カテゴリー別アーカイブ: 英語教育

ChatGPTにフィードバックを「外注」する

はじめに

ずっと下書き状態だったんですが,もうこのままサクッと公開しようと思って公開します。授業の中で,今まで自分(教員)が学生の書いた英文(基本的には単文)にフィードバックしていたのですが,それを学生がChatGPTにフィードバックを求める課題にした,というお話です。

どんな授業か

2回生向けの,Listening&Speakingの授業です(教養外国語のクラスで学部は理系)。クラスサイズは35名くらいで,教科書を使いつつ,半分くらいの時間はペアでのインタラクション・タスクをやっていました。そして,post-taskとして,ワークシートに「言いたかったけど言えなかったこと」という欄に自分がタスク中に言いたかったけどうまく言えなかったことを日本語と英語で書くということを学生には求めています。この部分は授業中に終わらなかったら宿題ね,という感じで,ワークシートは写真に撮ってPDFにして毎回LMS上で提出してもらっていました。このpost-task部分の英文をLMS上に提出されたPDFを見て,私からコメントが必要な場合はコメントを返す,というようにしていました。単文とはいえ,この言い方はどうなんだろう,と思うことは結構あって(もちろん自分の感覚が間違ってることもありました),それをChatGPTにやってもらおうと思ったという。最初は自分がChatGPTに学生の書いた英文を見てもらうようにしていたのですが,なにせLMS上でタイピングしているわけではないので,手書き文字をいちいち打ち直さないといけないと。どっちにしろめちゃくちゃ時間かかるじゃん,ということで,それなら学生がChatGPTで事前に添削してもらったものを教員がチェックするほうがいいかなということで,学生に使わせることにしました。

具体的な方法

学生には,ChatGPTのアカウント作成方法などを書いた資料を配っていました(今はログインなしでも使えるのでこれは不要ですね)。ChatGPT3.5(無料版)だと,英文の添削と理由の説明をお願いしても,理由も英語で説明してくる場合があります(今はわからないです)。そういうときに,日本語で説明して,とやりとりをして日本語の説明を出してもらう,そういう部分も含めてスレッドを全部画像として提出するように学生にはお願いしていました。つまり,最初にどういう入力をして,どういう出力が返ってきたのかのやりとりを提出させる,ということです。こうすることで,一応ChatGPTが全部書く,ということを抑制しようという狙いがありました。

また,私はそこは直接的には狙っていなかったのですが,こういう方式をとることで,結構学生の学習になっている部分があるな,学習につながるやりとりができているな,と感じる部分もありました。一応こちらでテンプレのプロンプトは提示していますが,自分で考えて,「XXXXXXXXXXXXをYYYYYYYYYYと訳しました。あってますか」(Xには和文,Yには英文が入ります)と聞いてる学生もいました。その他にも,自分で色々気になったことを聞いてる様子がみられました(すべての学生からではないですが)。以下はその例です。

  • separeteとdivideの意味の違い
  • 冠詞のaとtheの使い分け,訂正された英文に冠詞を入れる必要がないかどうか
  • be動詞と動詞の接続(may be likeはあってるか,とか)※このlikeは動詞
  • severeとseriousの違い
  • thinkとconsiderの違い

また,ただ添削するだけではなく,語彙や文法について,私が指示していなくてもChatGPTに聞いている様子もありました。さらに,次のようなことをChatGPTとやりとりしている学生もいました。

  • 英語にしてもらったものをさらに日本語に訳させて自分が伝えたい意味になっているかを確認する
  • 提案された表現が自分にとって新規のものであった場合に,どのようなケースで使用するのか
  • 修正の提案が間違っている場合に,間違っていることを指摘する
  • 英文を読み,自分の意図と違っている場合には自分の意図を伝えて再度英文を作ってもらう

最初は使い方へのフィードバックがいる

最初からうまくできるわけではないので,最初の何回かは明示的にうまく英文添削をしてもらえている例とうまくできていない例(例えば,自分で英文を作らずに日本語を英訳してもらうことをお願いしている,英文を添削してほしいというプロンプトなしで英文をChatGPTに投げるので,ChatGPTは普通にその英文に応答して会話をしているなど)を提示していました。そのうち,私が別に教えなくても学生自らが様々な方法でChatGPTとやりとりを繰り広げる様子が見られるようになったという感じです。

授業中に学生に声を掛けることに対する迷い

こうやって文法指導的な部分をChatGPTに外注していると,それまで授業の内外で自分が担っていた指導が必要なくなることになります。もちろん,ChatGPTの出力と学生の言いたいことをモニターして,うまく英文を作れていなかったら,あるいは文法解説が間違っていればこちらからフィードバックを出すことはあります。ただ,授業中に例えば学生の書いている英文に誤りを見つけたときに,迷うことが増えました。その場でフィードバックもできるのですが,結局あとでChatGPTに自分でフィードバックをもらいにいくことになるわけで,そこで誤りが見つかるほうが学生にとって良い経験になる可能性もあるのではないかと考えるようになったのです。

個人的な感覚ですけど,間違いを指摘される際にその場で,なんなら周りにそのことがもしかしたら聞かれているかもしれない,という状況でフィードバックをもらうよりは,自分の自学の時間で感情のないAIからフィードバックを受けるほうが精神的にいいのかなみたいな。

このあたりは,まだまだ試行錯誤という感じです。

学生の反応

ちなみに,学期末の授業評価アンケートで,このChatGPTに英文を添削してもらうという課題は意味がないからやめたほうがいいというコメントもありました。私から見ると有効活用している例が結構あったのでそれはいい英語学習になっているなと感じたのですが,私の意図が伝わっていない学習者にとってはこの課題自体を自分の英語学習に有用だという認識を得られなかったということになります。匿名のアンケートなので詳しくどういう印象だったかを聞くことはできなかったのですが,結構気にはなっています。

おわりに

最近は研究でもどんどん生成AIの利用について様々な観点の研究が出てきていますね。実践するうえではそういう研究も参照しないとなーと思ったりはします(するだけ)。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

業務量が多くて自分自身の求める授業ができないので教員辞めたいですというご相談

はじめに

Querie.meでいただいた質問シリーズ。今回は,質問というより相談という感じですね。

質問

4月から高校の教員になりました。もう辞めたくなるくらい業務量が多いです。自分自身の求める授業が校務分掌、クラブ活動、事務作業によってできていないです。もう辞めたいです。。。

回答

まずは,4月から教員になることができたこと,おめでとうございます。「自分自身の求める授業」をお持ちだというところから,きっと教員になりたいと思ってなられたのだろうと推察します。最初は何もかもが初めてのことだらけなので,力の入れどころ,抜きどころ,もわからないのでアップアップになっちゃいますよね。

理想も大事だけど続けられることのほうが大事

理想を追い求めることは重要だとは思いますが,持続可能性の方がもっと大事だと私は思っています。授業準備の時間が少ないということはそれはそれで学校教員の労働問題として大事なことではあります。そうではあっても授業以外の仕事も教員の仕事ではありますよね。授業以外の時間を効率化して授業準備にあてる時間を最大化することを考えると同時に,自分のQOLを維持しながらどういった授業が可能だろうかと考えることも大事になってくるのではないでしょうか。

自分をすり減らして数年間だけ理想の授業をやってやめてしまうよりも,自分の環境の中でできることを退職まで数十年続けるほうが,結果的にはより多くの生徒にポジティブなインパクトを与えることができると思います(もちろん,自分の授業が必ずポジティブなインパクトを与えるとは限らないわけですけど)。

こだわるポイントを絞る

質問者の方がどのような環境で働かれているのか等はわからないので具体的なことをアドバイスしたりはできませんが,目の前の生徒に向きあうことだけはやめないとか,何かこれだけは…という部分を自分の中で決めてみてはいかがでしょうか。授業でも,例えば何か一つここだけはこだわってやろう,と決めてみるとか。全部が全部完璧に,というのはなかなか難しいですし,仮に他の業務に忙殺されていなかったとしても,理想の授業ができるとも限りません。また,理想の授業というのも経験を重ねるうちに変化していくものだと思いますし。

自分に課すハードルが高すぎることが自分を苦しめてしまうということもあると思うので,それを下げてあげることで楽になる部分もきっとあります。それは自分を甘やかすこととは違うことです。これは個人によって考え方も違ってくるのでそれが正しいとかではなく私はこうしているっていうことなんですが,先のこととか大きいこととか,そういうのではなく,目の前の,小さなことをクリアしていくことを意識してみてはいかがでしょうか。「理想の授業」がどんなものかはわからないですけど,きっといろんなことがその中には詰まっていると思います。それを一旦バラバラにしてあげて,その小さなことを意識してみるというんでしょうかね。そういうのを続けていく中で,自分のパフォーマンスもあがっていくし,自分自身も成長できると考えています。

そんな要素還元主義的な考えで授業が成り立つわけないと思っていらっしゃるとしたら,うーんまあそういうこともあるだろうけどね〜って感じなんですけど。仮に真の現実が要素還元できないような複雑なものであったとしても,人間が理解して,そして生きやすいように要素に分けてあげることは全然アリだと私は思っています。

周りに頼る

これは私自身も超絶苦手なことなので,誰かに言えるようなことでもないのですけどね。力を抜いて周りにも頼りながらやってみてはどうでしょうか。学校は組織ですから,授業も,校務分掌も,クラブ活動も,事務作業も,周りとつながりながらやっていくとバランスが取れるんじゃないでしょうか。それができたらわざわざ匿名で私のところに質問を送ったりしないとは思いますけど。同じ学校の中で悩みを共有できる人がいなかったとしても,一歩外に出れば,それこそSNSでもいいですし,学会とか研究会みたいなものでもいいですし,学校の外に出ればいろんなところで自分を支えてくれる小さなコミュニティに出会うことができると思います。その一つの手段として私に質問を送っていただけたのなら,それはとてもありがたいことです。もしまた何かあったら質問していただければと思います。

