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『外国語学習での暗示的・明示的知識の役割とはなにか』を読みました

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はじめに

大修館書店から発売されている,下記の書籍についての記事です。

まず一言でこの本の感想を言うと,多くの人にこの本は「そのまま」読まれるべきではないと感じました。したがって,忖度なしで書きます。

また,以下の記事では私が読んで考えたことに加え,私を含めた4名の研究者で行ったこの本の読書会で話題にあがったことも含めます。読書会で議論になったことは,その都度そのように言及しますので,そうでない限りは私の主張であると考えてもらって構いません。

ちなみに,私は過去にこの本で取り上げられている暗示的・明示的知識(英語ならimplicit/explicitだと思いますけど日本語だと明示的・暗示的という人のほうが多いような)についていくつか記事を書いています。

どれも院生時代の記事ですが,私のスタンスというか立場,見方はこれらの記事に現れていると思いますのでぜひお読みください。また,本記事の以下の内容は,自己批判を多く含んでいます。それは,私が初めて「論文」というものを発表した時期にやっていた研究(2014-2015あたり)は明示的知識や暗示的知識といったものを対象としていて,測定や構成概念に対する認識の点であまりにもナイーブすぎたと思っているからです。

初学者には非推奨

もしも,「暗示的・明示的知識ってなんだろう?」とか,帯に書いてあるような「規則を知っていても使えないのはなぜ?」という疑問を持っている人がこの本を読もうとしているのを見かけたら,私は止めたほうがいいとアドバイスすると思います。なぜなら,そういった疑問は解決されるどころか余計に頭の中がこんがらがってしまうからです(理由は後述)。

そういった意味で,この本は批判的に検討できる者のみが読むべきだと思います。初学者が読むと余計にわけわからなくなってしまって悩んでしまうか,または逆に誤った知識を身につけてしまう可能性すらあるかもしれません。よって,学部や大学院生レベル,または研究職に従事しない方が手に取るべき本だとはあまり思えません。

なにがこの本の価値を下げているか

この本に対して私が否定的な印象をいだく理由を端的に言えば,この本は「だからだめだよSLA」の典型例だと思うからです。帯に「第二言語習得研究×認知心理学×脳科学」というように,この本に書かれていることがいかにも「科学的である」ような装いがありますし,真理・真実が明らかになっているかのような書き方がされている部分もあります。しかしながら,実際には曖昧性を多分に含んでいて,その最たるものは明示的知識とはなにか,暗示的知識とはなにかについて執筆者全員の定義が一致しておらず,その測定方法も違うからです。このことについては後述します。

つい先日,

第二言語習得研究(者)はなぜ「誤解」されたか

という記事を書きましたが,この記事で批判したことのいくらかも当てはまっている本ではないかと思います。

さて,本題です。本の中で気になるポイントを一つ一つ指摘していくときりがないくらいたくさんありますが,以下ではいくつかの論点にしぼって書きます。

論点1: 全体を統一する視点に欠ける

この本が全体を通して非常に残念な仕上がりになってしまったと感じる最も大きな理由は,各章の独立した論考をまとめて統一感をもたせる構成になっていないことでしょう。「はじめに」と「終章」はありましたが,本の意義のアピールが多く,全体を俯瞰的にまとめきれていたようには感じませんでした。このことは,何もこの本に限ったことではないと思います。他の分野の本がどうかはよくわかりませんが,私がこれまでに自分の研究に関わる専門書をそれなりの数読んできた印象は,多くの執筆者が各章に独立した論考を書いているパターンの書籍は質があまり高くないことが多いというものです(特に洋書)。一冊の中で扱われるトピックに多様性をもたせようとした結果,一冊の本のまとまりを欠いてしまうというのはしばしば見かけます。この本もそういう系統だというのが私の印象で,それだけであればそういう本のうちのone of themだということでスルーしていたかもしれません。

ただし,この本のテーマは一つの「概念」(明示的・暗示的を別個にカウントすれば2つ)です。暗示的・明示的知識という目に見えない概念を扱っています。それがこの本の各章に通底するテーマであるわけです。だからこそ,編者はこの本で言う「暗示的・明示的知識」が指すものを冒頭で(操作的定義も含めて)定義するべきであり,その定義に沿って各章の執筆者に執筆を依頼するか,または原稿を受け取った時点で章の間の記述の齟齬を解消するような修正作業を行うべきだったと思います。この点は読書会に参加した全員が同じような印象でした。

