作成者別アーカイブ: Yu Tamura

不明 のアバター

Yu Tamura について

第二言語習得の研究者。博士(学術)。英語教育のことや統計・データ分析に関わること、趣味のサッカーのことなどについて書いています。

パイロットスタディはなんのためにやるか

なんでもいいけれど,パイロットスタディの結果から何かの効果を示したいとか母集団への一般化をしたいとかいうことなら統計的仮説検定なりモデリングなりすればよいでしょう。
だけれども,「パイロットだから一般化線形モデルで結果を一般化するのはどうなの」とかいうのを聞くと,じゃあなんでt検定はいいの?となるわけです。一般化線形モデルの一般化(generalized)というのは結果を一般化しますという意味ではないでしょう?正規分布しか扱えない一般線形モデルの拡張という意味で「一般化」と呼ばれているのです。結果を「一般化」することを目的としているのは統計的仮説検定でもモデリングでも一緒でしょう。それぞれにアプローチの仕方が違うだけで,得られた標本から別の集団や標本にも適応される何かを見つけるということですよね(ものすごくおおざっぱにいうと)。

パイロットスタディの結果はパイロットスタディでの標本にいえることのみで議論するのだという立場をとるなら記述統計のみで議論すれば良い話。なんのためにパイロットスタディするのか。なんのためにに統計的仮説検定やモデリングをするのか。というかなんのために研究するのか。そういうことをよくよく考えないといけない,ということを再確認したのでした。

なにをゆう たむらゆう

おしまい

業績づくりを野球に例えてみる

空白の業績欄に「量より質」と書いてあったのを見てなんだかもやっとしたので少しだけ。

「業績づくり」という表現自体があまり好ましい言い方ではないと思いますが,わかりやすさを重視しています。要するに,研究したことを学会なり,論文なりで発表することをここでは意味しているとお考えください。

「研究は量より質だ」という言説があったとします。「◯◯は量より質だ」というテンプレートに,研究という言葉をあてはめただけだとここではお考えください。

研究を野球に例えることが適切かはわかりません。それは読者の方の判断を仰ぎたいと思います。

まず,上述の「研究は量より質だ」というのは,言外の意味として「量が多い=質が低い」,「量が少ない=質が高い」という関係が成り立っていることが示唆されています。つまり,量より質だという人は,数が少なくても質の高い研究をやっていくべきだという主張をしているわけです。一方で,「研究は質より量だ」という立場の人がいたとします。先ほどの「量が多い=質が低い」,「量が少ない=質が高い」という前提を共有していると仮定すると,「質より量」を主張する人は,多少質が低くてもたくさん発表して論文を書くべきだと主張をしていることになります。

ここでもう1つ確認しておきたいのは,「質の高い研究は質の高いジャーナルに掲載されるべきである」という前提です。もしも,その研究に本当に価値があると考えているならば,より多くの人に読まれる場所でその研究成果を発表したいと考えるであろうということです。私の分野でいえば,例えば,Studies in Second Language Acquisition, Language Learning, Applied Linguistics, TESOL Quarterlyあたりでしょうか。

それがいいかどうかは別として,発表する場所や媒体によってその研究がもつ価値はどうしても変わってきますよね。もちろんその基準が1つであるとも思いません。ただし現実には,地方学会の発表より国内学会の全国大会での発表が,全国大会での発表より国際学会での発表が高く評価されます。論文も,査読のない紀要や雑誌よりも査読のある紀要や雑誌のほうが評価が高く,また国内誌よりも国際誌のほうが評価が高くなるのが一般的であると思います(それが良いか悪いか,適切か適切でないかは別問題としておきます)。評価が高いというのは数量的に言えば点数が高いということです。地方学会の発表1件が1ポイントで,全国大会の発表1件は2ポイントになるとか,査読なし論文1本が1ポイントで,国際誌1本が10ポイントとかいう具合です(あくまで例えです。私の価値観ではなく)。

要するに,「研究は量より質だ」ということは,数少ない研究で多くの点数を稼ぐことと言い換えられるのではないでしょうか(その人が得点稼ぎを目指しているかどうかは別として)。そして「研究は質より量だ」というのは点数は低くともたくさんの研究をやって多くの点数を稼ぐことといえるでしょう。

では,業績づくりを無理やり野球に例えます。「研究は量より質」の人は,数少ない手数で多くの点数を稼ぐことと同義だと先ほど述べました。これは野球でいうと,ホームランを打つことになるのではないでしょうか。野球は,ランナーがホームに戻ってくると1点です。つまり,シングルヒットなら最低でも4本必要です(場合によってはシングルヒットで2塁から生還できる場合もあるが便宜上そういう状況は考えないこととします)。しかし,ホームランなら一振りで1点です。ヒット4本で1点に対し,ホームラン1本で1点。「量より質」とは,ホームランで得点を稼ごうとすることだといえるのではないかということです。もちろんヒットを打つことでも難しいことです。優秀な打者でも打率は3割,つまり10回に3回しかヒットにはできません。さらに,打者であればヒットを打てない人はいないでしょうが(そもそもヒットも打てない打者は試合にすら出られない),だれでもホームランを打てるでしょうか。そりゃ打席に立てる打者なら打てないことはないでしょうが,コンスタントに打てる人は本当に限られているはずですよね。それほどにホームランを打つことは難しいことなはずです。

