カテゴリー別アーカイブ: 英語教育

先週一週間を振り返ろう

※前半はただの日記です

8/6 LET前日の飲み会 (当たり前ですが)初めてお会いする方がほとんどでしたがとても楽しかったです

8/7 配属先の中学校へ。引き続きとか。その後遅刻してLETのワークショップへ。Excelの関数とかの最初の話ちゃんと聞きたかったなと後悔。効果量についての話は、この話を聞いていたのでJASELEのワークショップの話もすんなり入ってきました。

8/8 7:25羽田発の飛行機で函館へ。前日午前0時を回ってから帰宅し初電の4:59の電車に乗るというタスクを遂行。朝市→赤レンガ倉庫→五稜郭タワー→函館山と1日観光。美味しいものもたくさん食べました。

夜に行った居酒屋さんは根ぼっけを売りにしているこちらのお店↓

http://tabelog.com/hokkaido/A0105/A010501/1004944/

ほっけの刺し身がどうしても食べたいと思っていたので満足でした。値段設定はやや高めだと思いますがコスパはいいと思います。

8/9 函館は大雨。もちろん傘なんて持っていない僕はホテルから目の前の函館駅まで土砂降りの雨に打たれながら走りました。大雨の影響で電車は運休で人が溢れかえっていました。幸い僕は高速バスを予約していたのでセーフ。5時間ほどバスに揺られて札幌入り。

札幌は美人が多い!しかも想像以上に都会!こんなに栄えてるんだなあと。モントリオール、ボストンについで僕の住みたい街ランキングの3位に入りました。しかし3日間いても縦と横がこんがらがって自分がどっちに向かって歩いているのかよくわかりませんでした。前夜祭では集金係ということで社会人基礎力が試されたわけですが2次会は僕も酔ってたのでこうなんかはいすいませんでしたやっぱり早いうちに集めるのが吉なんだなと思いました。

そんなわけで2日間の学会(http://www.heles-web.com/jasele_hokkaido/)が始まったわけなんですが、主に特別講演とシンポジウムを聞いて思ったことを(ここからが本番という意味でのBold)。

白井先生のお話を生で聞くのは初めてのことでしたが、まあ一応言語習得の勉強はしてきたつもりなので内容に特に目新しいことがあるわけではなく、さらに白井先生も「俺はこれが正しいと思っている」というような自分の信念を前面に出すような語りではなかったのが印象的でした(そういう意味ですごいうまいなと思いました)。あくまでも、言語習得研究でわかっていること、まだわかっていないことをしっかりと提示しつつ、これからどうしていくべきなのかというのをわかりやすくまとめられていました。

特別講演での白井先生の話は下記ブログ記事にまとめられているので(ほんとよくこんなことできるなと思いますw)そちらをどうぞ。

外国語学習の科学~SLAの知見をいかに英語教育に活かすか(ピッツバーグ大学・白井恭弘先生特別講演)@全国英語教育学会 – ◯◯な英語教員に、おれはなる!!!! http://bit.ly/15Gvsm1

僕は別に今は教員をやっているわけでもなく、かといって研究者(の卵)としてゴリゴリ研究やってるわけでもないというなんとも宙ぶらりんな立場でこの学会に参加したわけですが、それでもこれから公立の中学校で臨採やることになっているので、そのことを考えながら聞いていたんです。インプットの大事さっていうのはそうなんですよね、でも基本的に中学校って、毎レッスンごとに新しい語彙、新しい文法があって、それを導入して、本文の音読なりやって、まあそのあとにアクティビティ的なものがあるわけなんです。だから、「わかる英語を大量に」っていうのが普段の授業ではなかなか難しい。リスニングとかも、結局選択問題を解くためのリスニングになりがちで(もちろん理解の補助のためにそういう問題があるわけなんですが)、その先がない場合が多いんじゃないかと。

で、実際の教室で、30とか40人の生徒がいる中でSLA研究の知見からわかる正しいことをやればいいんだっていうのもちょっと強引なところはあるわけで、それを「こんな素晴らしい実践やってる先生だっています(だからできる)」とかって成功例だけ見せれられても、「はいはいその先生だから(できることでしょ)」とか「その学校だから(できるだけでしょ)」ってなっちゃうんですよ(たぶん)。「困難校でも素晴らしい実践」とかも、指導法とか技術云々の前によくわかんないけど「その先生がフツーにすごい」みたいなとこあるんじゃないかと思うんです。でそういう「その先生のなにが良い実践を生み出しているのか」がしっかり質的に記述されていくことはすごく大事だと思うんですが、それよりもむしろ「うまくいきませんでした」という事例研究のほうが大事なんじゃないかなと思ったりします。どう考えても成功事例の方が少ないわけですから(もし成功事例が多かったら今こんなことになってないはず)、成功事例の分析って成功した先生とその周りの研究者くらいにしかできないんですよ。例えば書籍やDVDなんかでその成功例がシェアされたとしても、そんなことはずっとずっと前からいろんな先生がやってるはずなのに、それを読んだ先生が自分の実践でもうまくいきました万々歳だったらもっと成功例増えているわけじゃないですかでも現実はそうなってない。本に書いてあるようにやってみたけどできないとかそもそも本に書いてあることをどうやっても自分の現場ではできそうもないってなってるわけじゃないですか。そこで、「なんでできなかったのか」のシェアですよ。「なにがうまくいかなかったのか」は全国の教員がだれでもできる。だから、なんかいろんな勉強会とかもカリスマ教師とか良い実践をやっている先生とかが呼ばれて「私はこうやってうまくやってます」とか言うのじゃなくて、自分の失敗をしっかり考察して、それを持ち寄る会とかにしたほうが有意義なんじゃないのかとか思うんですよ。で、そういうのを引き取って原因を分析したり分類したりする研究者がいて、それをフィードバックして、っていうことができれば。そのためには、例えば授業動画の公開という話がシンポジウムでありましたがそれも1つの方法だと思います。ただ現実問題、広く授業動画をシェアしようとなると生徒の顔が写っていたらダメだという問題があります。そう考えると、だれでもウェブで授業動画を公開できるということでもなく、やはり既存のプラットフォーム以外の形が必要になってくるような気もします。また、ただただ授業動画アップするだけじゃなくて、やっぱりある程度までは自分での考察が必要だと思うんですよ。前の記事にも書きましたが、切り取られた1つの授業だけを見て言えることなんてほとんどないに等しい。そこに考察があれば、見る方もポイントを絞って見れるしアドバイスもできるかもしれない。そういったプラットフォームができたらすごくいいな(誰かはよ

これから自分が本当に授業して、あろうことかこんな経験ゼロの若輩者があろうことが本採用の先生と同じ額の給料までいただいてしまうわけですから、そこをよく考えて自分の仕事を全うしたいと思います。このブログもできる限り授業でやったことうまくいかなかったことを書いていけるといいなと思います。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

P.S. 自分の発表は知り合いの方を含め10人くらいの方に来ていただいてありがとうございました。久しぶりに英語を喋ったのですっごいダメでしたし(発音でaccuracyとfluencyをごまかす芸風です)、発表の内容的にもさしてツッコミがなかったのであまり伝わってなかったんだなということとそれだけ面白くなかったんだなと思いましたすいませんでももし博士にすすむことになったら発表の内容のような問題意識で研究がやっていければなとは思っております。資料はこちらにあります。

JASELE2013で発表します。

発表スライドと予稿集の訂正版PDFそれから修論のPDFもdropboxのリンクで置いておきますのでどうぞ。

予稿集PDF

https://www.dropbox.com/s/eed0skfi2bgsnqm/YuTamuraJASELE2013.pdf

PPT

https://drive.google.com/file/d/0BzA9X1kZX185M1R0cVVrZ3VvYzQ/view?usp=sharing

ぐるぐるは誰のためにやるのか

さきほど投稿した記事の最後の方にも書いたんですがぐるぐるの話。

今回、ぐるぐるを含めた発音指導を授業の半分くらいの割合でやったんですね。一日中勉強させるので、長文読解とか文法とかやらせて解説してっていうのをひたすらやるのはつらいだろうと思いましたし、居眠りするような生徒も出てもおかしくない雰囲気でしたので。それに短期間で達成感を得て合宿を終えてもらうとなると、発音ていいターゲットじゃないかと思ったというのもあります。全6回の授業で、長文が劇的にスラスラ読めるようになったり文法問題の正解率がぐんとあがるようなことってなかなか難しいと思いますが、発音は意識改革と集中的な訓練で割りと効果が出るような気がするんです(もちろん継続的な指導がないとそのうち効果が消えていくでしょうけど)。

