カテゴリー別アーカイブ: 研究

JASELE2013で発表します。

発表スライドと予稿集の訂正版PDFそれから修論のPDFもdropboxのリンクで置いておきますのでどうぞ。

予稿集PDF

https://www.dropbox.com/s/eed0skfi2bgsnqm/YuTamuraJASELE2013.pdf

PPT

https://drive.google.com/file/d/0BzA9X1kZX185M1R0cVVrZ3VvYzQ/view?usp=sharing

Prince (2013) まとめ

こんばんは。誰得ブログ記事の更新です。こちらの論文のまとめ。

Prince, P. (2013). Listening, remembering, writing: Exploring the dictogloss task. Language Teaching Research.

http://ltr.sagepub.com/content/early/2013/07/05/1362168813494123.abstract

フランスの大学のリスニングコースにおいて文法項目の指導ではなくリスニング力の向上を目的としたディクトグロスの活用法を探索的に調査した論文
  • Introduction
フランスの大学での2年間のリスニングコースの担当としてどうやってそのコース設計をしていこうかというところが出発点。最初にとられた2つの策は

(1)multiple choiceやlistening grid(リスニングして表を埋める形式の課題)を採用しないようにしたこと
(2)トップダウン・ボトムアップの両方の処理を含む多様なリスニング課題を用いるようにしたこと
前者の理由としては試験中にカンニング行為てきなものが発生しやすく大人数クラスではそれを監視しづらいということと、選択肢を読んだりそれぞれを比較したりするという行為によって学習者のリスニングのプロセスに影響が出てしまうため。代わりに理解したことを書き取らせるような方法を採用。2点目に関しては、それぞれの処理方法はクリアカットではないもののインプットの処理中は両方を用いて意味理解をするために、トップダウンとボトムアップの処理をさせる課題をさせる必要があると考えたため。
本研究ではとくにディクトグロスという活動が学生のリスニング力に与える影響について扱っている。理論的背景としてはディクトグロスが学習者の口語のL2インプットの知覚的処理を促進するという提案に基づいている(Wilson, 2003)。実践のレベルではリスニング指導は過剰にトップダウン処理をさせるような活動に偏っていたが近年はそうではなく学習者のボトムアップの処理に注目が集まっている(Field, 2008)。ディクトグロスはこの学習者の処理過程の観察に適した活動なのではないか。リスニング指導は、しばしばリスニング力を評価しているだけであってリスニングを指導していないことが多い(筆者注:例えばリスニングさせてcomprehension questionをさせるような場合はリスニングできたかどうかを評価しているにすぎず、学習者のリスニングの処理はみれていないという指摘だと思う)。というわけで、どれだけ聞き取れたかを測定するのではなくもっとリスニングにおいて学習者の理解度をあげるためにはどのような支援が必要なのかということが問題。ディクトグロスをリスニング指導に取り入れる場合にもう一点注意しなくてはいけないのは、リスニングとライティングを同時に行うということによる認知負荷の問題である。
  • ディクトグロスとはなにか
(省略)
  • リスニング理解における記憶
(省略)←ここもwwwwwwww
  • 方法
質的・量的の両データともに2ヶ月間に渡って収集されたが期間は別。対象はフランスの大学で応用外国語?(applied foreign languages)を専攻する2回生。リスニングのクラスの他にも文法や翻訳、音声学、文化なども学んだりする課程らしい。
参加者は量的データ52名、質的データ55名。期間が長かったため欠席や授業をdrop outした学生もおり、12回の授業のうち2回以上欠席していない学生のみ量的データの分析対象となった(n=30;M=11F=19で平均年齢20.2)。英語学習歴は平均で9年間。一応1年次の試験はパスしているがそれでも学生のレベルに差は多少あってCEFRでいうとB1からC1+くらい。
用いられたタスクは3種類でセンテンスレベルに特化したもの。初回の授業でこれはディクテーションではないので必要なときは自分の言葉を使ってよいという説明をいれていてボトムアップとトップダウンという2種類の処理プロセスに関しても”the need for constant interaction between perceived phonological input and the top-down demands of plausibility or meaningfulness”を強調しつつ説明し、コースを通してこのことはリスニングのキーとして指導された。
タスクのタイプ
(1)ひとつの意味ユニットに対して1つのキーワードをメモさせる
意味ユニットごとにポーズを置くように工夫。文は2回読まれるが、書いていいのは1語のみで、2回目に新しく書き加えるのはだめ(ただし書いた1語を書き換えるのはあり)。キーワードを書かせたあとにペアで比較してそれらをもとに全文の再構成をさせる。2、7、11週目に学生の書いた文を回収。オンラインの意味処理中に書かせたということではないので産出された文は比較的長めで平均24.7語(意味ユニットでは4つ)。スコアリングは”intelligible”なユニットの数で行われた。完璧にintelligibleなものは1で部分的にintelligibleなものは0.5、スペリングミスや統語のエラーはカウントされず。
(2)リスニングの回数が一度だけ(書き取りありorなしで)
リスニングの機会が複数回あると、学習者はまず一回目で最初から一語ずつ書いていって二回目で書き取れなかった部分を書き足すというようなストラテジーをとったりするので、学習者がその文の意味自体ではなく語にフォーカスするのを防ぐためにリスニング回数を一度に制限。3,7,11週目に学生の書いた文を回収。平均語数は16.6語。スコアリングは正しく書かれた語と音節の数。元の文と意味的に一致していれば正しい語としてカウントされた。(1)同様スペリングと形態統語エラーはカウントされず
(3)未知語を聞いた時の対応をどうするか(意味を推測して自分の知ってる言葉で置き換えさせるトレーニング)
未知語に遭遇したときの方略としては、(a)スルーする、(b)聞こえたとおりに文字に書き起こしてみる(a phonological strategy)、(c)文の意味から未知語の意味を推測し自分の知っている言葉で置き換える(a semantic strategy)というような方法が考えられるが後者のほうがベターで、学習者にトップダウン処理で意味を補わせるトレーニングをさせることで文の再構成が可能になる。というわけで、この活動では未知語をなるべく知ってる語で置き換えるように指導。3,6,10週目に産出された文を回収。2文の中で、出現頻度の低い語を片方の文では後ろの方に、もう一方の文では前方に配置するように工夫。学生にはこの低出現頻度語の位置は前もって知らせた。文の平均語数は15.2語。スコアリングは低頻出語を置き換えた語のcontextual plausibilityで判断(上記2つのタスクと同様に1、0.5、0のスケールで)。
以上の3つのすべてのタスクで課題文は録音されたものではなくその場で読み上げられた。よってそのスピードは多少差はあるが学期末の試験のスピードに限りなく近い95wpsであった。このスピードは通常のスピーチに比べればかなりゆっくりであり、またかなり明瞭に発話するように注意した。
  • 結果
主に産出された文とタスク後の学生とのディスカッションから。
タスク(1)でのintelligible unitは2週目から11週目で2.7から3.8に上昇。
例えば、
When the engineer tried to borrow some money / to start up his own business / he had to ask some old friends from school / because the banks refused.(スラッシュは意味ユニットの区切りを表す)
という文では1ユニットに1語しか書けないので、わずか4語から全体の文の再構成するということになる。この場合書き取った1語がワーキングメモリーに保存された2番目、3番目の語あるいは学習者自身が保持していた語を思い出すキューになる。上記の文の最初のユニットではengineerと書いた学生が34%、borrowと書いた学生が54%で残りの学生はmoneyと書いていた。スペリングがわからないあるいはその語自体を認識していなかったという理由でengineerを書くことを避けた学生もいた。engineerと書いた学生の方がより文の再構成に成功しており、うち74%の学生は続く動詞のborrowを覚えていて、残りの学生はtried to borrowをneededやwantedに書き換えていた。ここで問題になるのは主語と動詞のどちらを書くほうがいいのかということだが学生の感想では一概にどちらとはいえず、両者の意味と関係性による。またコロケーションも重要な要素であり、例えばborrowと書いてmoneyを思い出すほうがmoneyを書いてborrowを思い出すより簡単だという声も。
