発表スライドと予稿集の訂正版PDFそれから修論のPDFもdropboxのリンクで置いておきますのでどうぞ。
予稿集PDF
https://www.dropbox.com/s/eed0skfi2bgsnqm/YuTamuraJASELE2013.pdf
PPT
https://drive.google.com/file/d/0BzA9X1kZX185M1R0cVVrZ3VvYzQ/view?usp=sharing
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こんばんは。誰得ブログ記事の更新です。こちらの論文のまとめ。
Prince, P. (2013). Listening, remembering, writing: Exploring the dictogloss task. Language Teaching Research.
http://ltr.sagepub.com/content/early/2013/07/05/1362168813494123.abstract
When the engineer tried to borrow some money / to start up his own business / he had to ask some old friends from school / because the banks refused.(スラッシュは意味ユニットの区切りを表す)
どうもみなさんこんにちは。なんだかあれれ?と思うことがあったのでメモしておきます。
題名の通りなんですが、Focus on Form (FonF)とnoticingはなにが違うのかって言うこととあとじゃあそれとConsciousness Raisingはなにが違うんだろうっていうことです。
FonFっていうのはまあ以前にも関連した記事を書いたんですが、
overtly draws students’ attention to linguistic elements as they arise incidentally in lessons whose overriding focus is on meaning or communication (Long, 2001, p.184)
とあって(これがあのTwitterでつぶやいてた1991論文の再録のやつです。元のページは他の論文で見てるから知ってるんですが一応2001の方で)、まあやっぱり意味理解中心の中で、あるいはコミュニケーション中、つまり学習者の意識が意味理解に向いているときに言語形式に注意を向けることなんですよね。
で、noticingっていうのも、それが言語習得の枠組みの中で使われる場合は、そのnoticeするものっていうのは基本的にはmorpho-syntactic featuresですよねというか僕は音声系のnoticing研究は知らないんですけどでも研究の材料としては形態素や文法構造に対して、意識が向いているかっていうのが多いと思います。それで、これはnoticingの曖昧さでもあるのかもしれませんが、このnoticingっていうのはFonFがいうような意味理解中心の中でのnoticingなのか、あるいはそれはあまり関係ないのかっていうのが気になってるんですね。僕が参考にしている先行研究を見ている限り、noticingをオンライン(underliningやnote-takingなど)で測る場合、例えばFotos(1993)ではリスニングとcomprehension questionのあと、あるいはディクテーションさせたあとにテキストを渡して読ませて下線引かせてるんですね。でこれってそうやることで意味への注意を減らして形式に注意が向きやすいように仕向けてると思うんですね。でもこの論文のタイトルは超絶すごくて、”Consciousness Raising and Noticing through Focus on Form”なんですよ。この記事のタイトルが3つ全て詰まっているわけなんです。アウトプットがnoticingにどう影響するかというのを調べたUggen (2012)でも、形式の違い(仮定法現在と仮定法過去)で形式への気づきの量に差が出ていて(後者の方がターゲット項目含め形式への気づきが多かった)、でも全体的には統語的要素よりも語彙に多く下線が引かれているという結果になっています。でまあ読ませる中で同時に線を引かせるってなると、意味と形式に同時に意識が向くわけですしそうなってくると形式への注意を喚起しないがきりは意味へ向かってしまうよなと思います。まあ形式への注意を見たいのだからできるだけそれを阻害する可能性のある要素(ここでは意味理解)をなるべく排除して観察するっていうのはそうじゃなきゃわからんじゃんということになってしまうんですがそうなるとこのnoticingってのは意味理解とは関係なしに(あるいはそれが主目的ではない)インプットを受けている中で形式へ気づきが起こればいいのか?ってことになってそれどうなんだろうってなってたんですね。
そんで、VanPatten (1990)では、形式への注意が意味理解を妨げるということが述べられていて(ここで注意が必要なのはこの実験における「形式」は意味理解への比重の少ない”meaningless” formであったということ)、それでFonFなんてちっと現実的じゃないんじゃないんみたいなことが書いてあったりするんですけどその文脈でSchmidtのnoticingの批判とかがちらっとあるんですね。おやそうするってーとこれはFonFもnoticingも意味理解中の形式への注意っていうことになるんか?とかなってしまってまあ大変。もしもそういうことであったとしたら、noticingを測る際に最初に意味理解を済ませてから取り組むとそれはFonFがいうところの形式への注意ということではなくなるし、でも意味理解のないところで形式に注意したところでそれがどうやって習得につながっていくかっていうところはありますよね。まあもちろんFonFというのは指導する側が、学習者の注意を~という文脈であって、noticingというのは学習者の認知プロセスの話ですから土俵がちょっと違うわけなんですけど、これに加えてRutherford & Smith (1985)のCR
“the deliberate attempt to draw the learner’s attention specifically to the formal properties of the target language” (p.274).