おわりに

質問者の方と同じようなことを感じている人も他にもいるかもしれないなと思うので,そういう人たちにも届いてほしいなと思います。

なにをゆう

たむらゆう。

おしまい。

Shiny Appsでランダムグループ分けアプリ

はじめに

私って,授業でグループ・ディスカッションとかよくすることがあるんです。そのときに,ランダムにグループ分けをしています(そうしないほうがいいときもあるでしょうけど)。そこで,いつもは下記のサイトにあるRコードを使って,その場でRを回しています。

(続)Rで学生・生徒を指定した人数のグループに分ける関数

ただ,Rを開いて,コードと名前リストをコピペして,っていうのがやや面倒なんですよね。それから,クラスの人数を把握して,何グループ作ったら何人のグループがいくつできるのかとか,そういうのを瞬時に頭の中で計算できた試しがありません。ぱっとその場で計算の得意な学生に聞くこともあるのですが,ややもたつきます。そこで,機械にやらせちゃおう,というお話。

作りました(機械が)

ChatGPTに,こういうのを作りたい,と相談してコードを書いてもらい,修正したい部分が出てきたらその都度コードを書き換えてもらいながら1時間位で作りました。

https://yutamura.shinyapps.io/RandomGroup

名前リストをコピペして貼り付けて,グループ数を調整したらグループ分けがされます。

こだわりポイントはこんな感じで,今いる人数を計算して,何人のグループがいくつできるのかを提案してくれることです。

最初は,グループの数のあとに「つ」がついてたのですが,例えば,「5人のグループが10つできます」みたいな時が出てしまいます。数が二桁超えると「つ」はつかないですよね。もちろん,グループ数が多くなったら変えるみたいなロジックを追加することもできるっちゃできるわけですが,ちょっとめんどくさいなと思って(いや自分でコード書いてるわけじゃないんですけど),全部「個」にしました。「個」最強。ちょっと違和感あるにはありますけど。

100行まで名前リストを入力できるようにしているので,100人サイズのクラスまでは対応できるかなと思います。それより多くなったら2回に分けてもらう感じですかね。

インタラクティブな仕様にしたので,グループ数を変えていけば,その下の提案も変化して,自分で何人のグループがいくつにできるのかいくつか候補を見たうえでグループ分けができます(俺得)。

お試し用名前リスト

ChatGPTに,お試し用にコピペして使える名前リストを出してもらったので,このリストをコピペして実際にどんな感じか使ってみてください。

Alex Smith
Sam Johnson
Charlie Williams
Taylor Jones
Jordan Brown
Skyler Davis
Morgan Miller
Casey Wilson
Jamie Moore
Avery Taylor
Alex Smith
Sam Johnson
Charlie Williams
Taylor Jones
Jordan Brown
Skyler Davis
Morgan Miller
Casey Wilson
Jamie Moore
Avery Taylor
Alex Smith
Sam Johnson
Charlie Williams
Taylor Jones
Jordan Brown
Skyler Davis
Morgan Miller
Casey Wilson
Jamie Moore
Avery Taylor
Alex Smith
Sam Johnson
Charlie Williams
Taylor Jones
Jordan Brown
Skyler Davis
Morgan Miller
Casey Wilson
Jamie Moore
Avery Taylor
Alex Smith
Sam Johnson
Charlie Williams
Taylor Jones
Jordan Brown
Skyler Davis
Morgan Miller
Casey Wilson
Jamie Moore
Avery Taylor

※名前被ってたりして芸がない

おわりに

いや,こんなことやってる場合じゃないんだ本当は…

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

「生徒のレベルの差があるとうまくいかないのでは」という懸念についての疑問

はじめに

特急サンダーバード50号の中で書いています。

タイトルのような話は非常勤でやっている英語科教育法の授業でよく聞かれる質問です。

これはできる子には楽しいかもしれないけれど,できない子はなかなか発言ができないのでは。

できない子が「何もできなかった」と劣等感を覚えるのではないか。

できる子ができない子の分も頑張って損するのではないか。

というような。一語一句この文言ではなかったとしても,そういうたぐいの懸念を学生は抱くようです。これはおそらく学生に限った話ではなく,ある程度広く共有されることであるのかもしれません。学校教育に限らず,高等教育でも同じような懸念を持たれている人がいても驚きません。

私は,その根本をとりあえず考え直してみようという話をいつもしています。

以下,この記事では,便宜的に「できる子」「できない子」とか「上の子」「下の子」といった書き方をしますが,それは単純に,「英語が得意・不得意」とか,「英語の熟達度が高い・低い」という意味でそれ以外のことで人を序列化する意図は全くありませんのでその点はご留意ください。

根本の問題

上述の懸念が発生するときに,教師として,差があってもうまくいくような仕組みを作ろうとか,あるいは,熟達度が同じくらいの学習者同士が一緒に課題に取り組むようにしようと考えること,それ自体は全く悪いことではないし,むしろ授業をより良い方向に持っていこうとする営みとして奨励されるべきことでしょう。しかしながら,私はその手前の「そもそも論」を考えてみたいのです。

その「そもそも論」とは,なぜ学習者の熟達度にギャップがあるときに,できる子ないしはできない子が学習に対してネガティブな感情をいだいてしまうのか,ということです。そして,その原因となっているattitudeというか考え方というか,そこに対してアプローチしてあげたくない?ってことなんですね。

そもそもそれはペアワーク・グループワークでやるべき活動か

その原因を考える前に一つだけ述べておくと,そもそもそれってペアワークが適している?みたいなのは考えたいです。ペアやグループでやることが目的化してしまうと,この問題にぶち当たるでしょう。
一緒にペアワークをさせるでも,結局は「個人ワーク」をペアワーク「風」にしただけなら,できる子ができない子に教えてあげて終わり,ですよね。もしそういうレベルの活動を想定しているのであれば,そもそもその活動の仕掛け自体を見直すべきでしょう。一方で,「コミュニケーション活動」とか「タスク」と言われるようなものをやるときに,レベルの差があるから「難しい」と感じるのだとしたら,それはなぜそう考えるのか,ということを解きほぐしたいです。

なぜうまくいかないと思うのか

とりあえず英語の授業で何らかのペア/グループ・ワークをすることを考えてみます。その際に,学習者の英語熟達度に差がある,というのは,次の二つのケースが想定できるはずです。それぞれについて,どういう懸念なのか,それの根本はどういうことなのかを考えてみます。

  • できる子を”demotivate”してしまう可能性
  • できない子を”demotivate”してしまう可能性

レベルを下に合わせるのは損?

できる子ができない子の「レベルに合わせてあげる」ことが,できない子にとってはマイナスだという認識があるのではないか,というのが1つ目の論点です。確かに,できる子ができない子をただただ「待ってあげる」というのは,できる子にとっては「時間の無駄」と感じられてもおかしくないでしょう。でもそうではなかったとしたら,つまり,二人で協力してなにかに取り組み,一つのゴールに辿り着く,というような設定がされているのであれば,そこに対する取り組みは,「それぞれのレベルで,自分のベストを尽くしていればそれでよくない?」と私は思っています。

冒頭の,

できる子ができない子の分も頑張って損するのではないか。

みたいなのは,貢献度がイーブンじゃないときに上の子が損した気持ちになってしまうっていう話ですよね。で,この問題を解決するために,ターンを固定したり,一人何回は発言しようと目標を決めたり,とすると思うんです。その工夫自体はあってもいいと思いますし,その制限のかけ方がいい方向に作用することもあると思います。ただ,それをやる方がむしろ,できる子にとっては自分がどんどん発言できるのに,それが抑制されてしまう,ということにもなりかねません。また,その事自体が,「自分だけが頑張っている」という気持ちにさせてしまう可能性もあるわけです。そういうときに,レベルが上の子が,下の子をうまく引き上げられるかどうか,が問われてくるし,そのレベルを求めることは,上のレベルの子をさらに一段上に引き上げることにもつながるわけです。

これは私がいつも授業で言うことなのですが,基本的には,英語教師はクラスの中で一番英語のスキルがある存在だからこそ,このタスクを私と一緒に行うことになったら,必ずタスクを達成できるに決まっているし,私が誰と組んでもそうできる自信がある。さらに,英語の熟達度が高い人とやることによって自分のレベルも必ず引き上げられるよって言うんですね。

ペアワークのときに割り切れなかったらもちろん3人グループを作ることもありますが,どうしてもペアでやりたいなというときには教員が入ってペアの相手になります。そうすると,やっぱり学習者としては,先生とペアだと緊張するとかそれは避けたいとか思うわけじゃないですか。でも,そうじゃなくてむしろレベルが高い人は苦手な人を引き上げられる存在だし,そうであるべきじゃない?って私は思います。どんな言語のコミュニケーションでも,母語話者同士でなければ(母語話者同士でももしかしたら),熟達度の差が大なり小なりあるのはある種当たり前,という環境のほうが多いのではないでしょうか。その時に,レベルが上の人は,「なんだ,この単語も知らないの?」とか,「こんなにゆっくりはっきり喋ってるのに伝わらないの?」とか,普通の言語コミュニケーション環境では思わないはずです。むしろ,伝わりやすい語彙選択をするようにするだろうし,難しい単語が理解されなかったらそれを説明するでしょう。相手のレベルに合わせることが当然のように求められるし,そのことを不満に思う人がいたとしたら,それってその人の「人間性」みたいな部分を疑いたくなっちゃいませんかっていう。

本来私達の社会は,そうやってみんながみんなを助け合って,得意なところと苦手なところを組み合わせながら生きているはずです(もしそうなっていないとしたら私はそれは理想の社会ではないと思います)。教室環境もある種小さな社会だと考えたら,そこでも同じ論理が適用されていいのではないでしょうか。というのが私の考えです。

下の子が劣等感を覚える原因

上の子が損した気分になる,ということは,下の子が劣等感を覚えるということのコインの裏表だと思います。つまり,下の子が「私なんかとペアになって,相手の人は迷惑じゃないだろうか」と思ってしまうのは,「上の人と下の人が組むと上の人が損する」というのがどこかで内面化されているからではないかなと思うのです。

何らかの活動の中で,自分の中にも与えられた役割があり,自分のレベルで何らかの貢献をして,その結果として相手と一緒に何かのゴールを達成できたのだとしたら,それは下の子の自信につながると思うのです。