結論として、学生は意味ユニットの記憶を強めるための意識的な方略としてチャンキングを認識した。
タスク(2)では書かれた語数は平均で10%、音節数は14%上昇。このタスクは、初めはどのような方略がよいのかという指示は一切なしでやった。文を最後まで聞いてから書き始めた学生のほうがそうでない学生より全体の文の再構成がよくできていた。またそのような学習者は不必要な語を削除していた(たとえばHe said he hopedにおけるsaid heなど)。文の読み上げられるとすぐに書き始めた学生は途中で抜け落ちていた。しかしながらすべての学生が「最後まで聞いてから書く」という方略に肯定的というわけではなく、そうすることによって文の始めの方を覚えることができないという意見もあった。どのくらいのアイテムを保持できるのか、そのアイテムを構成するものはなにかというはなしで、関連性のない2語よりは関連性のある2語の方がセットで記憶しやすい。またitems数が同じの場合は語数が少ないほうが覚えやすい。
タスク(3)では平均のplausibility scoreは文の始めの語で0.56から0.74に、文の終わりの語では0.68から0.84に。ほとんど全ての学生が未知語に遭遇したあとにその後の部分に集中するのが難しいとコメント。というわけで、そういうときでもインプットにしっかりと注意を向けさせるためにこの活動はいい。未知語でも、それが意味的なものだけでなくもっと統語的処理に関わってくることもあった。例えば分詞構文における文頭の過去分詞など。それを主語だと解釈したために文の理解が困難になってしまったケースが多かった。しかし、2文目を聞くことにより文脈が補完されて1文目の理解が促進されたということもあり、単文に集中するのではなくテキスト全体(この場合は2文全体)をしっかり捉えるということの必要性が示唆された。
質的データ。リスニングのコースに関する学生の反応と、リスニングスキル一般に対する学生の態度について自由記述の質問紙調査。ディクトグロスに焦点をあてた質問は
  1. Has the framework adopted in the course (i.e. stressing the interaction between bottom-up and top-down processes) been useful to you; why or why not?
  2. Has the emphasis on chunking been useful to you; why or why not?
一つ目の質問に関しては、このようなボトムアップとかトップダウンとかを意識したことがなかったという学生が多数で、この質問に答えた34名のうち21名が”useful”と答えており、うち15名は特に文脈や全体の意味に注意を払うことが自分が理解できた語から文を解釈することに役立ったという点に言及していた。
他方、この実験で用いられたリスニング方略が役に立たなかったと回答した13名のうち、その主な理由としては学習者自身のリスニングの仕方を変えるにはいたらなかったというものである。また、教わったことは今まで自分がやってきたやり方と同じでそのことには気づいていなかった(そしてそれは有効ではないと思っている)。という意見もあった。このような回答からは、リスニングのフレームワークに関しては意識的な気づきは必要でないのかもしれないともいえる(教えてなくても自然にやっている例もあったということ)。未知語に遭遇した時にトップダウンの知識を用いるという方法をどのような場合にあるいはどのくらいの頻度でやるのかという問題は結構難しくて学習者の確信度に関係があるはず。また聞いた音をもとに語を書くというのは自然な作業ではあるものの、それを修正したくないという気持ち(自分の言葉で置き換えるのではなく音に依存してしまう傾向)が困難度をあげているということもある。”deep sea fishing”を”dipsy fishing”としてしまったという場合には母音の知覚という問題が絡んでいる。
二つ目の質問にたいしての33の回答のうち25名がチャンキングが有効であると回答。数名の学生がチャンキングは有効ではあるが実際に適用するのが難しいと考えていた。チャンキングをうまく使いこなすために重要なのはキーワードの見極め。キーワードがうまく拾えなかったらそこから再構成するのが難しくなってしまう。チャンキングが有効と認識しているにもかかわらず、文が長すぎた場合にはチャンキングでうまく対応できないという学生もいた。この問題はワーキングメモリーのキャパシティと関連しているだろうがより直接的には熟達度と関係している。つまりは熟達度によって「長すぎる」と感じる長さが違ってくる。高熟達度の学習者は無意識的に文を処理可能な長さのチャンクごとに処理しているが低熟達度の学習者はこれができず結果的に音声のみでは理解できず文字を読まないと理解ができないというような具合に。
  • ディスカッション
ワーキングメモリーの容量という問題以外にリスニングにおいて学習者が抱える困難点。
  1. インプットの区切りを間違える(illustratesがin the streetsになってしまうなど)
  2. インプットに対応する語彙を探す際に、L2学習者は出現頻度の高いものを思いつきやすい傾向にある(それがインプットとはかけ離れている可能性)
上記のようなsegmentationとlexical mismatchという2つの問題は、ワーキングメモリーにインプットを記憶する困難さによって悪化する。
実験の結果は語や意味のユニットを書き取ることや未知語の処理に関して学習者の能力が向上したことから好意的に解釈できる。またリスニングのプロセスを処理可能な構成要素ごとに分けることにも学生は前向きで学生の自信も学期がすすむごとに上昇していった。よってディクテーションを用いたリスニング力向上の試みは効果があったと考えられる。
  • Limitations
グループがひとつしかなかったので実験で用いられた教材がカウンターバランスされていなかったという可能性。こういう場合にはスコアリングに最低でも2人は必要だった
学生のワーキングメモリー容量のアセスメントがなかったために、実験の結果みられた変化がワーキングメモリー容量があがったことによるものなのかが不明。でもパフォーマンスの向上を見ているのであってなにが原因であるかということが実験の主旨ではないのでそんなに問題でもない。
一番の問題は与えられたインプットのスピードと内容がauthenticではなかったということ。ディクトグロスによるリスニング力の向上がauthenticなinputの処理の際にも有効であるかどうかということや、この実験で用いられたリスニング方略がどの程度他の状況にも転移するかということをみるのもおもしろいだろう。この実験で行われた用にゆっくりはっきり発話されるということはかなりレアなので学習者のよりauthenticな口語の英語の理解度が必ずしもあがったとは言えない。が、それでもとりあえずこの研究で用いられたディクトグロスを利用したリスニング活動は少なくとも学習者にリスニングの処理を意識的に行わせ、その処理がどのような要素で構成されているかというのを理解させる機会は与えている。
  • 結論
リスニングのコース全体としては、本実験で紹介したディクトグロス以外にもauthenticな教材を用いたリスニング活動も行われた。その前段階として、ディクトグロスを取り入れたリスニングは学習者のよりよりリスニング理解への足がかりとなった(以下略

 

というわけで(以下感想)ディクトグロスというのは文法指導の1つのテクニックとして使われる(フォーカス・オン・フォームという言葉が伴うことも)わけですが、それをリスニング力向上のために取り入れてみましたという実践報告っぽい感じですかね。冒頭の方でディクトグロスはボトムアップうんぬんみたいなことが書いてあったんですが結局やらせていることってトップダウンでキーワード類推とか未知語類推みたいなことだったんじゃないかなという気がしないでもないんですが。オンライン処理中に未知語に遭遇した時に既知の語にどうやってアクセスしてんだろうとかリスニング中に文脈から未知語類推するのがどれだけ簡単or困難なんだろうとかそういうことが気になったんですが。語彙のサイズによるんじゃなないかと思うんですけどね。リスニングっていうのはあまり専門じゃないのであれなんですがまあ先生もトップダウンとボトムダウンてのがあってだなごにょごにょとか言うよりは(それもそれで効果あるとは思うけれどそんなこと言われてもへー。で終わるケースの方が多い気がする)、こうやって実際にいくつかのディクトグロスベースのリスニング活動させて自分がどうやってインプット処理しているのかっていうのを意識的に体験させるのはいいかもしれませんね。これは特に統計検定かけてるわけでもないので結果の一般化はできないわけですが研究の可能性としてこういうのどうかなっていうアイデアとしてはいいんじゃないでしょうか。

