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Can-DoっていうときCEFRっていうのやめたらみんな幸せにならないかな

原稿を書いててもやもやしていることを整理するためにブログ記事にするコーナー(今作った)。

中学校・高等学校の評価や到達目標の話をするときに,もはやCan-Doの話は避けて通れない。なんで避けて通れないのかと思った方は『今後の英語教育の改善・充実方策について 報告~グローバル化に対応した英語教育改革の五つの提言~』とか『各中・高等学校の外国語教育における『CAN-DOリスト』の形での学習到達目標設定のための手引き』とかを参照のこと。

私自身の結論はそのままタイトルにした。私個人は,学習到達目標がCan-Doの形で示されることについては概ね賛成という立場。とはいっても,この路線で「Can-Doいいよ!」の方向性で書いていて色々調べているうちに,この話はいたるところに地雷がたくさんあって,色んな方向から槍が飛んでくるなということに気づいた。そして,その理由はCan-Doに必ずCEFRがくっついてくるというのが原因なのではないかなと。で,Can-DoのときにCEFRの話しなければ(もっといえばCan-Doって言わなければ),特に批判も受けないのではないのかなという結論に至ったという。

まず,私がなぜCan-Doで目標設定することが良いと思っているのかを述べる。それぞれの理由や細かい点について詳細に書くとそれはもはや原稿をコピペするようなことになるので,詳しいことはそっちで読んで下さい…ということでご了承いただきたい。

理由の1つは評価との兼ね合い。中学校の評価は観点別学習状況評価で,

  • コミュニケーションに対する関心意欲態度(関意態)

  • 外国語表現の能力(表現)

  • 外国語理解の能力(理解)

  • 言語・文化に対する知識・理解(知識)

のいわゆる「4観点」で評価をすることになっている。文法項目をベースに配列した教科書を使って,PPP的な(PPで終わってるかもしれないけどいずれにせよ)文法項目の定着を意図した授業を行い,それに基づいて評価が行われるとすれば,関意態以外の観点の3つの観点に文法項目の「正確さ」を意図した評価がなされる可能性が高い(し実際そういうケースが多いと思う)。ある文法項目を正しく理解したり,正しく使って表現したりすることを求められ,その文法項目についてのメタ言語的な知識も求められる。3単現の記事でも書いたことだが,「正確性ってそんな大事なの」というのが私の考え。言い換えれば,正確性が完全ではないときに「表現」や「理解」の能力がゼロだとみなされたり著しく評価が下がることは本当にあるだろうかというのが疑問。もちろんそういうことも十分に有り得るケースはあるだろうが,全てがそうだと言い切れる根拠はどこにあるのだろう。言語の正確さを排除したCan-Doリストになれば,少なくともこの点に関してはクリアできる。正確さに関わるところは「知識」の観点で評価すればよい。Can-Doは正確さを評価していないということを批判的に捉える意見もあるが,むしろ「言語使用」という観点で評価するのがCan-Doなのだから,正確さが反映されないのは当然のこと。ただし,目標の言語使用場面で正確さが必要となる場合には,正確さを含んだ到達目標を立てても私は問題ないと思っている。*1 それをCan-Doと呼ぶかという話。Can-Doの定義とか成立背景(そこにCEFRが絡む)とかを引き合いに「それはCan-Doではない!!」とか言われるのだったら,「じゃあCan-Doと呼ばなくていいっす」ってことにしたらいいのじゃないのかと思うのだ。

Can-doを肯定的に捉えている2つ目の理由は(というか根本的にはここなのだが)タスク・ベースとの整合性が高いから。授業がコミュニカティブだったりタスク・ベースだったりするなら,評価も行動志向的な評価であるべき。「Can-doは単に行動志向的であるだけではない」という批判がくるなら,「じゃあCan-Doと呼ばなくていいっす」(アゲイン)となる。

Can-Doが批判される時,それはCEFRから持ってきていることを主張することが原因なことが多いように思う。CEFRはもともとヨーロッパの複言語主義が背景にあり,さらには単に教師の評価という視点だけではなく,学習者にとっても自分で自分の言語熟達度を教師と同じ基準で評価できるように作ったということがある(ざっくりいえば)。だからこそ,Can-Doで評価ということになると,それは学習者の視点が欠けているとか,CEFRが曲解されて輸入されている(「CEFR-J…だと…?」みたいなのとか)という批判にさらされることになってしまう。わざわざCEFRとか持ち出さなくても,行動志向的な評価をすること自体にメリットがあるのだから,評価(の控えめにいって少なくとも一部)は行動志向でパフォーマンスベースでいきましょうってことで丸く収まらないのかな?と考えてしまう。もちろん,それですべてが解決して,それこそがベストだなどというつもりは毛頭ない。教育に(というかこの世のあらゆる事象に)「ベストアンサー」なんてあるわけがない。今よりベターにするのはどうすればよいかという視点で考えたら,そこまで決定的に行動志向的な評価それ自体が批判されることはないように思う。もしあれば,それはとても有益な議論で是非とも私の論考にも取り入れたい視点なのでご指摘いただきたい。

というわけでサイゼリヤでビールを飲みながら書いていたらこの辺で力尽きたのでとりあえずこの記事はここでおしまい。広げた風呂敷は私の原稿で畳みます(逃げ)。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

 

*1 例えば「授業を欠席したので課題を出してもらいたくて先生にお願いして課題をもらう」というのが目標だったとき,”I don’t class yesterday. Sorry.Please homework.”といった学習者をどう評価するかという問題。

明示・暗示の測定と指導法効果研究

結論からいうと,もはや指導法効果研究やそのメタ分析系の研究で測定具が明示的知識を測っているのか,あるいは,暗示的知識を測っているのかという話はしないほうが建設的ではないかという話。