例えば,間違い探しのタスクをやったときに,とにかくできる子がたくさん”There are two cups on the right end of the desk. Is your picture the same?”, “The man on the left has long hair. What about your picture?”とかたくさん質問して,できない子はその質問に対して”yes” or “no”という短い応答でしか答えられなかったとします。で,確かに,一人ひとりのパフォーマンスを評価したら,できない子は全然質問してないから評価が低くなる,のかもしれません。実際に成績をつけるとなればこのペアの二人に同じ評定はつかないでしょう。それでも,下の子は上の子の質問を正確に聞き取って理解し,相手から受け取った情報と自分の手元にある情報を照らし合わせて,yes or no(あるいは別の短い応答)を返していたのだとしたら,それはそれでその子は意味理解の部分ではすばらしいパフォーマンスを見せていたと言えると思うのです。そこを評価してあげた上で,じゃあ今度は自分の持っている絵の情報を一つでも相手に伝えられるようにしようね,と声がけをして,その上でそのために必要なサポートを教師が提供してあげれば,その子の自尊心が傷つけられることなく,前向きに課題に取り組めるのではないでしょうか。

おわりに

もちろん,私の言っていることは理想論だとは思います。実際にはそんなにうまくいくわけないとおっしゃる方もいると思います。人と比べるのではなく,過去の自分と比較するんだよなんて言ったところで,大人だって他人と比べて羨んだり蔑んだり落ち込んだりする気持ちをコントロールすることは容易ではないわけです。それを児童・生徒・学生に求めたってそんなうまくいかないよってこともあるとは思います。しかしながら私は,そういう自分にフォーカスする練習というのは早く始めたっていいと思うしむしろおとなになってからその壁にぶち当たって病むよりはもっと若いうちからそういう経験したっていいんじゃないとすら思います。

そうやって,学校の中でのよい関係性がどんどん社会に広まっていくことで,世の中がもっといい場所になればいいなと思っています。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

英語嫌いと体育嫌い

はじめに

体育がきらい (ちくまプリマー新書 437)

英語と体育ってなんか似ている部分もあるのではないかと思いながら手にとって読んだ本。そこから色々考えたことを書きます。

英語と体育って似ている

英語指導って,結構体育会系のノリで,とにかく練習あるのみとか,根性とか,忍耐とか,そういうのも実際ある気がしています。そういう側面が言語学習に全くないと否定するつもりはないのですが,そういうのが前景化したときにそれに対して拒否感を覚える人がいることを忘れたくないなと思います。

体を動かすことやスポーツで全員がプロアスリートを目指すわけではないのと同じで,英語だって,みんながそれぞれそれなりのレベルで,でも英語を使うことや英語を学習することにポジティブに向き合って,自分の成長を感じられる,そうであれば良いはずだと思います。

運動は健康との繋がりがあるので,そういう,自分のペースで,自分にあったレベルで,とにかく続けることがいいと言いやすいというのはあるかもしれません。メンタル的にも運動でリフレッシュされる部分はありますしね(このあたりは非専門家なので感覚で言ってますが)。ただ,言語学習ってなかなかそういうのを感じにくい部分はあるかもしれません。運動に比べると。

運動の分野でも,どれくらいハードなトレーニングをやっているかとか何キロ挙げたとか何キロ走ったとか,そういうので競争する人たちはいるでしょう。でも,そういうのにコミットしない人もいるはずです。言語学習は何かみんなが競い合っているような感じがしてしまうんですよね。そこに,体育会系っぽい要素を感じずにはいられません。先日anf先生とお話したときに,「英語マッチョ」という表現がまさに英語と体育会系というものの親和性の高さを表しているよねなんていう話題も出ました。

本を読んで印象的だったこと

私が本を読んで印象的だったのは以下のことです。

  • 好きにならなくていい(体育好きが体育教師になるし体育を好きにさせようとする)
  • 「まずやってごらん」という先生の一言が体育が苦手な人にとってきつい
  • 体育の授業を少中高大と経験しても,大人はお金を払ってジムに通わないと自分の体をコントロールできない(体育の敗北)

どれも,英語との類似点だと思ったからこそ印象に残っています。1つ目は,英語が好きな人が英語教師になるし,英語教師は英語を好きにさせようとする,英語(言語)ってこんなに面白いんだよとアピールしてくる,というように考えると,結構当てはまるよなぁと。他の教科がどうなのかわからないですが。もちろん,そのポジティブさが英語学習に対してポジティブな態度の学習者を増やしている側面は否定できないでしょう。それ自体が悪ではありません。一方で,著者の結論は,好きか嫌いかの二択にしなくていいし,その間にグレーゾーンがあるというものです。つまり,「嫌い」にはなってほしくないけれども,「好きにならなくてもいい」ってことですね。

2つ目は,私も結構こういうスタンスで授業をやってしまっていると思いました。体育というのは,自分の体がみんなの注目を浴びることになるので,とても辛いという話です。とくに,跳び箱やマット運動など,一人ずつやるような種目だとどうしても自分がやっているところを誰かが見ていることになりますよね。そこで,苦手な子に「まずやってごらん」と言うのは体育が苦手な人にとってはとても苦痛だということです。英語でいうと,みんなの前で音読したり,みんなの前で英語で発表したり,意見を述べたり,というのが自分のことば(体の一部といってもいいでしょう)がみんなの注目を浴びるという点で類似性があると思いました。基本はペアワークやグループワークでも,その成果をクラス全体で共有したいですよね。せっかくだからそこも英語でやりたいと思いますが,クラス全員の前で英語を口にする機会,やはり結構ハードルは高いですよね。

よくある,「英語っぽい発音が笑われる」という話や,その逆で「発音に自信がないから恥ずかしい」というのもつながるものがあるかもしれません。まず,どんな言語だろうが,母語話者だろうが第二言語話者だろうが人が喋っているのを笑うなと言う話なんですけども。体育でもそうなんですが,仮に周りがどんなにサポーティブな雰囲気でいてくれたとしても,やっぱり自分自身が自分の体やその動きを「無様」なものだと思ってしまったらみんなに見られたくないと思うのは当然ですよね。

3つ目は,語学教育ビジネスと相似系だなとすぐ思い浮かぶ人も多いのではないでしょうか。小中高(大)と英語を勉強しても,お金を払って英会話学校に通ったりオンライン英会話プログラムに通わないと言語学習ができない,ということですよね。本屋さんに行けば語学関連書籍がたくさんあったり,テスト対策本もたくさんあったりしますよね。書籍があれだけあるのも,売れるから,ですよね。「痩せる」とか「ムキムキになる」とかを煽るのと,「ペラペラ」とか「ネイティブのように」を煽るのは,似ているよなとやはり思ってしまいます。ただし,書籍は基本的に自学なので,ジムに通うこととはまた違うのかなとは思います。

そうは言っても,自律的に言語学習をする術を身に着けさせることなく社会に放り出しているのかもしれない,とは言えると思います。大人がジムに通うことを体育の敗北と呼ぶならば,英語学習についての現状は「英語の敗北」と呼べるのかもしれません。

おわりに

体育も英語も,その教科に対してポジティブなイメージを持っている人が一定数いることは事実でしょう。だからこそ,そのイメージを誰しもが持っていると思い込んでしまいがちです。そこで立ち止まって,英語嫌いや体育嫌いを考えてみることが大事なのだと思います。これって別に一般的に多くのことに当てはまることで,陳腐な言い方をすれば「客観視をする」とも言えるかもしれません。「体育会系っぽい」授業を自分がしていないか,振り返って考えるいい機会になりました。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

2023年度LET関西支部秋季大会を終えて

はじめに

11月4日(土)に開催された2023年度外国語教育メディア学会(LET)関西支部秋季大会のシンポジウムに登壇したので,その雑感みたいなものを忘れないうちに(その日の夜はほぼ記憶を失いましたが)メモしておきたいと思います。私の資料はウェブに公開しているので,下記から御覧ください。

この資料の中のメインの話は以下の2つの書籍を読めばほとんど書いてあることなので,詳しい話はそちらをお読みください。

特に,私の話は結構端折っているので,本を読んでいただかないとつながりとかも分かりにくくなっていしまっていると今になって反省しています。

第二言語研究の思考法: 認知システムの研究には何が必要か

英語教育のエビデンス: これからの英語教育研究のために

ちなみに,下の本についてるAmazonのレビューは全く参考にならないので,レビューでこき下ろされているからといって買うのを躊躇しないでください(このブログ記事を読む人が私のこの記事の内容とAmazonのレビューで後者を参考にするとは思いたくないですけど)。

全体をざっくり

司会の浦野先生をはじめ,南先生,私と,3人とも言いたいことが結構あったなと思いましたし,それぞれに違うポイントを強調されていたのが(当然ですが)よかったなと思いました。浦野先生は,司会だから抑えめにされていたと思いますが,学会誌の投稿基準の話や追試,外的妥当性・内的妥当性の話など,外国語教育研究の大きなところの中で重要なところをピンポイントに指摘されていた印象です。南先生はとにかく実践研究を広めたい,もっと多くの人に実践研究に取り組んでもらうことで実践も研究も状況が良くなるという信念があるように感じました。

機材のトラブル等があって最後のディスカッションの時間が短くなってしまったことや,オンラインで参加された方に議論を届けられなかったことが非常に残念でした。あと何より私が残念だなと思ったのは,登壇者の南先生がマイクを持って質問者のところに行っていたことです。あれ,南先生がいい人だから自然と身体が動いてそうなりましたし,私も最初マイクを持って走り出そうとして南先生とぶつかりそうになったのですが,あの場にいた実行委員(運営委員を含めても良い)の中の誰もがその役割(シンポジウムを回す役割)を積極的に担おうとしなかったことは,端的に言って登壇者に失礼だったと思います。参加者としてあの場にいたから意識が向かなかったのかもしれませんが,さすがにシンポジウムの登壇者がやることではなかったと思います。そのこともあってか,南先生が議論になかなか加われていませんでした。私も登壇者だったのでなかなか南先生の代わりに誰かとその場で声をあげるほどの頭の余裕がその時はなくて何もできなかったのですが,後から冷静に振り返るととても心苦しかったです(途中から誰かが変わっていたかもしれませんが,記憶がそこはありません)。

