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失敗に寛容な社会

はじめに

学内の広報誌に原稿を書きました。字数の制限があったので,結構削って以下のツイートで言及していただいているような文章になりました。

記事執筆の構想は,主にツイッターにいくつかつぶやいたことがもとになっています。

迷惑と寛容さ

政治的なことと社会の「雰囲気」

初稿

削る前の初稿は以下のとおりです。

私の専門は第二言語習得と言われる分野です。人間は,障害があるなどの場合を除いて第一言語の獲得に失敗することはありません。この文章を読んでいる方も,私の書いた日本語の文章を理解することにほとんど苦労することはないと思います。しかしながら,第一言語を身につけたあとに学習する第二言語(日本で生まれ育つ多くの人にとってはおそらく英語)の学習は,私達が日本語を身につけたように英語を身につけた人たちのようにはなかなかなりません。そして,なかなか身につかない英語に対して苦手意識をもったり,英語を使うときに間違うことを恐れるようになったりします。しかしながら,どのような言語を身につける赤ん坊や幼児であっても,言語を身につける過程で誤りを犯します。誤りを犯しながら,ときにはそれを周りの大人から(優しく)修正されながら(大人は修正しているという意識すらないこともあるでしょう),ときには自然と,言語の知識を身に着けていくのです。そのことに対して,間違ってはいけないと厳しく叱りつけたりする大人はいないはずです。言語の習得,もっと言えば広く学習とは誤りを犯しながらも知識を拡張していく営みだからです。
翻って,学校で英語を学んだ(多くの)人達は,子どものように間違いを犯せなくなります。間違ったら恥ずかしい,間違ったら怒られるという意識が出てきてしまうからです。考えてみると,間違うこと,失敗することに対する否定的な考え方はなにも英語に限らず,社会のあらゆる場面にはびこっているような気がします。学生の皆さんでいえば大学受験に失敗すること,就活に失敗することは避けたほうがいいことだと思う人が多いでしょうしょう。大学を卒業してからも,就職してすぐ会社を辞めることを否定的に思う人が多いと感じる人が(実際に否定的な考えのヒトが多いかはともかく)多いでしょうし,結婚をして,その後離婚をすることになった人についてもネガティブなイメージがつきがちです(本当は我慢して婚姻関係を継続している人より「バツ」のついた人のほうが幸せかもしれないのに)。
人間は,失敗して,そこから学び,そして成長していくものですし,人生とはそういうものだと思います。それなのに,社会は周りと同じペースで同じステージに進まなかった人に対してあまりにも否定的すぎると思います(結婚はまだか,子どもは作らないのか,みたいな発言も,言っている人は善意だったり相手を心配しているのかもしれませんが,そもそも「世間一般」と違うことを心配するんじゃあないよと)。私が死ぬまでには,もう少し失敗すること,そこから学びを経て前に進もうとする人に優しい社会であってほしいと願っています。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

教育と研究と学問と

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はじめに

以前,「なんでゼミやるの?」というブログ記事を書きました。それに関連するような話かなと思います。もしかすると,どこかに以下に書くようなことと同じような意見が書いてあるかもしれません。それを私が昔に見たことがあって,そのことが自分の思考を形作っているのかもしれません。ただ,一応自分の頭で今考えた(と思っている)ことを,今の自分の言葉で書きます。

最近,学部のこれからをどうするのかみたいな話が会議の話題にあって,それ以降ぼんやりと考えていたことを書こうと思います。自分の中で結論が出ていたりするわけではないのですが,書くことで考えをまとめようというような意図で書き始めています。話が大学教育というような大きな語り口になっていますが,基本的には私の所属先のことを念頭において書いています。

教育と研究は別?

よく,「研究大学」というような言葉である特定の大学を指すことがあります。国内の大学の中でも研究をリードしていく大学というような意味合いで使われると思います。じゃあそういう大学は教育はやっていないのかというとそういうことではなく,そうした大学でも教育は行われているはずです。一方で,私の所属先は人によってどういう形容をするかは変わるでしょうし大学を偏差値的な意味でランク付けする発想も好きではないですが,二流私立大学とか中堅私立大学とか言われるようなところだと思います(有名私大という呼び方もあるかもしれませんね)。で,そういうところでは研究だけやってればいいわけじゃなくて,教育もしないといけないみたいなことが話として出てくると,そういうことなのかな?と思ってしまいます。ここでは教育というのを授業(または授業の体系としてのカリキュラム)として考えています。そうしたときに,授業っていうのは研究に基づいているものなのではないのかなと思うわけです。

教育というのを学生目線で「社会」に出て役に立つようなものとか,就職に役に立つようなものとかっていうふうに考えてしまうと,それは大学の,そして大学教員の価値や立場を自ら貶めるようなことにつながってしまうのではないかということを少し危惧しています。私たち大学教員がやるべきことは,というか私の所属学部の教員のような人文系の研究者がやるべきことは,自分たちが授業で扱うことがどうやって社会人になったときに役に立つかを語ることではなく,私たちの学問はこんなに面白いし,学問に真摯に向き合うことそれ自体に意味がある,そしてそのことは君たちの今後の人生を豊かにする,ということではないでしょうか。

就職も大事だけど

学部,ひいては大学としては,卒業していく学生たちが「社会」で活躍することを対外的に示したいというのは現実的な話として理解できます。そして,それがいわゆる就職率だとか,就職先の企業名だとかいうものにわかりやすく現れるのだということも理解できます。そして,大学についての評価を下す側の人たち,そして大学を選ぶ側の人たちも,それを一つの判断材料にしているという現実も大いにあるでしょうし,そこを一切無視していては大学の運営は成り立たないでしょう。しかしそれはあくまで「建前」的なものであるということを教員が思っていなければ,入ってくる学生も,そして在籍している学生も,それが大学に求められることであるという態度でカリキュラムをこなすのではないでしょうか。

「就職」というものをゴールとして設定することは,その先の学生の人生については君たち次第だという突き放した態度のようにも思います。今は,最初に就職した先でずっと退職まで働き続けるような時代でもありません。最初に就職した先が名の知れた「良い」企業であればその後の人生の幸せが保証されるわけでもなければ,就職が決まった時点ではその学生が満足していたとしても実際に働いてみたら全然幸せではなかったということだって当然のようにあるはずです。

また,就職がうまくいかなければ「失敗である」というメッセージを暗に学生に伝えてしまうことになるような気もしています。私は,それはあまり好ましいことであるとは思いません。それは,ある意味では先の見えない不安な状況に学生を追い込むような面もあるかもしれません。そして,そのことは一見すると学生に意地悪をしているように見えるかもしれません。

しかしながら,私たち大学教員が伝えなくてはいけないのは,「そうじゃないんだよ」ということです。そういう不安な状況とか,先の見えない不安とか,あるいはある意味での人生の挫折を味わうような状況になってしまったときに,そこで自分で考え,決断をし,そして勇気を持って自分の人生を切り開いていけるようになってほしいということではないでしょうか。

長い目で見たい

大事なことはもっと長いスパンでの学生の人生の幸福です。大学で学ぶことというのは,そういう人生の財産となるべきものではないでしょうか。というよりも,教育というのはそうした営みのことではないでしょうか。どのような学校種であったとしても,出口のすぐ先の未来だけを見据えるのではなく,その後に続く長い人生のことを見据え,そして願わくばそこを見つめさせることができるような場所が教育の場であってほしいと思います。理想論だという一言でこのことを片付けてしまうのは簡単ですが,それでもそうした理念的なことを大真面目に語ることが教育者としての役割だというようにも思っています。

それをやめてしまったら,「社会」から要請されるままの,そして「政治」から要請されるままの機関になってしまうような気がします。それは本当に大学のあるべき姿なのかというと,私としてはそうでないと言いたいです。

外国語学部ならではの問題

はじめに言及したブログの過去記事の中でも書きましたが,私の所属する外国語学部という組織自体が,文学部との差別化という側面も(おそらく)あって,いわゆる実学的な側面を組織のアイデンティティとして持っているという点は無視できないと思います。

5つあるプログラムの中で「通訳・翻訳プログラム」が最も人気があるのは,学生にとっても役に立ちそうな感じであるとか,それが自分のキャリアに直結するというイメージがしやすいことが要因ではないかと思います。ただし,そのことは通訳・翻訳のプログラムがただただ通訳や翻訳のトレーニングであるということではないはずです。あくまで大学で開講される授業であり,通訳も翻訳も研究があるわけです。担当する教員もそうした研究に基づいて授業をそしてプログラムとしてのカリキュラムを作り上げているはずです。