とかが入るとじゃあこれはFonFとはどういうふうに違うんだろうなあとか思っちゃうんですよ。先述のFotos先生の論文だと、FonFとCRっていうのがなんかどうも重なっているように見えてしまうというか。というわけで難しいです。
ではまた。
アメリカ New Hampshireより。
おしまい。
参考文献
Fotos, S. S. (1993). Consciousness Raising and Noticing through Focus on Form: Grammar Task Performance versus Formal Instruction. Applied Linguistics, 14(4), 385-407.
Long, M. H. (2001). Focus on Form: A Design Feature in Language Teaching Methodology. In C. Candlin, N. Mercer (Eds.) , English Language Teaching in Its Social Context (pp. 180-190). London, England: Routledge, with Macquarie University and Open University.
Rutherford, W. E., & Smith, M. (1985). Consciousness-Raising and Universal Grammar. Applied Linguistics, 6(3), 274-282.
VanPatten, B. (1990). Attending to Form and Content in the Input: An Experiment in Consciousness. Studies In Second Language Acquisition,12(3), 287-301.
どうもみなさんこんにちは。暖かくなってきて春らしい陽気だなと思ってたらまさかのsnow storm発動です。今朝も実習がある予定だったのですが、明日に振り替えということになりました。さてさて今回は授業で先生と話した話。僕は今curriculum developmentの授業を取っているのですがもうほんと先生が適当すぎて話にならなくて発狂しそうです。正直言って1番学びのない授業です。1ヶ月授業キャンセルして振替もなしとかちょっとよくわからないですね。それでまあ昨日先生と話したことについてです。
どうもお久しぶりです。なんだか気づいたら3月になっていて、気づいたら3月11日になっていて、日本の方を向いて黙祷して、色々なことが頭を巡りました。今日はそのことについては書きませんが、いつか時間ができたら文章にしておきたいとは思っています(時間は作るものっていうツッコミありがとうございますgkbr
さて題名に「気づき」とだけ記したんですが、なぜブログ書く気になったかというと「気づき」(この括弧付きというところがミソかもしれませんが)ということについての記述があるブログの連続投稿を見たからです。こちら。
(11)が2つありますけど1つめは(10)の間違いだそうです。まあそんなことはどうでもよくて、このブログ記事の連投はまだ完結してないんですが、一言でいうとちょっとなに言いたいのかよくわからないという感じですね(※ケンカは売っていません)。タイトルからもわかるように、「英語の学び方再考」ということを綴っていて、(6)で「気づき」という言葉がでてきたのでそこからのリンクしか貼っていませんがその前にも話しはあります。僕は言語習得におけるnoticingというものに興味があって、その関係でこの記事にふと目がとまったわけですね。まあそれがこの括弧付きの「気づき」と同じ意味なのかはわかりませんが。読んでみると(6)の記事では「気づき」の訳をawarenessとしています。noticingという言葉は使われていません。というかSLA研究においても、The Noticing Hypothesisというのはすごい有名でSchmidt (1990)とかGoogle Scholarで検索すると2427本とか引用されてるんですけれど(ググるとPDF落っこちてます)でも実際noticingってなんなのよとかそのnoticingの定義が曖昧すぎるんだっていう批判とかは結構色々あって、さらに、そのnoticingってのが「言語習得に必須」なのか「習得を促進する」のかっていうのもあって、はたまた「何に」気づくのかっていうのとかわーわーしてる界隈のところではあるんですよね。そういえば某ふくたさんもnoticingという言葉はあまり使いたくないとおっしゃってました。ということでconscious awarenessとかが使われるんですかね。language awarenessなんて言葉もあったりしてややこしいですね。とどめはconsciousness-raisingですもんね。何が違うの?って思ってググったら日本語の文献がヒットしたりして→「Consciousness Raising とLanguage Awareness――その定義と言語教育における意義――」僕が図書館から借りてるこの本も、Language Awarenessってなんやねんとか定義甘すぎやろみたいなところを掘ってあったりしております。でもどっちかっていうとCRの方がより言語習得におけるプロセスの部分に焦点があって、LAはもっと広義に使われているようです。