フロアとのディスカッションで出た質問

私が覚えている限りの質問について,書いてまとめます。質問された方で私のまとめ方が異なるようでしたらご指摘ください。

実践研究と理論研究が相似系であること

私は探求の論理学の例で,アブダクションによる仮説形成と演繹的推論を用いた予測,そして実験から一般化するというプロセスを提示しましたが,そのプロセス自体は実践研究でも同じことなのではないかということでした(その前にも色々な話があったと思いますが)。それはそういうところもあるかなと思いましたが,アブダクションによる仮説形成時に理論的構成概念を扱うことを重視するという点は理論と実践の違いと言えるかもしれないと思いました。実践の時には構成概念の実在はそこまで重要視されないかなと思うので。

オルタナティブ・アプローチについて(※注)

SLAの話の中にいわゆる認知的「ではない」アプローチをとる研究が一切出てこなかったのですが,というコメントが有りました。私が認知的アプローチを取る研究者を代表して今回登壇したということを浦野先生が補足してくださいました。私がまず答えたのは,社会文化理論なり複雑系理論なり,Atkinson (2011)に収録されているような「オルタナティブ・アプローチ」で言われているように,認知的アプローチでは第二言語習得はわからないのだ,大事なものを捨象しているのだ,というようなものがもし仮に真であったとしても,そのアプローチを取る人たちが,認知的メカニズムを一切仮定しない第二言語習得理論を作ることはできないし,学習者の外側の要因がどれだけ重要であったとしても何からの認知的メカニズムを考えずに第二言語習得を研究することはできないというものです。あらゆる要因をすべて考慮して,全部を包括的に説明することを目指そうとというのは個人的には失敗だと思っています。let all the flowers bloomでは無理だったということを,少なくともメカニズムの探求をするのであればそれを認めた上で(まあ最初からそう思っていた人が多いと思いますが),説明する対象を限定した上でメカニズムの探求をする必要があるだろうというのが「思考法本」の中で書いてあることでもあります。

事例研究の積み重ねの重要性

医学の分野では,厳密なRCT実験ではない事例研究も全く意味がないわけではなく,それはそれで価値のあるものだと認識されているので,事例研究も…というような意見がありました。事例研究の話はこれまた寺沢さんのブログで言及されている話があるので(EBEE本の寺沢さんの5章の最後にも事例研究の話があったと思います),そちらをお読みいただくと良いと思います。

寺沢さんの話は,何を事例として取り上げるのかという選択が非常に重要で,その事例が何らかの形で理論構築なり他者なりに貢献できるような事例でなくては事例研究としての価値が低いということだと理解しています。私はそれ以外にもう一つ医療系と教育系で違う点があると思っています(これは懇親会で亘理先生とも話したことですが)。それは,介入の手順や測定の厳密性や標準化度合いです(これもEBEE本の中でPKテストが扱われる8章で述べられている話でもあります)。医療では,おそらく何らかの介入を行う際に,その手順が厳密に規定されていて,その効果を測る手段も標準化されていると思います。よって,そこのブレがない分だけ事例の共有が容易でしょう。しかしながら,言語教育において何かしらの介入指導の手順がどのくらい厳密に規定されていて,それがどれくらい標準的なものとして共有されているかというと,そこが難しいと思います。「ディクテーション」とか「英作文」とかそういうざっくりしたものは当然のこと,「間違い探しタスク」や「他己紹介」のように多くの人が内容を容易に思い浮かべることができる活動であったとしても,それをどう実施するかには多くの選択肢やバリエーションが存在しています。そして,そのバリエーションが有ることは何ら悪いことではないというか,文脈に即した活動にするためにそのバリエーションが有効に機能します。効果の測定についても,パフォーマンスで評価するにしても正確さ,流暢さ,複雑さを使って言語使用を仮に測定できたとしても,無数の指標からどれを選択するのかについて,合意形成はなされていませんし,あるタスクに固有の標準化されたルーブリックのようなものもないでしょう。これでは,仮に事例研究が多く行われていったとしてもそれを解釈するのは難しいように思います。

ただし,何をやったらどうなったのか,についての主観的な記述を蓄積していくことには意味があると思います。ある実践を行ったとき,その手順についての詳細な記述とそれを実施した教師がどういう主観的な見方をしたのか(うまくいったのか,うまくいかなかったのか),なぜそういう見方をしたのか,というようなものが蓄積されていけば,それはあとから参照する価値の高い資料になると思います。上の寺沢さんのブログでは量的な事例研究もあるので質的なものだけが事例研究だけではないと書いてあって,そこはとても大事な指摘です。量的な事例研究もありますが,教育系で理論に貢献しうる事例研究って結構難しそうだなと個人的には思っています。

おわりに

今回のシンポジウムに登壇することで,自分の考え方もより整理されたなと思います。ただ,発表自体はまだまだで,もっと伝え方を工夫しないとなかなか理解されないということも痛感しました。これは私の力不足です。意見論文をある程度の国際誌に載せるのが簡単じゃないのはよくわかっているのですが,そういうことしないと結局何も変わらないので,たくさんの人と議論を重ねながら,学界がいい方向に進んでいくといいなと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注(2023年11月8日追記)

オルタナティブ・アプローチの話のところで,質問いただいた方からTwitterで補足・訂正をいただいたので追記します(直接メールももらいました)。

まず,私が質問を理解できていなかったことが原因で噛み合ったやりとりにならなかったこと,お詫び申し上げます。多分聞いてるときにバイアスがめちゃくちゃかかってしまっていたのだと思います。申し訳ございません。

さて,英語教育研究の中にオルタナティブ・アプローチがどう位置づけられるのかという話ですが,オルタナティブ・アプローチが今後何を目指していくのかによるのかなと思いました。認知的メカニズム以外の部分の言語習得のメカニズム的説明を目的としてやっていくのであれば,それはそれで意味があると思うので,やっていったらいいのではと思います。ただし,メカニズム的説明をやるのであれば,私が扱った批判というのはいわゆるオルタナティブ・アプローチの研究にも当てはまることだと思っています。

英語教育研究の中にどう位置づけられるのか,という話だと,「socialな側面を研究するスタディ」がどれだけ英語教育研究の「中で」やられているのかっていうと,ほとんどやられていないのではと個人的には思っています。英語教育学会に入っている人が,そういうところに興味があるのかっていうのもどうなんだろうなと個人的には思っています。だから意味がないということではなくて,だからこそ位置づけるって難しいなと言う話です。合意形成を得るのが難しそうなので。浦野先生が下記のツイート内で補足してくださっているように,”broad SLA research”と考えるとそこにはsocial SLAも入ってくるでしょうね。じゃあその”broad SLA research”と英語教育研究(外国語教育研究)がピッタリ重なるのかっていうとなんかそういう感じはしないな〜と個人的には思います。というのが私の個人的な理解ですね。

また,オルタナティブ・アプローチがメカニズム的説明を求めるのであれば,私の資料でいうと11枚目の浦野先生の作ったスペクトラムの中に英語教育研究を位置づけたものの中には入らないと思います。オルタナティブ・アプローチであったとしても,メカニズム的説明を求めるのであればそれは政策科学ではないからです。もしもオルタナティブ・アプローチがそうではなく意思決定の科学を目指すのであれば,あのスペクトラムの中の真ん中より右側に位置づけられるのかもしれません。

サッカーでは手を使わない,というたとえについて

はじめに

下記のツイートについて,補足が必要だったかなと思うので,補足です。人の名前を出していますが(私のアイデアではないので引用であることを明示したつもりでしたが),それで誤解を招くと引用元の松村さんにも迷惑がかかるので説明します。

タスク中の母語使用についての話

もともとの文脈はタスク中の母語使用の話です。タスクをやらせても母語を使ってしまうことがあって,それではタスクの意味がない,じゃあどうするか,というときに,サッカーの例えを学生に伝えているという話です。

英語の授業でタスクが行われるとしたら,その目的は英語が上手になるために必要なことで,それは英語でやることに意味がある。だから,英語でやるんだよっていうことなのですが,それはサッカーでも同じことだよね,と。サッカーというスポーツの競技力を向上させる目的で行われるゲーム形式の練習において,足だとうまくボールがコントロールできない,思うようにパスやドリブルができない,だから手を使う,そういうことはしないはずだよね。それじゃあいつまで経ってもサッカーはうまくならない。だから,難しいと感じる部分もあるかもしれないけれど,今できる自分の精一杯を英語でやってみよう。

こんなふうに学生に伝えたらどうかということです。これは「大体こんな意味」ということから私が言語化したものなので,もともとの松村さんの発言に正確ではないかもしれませんが,内容的には外れてないと思います。

冒頭のツイートの文脈

で,私が冒頭のツイートをしたのは,本日行われたLET62における全体シンポジウムの中で議論になった英語でやりとりする必然性の話題の派生です。

教室の中で,日本人である学習者同士が英語でやりとりをする。このことに必然性がない。「なぜ英語でこれをやらないといけないの?」となる。よって,英語でやりとりすることが自然であるような目的・場面・状況を作らないといけない。みたいな話。

それに対して私は,英語でやりとりする必然性を過剰に心配する必要はなくて,これは英語の授業で,これを英語でやることに意味がある,それが英語力を向上させるために必要だから,でいいじゃないですかという思いで,「必然性はいらない」とツイートしました。そのあとに,冒頭のサッカーの例えを出したわけです。英語でやらないといけない理由を説明する際に,サッカーで例えるということですね。

というご意見も頂戴しましたが,「なぜ英語でやらないといけないのか」という問いが出てくるっていうのは,「目的・場面・状況」が設定されていないからじゃないはずだと思っています。もし仮に学習者がそういうことを言うのであれば,それは英語学習自体をやりたくないと思っているはずで,「目的・場面・状況」を整えれば「これは英語でやる意味がある」と考えて活動を英語でやるようになるわけではないでしょう。つまり,問題は学習意欲の問題です。だとしたら,どうやって英語学習へのモチベーションを上げるかを考えるべきだと私は思います。その仕掛けづくりですよね。登壇者の一人である奥住先生は,必然性がなくても,なにか言いたいという気持ちを活動の仕掛けによってうまく刺激できたら,英語でやる必然性なんか考えずに英語使いますよ,とおっしゃっていました。