言語教育プログラムも達人技とか現場で役立つスキルだけを授けるわけではないでしょう。言語を教えるには言語そのものの知識も必要ですし,言語の学習に対する理解も必要です。そしてこれらのことも研究に基づいた蓄積があるわけです。それらをすべて理解させ身につけさせなければいけないとは言いません。しかしながら,ただただ外国語の運用能力があがればそれで「外国語のプロフェッショナル」だなんていう考えをぶち壊し,上っ面だけの異文化理解とかではない学問の世界を学生に見せつけることが外国語学部の教員の使命であるように思います。

4年間全力で学業に励んでもまだまだこんなにも知らないことがあり,そのことを胸に卒業後も学び続けられる学生を私は送り出したいです。そして,学び足りないと思ったらいつでも研究科に「戻って」学べるんだよということを伝えたいです。学びたいという欲求を全力で受け止める環境を私たちは用意していますよと。もちろん,うちの研究科でなくてもどこでもいいですし,学ぶ続ける場所が研究科(大学院)である必要もありません。どこかの学部に入り直したっていいでしょうし,海外の大学に行くことだってアリだと思います。

おわりに

本当は,私の所属先の看板である留学プログラムについても書こうと思ったのですが,それはそれでまた長くなりそうなので,またそれについて考えがある程度まとまったら別の記事で書こうと思います。かといってこの記事がまとまっているのかというとまだまだ消化不良な部分もありますが,今の私の考えとしてここに記録として残しておきたいと思います。5年後,10年後に(どこで何やってるか,生きてるかはわかりませんが),もしこの記事を私が見直したらどんなふうに思うのか,若かったなぁあの頃は思うのか,それを楽しみにしたいと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

2021.10.18 訂正

通訳・翻訳プログラムが最も人気のあると書きましたが,実際には最も人気があるのが異文化コミュニケーションプログラムでした。お詫びして訂正します。

「自律」の基盤的な部分

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さて,恒例の酔っ払ったので過去のことを振り返ってみるブログ記事の更新です。今回は「自律」という部分について,それを自分がどのように身に着けていったのかなというのを考えてみます。

幼少期のサッカーの経験

これはかなり大きいと思います。私は幼稚園の年少から地域のサッカークラブに入っていて,小学校の6年生までそのクラブでサッカーをやっていました。途中,サッカーの練習に行くのが嫌だと思ったこともありましたが,続けてました。このサッカークラブでの経験が大きかったなと思うのは親元を離れて合宿を毎年していた経験だったのではないかなと思います。

毎年夏と春に一泊二日ないしは二泊三日での合宿がありました。おそらく,ほとんどの小学生にとって親元を離れて過ごす機会というのは学校での宿泊行事(移動教室とか修学旅行とか)がメインになると思います。ただし,私は小学校の低学年のときからサッカークラブの行事を通じて宿泊行事に慣れていました。持ち物の準備,部屋で身の回りの整理整頓をすること,規則正しく行動することなどは,きっと幼少期からサッカークラブに所属していたことがきっと大きいんだなと思います。おねしょも割と大きくなってからもしてた記憶がありますが,宿泊行事では絶対しませんでした。

宿泊行事となると,様々な場面でいろいろな管理を求められるようになります。朝何時に起きるかだけではなく,何時に試合があるからそこから逆算してこの時間にはウォーミングアップを済ませておくとか,昼食のあと何時間後に試合だからそれを見据えて食事を摂るとか。もちろん朝早いから寝る時間も考えないといけませんし。「あれがない,これがない」ということがないように,荷物を常に整理整頓して自分が必要となるものがすぐにみつかるようにしたり。そういうことを,個人,そして仲間とともに経験したことは,自分が意識していないレベルで自分のベースになっていると思います。そういう費用を負担してくれた親には感謝しないといけません。

親が離婚したこと

20歳(大学2年次の夏)の時に両親が離婚して母親が出ていきました。この頃から,食事を基本的に自分で作るようになりました。朝は食べないか車での通学途中にコンビニに寄ってサンドイッチを買って運転しながら食べるみたいな感じでした。余裕があれば朝起きて自分でサンドイッチを作っていったりもしていました。もちろん食費は与えられていましたけど,自分の飯は自分で用意する,みたいな環境で過ごしました。そりゃぁ大学生ですから友達と夜ご飯を食べたり,飲み会があったりということも頻繁にはあったわけですけど。どっかで書いた記憶もあるんですが,サークルの友達は一人暮らし組が多かったので,「実家組はいいよなぁ」なんて言われたりして,「いや俺実家だけど帰ってもご飯は自分で作らないとないけどね」って思っていました。大学3-4年生くらいのときは大学近くで家庭教師をやっていました。家庭教師っていうと夜ご飯をごちそうになってみたいなエピソードを聞くこともありましたが,缶コーヒーくらいでしたね(別にそのことは全く不満に思ってもないです)。ただ,サークル終わりに家庭教師をやって21時くらいに帰途についてそこから御飯作るみたいなのは結構しんどかったです。もちろん帰り道に外食して帰るとか弁当買って帰るみたいな選択肢だってあったしたまにはそうしていたわけですけどね。

自分の飯は自分で用意するというのはすなわち食料品の買い出しも自分で考えてしないといけないわけで,帰り道の国道添いにある業務スーパーに寄って保存期間の長い食品を買ったり,西友で安い食料品を見繕って買って帰ったりすることが日常的にありました。そういう経験は,のちにアメリカで自立した生活を送る(もちろんルームメイトはいましたけど親に頼らないで生きる)ことや,その後名古屋で4年間の大学院生生活を過ごす際の基盤になったと思います。

こういう経験は人間として生きていくうえで身についていてよかったなと思います。自分のケツは自分で拭く精神が身についたというか。

What doesn’t kill you makes you stronger

ですね。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

なんでゼミやるの?

Photo by Matheus Bertelli on Pexels.com

はじめに

「そんなにゼミやりたいんすか?」と言われて,それめっちゃいい質問だなと思ったので,私(33歳私学外国語学部准教授)の今の気持ちを書き留めておこうと思います。

所属先の環境

私は今,関西大学外国語学部というところに所属しています。ゼミの話をする前に,弊学部の特徴を少し。カリキュラムの特色は2年次の留学プログラムです。

  • 1年次:専門の導入科目,アカデミックスキル養成,留学に向けて語学力をバチバチに鍛える
  • 2年次:留学
  • 3,4年次:留学先で培った語学力を維持しつつ専門を深める

ざっくりいうとこんな感じのカリキュラムです。おそらく一般的な大学のゼミ(演習)は3年次春学期(前期)からスタートすると思いますが,弊学部では留学から帰ってくる時期の関係でゼミ選択を3年次の春学期にせざるを得ず,よって3年次秋学期と4年次にゼミの1年半がゼミ履修ということになります。2年次にプレゼミ的なのがあったりするところもあると思いますが,2年次に1年間留学をしても4年間で卒業できることを売りにしているので,専門的な教育としては3, 4年次に詰め込んでいる感があり,そこは教員間でも課題として認識されているのが現状だと思います。

そういう事情の中で,いわゆるゼミは教授のみ必須,准教授と助教は希望者のみ開講しても良いということになっています。他の学部は知りませんが,私の所属している関西大学外国語学部は若手教員の授業負担や学内業務負担をできるだけ軽減し,研究によりエフォートを割いてもらうみたいなことが制度設計として実現されています。ゼミ開講のことについても,そういう配慮があると思います(もしかすると,准教授や助教はゼミで指導生を持つような能力がまだないと思われてるのかもしれませんが)。

さらに,学部定員(170くらい)と教員の人数(50)の割合が極めて高いのも特徴です。一人の教員が受け入れられるゼミ生の人数を制限しているので,少人数の演習でみっちり指導しますよ,というのも学部の特徴です。

なんでゼミやるの

「そんなにゼミやりたいんですか?」はすごくいい問いだなと思いました。特に,私の所属先のように義務としてゼミを開講しなくてはいけないわけではなく,開講しないという選択肢が与えられているのだから,別にやらなくてもいいのではというのは理解できます。現に,開講の義務がない准教授,助教の先生でゼミを開講しているのは少数派だと思います。

まずひとつは,やっぱり大学教員という仕事の醍醐味の一つとしてゼミの運営があるというのはあると思います。自分も学部時代,博士課程時代にゼミを通してたくさんのことを学んだというポジティブな経験があります(博士課程時代は国立大学でなおかつ独立大学院だったので学部のゼミにはあまり直接的つながりはなかったですが)。

学部時代に教員と少人数の学生で密にコミュニケーションしながら突っ込んだ話について議論を深めたりしたことや,難解な洋書の専門書をみんなで協力しながら読み進めた経験は確実に今の自分の基盤となっています。それは当然ながら,今の自分のキャリアがその延長線上にある(ゼミで学んだことと無関係な仕事をしていない)ということも大いに影響しているでしょう。そういう意味でいうと,教員養成課程というマジョリティが教員になるという道を選ぶ環境と,私の今の環境ではゼミのあり方も異なって当然であるとは思います。