それで脱線したんですけど、「気づき」とか「直感」とかそういうのが大事なんだということをおっしゃっていらっしゃるようで、
しかし「アウェアネス」という概念は、もっと学習の基本的な概念に関わる重要なキーワードであると筆者は認識しています。そのことを、筆者はカレブ・ガテーニョ*(Caleb Gattegno 1911-88)のセミナーに参加して知りました。彼は1980年代に毎年来日してセミナーを開催していましたが、あるとき講義の中でこう言いました。「教育可能なものは、アウェアネスだけである。」(What is educable is only awareness.)と。この言葉を聞いて大きな衝撃を受けたことを、今でもはっきりと覚えています。
という一節が(6)にあったりして、教育可能なものがawarenessってすごいなとか個人的には思っちゃうわけなんですよね。「気づき」って観察するのが難しいわけじゃないですか。教育の現場でということならなおさらですよね。「気づいた」かどうかどうやって確かめるのかってことなんですよ。どういうことをもって何に「気づいた」と判断するのかもかなり難しいことですよね。それがもしも「無意識」なものなのだとしたら余計に端から見て「気づき」の有無を判断なんかできませんよね。熟年の教師の観察眼によって判断するとか言われたらまあはいそうですかとしか言いようがないわけですけども。
筆者が英語を習い始めたのはちょうど太平洋戦争が始まった時期でしたから、英語に初めて接するのは中学校に入った時でした。それまで英語らしい英語を耳にすることもありませんでした。英語のアルファベットの文字は多少知っていて、それは左から右に横書きにされるくらいの知識はあったと思います。しかしそれぞれの文字が、基本的に一つの音を表わしていることは知らなかったので、そのことを知って驚いたことを思い出します。先生はそんなことは当たり前のことと思われていたのでしょう。説明もありませんでした。ただ、それぞれの音が日本語の音とどう違うかを熱心に説明し、反復練習をしてくださいました。 (強調は引用者による)
とか書いてあったりして、「基本的に」とかありますがそれって本当に「基本的に」なの?とかそもそも英語って綴り字と発音が一致しないから難しいんじゃないの?とか思ったりもして(※ケンカは売っていません)。だから先生もそんなことは言わなかったのだろうとか思っちゃいますよね。
話しは戻って、僕は、その「気づき」っていうのをもう少し調べてみたいなということがあって、consciousness-raising taskと気づきの関係についてFotos (1993)のreplicationみたいなことを修論でやってみようと思っています。気づきの観察をに関してもしかしたら何か面白いものが見えるんじゃないかなということで。
そんなわけで僕も何言いたいのかはよくわからないブログになってしまいましたけれどまあそれはいつも通りあいも変わらずということで。ひっそりブログ更新してみました。
ではまた。
アメリカ New Hampshireより。
おしまい。
今まで知らなかったのでメモ。
僕はだいたい文献検索するときって、大学の図書館にログインして、そこで図書館なりEBSCOHOSTなりのデータベースで検索するということをやっていました。それ以外にもGoogle Scholarでも文献は探せますよね。検索も早いし、たまにタダでネットに落ちていたり、Google Booksでたまたま読みたいところが読めたりとかそういう「ラッキー感」みたいなものがありました。しかし、海外のジャーナルのリンクなんかは、そこからはPDFは有料でしかアクセスできないので、結局大学のアカウントでログインしてデータベースで探さないとっていうことをやっていました。ですが、Google Scholarには「図書館アクセス」という機能があることを知りました(下記画像参照)
これで、僕の大学の名前を検索すると、図書館とそれからProQuestにもつなぐことができました。これでつなぐとどういうことが起きるかというと、検索結果の右側に、もともとネット上にあるPDFへのリンクの他に、大学の図書館にあるフルテキストへのリンクが表示されるようになります(下記画像参照)
別タブで一度大学のアカウントにログインしていれば、このリンクをクリックすればその文献のページに飛ぶことができるわけですね。
あとはPDFをダウンロードするなりRefWorks等の文献管理ソフトにエクスポートするなりすればいいわけですね。文献の引用元なんかをたどるには、Google Scholarのほうが便利かなあという気がしてるので、これからはこっちをメインに使っていこうかなと思います。ていうかいまさら気づいたの結構遅かったなとか思ってるんですが…
そんなわけで雪が降ってますが頑張ります。
では。
アメリカ New Hampshireより。
おしまい。