さて,ここでまた野球の話を研究の話に戻して,打者というのを研究者に置き換えてみたいと思います。優秀な研究者であっても,accept率は3割,つまり,10本に3本しかpublishできません。なんてことはないでしょうが,研究者であればヒットを打てない人はいないというのはtrueでしょう。発表できないor論文書けないなんて人はそもそも研究者にすらなれないか,あるいは肩書は研究者でも「研究」という「試合」には出場していないということです。さらに,研究者であればホームランを打つこと(majorなjournalに載せて1本で高得点を稼ぐこと)はできる「はず」ですが,コンスタントにそれが出来る人は本当に限られていますよね。少なくとも私の分野ではそうだと思います。

結局のところ何が言いたいかと言いますと,「ヒットを打てない人にはホームランは打てないでしょう」ということなのです。シングルヒット4本で1点を取れる人はホームランを打つこともできるでしょうが,ヒットすらも打てない人,または打ったこともない人が,ホームランを打とうなんてなに言ってんだおいってなりませんかね。いいから打席に立ってとにかくバット振れと。まずヒットを打ってこいと。そうなりませんかね。「質より量」ができる人が「量より質」を重視できるのではないでしょうか。また,「質が低い」とはいっても「ヒット」にはなっているわけですよね形はどうあれ。綺麗なセンター返しではないボテボテの内野ゴロかもしれませんし,セカンドとライトの間にうまく落ちたポテンヒットかもしれません。それでも「ヒット」です。質の高い研究を目指すことはなんら批判されるべきことでもなく,むしろそれを目指して研究をするべきではあると思います。ただし,「量より質」というのは,せっかく回ってきた打席でホームランが打てそうにないからとバッターボックスに立たないことのようにも思えてしまいます。打席に立ち続けずにホームランって打てるものなのでしょうか?ホームランバッターだって,時には三振したり凡打でチャンスを潰してしまったりするわけですよね(実験をとってはみたけれどうまく結果が出なかったとか,意気込んで書いた論文がリジェクトされたりとか)。繰り返しになりますが,普通のバッターにもなってないのにホームランバッターになれるのかな?と思います。中にはまれに,もうそんなに内野安打ばかり狙ってないで,どっしり構えて,ホームラン狙って強振したらどうですか?そのガタイなんだし。っていう人もいたりするんですけれど。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

lmer関数とglmer関数(Nagoya.Rの発表の補足)

もう2ヶ月くらい前の話ですが,Nagoya.R #12で発表しました。

今更って感じなのですが,ちょっと今お手伝いでLMEをやっていて,自分でも理解があやふやな点がぼろぼろと出てきたのでメモ的に。

僕は発表中にlmer関数と,モデル比較に使えるstep関数の使い方を説明したのですが,どうやらstep関数はlmer関数で出力したもののみに対応している模様。というか,正規分布を仮定したモデルにしか適用できないみたいです。なので,lmerでfamily指定を使ってポアソン分布(poisson) や二項分布(binomial)を指定した場合には出力がされません。また,lmer関数でfamily指定すると警告メッセージでglmer関数を使うようにと言われます。なので,正規分布以外でやるときはglmer関数を使うほうがいいかもしれません。回帰の式の入力はほぼ一緒です。

ただし,glmer関数は結果の出力の解釈が実はちょっと難しくて,一発だけじゃ全水準の多重比較までみれないんですよね。なので,ダミー変数にいれたものの順番を入れ替えて計算を回していくようなのですが,それに使う引数がstartってやつっぽいのですよね。そんないちいちダミー変数入れ替えるなんてめちゃめんどくさいわけで,これで引数指定して一番最初にいれる水準を指定できるようになっているみたいなのです。ただしちょっと使い方がまだよく理解できていなくてですね…

実際に自分の研究でちゃんと使えるようになるにはここは避けて通れないわけなのですが,そっちばっかりに手を回しているわけにもいかず,RのヘルプやマニュアルとにらめっこしてはGoogle検索して…とかやってたらなんか1日終わっているみたいな幸せなのか不幸せなのかわからない昨日今日です。

いろいろ終わってません

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

 

2014年の振り返り

さてさて,今年も気づけばあと2日で終わってしまうようですね。何言ってんだお前と思った方もカレンダー確認してみてくださいね本当ですよ。というわけで,やらなければいけないことは山積みなのですが,備忘録もかねて今年も振り返っておきたいと思います。

2014年の一大イベントといえばなんといっても名古屋に来たことです。1月から3月の間はまだ中学校で臨任していまして,その最終勤務日の夜にはレンタカーに段ボール箱と布団を突っ込んで東名道爆走してましたね。そんなわけで,名古屋で博士後期課程の院生になりました。と同時に,専門学校で非常勤講師としても働き出しました。もう4月から生活がガラッと変わったわけです。私は博士後期課程の学生ですが,M1の学生と一緒に授業に出ていたりもしていました。技術的なことを身につける必要もありましたし,1年弱研究から離れていたことのブランクを埋めるという理由もありました。それと同時に,春は学会の発表申し込みだったり,学振の申請書を書いたり(1次で落ちましたけど)しました。6月はCELESでの発表があり,8月はJASELEでの発表があり,その後には投稿論文の〆切があり,9月にはJABAETでの発表,長野のメソ研に参加,そして静岡の合同ゼミ合宿に基礎研メンバーとして参戦という怒涛の日々でした。10月にはことばの科学会で大阪に行き,そしてまた投稿論文の〆切があり,学会発表の申し込みがあり,11月には研究助成の申請書を提出し,LET中部で発表し,そして今月12月はNagoya.R #12で発表がありました。つい先日はメタ分析の論文輪読会に参加して論文2本をレビューしました。そしてこれからは来月〆切の論文1本,査読が返ってきた修正原稿の〆切2本(1本はほぼ終わり),そしてなんともう今から憂鬱感が半端じゃないんですがD1報告があります。博論…どうしよう…