それで、ぐるぐるをやってみて、いつも家元のブログで見ているような、OKを出した時に「よっしゃー!」と言って飛び上がって喜んだり、ずっとつっかかっていた箇所を今度こそとチャレンジしてまた失敗した時に「ああああああああ!」と言って床に倒れこんで悔しがるような場面を目にして、ああこれがぐるぐるの効果なのかなあと思う場面が何度もあったんですね。

でちょっと考えてみたんですけど、あのぐるぐるっていうのはその活動の本質である「圧倒的否定の連続からの承認」というものがすべてを決めているのであって、誰がやってもぐるぐるやれば上述のような「イキイキしている」あるいは「輝いている」みたいな状況って作り出せると思うんですね。発音指導をあまりされたことがなければ、最初からマルがもらえるわけはなく、最初はバツがずっと続くわけです。ひたすらに否定され続けるわけですね。そのあと否定され続けて、頑張ってできたときに承認されたらそれは嬉しい訳です。でもそれってぐるぐるというシステムが作り出してるんであって、教員の力ではないと思うんですね。でも実際にぐるぐるやっていると、自分が生徒を輝かせているような感覚になるんです。だから結構危ないなあとやりながら自分で思っていました。

それと、発音指導やっているとちょっと気持ちよくなるような感覚もあって。それっていうのも教員自身がその指導中の絶対的な知になれるんですね。教員以外に正解をもっていない。という支配感といいますか。で生徒はそれに従順に従っていくような構図になるわけです。それって、たまに批判的に言及される「知識をひけらかすために自慢げに文法問題の説明をする教員」と重なる部分があるようにも思ったんです。どちらの場合でも「教員が絶対」「教員だけしか正解を持っていない」という状況が教員を気分よくさせるんじゃないかなあって。

そうやって考えた時に、ぐるぐるってやってる教員のセルフエスティーム補給てきな面もあるんじゃないかと思ったんです。もちろんぐるぐるやるためには自分がモデルを示せるくらいの発音ができることや、生徒の間違いに瞬時にフィードバックが出せて、どうすればできるようになるのかアドバイスをするというスキルも必要になってくるわけですが、それさえあれば比較的簡単に「俺が教えてやってる」感に浸れて、「俺が生徒の目を輝かせている」感にも浸れるんですよね。

そう考えると、生徒の発音をよくしてやりたいという思いの裏には、そういう教員の教員としての威厳を保ちたいとか指導している感を得たいみたいな感情が無意識に入り込んでいるように思ったんです(誰が考えた指導法かを考えるとまあ納得がいくんですけどね)。もちろんこれは僕が実際にやってみてそうなんじゃないかなと思っただけですので実際にぐるぐるを指導に取り入れている先生批判というわけではないです。僕だって合宿中ずっとやってたわけですから(家元門下生の先生に授業見ていただいたときにもやってて脇汗やばかった)。

逆に考えるとこれやらせると教育実習生とか新米教師みたいな経験のあまりない人は自信をつけられるという側面もあると言えるわけなのですが。兎にも角にも、このぐるぐるというやつはもし使うのだとしたら慎重に使っていかなければいけないなと思ったのでした。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

THの発音は舌を出せよ!の動画。

Gleeの動画は発音の指導で、口の動きを確認するのに結構いい教材だなとは思ってたのですが、今回の合宿で見せた動画。

この動画の0:30あたり。これ単発なんですが、ここまでおもいっきり舌を出してるのってなかなかなくて、「これくらい大げさに!」っていうとちょうどいいくらい。

Full Performance of “Locked Out of Heaven” from “Sadie Hawkins”