どうもお久しぶりです。前回FonFの記事を書いてから3週間くらいでしょうか。なんとかかんとか秋学期に履修していた3つの授業が無事に全て終わり、冬休みに突入です。というわけで、木曜日に終わって金土ととくになにをしたってわけでもなくリラックスして本を読んだりしています。まだ雪があまり降ってないのですが近々初滑りにも行こうと思います。
さて前置きが長くなりましたが今回は記事のタイトルにもあるようにconsciousness-raising taskについて、その中でも特にtaskの主題を「文法問題の解決」に設定しているconsciousness-raising grammar taskというものについて、課題でペーパーを書きました。まあ授業はlinguistiscsという名前がついていたんですがやったことは前半は音声学について、後半はThe Grammar Bookを読みすすめるという感じで特に「言語学」をやったという気はあまりしていないのですが。この課題で求められていたことは文献や教科書のレビューと、そこからある特定の言語的側面に焦点をあてた指導法の検証とその批評?ということでして、僕はとにかくtaskに興味があったのでTBLT関連の文献から入って、また文法指導にも興味があったということもありこのconsciousness-raising taskについて書くことにしました。ペーパーの構成的には、
となっています。上記の章立てには入ってませんが、グループワークの効果、TBLTが根拠とする仮説、宣言的・手続き的知識の箇所を最終的に提出する際に削りました。なのでリンクは提出して先生からのコメントが入っているものと、削った箇所をそのままにしたもの両方貼っておきます。上が先生からのコメント入り、下が削った箇所が入ってる版です。
個人的にはもっといろいろコンパクトにまとめられたらっていうのとif節に関してもっと考察が必要だったなとは思っています。ちなみに、このペーパーをもとに指導案を作ることも課題になっていて、それもリンク貼っておきます。
一応対象は日本の高校生ってことで作りましたが、時間いっぱいいっぱいかなという気はします。先生からのコメントで、”Does the teacher evaluate their classifications or discuss the reasons for their analysis?”というのがありました。確かにそういう記述はないので書いておくべきでした。やったらやらせっぱなしというのは良くないですしね。ただその後の説明の段階で生徒とのやりとりを含めながら説明をしていくという方法は考えられるかと思います。
そのあとに、対面で日本語を見ながら英語を言うという活動があり、そこに音声指導も入れるようになってるんですが、”What’s the purpose of hte translation exercise? And why do you extend this to include pronunciation?”というコメントがあります。僕としては意味と形式を結びつける自由度の低い活動としてこういうのを入れたつもりで、音声指導の理由はただ単に音声指導が必要だと思ったからいれたんですが、だったらなぜ最初のペアでtaskやってるときには音声指導が入らないのかっていうのもあると思うんですが…
もちろんそれはそのとおりで、自由度の高い活動のときこそ音声指導が必要なのだとは思います。だけどそれが可能なのは練習段階でもそういう指導がしてあるからであると思うのでこの練習段階での音声指導が問題視される理由というのはよくわからないのというか。文法が主眼なのになんで音声指導?みたいな話なのでしょうか。それとも明示的知識を主眼においてるのに音声指導?みたいな話なのでしょうか。うーむ。
そんなわけで早くスノボー行きたいです。
では。
アメリカ New Hampshireより。
おしまい。
兼ねてから感想を書いた記事が眠っていたんですが、最近いろいろ読んだりしていてちょっとこれは書いておきたいと思ったのと、それからお願いされていて「はい」と返事したのになかなかアップできない罪悪感みたいなのもずっと感じていたので、『学習英文法を見直したい』の第7章の松井先生の論考に関してだけ手短に記事を書きます。間違っているところがあればご指摘ください。
松井先生はこの論考で、フォーカス・オン・フォーム(Focus on Form以下FonF)と、「フィーリング」や「イメージ」という2つの文法指導アプローチに対する提言をされています。僕が言及しておきたいのは前者です。松井先生が引用されている和書の文献は残念ながら現在参照できないのですが、どうやらフォーカス・オン・フォームやあるいはそこに関連した「気づき(noticing)」というものが、少し違ったかたちで理解・共有されているのかなという印象を僕は受けました。そしてそれは日本の英語教育が今までどうやってなされてきたのかという点を反映しているようにも思えます。松井先生は、FonFをFocus on Formsの「アンチ・テーゼ」としていますが、この表現はあまり正確ではないと思います。FonFというのは、僕がここ最近書いた記事でとりあげたTask-based Language Teaching(TBLT)の枠組みにおける一つの”methodological principle” (Doughty & Long, 2003)であり、FonFを達成するためには様々なテクニックがあります。