Norris and Ortega (2000)やSpada and Tomita (2010)のメタ分析は,明示的指導・暗示的指導という2種類の文法指導の効果を検証したものです。そこでは,指導の効果と知識表象の関連性について議論されています。それで,「実務的な観点」とかいうと草薙さんみたいでアレなんですが,指導の効果測定として厳密な暗示的知識の測定具を用いることにどれほど妥当性があるかという問題です。狭義のSLA研究では,「暗示的知識の習得こそが言語習得」という見方なわけで,明示的知識の介入を許さない暗示的知識の測定具の開発や妥当性検証は必須です。しかしそれは,”ultimate attainment”の研究であり,母語話者と第二言語学習者の境界線を探ったり,あるいは第二言語学習者がどこまで母語話者のような言語知識を獲得することができるのかを目的としています。Suzuki and DeKeyser (2015)やVafaee et al. (2016)などの研究にも代表されるように,Ellis (2005)の因子分析による妥当性検証から10年が経っても未だに「真の暗示的知識測定具とはなにか」の問題はSLA研究の中心的課題の1つです。私が問題としたいのは,指導の効果検証にそこまで厳密な暗示的知識の測定具は必要なのかということです。Ellis (2005)が指摘しているように,実際のパフォーマンス上では明示的知識と暗示的知識の両方をフル活用して学習者は言語を使用しているのであり,Task-based Language Teaching (TBLT)的な観点での「学習者ができること」を重要視する考え方から言っても,ピュアに暗示的知識だけを測定しそれをもって指導の効果とすることにあまり意味があるようには思えません。だからといってすべては明示的知識を授けることが大事だとかPPPだとか自動化だとか言うつもりはありません。

話が一度それますが,明示的知識と暗示的知識の関係性(interface)について,練習によって明示的知識が暗示的知識に変容することをstrong interfaceの立場とし,この立場をとる代表的な研究者としてRobert DeKeyserが引用されることがよくあります。私もそう思っていたのですが,最近のDeKeyserはもはやこの立場でもなくなっています。DeKeyser (2015)では,宣言的知識が手続き的知識に変わる(turning into)という言い方は誤解されやすく,実際は宣言的知識を保有している状態で練習を重ねることにより,手続き的知識を獲得することが可能になると述べています(DeKeyser, 2015, p.103)。また,手続き的知識を獲得する段階は”procedualization”(手続き化)と呼ばれ,この段階ではまだ自動化(automatization)はされていません。手続き的知識を獲得するにはほんの数回のcontrolledな練習を重ねるだけでよく,そこから自動化させるためにはさらなる練習が必要であるとDeKeyserは述べています(DeKeyser, 2015, p.95)。つまり,宣言的知識は手続き化されて手続き的知識になり,その手続き的知識が自動化することで無意識的で流暢な技術を身につけることが可能になるというわけです。さらに,自動化は,自動化したかしていないかの0/1ではなく,連続的なものでもあります。DeKeyserの主張するSkill Acquisition Theoryを研究の基盤とする場合には,90年代のDeKeyserを引用するのではなく,このDeKeyser (2015)を引用するべきでしょう。もう一点,注意が必要なのは,DeKeyserのいう練習とは,いわゆる「パターンプラクティス」のようなものではないという点です。DeKeyser (2015)が,Skill Acquisition Theoryを援用した実証研究の例として,タスクの繰り返しの効果を扱ったDe Jong and Perfetti (2011)を引用していることからも,自動化に必要なのはcontrolledな練習ではないことがわかります。

話を明示・暗示と指導の効果に戻します。明示的知識の干渉を受けず暗示的知識のみを測定できる測定具を用いることをつきつめると,その手法自体は実際の言語パフォーマンスからはかけ離れたものになります。自己ペース読みや,ワードモニタリングタスクなど,上述のSuzuki and DeKeyser (2015)やVafaee et al. (2016)で暗示的知識の測定具として妥当だと言われているものは,もはや私たちが言語を使用する場面としては特殊すぎるでしょう。ただし,そこまでしないと明示的知識の干渉は防げません。なぜなら,特に高熟達度の学習者ほど明示的知識が介入していてもパフォーマンス上では暗示的知識のみの言語使用と区別がつかないからです。Ultimate attainment研究はそここそが研究の対象であり,一見母語話者と相違ないパフォーマンスを見せる学習者にも母語話者との差が見られる領域についてを研究しています。だからこそ,母語話者と学習者を弁別するための道具として暗示的知識の測定具が必要なのです。一方で,多くが教室環境で行われるような指導を受けた学習者が,どれほど指導によって言語能力を向上させたかをみるには,母語話者と超高熟達度の学習者を弁別するために必要な測定具が適切だとは思えません。測っている領域がまったく違うからです。暗示的知識の測定具の精度を指導法効果研究に求めれば,ほとんどの場合「知識があるとはいえない」という結果が得られることでしょう。また,自己ペース読み(視線計測でもいいです)やワードモニタリングタスクなどは,従属変数として反応時間を用い,主に正文条件と非文条件での反応時間の差が「統計的に有意であるかどうか」によって,知識の有無をカテゴリカルに判断しようというものです。この「知識の有無を0/1で判断できる」という観点が自己ペース読みの強みであるとJiang (2004)は主張しています。したがって,カテゴリカル変数よりも連続変数のほうが適切であるような,学習者の発達自体に興味がある指導法効果研究では,明示的知識が干渉していてもライティングやナラティブなスピーキングタスクで良いのではないでしょうか。もちろん,多肢選択問題や穴埋め課題,書き換え問題などでいいとは思いません。これらの測定具も,言語使用場面としては,自己ペース読みなどとは正反対の方向に特殊すぎるからです。

結果として,指導法の効果を比較した研究で明示的知識と暗示的知識の話を持ち込んで,その結果として「それは暗示的知識測れてない」とかいう批判を受けるような議論が展開されてしまうことになるわけです。それじゃあということで指導法の効果を自己ペース読みで測ったとします。そうなると今度はもともとの指導法の効果という観点からどんどん遠くなっていってしまうわけです。私自身の結論は,もう暗示的知識とか言わずにdiscrete-point testとperformance testで効果検証しました。ってことでいいのでは?ということです。

というようなことをPPPいいよ論文からSpada and Tomita (2010)を読み返して思ったのでした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

引用文献

De Jong, N., & Perfetti, C. a. (2011). Fluency training in the ESL classroom: An experimental study of fluency development and proceduralization. Language Learning, 61, 533–568. doi:10.1111/j.1467-9922.2010.00620.x

DeKeyser, R. (2015). Skill acquisition theory. In VanPatten, B., & Williams, J. (Eds). Theories in second language acquisition: An introduction (2nd ed). New York, NY:Routledge.[Kindle Edition]

Ellis, R. (2005). Measuring implicit and explicit knowledge of a second language: A psychometric study. Studies in Second Language Acquisition, 27, 141–172. doi:10.1017/S0272263105050096

Jiang, N. (2004). Morphological insensitivity in second language processing. Applied Psycholinguistics, 25, 603–634. doi:10.1017/S0142716404001298