ゼミの活動を見ていると,活動系のことを大きく宣伝しているゼミも多いですし,むしろそういうゼミが人気を集めているようにも思います。学生にとって,その後の人生に役立つことが直感的にわかりそうなゼミを選ぼうとする気持ちも,昨今の就活事情を鑑みると理解もできます。それ自体を責める気もありませんし,結果として優秀な人材を世に送り出しているといえますからゼミの募集に誰も来ない教員よりもよほど学部,そして社会に貢献しているといえるでしょう。

そういったゼミを運営する先生やそういったゼミに入る学生が学問を軽視しているとは言いません。ただ,やはり私はやっぱり研究者でいたいと思っています。私は良くも悪くも学問の専門家であり,もちろん産学連携とか地域貢献も大学の大事な役割ではあるとはいえ,それが自分の専門であるというようには考えていません(しそこに今から自分のリソースを投じることが有益であるともあまり思えない)。もちろん,いわゆる「現場」といわれるような学校に呼ばれて,その学校の教育を良くするために力を貸してほしいと言われたらそれは全力でコミットします。ただ,そのことを自分のメインの仕事として捉えることはおそらく今後ないだろうと思います。それは,その仕事については手を抜くということではなく,それは自分がもっとも力を発揮できる場所であるという自信がないということです(かといって研究なら力が発揮できるかと言われるとそれも自信があるわけではないですが,ただ研究者ならそこで力を発揮できないなら辞めたほうがいい)。

所属先の構造でいうと,研究科が上にある場所にいる(所属先が外国語学部で,同じ組織の構成員の外国語教育研究科がある)ので,やっぱり学術的なことを扱うゼミをやりたいという思いもあります。学部の上に研究科がある,ましてや修士課程だけではなく博士課程まであるというのは一般的とは言えないと思います。そうした環境で職を得ているからには,そこも見据えたいという思いもあります。もちろん,現実的には学部から修士課程に上がる学生の数は数えるほどで,そこから博士後期課程までとなるといるかいないかレベルで,後期課程はほとんど外部から人が来るというのが現実だと思います。

学部長・研究科長が竹内先生で,英語教育で言えばその名前を知らない人はいないのではみたいな人(e.g., 水本先生,新谷先生,to name a few)が一人ではなく何人もいるみたいな環境です。いやいやこの先生がその仕事してる場合ちゃうやろっていうのを思ったことは就職してから数え切れないほどあります。

「まあだから自分はゼミやんなくてもいいや」という思いもある一方で,自分がそこに割って入る気持ちでいないでどうするという気持ちや,自分をチャレンジングな状況に意識的に置くことで成長したいという気持ちもあります。

自分と近い分野の先生が多いということはすなわち,ゼミを開講しても分野がかぶる可能性が高いということを意味します。さらに,弊学部は1学年のゼミの受け入れ人数上限が二桁になることはないわけですから,そのばらつきを考えればなおさら他の先生たちのとの差別化ができないと,若くて経験も浅い私のゼミを選ぶ可能性は低くなります。だからこそ,ニッチかもしれないけれども自分のキャラクターを生かそうという発想になりました。結果としてそれはうまく機能しなかったわけですが…

もう一つは,ゼミをやることが自分を成長させてくれるという気持ちがあります。学生から見たら,貴重な教育の機会をお前の成長のために使うんじゃあねぇという声も聞こえてきそうですが。これは冗談抜きで亘理先生がいいからやってみんしゃいと言ってくださったことが大きいです。もしかしたらそんなことは言ってないかもしれないんですが,個人的にはどっかでそういうメッセージをもらった気がしています。私が,ゼミやろうかどうか迷うというようなことをツイートしたときにかけられた言葉だと記憶しています(念の為書いておきますが,だからといって履修者ゼロだったことは亘理先生のせいでもなんでもないです)。

自分が経験したことないことを経験することによって,自分が成長できるというのはゼミを開講しようとするメリットだと思いました。また,今の私はどちらかというと英語を教える科目の担当がメインなので,自分の専門に関わることを授業を通じて教える機会はありません。そういった自分の専門に関連する科目の担当はそれはそれで大変だとは思いますが,その授業を担当できる(任される)ということは,すなわちそれだけの研究者であるということを意味すると思います。そういった授業の担当は自分が希望すればできるわけではない以上,ゼミというのは自分次第でそういった環境への直接的アクセスが可能な手段でもありました。

学生からすると経験が薄い教員のゼミに入るのはリスクも大きいと思うでしょうし,先輩からの情報が得られる先生だったり,就職に強い先生のゼミを選びたいと思うのは当然だと思います。それを上回るようなメリットを自分自身がシラバスで提示できなかったということが,自分の未熟さや至らなさなんだろうなと思います。また,ある程度その学年の学生にも顔が知れている(学年の多くの学生の授業を担当している)にもかかわらず,私のゼミの希望者がいなかったというのは,学生からの授業の評判も良くないということの表れでもあるかもしれないと思っています。

もともと授業がうまいという自己評価をしたことは一度もありませんが,だからといってこの状況を自分に対してのフィードバックとして受け取らないのは無責任すぎます。来年度も開講の希望を出すかどうかは今の時点では迷っていますが,結局私のゼミに入りたいと思うゼミ生が現れるかどうかは自分のパフォーマンス次第であると思うので,来年度以降もチャレンジしたいと思います。発想は体育会系かもしれないんですが,私は私の持てる知識の全力で向き合うので,「教えを請う」という態度ではなく,全力で私にぶつかってきてくれる人と切磋琢磨したいなって感じですね。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

2021.09.01.12:41

タイポの修正と一部加筆修正をしました。

人と話すこと

Photo by Jopwell on Pexels.com

いつからだろう。人と話すのが苦手だなと感じるようになったのは。昔から人見知りだったのは間違いない。初めて会う人と上手に話をするのは苦手だった。でも,家族と過ごしているときはいつでもずっと自分が喋っていて,そういう意味では「おしゃべり」というラベリングをされて育ってきたと思う。「5分黙ってたらお小遣いあげるから」とか母親に言われて。もちろん黙ってられなかったわけだけど。

学校生活でも,誰かと喋らずにはいられなかった思い出がある。中学の時も,高校の時も,授業中に隣や後ろのクラスメイトと(それが男子でも女子でも)ずっと喋っていてよく注意されていたような気がする。それに,先生の発問に対しても自分が当てられてないのに答えをいうこともあったらしい。久しぶりにログインしたmixiで友達からの紹介メッセージが並ぶページを見ていたら,高校3年生のときのクラスメイトが英語の授業のときにいつも私が答えを言ってしまうことが嫌だったというようなことを書いていた。全然覚えてないけど,そういうことがあっても不思議ではない。

大学に入ってからも,授業中はいつも喋っていたし,1年次のとある授業のとき,温厚で優しい先生(3, 4年次はその先生のゼミにも出ていたし,卒業してからも定期的に食事を行くほど仲良かった)に教室から出ていけと言われたのも今でも覚えている。

でもいつからか,喋らなくなっていったと思う。おそらく私が大学を卒業して以降に私と知り合った人は,私のことを「おしゃべり」と思ったりすることなんてないだろうと思う。いつからか,自分が話すことがつまらなくて価値のないことのように思えてきた。面白い話,価値のある話ができないなら,その話を聞かなくてはいけない相手に迷惑なので話さないほうがましだと思うようになった(それはきっと,自分が面白い話や価値のある話以外は聞く価値がないと心のどこかで思っているのかもしれないと疑っている)。

特に,”How was your day?”みたいな感じで聞かれるのがおそろしく苦手なのだ。なんのへんてつもない日常なのだから,取り立てて会話の話題になるようなものでもないし,それをそのまま話しても何も面白くない。仮に自分が話し相手として聞いたら「へえ〜」としか言いようがないことしかないような毎日だからだ。2011年にTwitterを初めてからは,しょっちゅうツイートしてた。面白くもない話を延々と。それに,毎日の出来事についてもツイートしてた。誰も興味ないのに。それがTwitterだから良かった。自分も若かったので周りなんか気にしてなかった。まあそういう使い方が本来の”tweet”であるべきなのだ。今でもそれなりにツイートする数は多いほうだと思うけれど,昔に比べたらずいぶん減ったと思うし,ツイートしようと思ってやめるということも増えてきたように思う。それでも,人と話すよりはツイートするほうがよっぽど楽なのだ。なぜなら相手からの反応がなくて当然だから。