あとはこれはサビでthisを連発するので有声のthの発音に。

Full Performance of “Girl on Fire” from “Diva” | GLEE

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

勉強合宿ぼやき日記

1日目
  • せっかく合宿に来てるのに自習ってのもなんだかなと思うんだよな教員がいるからこそできることあるいはいないとできないことを徹底的にやらないとあまり意味ないんじゃなかろうか。
  • 「質問に徹底的に答えます」とか学習者中心とかなんか聞こえはいいんだけどただ放置してるようにしか見えないこともなかったり。
  • スピーキングでもライティングでもどんどんやらせてフィードバックするとかっていうのは教員がいないとできないことだし普段の大人数授業でもできないこと。そういうとこを合宿という短期間で徹底的にやるとかってしたほうが有意義な気がする。
  • 極論だけど、ワークとか問題集なんてのをわざわざ合宿に来てまでやらせる必要があるのだろうか?(夏休みの宿題やってることをよく思っていないらしいのだけれどきっと他になにやったらいいかわからないんじゃないかなあ)そこに教員からのフィードバックがあればいいのだけれど、「わからなかったらわかるまで徹底的に質問しましょう」とか言ったところで普段の授業を持ってない生徒はなかなか質問なんかしない。ある程度のラポール形成ができてないと。
  • そういった意味でも、とにかく短期間勝負(僕からしたらこの4日間を終えたらこの子達とはもう二度と会わない可能性のほうが高い)なので、できるかぎり信頼関係を築いて、英語学習のサポートができるようになりたい(これは個人的な思い)
  • それから、自習の時間はどうしても静かに学習することが求められるのだが、特に英語学習においてはスピーキングの練習は静かなところでは難しい。なので、授業の時間中はできる限りそのための時間に最大限使いたいし、はっきり言って長文読解の解説なんか読んでおしまいでもいいと思っている。
  • 解説を聞けば長文がすらすら読めるということはあまりないと思う。もちろん読みのストラテジーに関しての多少の指導はあってもいいがそれは最小限であるべきでその時間で別のテキストを読ませた方がいい。もちろんそれが「雑な読み」を助長してはいけないし、テキストの中身を軽視してもいけない。ただ、市販の教材の読解問題や教科書の長文で、そこまで「読んでおきたいほどありがたい話」はないと思う。
  • 受験勉強という名の下に行われるのはこんなにひどいのか。これじゃあ何十時間やったなんて自信をつけたところで英語の伸びは大して期待できない。そんな達成感よりも、もっとこう英語力の伸びを通じて達成感を味合わせてあげたい。
  • 生徒の消灯後に、打ち合わせだからと思って部屋でたら廊下の向こうから「なにやってんだ」「えっ打ち合わせじゃ…」「あん?」「いや打ち合わせ…」「あっ…終わっちゃいました」「ああ…」「すいません…生徒だと思ってました…」
  • まだ高校生いける…!
  • お風呂行こうと廊下歩いてたら、「おいもう部屋入っとけよ」「えっ」「あっ」
  • 僕は全然認知されてないようです
2日目
  • 昨日の夕食時は、生徒がぞろぞろと食堂に集まる時間に行ってしまい、最後に入ったらご飯やお味噌汁の用意などがもう終わっていてしまったと思った。
  • 一番若いやつがこういうのはやるもんだろう(ザ・部活で培った精神
  • というわけで、2日目の朝食は15分前に食堂に。
  • 1番乗り!せっせとお茶を入れたりご飯をよそったり。
  • 生徒も何人かいると思ったけど、部活じゃないし先輩後輩とかもない席割りだからか7:00近くにぞろぞろと集まってくる感じ
  • 全然眠れなくて今日1日もつか心配…
  • 1時間目にハッスルしてぐるぐるを頑張ったせいか、腰が痛くて授業後は部屋で横になって休んだ。
  • 臨時採用の希望調書を出していたさいたま市の教育委員会から電話が!
  • というわけで29日午前中に面接に行くことになりました。
  • お昼ごはんはすき焼き!と思ったらそれをご飯の上にかけて牛丼でした…
  • 午後も発音をやったのだけれど、やっぱり問題の解説をしているときよりはぐるぐるやってたりする時の方がみんな生き生きしているような気がする。
  • それと、今日初めて日本で高校生相手にぐるぐるをやってみて、どうしてぐるぐるにハマるのかなと考えたのだけれどそれはぐるぐるやってるときって教師が絶対知になれるからなのかなあと思った。
  • 文法の解説を得意げになってる教員disとして、あれは自分の知識を披露しているだけとか言われるけれど、ぐるぐるやってるときも、「私が絶対である!」という勢いで(まあそれがないとぐるぐるは成り立たないのだけれど)、上に立ってる感に浸ってるから気持ちいいのかもなあとか思ったり
  • ※あくまで個人の感想です
  • それでも厳しくやっていて「OK」を出したときに飛び上がって喜んだり、逆にずっと同じ箇所でつっかえてて「今度こそ!」とチャレンジしたときにまたそこで間違えて「あああああ!」と床に倒れこんで悔しがる様子とかを見ていると、そういうのも教員のぐるぐるモチベ←newを高める要素なんだろうなと思ったり
  • ※あくまd(ry
  • 授業中ずっと立ってるだけで腰が結構辛くなるので本当に教員の仕事をまっとうできるのか。健康面でかなり不安ががが
  • 午後の授業はサポーター装着してやりました
  • というか宿の夕食に鍋が必ずあって、おかずもサラダも大皿のを取り分ける形式なのでかなり高いコミュ力が必要とされます。
  • そういうのつらいです
  • あと「若者=食うべし」みたいなのとか
  • おかずたくさんあるし最近は家でもおかずおおめでご飯は1杯しか食べないようにしているのに
  • 「僕炭水化物あまり取らないようにしているんで」と意識の高さをアピールしたら、「ご飯食べないかわりに」とおかずをどんどんと…
  • 自分て早食いなのかなんなのかいつも家でも先にご飯食べ終わるしこの合宿中も15分とかでご飯食べ終わってぼーっとしてる。
  • 先生たちとの会話はあまり盛り上がりません
  • 英語科の先生はまだしも数学科の先生とはとくに…
  • 一人部屋っていうのがせめてもの救いです
  • でもだらけちゃうので明日からは空き時間はロビーで作業しようかしらって今日はサッカーだったことを今思い出したー!!!!
  • 21:41
  • orz
  • どうやら3-2だったみたいでめっちゃいい試合やんか…
  • 部屋のテレビの地デジの電波悪すぎて映像乱れまくるは途切れるわでもう…
  • ハセキョー髪短い!!!
  • アメトーークが福本伸行先生芸人だったのでついつい見てしまった。
  • そのあと添削をして解説のメモを書いたりしていたら遅くなってしまい、結局1時半くらいにお風呂に行った。
  • 3時頃就寝
3日目
  • 朝ごはんがパン食だった。
  • おなかいたくなりそうになり一瞬焦ったけど大丈夫だった。
  • 授業はぐるぐるやって解説やって問題解かせて歌練習というパターン。
  • クリアできてない人は特訓するから午後の授業の30分前に集合と声をかけた。
  • 授業後に今お願いしますとくる生徒がたくさん
  • roomとかthrough theとか。
  • お昼はカレー。定番!
  • 昼食後は少し休んでから教室に。
  • 進度が遅い生徒の特訓。
  • roomなんかはウームといわせて口の形をつくってから、ウームといいながら舌を奥で丸めるように指示。舌がやっぱり前に出てるのでそれがどうしたらうまく引っ込めさせることができるのか
  • あとは声の出し方の練習として、ちょっと腹式呼吸の練習。女子生徒なんかとくに声が聞こえなくて近寄ると「近い」と言われるのでじゃあもうすこし大きい声出してねという感じで。
  • そのあとぐるぐるをやってたら、授業開始時間になってて気づいたら全員がぐるぐるの輪に入ってた。
  • いったんぐるぐるを切り上げて、文法の解説。
  • 見られていて緊張して脇汗ものっそいかいてました。
  • 解説のあとは、また少し発声練習をして、歌を使ってペアで日本語→英語の練習
  • メロディ聞きたいから曲流してくださいと言われて流したらみんな歌い出したのでそのままなだれ込んでコーラル。
  • ザとか聞こえたらすぐとめて指導
  • そのあとグループごとに歌わせて止めてみたいなことをやって、ふたたびぐるぐる
  • 結構合格基準は甘くしているような気がするけどなかなか。パスする子がたくさんいて、「できなくてもいいや感」出ちゃってるのかなあとか。
  • ぐるぐるでひと盛り上がりしたあとは、長文と文法やらせて答え合わせさせて終了
  • 回収したプリントを見ていると、解答解説をちゃんとメモしているような生徒もいたし、「ここがわからない」「ここがいまいち」なんていうことを書いている子もいて、そういうメッセージはちゃんと見逃さずに簡単に書けることはそこにコメントを書いて、全体で共有した方が良さそうなことは「解説します」とだけ書いておいて次に解説で取り上げるようにしている。
  • これも人数が15人以下だからできることで40人じゃあできない…
  • 午後の授業が終わったあとには頑張ろうとしたけど猛烈な眠気に襲われて、部屋で少し仮眠。
  • よるご飯はなんかまた盛りだくさんでした。
  • ぐるぐるは、教員のセルフエスティーム補給に最適なんじゃないだろうか。
  • ぐるぐるによる生徒の「イキイキしてる」とかそれこそ「輝いている」みたいなのはぐるぐるのシステムが生み出してるんであって、誰でもやればああなる気がする。
  • それを、教員自身の力で「輝かせている」ように感じられるので、それによって自信がつくような気もするけれど、それは「俺スゲー状態」に陥ってしまう可能性があるという意味で危険。
  • 誰が考案した指導法かを考えてみるとまあ納得はいくのだけれど。
  • オプションの一つとして持っていたいけど、まあ今回は少人数だったから僕でも回せた感はある。35人とか40人で回せるかどうかは微妙。
  • クラスを半分に分けて、半分になにかさせている間にもう半分はぐるぐるでみたいなのを一人で管理できればそれがいいかな。
  • 最終日は省略。

そんな感じでした。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

僕が言いたかったこと

どうもみなさんこんばんは。

どうやら僕がRSSとばして見てるブログにコメントつけてTwitterに流したらそっからちょっと盛り上がって、そのことで件のブログの方がdisられたから反論する。という以下のような記事をお書きになっていました。

ツイッターでディスられていたので反論

一応僕が火付け役でこういうことになってしまったので反論への反論ということで書いておきたいと思います。僕が最初にTwitterにながしたブログ記事はこちら。

音読・暗唱至上主義はやめよう

とりあえず僕のツイートだけ直接引用しときますが、それ以外のつぶやきはまとめを作ったのでそちらを御覧ください。以下僕がこれから述べることは僕自身の見解であり、ワタリ先生やウラノ先生にはそれぞれこの反論記事に対して仰りたいことがある(あるいは逆に何も言うつもりはない)ということがあると思いますので、そこはご了承いただきたいと思います。

僕が最初のツイートで言いたかったのは、音読や暗唱の至上主義(音読できることや暗唱できることを最終のゴールとすること)はともかく、低熟達度話者や初学者はどうしても機械的な練習や、closedなoutput活動の割合が多くなってしまうのはやむをえないし、その割合が熟達度があがるごとに減っていけばいいしそうあるべきだという程度の意味です。

2つ目に関しては、「よくわからない日本語(おそらくジャーゴン)」ということで、たぶん「ジャスティス大会」というのが意味わからなかったところであろうと思いますのでその補足をさせてください。

僕が言ったのは科学的であることを厳密に追求しすぎるといえることって結構限られていて(推測統計を用いて結果を一般化するデザインであってもその母集団というのが英語学習者全体になることはほぼないわけで)、そんでそういう科学的な側面に慎重になった上で英語教育に何か言おうとすると何も言ってないに等しいような抽象的なレベルの話になってしまいがちであるということ。そこからもう少し下に降りていったときには研究者の中でも微妙にスタンスが違ったり支持するモデルが違ったりして、「科学的知見」の中であってもコンセンサスってないんじゃないのかな。それぞれが自分の正しさを主張しあっている段階なのではないのかな。それほどにまだまだわかってないことってたくさんあるんじゃないのかなという意味です。