Norris, J. M., & Ortega, L. (2000). Effectiveness of L2 Instruction: A research synthesis and quantitative meta-analysis. Language Learning, 50, 417–528. doi:10.1111/0023-8333.00136

Spada, N., & Tomita, Y. (2010). Interactions Between Type of Instruction and Type of Language Feature: A Meta-Analysis. Language Learning, 60, 263–308. doi:10.1111/j.1467-9922.2010.00562.x

Suzuki, Y., & DeKeyser, R. (2015). Comparing Elicited Imitation and Word Monitoring as Measures of Implicit Knowledge. Language Learning, 65, 860–895. doi:10.1111/lang.12138

Vafaee, P., Suzuki, Y., & Kachisnke, I. (2016). Validating grammaticality judgment tests: Evidence from two new psycholinguistic measures. Advance Online Publication. Studies in Second Language Acquisition. 1–37. doi:10.1017/S0272263115000455

教育的な示唆はありません

全国英語教育学会(JASELE)埼玉研究大会で口頭発表をしてきました。もともとはJASELEで発表するつもりの研究ではなかったのですが,昨年度も同じような発表をしたのであまり深く考えずに発表してしまったことを少し反省しています。そこで,その反省をもとに,発表する内容と発表する場所を今一度よく考えることにしました。

私はD1で博士論文研究のテーマを変えてから,私の研究の多くが言語処理の研究になっていました。いわゆる基礎研究というやつです。第二言語学習者が英語の単語または文をどのように処理しているのかに焦点を当てた研究です。はっきり言って,こうした研究から直接的に導き出される教育的示唆はありません。論理を飛躍させて教育的な示唆を無理矢理ひねり出すよりは,「教育的な示唆はありません」という態度を取ることが,基礎研究をやる者としての誠実な態度であると思っていましたが,それも発表する場によるということは勉強になりました。「全国英語教育学会」という名前の学会なのに教育的な示唆がないならその研究をここで発表する意味は何かと言われたら「はいすみません」というしかありません(実際に明示的にそう言われたわけではないですけど)。

それでも誤解してほしくないことは,私は英語教育にまったく興味がないわけではないということです。ただし,私は教育的な示唆を視野にいれた研究と,そうではない研究に線引きをしているだけです。狭義のSLA研究や心理言語学的な研究もやりますし,Instructed SLAや教室実践系のこともやるという二足のわらじ的な考えです。教育的な示唆が考えられる研究や実践報告も割合は少ないですがこれまでにやってきていますし,博士論文以降はむしろそうした研究に軸足を移していこうとも考えています。

ちょっとは大人になったつもりだったんですが,今振り返ると質疑応答では未熟で稚拙な対応をしてしまったなと反省しています。失礼しました。

私は文法の習得や処理についての言語的な要因を検討する基礎研究は,最終的には教育的な示唆につながっていくとは思っています。つまり,言語の要因や条件ごとに難しさが異なるということが明らかになり,そうした研究が蓄積されていけば,学習者の言語使用・パフォーマンスを教師(または学習者自身)が観察する際の参考資料になりうるからです。ただし,それは今回発表したこと自体やその直接的延長線上(どこをどう延長するかで解釈は変わるかもしれませんが)にあるということではありません(博士論文では教育的な示唆まで踏み込まないつもりですから)。

ということで,全国英語教育学会で発表する際にはそういった点に気をつけたいと思います。この度は申し訳ありませんでした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

PPPいいよっていう論文

ELT Journalから,PPPいいよっていう論文が出たようです。

Anderson, J. (2016). A potted history of PPP with the help of ELT Journal. ELT Journal. Advance Online Publication. doi: 10.1093/elt/ccw055

 今年の全国英語教育学会のシンポジウムでもPPP vs TBLTが取り上げられますよね。タイミング良いというかなんというか。読んだらまたここに追記しようと思います。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

英語の勉強はやめよう

授業の時間は限られている。だからこそ,その限られた時間を有効に使いたい。それを突き詰めると,授業という場,教師と学生が1つの教室に集まるその場所でしかできないこと,その場所でしかできない学習をさせてやりたい。それが私の教師としての思い。あえて授業の時間を割く必要がない学習については授業外に各自で学習させるようにすればよい。それを予習とか復習とかいう名前で呼ぶのはきらい。家庭学習ならまだいいかもしれない。それから,勉強という言葉がきらい。「勉強させる」ということばはもっときらい。もしかすると,私が語学学習という意味での「勉強」が嫌いだからかもしれない。しかし,私は英語の勉強は好きである。それはlearning Englishではなくstudying Englishであり,to master Englishという目的ではなく,to acquire knowledge “about” Englishという目的のためにするものである。自身の研究のためでもあるし,英語を教える者として言語に関する知識は多ければ多いほど良い。純粋に知的好奇心もある。

ただ勉強だけしても英語ができるようになるわけではない。いわゆる「勉強」ってヤツをしないと英語ができるようにならないと思っている人(教師も学生も)がいるようだが,それだからダメなんだ。大学生にもなってbe動詞もできないからbe動詞を「しっかり」教えようとか,「基礎からもう一度やり直そう」とか,そんなことやってるからダメなんだ。彼らは間違いなく「教わった」はずだ(cf. 文法の明示的指導研究について思うこと)。中学だけでなく,高校でも「基礎からもう一度」とやり直すような授業をやったのかもしれない。ではなぜ,彼らは大学生にもなってbe動詞もわからず,代名詞の目的格もわからないのか。それは教えただけじゃできるようにならないしすぐ忘れるからである。こんな当たり前のことにも気づかないのか。リメディアルという名のもとにくそつまらない文法やり直し問題集を大学向けの教科書にしてる場合じゃない。

どんなに話のうまい先生がどんなにわかりやすい丁寧な説明をしたところで,そこで「わかったつもり」になってあとは忘れるだけである。普通の教師が説明しても身につかなくて当たり前。だいたい教師の説明なんてほとんど聞いてない。必死にメモを取っても忘れる。「英語は教わったように教えるな」という若林先生の名言があるが,私はもっとラディカルに,「英語は教えるな」くらい言いたい。ただこれだと語弊がある(若林先生に教えない教師など必要ない。失格だ。と言われてしまう)。教えるなとは言わない。教えてと言われた時に教えればいい。教えてと言われなければ教えなくていい。少なくとも,説明などしなくてもよい。どうしても説明したいなら紙でも配って勝手に読ませれば良い。教師が教室で話す意味はあまりない。少なくとも,何か別の活動に関連した規則についてその活動のあとに説明するなど,何かしらの活動と関連性がある場合を除いては。もし「配っても読まないし」と言うのなら,それを読まない学生は知りたくもないし教えて欲しいとも思っていないのだ。やはり教えなくてよい。どうしても,どうしても教えたいのなら「どうしたら学生が食い入るように文法説明のプリントを読む状態になるか」を考え,そのために必要な活動をやらせれば良い。それを考えずに上手くもない説明を無理矢理学生に聞かせることになど意味がない。