皮肉なことに,そういう人間が人前で話すことを仕事にしているわけだ(しかもコミュニケーションを重視した授業とかやっちゃってる)。授業中も,あまり自分が話す時間が長くなると苦痛だと感じる事が多い。それでも,そうではない場面(日常生活における会話)よりはさほど話すことに苦痛を感じないのは,きっとそこに権威性が存在しているからだと思う。教員は話すのが当然で,学生はその話を聞くのが当然であるというような。でも本音で言えばそういう権力関係がある状態で話すのは本当に辛い。常に,自分の話を苦痛に思いながら聞いている学生に申し訳ないなと思ってしまうからだ。そうやって話す側と聞く側のパワーバランスがはっきりしている場面で話すのは(そうじゃない場面の会話のほうがむしろ少ないのが普通かもしれないが),メンタルのリソースを著しく奪う。研究発表もそうだし,経験は数えることしかないがセミナーだったりワークショップだったりの講師となるとその傾向がより強くなる。

昔は『スラムダンク』のフクちゃんのように,「もっとホメてくれ」と思っていた。自分という存在が他者からの承認をうけるべきだと思っていた時代があった。ところがいつしか,ゲーム・オブ・スローンズでいう”no one”のほうが心地よく感じるようになった(そこに作中で描かれるような信仰はないにせよ)。自分のアイデンティティを真っ白なものとして生きるほうが楽に感じるのだ。そこには背負うべきものが何もないから。だからこそ,その道を捨てて私はアリア・スタークだと言って自分のアリア・スタークとしての役割(責任)を全うした(自分が自分であることを引き受けた)アリアは尊いのだ(もしゲーム・オブ・スローンズをご覧になっておらず,なおかつ観ようとしている人がいたとしたら唐突のネタバレになってしまうことを大変申し訳なく思う)。

自分が何者でもないと思うことはそう簡単なことではないと思う。誰だって,自分は人から承認されるべきなにかを持っていて,それがこの社会に何かしらの意味を与えていて,それが自分が生きることを肯定する材料になっていると思いたいものだと思う。だって,この世の中でそういう人たちが称賛を受けている,そういう世の中で生きているのだから。だがしかし,本来はそんなことはどうだっていいのだ。世の中の役に立つとか立たないとか,「生産性」があるとかないとか,そんなことに関係なく人は生きる権利があり,人権をもっているのだ。そうやって自分以外の他者をリスペクトすることはできるのに,自分を肯定できないことのジレンマにきっと今陥っているのだと思う。

人と話すことに戻ろう。私はもともと,どちらかというと年上の人といるほうが気が楽なタイプだ。家族の中でも自分が一番下で(2歳年上の姉がいる),昔から年上の人と過ごす機会のほうが年下の人と過ごす機会よりも多い中でずっときたこともあるかもしれない(近所に年上の人が多くいたのと,家族ぐるみの付き合いがあったのが姉と同い年の家族だった)。高校,大学と,上下関係がより強調されるような環境で自分が上になったとき,あまり年下とうまく人間関係を築くことができなかったし(高校にいたっては年下とほとんど接点がないといっていい),苦手だからそういうのを避けてきたと思う。大学のときはそれでも何人か仲良しな後輩もいたかもしれない(専修の中では何人か思い浮かぶ。どちらかというとサークルの後輩は親しみやすい子が多くて自分も楽しかった記憶が多い)。大学院でも,先輩とうまくやるより後輩とうまくやるほうが難しいと思っていたし,結局あまりうまくやれなかったと今でも思っている(自分の先輩が偉大すぎたという言い訳くらいしてもいいはずだ)。

本当はつまらない話をしたっていいし,面白くなくたっていいし,たわいもない話こそが人間が本当に必要としてる会話なんだと思う。そのはずなのに,たわいもない話をするのが苦手なのだ。きっと昔は,人がどう思ってるかなんて何も考えずにしゃべることができたし,周りも聞いてくれたから自分が喋りたいように喋っていただけなんだと今になっては思う。その結果として,話を聞く側に対する想像力がほとんど育たなかったのだ。だからこそ,自分の話を相手が聞いた時にどう思うかがわからなくて,問題が起こることが増えた(問題が顕在化することが増えたという方が適切かもしれない)。オトナになると(本来オトナコドモ関係ないんだが),自分が喋りたいことだけ喋っていればいいようでもなくなってくるから難しい。そのことが,自分がなにかを話したところで相手は「へえ〜」しか言うことないよねで片付けてしまうような思考回路になってしまっている要因かもしれない。

とはいえ,「くだらないことだって話していい」は世の中でそこまで受け入れられてないのかもしれないと思ったりもする。だからこそ,お金を払ってどんな話(それでも許容範囲はあるだろうが,他の場所よりは許容範囲がおそらく広いと思われる)でも聞いてくれる場所に足繁く通うオトナがいるんだろうと思う(典型的な例がキャバクラ)。きっとそういう人は,聞いてもらえる感覚がない(不特定多数に発信する)ようなツイートでは満たされることはないのだろうなと思う。別に軽蔑ではなくて,むしろ気持ちはよくわかるなと思う。おそらく20代前半くらいの若者だったときは,お金を払うなら性的サービスが受けられるところにいくでしょって思ったと思う(そういう経験は人生で大学生のときの1度きりしかかないが)。むしろ,性的サービスですら,お金を払わなくても女性を口説けば事足りるのにって思っていたと思う。

私は88年生まれの33歳だが,今同じことは思わない。それは金銭感覚が学生のそれとは違うというのも大きいだろう。時間的コストをお金で買えるという考えになったといってもいいかもしれない。しかしながら,それと同時にあのときはなぜそんなエネルギーがあったのだろうとも思ったりする。若いってすごい。純粋なスポーツテストで測定されるような「体力」ではないようなエネルギーがあった。今はない。だから,自分よりひと回りも(場合によってはふた回りも)年上の人がギラギラしてるのをたまに見かけたりすると,最近はすごいなと思うようになった。その年でもそんなエネルギーあるなんてすごいですねって。リスペクト。それこそが「生きるチカラ」なんじゃないかと思わざるを得ない。

私にはそういう「生きるチカラ」なるものが欠けていると思う。それに加えて,自分という人間の人生について,それが自分だけのものであるという妄想も抱かないようになった。むしろ全くの逆で,自分の人生は他者の存在なしにはありえないものだと思うようになった。自分が生きているのは自分の意志ではないとすら思うくらいだ。自分の意志だけで生きていけるほど強くない。少なくとも自分はそんな超人的な精神力を持ち合わせていない。自分が死んだら困る人がいる(悲しむかどうかではなく困るかどうか)だろうなと思うから,まあそれなら生きてるほうが世の中のためかと思う。

こんな話も,誰か人にするもんじゃないからここに書いている。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

吉田麻也選手のインタビュー動画

真面目に話すところと冗談を交えるところが絶妙で,こういうところもキャプテンとして信頼を集める理由なんだろうなと思いました。

【東京五輪後初インタビュー】キャプテン吉田麻也が大会を振り返る

五輪が終わった後にこういう長いインタビューを受けることもすごいです。もうヨーロッパのリーグはいよいよ開幕で,少しでも早く日本を発ってチームに合流したいという気持ちだってあったはず。

キャプテンとしてどう振る舞うか,どういう言葉をかけるか,チームメイトの小さな変化を見逃さない観察力,などなど,自分は吉田麻也選手と同い年だけどまだまだ若手のポジションですが,自分が上になったときに参考になるなと思いました。この人の文章は人気出るんじゃないかと思ったら,2018年に本出してるみたいですね。買って読んでみようと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

なんでサッカー観るのこんなに好きになったんだろう

はじめに

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成績もつけ終わったので夏休みで,時間に余裕が少し出たのでオリンピックをテレビでつけながらサッカー関連の本を最近読んでいます(オリンピックは昨日で終わっちゃいましたけど)。少し前から footballistaというサッカー専門誌のサブスク(ウェブの有料記事読める&雑誌が毎月送られてくる)もはじめました。ただ,学期中はなかなか雑誌記事を読む時間もなかったので今読んでます(内容が結構ボリューミーでサラッと読める記事ばかりでもないので)。それで,ある本を読む中で,「あー英語教育とつながるところあるなぁ」と「こんなところで趣味で読んでるものと自分の仕事に関わるものがつながるなんて!」という興奮を感じています。