そして、このFonFは、FonFsの直接のアンチ・テーゼというよりは、どちらかというと、意味だけでもだめだし形式だけでもだめなんだよという主張でしょう。つまり、FonFsに則った指導法(例えばAudio lingual methodなど)がまずあり、「形式ではなく意味が大事なんだ!」という批判から生まれたfocus on meaning、そして現在は、「いやいや、意味だけじゃダメで、意味中心のやりとりの最中に言語形式に注意が向くことが大事なんだ!」というFonFという概念が主流であるというのが僕の理解です。また、その文脈で登場するnoticingという概念は、なにも「初学者のうちから、実際の英語運用をする中で、『伝達したい意味』と『自分が表現できる形式』とのギャップに気づかせ、そのギャップを教師からの支援で埋め、自分が表現できる形式を整備していくということになるようです。」(p.90) ということだけではありません。この引用部分は、noticingの中の、noticing the gapという概念のことだと思われますが、もともとSchmidt (1990)で提案されたのは、形式に気づいていないインプットはインテイクにはならないのではないか、言語習得には、形式に気づくことが必須なのではないか、という点であり、その主張は、先ほど述べたように、「意味だけではなく形式も」というかたちでその後の理論や研究に取り入れられていき、また一方では言語習得の認知プロセスに関して、Krashenのいうように、「意識的な学習はacquisitionにはならない」という主張に対する反論として様々な文献で引用されてきているように思います。ですので、「『気づき』を得るには実際に運用することです」と言われても…」(p.90)の部分は、どこでそんなことが言われているのか不思議に思いました。引用されている和書でしょうか?
また、FonFのformが無冠詞であるのは「ここの具体例の集合体としての一般論である無冠詞複数形の”forms”との差異化を図った概念なのだろうと理解しています。しかしながら、そこでの『気づき』や『フィードバックの結果成功したアウトプット』の説明で用いられるのは、結局は冠詞の習得だったり、時制の習得だったり…結局”a form”の話に戻っているのではないか」(p.91)という記述があります。前段は同意ですが、僕はこのFonFという概念がFonFsと対比されているのは、シラバスデザインに関してだと思っています。後者は、structural syllabusと対応しており、structural syllabusとは言語形式をひとつずつ導入し、学習者はそれを少しずつ積み上げていきコミュニケーションに使用するという考えが念頭にあります。しかしながら、指導によって文法を身につけさせる(暗示的知識を習得させる)ことができるのは、学習者がその段階に達した場合のみであり、教師の介入によってその順番を変えることができないという考えがあります。しかし、学習者がどこの段階にいるのかを見極めてその段階を狙って指導をするのは不可能です。よって、無冠詞の単数形であるformにすることで形式という概念を抽象化したものがFonFなのではないでしょうか。この問題に関しては暗示的知識ではなく学習者内シラバスの影響を受けない明示的知識を教えることによってこの問題を回避しようという案もあります(Ellis, 2002b, p.163)。日本では、文法シラバスに則って指導が行われているため、TBLTやFonFといった指導法が想定しているものとはそもそも相容れないという可能性があります。それを最先端の言語習得理論だといって日本に取り入れようとするがために、このような「誤解」が生まれてしまうのかもしれません。「文法を教える」という考え方自体がもともとのTBLTでは否定されています。これをなんとかするために、focused taskの一種であるconsciousness raising task (Fotos, 1994 and Fotos & Ellis, 1991)が提案されていたりします。このような指導法では、明示的文法説明の可能性は排除されていません。第6章で亘理先生も触れていますが、明示的な指導が一切ダメというわけではないということです。読んでいて、フォーカス・オン・フォームや気づきといったことを、明示的指導や文法指導と対比させて、前者を批判しているように思いました。それは正しくもあり間違ってもいるというようなことに関して簡単に書かせていただきました。
追記:Ellis2002bは、アメブロに僕が書いたレビュー記事があるのでそちらをご覧いただければと思います。それから、これに若干関連したペーパー書いてまして提出して返却されたらブログにアップしようと思います。もしかしたらこの記事に加筆するかもしれません。
Doughty, C. J., & Long, M. H. (2003). Optimal Psycholinguistic Environments for Distance Foreign Language Learning. Language Learning & Technology, 7(3), 50-80.