もうひとつ教える場面があるとすれば,それはフィードバックを出すときである。学習者の産出した言語に対してフィードバックを出すのは良い(もちろん文法項目によっては受容面に関してprocessing instruction的なことをやることにも意味はあると思う)。むしろどんどんフィードバックすればよい(どうフィードバック出すかが問題だが)。そこで教師としての力量が問われる。ただし,誤りが害悪だからフィードバックを出すのではない。学習者の誤りはそれ自体が学習者の中間言語体系を表しているからである。学習者がどのように中間言語を発達させているかを見るには誤りを観察するほかない。それがCorder(1967)の“The significance of learner’s errors”の意味である。学生が何かの目的を持って言語を使う。そして教師がフィードバックをする。そこで発生するのはstudyingではない。learningである。いつまでたっても英語ができないのは,教室で英語を勉強する/勉強させるからだ。教室以外のところでは勉強しても良い。learningのために必要なstudyingならさせても良い。ただし教室内では,英語の勉強はやめよう。そういう授業をやろう。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

モデルの提示と意味交渉

学生と英語でやりとりをしていて,正しい形をどう示せば良いのか,また,それと同時にどうやって意味のやりとりをすればよいか,悩ましく感じることがある。

学生同士の交流を目的に,相手のことを知るための質問をたくさんするというようなことをやった時のこと。

沈黙しているペアがいたので,割って入った。

例として与えていたインプットの中に、”Do you like coffee?”というのがあった。

それで,以下のようなやりとりになった(Tは私でSは学生)

T: Do you like coffee?

S: No

T: Oh, you don’t like coffee?

S: えっ,You don’t like coffee

私の意図はいわゆるcomprehension checkのようなものだった。それにもかかわらず,学生は私の発話を修正フィードバックだと受け取ったようで,おうむ返しで私の発言をそのまま繰り返した。

私の言い方がなにか誤りを暗示してしまったのかもしれないが,そんな意図はまるでなかったのでこちらがむしろ驚いた。リピートアフターミー病(いま作った)というか,教師の発話は基本的に正しい形を与える役割で,それをそのまま繰り返せば良いという訓練の成果なのだろうか。

確かに,「なんていうかわからん」と聞かれれば正しい形を与えることもしばしばある。もしかすると,教室内で教師と学生が英語で意味のやりとりをしなければ,上の例のようにモデルの提示的な発話と,単なる意味のやりとりを取り違えたりする必要はないのかもしれない。しかし,有意味なやりとりが圧倒的に足りないほとんどの学生にその機会を保障できるほとんど唯一の場所が教室内であるとすれば,できる限り英語で意味のやりとりをしたい。それが私の英語教師としての信念である。

先ほどの続きは

T: No, no. I just repeated what you said. You did not make a mistake. Okey? So, you don’t need to repeat after me.

S: あっ、なに、そういうこと?はいはい

といった感じ。

続けてちょっとしたギャグで”Do you like beer?”と同じ学生に聞いた。

T: Do you like beer?

S: えー!笑 まだ(20歳じゃないから)飲めんし。(隣のクラスメイトに対して)なんて言ったらいいの?No drink?

S2: can’tじゃない?

T: I know, haha. You can’t drink.

S: You can’t drink.

T: No, no. For me(自分を指して), YOU(学生を指差して) are you, but for you, you are I, so you say “I can’t drink”

S: あー,I can’t drink.

この場面では,「なんて言ったらいいのか」という状態の学生に対して、私は意味のやりとりを続けながらcan’tの使い方(can’t drink)を提示した。私から見れば話し相手の学生は二人称なのでYouとなり,”You can’t drink”と発話したわけだ。それを学生は「”You can’t drink”といえば良い」と勘違いしてしまい,そのままリピートアフターミーしてしまったわけだ。

私がここで、”You should say, ‘ I can’t drink'”と言っていたらよかったのかもしれない。それをそのまま繰り返せば良いからだ。しかしこれではいつまで経っても教師の言ったことをそのままなにも考えずに繰り返すことにしかならない。私の発話が単純な意味交渉の機能を持つことはいつまでも学生に伝わらないし,そうでなければ私の発話の意図や意味内容を理解しようとはしないだろう。

彼らにとって,教師の発話する英語の意味を理解して会話しよう(仮に返答が日本語であっても)という経験が圧倒的に足りないのだ。

私の昨年度までの経験では(あくまで経験)、これも慣れの要素が多分にある。英語が苦手な学習者であっても,英語で話しかけられる経験を積めば積むほど,私の発話が意味のやりとりを目的としていることを理解し(というより私の発話内容により注意を向けるようになり),リキャストのようなフィードバックを出してもおうむ返しをしたりはしなくなったと思う。例えば,過去の出来事に対するライティング課題中のやりとりで

S: センセー私この前温泉行ったんですよー(worksheetにはI go to hot springと書いてある)

T: Oh, you WENT to a hot spring? Where?

S: あーyes, yes I went to Gifu

のような感じである(確かこんなやりとりがあったと記憶している)。教師としては涙ちょちょぎれる(死語?)ような美しきアップテイクである。

ただし,先ほどの例と違うのは,この例の学生はそもそも最初から私と意味のやりとりをしようとしている点である。

どうしても机間巡視している最中は,意味交渉とモデルの提示が入り混じることになってしまうので,混乱を招きやすいのかもしれない。しかしだからといって,ブレイクダウンが発生した瞬間に日本語に切り替えるようなことはしたくない。諦めは大事だが、意味交渉とはブレイクダウンが起こった時にこそ発生するものであるし,私の試行錯誤で彼らにとってのcomprehensible inputを提供できるか否かが決まるわけなので,プロとしてその技を常に磨きたい。