その話を書こうと思ったんですが,その前になんでそんなサッカーにドハマリしてるんだろうと思ったのでその話を。本の話は読み終わったら書きます。

きっかけを考える

もともと,サッカー自体はスポーツの中で小さいときからずっと好きだったスポーツでした。幼稚園の年長からサッカークラブに入っていて,小学校6年生までサッカーをやっていました(余談ですが,今回の男子サッカー五輪代表の相馬選手は私と同じ東京都調布市出身)。途中サッカーの練習に行くのが嫌になった時期もあり,中学ではサッカー部がなかった(正確に言うと顧問の先生がサッカーに詳しい方でなかった&結果的にその方が異動したあと顧問がいなくなって実質廃部になった)こともあって中高大とバスケをすることになります(大学はサークル)。ただ,中学も高校も体育でサッカーがあれば一番楽しみにしていたし,大学でもフットサルをたまにやってましたし,アメリカに留学してたときもバスケよりもサッカーしていた時間のほうが長かったですし,今でも地元に帰ったら地元の友だちとソサイチという7人制サッカーの大会に出たりしています(コロナ禍になってからそもそも東京に帰ってもいないのでしばらくやれてないですけど)。つまり,ずっとサッカーは好きでした。ただ,それはやるのが好きだっただけで,サッカーを観るという観点でいうと日常的には見ていなかったと思います。それと比べれば,今は人生で一番サッカー観戦に時間を費やしているなと思います。もちろん,体力的にも環境的にもサッカーを実際にプレーするのが難しいので観る方に興じているのはあると思いますが。以下,なんでサッカー観るようになったのか,その理由をいくつか考えてみたいと思います。

1. DAZN

一番影響が大きいのは間違いなくDAZNですね。JリーグとDAZNがパートナーシップを結び,Jリーグ全試合がDAZNで放送されるようになったことでサッカーを観ることが身近になりました。それまでサッカーの試合は地上波で放送される日本代表戦かカップ戦の決勝,たまーにNHKでやるJリーグの注目カードくらいしか見たことなかったと思います。くわえて,博士課程進学とともに名古屋に引っ越してからはテレビのない生活を4年間(厳密にいうと最後の年の初売りで大阪に引っ越すことを見越してテレビ買ったので4年弱)送っていたので,テレビでやるサッカーすら見れていなかったわけです。

それまでは,見たいと思った代表の試合は海外の怪しげなサイトで広告のポップアップと戦いながら超低画質で観る以外の選択肢しかありませんでした。それが,2017年(私が博士課程の最後の年)からDAZNとJリーグが契約したことで,PC(やスマホ等のデバイス)で気軽にサッカー中継を観ることができるようになりました。これは本当に大きかった。また,DAZNはJリーグだけでなく海外サッカーのコンテンツもありますから,海外サッカーも観るようになりました。これがきっかけで,娯楽としてサッカーを観るということが日常になったわけです。

2. YouTube

YouTubeで有名人が自分のチャンネルで発信するようになったのも大きな影響があると思います。その先駆者は那須大亮さんですよねなんといっても。今でこそいろんな企画モノ(というと一部の方には別のことが思い浮かぶような気もしますがもちろんそうじゃないです)が多いですが,開設当初は現役選手との対談が多かったです。サッカー選手の声を「動画」として見られるって,一昔前では本当に貴重だったんですよね。それがいまやYouTubeで簡単に見られてしまうと。そうやってまたサッカーコンテンツを消費する中で,サッカーに対する興味がましていきました。

さらに,サッカー解説者で元日本代表の戸田和幸さんの存在も大きいです。とにかく解説が良い。今ピッチ上で何が起こっているのか,何が良くて何が良くないのかを的確に言語化して伝える能力に優れている戸田さんの解説が好きです。そんな戸田さんがご自身のチャンネルでアップする動画は,実際の解説の数十倍の密度なんです。そういう話を聞くことで,サッカーというスポーツの構造というか真髄というかその奥深さをもっと理解したいという欲求が高まったのは間違いありません。戸田さんは地上波で放送される日本代表戦の解説者になることもあって,戸田さんが解説のときは嬉しい気持ちになります。なぜなら,地上波放送となるとサッカーファンというかライト層じゃない自分のような存在からすると解説が(もちろん実況がそもそもですけど)物足りなく感じてしまうからです。戸田さんは地上波ではDAZNやWOWOWといったお金を払ってる見ているサッカーファンのコア層が視聴者の中心となるわけではないので解説の仕方を変えている(DAZNやWOWOWでは専門的な,マニアックな,話を多めにする)というようなことをおっしゃられています。よって,ライト層からしたら難しすぎるというイメージをもたれてしまうかもれませんが,私からするとそういう解説を聞きたいわけですよね。それによって,自分の「サッカーを見る目」も養われるわけですから。

あとは,全部じゃないですが気になったらチェックするチャンネルは蹴球メガネーズですね。このチャンネルは比較的新しいですが,元日本代表で今はDAZNでも解説されてる水沼貴史さん,元サッカーマガジン編集長の北條聡さん,元エルゴラッソ編集長の川端暁彦さんの3人でサッカーの話をする番組です。この番組も割とサッカーのマニアックな話が出てくるのですごく勉強になっています。この番組を見ていなかったら,今私が読んでる(冒頭で述べた)本,『2050年W杯 日本代表優勝プラン』を買って読んでみようと思わなかったかもしれません。蹴球メガネーズを見ていて,川端さんがどんな方かというのがわかっていたからこそ,この人の話は読んでみたいと思ったわけですので。

3. ガンバ大阪

さて,きましたよ。ガンバ大阪。私が今最もお金と時間を使っている対象です。もはやガンバ大阪のために私の生活は組み立てられていると言っても過言ではありません。ガンバの試合があれば溜まった仕事もすぐに投げ出せる。ガンバの試合が18時キックオフなら17時までの会議が終わってから着替えて自転車ガチ漕ぎして千里山にある仕事場からパナソニックスタジアム吹田まで15分弱で行ってしまう。そして,英語教育0.2という名前をつけたブログであるにも関わらずなんのためらいもなくガンバ大阪の記事を書いてしまうのです。

私は出身が東京ですので,ガンバ大阪に対して昔から愛着があるわけではありません。ただ,いつかの記事で書いたような気もするんですがJリーグが開幕してブームだったときがちょうどサッカーを始めた幼稚園のときで(お昼はレトルトのJリーグカレーでシール集めてたりした),そのときにガンバ大阪のマスコットキャラであるガンバボーイの人形を買ってもらったのは覚えています。もう一つはジェフだったかサンフレッチェだったかなと。そう考えると,昔から馴染みのあったチームではありました。

そして,大阪に引っ越してきて,私の職場である関西大学は吹田市ですから,ガンバ大阪のホームタウンです(住んでるのは大阪市内)。そういうわけで,1度観に行ってからドハマリしたわけですね。スタジアムで観るサッカーはめちゃくちゃ楽しいんですが,私の馴染みのあるスタジアムってサッカー専用じゃないんですよ。私の実家の近くの味の素スタジアムは陸上トラックはありませんがピッチから観客席まではかなり遠い。旧国立競技場でもヴェルディ川崎の試合を何回か見た記憶もありますが,あの時と今とでは雰囲気もかなり違います。そういう中でいきなりサッカー専用スタジアムに行ったら,なんじゃこりゃと。2階席なのにピッチがすぐそこにあって,しかもスタジアムがいい感じのコンパクトさ(最大収容人数が4万くらい)なのでその圧迫感みたいなのも相まって雰囲気がすごいと。1階席にいったら選手がすぐそこで,リアルな声や音もバンバン聞こえてくるわけです。そして,スタジアムの熱気がやばいんです。そうやって何回も観に行ってるうちに,選手を覚え,チャンツを覚え,という感じで気づいたらファンクラブに入って年パスを買い,アウェイ遠征に行き,毎年ユニフォームを始めとしたグッズにお金を落とし,スタジアムに行けばスタグルにお金を落とし,という感じで今に至ります。

そうやって,自分の好きなチームができると,そのチームを見ている人,そしていろんな見方をしているひとが世の中にたくさんいることがわかります。Twitterでそういうガンバサポーターのリストを作って,試合のあるときはそのリストのツイートを見ています。そうすると,ブログとかで試合の振り返りやゲーム運びなんかについて非常に深い考察をされてる方たちがいるわけです。そういう人たちのことをすごいなと思う一方で,そのレベルで試合を観ることができていない歯がゆさみたいなのを感じることもあるわけです。

一応自分自身でもそれなりにサッカーについて勉強しているつもりではありますが,まだまだ足りないと。段階でいうと,学部生のときに「うおーSLAすげぇぇぇぇ」ってなったけどまだまだ知らないことがたくさんあることに気づいて大学院に進学しようと思ったみたいなのに近いかもしれません。そういうわけで,もっとサッカーを勉強しよう(他にもっと仕事に直結する勉強でやらないといけないこと山ほどあるわけなんですけど),と思うようになりました。