とまぁとっても充実した1年間だったのではないかと思います。辛い時もたくさんあったけれど,でも本当に名大に来てよかったと思います。一緒に頑張る仲間がいるっていう環境は,何事にも代えがたいですね。とくに,隣の隣の人や隣の隣の隣の人にはとても感謝しています。彼らがいなかったら名大に来ていなかったでしょうから。まぁゆくゆくはみんな別々のところにいってしまうわけで,一緒の空間で過ごす時間は残り少ないんですけどね。それを今から考えるだけでも寂しいですが,それでも頑張っていけるようにならないといけません。自分の色が少しずつ出せるように。二人に少しでも追いつけるように。そして一人でも頑張れるように。来年(度)の目標はとりあえずそこですね。それから,心身ともに健康な1年を過ごすことです。心身ともにとはよくいいますが「心」の部分の健康がとても大事なんだなというのは名古屋に来てから強く感じるようになりました。息抜きやリフレッシュの仕方もちゃんと考えないといけないなと思います。もちろん「身」も大事。今年は持病のヘルニアが悪化することはありませんでしたが,いつ悪くなってもおかしくないので。

というわけで今年もたくさんの方にお世話になりました。皆様どうぞ良いお年をお迎えください。

 

なにをゆう たむらゆう

おしまい

P.S. メタ分析の読書会で私がレビューした論文のレジュメを置いておきますので興味のある方はどうぞ。一本目はタスクの複雑さに関する認知仮説のメタ分析。二本目はL2研究における効果量の解釈に関するメタ分析です。

Jackson, D. O., & Suethanapornkul, S. (2013). The cognition hypothesis: A synthesis and meta-analysis of research on second language task complexity. Language Learning, 63, 330–367.

Plonsky, L., & Oswald, F. L. (2014). How big is “big”? : Interpreting effect sizes in L2 research. Language Learning, 64, 878-912.

久しぶりに「英語で」授業をちょっとだけやった話

どうもこんばんは。昨日のNagoya.R #12のまとめもしておきたいところなのですが,金曜日にやった授業の話を。

ついこの前に福田さんに授業を見に来てもらって,その感想を書いていただいたりしました。

彼のブログ記事はこちら→ https://fukutajunya.wordpress.com/2014/11/30/%E6%8E%88%E6%A5%AD%E8%A6%8B%E5%AD%A6%E3%81%AE%E6%84%9F%E6%83%B3%EF%BC%91/

その中でも言及されているのですが,後期は単語テストとリーディングをつなげるような授業をやっています。毎週単語テストをやって,前週に単語テストに出た単語が出てくる物語文の読解をやるという感じ。物語文は私自身が毎週書き下ろしています。主人公の名前が私の名前で,妻がいて不倫しているという設定ですw

普段はスクリーンのある大きな教室で授業をしていて,2時間続きのうちの後半ではTED動画を見ながらリスニング活動をやっています。ところが,金曜日の授業に行くと,いつもの教室が使えないとのこと。おいおいそりゃもっと早く言っておいてくれなきゃ困るよスクリーン使えないとできない授業をやっているからわざわざ大きい教室でいつもやっているんじゃないかと思ったりはしましたが,そんなこと言っても仕方ないので急遽別の活動をやることに。

授業開始まで30分というところで私が思いついたのは,物語文を素材にした活動でした。毎週やっている物語文(前週までで9話)を順番がわからないように1枚ずつ印刷して,それを読んで4コマ漫画にまとめてからコマを描写するライティング活動です。ただしそれだけだと90分はもたないということで,それぞれに1話ずつをランダムに配布するようにしました。それぞれがまとめた文章だけをもとにして,全員で協力して正しい順番になるように並べ替えるという感じ。これを英語でやろうということです。

まずは各自がそれぞれのエピソードを読んで,まとめる作業。話し合いの段階では元の文章は回収することをあらかじめ伝えておきました。

完全に思いつきだったのであまり細かいことは考えていませんでしたが,今考えると,先に文章から4コマだけを作らせて,文章を回収してから漫画のサマリーを書くという順序にすればよかったなと反省。あるいは読ませて回収してから書かせるというのでもよかった。もう少し難易度を下げるとすると,例えば各コマに対してキーワードを3つだけ書いてよいとかにしても良かったのかも。そしてそれをもとに文を書かせるという。

その後に順番を並び替えさせるにあたって,どういうスタイルにするかは悩みました。全員で9人しかいないとはいっても,9人で話し合わせるのは議論が活発にならないだろうし,かといって半分に分けるとすると,分けた4人の順番には穴があくので(例えば1話と4話と7話と9話みたいになる),それをもう半分と合わせるたときに順番を考えるのが難しいかなと思ったり。今考えると,先にグループを分けて前半組には1~4話,後半組には5~9話みたいにする手もあったなと思います。そうすれば,グループ内での並び替えはシームレスになるので。結局その場でいいアイデアが思い浮かばずに9人で1つにすることに。