さてあと残り12回しかない授業がどうなるか。毎週火曜はネムレナイ
なにをゆう  たむらゆう。

おしまい。

机のない教室

非常勤の勤務先が新しくなり、今日が初めての授業だった。学生に色々動いてもらうことが多いので、机のない椅子だけの教室を使わせてもらうことになった。机と椅子が一体型で、さらにキャスター移動できるもの。人数も20人くらいでとてもやりやすいのだが、机のない教室で授業をやった感想などを書いておこうと思う。

講義用で3・4人が一緒に座る固定式の机のだと、ペアやグループで学生を動かすのが難しいというのはよく聞く話。固定式の長机はとくに英語の授業のように、時にワイワイやる授業向きではない。小中高のように、1人に1つ机と椅子がある教室だとそれは回避できる。昨年度まではそういう教室で授業をやっていたし、特に不満はなかった。

机が椅子にくっついているものは、机のスペースが狭く、それはそれで嫌いという人も結構いるかと思う。私が授業をやった教室にあったものは通常の木版の机と比べると8割程度の机の面積といったところだろうか。そこまで書くスペースが狭くて作業しづらいということもなさそうな感じだった。

教師の視点で、1番やりやすいなと感じたのは、机間巡視のしやすさ。もちろん教室の広さと机の数の問題ではあるのだが、それぞれの学生の周りをスイスイと移動できて楽だった。3コマ目となると自分も疲れてくる。そんな時には余った椅子に座ったままで机間巡視したりもできるという素晴らしさだ。若いヤツが何言っとると言われるかもしれないが。しかし、座ったままの移動はもうひとつ良いところがある。それは、学生と常に同じ目線で話ができることだ。立っていると、少し腰を折ったり中腰になっても、座った学生と同じ目線の高さで喋るにはスクワット状態になる必要があるのできつい。そしてしゃがむと立つのがつらい。私は椎間板ヘルニア持ちで、20代前半でベッドから起き上がることすらできないほど悪化して入院した経験が2度もあるので腰も労わりたい(言い訳)。座りながらスイスイ移動する机間巡視オススメです。

また、教科書をまだ買っていない学生などがいて移動してもらう場合にも、立ったりせずに座ったまま、前に、横に、後ろに、さらにはナナメ移動なんかもできた。今回はなかったが、4人グループにする際も机の向きを変えたりせずに向かい合って座りつつ、目の前には机もある状態が作りやすい。さすが、グループ学習用というだけはある。行列をまたいだ移動も、周りが少しずれれば簡単にできる。早く終わった学生に、まだ終わっていない学生をヘルプしてもらうときなども、スイスイと移動してもらえる。

今のところ、私としてはとても授業がやりやすかったという感想しかない。学生がどう思ったかはわからないが。

私は基本的に前で話す時間を極力短くしたいし、できればサポートが必要な子の近くで気にかけつつ話したい。もちろん、全体を見るには前にいる方がいいのだが、前にいて気づいてそこに行くよりもグルグル回っていた方が気づけることが多いというのが個人的な経験則(未熟者の証し?)。

ただし、今年度は教科書付属のCDを使う必要があるので(使わなくても自分がやればいいのだが)、どうしてもその操作で前に行かなくてはならない時間ができてしまった。しかし、そういう聞き取りやディクテーションの時こそ学生を近くで見ていたいのだ。教室にある音響設備ではそれができない。そこで、中学で教えていた時に重宝していたBluetoothのスピーカー(今は部屋でたまに音楽を聴くときに使っている)を教室に持ち込もうかと思案中(運ぶのがしんどいが)。スライドをめくるのはプレゼンマウスがあればよいし、音源をiPhoneに入れればもう私は自由の身である。

ということで、もはや自分の定番になりつつある英語しか話せないフリをして1時間弱授業をやった。私自身の自己紹介をインプットタスク風にやったあと、それを真似していくつかの質問に答えながら自分の自己紹介を書いてもらうというもの。

最初は「まじかよ」「うーわ」みたいな反応があるが、最終的にはみんな一生懸命にやってくれたのでこちらも助かった。「ネタバラシ」をしたときの学生の様々な反応はどのクラスでも面白い。目をキョトンとさせたり、やられたぁ〜という表情を見せたり。

今年はインプットだけでなくいかにインタラクションできるかを目標にやっていこうと思っているし、いつも以上にゆっくり、意識的にパラフレーズをふんだんに使って話すことを心がけてやっていく予定。またどこかで実践報告できればと思います。
なにをゆう   たむらゆう。

おしまい。

「選ぶ力」とタスク

なぜ学校へ行くのか」という本を読んだ。途中までずっと積読状態になっていたのだけれど,ふと最近また本を読んでないなと思って再開した。第3章あたりから,人間の本質的な能力であり,人間らしさの根源である選択能力,選ぶ力,という話が出てくる。人間は生まれてからずっと様々な選択を繰り返していく生き物であり,選択することができるというのが人間であることであるというような事が述べられている。しかしながら,学校ではこの選ぶ力を育てることができていないのが現状ではないかというのが著者の主張である。

この主張を自分の興味関心や研究に引きつけて考えたときに,タスクのことが思い浮かんだ。別にタスクである必要はないのだけれど,新しい言語項目を教える->練習する->使う,というような手順の指導のことを考えたのだ。いわゆるPPP(Presentation-Pracice-Production)というやつ。そう,この指導過程の中には,学習者が何かを「選ぶ」という過程が全く無いではないかと考えたのだ。いや,まったくないとも言い切れないかもしれない。例えば,いわゆるfill-in-the-blank exerciseのような課題を練習セクションで行ったとすると,そのカッコに何が入るのかを「選ぶ」という作業は確かに発生するからだ。ただし,実際に言語を使う際に,あるカッコに何が入るかを「選ぶ」という作業の必要性が発生する場面があるだろうか。昨年中部地区英語教育学会にて発表した中学校教科書分のタスク性分析研究(たぶんそろそろ投稿する)のときにも散々主張したことであるのだが,「何を言うのか」を考えて,それを「どのような言語形式で表現するのか」という過程を体験することは,中学校教科書に掲載されているコミュニケーション活動を行っただけではほとんどできないと言っていい。

しかしながら,この過程を体験する事こそがまさに「選ぶ力」につながるのではないだろうか。「どのような言語形式で表現するのか」を「選ぶ」というのが,産出の際には非常に重要になってくる。そこを考える,何を選択すべきなのかに思いを巡らせることがほとんどないということの背景には様々なものがあろうだろう。著者は,テストの点数で能力を測定しそれによって序列化することを問題点として挙げ,その影響で,とにかく問題の答えを知りたがる子どもができあがっている,問題から答えに至るまでの過程をすっ飛ばして答えを暗記することを暗に助長してしまっていると述べている。