 

そんなところですかね。

 

なにをゆう たむらゆう

 

おしまい。

FonFとnoticing(とCR)

どうもみなさんこんにちは。なんだかあれれ?と思うことがあったのでメモしておきます。

題名の通りなんですが、Focus on Form (FonF)とnoticingはなにが違うのかって言うこととあとじゃあそれとConsciousness Raisingはなにが違うんだろうっていうことです。

FonFっていうのはまあ以前にも関連した記事を書いたんですが、

overtly draws students’ attention to linguistic elements as they arise incidentally in lessons whose overriding focus is on meaning or communication (Long, 2001, p.184)

とあって(これがあのTwitterでつぶやいてた1991論文の再録のやつです。元のページは他の論文で見てるから知ってるんですが一応2001の方で)、まあやっぱり意味理解中心の中で、あるいはコミュニケーション中、つまり学習者の意識が意味理解に向いているときに言語形式に注意を向けることなんですよね。

で、noticingっていうのも、それが言語習得の枠組みの中で使われる場合は、そのnoticeするものっていうのは基本的にはmorpho-syntactic featuresですよねというか僕は音声系のnoticing研究は知らないんですけどでも研究の材料としては形態素や文法構造に対して、意識が向いているかっていうのが多いと思います。それで、これはnoticingの曖昧さでもあるのかもしれませんが、このnoticingっていうのはFonFがいうような意味理解中心の中でのnoticingなのか、あるいはそれはあまり関係ないのかっていうのが気になってるんですね。僕が参考にしている先行研究を見ている限り、noticingをオンライン(underliningやnote-takingなど)で測る場合、例えばFotos(1993)ではリスニングとcomprehension questionのあと、あるいはディクテーションさせたあとにテキストを渡して読ませて下線引かせてるんですね。でこれってそうやることで意味への注意を減らして形式に注意が向きやすいように仕向けてると思うんですね。でもこの論文のタイトルは超絶すごくて、”Consciousness Raising and Noticing through Focus on Form”なんですよ。この記事のタイトルが3つ全て詰まっているわけなんです。アウトプットがnoticingにどう影響するかというのを調べたUggen (2012)でも、形式の違い(仮定法現在と仮定法過去)で形式への気づきの量に差が出ていて(後者の方がターゲット項目含め形式への気づきが多かった)、でも全体的には統語的要素よりも語彙に多く下線が引かれているという結果になっています。でまあ読ませる中で同時に線を引かせるってなると、意味と形式に同時に意識が向くわけですしそうなってくると形式への注意を喚起しないがきりは意味へ向かってしまうよなと思います。まあ形式への注意を見たいのだからできるだけそれを阻害する可能性のある要素(ここでは意味理解)をなるべく排除して観察するっていうのはそうじゃなきゃわからんじゃんということになってしまうんですがそうなるとこのnoticingってのは意味理解とは関係なしに(あるいはそれが主目的ではない)インプットを受けている中で形式へ気づきが起こればいいのか?ってことになってそれどうなんだろうってなってたんですね。

そんで、VanPatten (1990)では、形式への注意が意味理解を妨げるということが述べられていて(ここで注意が必要なのはこの実験における「形式」は意味理解への比重の少ない”meaningless” formであったということ)、それでFonFなんてちっと現実的じゃないんじゃないんみたいなことが書いてあったりするんですけどその文脈でSchmidtのnoticingの批判とかがちらっとあるんですね。おやそうするってーとこれはFonFもnoticingも意味理解中の形式への注意っていうことになるんか?とかなってしまってまあ大変。もしもそういうことであったとしたら、noticingを測る際に最初に意味理解を済ませてから取り組むとそれはFonFがいうところの形式への注意ということではなくなるし、でも意味理解のないところで形式に注意したところでそれがどうやって習得につながっていくかっていうところはありますよね。まあもちろんFonFというのは指導する側が、学習者の注意を~という文脈であって、noticingというのは学習者の認知プロセスの話ですから土俵がちょっと違うわけなんですけど、これに加えてRutherford & Smith (1985)のCR

“the deliberate attempt to draw the learner’s attention specifically to the formal properties of the target language” (p.274).

とかが入るとじゃあこれはFonFとはどういうふうに違うんだろうなあとか思っちゃうんですよ。先述のFotos先生の論文だと、FonFとCRっていうのがなんかどうも重なっているように見えてしまうというか。というわけで難しいです。

ではまた。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。

参考文献

Fotos, S. S. (1993). Consciousness Raising and Noticing through Focus on Form: Grammar Task Performance versus Formal Instruction. Applied Linguistics14(4), 385-407.

Long, M. H. (2001). Focus on Form: A Design Feature in Language Teaching Methodology. In C. Candlin, N. Mercer (Eds.) , English Language Teaching in Its Social Context (pp. 180-190). London, England: Routledge, with Macquarie University and Open University.

Rutherford, W. E., & Smith, M. (1985). Consciousness-Raising and Universal Grammar. Applied Linguistics6(3), 274-282.

VanPatten, B. (1990). Attending to Form and Content in the Input: An Experiment in Consciousness. Studies In Second Language Acquisition,12(3), 287-301.

 

メタ言語能力の有無で文法の習得図るん?

どうもみなさんこんにちは。暖かくなってきて春らしい陽気だなと思ってたらまさかのsnow storm発動です。今朝も実習がある予定だったのですが、明日に振り替えということになりました。さてさて今回は授業で先生と話した話。僕は今curriculum developmentの授業を取っているのですがもうほんと先生が適当すぎて話にならなくて発狂しそうです。正直言って1番学びのない授業です。1ヶ月授業キャンセルして振替もなしとかちょっとよくわからないですね。それでまあ昨日先生と話したことについてです。

先生がモデルに示した受動態のユニットプランに、受動態の機能、それがなぜ使われるのか、どういった場面で使用されるのかを理解するというのがobjectivesに書いてあったんですね。
Students will be able to show why the passive voice is used:
  1. when the agent is unknown or important
  2. when we want to avoid mentinoing the agent
(以下略
 