Ellis, R. (2002). Methodological Options in Grammar Teaching Materials. In E. Hinkel, S. Fotos (Eds.) , New Perspectives on Grammar Teaching in Second Language Classrooms (pp. 155-179). Mahwah, NJ: Erlbaum
Fotos, S., & Ellis, R. (1991). Communicating about grammar: A task-based approach. TESOL Quarterly, 25, 605-628. doi: 10.2307/3587079
Fotos, S. (1994). Integrating grammar instruction and communicative language use through grammar consciousness-raising tasks. TESOL Quarterly, 28, 323-351. doi: 10.2307/3587436
Schmidt, R. W. (1990). The role of consciousness in second language learning. Applied Linguistics, 11(2), 129-158.
発音の授業で、自分の発音の矯正とその指導法みたいなのを学んでいるんですが、その授業中に見たビデオが面白かったので、これもしかしたらYoutubeにアップされてたりしないかなと思って探してたのですが残念ながら見つけられずw
http://www.3480.net/usa/index.htm
ここにワークシートというか資料みたいなのがあるんですが、やっぱり聞かないとわかんないんですよね。そんでなんか音源が中国のサイトにアップされてたのでまあ興味ある人は聞いてみてください。
http://www.tudou.com/listplay/QWsPFq14xwk/Hxu4mYZbw6I.html
Dr. David Alan Sternていう先生のなんですが、アメリカ発音に近づけるためのコツとして、”Jump up & Step down” というパターンを提唱しています。
発話の直後にピッチが急上昇して、そこから各音節ごと(各語ではなく)にピッチを段々と下げるというパターンを適用することで、より「ネイティブ」な発音に近づくということです。ポイントは、
の3点で、例えば
THE SOUND AND STYLE OF AMERICAN EINGLISH: INTONATION & SYLLABLE STRESS via kwout
こんな感じ。どこで、ピッチを急上昇させるのかとかいう点については詳述されていて(もちろんコンテクストによるし何を強調したいのかによもるけどまあいくつか一般的ガイドラインはあって、という話ではあります)、例えば代名詞や機能語は基本的にストレスがこないので代名詞の直後、あるいは機能語の前後でピッチが上昇する等。まあ一般に言われてる英語のストレスやイントネーションパターンに加えてというか違う点からアプローチして、この”jump up and step down”のパターン意識してみるとアメリカ英語っぽくなりますよっていう話です。強勢よりもピッチの高低って結構意識しないとなかなかうまくできないし、結構大げさにするくらいでいいといつも先生には指導されているのですが、これもその一環ですかね。先生曰く、「大げさにするくらいでやっていれば普段の発話に自然にそのパターンが生きてくるから」ってことらしいです。
まあ僕は特にインプットもアメリカ英語だしそれに似せるように、それがモデルだと思って発音してるのでアメリカ英語に近い(明らかにイギリス英語ではない)発音してるわけですので、こういう練習は結構ためになったりしますけど、これをじゃあ教えるかっていうと悩みどころです。「ヒント」として使えたらいいなくらいには思いますけどね。
関係無いですけどStern先生の動画をYouTubeより。
[iframe src=”https://www.youtube.com/embed/f9EsyYw5d40″ width=”100%” height=”480″]
では。
アメリカ New Hampshireより
おしまい。
どうも。前回のSato (2010)の続きです。前半2つがその2010の論文へのレスポンス、その次がそれらのコメントに対する再反論になってます。その後に一応一連の論文を読んでのコメントを書きます。
Sybing, R., Urick, S. T., & Sato, R. (2011). Point to Point: Responses to ‘Reconsidering the Effectiveness and Suitability of PPP and TBLT in the Japanese Classroom’. JALT Journal, 33(1), 67-76.