全員が個人でまとめる作業に入っている間,黒板に話し合いで使えそうな英語表現を書いておきました。

  • 順番を表す:first, second, third; then, finallyなど
  • 前後関係を表す: before ~, after~

みたいな感じ。あとはfollowやprecedeなんかも書いておいて,全員がまとめ終わったら表現をちょっと解説。最初の”I’ll talk about~”や最後の”That’s all.”なんかも書いておきました。本当は自由に英語でdiscussionしながらやれたらよかったんですけれど,いきなりそれはちょっと難しいと。

そんなわけで,順番に自分がまとめた英文を読み上げるような感じにしました。読んだ人が次の人をどんどん指名していく感じ。聞いている人は,メモを取って誰の次に誰が来るかを考えさせるようにしました。

全員が読み終わったあとに,「さぁみんなで考えよう!」みたいにやっても「シーン」ですよね当然。なので,私自身がコーディネーターというかオーガナイザーみたいになって,英語でみんなの意見を聞いていくようにしました。”Whose story do you think comes first?”みたな感じで。これでもシーンてなるので,指名しながらやりました。”What do you think, ◯◯?”とか言いながら。文で発話するのは難しいんですけれど,”×× first”みたいなことをいったら,”OK. ◯◯ thinks ××’s story comes first. What do you think, ××?”みたいな感じで回すと。間違ってたら”No.”とかいう学生がいたりして,”Then, who do you think read the first one?”とか聞いてみたり。何人かに聞いて同じ人の名前があがったら,その人にもう一度読み上げてもらって内容を再確認。ここでまたメモを足している学生もいました。次は誰かとか聞いてみると手をあげたりする学生がいて”Do you think your story follows ××’s one?”とか聞いていく感じ。本当なら,”Why?”とか聞いたらいいかもしれないのですが,これに答えるのは意外に難しくて,多分答えに詰まっちゃうだろうなと思ったのであえて聞きませんでした。こうやって,適宜順番を確認しながら,残っているのは誰だっけー?みたいにしつつ,最終的に1~9の順番を割り振って「ちゃんとつながったねー!」という感じでおしまい。

この活動は,「クラスメイトが読んだ内容を耳で聞いて理解する」ということと,「その情報をもとに順番を並び替える」という2つのことが要求されます。リスニングすることの積極的な意味付けをするのってちょっと難しかったりするので,一生懸命聞き取って内容をメモしていたのを見るとある程度は機能していたのかなと感じました。感想を見ると「やりがいがあった」という声や「難しかったけど,最後に全員のがつながって感動した」という声もありました。「面倒でした」という感想もありましたが…

はっきり言って一番英語力がアップする機会があったのはその場で情報を整理したり,聞き出したり,意見を求めたり,とかを英語でやっていた私自身だと思います(苦笑)。ただ,教師と学生の目標言語のインタラクションの機会って最近の授業ではあまりなかったので,新鮮ではあったのではないかと思います。「久しぶりに英語だけの授業楽しかったです」という感想もありました。インタラクションを通じたインプットを与えるのも,少人数だから結構機能するし,やらないともったいないですね。ちょっとこれからはそういうのも考えながら授業の活動を作っていこうかなと思いました(今さら…)。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

教室で一斉に同じことをやらせる意味は何なのか

今日ちょっと色々考えたので忘れないうちにメモしておこうと思います。あらかじめ申し上げておきますと,以下,問いに対する答えはありません。

北米留学時代,社会言語学の授業を取っていた頃に教育とはどういうことなのか,ということや,言語教育を含む教育のもつ暴力性みたいなものを考えたことがありました。

当時はこんなことを書いています。

【授業】教育について考えた

今日引っかかったのは,「教室で一斉に同じことをやらせる意味は何なのか」という問いでした。

もっともだとも思います。本来,人の興味関心や学習の進度などなどはそれこそ十人十色であるわけなので,その中で「全員に一斉に同じことに取り組ませる意味」があるのかどうかということです。もしあるのだとしたらそれはなんなのかということになります。これは実は教室内のほぼすべての活動に当てはまるわけです。言語教育で考えてみると,全員で一斉に音読するにしろ,ペアワークをやるにしろ,グループワークをするにしろ,個別の多読活動に取り組むにしろ,どんなことをやるにしても,「教室の中で,(それぞれのペースやそれぞれのやり方でであったとしても)同じ◯◯をするのはどうしてか」ということ。すごく意地の悪い言い方をすると,「それって結局全部教員側の都合じゃないか」と言い換えられなくもないかもしれません。

教育といっても,学校教育かどうかは大きな違いであるでしょう。また,例えば言語教育でもどのような文脈で行われる言語教育なのかでこの問いのもつ意味も変わってくるでしょう。

教育を,「生徒・学生のためのものである」と考えると,「教員の都合(意見・ビリーフとも言い換えられるかもしれません)」が優先されるべきではなく,「生徒・学生が何を学びたいのか」ということ,こそ重要視されるべきだということになるでしょうか。そのとおりでしょうね。ただし,学校教育においては,「学習指導要領」というもので学ぶ内容に関しての規定があるわけですし,また小中高生が「何を学びたいのか」はあるにしても,「学びたいと思うことや興味が有ることしか教えなくていいのか,教えてはいけないのか」という意見や,「何が自分の人生に必要なのか」を主体的に取捨選択できる能力があるのか,という意見もあるでしょう。大学における教育でも同じような議論は当てはまるのではないでしょうか。自分の学部時代を振り返ってみても「あれを勉強しておけばよかった」と思うことは山ほどあります。そう今思うということは,当時は重要だと思っていなかったからろくすっぽ勉強しなかったか,あるいはそれがこの先重要になると考えもしなかったということでしょう。「そもそもその『あれ』を知りもしなかった」という可能性もあるかもしれません。

