に常備している「サラダに!まめ」が目にとまり,この3つでいったらいいのではとなったというわけです。

以下簡単な作り方です。

材料(2人前)

  • アボカド(1個)
  • サラダに!まめ(1袋)
  • スモークサーモン(50g-100gくらい…?)※スーパーでたまたま売ってたのでどのくらいの量だったか覚えてませんすみません
  • マヨネーズ(適量)
  • わさび(適量)
  • カマンベールチーズ(なくてもたぶんOKですがあったほうが断然旨いです)

作り方

  1. アボカドは種をとって縦に4等分し,皮のついた状態で1口大に切れ目をいれて皮を外します
  2. スモークサーモンは切り落としの場合は切り身をさらに小さく(3等分くらい)し,さくの場合は(スモークサーモンのさくってあるのかしら)そぎ切りしたあとに3等分くらいで(適当です)
  3. 1と2をボールやお皿にいれて,まめも追加して混ぜます。カマンベールチーズをいれるときはこのタイミングで小さくちぎるか切るかしていれます
  4. 味付けはわさびマヨネーズ。両方そのまま入れてもいいですが,わさびがまざりにくいので先に別の皿でわさびとマヨネーズをよく混ぜ合わせてから入れるとわさびが均等に混ざると思います
  5. 完成!

自炊飯使用なので深皿で混ぜてそのまま食べました。よって写真が汚いです。

ドレッシングは他にも考えられるかと思いますが,個人的にはわさびマヨネーズが簡単(チューブのわさびとマヨネーズくらいなら冷蔵庫に入ってる確率が高そう)でいいかなと思っています。豆があまり好きじゃな人は豆感が強くてお気に召さないかもしれませんが,私はこのサラダに!まめはいつも冷蔵庫にいれていて,トマトソース作るときに入れたりカレーにいれたりこうしてサラダで食べたりと大活躍している食材の1つです(1パック100円くらいです)。アボカドはたまたま安くなっていましたがあまりレパートリーもないしで使うのに困っていました。今回の豆とスモークサーモンと一緒にわさびマヨネーズで和えるというアイデアは結構気に入ったので,おもてなし料理的にも使っていけるかなと思ったりしています。

ようやく新しいiPhone8Plusを開通させたので,その記事もまた近いうちに書こうかなと思います。

そんなわけで久しぶりの料理記事でした。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

 

母語話者との差は埋めるべき?

昨日(日付変わったので一昨日),私の博論の内容について発表する機会をいただきました。発表の時間は短かったのでかいつまんで結果と解釈を提示する程度でしたが,その中でいただいたコメントに対して,一晩考えて私なりに少し丁寧にここに答えを書いておこうと思うに至りました。

私の博論では,母語話者と学習者のある課題についての結果を比較して,母語話者と学習者で意味と形式のマッピングが異なるところに焦点をあてています。

そこで,母語話者とは異なる点について,「どうやったらその差を埋めることができるか」,「教え方の工夫などで解決可能か」という点について,ご質問をいただきました。おそらく,背景には「母語話者に少しでも近づくこと」が英語指導の目標になっているのだという価値観があるのかと想像しますが,私が取り組んでいる言語習得や言語処理に関わる研究については,そうした母語話者としての差を「埋める必要があるもの」であるとはまったく捉えていません。これは,(a) 費用対効果と対象としている言語現象,という話と,(b) native-normという価値観,という話の2つが絡み合った問題なのかなと思っています。