と言った感じで。もちろん、文法項目の機能的側面は重要ですし指導されるべきだと思うんです。そこは同意です。でもそれを理解しているということと、それをL2である英語で説明できるかどうかには産出のスキルが要求されるので、理解したかどうかをL2で説明できるかどうかで測定するのってどうなのっていうかそれを目標に設定するのってどういうことなのって思ったんです。最終目標はその文法項目、ここでいえば受動態が適切に使えるかどうか、理解できるかどうか、が目標なのであって、文法知識をL2で説明できるかどうかはまた違う話なんじゃないのと思ったわけです。それでこの先生のよくわからないところは、機能を重要だと言うわりには能動態と受動態の書き換えをやらせてるってことなんですよね。まあ書き換えそれ自体はbe動詞+過去分詞っていう構造を覚える練習としてはアリなのかもしれませんけど。目標にも、
The student will know
  1. A sentence in the passive voice has a corresponding sentence in the active voice.
とかあったりして。
そういうことを、質問として先生にぶつけてみたんですね。そしたら、
「私は英語で説明できるなければいけないと思っているし、私の経験では、文法知識を言語化できる生徒の方がその文法項目の使用においても熟達度が高い。大事なのはmasterしてるかどうかでしょ?」みたいなことを言われたので、「masterってどういう意味で使ってるんですか?」って聞いたら、「orallyにミスせず使えること」と言われたので、「じゃあなんで口頭産出できるかどうかをテストしないで文法知識をL2で言語化することで見てるんですか?それができれば口頭産出でも誤りなく使えるんですか?例えばライティングで使えるようになったかをみたいなら受動態を実際に使わせて文章書かせて適切に使えてるかどうか見ればいいだけですよね?」と言ったところ、また「私は文法知識が身についているかをarticulateできることを生徒に求めるしそれができる生徒の方がよくできる」みたいな同じようなことを言われました。ほんとよくわかりません。
そのあとに、先生が、文法はword/phraseレベル→sentenceレベル→discourseレベルの順で指導していくそういうプランになっているべきとおっしゃったので、「僕たちは関係詞節のユニットプランを考えてるんですが、関係詞節を扱うときにおけるword/phraseレベルって例えばどういうことですか?」と聞いたところ、「例えばfill-in-the-blank exerciseで適切に関係代名詞を挿入できるかどうか」とのお答えをいただいたので、「でもそれって文を提示しているのだからsentenceレベルですよね?dependent clauseはそもそもそれだけでは成り立たないのだから文の中での働きを示さないことには意味ないですよね?」と聞きました。すると、「それでもまず、who, that, whichなどを提示して、whoは人に、thatとwhichはモノに使うと教えてから文を提示する」と言われたんです。「でも、whoもthatもwhichも、例えばwhoなどは疑問詞としての使用には生徒は慣れてるはずですよね?そこでいきなり文を提示せずにrelative pronounはこれですとかこれは人にとか説明されても、文を提示されるまではなんの話か意味わからないんじゃないですか?」と言いました。すると、「別に一つの授業でword/phraseレベル→sentenceレベルを扱うこともあり得る」とかなんとかいやまあ質問の答えになってないというか。そのあとに、例えば関係代名詞の使い分けを指導する場面では、whoが含まれる例文を幾つかと、whichが使用されている例文を幾つか提示して、それをグループ分けさせたり、また分けて提示して規則性を見つけ出させるような指導法は考えられないですか?」と聞いたところ、「私の生徒はルールをまず与えないとそのやり方でやってもなにも答えられないし、私はまあそれは使いません。まああなたたちの想定している生徒は優秀でなんでもできるのかもしれないけれど。」みたいなことを言われてもうなんなのって思いました。好きなようにやっていいとか言うわりには自分の中に答えがあって、しかもそれが自分が指導している現場ではこうだからというだけの理由っていう1番最悪なタイプ。今までずっとこの先生は本当にきらいだと思っていましたけど今回の件でより一層嫌いになりました。
このやりとりはほんと録音しておけばよかったなと思うくらいです。今まで不満がすごい溜まっててそれをうわーっとぶつけた格好になったわけですが。とりあえず書いてすっきりしたのでこのへんで。失礼しました。
では。
アメリカ New Hampshireより。
おしまい

「気づき」

どうもお久しぶりです。なんだか気づいたら3月になっていて、気づいたら3月11日になっていて、日本の方を向いて黙祷して、色々なことが頭を巡りました。今日はそのことについては書きませんが、いつか時間ができたら文章にしておきたいとは思っています(時間は作るものっていうツッコミありがとうございますgkbr

さて題名に「気づき」とだけ記したんですが、なぜブログ書く気になったかというと「気づき」(この括弧付きというところがミソかもしれませんが)ということについての記述があるブログの連続投稿を見たからです。こちら。

英語の学び方再考(6)学習は「気づき」に始まる

英語の学び方再考(7)様々なレベルの「気づき」

英語の学び方再考(8)使徒パウロの気づき

英語の学び方再考(9)直観による「気づき」

英語の学び方再考(11)直感と分析

英語の学び方再考(11)「気づき」に気づく

(11)が2つありますけど1つめは(10)の間違いだそうです。まあそんなことはどうでもよくて、このブログ記事の連投はまだ完結してないんですが、一言でいうとちょっとなに言いたいのかよくわからないという感じですね(※ケンカは売っていません)。タイトルからもわかるように、「英語の学び方再考」ということを綴っていて、(6)で「気づき」という言葉がでてきたのでそこからのリンクしか貼っていませんがその前にも話しはあります。僕は言語習得におけるnoticingというものに興味があって、その関係でこの記事にふと目がとまったわけですね。まあそれがこの括弧付きの「気づき」と同じ意味なのかはわかりませんが。読んでみると(6)の記事では「気づき」の訳をawarenessとしています。noticingという言葉は使われていません。というかSLA研究においても、The Noticing Hypothesisというのはすごい有名でSchmidt (1990)とかGoogle Scholarで検索すると2427本とか引用されてるんですけれど(ググるとPDF落っこちてます)でも実際noticingってなんなのよとかそのnoticingの定義が曖昧すぎるんだっていう批判とかは結構色々あって、さらに、そのnoticingってのが「言語習得に必須」なのか「習得を促進する」のかっていうのもあって、はたまた「何に」気づくのかっていうのとかわーわーしてる界隈のところではあるんですよね。そういえば某ふくたさんもnoticingという言葉はあまり使いたくないとおっしゃってました。ということでconscious awarenessとかが使われるんですかね。language awarenessなんて言葉もあったりしてややこしいですね。とどめはconsciousness-raisingですもんね。何が違うの?って思ってググったら日本語の文献がヒットしたりして→「Consciousness Raising とLanguage Awareness――その定義と言語教育における意義――」僕が図書館から借りてるこの本も、Language Awarenessってなんやねんとか定義甘すぎやろみたいなところを掘ってあったりしております。でもどっちかっていうとCRの方がより言語習得におけるプロセスの部分に焦点があって、LAはもっと広義に使われているようです。

それで脱線したんですけど、「気づき」とか「直感」とかそういうのが大事なんだということをおっしゃっていらっしゃるようで、

しかし「アウェアネス」という概念は、もっと学習の基本的な概念に関わる重要なキーワードであると筆者は認識しています。そのことを筆者はカレブ・ガテーニョ(Caleb Gattegno 1911-88)のセミナーに参加して知りました彼は1980年代に毎年来日してセミナーを開催していましたがあるとき講義の中でこう言いました。「教育可能なものは、アウェアネスだけである。」(What is educable is only awareness.)と。この言葉を聞いて大きな衝撃を受けたことを、今でもはっきりと覚えています。

という一節が(6)にあったりして、教育可能なものがawarenessってすごいなとか個人的には思っちゃうわけなんですよね。「気づき」って観察するのが難しいわけじゃないですか。教育の現場でということならなおさらですよね。「気づいた」かどうかどうやって確かめるのかってことなんですよ。どういうことをもって何に「気づいた」と判断するのかもかなり難しいことですよね。それがもしも「無意識」なものなのだとしたら余計に端から見て「気づき」の有無を判断なんかできませんよね。熟年の教師の観察眼によって判断するとか言われたらまあはいそうですかとしか言いようがないわけですけども。

筆者が英語を習い始めたのはちょうど太平洋戦争が始まった時期でしたから英語に初めて接するのは中学校に入った時でした。それまで英語らしい英語を耳にすることもありませんでした。英語のアルファベットの文字は多少知っていて、それは左から右に横書きにされるくらいの知識はあったと思いますしかしそれぞれの文字が、基本的に一つの音を表わしていることは知らなかったので、そのことを知って驚いたことを思い出します。先生はそんなことは当たり前のことと思われていたのでしょう説明もありませんでした。ただ、それぞれの音が日本語の音とどう違うかを熱心に説明し、反復練習をしてくださいました。 (強調は引用者による)