それで、まあそのあとの、なんでNationなのよとか科学的ってなによあたりの話に関しては、少し稚拙だったと思っています。

すいません

こちらの勘違いでしたね。

あと僕は「理論を勉強している中高の先生たちを上から目線で馬鹿」にしたことはありません。むしろ尊敬します。中高の先生の激務をこなしつつ理論を勉強するということはそう簡単ではないと思うからです。「自身の体験を唯一の根拠にしている」という人は僕もいつもそれはちょっとなあと思っているので、そのへんは共感します。また、

ここで私が「科学的」の反対として想定しているのが「唯一のソースは自身の体験」である某カリスマ教師のことです。そしてそれは現場で働いている、私の知る限り多くの教員も同様です。私の言う「研究に裏付けられた科学的知見を利用したほうがいい」というのは、理論とは無数の体験の集積なので、理論を学ぶことでもう少しソースの量を増やしませんか、少なくともソース1よりソース100のほうが説得力あるでしょ

というのも前段は同意です。後段の、「理論とは無数の体験の集積」というのは違うと思います。100人の先生の体験を聞いてもそれが科学的知見にはならないと思うからです。複数の事象を説明することができて文脈によらない普遍的で応用可能な原理が理論だと思います。ただし、教育の分野では科学的であることへの反発みたいなのもあって、他の物理や生物のような分野で守られるべき科学性とか実証性みたいなものが、そのまま応用できる、同じ枠組みで研究ができるというわけではないというのが難しいところなんですよね。そういう意味で、SLAみたいな分野っていうのはつらいところがあって、なんでもかんでもlanguage teachingのすべての現場に結果を直接還元できるものじゃない場合も多々あるわけなんですね。そのうえで、「あきらかにこれは今までの研究の成果から判断すると間違っているだろう」というような指導法なりカリキュラムなりを指摘したり、助言をするのが広い意味での言語教育研究者の使命なんだと思います。教室内で発生する様々な要素の影響が言語習得には関係しているとかんがえられるわけですが、それを一番わかっているのは教室で実際に教えている先生方なわけです。ですから、例えば研究授業なんかで大学の先生が見に来てそのあとご助言をみたいなことも結構あると思うんですがああいうのも結構難しいと思うんですね。大学の先生だって、自分の信念はあると思います。ただ自分の信念だけをもって「こうしたほうがいい」あるいは「これはだめ」ということは到底「科学的知見」に基づいたアドバイスではないですよね。そして、そこに保守的になりすぎると、結局学校の先生方が求めているようなレベルでの話にならなかったりして、「結局それを授業にどう取り入れたら」とかそういうことになってしまうわけで、そこが大学教員の先生方が感じるジレンマなのではないかと思っています。

で、Paul Nationへの反論というわけではないのですが、ネットで無料で手に入ったThe Four Strandsという論文を読んだのでそのことを少し。

この論文の中で、Outputをさせることが言語習得に有用であるという文脈で、Izumi (2002)という論文が引用されています。この論文は、Inputとoutputのグループで、どちらのトリートメントがよりnoticingを引き出せたかというのを調べた実証研究です。

僕もこの「気づき」というのに興味があり修論もそれに関するものでした。この先研究を続けることになるとすればこの問題に突っ込みたいと思っているんですが、この気づき関連の研究って、ほとんどが、「どうしたら気づきをより引き出せるか」ということに関する研究で(Izumi先生の一連の研究もそう)、「気づきが増えると言語習得が促進されるのか」ということを研究したものって実は限られているんですね。さらに、この「気づき」っていうものがなんなのかということと、その操作化も難しくて(何に気づかなければならないのか、気づいたかどうかをどう測定するか)「気付きが増えると言語習得が促進される」というのは、「形式に対する注意の量が多い学習者のほうが言語習得が促進された」あるいは「意識的注意のレベルが高いほうが言語習得が促進された」のようなかたちに読み替えられている場合が多いです(cf.Leow, 1997, 1998, 2000; Rosa & Leow, 2004; Rosa & O’Neil, 1999)。そして、このような実証研究で「気づきが大事!」となっていても、学習者の熟達度、EFL or ESL環境(この二分もざっくりしすぎだということは亘理先生がこの前おっしゃってましたが)、ターゲット項目が限られている(Leowの研究はスペイン語の屈折なので英語の習得研究ではないです)という点には注意する必要がありますし、英語のどの項目(form)に対して気づきが習得を促進するのかしないのか(項目間の差があるか)、あるいはSchmidt (1993)で取り上げられているようなpragmaticsも気づきがいるのかということもまだわかっていません。また基本的にこの気づき仮説は文法習得の話なので、語彙の習得ともまた話しは違いますし、文法の中でも形態素レベルの話と統語レベルの話も分けて考える必要があります。

なので、「言語習得には気づきが大事だ!」という前提が、実は結構妥当性はありそうなのですが科学的にはまだ論拠が弱いといえるのではないかと僕は思っています(だからこそそこを研究したいと思っているわけで)。Focus on Formに関しても同じようなことが言えると思っています。

とはいえ、やっぱりこの話は「科学的」にどこまで厳密であるかということの話に尽きるような気はします。学術雑誌や専門書に載っていたら全部科学的だとか研究者が言っていることは科学的だとかそういうことでもないですし、じゃあ科学的に厳密な研究が現場への示唆を示せないとしたらなんの意味もないじゃないかという話になってきます。実際の教室環境での実証研究にも倫理的な問題がはらんでいたりとなかなか難しい面もあって、どうしても厳密な意味で科学的で様々な環境での個別事象を説明する理論を提唱するのは難しいです。それが、「絶対的な教育法はない」ということにもつながってきますし、その中でも教員は決断を下さねばならず、というくだりは共感します。繰り返しになりますが、そのギャップが少しでも埋まるように英語教育研究というものが発展していけばいいなと思っていますし、この先どのようなキャリアを歩むにせよそこに貢献していきたいと思っています。以上です。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

Reference

Izumi, S. (2002). Output, input enhancement, and the noticing hypothesis.Studies in Second Language Acquisition24(4), 541-577.

Leow, R. P. (1997). Attention, awareness, and foreign language behavior. Language Learning47(3), 467-505.

Leow, R. P. (1998). Toward operationalizing the process of attention in SLA: Evidence for Tomlin and Villa’s (1994) fine-grained analysis of attention. Applied Psycholinguistics19, 133-160.

Leow, R. P. (2000). A study of the role of awareness in foreign language behavior. Studies in Second Language Acquisition22(04), 557-584.

Rosa, E. M., & Leow, R. P. (2004). Awareness, different learning conditions, and second
language development. Applied Psycholinguistics, 25(2), 269.
Rosa, E., & O’Neill, M. D. (1999). Explicitness, intake, and the issue of awareness. Studies in
second language acquisition, 21(04), 511-556.

 

Prince (2013) まとめ

こんばんは。誰得ブログ記事の更新です。こちらの論文のまとめ。

Prince, P. (2013). Listening, remembering, writing: Exploring the dictogloss task. Language Teaching Research.

http://ltr.sagepub.com/content/early/2013/07/05/1362168813494123.abstract

フランスの大学のリスニングコースにおいて文法項目の指導ではなくリスニング力の向上を目的としたディクトグロスの活用法を探索的に調査した論文
  • Introduction
フランスの大学での2年間のリスニングコースの担当としてどうやってそのコース設計をしていこうかというところが出発点。最初にとられた2つの策は