試合やろう

また,サッカーのたとえについて,教室内で試合の状況を作るのは難しいのではないかという反応もありました。

私は,「難しいと思う人がいる」と書きましたが,「できない人がいる」とは書いていません。むしろ,難しいと思う人もいるだろうけどそれは信念の問題だと思います。その意味で,「誰でもできる」と思いますね。

「合う」・「合わない」という話はこの問題の本質とは関係ないと思います。もちろん,教育というのは何かを選択した際には必ず排除される存在の学習者が生まれます。ただし,それはどの指導方法を選択しても同じです。「試合はできない」と思う人がやる授業も,「試合はできる(しやったほうがいい)」と思う人がやる授業もそうです。割合の話にすると,少なければいいという話になりますが,もしも排除の問題にするのであればそれは割合の問題では解決できません。というか,そういう捉え方は悪手だと思います。少数であればいいだろうという考え方になるので。少数でもだめなんだけども,そのことに自覚的であるかどうかというのが問題です。

話がズレましたが,試合をやるかどうかという問題は,私にとってはサッカーの試合(11 vs. 11ではなくとも,決められた範囲のフィールドがあり,ゴールがあり,そこにボールを入れると得点となり,得点の多いほうが勝つというルールのゲーム形式の練習)をやらずにサッカーがうまくなるようにする,ということだと思っています。で,その時に,例えばですけどいわゆるオン・ザ・ボールの技術の未熟さがあったらゲーム形式の練習しないのかってことなんですよ。みんなそれぞれのレベルで,それなりに,サッカーというスポーツに取り組んで,その中で色々ことを経験して,うまくできたことに喜んだり,うまくできなかったことに悔しがったりするんじゃないでしょうか。そりゃ運動が苦手な子もいるわけですけどね。

で,その,「ゲーム形式」に合う,合わない,とかあるんでしょうか。カギカッコを使用されているのでそれが意味するところがよくわかりません。

人数の話

「タスクじゃない授業でも一緒」と書かれていますが,本当にその通りで,だから私は信念の問題と言いました。私は性善説の立場なので,基本的に学習者のことを信じています。みんなできるはずだしやるはずだと思っていつも授業をしています。講義型の授業でも,私の話に耳を傾けてくれると信じて一生懸命話しています。もちろん,現実には一定数engagementが低い学習者が教室にはいるでしょう。ただ,私はやらない学生がいる覚悟がいると思ったことは基本的にはありません。

もちろん理想は全員が高いengagementを示すことなわけですが,でも多様な学生が教室の中にはいていいはずなので,多少engagementが低い学習者はいても仕方ありません。教室の中の人数が増えればそういう学習者の発見が難しくなることは容易に想像できますけど,だからといってクラスサイズが小さくなったらengagementの低い学習者がいなくなるわけではないですしね。ただし,私は良いタスクであれば,engagementの問題をかなりの程度解決できると思っています。やり方の問題じゃなく,コンテンツの問題ですね。

おわりに

個別に返信するのめんどくさくなった大変なのでまとめてブログに書きました。

締めの合言葉を書こうとして,今日の学会で「ブログ読んでます」と声をおかけいただいたことを思い出しました。眠い。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

ChatGPTの英文校正の質

質問に答えるブログです。以下の質問です。

質問


英文(学生が授業提出用のエッセイを書いたとして、または、教員が研究論文を書いたとして)を例えばChatGPTに校正してもらった場合と、いわゆるネイティブに校正してもらった場合との「質」の差はどうなんでしょうか。

回答

英文校正業者に頼んだ場合でも校正者によって結構ばらつきはありますし,ChatGPTでも毎回同じように校正してくるわけではない(ように感じるときがある)ので,比較するのが難しいですが,個人的な印象だけでいえば,差はとくにないように思います(つまり英文校正業者に頼むほうが良いとはあまり思わない)。ジャーナルごとに異なるフォーマットの調整をうまくやってくれるのかは試したことないですが,そういうのは業者に頼むほうが安心感あるかなとなんとなく思っています。あとは,ChatGPTは校正目的で使うとなるとどうしても分量を分割する必要が出てきますよね。全体の構成(例えばバックグラウンドの書いてあることとディスカッションに書いてあることのつながりがどうかとか)に関係するような部分のフィードバックや用語の統一感に関わる部分などは限界があるかもしれません。もしかすると,プラグイン使ってPDFを読ませたらに関連することをうまく読み取ってアドバイスしてくれるのかもしれませんが。

また,論文を書くための校正と授業でエッセイを書いたものを校正するのは目的が全然異なることなので,一緒くたに語れないなとも思います。ライティングの授業でエッセイを書かせるとすれば,少なくとも私は自分自身のかなり強い「こだわり」があるので,そういう部分はChatGPTが(私が満足できる程度に)指摘してくれるわけではありません。文法的な部分というよりも,情報の並べ方とか,結束性や一貫性の部分ですね。

つまり,学生の提出したものを校正するという点では私は「構成」の部分については少なくとも私の好みを反映させるのはなかなか難しいなぁと思っています。

あとは,ご自身で使ってみるのが1番かと思いますので,ご自身の目的に合わせてどの程度使えるのか試してみてはいかがでしょうか。

質問したい方はどうぞ。

なにをゆう

たむらゆう。

https://querie.me/user/tam07pb915

おしまい。

はじめての英語科教育法

はじめに

本当はブログ記事を書いている場合ではないんですが,酔っているのと,この気持ちは今書いて残しておいたほうがいいと思うので書きます。

今週木曜日に,今年度から担当することになった非常勤の英語科教育法の授業をやりました。講義科目を担当したこともなく,ましてや教科教育法の授業も初めての自分が,英語科教育法の授業を教えたということが,なんというかすごく嬉しいというか,誇らしいというか,今までいろんなことを頑張ってよかったなというか,すごく感慨深い気持ちになりました。そんな話です。

どんな授業をすることにしたか

1~4とかA~Dとか,色々名前の付け方はあるでしょうが,教科教育法は4つあって,基本的には1やAから順に受けていくことになります。私の担当しているのはDです。Dで何をやるかというのも大学のカリキュラムによって色々変わると思いますが,私が依頼を受けたのは,実践系というよりはどちらかというと理論系でということでした。

ちなみに,複数の先生が割と自由に各科目を担当する関係上,他の英語科教育法科目とのつながりを意識するということもなかなかできず,実践->理論みたいな流れくらいで,授業の内容での関係を持たせるということはできないと最初の段階で思いました。非常勤ですし,私にできるのは与えられた科目で精一杯頑張ることです。

色々逡巡した挙げ句,Task-based Language Teaching(TBLT)をテーマにしようと決めました。このテーマは,私の二足のわらじのうちのひとつと個人的には認識していて,もし教科教育法を担当する機会があるのであれば,このネタで授業をやってみたいと思っていました。実践と関わりの深い科目で,私が提供できることを最大化できるのはTBLTだと思ったからです。

そこで,テキストは

タスク・ベースの英語指導―TBLTの理解と実践

にしました。洋書を選ぶのは学部生向けの授業にしてはハードルが高く,かといって和書ってこれしかないよね?という消去法で。個人的には,自分の名前が入っている書籍を教科書に指定するのってなんかはばかられる感じがするというのはあり,その事自体は素直に学生にも言いました。

初日

非常勤というのは大学院生のときに4年間やっていたわけですが,関大に就職してからは初めてで,つまり2017年度以来ということになります。ということで,なんかめっちゃくちゃ緊張したんですよね。やっぱり非常勤って場所もそうだしいろんな仕組みもそうだし,自分の慣れない場所で授業をすることになるので,いつも以上にいろんなことが気になるわけです。

場所は関学の上ケ原キャンパスなんですが,いつだったか学会で一度だけ行った記憶がありますがそれ以来という感じでした。甲東園の駅で電車を降りたら学生の数がすごくて,そこから「こんな坂道だった?」っていう坂道を学生に紛れてゾロゾロと登っていき,キャンパスの正門に就く頃には若干汗ばむ感じでした。着いてすぐに,事務方に挨拶に行ったところ,授業開始5分前くらいなのに(その時間に着いているのもどうかと自分でも思います),控室やメールボックスを案内されて,その後に,教室の定員を上回る履修登録があったことを知らされます。椅子が足りない分は運び入れると伝えられました。

履修登録者数が47名というのは授業の前に確認はしていましたが,教室のサイズはわからなかったので人数が多いということは想定外でした。もちろん,関大の英語科教育法は10〜20数名なので,それに比べたら遥かに履修者数が多いとは思っていました。ただ,教室の定員を超えるということは事務方が予想していたより多いということで…。

教室に着くと,私に声をかけてくださった名大時代の先輩(他ゼミですが私もそのゼミに出ていました)が待っていてくださって,授業開始前ぎりぎりでバタバタとご挨拶をしました。ちょうどチャイムが鳴るくらいのタイミングで教室に入ると,満員御礼といった形で席が埋まっていました。

「ギリギリになってすみません」と言いながらMBAを開いてHDMIにつなげようとしたところで,かばんにアダプタが入っていないことに気づきます。研究室から持ち帰ってはいたのですが,いつものかばんとは別のかばんで行くことに当日決めたため,入れ忘れてしまっていたのです。やらかした〜と思いながらその場でkeynoteをPDF化してLMSにあげて,学生さんには各自のデバイスで資料を見てもらおうと思いました。そんな私の様子を廊下から心配そうに事務の方が見守っていたの,今も目に焼き付いています(笑)

椅子を運び入れるために動き回っていた事務の方に,HDMI->USB-Cの変換アダプターがないか尋ねたところ,あると思うとのことで持ってきてもらえました。「ありがとうございます!」と見せてもらうと,まさかのVGA<->HDMIのやつ。これじゃないんですよねぇとUSB-A->USB-Cのケーブルを見せて、「この細いやつに繋げるやつです」と伝えたら,また探してきてもらえるということで。事務の方にご迷惑をおかけして本当に申し訳ない気持ちでいっぱいの中,時間通りに始められなくて申し訳ないということや自分の自己紹介をしました。