とか書いてあったりして、「基本的に」とかありますがそれって本当に「基本的に」なの?とかそもそも英語って綴り字と発音が一致しないから難しいんじゃないの?とか思ったりもして(※ケンカは売っていません)。だから先生もそんなことは言わなかったのだろうとか思っちゃいますよね。

話しは戻って、僕は、その「気づき」っていうのをもう少し調べてみたいなということがあって、consciousness-raising taskと気づきの関係についてFotos (1993)のreplicationみたいなことを修論でやってみようと思っています。気づきの観察をに関してもしかしたら何か面白いものが見えるんじゃないかなということで。

2013-03-11 20.57.42

そんなわけで僕も何言いたいのかはよくわからないブログになってしまいましたけれどまあそれはいつも通りあいも変わらずということで。ひっそりブログ更新してみました。

ではまた。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。

 

Google Scholarと図書館アクセス

今まで知らなかったのでメモ。

僕はだいたい文献検索するときって、大学の図書館にログインして、そこで図書館なりEBSCOHOSTなりのデータベースで検索するということをやっていました。それ以外にもGoogle Scholarでも文献は探せますよね。検索も早いし、たまにタダでネットに落ちていたり、Google Booksでたまたま読みたいところが読めたりとかそういう「ラッキー感」みたいなものがありました。しかし、海外のジャーナルのリンクなんかは、そこからはPDFは有料でしかアクセスできないので、結局大学のアカウントでログインしてデータベースで探さないとっていうことをやっていました。ですが、Google Scholarには「図書館アクセス」という機能があることを知りました(下記画像参照)

http://scholar.google.com/scholar_settings?hl=ja&as_sdt=0,30

Google Scholar 設定 via kwout

これで、僕の大学の名前を検索すると、図書館とそれからProQuestにもつなぐことができました。これでつなぐとどういうことが起きるかというと、検索結果の右側に、もともとネット上にあるPDFへのリンクの他に、大学の図書館にあるフルテキストへのリンクが表示されるようになります(下記画像参照)

Fotos- Integrating Grammar Instruction and Communicative... - Google Scholar

別タブで一度大学のアカウントにログインしていれば、このリンクをクリックすればその文献のページに飛ぶことができるわけですね。

Shapiro Library Article Linker

 

あとはPDFをダウンロードするなりRefWorks等の文献管理ソフトにエクスポートするなりすればいいわけですね。文献の引用元なんかをたどるには、Google Scholarのほうが便利かなあという気がしてるので、これからはこっちをメインに使っていこうかなと思います。ていうかいまさら気づいたの結構遅かったなとか思ってるんですが…

そんなわけで雪が降ってますが頑張ります。

では。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。

Consciousness-raising task

どうもお久しぶりです。前回FonFの記事を書いてから3週間くらいでしょうか。なんとかかんとか秋学期に履修していた3つの授業が無事に全て終わり、冬休みに突入です。というわけで、木曜日に終わって金土ととくになにをしたってわけでもなくリラックスして本を読んだりしています。まだ雪があまり降ってないのですが近々初滑りにも行こうと思います。

さて前置きが長くなりましたが今回は記事のタイトルにもあるようにconsciousness-raising taskについて、その中でも特にtaskの主題を「文法問題の解決」に設定しているconsciousness-raising grammar taskというものについて、課題でペーパーを書きました。まあ授業はlinguistiscsという名前がついていたんですがやったことは前半は音声学について、後半はThe Grammar Bookを読みすすめるという感じで特に「言語学」をやったという気はあまりしていないのですが。この課題で求められていたことは文献や教科書のレビューと、そこからある特定の言語的側面に焦点をあてた指導法の検証とその批評?ということでして、僕はとにかくtaskに興味があったのでTBLT関連の文献から入って、また文法指導にも興味があったということもありこのconsciousness-raising taskについて書くことにしました。ペーパーの構成的には、

  1. Introduction
  2. What is task?
    1. Definition of task
    2. Type of Task
    3. What is Good Task
  3. Characteristics of EFL context
  4. Task-based Approach to Grammar Instruction
    1. The effect of Formal Instruction
      1. Explicit and implicit knowledge
  5. Grammar Consciousness-raising Task
    1. Grammar CR tasks in Teaching if Conditionals
  6. Evaluation of CR Grammar Task
  7. Conclusion

となっています。上記の章立てには入ってませんが、グループワークの効果、TBLTが根拠とする仮説、宣言的・手続き的知識の箇所を最終的に提出する際に削りました。なのでリンクは提出して先生からのコメントが入っているものと、削った箇所をそのままにしたもの両方貼っておきます。上が先生からのコメント入り、下が削った箇所が入ってる版です。

https://drive.google.com/file/d/0BzA9X1kZX185OGNneUlMN25nVzA/view?usp=sharing&resourcekey=0-xoODLV-g6Zya693u42auTA

https://drive.google.com/file/d/0BzA9X1kZX185dVRmUHZsaGJrblU/view?usp=sharing&resourcekey=0-AtVWY8Zf_OykkjNA5wnf_g

個人的にはもっといろいろコンパクトにまとめられたらっていうのとif節に関してもっと考察が必要だったなとは思っています。ちなみに、このペーパーをもとに指導案を作ることも課題になっていて、それもリンク貼っておきます。

https://drive.google.com/file/d/0BzA9X1kZX185dVRmUHZsaGJrblU/view?usp=sharing&resourcekey=0-AtVWY8Zf_OykkjNA5wnf_g

一応対象は日本の高校生ってことで作りましたが、時間いっぱいいっぱいかなという気はします。先生からのコメントで、”Does the teacher evaluate their classifications or discuss the reasons for their analysis?”というのがありました。確かにそういう記述はないので書いておくべきでした。やったらやらせっぱなしというのは良くないですしね。ただその後の説明の段階で生徒とのやりとりを含めながら説明をしていくという方法は考えられるかと思います。

そのあとに、対面で日本語を見ながら英語を言うという活動があり、そこに音声指導も入れるようになってるんですが、”What’s the purpose of hte translation exercise? And why do you extend this to include pronunciation?”というコメントがあります。僕としては意味と形式を結びつける自由度の低い活動としてこういうのを入れたつもりで、音声指導の理由はただ単に音声指導が必要だと思ったからいれたんですが、だったらなぜ最初のペアでtaskやってるときには音声指導が入らないのかっていうのもあると思うんですが…

もちろんそれはそのとおりで、自由度の高い活動のときこそ音声指導が必要なのだとは思います。だけどそれが可能なのは練習段階でもそういう指導がしてあるからであると思うのでこの練習段階での音声指導が問題視される理由というのはよくわからないのというか。文法が主眼なのになんで音声指導?みたいな話なのでしょうか。それとも明示的知識を主眼においてるのに音声指導?みたいな話なのでしょうか。うーむ。

そんなわけで早くスノボー行きたいです。

では。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。

Focus on Form

兼ねてから感想を書いた記事が眠っていたんですが、最近いろいろ読んだりしていてちょっとこれは書いておきたいと思ったのと、それからお願いされていて「はい」と返事したのになかなかアップできない罪悪感みたいなのもずっと感じていたので、『学習英文法を見直したい』の第7章の松井先生の論考に関してだけ手短に記事を書きます。間違っているところがあればご指摘ください。