(1)multiple choiceやlistening grid(リスニングして表を埋める形式の課題)を採用しないようにしたこと
(2)トップダウン・ボトムアップの両方の処理を含む多様なリスニング課題を用いるようにしたこと
前者の理由としては試験中にカンニング行為てきなものが発生しやすく大人数クラスではそれを監視しづらいということと、選択肢を読んだりそれぞれを比較したりするという行為によって学習者のリスニングのプロセスに影響が出てしまうため。代わりに理解したことを書き取らせるような方法を採用。2点目に関しては、それぞれの処理方法はクリアカットではないもののインプットの処理中は両方を用いて意味理解をするために、トップダウンとボトムアップの処理をさせる課題をさせる必要があると考えたため。
本研究ではとくにディクトグロスという活動が学生のリスニング力に与える影響について扱っている。理論的背景としてはディクトグロスが学習者の口語のL2インプットの知覚的処理を促進するという提案に基づいている(Wilson, 2003)。実践のレベルではリスニング指導は過剰にトップダウン処理をさせるような活動に偏っていたが近年はそうではなく学習者のボトムアップの処理に注目が集まっている(Field, 2008)。ディクトグロスはこの学習者の処理過程の観察に適した活動なのではないか。リスニング指導は、しばしばリスニング力を評価しているだけであってリスニングを指導していないことが多い(筆者注:例えばリスニングさせてcomprehension questionをさせるような場合はリスニングできたかどうかを評価しているにすぎず、学習者のリスニングの処理はみれていないという指摘だと思う)。というわけで、どれだけ聞き取れたかを測定するのではなくもっとリスニングにおいて学習者の理解度をあげるためにはどのような支援が必要なのかということが問題。ディクトグロスをリスニング指導に取り入れる場合にもう一点注意しなくてはいけないのは、リスニングとライティングを同時に行うということによる認知負荷の問題である。
  • ディクトグロスとはなにか
(省略)
  • リスニング理解における記憶
(省略)←ここもwwwwwwww
  • 方法
質的・量的の両データともに2ヶ月間に渡って収集されたが期間は別。対象はフランスの大学で応用外国語?(applied foreign languages)を専攻する2回生。リスニングのクラスの他にも文法や翻訳、音声学、文化なども学んだりする課程らしい。
参加者は量的データ52名、質的データ55名。期間が長かったため欠席や授業をdrop outした学生もおり、12回の授業のうち2回以上欠席していない学生のみ量的データの分析対象となった(n=30;M=11F=19で平均年齢20.2)。英語学習歴は平均で9年間。一応1年次の試験はパスしているがそれでも学生のレベルに差は多少あってCEFRでいうとB1からC1+くらい。
用いられたタスクは3種類でセンテンスレベルに特化したもの。初回の授業でこれはディクテーションではないので必要なときは自分の言葉を使ってよいという説明をいれていてボトムアップとトップダウンという2種類の処理プロセスに関しても”the need for constant interaction between perceived phonological input and the top-down demands of plausibility or meaningfulness”を強調しつつ説明し、コースを通してこのことはリスニングのキーとして指導された。
タスクのタイプ
(1)ひとつの意味ユニットに対して1つのキーワードをメモさせる
意味ユニットごとにポーズを置くように工夫。文は2回読まれるが、書いていいのは1語のみで、2回目に新しく書き加えるのはだめ(ただし書いた1語を書き換えるのはあり)。キーワードを書かせたあとにペアで比較してそれらをもとに全文の再構成をさせる。2、7、11週目に学生の書いた文を回収。オンラインの意味処理中に書かせたということではないので産出された文は比較的長めで平均24.7語(意味ユニットでは4つ)。スコアリングは”intelligible”なユニットの数で行われた。完璧にintelligibleなものは1で部分的にintelligibleなものは0.5、スペリングミスや統語のエラーはカウントされず。
(2)リスニングの回数が一度だけ(書き取りありorなしで)
リスニングの機会が複数回あると、学習者はまず一回目で最初から一語ずつ書いていって二回目で書き取れなかった部分を書き足すというようなストラテジーをとったりするので、学習者がその文の意味自体ではなく語にフォーカスするのを防ぐためにリスニング回数を一度に制限。3,7,11週目に学生の書いた文を回収。平均語数は16.6語。スコアリングは正しく書かれた語と音節の数。元の文と意味的に一致していれば正しい語としてカウントされた。(1)同様スペリングと形態統語エラーはカウントされず
(3)未知語を聞いた時の対応をどうするか(意味を推測して自分の知ってる言葉で置き換えさせるトレーニング)
未知語に遭遇したときの方略としては、(a)スルーする、(b)聞こえたとおりに文字に書き起こしてみる(a phonological strategy)、(c)文の意味から未知語の意味を推測し自分の知っている言葉で置き換える(a semantic strategy)というような方法が考えられるが後者のほうがベターで、学習者にトップダウン処理で意味を補わせるトレーニングをさせることで文の再構成が可能になる。というわけで、この活動では未知語をなるべく知ってる語で置き換えるように指導。3,6,10週目に産出された文を回収。2文の中で、出現頻度の低い語を片方の文では後ろの方に、もう一方の文では前方に配置するように工夫。学生にはこの低出現頻度語の位置は前もって知らせた。文の平均語数は15.2語。スコアリングは低頻出語を置き換えた語のcontextual plausibilityで判断(上記2つのタスクと同様に1、0.5、0のスケールで)。
以上の3つのすべてのタスクで課題文は録音されたものではなくその場で読み上げられた。よってそのスピードは多少差はあるが学期末の試験のスピードに限りなく近い95wpsであった。このスピードは通常のスピーチに比べればかなりゆっくりであり、またかなり明瞭に発話するように注意した。
  • 結果
主に産出された文とタスク後の学生とのディスカッションから。
タスク(1)でのintelligible unitは2週目から11週目で2.7から3.8に上昇。
例えば、
When the engineer tried to borrow some money / to start up his own business / he had to ask some old friends from school / because the banks refused.(スラッシュは意味ユニットの区切りを表す)
という文では1ユニットに1語しか書けないので、わずか4語から全体の文の再構成するということになる。この場合書き取った1語がワーキングメモリーに保存された2番目、3番目の語あるいは学習者自身が保持していた語を思い出すキューになる。上記の文の最初のユニットではengineerと書いた学生が34%、borrowと書いた学生が54%で残りの学生はmoneyと書いていた。スペリングがわからないあるいはその語自体を認識していなかったという理由でengineerを書くことを避けた学生もいた。engineerと書いた学生の方がより文の再構成に成功しており、うち74%の学生は続く動詞のborrowを覚えていて、残りの学生はtried to borrowをneededやwantedに書き換えていた。ここで問題になるのは主語と動詞のどちらを書くほうがいいのかということだが学生の感想では一概にどちらとはいえず、両者の意味と関係性による。またコロケーションも重要な要素であり、例えばborrowと書いてmoneyを思い出すほうがmoneyを書いてborrowを思い出すより簡単だという声も。
結論として、学生は意味ユニットの記憶を強めるための意識的な方略としてチャンキングを認識した。
タスク(2)では書かれた語数は平均で10%、音節数は14%上昇。このタスクは、初めはどのような方略がよいのかという指示は一切なしでやった。文を最後まで聞いてから書き始めた学生のほうがそうでない学生より全体の文の再構成がよくできていた。またそのような学習者は不必要な語を削除していた(たとえばHe said he hopedにおけるsaid heなど)。文の読み上げられるとすぐに書き始めた学生は途中で抜け落ちていた。しかしながらすべての学生が「最後まで聞いてから書く」という方略に肯定的というわけではなく、そうすることによって文の始めの方を覚えることができないという意見もあった。どのくらいのアイテムを保持できるのか、そのアイテムを構成するものはなにかというはなしで、関連性のない2語よりは関連性のある2語の方がセットで記憶しやすい。またitems数が同じの場合は語数が少ないほうが覚えやすい。
タスク(3)では平均のplausibility scoreは文の始めの語で0.56から0.74に、文の終わりの語では0.68から0.84に。ほとんど全ての学生が未知語に遭遇したあとにその後の部分に集中するのが難しいとコメント。というわけで、そういうときでもインプットにしっかりと注意を向けさせるためにこの活動はいい。未知語でも、それが意味的なものだけでなくもっと統語的処理に関わってくることもあった。例えば分詞構文における文頭の過去分詞など。それを主語だと解釈したために文の理解が困難になってしまったケースが多かった。しかし、2文目を聞くことにより文脈が補完されて1文目の理解が促進されたということもあり、単文に集中するのではなくテキスト全体(この場合は2文全体)をしっかり捉えるということの必要性が示唆された。
質的データ。リスニングのコースに関する学生の反応と、リスニングスキル一般に対する学生の態度について自由記述の質問紙調査。ディクトグロスに焦点をあてた質問は
  1. Has the framework adopted in the course (i.e. stressing the interaction between bottom-up and top-down processes) been useful to you; why or why not?
  2. Has the emphasis on chunking been useful to you; why or why not?
一つ目の質問に関しては、このようなボトムアップとかトップダウンとかを意識したことがなかったという学生が多数で、この質問に答えた34名のうち21名が”useful”と答えており、うち15名は特に文脈や全体の意味に注意を払うことが自分が理解できた語から文を解釈することに役立ったという点に言及していた。
他方、この実験で用いられたリスニング方略が役に立たなかったと回答した13名のうち、その主な理由としては学習者自身のリスニングの仕方を変えるにはいたらなかったというものである。また、教わったことは今まで自分がやってきたやり方と同じでそのことには気づいていなかった(そしてそれは有効ではないと思っている)。という意見もあった。このような回答からは、リスニングのフレームワークに関しては意識的な気づきは必要でないのかもしれないともいえる(教えてなくても自然にやっている例もあったということ)。未知語に遭遇した時にトップダウンの知識を用いるという方法をどのような場合にあるいはどのくらいの頻度でやるのかという問題は結構難しくて学習者の確信度に関係があるはず。また聞いた音をもとに語を書くというのは自然な作業ではあるものの、それを修正したくないという気持ち(自分の言葉で置き換えるのではなく音に依存してしまう傾向)が困難度をあげているということもある。”deep sea fishing”を”dipsy fishing”としてしまったという場合には母音の知覚という問題が絡んでいる。
二つ目の質問にたいしての33の回答のうち25名がチャンキングが有効であると回答。数名の学生がチャンキングは有効ではあるが実際に適用するのが難しいと考えていた。チャンキングをうまく使いこなすために重要なのはキーワードの見極め。キーワードがうまく拾えなかったらそこから再構成するのが難しくなってしまう。チャンキングが有効と認識しているにもかかわらず、文が長すぎた場合にはチャンキングでうまく対応できないという学生もいた。この問題はワーキングメモリーのキャパシティと関連しているだろうがより直接的には熟達度と関係している。つまりは熟達度によって「長すぎる」と感じる長さが違ってくる。高熟達度の学習者は無意識的に文を処理可能な長さのチャンクごとに処理しているが低熟達度の学習者はこれができず結果的に音声のみでは理解できず文字を読まないと理解ができないというような具合に。
  • ディスカッション
ワーキングメモリーの容量という問題以外にリスニングにおいて学習者が抱える困難点。
  1. インプットの区切りを間違える(illustratesがin the streetsになってしまうなど)
  2. インプットに対応する語彙を探す際に、L2学習者は出現頻度の高いものを思いつきやすい傾向にある(それがインプットとはかけ離れている可能性)
上記のようなsegmentationとlexical mismatchという2つの問題は、ワーキングメモリーにインプットを記憶する困難さによって悪化する。
実験の結果は語や意味のユニットを書き取ることや未知語の処理に関して学習者の能力が向上したことから好意的に解釈できる。またリスニングのプロセスを処理可能な構成要素ごとに分けることにも学生は前向きで学生の自信も学期がすすむごとに上昇していった。よってディクテーションを用いたリスニング力向上の試みは効果があったと考えられる。
  • Limitations
グループがひとつしかなかったので実験で用いられた教材がカウンターバランスされていなかったという可能性。こういう場合にはスコアリングに最低でも2人は必要だった
学生のワーキングメモリー容量のアセスメントがなかったために、実験の結果みられた変化がワーキングメモリー容量があがったことによるものなのかが不明。でもパフォーマンスの向上を見ているのであってなにが原因であるかということが実験の主旨ではないのでそんなに問題でもない。
一番の問題は与えられたインプットのスピードと内容がauthenticではなかったということ。ディクトグロスによるリスニング力の向上がauthenticなinputの処理の際にも有効であるかどうかということや、この実験で用いられたリスニング方略がどの程度他の状況にも転移するかということをみるのもおもしろいだろう。この実験で行われた用にゆっくりはっきり発話されるということはかなりレアなので学習者のよりauthenticな口語の英語の理解度が必ずしもあがったとは言えない。が、それでもとりあえずこの研究で用いられたディクトグロスを利用したリスニング活動は少なくとも学習者にリスニングの処理を意識的に行わせ、その処理がどのような要素で構成されているかというのを理解させる機会は与えている。
  • 結論
リスニングのコース全体としては、本実験で紹介したディクトグロス以外にもauthenticな教材を用いたリスニング活動も行われた。その前段階として、ディクトグロスを取り入れたリスニングは学習者のよりよりリスニング理解への足がかりとなった(以下略