趣味:サッカーのメタ認知

サッカーというスポーツって「労働者階級の奴らが好きな野蛮なスポーツ」って評されることもあって,まあそれも事実として(成り立ちも含めて)あるのでしょう。別に趣味なんてなんだっていいし人にとやかく言われるもんじゃあないとは思いつつ,自分の職業というか少なくとも自分の観測する範囲でサッカー大好きっていう人がそこまで多くはないんですよね(部活でやってたレベルでも野球とバスケは聞いたことあるけどサッカー部出身は聞いたことないです知り合いが少ないだけとか言わないでください)。それよりは,芸術(クラシックとかバンド活動とかを含めた音楽とか),運動でも紳士のスポーツであるテニスみたいなのが好きな人が多いイメージです。そんな中で,サッカーが好きって公言することとか,趣味がガンバ大阪って言うこととかに抵抗を感じないこともなかったりします(とはいいつつTwitterではガンバサポって書いてるんですけど)。

それでもこれだけ世界で競技人口が多くて沢山の人を魅了するスポーツってないでしょう。スポーツ選手長者番付のトップ10に3人(メッシ,クリスチャーノ・ロナウド,ネイマール)もサッカー選手が入ってますしね(その下も見るとNBA選手多いですけど)。サッカーのワールドカップは放映権料が上がってて日本のテレビ局ももう視聴率もたいして取れないし割にあわないみたいな記事も出てますけど,それでも例えば五輪以外で世界大会が地上波で生中継されて国中で盛り上がるのってやっぱりサッカーじゃないですかねみたいなところはあります。

まあそんなことなかったとしても,自分が好きなものを他の人がなんと思おうが自分は好きだし,そしてその自分が好きなことを好きだと公言して良い世の中であるべきだし,そのことについていちいち考えたりしなくていいんだよ!っていう気持ちのほうが強いんですけどね。

おわりに

最近はなんていうかブログの記事に書きたいと思うことがどんどん減ってきてしまっていて,昔のように溢れ出る思考を書いてまとめておこう,みたいな状態になることがほとんどなくなっているのが現状です(実際更新回数も減ってるしアクセス数も減ってる)。そういうわけで最近なかなか真面目なというか,色んな人に読んでほしいなとかこのブログの名前にふさわしいなと思える記事が書けない状況なんですが,それでも何も書かないよりは書いたほうがいいなと思って書きました。ブログに関しても,第一義的には誰かのために書くというよりは自分のために書いてますからね。

もちろん,例によってこの時間に更新しているということはお酒の勢いも借りています。次に更新する記事は,英語教育と関わる記事になるとは思いますので乞うご期待。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

後輩が国際誌載りました

名古屋大学の後輩が,Studies in Second Language Acquisitionという国際雑誌に論文を載せました。

彼の修士論文がベースの研究です。いやー感慨深い。寺井くんは私が博士修了したのと同時に入学してきたいわゆる入れ替わりなので,実際に大学院で一緒の時間は過ごしていません。ただ,私が博士課程の4年生だったとき,急に個人のメールアドレス(公開はしてた)に「ある地方国立大学で中学校英語を専攻している」寺井ですみたいなメールをもらいました。当時は,「ある地方国立ってなんやねん大学名言えよw」って思ったりしました。

ぜひ名古屋大学に進学したいというような話で,じゃあ一度会いましょうかってことになって名古屋の焼き鳥屋でほかの院生仲間と飲んだのを今でも覚えています。その場に印刷した研究計画書ももってきていて,それを見ながら,学部生でこれはすごいなぁ。よく勉強してるなぁと思いました。

ところが,と言っていいのかはわかりませんが,私個人の印象としては大学院に入学してから「伸び悩んだ」印象でした。最初の印象がよかったのでハードルが上がりすぎていただけなのかもしれませんけど。

私と同じで地方国立の教育学部出身で,そこから研究を目指したという意味では彼と私にには似ているところがあります。そして,頭の中で起こっていることに興味がある(認知的なところに興味がある)という意味でも似ているところがありました。彼は語彙に興味があって,私は文法に興味があるわけですけど。ただ,そういうバックグラウンドが似ているところもあって,実践への示唆を目指した部分と,それとは別に純粋に認知科学的な興味の葛藤というのがとてもよく理解できました。当初はどっちつかずなところが多かったような印象です。それを徐々に形付けていくなかで,今回の論文のような形にまとまったのかなと。別に自分が彼の研究に影響を及ぼしたとは一ミリも思ってないですけど。

ただ,彼のことは私もずっと気にかけていて,大阪と名古屋と離れた場所にはいましたが,週に1度,「ゼミ」と称してSkypeで2時間みっちり研究のことについてやりとりする機会を持ってきました(最近は別に読書会ということでLangackerのCognitive Grammarからのusage-based系の論文を読む会をやってるので隔週開催になりました)。1対1ではなく,中央大の福田先生も呼んで3人で今でも続けていて,slackにある記録によると次回が78回目の開催になるようです。そういう中で生まれたのが先日J-SLAで発表したものです。

正直に言うと,寺井くんは”私から見て”未熟だと思う部分がたくさんあって,本気で怒ったことも数え切れないくらいあります。研究に関することもありますし,それに向かう姿勢的な部分もありますし,舐めてんのかって思ったこともありました。あんまりスポ根みたいな話にはしたくないんですが,それでも彼の研究について議論したり,たまに彼のキャリアだったり院生生活的な部分の話もたくさんして,それを彼が真摯に受け止めて,「ソルジャー」ぶりを発揮してくれた一つの結果として今回のことにつながったのもあるかもしれないなと思っています(繰り返しですが,載せたのは彼で修論なので指導したのは山下先生です)。

修士論文に基づいた研究を国際雑誌に載せるという試みはそれこそ名古屋大学(あくまで私の分野に限る話です)でその道を切り拓いたパイオニア的存在である福田先生に続く快挙です。今は海外の大学院に在籍している日本の院生がバンバン国際誌に載せる時代になってきているので,国際誌に載ること自体がもしかすると「普通」という感覚もあるのかもしれません。それでも,名古屋大学のわたしの分野でいえば院生在籍中に国際雑誌に載せた例は稀少です(私自身も博士課程時代にやった研究を在籍中に国際雑誌に載せることはできませでした)。

私は名古屋大学に在籍中,後輩の指導をうまくできませんでした。私の先輩である草薙さんが私にしてくれたことを思うと,私が大学院在学中にどれほど後進の育成に貢献できたのかということは自信がありませんでした。私が大学院に在籍していた当時は,「名大の院生」というのがある種のステータスで(それは主に草薙・福田の功績),分野の学会で勢いのある若手のイメージを植え付けたのではないかと思います。彼らがいなくなったあと,私は苦しみました。自分の力もないし,自分の後輩を輝かせることもうまくいきませんでした(後輩のみなさんごめんなさい)。

そういう思いの中で,直接は一緒に院生時代を過ごしたわけではないんですが,あの,九州の田舎から出てきた子が,紆余曲折を経て,SSLAという雑誌に論文を載せたということは,私が名古屋大学に在籍していた意味を1ミリくらいは残せたかなという気持ちになりました。

もちろん,それは私が一緒に時間を過ごした西村くんや三上くんがやってきたことに対しての評価をしていないということではまったくありません。彼らは彼らの場所で頑張ってると思います。ただ,寺井くんに関しては,入学前に個人的に連絡をくれたことや,研究の相談を含めてこれまでいろんなことを伝えてきたからこそ,個人的な思い入れがやや強いっていうだけです。

今後は寺井くんが主導する後輩との研究だったり,寺井くんの後輩の名大の院生の研究に期待したいなと思います。願わくば,私の所属先である関西大学外国語学部に,私の「後輩筋」にあたるひとが就職してくれたら私としてはこの上ない喜びです。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

自分の生い立ち

NHKテキストから出てるブルデューのディスタンクシオンの解説を読んだ。100分de名著シリーズ。こういう社会学の話を読むと,やっぱり自分という存在がどう作られたのかを振り返ることになる。

自分が若い時はそういう社会学的視点というか,メタ的な視点がないので,自分が育った環境についてあまり考えたことがなかったし,自分が環境の影響を受けているという視点を持ってなかった。でも,自分のハビトゥスはこうやって作られていったのだなと思う要因はたくさんある。

正直,小さい時は自分の家系のこともよくわからなかった。母方は祖母も祖父も学校の先生で,祖母が家庭科,祖父は社会科の先生だったと思う。祖父が先生だったのはよく知っていて,それは家に写真が飾られてあったりしたからだ。また,母の姉にあたる叔母も音楽の先生だった。はなれにピアノが置いてあったし,それはいつしか客間に置かれるようになって,それでたまに練習していた従妹は幼稚園の先生になった。