英語の授業(テスト)を考えみると,正確さの重視というものが,問題の答えだけを知りたがるという状況を作り出してしまっているのかもしれない。とにかく誤りがあれば減点されるわけなので,誤りのない表現が欲しい。なので,「なぜその言語形式なのか」はすっ飛ばしても,この表現なら間違いがないというものを持っていれば安全なのだ。

タスクを遂行することを考えてみる。タスクは文法的な正確さで評価をされず,タスクが達成されたかどうかが評価の基準となる。「正しい」か否かで評価されることがなければ,とにかく自分の伝えようとしていることが相手に伝わるかどうかという点だけに学習者は集中する事ができる。そういう状況では,自分が伝えようとしていることをどのような言語形式で表現したらいいのかを考えて選択し,まず頭に思い浮かんだ表現で伝えてみるだろう。もしその表現で伝わらなかったという場合には,ではどのような別の表現を使えば相手に伝わるのだろうかとさらに考えて選択を行う必要が生じるはずだ。

いくら練習に練習を重ねても,「何を言うべきか」と「どう伝えるべきか」という2つの選択をする機会が保障されなければ,その日に習った表現をその日に使うことはもしかするとできるようになるかもしれないが,どのような表現を使うべきかの選択が迫られるコミュニケーション(実際に起こるコミュニケーションではこれが当たり前のはず)場面では何も言えずに終わってしまうだろう。

タスクの話をすると教えることを軽視しているというような批判をよく受けるが,教えるなとは言っていない。教えてもいいから,教えたことを使うということに終始せずに,とにかく「選択する力」を養うことができる機会をもっともっと増やしませんかと言っているだけなのである。学習者が選択できるほどの言語材料を持っていなければ選択すらできないというならば,なぜ中学校教科書では学年があがるにつれてコミュニケーション活動そもののの割合すら減っていってしまうのか(先述の研究の結果明らかになったこと)。学年があがるにつれて選択できる材料は増えていくはずなのだから,学年があがるにつれて選択の機会を増やしていくべきなのではないのか。高校に行ったらその機会ももっともっと増えていくはずなのではないのか。実際に行われている指導はそのようになっているだろうか。そう考えると,選ぶほどの材料がないから,というのは批判の理由にならない。教えないとできないと勝手に思っているから批判するのであって,さらにその「できる」も「(正確に文法的な誤りを犯すことなくかつ流暢に)できる」ことを意味しているからこそ選択させる前に教えたがるのだろう。

繰り返しになるが,先に教えることそれ自体が選択する機会を奪う可能性をはらんでいる。特に(学校的な意味で)真面目な学習者ほど,教わったことを使うことが求められていると思ってしまいがちな気もするからである(ただの推測)。

何が言いたいのかよくわからなくなってしまったが,とにかく,英語の授業の中で,「どうやって言うか」という言語形式を「選ぶ」機会がどれだけあるか,ちょっと振り返ってみませんかね?ということ。実はこの記事は約2週間前に書いていたものなのだが,ここ最近anfieldroad先生(もしかして徳島以来お会いしてないかも…)がブログ記事で書いていらっしゃる「お皿」と「お肉」の喩えともリンクするところがあるように思う。anf先生は,「何を言うか」はとりあえず与えてしまってもいいから,「どうやって言うか」にあたる「お皿」選びをできるようにさせたいというお話。タスクはこの辺は結構融通がきいて,シンプルな情報交換タスク(e.g., 間違い探し)なら伝えるべき情報はそこにあるという状態だが,意思決定タスク(e.g., 無人島タスク)になれば,まず「無人島に何を持っていくか」を考える必要があるし,「なぜそれを持っていくのか」を考える必要も出てくる。さらにはタスク中にはグループのメンバーの話を聞き,「どうやって説得して自分の意見を主張するか」も考える必要がある。事前のプランニングタイムを与えるにせよ,お皿に盛り付ける料理とそれを盛るお皿(もしかしたらお椀や丼ぶりかもしれないが)を両方考える必要が出てくるというわけだ。

冒頭で紹介した本はもっともっと教育の根本的な問題についての話であり,「選ぶ力」というものが意味するところももっと幅も広いし奥も深い。しかしながら,英語の授業に限定して考えた場合,「適切に」「正確に」言語を使用するために何かを選ぶ作業は結局著者の批判するテストの答えを覚えることに等しいのではないかと思う。そうではなくて,伝えようとすることを伝えるために何かを選ぼうとし,そこで,迷い,悩む,という経験自体は,著者のいう「選ぶ力」に通じるものがあると私は思っている。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

 

JABAET2015研究大会発表資料

明日,法政大学市ヶ谷キャンパスにて開催される第21回日・英英語教育学会研究大会にて,「理解型インプットタスクを用いた授業実践」というタイトルで発表があります。非常勤先での実践内容の報告です。今年度から,自分自身の英語の使用量をできるだけ多くすることと,学生が英語を処理する機会を確保することを目的(目標?)として,産出を必要としない理解型インプットタスクを用いた授業を行っています。英語のインプットを増やすことは言語習得の大前提であり,それが圧倒的に足りないEFLの教室環境だからこそ,教室内でインプットをたくさん供給する機会を確保したいという思いがあります。また,インタラクティブなタスクは言語面や情意面でハードルが高い学生も多いので,その前にインプットタスクを用いて「英語を使用して課題を達成する」という経験を積ませてあげたいという思いもあります。

いつもマニアックなSLA系・心理言語学系の発表が多く,今回は初めての実践報告となります。タイトルと内容のミスマッチが起きていないか不安ですが,皆様からのコメントお待ちしています。

当日使用する発表資料はslideshareにアップロードしていますので御覧ください。なお,当日は印刷した資料を配布する予定はありません。ご了承ください。

英語で授業ができないのは学習者がアルファベットを書けないからか

ツイッターである記事に対する反応を見つけて,それに対していくつかつぶやいたのですが,いまいち伝えきれてないような気がして(というか自分の中で整理しきれていないような気がして)ちょっとブログに書いておきます。

もとの記事はこれです。

英検準1級以上 公立高校教員は5割余 NHKニュース

この記事に対するコメントはツイッターでもちらほらありまして,例えばツイッターで記事のリンクを検索したり,NHKニュースのアカウントがした当該記事のツイートへのメンションをみてみるとかするとまぁいろんな考えの人がいるんだなぁ(粉蜜柑

という感想です。

Anyway.