授業でやったこと

その後,念願のアダプタが届いてスクリーンに資料を写しながら授業ができるようになりました。まずはシラバスの確認をして,その後はアイスブレーキングを兼ねて,学生にタスクを体験してもらおうということで,GTD Book2のUnit7にある”Lie through your teeth”をやりました。3つのstatementのうちの1つは嘘で,その嘘を見破るというやつですね。実は,GTD Book1には同様の活動が,”The truth about me”という名前で収録されています。”Lie through your teeth”は,嘘を見破る・見破られないようにするという攻防がメインになるので質問をすることとそれに答えることになります。やりとりの力が要求されるわけですね。一方で,”The truth about me”はそうした質問の機会はなく,8つのstatementのどれが嘘でどれが本当かを当てるguessing gameになっています。今回は,英語科教育法というそれなりに英語ができると考えても良いだろうという集団に対して行う授業でしたので,よりチャレンジングな方を選びました。

まずは自分のことについて3つのstatement(これはworksheetにすでに記載済)について,嘘か本当かを見破るための質問をできるだけたくさん学生に考えてもらう時間をペアで取り,その後wheel of namesを使ってルーレット形式であたった学生を指名して質問をしてもらいました。

ある程度3つのstatementにまんべんなく質問が出てきたところで学生にどれが嘘かをワークシートに書いてもらって答え合わせをしました。その後,じゃあ今度はみんなの番だよということで,各自3つのstatementを書いてもらい,その後グループを作ってクイズをし合うという流れでやりました。3つのstatementは”something what you did during the spring break”と縛りをつけました。学期の一番最初なので自己紹介の要素をもたせてもよかったのですが,自己紹介で何を言うかって結構難しくて,相手との関係性とかによって何を伝える変わるんですよね。それで,いろんな可能性を考えさせることによって内容を考える負荷がかからないように,「春休みにやったこと」という直近の過去の事実についてに限定しました(こういう限定の仕方をすると,過去形を自然に引き出すこともできるよねなんていう話もあとに入れようかなという意図もありました)。

英語が得意な学生から少し苦手かもなという学生まで様々いて,机間巡視しながら英語的なサポートをしたり,質問が止まっていたらこちらから質問を投げかけてみたりしました。最初は5分Q&Aを設定していたのですが,長すぎたなと途中で思って4分で切り上げ,次のラウンドは,3分30秒で,4分のときと同じ数の質問ができるようにしよう,というように時間を徐々に短くしていきました。

ちなみに,ここまではすべて英語でやりました。最後に,今回のタスクをやってみての感想と,自分がこれを授業でやろうとする際に気をつけたほうがいいことを書いてもらって終わりました。

自分が英語の授業でこういうタスクをするのであれば,タスク後のlanguage-focusの活動は外さないのですが,今回は時間の都合もあって省きました。

授業の最後に学生からの意見を聞いたところ,

  • 英語ができる人はたくさん質問できるけれど,苦手だと質問ができずに終わってしまうのでは
  • 嘘を見破るための質問を考えるのは難しいので,質問の仕方を事前に教えるほうがいいのでは

といった意見が出ました。こういう意見が出てくることにまず感動しましたし,こういうことを学生と一緒に考えられることもなんというか嬉しかったです。自分にとっての学びにもなりますしね。

1つ目については,私はこれは表裏一体であるという話をしました。質問ができずに終わるというのは,「うまくできなかった」という気持ちで終わってしまう可能性は確かにある。他方で,それはつまり,質問が自分からできないのであればしなくても活動が成立するし,ゴールは嘘を見破ることなので,仮に質問できなくても,他の人の質問とそれに対する答えを聞いて,「1つ目が嘘かもしれない」のようにできるのであれば,それはその学習者の熟達度にあった参加ができているとも言えるよねと。

授業後のリフレクション・ペーパーでは,「質問がうまくできないと,英語が苦手な生徒はモチベーションが下がってしまうのでは」というコメントがありました。鋭い。素晴らしい。こういう観点で私の話を聞いてくれる学生がいること,本当に感謝です。

2つ目に関しては,事前に教えてしまうとタスクとは言えなくなってしまうのだけれど,それはタスクの定義を参照するところでまた戻ってきますと伝えました。教科書の内容にはまだ入っていないので,学生にはタスクとはなにか,タスクの定義とは,というような話は一切していません。まずはタスクを体験してもらい,その後にそれがどういうもので,それはどういった理論に基づいているのか,を学んでもらおうという私の狙いです。今後,学期中に何回かは別のタスクも体験してもらった上でまた今回のように指導上気をつけるべきことだったりを考えてもらうおうと思っています。

まだ1/4くらいしかリアクション・ペーパーは提出されていませんが(その場で集めたのではなくオンラインで提出なので),それでも個人的に,応答のしがいがあるコメントがたくさん並んでいて,こういうコメントを引き出せたこともそうですし,それに対して自分がどう応答するのかを考えられることも含めて,この授業を充実したものにしていけそうな感触があります。そう思えるのも,学生さんが本当に協力的で,私の授業の意図を理解しようとしてくれているからであるということも強く感じています。

教員養成課程出身者だから思う教科教育法への思い

これはなんていうかわかる〜っていう人もいるかもしれないしいないかもしれないんですが,地方国立大学の教員養成課程出身者としては,なんていうか英語科教育法って自分の教師としてのコアになっている気がするんですよね。そして,大学教員というのをぼんやりと意識したとき,自分もそういう,英語教師になるような人に向けて授業をやりたい,みたいな気持ちって結構あったなと思うのです。ただ,望めば与えられるわけでもないですし,教科教育法を教える人の数には限りがあるので,これまでそういう授業を担当する機会にも恵まれて来ませんでした。もちろん,就職先を選ぶ時点で教員養成系を選べばよかったわけですが,最初の就職先を選ぶ余裕とかないですし,待遇の話とかを聞いていたら,国公立に勤めようと思う気はよっぽどの覚悟とその業務へのやりがいを感じていないと無理だなと思います。

ただ,なんていうか,もともと学校英語教員を目指していて,そこからアメリカの大学院で挫折したり,教員採用試験に落ちて挫折したり,一念発起で進学した名大の博士課程でもたくさん挫折をしたりして,就職しても自分の思うようにいかない日々を過ごして,そうやって学部を卒業してから干支一回りしてこの歳になって,自分がお世話になった埼玉大学の及川先生が教えていたあの英語科教育法を,自分も教える,そういう授業を任されるくらいには成長したのかなと。まだまだ全然未熟ではあるのですが,素晴らしい学生と一緒に英語科教育法の授業をやっていけるということ,そういう存在になったということは,B4的全能感に溢れていたりTwitterでイキっていた12年くらい前の自分や,教採の2次試験に落ちて電車の中で涙をこらえてずっと上を向いていた10年くらい前の自分よりは,ちょっとは成長してるのかなと思えたら,今まで自分がやってきたことも,無駄じゃなかったのかなと思えますし,自分が本当に若かったときから知ってくれている人にこれまでたくさんお世話になってきたこととかも思い出して,涙でハイボールがしょっぱいです。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

『英語教育』2023年5月号記事の補足

はじめに

大修館書店の『英語教育』誌の特集記事の1つとして,私の記事が掲載されました。紙幅の都合で丁寧に議論できなかった部分について,このブログ記事で補足したいと思います。ちなみにですが,書いていたら本編の数倍の量になってしまったので,もはやどっちが本編かわからない感じになりました。ただ,ああいう短い原稿の背後にはこれだけ書けるくらいの話があるということは思っていただいていいかもしれません。また,ネタバレ的になりますがこのブログ記事ではフィードバックの話まで結局たどり着けませんでしたし,3つ目のQについての補足も書いていません。よって,本来であればこの記事よりもさらに長い文章を書いてようやく自分としては満足かな,という感じです。

英語教育2023年5月号

「裏付け」という言葉との向き合い方

この特集記事の執筆依頼を受けたときの最初の気持ちがこのツイートです。

この特集のタイトルが「新学期の指導に裏付けをー言語習得なぜなに相談室」というタイトルになっていることからもわかるように,この特集の意図は,ある指導の選択をする際に,それが何らかの科学的知識に基づいている方がよいだろうという前提があるように思います。そのうえで,その科学的知識を専門家が解説する記事を書く,という感じですね。

最初に私がラフ原稿的に書いたものの中では,「はじめに」の節は次のように書いていました。

この特集記事の執筆依頼を受けた時,最初に考えたことは,「大学院生の頃,『タスク・ベースの指導をめぐる疑問と解決への道』という章を分担執筆で書いたなぁ」ということであった。5年以上も前に書かれたその本は,今でもTask-based Language Teachingについての和文文献としてもっとも優れたものではないかと思っている。

本稿では,そこでは触れなかった疑問を取り上げ,私なりの回答を書こうと思う。ただ,今回は「指導に裏付けを」という特集だということを聞いたとき,実のところ私はあまり執筆に前向きな気持ちになれずにいた。なぜなら,私は指導の問題は「裏付け」のようなもので正当化することになじまないと思っているからである。

後述するように,私は学習者の誤りはすべて訂正されるべきとは思っていないが,英語教師の中には学習者が誤りを犯すのは教師の指導が足りないからであり,学習者の誤りは教師が正してやり,誤りがなくなるまで徹底的に練習に付き合うのが教師の仕事だと考えている方もいるかもしれない。そのような意見の対立に,「裏付け」のようなものは無意味である。もし仮に,徹底的に学習者の誤りを訂正し,誤りを許さない鬼教官のような教師のもとで学ぶ教室と,誤りの訂正はときおり受けるが,誤りを犯すことが悪いことだとみなしていない教師のもとで学ぶ教室を比較した大規模ランダム化比較実験があったとしよう。その結果,前者の教室で学ぶ学習者のほうが言語能力が統計的に有意に伸びることが明らかになったとする。そのような「裏付け」が仮に得られたとして,私は次の日から鬼教官になって誤りを徹底的に訂正する英語授業を展開するだろうか。答えは否である。なぜか。私はそのような指導を受け入れられないという信念があるからだ。