主張したいのはとにかくPPP修正版推しだということ。
タスクの定義の曖昧性
Matsumura(2009);タスクのコア概念は、意味重視。言語的なものではなくコミュニケーションの結果としての産物があること。実際の世界で用いられるものに似た言語プロセス・認知プロセスを含んだ活動であること
Ellis(2003);focusedタスクは学習者によるある特定の言語表現の使用を引き出すことが目的であるが、それでも一番の焦点は意味にあるべきである。
Miyamoto (2009);タスク型シラバスで、高校生に体系的に文法をおしえることは難しい。EFLだしモチベもあれだし。
Miyasako(2010);暗示的学習により過ぎてて日本では機能しない。
Muranoi(2006);修正版PPP(PCPP)の提案。content-orientedアプローチが日本人英語学習者のコミュニケーション能力の発達に効果的。
しかしながら、productionの段階ではオープンあるはクローズドのタスクの使用もありうる。のちに学習者が構造についての暗示的知識を使えることができるようになったあたりまでオープンな産出活動を遅らせたり繰り返したりすることもできる。
これまずTBLTっていうもの自体がそのTBLTという枠の中で、支持している言語習得理論や仮説の違いで微妙に言ってることが違うからなかなか難しいですよね。で、この論文の出版の時期とかの関係で無理だったのかもしれませんが、ふと疑問に思ったのは先日僕が取り上げたEllis (2009)が引用されてないってところなんですね(このためにあのブログ記事を先にアップしたというのもあります)。詳しくはあちらの記事を参照していただきたいのですが、あれが2009年で、それまでにもTBLTっていろいろ批判はあるわけですけども、それに丁寧にEllis先生が反論なさってるんですよね。そこでは文法シラバスに関する話や、TBLTが上級者向けであるということに関しても記述はあるんですよね。まあ確かにEllis先生は割りとTBLTを広く捉えていらっしゃって、focused taskの活用や、明示的知識の重要性を主張していると僕は理解しているので、僕も考え方はそっちよりになっているのかもしれませんが。例えばTBLTは必ずしもoutput basedではなくて、input-basedのTBLTも可能であるということはEllis先生がおっしゃっていて、もちろん限られたリソースを用いて(例えそれがhiddenされた文法を使っていなくても)コミュニケーションを成立させることにも意味はあるし、初学者にはinput中心のTBLTもできますよっておっしゃってます。なのでそのへんの検討が必要であると思いますし、もしも日本での実践例が限られてるとしたらそのへんがこれから研究されなければならないのかなと思います。また、元論文のperspectivesの方で上級者と想定される大学生にタスクやらせてみてダメだった(現在完了を使わせたいのに使わなかった)ってことなんですけどまあタスク自体がダメだったかあるいは実施の際の手順がよくなかった(改善できた)とかそういう可能性はないのかなとかちょっと思ったり。例えばpre-task段階でのplanningとか。まあそもそも文法指導って一度やって「はい今日現在完了ねー。はい練習してーはいじゃあタスクで使わせてー。おーよくできてたー。じゃ次不定詞いこー。」とかじゃなくて、一度やったのをまた繰り返して身につけさせるわけであって、タスクの繰り返しとかも選択肢としてありますしね(どっかにそんなことが書いてあったけど忘れました汗)。それから環境面(テストや入試、学習者のモチベーション、日本人英語教師の英語使用割合の低さ)がTBLTとミスマッチであるという点に関しては、じゃあそれ変えればいいんじゃないって単純に思ってしまいました(もちろんそんな簡単に変わるかボケという批判があるのはわかったうえです)。モチベーションの部分はともかく入試とか、あるいは学校の定期テストは教師側が変えられる可能性は大いにありますよね。入試はちょっとまた違う要素が入ってくるとは思いますけど(弁別力とか)。日本人英語教師の英語使用の問題も、英語でやるようにすればいいんじゃない?って思ったり(いや英語は英語でとは言わないですけどさすがに日本語ばっかりっていうのもちょっとそれはどうかなとは思いますのでね)。