この記事に対して,

という反応を見かけました。端的にいうと,これってあまりいいロジックじゃないよなというのがこの記事の主旨です。リンク先のNHKの記事は,「英語教員で英検準1級以上を取得している割合が5割くらい」ということと,「英語で授業をしている割合が低い(都道府県でばらつきがかなりあるけど)」ということを書いています。上記のツイートをした人が批判しているのは,

  • 英検などの資格試験で比較的高いとされるレベルに達している教員の割合が半数程度であることと,英語で授業を行っている教員の割合も低いということを並べることで,教員の英語力が低いから英語で授業をやっていないのだという因果関係を暗示する形になっており,「印象操作」である

ということなのだと私は解釈しました。そこからもう少し踏み込むと,「資格試験取りに行く暇もないし英検もってないからって英語力ないとは限らない」ということなのかもしれません。これは私の憶測に過ぎませんが。ここで,「印象操作である」ということに対するカウンターエビデンス(といっていいのかな?)として持ちだしているのが,「生徒1人1人の事情がまるで反映されていない」という点であり,その具体例として,「アルファベットすら理解しないで高校に入学する生徒」の存在に言及しています。ここから読み取れるのは,英語で英語の授業をしていないのは,英語力の問題ではなく,「生徒1人1人の事情」を考慮してのことであるというロジックです。英語で授業を行う際に,このことは考慮すべき要因であるという意味ならわかります。学習者の習熟度によって,理解できる英語の語彙や文法のレベルが異なるので,異なる習熟度の学習者に合わせるのが難しいということなら,それは現実問題としてなくはないだろうなと思います(ただし,日本語を使えばこれが解決するのかというのはあります)。この,「異なる習熟度の学習者集団」の中の,「下限」あるいは「下位集団」の例として,「アルファベットすら理解しない」という具体的を提示しているのだとしたら,それは難しいだろうなぁとなります。アルファベットを教える段階にある学習者と,中学卒業レベルの英語を学習している学習者では,そもそも一斉授業を行うのが困難であることは容易に想像ができるからです。これは,英語を使うか日本語を使うかという指導に用いる言語を調整することでどうにかなるということではないので,クラスを習熟度別に分けるなりといった別次元の方法で解決されるべきでしょう。

ただし,もしも,万が一,仮に,「アルファベットすら理解しないで高校に入学する生徒に対して、どうやって英語だけの授業が成立するのか。」という文を文字通りに解釈すれば,「アルファベットすら理解しない学習者に対しては,英語だけの授業が不可能である」と読めないこともありません。もしも,この解釈が正しいとすれば,さきほどのツイートが意味するのは,

  • 英語で授業をする教員の割合が低いことや,また授業時間に対する英語使用の割合が低いことの原因は,学習者の熟達度が低いからである

ということになりはしないでしょうか。もしそうだとすると,これって本当なんでしょうか?と疑問を抱かずにはいられないのです。

この問題を考えるにあたって,まずは「アルファベットを理解しない」というのがどういった状態であるのかを確認し,その状態の学習者に何を教えるべきで,どんな指導目標をたてるべきかを考えてみたいと思います。その上で,その指導目標を達成するためにはどのような手段が考えられるのかを考えてみます。ではまず,「アルファベットを理解しない」というのはどういった状態なのでしょうか。これはおそらく,

  • 「A, B, C…Z(a, b, c…z)」で表される記号が,「エー,ビー,スィー」(カタカナでお許し下さい)という音を持っていることが理解できていない,すなわち文字と音が一致していない

という状態であると考えられます。ただし,これも「受容と産出」の両面から考えるべきです。「A, B, C…Z(a, b, c…z)」という文字入力を見て,それを「エー,ビー,スィー」と発音できることと,「エー,ビー,スィー」という音声入力を聞いて,それに対して「A, B, C…Z(a, b, c…z)」という文字記号を割り当てることは別だからです。さらに言えば,音声入力を聞いて,さらにそれを文字として書くことも別です。そういったことをすべて含んで「アルファベットを理解しない」という学習者がいるとここでは仮定しましょう。そして,そういった状態の学習者であれば,まずはアルファベットがわからなければ,と考えたとします(注1)。つまり,

  1. 音声入力を聞いて文字記号を割り当てることができること
  2. 文字入力を見て発音できること
  3. 音声入力を聞いて割り当てられた文字記号を書くことができること

という3つを目標とした指導を考えることにします。では,次にこの3つを学習者ができるようになるためにはどのような指導をすればよいのかを考えてみましょう。せっかく3つに分けたのですから,それぞれの目標を達成するためのアプローチを考えます。ここでカギとなるのが,先ほど触れた「受容と産出」という観点です。普通,言語習得のプロセスは受容→産出という順序をたどります。もちろんこれは本来,「形式で表される意味を理解すること」というのが受容です。つまり,まずは理解が先でしょうということ。これが言語を習得するにはとにかく大量に必要であるというのが,「インプットが大事!」という言説(input仮説とかいわれるもの)の根本原理です(注2)。ここでは指導するのがアルファベットですので,アルファベット自体が何か意味内容を表すということはありません。したがって,ここでの「受容」とは,1番の「音声入力を聞いて文字記号を割り当てることができること」となります(注3)。まずはここからいってみましょう。パッと思いつくのは,AからZまでの文字を提示しながら発音してモデルを示すのを繰り返すというもの。別にここでリピートさせたりしてもいいんですが,例えばリピートさせるとすると,それは上記2番の「文字入力を見て発音できること」につながる練習だと言えます。カルタ取りみたいな感じで,教師が発音したアルファベットのカードをグループで取り合うような活動も,「音声入力を聞いて文字記号を割り当てることができる」からこそ可能なゲームです。これの準備段階で,机の上にランダムに置いたアルファベットのカードを教師が発話したアルファベットの順に取って並べるというような活動も考えられますね(注4)。

次に,「文字入力を見て発音できること」を考えましょう。これは,アルファベットを見て,それを発音することですよね。つまり,文字に対応する音は聞けばわかるという状態にあってこそできることといえます。つまり1番ができることが前提になりそうです。1番の活動を通して,何度も音声入力を聞いていますので,文字を見て発音することの難易度は下がっていることが予想されます。ここでモデルを示して,練習したりすることがすぐに思いつきます。その後,教師がランダムに提示するアルファベットを発音させる,あるいは,ペアでランダムに10枚ずつアルファベットを選んで,1枚交互に提示し,お互いに発音できる枚数を競い合う,というような活動も考えられます。