(a)の費用対効果については,私の対象としている言語現象が,「誰もが英語学習を通して明示的な指導を受けたことがあると言い切ってもよい」ものであるか,逆に「習ったことも,あるいは聞いたことすらもないようなもの」を扱っているからです。博士論文は1点目で,複数形の形態素です。「名詞に-sがつけば複数」という至極シンプルな規則は,英語学習者なら初級者でも「知っている」はずです。しかし,それがどういった「意味」と関連付けられているのか,博論ではどのように「数(number)」と関連付けられているかを問題にしています。そして,それはとても根本的な現象を扱っているように思えて,実は英語学習の目標を考えれば取るに足らない些細なことで,「名詞に-sがつけば複数」とだけ知っていればそこまで問題にならないことだと思っていますし,言語使用場面で,その使用目的に照らして,目的を達成するために私の行った課題で明らかになるようなものが問題になるとも正直あまり思っていません。実際,複数形の形態素のせいで英語使用に苦労するということはあまりないでしょう。

また,「習ったことも聞いたこともない」ようなことについては,「習ったことがないからできない」という考えもあるかもしれませんが(後述しますが実際はそうではないことも有りえます),その前に「なぜ教えられていないのか」を考える必要があるのではないかと思っています。つまり,学習英文法として取り上げられていないのは,そこに含める必要性がないことが含意されているように思うのです。そのレベルの現象について,例えば特別な指導を施すことで母語話者との差を埋めることができても,リソースの制約がある中で何を取り上げ,何を取り上げないのかという意思決定をしなければならないときに,他に指導すべき事項を差し置いて「言語のある特定的な側面について母語話者との差を埋める」ことを選択することは妥当でしょうか。

例えば,Tamura et al. (2016)で扱ったtough構文で(1a)は適格文であるのに対して,(1b)が非適格文であることやその背後に働く原理を「説明する」ことは,「一般的な」英語指導の文脈で必要なことでしょうか。

(1a)  He said that his wife was difficult to please.

(1b) * My younger sister was difficult to be an actress.

 

ちなみに,このような非文に対して,日本語を第一言語とする英語学習者は主観的には規則を説明できなくとも,「なんとなく」(1b)が非文であるというようなことを偶然確率よりも高い確率で判断することができることがわかっています(ただし,その判断に要する時間は長いです)。

2点目,(b)native-normという価値観については,なんで母語話者との差を「埋める必要があるものである」と考えているのだろうと思ってしまいます。もちろん,自分の信念としてそのように思うことを否定したりはしませんが,学習者にそれを課すことには疑問があります。この観点はなんら新しいことでもありませんし,multicompetenceという言葉とともに語られたりもしています。「英語教師の仕事は学習者の英語力を伸ばすことだ」ということに対しても,私はそこまで否定的に捉えているわけではありませんが(注1),「英語教師の仕事は学習者の英語力を限りなく母語話者のそれと差異のないものにすることだ」と言われるとそれは賛同しかねます。これは,

明示・暗示の測定と指導法効果研究

というエントリーで書いたこととも関係あるかと思います。私が博論でやった研究は,ミリ秒レベルの反応時間の差で,さらにこれは非常に特殊な実験環境による言語の処理で,その意味ではいわゆる生態学的妥当性は低いでしょう。ただ,そうでもしなければtapできない側面なのです。そこまでしないと見えないレベルの差の有無には教育的示唆などありませんし,そのレベルの差を「埋めるべきもの」であるというようにも考えていません。もちろん,差が生まれる要因には興味がありますし,それを探求することについて意義があることだと思っているのでそういう研究をしています。つまり,「埋められない差があること」を私は問題だとはまったく思っていませんし,それが仮に存在することが明らかになったとしても,それはむしろ「教育的示唆」という意味ではプラスに働くことすらあると思っています。ここが費用対効果の話とも絡んでくるのですが,