さて,ここで,ニーズ分析(needs analysis)についてです。これは,言語教育の分野では最近だと特にTask-based Language Teaching(TBLT),English for Specific Purposes (ESP)との兼ね合いで聞かれることが多い用語かもしれません。あるいは,curriculum developmentやevaluation and assessmentの文脈でも使われると思います。TBLTにしてもcurriculum developmentやevaluation and assessmentでも,大事なことは「目標を設定する」ということです。どんな目標を設定すればよいのか,というときに,学習者のニーズに基づいた目標を設定するべきであり,それに基づいたシラバスデザインなりカリキュラムなりを作り,そしてその目標の達成度合いを評価することが重要であるという考えです。学習者の目線から教育内容を考えるというのは,先ほどの「生徒・学生が何を学びたいか」ということを考えているということができると思います。

学習者のニーズは,それが今必要であるという意味のニーズか,あるいは未来に必要になるという意味でのニーズかで違ってきます。例えば,私がアメリカにいた時に実習で教えていた移民の人達にとって必要なのは,彼らが今まさに生きていくために必要となる様々な場面での言語使用(買い物であったり職探しであったり)でした。当然そのニーズにあった言語教育が提供されていました。目標言語環境における言語教育では,そういった現在のニーズが重要視されることが多いでしょう。対照的に,例えば日本の外国語教育を考えてみると,現在のニーズというのはない場合が多いでしょう。あったとしても,それが入試突破や資格試験のスコアアップという意味でのニーズという場合がほとんどなのが現状なのではないでしょうか。むしろ,「実際に言語が使用できるようになる」ということを目標にした場合,大学の一般教養科目としての外国語教育,中でも英語教育では,学生が卒業後に必要となるであろう(あるいはかもしれない)ニーズに合わせたカリキュラムを組むことになると思います。そうなると,教員ができるのは,教える学生層の進路状況からニーズを逆算したり,あるいは学習者に直接聞いたりということになるでしょう。「卒業後の進路が明確に決まっている学生」が多ければ後者の方法も有効かもしれません。しかし,そうでない場合や,ニーズのばらつきが大きすぎる場合には,別の方法で的を絞ることになります。そこで,例えば題材自体はある学習者のニーズにフィットしていなくとも,そこで行われる活動で用いられる言語や,活動中に発生するインタラクションが実際の言語使用場面においても応用可能であるようなタスクを用いたりします。

と,こうやって「学習者のニーズ分析」から始まってタスクに落としこむところまでいったとろこで,一番最初の疑問にぶち当たっていることに気づかされます。つまり,「なぜ,全員のニーズの共通項や,最小公倍数をとって授業を組み立てようとするのか,それは結局全員に同じことをさせようとしている発想から抜け出せていないではないか」ということです。

こちら(教員側)であの手この手をつかって色々考えてやってるつもりが,実はそれって押し付けなんじゃないのか,と考えさせられてしまうのです。そう考えると,教育っていうのはそもそもが押しつけというか,暴力性を帯びた行為であるということになるのかもしれません。教員と学生のパワーバランスの話も関わってくるでしょう。今のところ僕の中で答えや解決策は見つかっていません。ただ,授業をする,何かを教えるということの難しさを考え,自分の今の実践や過去の実践を振り返り,またこれからの授業がどうあるべきかについて思いを馳せた。そんな日でした。

MBAの充電残り3%で充電器は研究室。そろそろ寝ます。

遠くからライフルで撃つか,接近戦でナイフで仕留めるか。

別にゲームの話ではありません。戦争の話でもありません。ただし,私達の日々の仕事は戦闘です。敵は?そうトドです。日々どのようにトドを狩るか。狩っても狩っても湧いてくるトドをどうしたら効率的にたおせるのか。それが人生です。トドの狩り方は人それぞれでしょうから,この狩り方が良いという絶対の方法もないでしょう。遠くからライフルで撃つもよし,放置してたから接近戦になりあえて近くまでおびき寄せてからナイフで仕留めるもよし。要するに,トドに殺られる前にやっつければよいというわけです。

さて,私の狩り方はどうか。振り返ってみました。私は,他の多くの方と同じように〆切がなければなにもしないクズ野郎です。ですから,いつも視界に入っているトドを見て見ぬフリをして,そろそろやばいかもという段階になって必死にナイフで戦ってなんとか一命を取り留めるということをしてきました。そして接近戦闘の次の日は使い物にならずHPの回復に費やすということも多々有りました。しかし,本当はライフルで華麗に狙い撃ちしたいのです。身の危険がより少ない段階でトドを仕留めておきたいのです。口頭発表の申し込みの日にはスライドが完成していて,論文の募集が始まった日に原稿を投稿してしまうそして落ちる,そういう仕事の出来る人になりたいのです。それには,トドを把握すること,どのトドを先に狙い撃つか,計画をしっかり立てることが重要ですよね。当たり前の話です。つまり,トドの管理です。私は今まで,iPhoneのリマインダーやGoogleのカレンダーのTo doリストを使っていました。iPhoneのリマインダーは,そもそもそのリマインダーをいつもチェックするというクセがなく,僕にはあまり合いませんでした。昨年度までは使っていましたが,名古屋に来てからはGoogleカレンダーのTo doリストにしていました。基本的にGoogleカレンダーはいつも見ているので,そこにTo doリストがあればいつもTo doを気にしながら作業ができるからです。ただし,ちょっと物足りなさを感じていたのはカテゴリ分けやサブタスクの設定ができないことでした。プライベートのトドや,仕事のトドがごっちゃになってしまい,さらには「論文投稿」というタスクの下に,「第1稿完了」や「英文校閲に出す」などのサブタスクをつけて,各タスク間の階層関係をつけることもできませんでした。そしてつい最近こんなことを言われました。