叔母の子どもである従兄姉とは歳が8つ?とかは離れていたけど昔からよく一緒に遊んだり旅行に行ったりしていた思い出もある。2人とも勉強がよくできて,埼玉県の進学校を出ていて,従兄の方は都内の国公立大学に進学して修士課程まで出ていたんじゃなかったかなと思う。理系だったので,大学に進学することが決まった時に入学に際してどんなパソコンを買ったらいいか相談に乗ってもらったのを今でも覚えている。

とまあ自分が教職を志すというか,少なくとも勉学に取り組む事に何らかの価値を置いて生きてきたのは,自分の選択ではなく,母方の親戚の影響が大きいのかもしれない。

最近までそうやって思っていたのだが,実は父方の,というか,父の影響も大きいということに最近になって気づいた。父方は商売人の家系で(といっても祖母の父だか祖父だかが東京に出てきて始めたくらいでそれより前のことはよく知らない),祖父母が始めたお店を父が継いで,街の小さな食堂をやっていた。お新香とお味噌汁とご飯に焼き魚とか,あるいはフライ,生姜焼きとか何かのメインのおかずが,キャベ千とからしの効いたマカロニサラダの載った皿に載って出てくるような。短冊に書かれたメニューがずらっと壁に貼ってあって,ホッピーのポスターやビールのポスターが貼ってあるような。ガラスケースの冷蔵庫には瓶のコーラやオレンジジュースが入っていて,たまに遊びに行ったら飲んでいた。厨房の裏には地下への急な階段があって,そこを下るとホシザキの冷凍庫があったと思う。

昼は定食屋で,夜は飲み屋のようにもなっていたので,父の帰りはいつも23時くらいだったと思う。自分が起きてる時に帰ってきたら,今日は暇だったのかなと心配したような気がする。昼の営業が終わってから夜の営業が始まるまでは父は家に帰ってきていて,多摩川にウォーキングしに行ったり,家で自重トレーニングをしたり,ダイニングテーブルで本や新聞を読んでたりしていたと思う。

そういう父の姿を見ていると,自宅でヨガをしたり筋トレしたり,神崎川沿いに走りに行く今の自分とダブる。でもそれだけではない。父は飲食店を営んでいたが,だからといって決して勉強することの価値を低くみるようなことはなかった。むしろ,そのことの価値を家族の中で最も高く見積もっていたのではないかと今になっては思う。驚くべきなのは,それでも私が父親に勉強をしろと言われた記憶がないからだ。

新聞を読めとは言われたことはあるような気がするし,新聞の切り抜きが自分の勉強机の上に定期的に置いてあったり,なんなら新聞の切り抜きをノートに貼り付けたものを渡されたこともあったかもしれない。でも,勉強しろとか,いい学校に行けとか,学歴が大事だなんて言われたことがなかったと思う。むしろそういうことを言うのは母親のイメージで,父親はあまり口うるさいタイプではなかった。そうやってバランスを取っていたのかもしれない。

でも背中を見せるではないけれど,行動としてそれを示してくれていたようにも思う。思い返してみれば,小学校の低学年の頃から,よく図書館に行っていた記憶もある。手提げ袋をもって,姉と一緒に図書館に行っていた。家でダラダラしていると,図書館にでも行ってきたらと母親に言われたような記憶もある。姉は昔から読書が好きで,私がまだ読むのが難しいような本を読んでは面白いと言っていて自分も負けじと挑戦するのだが難しくて内容がわからなかったみたいなこともあった気がする。

小学校の高学年の時だったか,姉の部屋にあった『おいしいコーヒーのいれ方』シリーズの小説を興味本位で読んだら,刺激が強すぎて頭が沸騰して眠れなくなったような記憶もある。そのまま自分の部屋の机の上に置いておいたら何も言わずに姉が没収していたと思う。

中学校と高校はとにかくバスケに明け暮れていて,自分から進んで本を読むなんてことはまったくといっていいほどしていなかったように思う。でも,それはとにかく自分の最優先がバスケがうまくなることだったからひたすら部活に精を出していたから本なんぞ読んでる暇がないというだけで,本なんか読んだってしょうがないということではなかったと思う。

話を戻そう。父は私が大学生の頃だったか,いきなりタイ語を勉強し始めた。もともと若い時にアメリカに語学留学した経験があって,多少は英語ができるのだが,それにしたって新しい言語,それも書記体系の全く異なるタイ語の勉強をするなんて。へー趣味ができてよかったねなんて思っていたが,そこから地道に勉強を重ね,現地の長期滞在も何度もするうちに「タイの看板はほぼ全部読めるようになった」と豪語するまでになった。すごすぎる。

私がアメリカに留学していた頃は東南アジアのバックパック旅行にハマっていて,アメリカで住んでたアパートに綺麗な写真と汚い字の絵葉書が定期的に届いていた。「今は〇〇にいて,□□から△△を経由して今度は◇◇に行きます」とか聞いたこともない地名が列挙されていて,Googleマップでいちいち調べていたような気がする。当時にもTwitterで,父が冒険家のような人生を生きてることを呟いていた気がする。

還暦を超えた今では体力的にしんどくなったことと,祖母の面倒を見ないといけないということで海外にはしばらく行ってないと思うが,それでもあくなき探究心というか,自分が知らない世界を見たい,もっといろんなことを知りたいという欲が滲み出ている人生を送っているように感じられるのは息子としても嬉しい。自分が育ってきた間,きっといろんなことを我慢して仕事して自分の好きなこともなかなかできなかったであろうから,こうして私も,そして姉も一人前のおとなとして生きている今は(自分の母親の心配をしないといけないというのはあるだろうけど)それでも自分の好きなような生きていって欲しいなと思う。

そういう父親の生き様みたいなものが,私の人生に与えた影響は無限大だろうし,母親とその親戚も含めて,私のハビトゥスをそこに感じずにはいられない。

教職を志したことについては,もちろん自分が受けた学校教育の影響もあるのは間違いない。小学校の高学年で自分のクラスの担任になった先生のインパクトはすごかった。なんでもできる,なんでも知ってる。話も面白いし,本当に好きな先生だった。こんな人になりたい,学校の先生になりたいと思ったのはそこからだと思う。現に,数年前に小学校の同窓会で集まった時,自分の思っていた以上に先生をやってる人が多くて驚いた。一般的にどれくらいなのかとかわからないし,地域的なものとかいろんな要因はあるだろうけれど,やっぱりあの先生(ともうひとクラスの先生もいい先生だったし人気だった)の影響はあったんじゃないだろうか。

中学校では,中三の時にお世話になった先生達のことをよく覚えている。私の通っていた中学校は,当時は市内ではまあ割と有名な荒れた学校だったので,いわゆる不良な生徒も多かったし,「ヤバい」奴も結構いた。中三になった時,学年団の先生が主任以外全員入れ替わるという前代未聞の配置換えで,他校から指導力のある先生が何人も来た。私は学級委員長をしていて,そのやんちゃな学年をまとめる役割を仰せつかっていたのだけれど,不良ともまあまあ仲が良かったので,立場上難しいこともあった。トイレでタバコを吸うことを注意しないといけないけれど,なかなか難しいだったりとか。

ある日,何かの時に教室に置いてあった自分のカバンがなくなり,担任の先生と探したらトイレの小便器の中に置いてあったというようなこともあった。あれ地味に結構きつかったな。でも,なんて言われたかは覚えてないけどその先生のことは信頼していて,味方でいてくれているのがわかったから乗り越えられたんだと思う。サバサバしてる人だったけど,めちゃくちゃ感謝してるからその先生の影響もある。

修学旅行の時も,持ってきてはいけない携帯持ってきてる奴がいるとか,自由行動で酒飲んでる奴がいるとかいうのがあって,そういうのも正義感で先生に報告してたらハブられるみたいな感じになった。まあ当然と言えば当然なんだが,友達として仲良くすることと,誰かがルールを破ることに対する責任感みたいなのが自分の中でぐっちゃぐちゃになって,夜に先生たちの部屋に呼び出されてもう辛いですって先生たちの前で号泣したの今でも覚えてる。主任の先生は英語科の先生で,その人が唯一一年生の時から見てくれてる先生だった。いわゆるオーラルイントロダクションをしてPPP型の授業をするいい先生で,新聞の見出しを解説するコーナーだったり,映画を見せてフレーズを解説するコーナーとかがあって授業も工夫されてる方だった。「一人で抱え込まなくていいんだぞ」ってその先生に言われてさらに涙が止まらなくなった。