3単現の-(e)sは口をついて出るくらいまで練習 

と似たような問題で,母語話者との埋められない微細な痕跡が残るような文法項目について,熱心に誤りを訂正したり明示的な説明をしたりすることはリソースの無駄遣いと言ってもよいでしょう。そういうことに時間を使うくらいなら,もっとやるべきことはたくさんあるはずです。これは,「教えなくても勝手に学習させればよい」という議論を展開したいというわけではありません。限られたリソースの中では「教える」時間は限られているので,「引き算の思考」をしたほうが有益ではないかと思っているのです。つまり,「教えても教えても難しい」あるいは「どう頑張っても母語話者のような正確性を身につけることは難しい」というものが明らかになれば,それについては,リソースの配分をやや減らして,「-sがついたら複数だよ」って知っていれば良いという程度にするということができるのではないでしょうか。あるいは,「教えなくてもある程度はできそうだ」ということがわかれば,その部分についてもリソースを減らして良いという判断ができるはずです。ただし,「教えないとできない」,「どのように教えたらできるのか」,という見方をしていると,それが仮に余分なリソースを必要とするものであるとすれば,そうした結果が明らかになればなるほど「やらないといけないこと」が増えてしまい,結局その負担を被るのは英語教師自身になります(注2)。もちろん,「リソースが有効に活用されているのか」を精査することは必要でしょう。それじゃあ効率が悪いから,別の方法を使いましょうという提案については,リソースを増やすことにはつながっていませんし,それでむしろ効率化して余剰が生まれるかもしれません。

そうした現状で「工夫を凝らした特殊な指導を与えたらテストの点数が有意に向上した」みたいなことをやったりするのにそこまで躍起になるのは,どうしてなのだろう,と不思議に思うこともあります。また,ある1つの文法項目が何らかの方法で測定された際に,その数値が「統計的に有意に向上した」や「効果量◯◯だった」というような事実の積み重ねで,私が見ていたような「差」を埋めることができるとも思っていません。

実験研究における母語話者との比較は,母語話者が常に「正しい」とも限りません。むしろ「母語話者だからこそ」学習者とは違う結果になったということも有りえます。学習者に実施する課題とまったく同じ課題を母語話者にも課せば,概してそれらは母語話者にとっては「簡単」な課題となりがちですし,そのときに予想とは違う(こちらが想定していないストラテジーを使って文や語を処理する)ことが起こることは十分にありえる話です。そうした意味でも,nativeが正しく,もし仮にL2と何らかの差異が見られたときにそれが必ずしもL2が何か欠陥があるということ示していないかもしれないということです。

指導の文脈における母語話者との比較については,結局は,目的論・目標論の話とも関わってくる問題ですし,仮に英語能力の伸長が目標であるという合意形成ができたとしても,それが「母語話者レベルではなくてもよい」となったときにどのような目標を設定するのかという話にはなってきます。そのあたりについては,私個人としては「タスク・ベースの指導」という考え方を採用したい問題であると思っています。つまり,学習者が教室の外でも「それなりに」機能すること(彼ら・彼女らが直面した問題を自律的に解決すること)ができるかどうかを判断の規準にするということです。これを導入するには色々クリアすべきハードルがあることは事実ですが。

ということで,集合写真に僕が写っていなかった(早めにお暇したのでそもそも写真が撮られたことすら知らなかった)ことで仲間はずれにされたのではないか,いじめられてやしないか,と福田さんにご心配いただけたりもしましたが,個人的には発表してコメントをいただけたことで,私の考えを整理することにもなりましたので,収穫はあったと感じています。今日は午後からだと勘違いしていて午前中の発表を3つとも聞き逃してしまうという失態を犯してしまい(悠長に俺の空でラーメン食べている場合ではありませんでした),申し訳ありませんでした。

午後の最後の2つの発表(新谷先生と鈴木渉先生)については,「習得」・「学習」といったときに習得・学習されたものはいったいなんだったのだろうというのが気になったりしていました(おそらく須田先生が「それってuseじゃないの?」とご質問なさったのも近いと思います)(注3)。1日目については,comprehensibilityってなんなんだろうと思ったので,その話はまたいつか。

ではまた。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。


注1. これについてさえ,「英語教育の目標は英語力を伸ばすことである」と言い換えたとき,その主張が英語教師の大多数に受け入れられているというようには思っていません。