 

というわけで(以下感想)ディクトグロスというのは文法指導の1つのテクニックとして使われる(フォーカス・オン・フォームという言葉が伴うことも)わけですが、それをリスニング力向上のために取り入れてみましたという実践報告っぽい感じですかね。冒頭の方でディクトグロスはボトムアップうんぬんみたいなことが書いてあったんですが結局やらせていることってトップダウンでキーワード類推とか未知語類推みたいなことだったんじゃないかなという気がしないでもないんですが。オンライン処理中に未知語に遭遇した時に既知の語にどうやってアクセスしてんだろうとかリスニング中に文脈から未知語類推するのがどれだけ簡単or困難なんだろうとかそういうことが気になったんですが。語彙のサイズによるんじゃなないかと思うんですけどね。リスニングっていうのはあまり専門じゃないのであれなんですがまあ先生もトップダウンとボトムダウンてのがあってだなごにょごにょとか言うよりは(それもそれで効果あるとは思うけれどそんなこと言われてもへー。で終わるケースの方が多い気がする)、こうやって実際にいくつかのディクトグロスベースのリスニング活動させて自分がどうやってインプット処理しているのかっていうのを意識的に体験させるのはいいかもしれませんね。これは特に統計検定かけてるわけでもないので結果の一般化はできないわけですが研究の可能性としてこういうのどうかなっていうアイデアとしてはいいんじゃないでしょうか。

 

そんなところですかね。

 

なにをゆう たむらゆう

 

おしまい。

今さら中部地区英語教育学会の感想とか

なにかブログの記事がないのもつまらないので、なにか書いておこうと思います。

もう1周間前のことになってしまうんですが、中部地区英語教育学会富山大会に参加して来ました。参加したTwittererの方々のつぶやきまとめはこちら→第43回中部地区英語教育学会富山大会つぶやきまとめ

僕としてはこの学会に参加するために日本に帰ってきたと言っても過言ではないくらいに楽しみにしておりました(主にオフ会的な意味で

参加して、「自分はここまでは勉強してるんだな。でもこのさきの話を理解するのが難しいな」といった感じで自分を客観的に見つめることができたように思います。まあ修士号持っているんだからというのはあるんですが、セミナーや課題別研究プロジェクトなんかでの研究法の話にはついていけるくらいの知識はあるなとは思いました。一方で、自由研究発表なんかを聞いていると、そこで建設的な意見や質問を出すほどには自分の勉強量は足りないのだなとも感じました。へー、ああ面白いなこれって思っても、その先の、何が足りないとかもっとどうしたらよくなるとかそういうことにまでは考えが至らないといいますか。言語化することができていないということもあるのかもしれませんが。こういうのももしかしたら「学会慣れ」みたいなところもあるのかもしれません。いろんな発表を聞いて質疑応答を聞いているうちに学習するといいますか。

あと学会に参加して思ったことは、ああ自分てわかりやすい性格だな、言い方を変えると流されやすいんだなと思ったことでした。アメリカで修論をやると決めていろいろやってたとき、先生やクラスメイトに、「卒業したらPh.D?」とか「YuはPh.Dにいったほうがいいんじゃないのか?」って結構言われてたんです。でもそれは、誰もacademicなresearchに明るい人がいなかったから、そうやって言われるんだなと思っていましたし、僕には研究のセンスとか「覚悟」とかないなと思っていました。帰ったらとりあえず教員採用試験を受けて、まあ受からないだろうからとりあえず非常勤でもやってまた来年チャレンジしようくらいに思ってたんですね。