最後は,「音声入力を聞いて割り当てられた文字記号を書くことができること」ですね。これは,聞いた英語を書くことなので,要するにdictationのような活動がアルファベット単位でできるかということになります。これも教師が読み上げたアルファベットを書き取らせたり,それをペアでやらせてみたりという活動が考えられます。ここまでやってきたことをつなげれば,文字を音にし,音を文字にする,という流れになりますので,flip writingのように表に書いてあるアルファベットを,裏面に声にだしながら書き写すという活動は文字→音→文字という結びつきを作るのに良い練習になるかもしれません。

さて,ここまで,「アルファベットを理解しない」というのはどのような状態なのかを定義し,そうした状態にある学習者が,「アルファベットを理解しない」という状態ではなくなるような指導,つまり,「アルファベットを理解する」状態になるような指導を,「受容と産出」の観点からいくつか考えてみました。ここで,最初の疑問点に戻ってみましょう。要するに,私が言いたいのは,ここまで考えてきた活動って,絶対に英語ではできないのでしょうか?ということです。日本語でなければできないのでしょうか?ともいえます。上記で私の考えたような活動は,外国語活動や,中学1年の入門期の指導として実践していらっしゃる先生も多いのではないでしょうか。そして,英語でこれらの活動をやっている先生もいらっしゃるように思います。

というと,「こんな小学生や中1がやるような活動を高校生がやるわけないだろう」と反論される方もいらっしゃるのかもしれません。確かにそのとおりだと思います。本当にそのとおりだと思います。ただし,そうすると,その問題点というのは,「アルファベットすら理解しない学習者に対しては,英語だけの授業が不可能である」のではなく,「指導する内容またはその方法と学習者の認知レベルの間にギャップが有ること」ですよね。つまり,学習者の習熟度が低い場合には英語で授業することが不可能であるというわけではありませんよね?ということなんです。学習者の習熟度が低くとも,それに合わせた「英語で行う英語の授業」が考えられないかというとそういうことではないと。アルファベットを教えるのだって英語でできないことはないように私は思います。少なくとも,「アルファベットを理解しない」学習者の存在が,英語で授業を行えないことの理由になる,あるいはそういった学習者の存在を理由にするというのは筋が悪いでしょうas discussed above.

問題はもっと別のところにあるというのなら異論はありません。そもそも英語で授業を行うことを考えるほうが,色々なスキャフォールディングを用意しなくてはいけないという点では準備に時間がかかると思います。よって,そのような時間がない,授業準備の時間もとれない,というような状況にある先生方にとっては,英語での授業は難しいというのは十分に理解できます。誤解していただきたくないのは,「英語で授業をできるのに英語で授業をしないなんて怠慢だ!英語でどうやって授業やるか考えろ!」と言っているのでないということです。また,「英語で授業ができない教員なんて!もっと英語で授業やれ!」と言っているわけでもありません。ただ単に,「英語で授業を行えない」ことの理由として,「学習者の習熟度の低さ」,具体的には「アルファベットを理解しないこと」を持ち出すのはあまりいいロジックじゃないですよということです。学習者の習熟度が問題で英語で授業を行えないということは,習熟度の高い学習者に対しては英語で授業をできるということも同時に意味しますしね。そうすると,「では,英語のできる学習者の多い進学校なら英語で授業ができますか?」とか,「アルファベットが理解できる学習者相手であれば英語で授業ができますか?」と聞きたくなってしまいます。きっと,受験なり同僚問題なり学習者からの要望なり,また別の,英語で授業ができない理由を列挙されるのでしょう。そうなんです。「学習者の習熟度が低いこと」は関係がありません。最初から,もっと別の,環境とか構造の要因を理由として挙げるのなら,納得せざるを得ないこともあります。しかしながら,アルファベットができない学習者であるから英語で授業は無理だと読めるような発言には納得できなかったのです。もしそうでないのだとしたら私の誤読ですので申し訳ありません。

私は,指導言語を始めとする指導法や教授法をトップダウンで決めることに賛成はしません。それこそ様々な要因の複雑な交互作用の中で指導法は選択されるべきですし,画一的にこれで全部万々歳ということはないでしょう。そんなに簡単じゃない。ただし,特に日本語でやる積極的な理由がないときは英語でやりませんか,ということは言いたいです。全部英語でなんてことではなく,状況に応じて日本語と英語をうまく切り替える必要はあるでしょうし,内容によっては日本語メインでいい時もあるはずです。そんななかでも,「少しでも受容と産出の両方を通じて学習者が英語を使う」機会を増やす工夫をしませんか?と。もっとも,私のような若輩者がこんなこと言っても誰にも聞いてもらえませんので,どうか偉い先生方にはこういうことを言い続けていただきたいなぁと思っております(チラッチラッ

というわけで,長文駄文失礼しました。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

注1: 別にこれができなくても,「キャット」という音が「猫」という意味に結びついているというように,音とそれが表す意味が一致している状態であれば英語の授業はできると思います。例えば小学校外国語活動ではアルファベットが書けない状態でも授業やっていますよね。アルファベットが理解できることは非常に重要ですが,言語習得とは究極的には「形式と意味のマッピング(form-meaning mapping)」であることも,授業を考える上では重要だと思います。

注2: インプットを与えるだけじゃダメだ!インテイクなんだ!というのがその後言われるようになりましたが,なにがインテイクなのかというのを操作的に定義するのは実は結構難しく,インテイクという言葉はあまり評判がよくありません。

注3: 実は,「文字と文字を一致させること」も受容的な処理だといえます。例えば,アルファベットの神経衰弱ゲームなどを考えます。「AとA」のように同じアルファベットを引いたらそのカードをとれるというように。これは,音と文字を一致させるよりも難易度が低いでしょう。もう少し難易度をあげるなら,「Aとa」のように大文字と小文字が一致するような神経衰弱ゲームです。

注4: これを発展させて,並べてできるのが単語になっていてそれを正しく発音できたら(あるいは意味がわかったら)1ポイントというようなゲームも可能かもしれません。例えば,c, a, rという順番でアルファベットを教師が読み上げ,それを並べてできるcarという単語が「カー」と発音できたり,「車」という意味だとわかったりすることができるか,というように。順番通りではなくランダムなものを並び替えればよいというゲームにする(例: a, t, cをcatにする)ようにすれば,難易度があがりそうです。