perspectivesに対する2つの反論に関しては、例えば「PPPは望ましい結果を達成するために修正が必要であると容認しながらも、TBLTは日本というEFL環境には適応されえない融通性のない教授法であると批判しているというのがSatoのロジックの誤りである。」なんかは確かにと思いました。ただ英語教育のゴールみたいな話になってくるとまたちょっと話しはずれるのかなとか思ったり。その上の方の話と現場での指導うんぬんはもちろんつながっていますし、誰にとっても他人ごとではないのですが「いやそれは俺に言われても」みたいな。いや、ていうよりどんな問題も最終的にやっぱりそこなんだよなって再再再確認くらいしたともいえますけど。あとは、「宣言的ー手続き的」のACTモデルがPPPと合ってるっていう説には、perspectives読んでるときに、「明示ー暗示」の話はなんで出てこないのかなとは少し思ってましたけどちゃんと指摘されてましたね。2つの立場があるのならなんで一つを選択してその枠組で話を進めていって、なぜもう一方ではないのかっていうのをしっかり組み立ててあるとありがたいなと。紙面の都合とかあって深く踏み込めなかったのかもしれませんけど。
そうそうそれで「明示ー暗示」の話になりますが、今ってそこまで強く明示的知識が習得に役立つという立場が否定されてるんでしょうか?TBLTとかFonFの話になると、あまりにもその暗示的指導や暗示的学習の側面が推されすぎて、もちろんそれがTBLTの肝であることには変わりないとしても、先ほども言及したように「いやいや明示的指導もTBLTの中に組み込めますよ、文法指導には必要ですよ」っていう流れになっているんではないでしょうか。これはもしかしたら僕の個人的思想が入り込んでそうやって解釈してしまっているのかもしれませんけど。
「TBLTとかPPPとかラベルはどうでもいいから目の前の生徒を見ればそこに答えはある」とかサムライの方はおっしゃりそうですけれども、実際CLT(の一つのスタイルとしてのPPP)を発展させたものがTBLTであって、共通の概念があるのは当然なんじゃないでしょうかね。最後の方に、「有効なTBLT」という提案があり、これは果たしてTBLTなのかということになってますが、形式に焦点をおいた十分な練習というところがTBLTの理念にはそぐわないのかなとは思いますね。TBLTの中心は「タスク」であってこれが一番大事なわけですけれど、TBLTに向けた批判がなされる場合ってまず指導法としてのTBLTなのか、シラバスデザインとしてのTBLTなのか、あるいは両方なのか、どっちがどうそぐわなくて、じゃあどうすればいいのかっていう順番で考えていきたいですよね。この観点で整理すると、多分今回のTBLT批判は両方の観点で日本の英語教育には合わないんじゃないんでしょうかってことになるかと思います。
最後の結論部分(2011の方)で明示的知識の指導が大事であるというのがあるんですが、これもその前に文法項目の指導は(明示ー暗示、演繹ー帰納」のいずれでもいけるっておっしゃってまして、そうなんですよね、だから明示的知識を教えるために明示的に教える必要はないわけでしてWatari (2012)でも「学習英文法は明示的指導を前提として論じられることが多いように思いますが、明示的に教えるのか暗示的におしえるのかという選択の余地があります。そしてどちらを選ぼうと、学習者の側で学習は明示的にも暗示的にも生じうることに留意すべきです」(『学習英文法を見直したい』 p. 77)という記述があります(ここを今書いてるペーパーで引用したくて英訳探してたのでした)。そして、「形式に焦点をおいた十分な練習」ということなんですが、これは形式と意味をつなげるための練習ってことですよね?DeKeyser(1998)をSato先生は引用されていらっしゃるので間違いないと思いますが、この形式の練習っていうのがAudiolingualism的なmechanical drillsと誤解されてしまう、そしてこのドリルっていうのがformsとmeaningをつなげるためとかいって実際に学習者の頭の中で起こってるのは”forms-forms”じゃないかよっていうのがDeKeyser (1998)のp.53-54あたりで言われてることですよね。なので問題はこのpracticeの段階なのかなあとは思いますね。ちなみにpoint-to-pointの方では引用文献がポスター発表だったり日本の書籍だったりして見られなくてイラッと(´・ω・`) ショボンでした。
ちなみにTBLTに関しては、僕がまとめたやつで申し訳ないんですがこちらの第38回 全国英語教育学会 愛知研究大会(第1日目) ハッシュタグまとめの最後の方に、Ortega先生の講演中の先生方のつぶやきがありますので参考までにどうぞ。
というわけでなんかいろいろ引っ張っておいて大したコメントも出来ずに申し訳ない気持ちはありつつもこのへんでおしまいにしたいと思います。
では。
アメリカ New Hampshireより。
おしまい。