うちのゼミはトドの早狩りが売りなのに,お前はいつもギリギリ

……

てへぺろ☆  ★
*   ___ +
★  + /)⌒ ⌒\
+ _ヘ//(●) < ヽ
/ヒノノ _二⊃(_人_)  |
< +  ヽノ ノ
/ ̄\) *    \

というわけで,いよいよ私は接近戦型社畜RA戦士から,遠距離狙撃型社畜RA戦士にならなくてはいけなくなりました。額にもう1つの目がある感じで撃っちゃうよと。1キロ先のトドも撃っちゃうよと。そこでevernoteを漁っていたらこんな記事を見つけました。

米Lifehacker編集部のiPhoneのイチオシToDoアプリは『Wunderlist』

http://www.lifehacker.jp/2011/10/111027iphonewunderlist.html

無料のTo doリストで人気なのはRemember the Milkかもしれません。名前はよく聞いたことがあります。でもWunderlistはデザインもなんかスタイリッシュでかっこいいのでそっちにしました。というかGoogleカレンダーとの連携やウェブ版があって窓機からでも見れるというのもRTMでもできますからね。

Screen Shot 2014-11-28 at 23.19.47

Mac版のホームはこんなかんじです。背景は無料版でも20種類から選ぶことができます。左側でカテゴリ分けをしています。とりあえず今は試しにプライベート,食料品の買い物,仕事,ほしい物リストという感じです。

食料品の買い物というカテゴリを開くと,こんなかんじ。

Screen Shot 2014-11-28 at 23.44.48

一番上の黒っぽいところに新しいのをどんどん書いていきます。肉類というところを開くと,

Screen Shot 2014-11-28 at 23.21.43

こんな感じで何を買うかというのを入力することができるわけですね。ここにサブタスクを突っ込む感じです。順番は後で入れ替え可能です。due dateのところで日付を設定したり,その下でリマインダーの登録も出来ます。Todoリストは名前順で並び替えたり。まぁまだ使い始めたばかりなので,実際の使用感とかはまたレビューしようかなと思います。そういえば,今日の授業でこんなTED動画を扱いました。

Keep your goals to yourself

目標を決めて何かをするときは,それを人には言わないほうがよいそうです。人にいうことで満足感を得てしまい,努力しなくなってしまうとか。こんなところで遠距離狙撃するぞ!なんて言ってる僕はもうだめですね…

なにをゆう たむらゆう

おしまい

文法の明示的指導研究について思うこと

明示的指導について前々から思っていたことを書きます。

文法に対する明示的指導の有効性は,文法指導研究における主たる関心のひとつです。明示的知識が自動化されるという立場でも,明示的知識が間接的に暗示的知識の習得に寄与するという立場でも,「明示的知識の習得には意味がある」→「それを促進するであろう明示的指導をやる」という流れにすごく雑にまとめるとなると思いますので,その有効性を主張しようとするのは(とりあえず)ここでは問題にしません。私がずっと疑問に思うのは,その前提の部分です。

研究の対象に,大学生が選ばれるケースは結構あります。これはいろんな研究に当てはまるでしょう。大学生以上のある程度熟達度の高い学習者を見たい,あるいはそうでないと見れないものを見たいという動機のばあいもあるでしょう。それは問題ありません。私が気になるのは「中高6年間の英語教育を受けた大学生でも誤用がある」みたいなケースです。これが,「ある程度熟達度が高くても誤用がみられるのでその原因を理論的に探る」とかいう研究の出発点になるならそれはすごく面白いと思います。このモデルでその原因の説明つくとかそういう研究。そういうことは大いにやるべきだと思います。しかし,その「大学生でも誤用が見られる」という現象に対して「教わったことがないのだ」という解釈をしようとする(あるいはそうだと言い切ってしまう)のはちょっと待ってと思います。その教わったことがないっていうのはどうしてわかるの?という問題です。それが,「参加者がそう言っていた」という程度の証拠に基づいた発言ならば,それを信頼できるデータとして疑うことってないのですか?と聞きたくなるわけです。「教わったことがない」というのは,「学習していない」という意味でしょうが,それは「指導していない」と必ずしも同じことを意味しないのではないでしょうか。「指導は受けたけれど学習しなかった(色々な要因があってまじめに取り組んでいなかった)」ということもあるでしょう。また,「学習はしたけれど,覚えていない(のでできない)」ということもあるでしょう。さらに、明示的な知識が一回の指導介入で長期的に伸びるということは,先行研究で支持されていることでしょうか?