注2. その「教える」が明示的文法指導といわれるようなものであったときの別の問題としては「文法の明示的指導研究について思うこと」を参照。

注3. 瞬発力が足りなくて,その場でうまく言葉にすることができなかったのですが,あとから考えて整理して自分で理解できたのでここに書きました。

Scrivenerで相互参照と連番作成

私は,論文執筆にScrivenerという有料のソフトウェアを使っています(Mac版)。バインダー機能とか語数の管理とか,色々便利なことはあるのですが(参考:Scrivener — A perfect program for dissertation writing),今日は論文執筆中にこれできてほしいと思った機能のやり方を覚えたので自分的メモを残しておきます。

私が文法を主に扱う論文を書くことが多いからなのかもしれませんが,例文をたくさん論文の中に挿入するんですね。以下のような感じで。

In (1), the omission of the plural morpheme makes the sentence ungrammatical.

(1) * I should have finished these thing by yesterday.

私の能力不足なのかもしれませんが,例文を後から足したり引いたりとかもしますし,また頭から順番に書いていくというわけでもないので,番号がずれてしまうことがあります。その対処法として,Xとかを使って最初に書くときはすべて番号をXで置き換えて,最終的にScrivenerからWordに原稿を出力してフォーマットなどを調整する際に最初から読み直して番号を振っていくという方法を取っていました。図表番号にも同じようなことをしていて,Table X shows…as illustrated in Figure X,というように書いておいてからあとで直していました。ただ,この方法だとやっぱり番号がずれたりしてしまうことがあって,自分でも気づかずに査読者に指摘されることもしばしばありました。図表に関しては,Wordでは図表番号の挿入という機能があるので,それを使うようにしています。図表番号の挿入を使っていれば,相互参照の挿入もできるみたいですね。で,例文でもこれを応用したりマクロを使ったりするとそういうことができるようなのです。言語学では例文がたくさん挿入されますから,そういった方たちにとっては死活問題ですよね。

参考

Wordで例文の番号を自動で連番にする

研究者のための Word 利用法 (3)

統語論恐怖症: Wordで連番機能を使う

ただし,これもScrivenerの中でできるならそうしてしまいたいわけです。そこで,「Scrivener 相互参照」でぐぐってみても,外部ファイルの参照みたいな記事はあるのですが,本文中で連番を作成したり相互参照をするよう方法は見つけられず。そこで,「scrivener cross」まで打つと,次に「reference」が出てきます。

参考

Unvexed: Stuff that Works: How to do cross-references in Scrivener

Has anyone figured out a way of cross-referencing examples in the …

A better way to force sequential ordering of numbered items

簡単に言うと<$n>タグを使うと,コンパイルするときに自動で連番作成してくれて,相互参照されるようになっているようです。<$n:ex>,<$n:fig>, <$n:tab>のようにすることで,ex,fig,tabごとに連番を作ってくれるみたいです。さきほどの例でいえば,<$n:ex:first>,<$n:ex:second>のようにしてあげれば,そこに数字が自動的に挿入されるという仕組みです。手でいちいちこのタグを打ち込むのは面倒だと思う方もいるかもしれませんが,私としては結構画期的だと思うので使っていきたいです。

一つ問題は,先ほどのタグは純粋にアラビア数字にしか置換されないということです。つまり,

In <$n:ex:first>, the omission of the plural morpheme makes the sentence ungrammatical.

<$n:ex:first> * I should have finished these thing by yesterday.

のようにscrivener上で書いたものをコンパイルすると,出力は次のようになってしまいます。

 

In 1, the omission of the plural morpheme makes the sentence ungrammatical.

1 * I should have finished these thing by yesterday.