松井先生はこの論考で、フォーカス・オン・フォーム(Focus on Form以下FonF)と、「フィーリング」や「イメージ」という2つの文法指導アプローチに対する提言をされています。僕が言及しておきたいのは前者です。松井先生が引用されている和書の文献は残念ながら現在参照できないのですが、どうやらフォーカス・オン・フォームやあるいはそこに関連した「気づき(noticing)」というものが、少し違ったかたちで理解・共有されているのかなという印象を僕は受けました。そしてそれは日本の英語教育が今までどうやってなされてきたのかという点を反映しているようにも思えます。松井先生は、FonFをFocus on Formsの「アンチ・テーゼ」としていますが、この表現はあまり正確ではないと思います。FonFというのは、僕がここ最近書いた記事でとりあげたTask-based Language Teaching(TBLT)の枠組みにおける一つの”methodological principle” (Doughty & Long, 2003)であり、FonFを達成するためには様々なテクニックがあります。そして、このFonFは、FonFsの直接のアンチ・テーゼというよりは、どちらかというと、意味だけでもだめだし形式だけでもだめなんだよという主張でしょう。つまり、FonFsに則った指導法(例えばAudio lingual methodなど)がまずあり、「形式ではなく意味が大事なんだ!」という批判から生まれたfocus on meaning、そして現在は、「いやいや、意味だけじゃダメで、意味中心のやりとりの最中に言語形式に注意が向くことが大事なんだ!」というFonFという概念が主流であるというのが僕の理解です。また、その文脈で登場するnoticingという概念は、なにも「初学者のうちから、実際の英語運用をする中で、『伝達したい意味』と『自分が表現できる形式』とのギャップに気づかせ、そのギャップを教師からの支援で埋め、自分が表現できる形式を整備していくということになるようです。」(p.90) ということだけではありません。この引用部分は、noticingの中の、noticing the gapという概念のことだと思われますが、もともとSchmidt (1990)で提案されたのは、形式に気づいていないインプットはインテイクにはならないのではないか、言語習得には、形式に気づくことが必須なのではないか、という点であり、その主張は、先ほど述べたように、「意味だけではなく形式も」というかたちでその後の理論や研究に取り入れられていき、また一方では言語習得の認知プロセスに関して、Krashenのいうように、「意識的な学習はacquisitionにはならない」という主張に対する反論として様々な文献で引用されてきているように思います。ですので、「『気づき』を得るには実際に運用することです」と言われても…」(p.90)の部分は、どこでそんなことが言われているのか不思議に思いました。引用されている和書でしょうか?

また、FonFのformが無冠詞であるのは「ここの具体例の集合体としての一般論である無冠詞複数形の”forms”との差異化を図った概念なのだろうと理解しています。しかしながら、そこでの『気づき』や『フィードバックの結果成功したアウトプット』の説明で用いられるのは、結局は冠詞の習得だったり、時制の習得だったり…結局”a form”の話に戻っているのではないか」(p.91)という記述があります。前段は同意ですが、僕はこのFonFという概念がFonFsと対比されているのは、シラバスデザインに関してだと思っています。後者は、structural syllabusと対応しており、structural syllabusとは言語形式をひとつずつ導入し、学習者はそれを少しずつ積み上げていきコミュニケーションに使用するという考えが念頭にあります。しかしながら、指導によって文法を身につけさせる(暗示的知識を習得させる)ことができるのは、学習者がその段階に達した場合のみであり、教師の介入によってその順番を変えることができないという考えがあります。しかし、学習者がどこの段階にいるのかを見極めてその段階を狙って指導をするのは不可能です。よって、無冠詞の単数形であるformにすることで形式という概念を抽象化したものがFonFなのではないでしょうか。この問題に関しては暗示的知識ではなく学習者内シラバスの影響を受けない明示的知識を教えることによってこの問題を回避しようという案もあります(Ellis, 2002b, p.163)。日本では、文法シラバスに則って指導が行われているため、TBLTやFonFといった指導法が想定しているものとはそもそも相容れないという可能性があります。それを最先端の言語習得理論だといって日本に取り入れようとするがために、このような「誤解」が生まれてしまうのかもしれません。「文法を教える」という考え方自体がもともとのTBLTでは否定されています。これをなんとかするために、focused taskの一種であるconsciousness raising task (Fotos, 1994 and Fotos & Ellis, 1991)が提案されていたりします。このような指導法では、明示的文法説明の可能性は排除されていません。第6章で亘理先生も触れていますが、明示的な指導が一切ダメというわけではないということです。読んでいて、フォーカス・オン・フォームや気づきといったことを、明示的指導や文法指導と対比させて、前者を批判しているように思いました。それは正しくもあり間違ってもいるというようなことに関して簡単に書かせていただきました。

追記:Ellis2002bは、アメブロに僕が書いたレビュー記事があるのでそちらをご覧いただければと思います。それから、これに若干関連したペーパー書いてまして提出して返却されたらブログにアップしようと思います。もしかしたらこの記事に加筆するかもしれません。

 

Doughty, C. J., & Long, M. H. (2003). Optimal Psycholinguistic Environments for Distance Foreign Language Learning. Language Learning & Technology, 7(3), 50-80.

Ellis, R. (2002). Methodological Options in Grammar Teaching Materials. In E. Hinkel, S. Fotos (Eds.) , New Perspectives on Grammar Teaching in Second Language Classrooms (pp. 155-179). Mahwah, NJ: Erlbaum

Fotos, S., & Ellis, R. (1991). Communicating about grammar: A task-based approach. TESOL Quarterly, 25, 605-628. doi: 10.2307/3587079

Fotos, S. (1994). Integrating grammar instruction and communicative language use through grammar consciousness-raising tasks. TESOL Quarterly, 28, 323-351. doi: 10.2307/3587436

Schmidt, R. W. (1990). The role of consciousness in second language learning. Applied Linguistics, 11(2), 129-158.

Intonation and pitch pattern

発音の授業で、自分の発音の矯正とその指導法みたいなのを学んでいるんですが、その授業中に見たビデオが面白かったので、これもしかしたらYoutubeにアップされてたりしないかなと思って探してたのですが残念ながら見つけられずw

Introduction to The Sound and Style of American English

http://www.3480.net/usa/index.htm

ここにワークシートというか資料みたいなのがあるんですが、やっぱり聞かないとわかんないんですよね。そんでなんか音源が中国のサイトにアップされてたのでまあ興味ある人は聞いてみてください。

http://www.tudou.com/listplay/QWsPFq14xwk/Hxu4mYZbw6I.html

Dr. David Alan Sternていう先生のなんですが、アメリカ発音に近づけるためのコツとして、”Jump up & Step down” というパターンを提唱しています。

発話の直後にピッチが急上昇して、そこから各音節ごと(各語ではなく)にピッチを段々と下げるというパターンを適用することで、より「ネイティブ」な発音に近づくということです。ポイントは、

  • 声の大きさではなくピッチを高くすること
  • ジャンプアップ(急上昇)であってスライドアップ(段々上昇)でない
  • 各語ごとではなく、各音節ごとにピッチを下げる。

の3点で、例えば

http://www.3480.net/usa/Course3_5.htm

THE SOUND AND STYLE OF AMERICAN EINGLISH: INTONATION & SYLLABLE STRESS via kwout

こんな感じ。どこで、ピッチを急上昇させるのかとかいう点については詳述されていて(もちろんコンテクストによるし何を強調したいのかによもるけどまあいくつか一般的ガイドラインはあって、という話ではあります)、例えば代名詞や機能語は基本的にストレスがこないので代名詞の直後、あるいは機能語の前後でピッチが上昇する等。まあ一般に言われてる英語のストレスやイントネーションパターンに加えてというか違う点からアプローチして、この”jump up and step down”のパターン意識してみるとアメリカ英語っぽくなりますよっていう話です。強勢よりもピッチの高低って結構意識しないとなかなかうまくできないし、結構大げさにするくらいでいいといつも先生には指導されているのですが、これもその一環ですかね。先生曰く、「大げさにするくらいでやっていれば普段の発話に自然にそのパターンが生きてくるから」ってことらしいです。