「教わったことがない」という人たちはそういった可能性は考えないのでしょうか。「教わったことがないっぽいから教えました。うまくいきました。明示的指導効果ある!」という主張の研究をみると,じゃあとりあえず1年後に遅延テストやってみましょうかねとか言ってみたくなります。ものすごくマニアックな項目(例えば僕がCELESで発表した「非断定的述語」とか)なら教わってないだろうとか言ってもまあまあ説得力があるかもしれません(だって「英語教育研究者」すらなにそれって感じでしょうから)。

しかし例えば自動詞・他動詞みたいなのは本当に「教わらなかった」のかなとか思ってしまいます。ある個別の文法項目に対する明示的な指導が中学や高校時代にあったかなかったかは調べようがないので,「インプットが少ない」というならまだわからなくはありません。教科書に登場する回数が少ないというようなことがデータによって示されるケースです。それでもこの手の論の運び方の問題は,「そもそも教科書に書いてあるものがどれだけ中高生のインプットになっているのか」ということと,「教科書に書いていないことは教えていないのか」ということです。ある特定の項目に対する介入効果をみようとするとき,それが「規則の明示的説明」という明示的指導を指すことは少なくありません。そこで私はこう問いたいです。それやるならもっと面白い「明示的指導」を考えませんか,と。

研究の結果に対して中立的になるならば,「今回の結果は明示的指導の効果があったというだけであって,明示的指導を推進することはしない」という主張もあるのかもしれません。しかしそうであるとすれば,その研究って誰がハッピーになるのだろうかと。明示的指導の効果を検証する研究のゴールはそういった研究を蓄積していって最終的には項目間の差を明らかにするということだと私は思っています。ということは,最終的には,明示的指導に効果のある項目は明示的指導をしましょうとかなっていくはずですよね。しかしながら,その明示的指導がプリントにただただ規則が書いてあってそれを渡して教員が読むなんてそんな工夫のくの字もないような指導のことだったとしたらー規則が与えられるだけでいいのだとしたらーその辺に売ってる文法書を読んだ人はその文法マスターするはずじゃないのと思うわけです。

また,明示的指導の効果としての明示的知識は長続きしないと言われています。しかしながら,明示的知識にもその後のインプット中の気づきの機会を増やすという役割が主張されることがあります。であるとするならば,そういった明示的知識の役割に焦点をあてた研究のほうが,教育的示唆もあるのではないでしょうか?あるいは,明示的知識が維持されるような継続的な介入法を探るというのも1つの方法かもしれません。

要するに,「授業としての指導介入」という視点をまったくもたないような(もっているのか疑わしいような)文法指導研究は,その結果をどこに還元したいの?という点で非常に疑問が多いということです。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

パフォーマンスとしての授業

昨日,「マイクロティーチング&マイクロリサーチ」という題目のワークショップで,授業者を担当させていただくという機会をいただいた。大雑把な主旨は,

その場で事前事後テストデザインの指導介入を行い,その介入効果を実際にデータ分析して示す

というのを90分でやるというもの。基礎研チームでテストの実施からトリートメント,理論的な背景の説明,分析結果の提示と解釈,考察までをやるというワークショップで,誰がミスってもうまくいかないというものだった。結果として,表面的には成功したように見せることができた。その意味での達成感と充実感はある。ただし,それは表面上の話。このワークショップの詳細は,別の機会にまとまった文章をしかるべきところで書かせていただくとして,自分がやった授業のことを少し振り返っておきたい。

私個人としては,授業は大失敗。そもそも,今まで何百回と授業をやってきて,成功した試しなど一度もないので,授業はそもそもうまくなどいかないものであると思っている。そうではあるにしても,到底納得のいく授業はできなかった。しかし,終わったあとにはお招きいただいた先生にお褒めいただき(お世辞かもしれないが),授業に参加していただいた学生さんからは授業がうまいと声をかけていただくこととなった。僕は失敗したと思ったのにもかかわらずである。まずは,その辺のことを考えてみたい。

私がマイクロティーチングでどのようなことをしたかというと,まず基本は”All English”での授業。日本語は一切使用しなかった。また,文法の明示的説明も一切なし。pre-taskとしてSpot the differenceをやったあと,絵を見せながら学生とインタラクションをしつつ目標構文の暗示的訂正フィードバックを行う。というのが授業の一連の流れ。とにかくハイテンションで,いわゆる「馬鹿」になるということに最初から最後まで徹した。

失敗した点は,次の1点に集約されると考えている。それは,学生に目標言語項目の産出をさせる,学生から目標言語項目を使用した発話を引き出す(elicitation)ということができなかったという点である。

この原因は2点ある。1点目は,学生の背景知識の推定と,教材の選択を誤ったという点である。私は,この間違い探しタスクは,場所を表す前置詞句や,there構文の産出を促すタスクとしてよく用いられていると考えていた。実際に,中学2年次でthere構文が導入される際,この間違い探しタスクを用いるという中学校教員の方は少なくないだろう。ましてや,授業参加者の学生の殆どは英語教育ゼミに所属している学生である。私は,このtask自体の持つ性質と,pre-testにおいてthere構文の項目が多く含まれるということから,task中にthere構文が多く産出されるだろうと予想していた。それを前提に,次の絵描写を含めたインタラクションを行う予定だった。しかしながら,実際にはそのようなことは起こらなかった。教材として選んだ間違い探し自体の問題である可能性もある。その絵がthere構文の産出を促すようなものではなかったということである。そのような教材選択も含めて,このpre-taskは失敗だった。「想定通りにthere構文の産出を引き出せなかった」という点においては。学習者同士が活発に英語でインタラクションをしていた点や,その後に,間違いを多く見つけられたペアに,教室後ろにあったリフレッシュメントのお菓子をポケットから出して渡すということで「ひと笑い」取ったことは教室の雰囲気を良くしたということはあったかもしれない。