(1)のようにしたいときは,タグをさらに丸括弧で囲んで,(<$n:ex:first>)としなくてはいけません。これはそこまで厄介ではありませんが,少し厄介なのは,同じ番号を繰り返して,(1a), (1b)のようなものを作ることが出来ない点です(注1)。その場合,exの部分を別のキーワードに設定して,(<$n:ex1:first>),(<$n:ex2:first>)のようにすれば,それぞれ初出なら1が出てきますから,そこにaやbを自分で書き足して,(<$n:ex1:first>a),(<$n:ex2:first>b)とすれば,(1a),(1b),のような連番作成はおそらく可能でしょう。これを使うことの問題は,そもそも例文の「グループ」という概念を壊すことになってしまうので,どのキーワードを使えば何の数字が出てくるかを自分で把握しながらタグを使わないといけない点です。これは少しめんどくさそうです。もちろん,アルファベットの見出しを用いないですべて連番にすることはできるといえばできるので,そちらでも良いかもしれません(そもそも私自身数字とアルファベットの使い分けに明確なルールを持っているわけでもないです)。

ということで,この連番作成機能は役に立ちそうなので,メモとして書いておきました。今週指導教官に初稿を提出することになっているので,ラストスパート頑張ります。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

 

追記(注1):今考えれば,同じタグを使って(<$n:ex1:first>a),(<$n:ex1:first>b)とかやればいいだけでした…

CAFの(相関と)発達の順序

いま,とある実践報告論文を書いていて(共著),頭の中がこんがらがってきたので整理するために書いておきます。

CAFの相関と発達順序の話。こういう論文があります。

Koizumi, R., & In’nami, Y. (2014). Modeling complexity, accuracy, and fluency of Japanese learners of English: A structural equation modeling approach. JALT Journal, 36, 25–46.

5つの異なるスピーキングタスクでSyntactic Complexity, Accuracy, Speed Fluency, Repair Fluencyの指標をそれぞれ1つずつで共分散構造分析をしましたよという論文ですざっくりいうと。もともとはSyntactic Complexityだけ2つの指標だったり,CAF因子の上にspeaking proficiencyを置くモデルだったりspeaking proficiencyにすべての指標がloadしているモデルだったりも比較したけどCAF因子仮定したモデルが一番良かったという話ですざっくりいうと。それで,

「CAFはあります!」

「ねーよ」

っていう話は後輩のCAF警察に任せるとして,結果の解釈の話です。4つの因子間の相関をもとに色々議論している箇所があって(How Are CAF Interrelated?の節),流暢に話す(単位時間あたりの発話語数が多い)学習者は修正回数も多く(Repair Fluencyも高い),なおかつ正確さも高くて統語的に複雑な文(AS Unitあたりの節の数が多い文)を産出するそうです。で,その直後に,

Further, the results also indicate that as learners progress from beginning to lower intermediate levels, they develop the ability to produce such speech, thereby gradually improving SC, accuracy, and speed fluency (although not necessarily synchronously).

と書いてあります。熟達度があがると,徐々に複雑さも正確さも発話スピードもあがるよと。うんうん。まぁ相関あるってことはある数値が高くなると他の数値も高くなるということだからそういうことって素直に解釈して…いいのかな?ちなみに,「結果」とは,統語的複雑さと正確さの相関は= .88,統語的複雑さと発話スピードは= .63で,正確さと発話スピードの因子間相関はそれほど高くなく,= .35である,ということを指していると考えられます。その直後,

It is speculated that improvement in fluency may lead to enhanced SC, which may result in heightened accuracy; that is, when learners learn to speak faster, they may gradually come to use a greater number of clauses and longer units (sentences) and subsequently may produce more accurate utterances.

むむむ??