まあ僕は特にインプットもアメリカ英語だしそれに似せるように、それがモデルだと思って発音してるのでアメリカ英語に近い(明らかにイギリス英語ではない)発音してるわけですので、こういう練習は結構ためになったりしますけど、これをじゃあ教えるかっていうと悩みどころです。「ヒント」として使えたらいいなくらいには思いますけどね。

関係無いですけどStern先生の動画をYouTubeより。

[iframe src=”https://www.youtube.com/embed/f9EsyYw5d40″ width=”100%” height=”480″]

では。

アメリカ New Hampshireより

おしまい。

“Point to Point”

どうも。前回のSato (2010)の続きです。前半2つがその2010の論文へのレスポンス、その次がそれらのコメントに対する再反論になってます。その後に一応一連の論文を読んでのコメントを書きます。

 

Sybing, R., Urick, S. T., & Sato, R. (2011). Point to Point: Responses to ‘Reconsidering the Effectiveness and Suitability of PPP and TBLT in the Japanese Classroom’. JALT Journal33(1), 67-76.

 

Sybing, R. (2011) A Response to Criticism of TBLT in Japan’s Language Classrooms

  • PPPモデルのメリットに関しては認める。例えばある程度自由度を制限した状況を与えることで不安を軽減する可能性など。また大学入試や資格試験が重要視される日本という環境でのでは適しているかもしれない。
  • 問題は、SatoがTBLTの反対として直接PPPをおいたこと。つまりPPPとTBLTの二分法という考え方はよくない。そのような分け方は理論面実践面双方でなされていない。そしてそれはSatoのアプローチが新しいということを意味するのだが、それは必ずしも理論的であるとはいえない。
  • PPPは望ましい結果を達成するために修正が必要であると容認しながらも、TBLTは日本というEFL環境には適応されえない融通性のない教授法であると批判しているというのがSatoのロジックの誤りである。
“…his argument affords no simmilar concession to TBLT, which, he implies, forbids at all costs both the treatment of grammar strctures and comunication in the native language” (p.68).

 

  • (TBLTを日本に適用する際の問題点として語られている)L1使用の件に関しては例えばL1の使用を認めるTBLTの実践もある(Carless, 2007;Swain, 2000)。
  • どんな教授法でもその最も純粋な形で語学教室で実践的に実現可能であるという考えが甘い。
  • 実践とは、教授法に関して臨機応変であることと、状況に合わせてあらゆるアプローチを教室での使用に落とし込むということを教育者たちに要求している。
  • まずは日本における言語教育のゴールを決めるべきであって、今の状況に合っているかどうかではなく、なんのために言語教育をするのかという観点を考える必要がある。口頭によるコミュニケーションレベルを挙げるということであれば、コミュニケーション能力をあげるための教授法をどうやって適応させるかを考えなくてはいけない。

 

Urick (2011) On Methodology in Japanese Secondary English Classrooms

 

  • Satoが取り上げた第二言語習得のモデルはその分野で主流ではない。
  • 宣言的あるいは明示的知識は必ずしも言語習得の出発点ではないし、SATを提唱したAnderson自身もその考えを軟化させている。
  • 現在は暗示的学習と暗示的知識が、ほとんどのSLA理論に組み込まれてきている
  • 教育目標の問題について触れているが、どの目標が適切であるかについての明確な青写真を提示することに失敗している。
  • 文科省や中等教育教育者たちがまず英語教育界の目標と目的について広く議論をし、共通の認識を共有することが必要。その上で教授法の問題が話し合われるべきではないのか。

 

Sato, R. (2011). A Reply to Responses to “Reconsidering the Effectiveness and Suitability of PPP and TBLT in the Japanese Classoom”

主張したいのはとにかくPPP修正版推しだということ。

タスクの定義の曖昧性

Matsumura(2009);タスクのコア概念は、意味重視。言語的なものではなくコミュニケーションの結果としての産物があること。実際の世界で用いられるものに似た言語プロセス・認知プロセスを含んだ活動であること

Ellis(2003);focusedタスクは学習者によるある特定の言語表現の使用を引き出すことが目的であるが、それでも一番の焦点は意味にあるべきである。

 

このように定義が複数あるので、どの考えも1人のTBLTの著者に帰することはできない。しかしながら、明示的なform-focusedの指導や集中的なform-focusedの練習はTBLTでは必須であるとは考えられておらず、しばしば退けらていることは明らかである(Ellis, 2003;Nunan, 1989;Skehan, 1996)。

 

明示的知識の重要性

 

  •  TBLTでは軽視されている明示的知識だが、構造に関するそのような知識やイミテーション・繰り返し・パタプラ・ドリル・暗記、つまりpracticeはインプットの不足しているEFL環境では実際不可欠である。
  • ターゲット構造の原理やルールを(明示的にL1で、あるいは暗示的にL2で)の文法指導を与えることによって学習し、それに続く大量の意識的な練習なしに日本の中高生(例えばACTFLでlow levelとされるような)は、コミュニケーションのために英語を使うであろうとは思わない。

 

TBLTの限界

Miyamoto (2009);タスク型シラバスで、高校生に体系的に文法をおしえることは難しい。EFLだしモチベもあれだし。

Miyasako(2010);暗示的学習により過ぎてて日本では機能しない。

Muranoi(2006);修正版PPP(PCPP)の提案。content-orientedアプローチが日本人英語学習者のコミュニケーション能力の発達に効果的。

しかしながら、productionの段階ではオープンあるはクローズドのタスクの使用もありうる。のちに学習者が構造についての暗示的知識を使えることができるようになったあたりまでオープンな産出活動を遅らせたり繰り返したりすることもできる。

 

明示的知識と暗示的知識


  • 確かに自動化のプロセスにおいて宣言的あるいは明示的知識を経ずに手続き的知識が得られる場合もあるだろうが、これは、教師がそのような明示的・宣言的知識を育成する方法で教えることができない、すべきではないということにはならない。
  • 大量のインプットを与えることによって、教師は学習者が暗示的知識を発達させることができるような状況をつくるように努力すべき。このあたりについては詳述すべきだった。しかしながら、暗示的知識や暗示的学習が日本の中等教育レベルの学習者たちへの指導法として取り入れられうるという考えについては疑問。
  • TBLTの一番の欠点は明示的意識的学習を代償として暗示的知識を強調する点。

 

日本におけるTBLTの実践

  • 文法の正確さと同様にコミュニケーション能力も伸びたという研究はある(Fukumoto, 2010;Matsumoto, 2010;Naito, 2009;Okumura, 2009;S. Sato, 2010)。
  • しかしながらほとんどのケースで事前に目標構造が指定されており指導(明示的・暗示的)そのあとに練習が続く形だった。ほかのケースでは、TBLTは補助的な形で取り入れられていた。
  • TBLTのスタイルは少なくとも決定的な概念についてはPPPと共通している。

 

有効なTBLT

  1. 目標文法項目の指導がある(明示的・暗示的、演繹的・帰納的になされる)
  2. 形式に焦点をおいた十分な練習がある
  3. アウトプットの機会がある、あるいは補助的に修正版TBLTを用いている
しかしながら、これらが実際にTBLTと呼ばれうるのかどうかは疑問がある。それは先行研究として挙げた例でも同じ。

 

英語教育の目標

オーラルコミュニケーションのレベルをあげるために障害を乗り越えて英語教育改革するべきというのは同意。中高でこのゴールを現実化させるためには、英語教師の英語力の向上と伝統的文法訳読式からの脱却が必要。

 