原因の2点目は,絵描写とインタラクションにおいて,there構文を引き出すための義務的文脈を作り出せなかったという点である。私は,impressiveというソフトウェアのスポットライト機能を使い,部屋の写真を見せた。その後,停電したという設定で,その部屋にあるものをスポットライトで映しながらそのスポットライトに映るものを描写させるということをした。この設定が,果たしてthere構文の産出を引き出すために適切な設定であったのかどうかは考えなおさなくてはいけないと思っている。さらに重要な事は,インタラクションの際に,どのような質問で学習者の発話を引き出すかという点である。wh疑問文なのか,yes / no疑問文なのか。私は,はじめに,”What do you see?”という疑問文をとっさに使ってしまった。これでは,”I see”….という肯定文か,あるいは,単に”Two pens.”という名詞句しか引き出せない。では,どのような疑問文が適切だったのか。”What are there?”という疑問文が思い浮かぶ方もいるだろう。これなら,”There are….”と答える学習者もいるかもしれない。しかしこれであっても,spontaneousな反応が求められる場面では,”Two pens.”という名詞句だけでも意味的に伝わる上にコミュニケーションのbreakdownが発生しない。さらにいえば,違う場所に同じようなものがあった場合(床と机にCDが置いてある場合)でも,場所の前置詞句を加えるだけでもコミュニケーションができてしまう。日本人は,there構文を習うとやたらとthere構文を連発するというが,there構文が正しく使われる場面とはどのような場面なのか,この構造の機能はなんなのかということを熟考した上で展開を考えるべきであった。そしてそれこそが,授業を準備する際のポイントであると思う。

私はそもそも,この場面にインタラクションを絡めることの必要性というかインタラクションが必須であったかということも考えた。実際,私は絵を見せながらのナラティブでdemonstrationを数回見せるはずが,ほとんどすべてをナラティブで説明してしまいそうになった。そして慌ててインタラクションの必要性を思い出して学生に質問を投げかけたのである。それほどに,ナラティブでの語りでなにも問題が発生しない状況設定であったということである。結果として,私は学生から一度もthere構文の産出を引き出すことができず,終始there構文を私が発話するというinput enhancementに近い指導をせざるを得なかった。学生の発話を私が引き取って,there構文で言い換えて発話するという具合である。この点では,corrective feedbackといえなくもないが,そもそも名詞句のみの発話が間違いではない以上,correctiveであったかどうかは疑わしい。しかし面白いのは,そのfeedbackが学習者の頭のなかにある明示的知識に対してcorrectiveに機能したという点ではある。

そのような「失敗」を犯したにも関わらず,実際には介入効果が認められるという結果になった。それは,学生が「空気を読んでくれた」結果だと思っている。pre-postで結果が図られるということで,「どこに注意するべきか」というように学生が構えていた可能性がある。この点に関する考察もまた別の機会に。

最後にひとつだけ。今回私のことを「授業がうまい」だとか「英語がうまい」とか「すごい」とか思った学生さん(が万が一いるとすればだが)にこれだけは言っておく。私は普段あのような授業はしていない。私は現在専門学校で英語の授業を担当しているが,その授業において,”All English”で,ハイテンションで,「ピエロに徹する」,そんな授業はやったことがない。昨年度,臨時的任用教員として中学校に勤務していたときでさえ,そのような授業はやったことがない。

あれはあくまでワークショップという形式の中の,マイクロティーチングとしてのパフォーマンスの授業である。普段の授業とは全く別物なのだ。初めて会った人たちに,あのような形でやったから,それなりに「面白かった」かもしれないし「うまい」と思ったのかもしれない。しかし考えてほしいことは,本当に教員として授業をやる場合,出張授業などの特別な場合をのぞいては,1回きりの授業などはないということだ。中学校であれば週4時間も授業があるわけで,大学でも毎週1時間で半期15回はある。あの授業を週4回,あるいは半期15回受けたとき,1回目と同じような感想を15回目にも抱いているだろうかということをもう一度考えてみてほしい。たいていはあのような「ノリ」に任せた授業はウケても2度目くらいまでだろう。本当に授業がうまい教員は,言語材料の選択,タスクの選択,授業の組み立て,などなど様々な要素と,生徒・学生との信頼関係などを絶妙に組み合わせていい授業を作り上げる。もちろん,特に中学校であれば「ピエロ」的な要素はとても大事な授業スキルにはなってくるとは思う。ただし,それだけで良い授業は作れないということは肝に命じておくべきだと私は思っている。ワークショップにおいて,草薙さんが話していたこととも重なるが,授業も研究と同じで,あのワークショップで見えたものはほんの10%ほど。ここで少し述べたように準備段階の方がむしろ授業の成否を分けることは多い。今回は特に,そこで失敗したと言っても過言ではない。私の授業力が足りなかった。その一言に尽きる。

以上,長くなったが,昨日からずっともやもやしていたのでここに書いた。静岡では学生さんの卒論発表を聞き,なにか頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。忘れかけていた何かを思い出させてもらえたような気がしている。ありがとうございました。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。