いや,言っていることがもっともらしいので,きっとそうなんだろうなとは思いつつ,この因子間相関から流暢さが先に発達してその後に文が複雑になって最終的には正確さもあがってくるって言えるかなぁって考えてしまいます。いや,きっとそうなんだろうと思いますし,すごくしっくりくる説明なんですよ。ただ,このspeculationと因子間相関の間に見えないギャップみたいなものを感じてしまっていて,そのギャップを自分の中の「そうなんだろうな」っていうやつで勝手に埋めてしまっている感じです。なんなんでしょうねこのもやっと感。

流暢さというのは単位時間あたりの語数なので,統語的複雑さがあがると(節の数が増えると)必然的に語数も増えるという傾向はあるでしょう。ただし,「単位時間あたりの」というのがポイントで,すごーくゆっくり,だけど節の数が多い発話をすることは論理的には可能なんですよね。

1分間で,1文が(話を簡単にするためにAS Unitではなく文にします)5語からなる文(I like soccer very much)みたいなものを5つ発話したとすると,合計は25語で,60で割ると0.416という発話スピード。一方で,1文の中に節が3つあるような文(I think that she likes playing soccer)を2文しか発話できなかったとすると合計は14語で60で割ると0.23…で流暢さは落ちる。一方で,後者の文は1文あたり節が3つで,前者の文は節が1つなので,統語的複雑さは後者のほうが上。という感じ。

ただし,統語的複雑さと発話スピードの相関は.63なので,そういうパターンはほとんどなかったということになります。対象が中高生の初級者だということを考えても,節の埋め込みがそんなに多い文を頭ひねって作り出せるかっていうとそんなに現実的ではない気ももちろんします。

正確さとスピードに相関があまりない(ないわけじゃない)というのはまぁうなずけて,スピードが早くても正確じゃない人もいれば,逆にスピードが遅くても正確というパターンもあるからですよね。ただしスピードが遅ければ遅いほど正確さがあがるという関係が見られるわけでもないので,多少は流暢ならまぁまぁ正確さもあるかもね,くらいの感じなのでしょう。

よくわからなくなってきました。最初に疑問に思っていたのは,流暢さがある程度発達すると複雑さが上がり,そして複雑さがあがってくると正確さもあがるというような発達を仮定したとき,それがデータによって示されるというのはどういうことなのだろうということでした。

多分,

  1. 流暢さの値が高くとも複雑さや正確さの値は高くない(そこに相関がない)という状態があり,
  2. 次に同じ学習者群(または最初の学習者集団よりも熟達度が高い学習者)が時間を経たとき(発達したとき)に,流暢さと複雑さの値には相関があるが,流暢さと正確さに,複雑さと正確さにも相関がないということが観察され,
  3. その後,またそれよりも時間を経たときに,複雑さと正確さの相関が高くなり,流暢さと正確さの相関もちょっと高くなる,ただし正確さと流暢さの間には高い相関はない

みたいなデータが得られたとしたら,「なるほど。流暢さ,複雑さ,正確さ」という順番で発達していくのかなぁ,ということが頭に浮かびます。ただ,横断的でもなく,縦断的でもない1つの集団のデータの因子間相関からはいまいち「発達」ということをストレートに解釈しにくいよなぁと私には思えます(あるいは私の頭が悪いからかもしれません)。

先ほどの因子間相関だと,まずは正確に話そう。正確に話せるようになると,複雑さもあがってくるだろう(正確さと複雑さの相関が高くなる),複雑さがあがると節の数も増えるので流暢さもあがってくるだろう(複雑さと流暢さの相関が高くなる),というところまでは(他のことを色々無視していれば)いけそうな気もしてきます。ただ,最終的には正確さと流暢さの相関がなくなっていくことにならなければいけないので,ある程度複雑さがあがって流暢さもあがると,実は正確さは落ちていくのだーとか言わなくてはいけなくなります。なので,この説明はやや「きれいさ」が落ちるかなとは思います。

やっぱり,語数がのび,節の数が増え,そして正確になる,という仮説のほうが正しそうです。いや,そうなんです,正しそうなんですけど,でも「実際にそういう仕組みになっている」といえるためにはどういうデータが得られないといけないのかな,ということを考えた時,そのときに浮かぶイメージと因子間相関の間のギャップにもやもやしたのでした(たぶん頭が悪い)。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。