それなのに。今ああやっぱり博士後期に行きたいなとか思っちゃってるんですよあれどうした自分て。でもなんでかっていうのはわかってて、ある人に熱弁されたからなんですね。熱弁って僕が勝手にそう思ってるだけで向こうからしたらちょっとこう若いやつを遊んでやったくらいの感じかもしれなくて僕はもしかしてこれ今騙されてるんじゃねえかって5割くらいは疑ってたりするんですが。それでもこうなんかそこにつながるような伏線っていうのはあって、それがシンポジウムなんですよね。どうだったかっていうのはまあつぶやきまくったのでそれは置いといて、「つまらん」って思ったんですよ。と同時に、「ああこういう話を中高の先生とかって好きなんだろうな」とも思ったんです。そしたら急に、「あれ、自分ってそっちがわに行っちゃう感じ?」みたいなこと考えちゃって。そんな単純な話じゃないんですよ中高の英語教員と大学教員という風に分けることもできないですしその枠組を実践―研究みたいにあてはめるのも違うとは思ってるんです。どこにいったって自分のやりたいことだけをやるわけにはいかないですし納得いかないことを飲み込んでいくことができなきゃこの先やってけないっていうのもわかってるんですが、なんか「あれ?」って。

また別の所では、「いつかもう一度大学院に行きたいな」と思っていたということもあります。修士は取ったけれど、「一応」勉強はしたんだけれど、でも僕は圧倒的に「基礎」がなってないなと思ったんです。知識的にもスキル的にもなんか中途半端っていうか、自信を持って「最終学歴は修士です」って言えないなって。むしろ「こんなんで修士とか言っちゃっていいんだろうか」って思ってるくらいです。前にもどっかで書いたような気もするんですが、ずっとこうやってああ俺は全然なにもわかってないしなにもできないとか死ぬまで言ってそうな気もするんですが、それでも「ああ、頑張ったな」っていうのが今までないってなんかいやなんですね。それが博士後期いったから得られるわけではまったくないですし、むしろガチで「研究」を志すのだとしたらもう学生だからとかは言ってられないのが博士後期だと思ってるんです。じゃあそのレベルに自分があるかっていうとまあないですよね。でもそこで戦おうっていう同世代の人たちを見てるわけでして。とかって考えるとああもしかしたら「若手の中高英語教員」っていうロールモデル見てないからなのかもしれませんね。「うわあこの人すごいなあ。こんな人になりたいなあ」って思えるような人を見たら「僕も同じ所でその人と一緒に頑張りたい」みたいなことを思えるのかもしれません。そういう人が中高教員にいないと言っているのではありません。すごい先生はたくさんいらっしゃいます。ただTwitterでは圧倒的に接している方々が研究界隈の方が多いのでどうしてもそっちのインプットが多いですし(リアル<<<<<<Twitterあるいはネット)、それで自分も無意識にそっちの先生方を追いかけているのかもしれません。自分でもちょっとよくわかってません。もう少しは迷います。家族にも相談しないといけないことですし。

ではこのへんで。

なにをゆう タムラゆう

おしまい。

時間を尋ねるのは”Do you have the time?”か?

どうもみなさんこんにちは。被ブロック数がどんどん増えている田村です。先日、というかそれこそ昨日とか一昨日くらいのはなしで、Twitterでしばしば見かける「ネイティブはこういう言い方しない」言説をまた発見して(というかRTがTLに流れてきて)、それに反応して公式RT+エアリプ話法を使ったらどうやらRTされた人のツイートを見に来るタイプの方だったようで、やんややんや言われて誤解されてしまいにはブロックされるという事になってしまいました。

https://twitter.com/gaby6100/status/335355878083555329

Twitter / gaby6100: こないだ英語学校の日本人生徒が「what time is i … via kwout

ツイートの埋め込みコードが取れなかったのですがとりあえず貼り付け。僕はおおまかに言えば「日本人英語学習者の知ってる(使う)英語は実はネイティブは言わないんだ。ネイティブはこう言う」系の言説にこれもカテゴライズされると思ってます。

【疑問】”What’s your name?”は失礼か

っていうのを旧ブログに書いたこともありました。What’s your name?とかHow are you?を「これは言わない」と言うよりはDo you have the time?のこの件はそこまでひどくはないと思いますが、僕は自分だけの経験とか自分が今まで聞いたことがないっていうのを「一般的に」とかって広げるのってどうなのかなってちょっと思っています。その一般ってなんなのよってなりますし(この方は「(私の周りでは)一般的にという意味」と付け加えてくださりましたが)。言語教育者であるならば、”register”っていうものをもう少し考慮してもいいのではないでしょうか?言ってることは的外れではないですけどこういう↓「煽り」も僕は嫌いです。

使うと恥ずかしいフレーズ集|英会話、英語のエブリデイイングリッシュ(EE) 

“What time is it now?”は、英語として(文脈から切り取られた文の文法性判断という点では)間違った文ではないです。なにがおかしいかというのは、つまりこの文が、「時間を知りたくて時間を尋ねるときの質問としては不自然に聞こえる(けれど時間を知りたいんだなということは多分理解してもらえる)」ということです。

今日クラスメイト(アメリカ人)とカフェでこの話をして、”What time is it now?”を使うであろう具体的シチュエーションとして彼が挙げたのは以下の2つの場合。

  1. 一度時刻を尋ねて、その後少ししてからもう一度同じ人に時刻を尋ねるとき
  2. 話し相手と自分の間に時差があるとき(例えば日本とアメリカで電話してたとしたら、”What time is it now?”とnowを入れても不自然ではない)。

上記の場合は、「時刻を尋ねる」というものの中でもかなり限定されたシチュエーションになりますよね。そういうときは、nowがあってもいいということでしょう。逆に日本語では「今何時(ですか)?」が普通で、今(now)をなくして「何時(ですか)?」という場合は、「何の時刻を尋ねているのか?」という情報が不足していて聞かれた方は「今(ですか)?」と聞き返すことになるかもしれません。だからこそ”What time is it now?”とnow(今)を入れてしまうのかもしれません。しかしながら、そこに明らかに文脈があれば、「何時(ですか)?」だって間違いではありませんよね?例えば、

友達:明日の夜大宮で飲むけど来る?

僕:何時?

友達:19時に豆の木集合で!

僕:おっけー。

という会話での「何時?」はどうでしょう?僕は一応日本語母語話者としてacceptableでgrammaticalだと思います。他には、「何時集合?」「何時から?」「何時にどこ?」とかだともっと自分が求めている情報を限定するような聞き方になるのだと思います。

というわけで、話をもとに戻すと「ことば」っていうのはそれが日本語であれ英語であれ文脈が伴っているわけであって言い方が違うということは意味が違う、つまりは使われる文脈が違うということなわけです。そこへの言及なしに、「一般的にはこう言う」だとか、「ネイティブはこういう言い方はしない」というのは言語を教える者としての責任が果たせていないのではないかと思います(別に件の方は英語を教えているわけではないそうですが、英語話者ではありそうですしそういうバックグラウンドをもとに英語学習者の間違いを正すのであればこれは考えていただきたい問題であります)。ただし気をつけたいのはそれが学習者に過度の負担を与えるものではいけないということです。例えば、

【連載】jさんのおもしろ英語塾 (7) What time is it? だけが時間の尋ね方じゃない | ライフ | マイナビニュース

この記事中ではDo you have the time?の他にも様々な表現が紹介されています。ここまで細かく状況に応じて使い分けることができる(すべき)学習者はかなり上級であると思います。自分の表現の幅を広げたい人には有効かもしれませんが。

英語は世界で話されている系の言説やグローバルがどうのとかっていう話、つまり非英語母語話者間のコミュニケーションを考慮に入れた時に、”What time is it?”以外の表現をどこまで知っているべきなのかということもまた考えなければいけない問題です。そういった場合には、「通りやすい表現を選ぶ」という作業も必要だと思うからです。”Do you have the time?”は相手が時計を持っているかわからないときや道端で見知らぬ人に話しかけるときに使われる丁寧な表現だと言われますが、”Do you have the time?”がそのような場合に使われる時間を尋ねる表現であると知らない人には、「the timeってなんの時間なんだ?」と思われてしまうかもしれません。ではそのような人は英語の学習が至らないダメな人なのでしょうか?そんなことは絶対にないはずです。また、「普段あまり英語に触れる機会がない日本人が、英語で”Do you have the time?”と聞かれて答えられませんでした」みたいな話がもしあったとしたらそれが日本人の英語力不足だとか言う話になってしまうのかもしれませんが、”What time is it?”と言われたら時間が相手に伝えられて(言い方はともかく)、日本語が使えず英語でコミュニケーション取らざるを得ない相手に自分が時間を知りたいときに”What time is it?”って使えて時間を教えてもらえたのであればそれはそれでいいのではないかと思ってしまいます。誤解を招くといけないので一言断っておきますと、僕は「英語はコミュニケーションの道具なんだから伝われば文法や発音が間違っていてもいいのだ」という言説には賛成していません。語順を始めとする勘所はしっかりと抑えておかないとまずいですし、単語をただ羅列するだけのコミュニケーションと、”What time is it?” ”What time is it now?”  “Do you have the time?”の違いと言ったregisterの問題が生じるコミュニケーションはレベルが違います。後者がどうでもいいと言っているわけではなく、優先順位としてなんとか単語をひねり出すことしかできないレベルの学習者(前者のレベル)に対して、registerを要求するのはちょっと違うんじゃないのかなというところです。