中学を卒業して,高校に行って,3年の時だったかに中学校の進路イベントみたいなのに先輩として呼ばれて話すことになって久しぶりにお世話になった先生達に会ったのも嬉しかった。中3の時の担任の先生と,あともう一人キャラがめちゃくちゃ濃かった女性の体育の先生。修学旅行の実行委員会とかでお世話になった気がする。「次に田村に会う時は教採の面接練習かな?」みたいなこと言われた気がするんだけど,結局大学4年の時には教採は受けず,アメリカから帰ってきて受けた教採では面接練習もしてもらわずに2次で撃沈しちゃいました。もし練習してもらえてたら教採に受かって,今とは全く違う人生を歩んでいたかもしれない。

中学校の時のその修学旅行の実行委員会で,今でも覚えてる学びがあって,そういう先生や学校で過ごせて幸せだったなと今だから思うできごとがあった。ある時,修学旅行先の京都でのルール作りみたいなことをしていたときのこと。修学旅行中の班別自由行動では,昼食時をのぞいて,いわゆる食べ歩きみたいなことは禁止というのが基本線でした。お菓子を持っていくことも確かできなかったんじゃないかなと思う。そこで私は,京都でしか食べられないものもあるはずだし,そういうものを味わうことだって修学旅行の趣旨に反していないはずだから,節度を守っていれば昼食時以外にも例えば抹茶ソフトクリームとか食べたっていいんじゃないですかと言った。聞く人が聞いたら「昔からそういう性格なんだね」とか言われそうな発言だなと今は思う。そこで,その私の担任だった先生と,前述の女性の体育の先生に言われたのが,「自由には責任が伴うんだよ」ということだった。これを教わったことはその後の私の人生にものすごい影響を与えたと思うし,学校の生徒指導のほとんどの問題(は言い過ぎかもしれないが)ってこの一言に集約されるんじゃないかなと今は思う。当時の私にもビビッと響いて,何でもかんでもあれがいいこれがいいあーしたいこーしたいじゃだめで,自由を求めることはその結果生じたことに自分が責任を負うことなんだと学んだわけだ。まあ結果として,今考えたらこのことを重く受け止めすぎたからこそ,自由度をあげたことに対して生じた問題の責任を強く感じすぎて号泣するハメになったんだろうと思うのだが。

推敲せずに飲みながらiPhoneでダラダラ書き殴ったらまあまあな長さになったので,とりあえずここでやめて人知れず夜中に公開します。あとで読み直して消すかもしれないし,続きを加筆するかもしれないですけど。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。


2021.02.12 追記

途中から文体が「です・ます」になっていたり,主語に僕と私が混ざっていたり,「、」と「,」が混ざっていたりしたので直しました。

2020年の振り返り

毎年恒例の振り返り記事です。28日に仕事納めの予定が今日まで出勤して実験やったので,ブログも今日のうちに書いてしまおうということで30日に更新です。これまでの振り返り記事も興味がお有りの方はどうぞ。

過去の振り返り記事

ブログのこと

この記事を書いている2020年12月30日時点でのこのブログのpage viewは121,733です。ついに累計10万アクセス超えました(祝100,000PV)。2019年は年間20,000アクセス切っていましたが,今年は25,000アクセスを超えてこのブログを始めてからの最多アクセスを記録しました。ありがたいことです。

今年も昨年と同様に,平均すると月2本のペースでブログを更新しました。ただ,今年の前半あたりに投稿が集中していたので,毎月2本書いていたわけではありません。主に,新型コロナウィルスの影響で春学期がすべて遠隔授業となったことで,それに関する記事をたくさん書いたことでそうなりました。私はSlackを授業で使ったので,主にそれ関係の記事を多く書きました。

閲覧が多かった記事の上位も,R関連の記事だけではなく下記のような記事も入ってました。

42.5インチディスプレイの記事も今年に入って急にアクセスが増えたので,今年ディスプレイを新調した方が多かったのかもしれませんね。個人的には,もうあの大きさより小さい画面で仕事できないですね。

仕事のこと

3年目は2年目よりももっと仕事をうまく回せるようになるというか,学内の業務だったり授業準備の負担も減って研究に割ける時間が増えるだろうと思っていました。ところが,前述のように遠隔授業の実施に伴ってすべてが一変したので,昨年度の継続を活かすことはほとんどできなかったと言っていいかもしれません。自分のことだけでも手一杯でしたが他の先生達のヘルプもしなければいけない立場でしたので,毎日掲示板をチェックして,メールの問い合わせに返信して…みたいなことも春学期はやっていました。自分の授業に関しても,同じ教科書を使っていたとしても遠隔ではできることがまったく異なるので,すべて新しく準備することになってしまいました(多くの先生がそうだったでしょう)。

対面授業に戻った秋学期も,これまでの対面授業のようにはできない部分が多く,この状況下でできる対面授業というのを考えなくてはいけなくなりました。加えて,担当している授業がすべて異なるので(担当数=タイプ数),それもあって授業の負担感は2年目の昨年度よりもやや高かったなと思っています。

ただし,今年度は時間割のことにメインで関わっていないので,秋学期にその仕事で時間を奪われるということはなくなりましたし(たまに心苦しい気持ちになりつつ見守っています),学部のライティングの授業も持っていないので,3年目にして初めて研究室で徹夜した日数がゼロになりました(これまでも年間数日というレベルでしたけど)。

研究の面では,今年は学会がなくなったりオンラインになったりしたこともあって,停滞した感じがあります。昨年度,SLRFに行ってるときに申請書を書いていた科研費(若手研究)が採用されて,関大に着任してからようやく科研費を初めて獲得しました。それで意気込んでいたところでしたが,2020年度は研究をほとんど進められず。ウェブ実験をできるようになっておいたほうが今後データ収集がしやすくなるだろうと思って,jsPsychを勉強し始めました。

ガンバ大阪のこと

今年もガンバ大阪の年間チケットを購入していましたが,新型コロナウィルスの影響でJリーグも中断し,再開後は座席の間隔をあけたり入場人数が制限されていたので,年間チケットは払い戻しになりました。それでもホーム戦は最終節の清水エスパルス戦以外は行きました。この話題については別に記事を書いたのでそちらをお読みください。

2020シーズンに観戦したG大阪の試合

運動習慣

今年に起こった最大の変化といえば,Apple Watchを買って肉体改造に取り組んだことかなと思います。Apple Watchを買う前から,Nike Training ClubNike Run Clubで筋トレだったりランニングだったりはたまにしていましたが,Apple Watch Series3が安価で手に入るようになり,4月初旬にそれを購入してからはとにかくApple Watchのアクティビティリングを完成させることと,毎月の「チャレンジ」を達成することが生きる目的みたいになりました。特に,春学期はほとんど在宅ワークで体を動かす機会が激減したこともあって,意識的に体を動かす機会を作り出さないといけないと強く感じていました。やっぱり一日中家にこもっているのってメンタル的にもよろしくないんですよね。体を動かすことでリフレッシュするようになって,それが習慣になったので対面授業になって平日は毎日職場に来ないといけないようになっても自転車に乗る,走る,筋トレする,ヨガ,のうちのどれか2つ以上は必ずするようになりました。

だいぶ流行に乗り遅れてリングフィットアドベンチャーを買ってからは,家での運動も気軽にできるようになりました。雨の日に走りに行ったことも夏の時期は何回かありましたが,冬の雨の日のランニングはハードルが高くてなかなか行けません。そういうときに,ゲーム感覚で身体を動かして,しかもそれなりに負荷の高いことができるのはいいですね(最近リングフィットはあまりやれてませんけど)。

あとは,自転車も寒いから冬は無理だと以前は思っていましたが,意外と乗れています。漕ぎ出したらあったまるぞということと,家を出る前にウォームアップすればよいという2つを自分が学習したことが大きいと思っています。自転車だと電車通勤の半分くらいの時間で行けるので,いつもより遅い時間に家を出ても間に合います。そうしてできた時間でヨガをやるようになりました。まず10分弱のヨガ(私はいつもNTCのSimple Morning Energy Flowをやってます)をやって身体をあたためてからいくと,自転車を漕ぎ出してすぐに身体が温かくなるのでそこまで辛さを感じていません。もちろん,まだそこまで寒くないというのもあるでしょうけれど。あとは,筋肉がついて基礎代謝があがったので寒さに強くなったというのもあるかもしれません。

健康維持という目的に加えて,こういう社会情勢の中で,なにか1つでもいいから継続してやっていることで,自分の精神的な支えとしているということもあります。自己肯定感を保つために意識してやっているといいますか。続けていることが自信になってくるというのは大いにありました。運動ってなかなか継続してやるのが難しかったのですが,2020年はそれを継続してできるようになったのが自分の中で成長したと感じる部分です。

2021年度も対面授業が継続になるので,特に春学期中にどうやって運動を継続していけるのかは正直まだ全然わかりませんが,2021年度も継続していければと思います。

おわりに

最後になりましたが,みなさん,今年1年お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。