結論

日本の中高生に英語の言語構造の明示的知識を教え、大量の練習と、習ったことを使う現実的なコミュニケーションの機会が大事であると再度強調したい。

コメント

 

これまずTBLTっていうもの自体がそのTBLTという枠の中で、支持している言語習得理論や仮説の違いで微妙に言ってることが違うからなかなか難しいですよね。で、この論文の出版の時期とかの関係で無理だったのかもしれませんが、ふと疑問に思ったのは先日僕が取り上げたEllis (2009)が引用されてないってところなんですね(このためにあのブログ記事を先にアップしたというのもあります)。詳しくはあちらの記事を参照していただきたいのですが、あれが2009年で、それまでにもTBLTっていろいろ批判はあるわけですけども、それに丁寧にEllis先生が反論なさってるんですよね。そこでは文法シラバスに関する話や、TBLTが上級者向けであるということに関しても記述はあるんですよね。まあ確かにEllis先生は割りとTBLTを広く捉えていらっしゃって、focused taskの活用や、明示的知識の重要性を主張していると僕は理解しているので、僕も考え方はそっちよりになっているのかもしれませんが。例えばTBLTは必ずしもoutput basedではなくて、input-basedのTBLTも可能であるということはEllis先生がおっしゃっていて、もちろん限られたリソースを用いて(例えそれがhiddenされた文法を使っていなくても)コミュニケーションを成立させることにも意味はあるし、初学者にはinput中心のTBLTもできますよっておっしゃってます。なのでそのへんの検討が必要であると思いますし、もしも日本での実践例が限られてるとしたらそのへんがこれから研究されなければならないのかなと思います。また、元論文のperspectivesの方で上級者と想定される大学生にタスクやらせてみてダメだった(現在完了を使わせたいのに使わなかった)ってことなんですけどまあタスク自体がダメだったかあるいは実施の際の手順がよくなかった(改善できた)とかそういう可能性はないのかなとかちょっと思ったり。例えばpre-task段階でのplanningとか。まあそもそも文法指導って一度やって「はい今日現在完了ねー。はい練習してーはいじゃあタスクで使わせてー。おーよくできてたー。じゃ次不定詞いこー。」とかじゃなくて、一度やったのをまた繰り返して身につけさせるわけであって、タスクの繰り返しとかも選択肢としてありますしね(どっかにそんなことが書いてあったけど忘れました汗)。それから環境面(テストや入試、学習者のモチベーション、日本人英語教師の英語使用割合の低さ)がTBLTとミスマッチであるという点に関しては、じゃあそれ変えればいいんじゃないって単純に思ってしまいました(もちろんそんな簡単に変わるかボケという批判があるのはわかったうえです)。モチベーションの部分はともかく入試とか、あるいは学校の定期テストは教師側が変えられる可能性は大いにありますよね。入試はちょっとまた違う要素が入ってくるとは思いますけど(弁別力とか)。日本人英語教師の英語使用の問題も、英語でやるようにすればいいんじゃない?って思ったり(いや英語は英語でとは言わないですけどさすがに日本語ばっかりっていうのもちょっとそれはどうかなとは思いますのでね)。

perspectivesに対する2つの反論に関しては、例えば「PPPは望ましい結果を達成するために修正が必要であると容認しながらも、TBLTは日本というEFL環境には適応されえない融通性のない教授法であると批判しているというのがSatoのロジックの誤りである。」なんかは確かにと思いました。ただ英語教育のゴールみたいな話になってくるとまたちょっと話しはずれるのかなとか思ったり。その上の方の話と現場での指導うんぬんはもちろんつながっていますし、誰にとっても他人ごとではないのですが「いやそれは俺に言われても」みたいな。いや、ていうよりどんな問題も最終的にやっぱりそこなんだよなって再再再確認くらいしたともいえますけど。あとは、「宣言的ー手続き的」のACTモデルがPPPと合ってるっていう説には、perspectives読んでるときに、「明示ー暗示」の話はなんで出てこないのかなとは少し思ってましたけどちゃんと指摘されてましたね。2つの立場があるのならなんで一つを選択してその枠組で話を進めていって、なぜもう一方ではないのかっていうのをしっかり組み立ててあるとありがたいなと。紙面の都合とかあって深く踏み込めなかったのかもしれませんけど。

そうそうそれで「明示ー暗示」の話になりますが、今ってそこまで強く明示的知識が習得に役立つという立場が否定されてるんでしょうか?TBLTとかFonFの話になると、あまりにもその暗示的指導や暗示的学習の側面が推されすぎて、もちろんそれがTBLTの肝であることには変わりないとしても、先ほども言及したように「いやいや明示的指導もTBLTの中に組み込めますよ、文法指導には必要ですよ」っていう流れになっているんではないでしょうか。これはもしかしたら僕の個人的思想が入り込んでそうやって解釈してしまっているのかもしれませんけど。

「TBLTとかPPPとかラベルはどうでもいいから目の前の生徒を見ればそこに答えはある」とかサムライの方はおっしゃりそうですけれども、実際CLT(の一つのスタイルとしてのPPP)を発展させたものがTBLTであって、共通の概念があるのは当然なんじゃないでしょうかね。最後の方に、「有効なTBLT」という提案があり、これは果たしてTBLTなのかということになってますが、形式に焦点をおいた十分な練習というところがTBLTの理念にはそぐわないのかなとは思いますね。TBLTの中心は「タスク」であってこれが一番大事なわけですけれど、TBLTに向けた批判がなされる場合ってまず指導法としてのTBLTなのか、シラバスデザインとしてのTBLTなのか、あるいは両方なのか、どっちがどうそぐわなくて、じゃあどうすればいいのかっていう順番で考えていきたいですよね。この観点で整理すると、多分今回のTBLT批判は両方の観点で日本の英語教育には合わないんじゃないんでしょうかってことになるかと思います。

最後の結論部分(2011の方)で明示的知識の指導が大事であるというのがあるんですが、これもその前に文法項目の指導は(明示ー暗示、演繹ー帰納」のいずれでもいけるっておっしゃってまして、そうなんですよね、だから明示的知識を教えるために明示的に教える必要はないわけでしてWatari (2012)でも「学習英文法は明示的指導を前提として論じられることが多いように思いますが、明示的に教えるのか暗示的におしえるのかという選択の余地があります。そしてどちらを選ぼうと、学習者の側で学習は明示的にも暗示的にも生じうることに留意すべきです」(『学習英文法を見直したい』 p. 77)という記述があります(ここを今書いてるペーパーで引用したくて英訳探してたのでした)。そして、「形式に焦点をおいた十分な練習」ということなんですが、これは形式と意味をつなげるための練習ってことですよね?DeKeyser(1998)をSato先生は引用されていらっしゃるので間違いないと思いますが、この形式の練習っていうのがAudiolingualism的なmechanical drillsと誤解されてしまう、そしてこのドリルっていうのがformsとmeaningをつなげるためとかいって実際に学習者の頭の中で起こってるのは”forms-forms”じゃないかよっていうのがDeKeyser (1998)のp.53-54あたりで言われてることですよね。なので問題はこのpracticeの段階なのかなあとは思いますね。ちなみにpoint-to-pointの方では引用文献がポスター発表だったり日本の書籍だったりして見られなくてイラッと(´・ω・`) ショボンでした。

ちなみにTBLTに関しては、僕がまとめたやつで申し訳ないんですがこちらの第38回 全国英語教育学会 愛知研究大会(第1日目) ハッシュタグまとめの最後の方に、Ortega先生の講演中の先生方のつぶやきがありますので参考までにどうぞ。

というわけでなんかいろいろ引っ張っておいて大したコメントも出来ずに申し訳ない気持ちはありつつもこのへんでおしまいにしたいと思います。

では。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。