話が長くなりましたがこの件に関して色々と考えていたらこんなことになってしまいました。ちなみに今日のカフェでの話のオチは、「”Do you have the time?”はformalすぎじゃないの?」ってクラスメイトが言ったあとに、カフェのお姉さんに聞いてみて、「いやー私は言わないわ。丁寧に言うならDo you know what time it is?でいいんじゃないの?」っていう話をして、次にお姉さんが来た時に「出身はどちらなんですか?」ってクラスメイトが聞いたら「私、実はドイツ人なのよ。アクセント隠してるの」って言われたことでしたw 英語母語話者だと思って聞いたのにwwww 見た目からも話し方からも全然わからなかったので二人で笑いましたw

そんな日曜日。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。

「英語教育、この一冊」

どうもどうも。今年もこの季節がやってまいりました。anfieldroad先生が半年に1回開催している「『英語教育ブログ』みんなで書けば怖くない!企画」の第4回目に参加させていただこうと思います。僕がこの企画を知ったのがちょうど1年前で、僕にとってはこの企画に参加させていただくのは3回目です。

この企画で、初めて僕のブログを訪れる方もいらっしゃるかと思いますので簡単に自己紹介させてください。僕は埼玉大学を2011年3月に卒業し、同年の6月末から北米に留学していて現在は修士課程でTEFLを学んでいます。一応プロフィールページとか作ってあるのでそちらを御覧頂いて、あとはTwitterのつぶやきなんかでどんなやつかはわかっていただけると思うのでこのへんでやめておきます。

さて、今回のテーマは、「英語教育、この一冊」ということでして、実はこの話でTwitter上で盛り上がったときにはちょうど僕もその中にいまして、和書洋書問わずいろいろな書籍の名前があがっていてほしい物リストにどんどん追加した記憶がありますw

僕も一応教育学部の英語科を卒業した身として、それなりに本は買って読んでいましたし、学部生だった当時はいわゆる「カリスマ」と言われるような有名な先生方の著書を読んで感動していました(遠い目

残念ながら、僕がアメリカに来る際にこちらに送った荷物の中で僕が日本で読んでいた英語教育系の和書が全て入っていたダンボールだけ紛失してしまった(UPSの不手際で)ので、それらの本をまたもう一度眺めておすすめすることもできませんし、「一冊」しか挙げられない中でそれらの本を今「この一冊」として紹介するかというとそうとも思いません。こちらに来てから買った読んだ本も、確かにたくさんあるのですが、包括的な英語教育の本として「これだけは読んでおいてほしい」と自信を持ってオススメするような本というとどうもしっくりくるものがありません。日本から取り寄せた「成長する英語教師をめざして」「学習英文法を見直したい」も候補にあがったのですが、今回はちょっと奇をてらうと言いますか、もしかしたら「おまえなめてんのか?」「ふざけてんのか?」と言われるかもしれないものを一冊あげたいと思います。

こちら。

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すいませんすいませんすいません

いや別にあのふざけてるわけではなくて割りと真面目なんです…

「んなものは書籍じゃないしPDFで読めるだろ」云々かんぬんとか「すすめるまでもなく誰でも読んでて当然だろぼけks」とか「一冊じゃなくて二冊じゃねーか」とかもうバシバシ飛んでくると思うのですが…(二冊だけど値段は一冊分以下(ry

でなんでこれを挙げたかと言いますと、ほら、ついこの前も「指導要領を守れないなら学校を去れ」騒動とかあってコワイからちゃんと読んどきましょうね(棒 とかまあそれは冗談で、よく学習指導要領の内容とか、それに従う従わないとか問題になるじゃないですか?そういう議論自体はどんどんしていくべきだと思うんですけど、例えば指導要領なんか見て授業やってる奴はとかあんなものはとか云々かんぬんいろいろサムライの方とかいろいろ言う人多いんですけど、でもだからといってあれは無視していいものでもなくって、批判するにしてもまずは読んでから批判するべきなので、尖った発言する(文科省に反対する側の)偉い人達の言うことに乗っかって「そうだそうだー」とかやらないでまあちゃんと読みましょうよというのが一点目の理由。

二点目は、英語教育のいわゆる「中の人」でしたらすごくわかると思うのですけれど、教育、とりわけ学校英語教育をはじめとする日本の英語教育っていわゆる「外の人」からボッコボコにしてやんよばりに言われたい放題じゃないですか。それもほとんどが自分の経験とかあるいは自分の子どもの経験とかをもとにした的外れの指摘だったりすることがほとんどで、もちろん日本の英語教育が完璧であってなんの問題もなくて現状維持が最適とか言うつもりはないんですけれど「ちょっとそれはちがうよ」ってこと多いじゃないですか。で、僕の個人的な信条としては、それを無視しちゃいけないと思うんです。「はいはい何もわかってない外の人は黙っててね」とか「そういうのかまってる暇ないから」とかやっちゃうともうまた「教師は世間知らず」だの「英語教師は既得権益にすがってる」だのってなって余計に批判されてしまうと思うんです。もちろんこういったことの原因として、事実を正しく伝えきれていなかったり過度に大衆を煽ったりというメディアのせい、とかもじゃもじゃの人のせい、とかネットで影響力があるぐろーばる界隈の人のせいとかもあるとは思います。で、そういう人たちと話をする際にこの学習指導要領って使えるんじゃないのかなって僕は思うんですね。例えば先ほどは挙げませんでしたがよく話題になる「小学校英語」の話とかをする際に、一つの資料として学習指導要領をもとに話したりもできると思うわけですよ。ネットで公開されてますし、例えばここのこのへん読んでみてくださいこうやって書いてありますよね?でもこれにはこういう問題が実はあって今はこうなってて、とかって説明したりとかにも使えるんじゃないのかなって。学習指導要領が合ってるとか間違っているとかの話とは別にして、はっきり言って教育の外の人で真面目に指導要領読む人なんかほとんどいないと思いますから、そしてそれでも学校の教育に(ときには理不尽な)文句つけられたりして、そういう時にこの学習指導要領に書いてあることを批判的に読んで説明する、伝えることって大事なんじゃないかな。そんなことを考えたんです。

最後の三点目は、指導の話です。指導要領に従う従わない、ここがおかしいあそこが変だとは言っても、「じゃあどうするの?どうやって教えるの?」「なに教えるの?なんで教えるの?」という根本的な疑問を解決するときのスタート地点って結構学習指導要領なんじゃないかと思うんです。そういう意味での「指針」としても使えるんじゃないのかなって。もちろん定期的に新しい指導要領が告示・施行されて、その度に「現場」の先生方は振り回されているという事実はあるわけなんですけれどね。そもそも、経験や実践を積み重ねてきたからこそ学習指導要領に批判的になれるのであって、学習指導要領を通過せずにそこにはたどり着けないんじゃないかなと思います。

おまけですけど教員志望の学生であれば教員採用試験においても学習指導要領読んでて損はないわけですしね。

そんなわけでして、あの僕は別に学習指導要領ごり押し的なあれでもなんでもないですけど、以上三点の理由で学習指導要領を「英語教育、この一冊」として取り上げさせていただきました。

今回の企画の趣旨とはずれてしまったとかもしれませんが、たくさんの方に読んでていただく可能性のあるまたとない機会なので、普段僕が思っていることを書かせていただきました。

10月1日が更新基準日だそうですので一番乗り目指して早めの更新です。他にもたくさんの方々がこの企画に参加されることと思いますが、集まった記事は以下のリンクにまとめられるそうです。

http://d.hatena.ne.jp/anfieldroad/20121001/p1

それでは皆様よい週末を。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。