下記の質問と私の回答も,いくつかの文献を引用しながら述べるが,だからといって私は「裏づけがある」とは言わない。本稿をお読みいただいた上で,どのようにすべきかは読者の方々に判断していただきたい。

例が少し長いのと,ちょっと誤解を招く可能性もあるかもしれないなという指摘を受けたので,最終的には事実判断と価値判断を同一視してはいけない,という話に変えました。

言語習得研究において,指導の「裏付け」となるような科学的知識が提供されたとして,それが直接的に教室での指導の変更を迫るものであったり,あるいはすでに採用されている指導の直接的な後押しになるかというと,正直微妙ではないかと思っています。また,よくpedagogical implication(教育的示唆)なんかが研究発表や論文で求められる場合がありますし,質疑応答でそういう質問を受けることもあります。ただ,その「示唆」というのが結構厄介で,教育的示唆を出そうとすると価値判断に踏み込むことを避けられないというか,無意識のうちに価値判断をしてしまうこともあると思います。

例えば,私が記事の中で紹介したEllis et al. (2019)についても,研究の結果からわかったことは,ある特定の文法項目の指導を事前に受けることによって,その項目へ注意が必要以上に向けられた結果,その他の文法項目の正確性が下がってしまうことで,全体の文法の正確さが下がってしまうという可能性でした。また,正確さへの注意が促進されたことで,流暢さが下がってしまう可能性も示唆されました。ここで私が「可能性」と書いたのは,この結果はあくまで個別の研究の結果だけだからです。よって,そこまで強い言明はできないという留保はつけるべきです。

そして,この研究結果を引用して「事前の文法指導は避けたほうがいい」と私は書きました。これは明らかに価値判断です。Ellis et al. (2019)の結果(ケース1ですが科学的知識とします)と,「事前の文法指導は避けたほうがいい」という価値判断の間には,「特定の文法に学習者が注意を向けた結果として全体のパフォーマンスが下がるのであれば,それは好ましい指導介入ではない」という別の命題が隠れています。

「なぜなに相談室」という特集のタイトル

これは絶対に原稿には書けなかったことですが,そもそも「なぜなに相談室」という特集の名前自体が読者と著者の対立を煽っているように思いました。つまり,読者は「教えてもらう」側で,書き手は「教える」側だという構造です。4月発売の号なので,4月から新しく教壇に立たれる新任の先生方向けの企画なのだろうということは思っています。それはわかった上で,この雑誌の読者の多くは「現場」の先生方であることを考えると,そういう先生方に(仮に新任の方をターゲットにしていたとしても),大学教員の私が上から目線で何かを説くというような企画自体も,私が執筆をためらった理由の一つでもあります。teacher-researcherの対立は昔から言われていて,最近だとModern Language Journalで関連する話題の特集号も組まれていたと思います。もちろん『英語教育』誌の著者は大学教員だけではないわけですが,読み手が常に何かを教えてもらう立場であるということを暗示するような企画は個人的にはどうかなぁと思います。

そういうことを思っていても依頼が来た時点では何も言わずに原稿執筆していて,さらに原稿料ももらってる時点で私も同罪というか,こんなところで批判したところであまり意味はないのですけれど。

書き起こしについて

Q2についての回答で,書き起こしについて言及しました。このトピックの研究や,具体的な方法,実施の問題について詳述できませんでしたので,少し細くします。

発話を書き起こすという行為を学習行為として位置づけたLynch (2001)は,書き起こすという行為を導入しようと考えたきっかけとして,アウトプット活動や学習者の活動によって授業時間がいっぱいいっぱいになった結果,学習の振り返りの機会が失われてきていることへの危惧に言及しています。また,学習者が自身のパフォーマンスを改善していくという学習の営みにおいて,高熟達度の学習者だけが何を改善しているのかという自分自身のパフォーマンスの分析がよくできており,低熟達度の学習者には教師からの手助けが必要である(そうでないとうまくできない学習者が存在する)という自身の経験にも触れています。

やや余談ですが,このLynch (2001)が掲載されているのはELT Journalという雑誌でどちらかというと実践色が強いです。統制した実験研究とか,群間比較の介入研究とかよりはこういう教師の実践に基づいた論文が載っているイメージですね。ただ,かといって書き起こすという行為に何ら研究の知見が応用されていないかというとそういうわけでもありません。中心的なのは気づき仮説ですね。言語形式への気づきが第二言語学習を促進するという。ちなみに昔気づき仮説に関してこんな記事を書いたこともあります。

https://tam07pb915.wordpress.com/2014/07/29/explain-noticing/

脱線しました。このLynch (2001)が実際にどのようなことをやったのかという話をしましょう。Lynchはこの以前にやっていた実践で,”proof-listening”という活動をやっていたそうです。誰かの発表を録画しておき,それを再生しながら改善点をコメントしたりすることを繰り返していく活動のようです。しかし,現実的な問題として,コメントで指摘が入ったことに対して「言った言わない問題」が発生することがあったそうです。この問題の解決策の1つとして,学習者に書き起こしをさせよう,ということです。

私は寄稿した記事の中で,次のように書きました。

(前略)書き起こしをすることによって,活動中には気づくことのできなかった学習者の誤りを指導する機会にもなりうる。

これは,いくら教室での観察にエネルギーを注いでもすべてを聞き取れるわけではないので,書き起こしとして活動後に残るものがあれば,形式面の指導を事後的に行う際の参考になりうるという意図で書きました。ただし,学習者の書き起こしは不正確であるために注意が必要であるという指摘もあります(Stillwell et al., 2010)。

“In some instances, there were substantial portions of the recording missing from the student transcript, in which case the entire chunk was counted as only one error. The prevalence of these errors suggests that student transcriptscanprovideanindicationofperformance,buttogetaclear picture of what is really happening during task work, there is no substitute for engaging with students and monitoring classroom interaction firsthand.”

(Stillwell et al., 2010, p. 448)

学習者によってかなりのばらつきはあるようですが,書き起こしの指示とある程度の練習,そして学習者に対して,どういうものを教師が求めているのか,そしてそれをなんのためにやっているのかを説明すること,が重要かなというのは,個人の経験からも言えます。

実践的な話

書き起こしをするためには,録音・録画をするための機材が必要になります。それも,1台や2台とかではなく,モノローグであれば学習者一人ひとりに1台ずつ,ペアであればクラスの人数の半分必要になります。一昔前であれば,そんなことはLL教室でもなければ無理だったかもしれません。今は,公立学校でもタブレット端末が一人に一台あるような環境もありますよね。また,高校であれば携帯を持っている学習者もかなり多いでしょう。もちろん,個人のプライベートな端末を授業に利用することに関しては否定的な向きもあるかと思いますが。ただ,教師が数十台のICレコーダーを配る,というようなことをしなくてもいいような環境にはあるような気はしています。

タブレット端末はあるけど,有効な活用法がなかなか思いついていない,というような場合は,書き起こしというのはデバイスを活かす一つの手段ではあると思います。

もう一つ,実践上で論点となりそうなのは,おそらく時間でしょう。例えば発話が数分と短くても,実際に書き起こしをしようと思えばその数倍以上の時間がかかると思います。活動にもよりますが,数分で完結するようなものよりも10分あるいはそれ以上の会話が必要となるスピーキング課題もあると思います。そうなると,それをすべて書き起こすのは労力もかかりますし,途中で飽きてしまうこともあるでしょう。先述のLynch (2001)では,ロール・プレイタスクの中の90秒~120秒を選んで書き起こしをさせています。その後,書き起こしたものに言語的な修正を施させたあとにワードに打ち込ませて教師に渡し,教師がさらに言語的な部分の修正をした上で返却し,自分たちが打ち込んだものと教師から直されたものを比較する,というプロセスで進んでいきます。

書き起こしたものを修正させるプロセスで,Lynch (2001)が報告している4ペアの修正はpositiveな改善(incorrect -> correct)が平均で20ほどであったと報告されています(correct -> correct, correct -> incorrectの修正も合わせると平均で28)。90秒から120秒でもそうなるということですね。ちなみに,学習者が修正をしたあとにも語彙を中心に教師がさらなる修正をする必要があるという点にも言及があり,4ペア合計で,学習者6:教師4の割合で修正があったと報告されています。教師がどこまで修正をするかというのは次節の誤りの訂正にも関わる問題ですが,Lynch (2001)のようにするには日本の多くの環境ではクラスサイズの問題でできないでしょう。ただ,仮に教師が介入しなかったとしても,学習者自身でできたpositiveな改善は70%ほどであり,学習者の修正が誤っていた場合は全体の9%です。つまり,この9%を正しい修正にすることに注力するだけでも,つまりそれ以外は直さなかったとしても,学習上で大きな問題はないと言えるかもしれません。

ただし,Lynch (2001)の参加者は年齢は明らかにされていませんが,EAP(English for Academic Purpose)クラスの学生でTOEFLが520点くらいと書いてあるので,論文中では熟達度はそこまで高くないと言われていますが,個人的には,そしておそらく日本で英語を教える多くの方からすれば,むしろ熟達度は高いほうだと思われるでしょう。つまり,学習者のレベルが低い際にはこれほど多くの気づきが起こり,そして学習者たち自身で正しく修正できるかどうか,ということは留意が必要でしょう。また,ポスター・プレゼンテーション形式で発生したインタラクションを録音して書き起こしをさせたStillwell et al. (2010)では,学習者の誤った修正は1度目で32%,2度目で20%と報告がありますし,修正の回数もLynch (2001)で報告されているものより少ないです。Stillwell et al. (2010)とLynch (2001)では様々な違いがありますが,日本の大学1年生を対象にしているという点では,前者のほうが参加者は日本で英語を学ぶ学習者に英語を教える方々(『英語教育』誌のメイン読者)にとっては参照しやすいのかなと思います(ただ,かといって安易にLynchの実践は日本ではうまくいかないとか参考にならないとかそういう短絡的な話をする意図は全くありません)。

いくつかの研究

Hsu (2019)

記事内で言及したHsu (2019)は,タスクの繰り返しの効果と,タスク後の書き起こしがスピーキングの複雑さ,正確さ,流暢さ(Complexity, Accuracy, Fluency, いわゆるCAF)にどう影響するか,ということを調査した研究です。デザインとしてはスピーキングタスクを繰り返すだけのグループ(Task reperition; TR),繰り返しに加えて書き起こしもするグループ(Task repetition and post-task transcribing; TRPT),コントロール群の3つに学習者を分け(n = 13),同じタスクの繰り返しと,同じタイプの新しいタスクでCAFを比較するというものです。用いられたのは,6コママンガの描写です。全部で3つのタスクがあり,TR群とTRPT群は1回目->1回目の繰り返し+2回目->2回目の繰り返し+3回目というように合計で5回スピーキング課題に取り組み,コントロール群は3つのタスクを1度ずつしか行っていません。

書き起こしの指示は次のようになっています。

“Please download your own audio files, listen to each phrase repeatedly, transcribe the actual words (including mistakes, false starts, repetitions, and reformulations) you used as closely as possible in a MS Word document. Save it as “Original transcription”. Then, check the transcription and correct any mistakes you made regarding grammar, sentence structure, and vocabulary (please use the track change function). Save it as “Corrected transcription”. Post both the original and corrected transcription onto i-Learning. You have a week to have this assignment done.”

(Hsu, 2019, p. 187)

自分の聞いたものを間違えとかも含めてすべて書き起こし,Word上で変更記録をONにして気づいたものはなんでも修正をかける,ということが求められています。ポイントは,書き起こしがスピーチの全体に対してであること(1コマにつき最低4文でという指示で時間制限はないので,全体の分量がどれくらいかは不明)と,書き起こしに1週間という期間が与えられている点です。

分析の対象になったのは2回目の繰り返しと,3回目の新しいタスクのパフォーマンスです。同じタスクを繰り返した場合には,TR群とTRPT群ではCAFの指標のうちで有意差が見られたのは正確さの指標であるerror-free clausesのみでした(正確さについては有意になってないけど効果量が中程度とか議論されていますが,そういう効果量の解釈はダメ,ゼッタイ,なので無視します)。

一方で,新しいタスクにおいては3つの正確さの指標(Error free AS-units, Error-free clauses, Accurate verbs)のすべてにおいてTRPT-TR群の間に統計的に有意な差があり,accurate verbs以外の2つではTRPT群はコントロール群とも有意差がありました。しかしながら,TR群とControl群の間には3つの指標全てで統計的に有意な差は確認されていません。また,複雑さと流暢さでも3つのグループ間には有意差はありませんでした。正確さのみに違いが現れたことは,Skehanのトレード・オフ仮説で説明されていました。余談ですが,CAFってほんと指標の選択が恣意的で厄介なので,取り扱いには注意が必要です(cf. Fukuta et al., 2022

また,TR群とコントロール群の間に差が見られなかったことについては次のような説明があります。

“One possible explanation is, as Gass et al. (1999), Kim (2013), and Kim and Tracy-Ventura (2013) suggested, learners’ disinterest in the tasks given to them when the tasks have been carried out before. It is possible that when repeating the same task, the learners may just want to get the task done and thus did not take advantage of the content familiarity and devote effort to attend to the language formulation aspect of the task, leading to limited L2 development in the new context.”

(Hsu, 2019, p. 183)

この話って,普通の言語教師が教室でタスクの繰り返しをしようとした際には起こらないだろうことなので面白い(皮肉)ですよね。ただのモノローグ・タスクを,聞き手のいない状態で何回も繰り返したらそりゃあ繰り返すことの意味を感じないでしょうね,という話です。これが例えば,与えられた6コマ漫画の内容を知らない相手に対して伝えるという課題で,聞き手側が変わる(つまり別の聞き手に同じことを説明する)のような工夫がされているだけでも,話し手側がどのようにその課題に取り組むかは変わってくるはずです。

実際,話し手が存在し,さらにペアの相手が変わるような仕組みがある前述のStillwell et al (2010)は,タスクの繰り返しに対して学習者は肯定的にとらえていたという質問紙の回答結果を報告しています。

このHsu (2019) の研究の解釈の注意点は,タイトルにもあるようにあくまでタスクを繰り返すということとの”combined effect”であるという点です。本来ならば,2*2のデザインで次のようなデザインをするほうがベターなのでは思いますし,私ならそういう計画をすると思います。

  • TRなし・PTなし
  • TRなし・PTあり
  • TRあり・PTなし
  • TRあり・PTあり

こうすることで,TRのみの効果と,PTのみの効果を分けることができるので,同じ時間的な制約のなかで,同じタスクを繰り返すべきなのか,それとも繰り返しを書き起こしにするほうがいいのか,みたいな問いにも答えることができるようになると思います。TRなしといっても,同じタスクの繰り返しはないだけなので,厳密に言うとTR要因はprocedural repetition vs. exact repititionということになるでしょうけど。

さあ!Instructed SLAが好きな方はぜひこれで実験やってみてください。

Hassanzadeh-Taleshi et al. (2023)

さて,先のHsu (2019)の結果に対して,同じようなデザインで逆の結果を出しているのがこのHassanzadeh-Taleshi et al. (2023)です。こちらの研究の特徴は,タイトルにもあるように,タスク後「すぐに」書き起こしをさせることの効果です。前述のとおり,Hsu (2019)では1週間という期間がありました。ということで,書き起こしとタスクの繰り返し(exact repetition)をすぐにやったらどうなるか,というのがこの研究です。

参加者は38名で,19名ずつがタスクの繰り返しのみのグループ(TR)と,タスクの繰り返し直後に書き起こしをするグループ(Task repitition and immediate post-transcribing; TRIPTに分けられました。この研究での課題はトムとジェリーの動画を見てそれから内容を口頭で説明するモノローグ課題でした(制限時間はなし)。両グループともに,1週目(実際には1週目に熟達度テストがあるので2週目だが)に同じタスクをやり,次の週にもう一度同じタスクを,今後はビデオを見ることなしに行いました。TRIPTグループはその直後に書き起こしをしましたが,書き起こしを修正したり,それに対して訂正フィードバックはもらっていません。その後にもう一度同じタスクを繰り返しました。TRグループは,書き起こしをせずに1回目のあとにすぐに2回目のスピーキング課題を行いました。さらにその1週間後に両グループともにもう一度ビデオを見て同じタスクを繰り返しています。そして,直後の繰り返しと,1週間後の繰り返しの時点での発話データをCAFの指標で分析して群間比較を行っています。

結果として,CAFのどの指標でも両グループの間には統計的に有意な差は確認されませんでした。Hsu (2019)とは異なる結果が得られた理由について,著者らは次のように述べています。

“Despite the fact that compared to the TR group, the TRIPT had more time but they had to use the time available to transcribe their first oral performance in its entirety. The time and post-transcribing were only enough for the TRIPT group to detect their oral errors through comparison, but not enough to integrate the correct form into their second and third performances. This is despite the fact that the discrepancies that the participants managed to notice had already been part of their interlanguage system. In Hsu’s(2019) study, the learners were given a considerably longer time, i.e. a week. The time given to the L2 learners allowed them to transcribe their task rehearsal, correct their mistakes, to spend time reflecting on the post-task transcription. This may in part have led to stronger treatment effects on accuracy.”

(Hassanzadeh-Taleshi et al., 2023, p. 141)

書き起こしによって誤りに気づいた可能性はあるが,それが直後の,そして1週間後のパフォーマンスに影響をもたらすには十分ではなかった,ということですね。1週間の時間があれば,書き起こして,間違いを直して,そして自分のパフォーマンスを振り返るのに十分な時間があったはずで,だからこそHsu (2019)では正確さがあがったのだろうと考察しています。

また,繰り返しを求められることが参加者には明かされていなかったので,繰り返し時のパフォーマンスがより即興的であったことも原因として言及されていました。個人的には,動画を見て,そしてその内容を記憶した状態での再話と,絵を見ながらの描写はぜんぜん違う活動であり,前者(Hassanzadeh-Taleshi et al., 2023で用いられたもの)のほうが負荷が高くより記憶力が要求される課題であったことも大きな要因ではないかと思っています。実施の条件がこれだけ違えば,結果が異なっていたとしても不思議ではないというのが本音です。いわゆる「トップトップ」のジャーナルの論文じゃないから,と切り捨ててしまうのは簡単ですが,こうした介入研究を積み重ねたところで果たして「裏付け」といえるものが得られるのだろうか,というところは,ISLA研究者は問われると思います。

おわりに

誤り訂正については多くの研究の蓄積がありますが,そのあたりにも全体としての傾向についてしか言及できておらず,その中身や具体的な研究には言及できませんでした。この部分もブログで補足しようと思っていたのですが,ここまでですでに補足というよりこっちが本編ではみたいな長さの文章になってしまいましたので,またいつかの機会にしたいと思います(本当はここまででもう力尽きただけです)。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

引用文献

Fukuta, J., Nishimura, Y., & Tamura. Y. (2022). Pitfalls of production data analysis for investigating L2 cognitive mechanism: An ontological realism perspective. Journal of Second Language Studies. https://doi.org/10.1075/jsls.21013.fuk

Hassanzadeh-Taleshi, M., Yaqubi, B., & Bozorgian, H. (2023). The effects of combining task repetition with immediate post-task transcribing on L2 learners’ oral narratives. The Language Learning Journal, 51(2), 133–144. https://doi.org/10.1080/09571736.2021.1901967

Hsu, H.-C. (2019). The combined effect of task repetition and post-task transcribing on L2 speaking complexity, accuracy, and fluency. The Language Learning Journal, 47(2), 172–187. https://doi.org/10.1080/09571736.2016.1255773

Lynch, T. (2001). Seeing what they meant: Transcribing as a route to noticing. ELT Journal, 55(2), 124–132. https://doi.org/10.1093/elt/55.2.124

Lynch, T. (2007). Learning from the transcripts of an oral communication task. ELT Journal, 61(4), 311–320. https://doi.org/10.1093/elt/ccm050

Stillwell, C., Curabba, B., Alexander, K., Kidd, A., Kim, E., Stone, P., & Wyle, C. (2010). Students transcribing tasks: Noticing fluency, accuracy, and complexity. ELT Journal, 64(4), 445–455. https://doi.org/10.1093/elt/ccp081