そういう調整がなされていないのは,すべての章で著者が独自に概念的・操作的定義を述べていることからも明らかです。結果として,第3章では暗示的知識の測定具として適切ではないと言われていた文法性判断課題が第5章や第6章では暗示的知識の測定具だとして論じられています。

百歩譲って,それが不可能である,つまり,暗示的・明示的知識を定義することは不可能であるという態度でこの本を世に送り出すのであれば,そのことを正直に書くべきでした。私がもしもこの本の編者に入っていたらそうすると思います(終章の151ページに測定具の問題への言及はありますが,全部読み終わって最後にそれ言われると詐欺っぽいので本来であれば先に言及するべきで,その意味では終章を読んでから各章を読むほうが良いでしょう)。なぜなら,この記事を執筆している2021年現在でも,研究者間ですら,暗示的知識と明示的知識がどのような測定具を用いて測定されるものであるかについての合意には至っていないからです。例えば,以下の論文は第3章(第二言語環境で日本語の文法知識はどのように発達していくかー文法項目の特徴と学習者の個人差の影響)で提示されるような明示的・暗示的知識の測定方法の分類とは異なり,時間制限つきの文法性判断課題なども暗示的知識の測定具としています(よってどちらかというとRod Ellisの分類に近い)。

Godfroid, A., & Kim, K. (2021). THE CONTRIBUTIONS OF IMPLICIT-STATISTICAL LEARNING APTITUDE TO IMPLICIT SECOND-LANGUAGE KNOWLEDGE. Studies in Second Language Acquisition, 43(3), 606-634. doi:10.1017/S0272263121000085

最新の研究ですらそういった状態なわけですから,そもそも明示的知識とはなんなのか,暗示的知識とはなんなのか,そしてそういった2種類の知識をどうやって測定仕分けるのか(より大きな問題は,そういう知識2つの実在を仮定して良いかどうか)ということについては科学的な真実があると言える状態でも,その確信度が高いと言えるような状態でもないというのが現状というのが,この文法知識の二元性というトピックを研究を初めたときから追いかけている(とはいっても研究のキャリアは修士をスタートとしてまだ10年ほどですが)私の現状認識です。

にもかかわらず,この本の「はじめに」では,次のような記述があります。

(前略)明示的知識と暗示的知識の区別はSLAの中心的課題であるが,同時に,問題もいくつか抱えている。たとえば,日本人の英語習得を扱った研究が少ないこと,研究対象が文法習得に限られていること,個人差や情意に関する研究がほとんどないこと,近接領域(たとえば,認知心理学や脳科学)の最新の手法を取り入れた研究が少ないこと,などである。本書の目的は,これらの問題点を網羅し,科学的証明を行うことにある。

はじめに iv

このパラグラフだけでツッコミどころはたくさんあって,なぜ日本人の英語習得を扱った研究が少ないとそれがSLAの問題となるのか,とか近接領域の最新の手法を取り入れていないとSLAの何がどう良くない状態になるのか,とか色々思うところはあります。また,たかだが本一冊で解決できる問題ではないだろうとも思いますが,それはおいておきます。それよりも私が驚いたのは,「科学的証明を行う」という記述です。「科学的証明」という言い方は私は人文科学の中では非常に強い主張だと思います。しかし残念ながら,「科学的証明」には失敗していると思います。全員が同じ概念なり現象なりを同じ方法で測定するというのは科学の最も基本的かつ重要な部分であると思いますが,それが成立していないからです。

一方で,1万歩くらい譲ってもう一度この本のタイトルを思い出してください。そうなんです。この本のタイトルは,『外国語学習での暗示的・明示的知識の役割とはなにか』であって,「暗示的・明示的知識とはなにか」ではありません。よって,この本は暗示的・明示的知識とはなんなのかの答えを与えるものではないのですと言われたら,まあそういう解釈もありえますよね,とは思います。ただ,そういう政治家みたいなことばの使い方は読者に対して不誠実だと思います。そしてそのことは,本の中で一切語られていないからこそ罪が重いです。本の冒頭または最後で暗示的・明示的知識というのは非常にcontroversialなトピックである,ということが明示的に書いてあり,その整理をある程度の紙幅を割いて試みた上で(この役割が第2章だったのかもしれませんが)の各章の内容であれば,私のこの本に対する評価は変わっていたと思います。

論点2: 用語・定義がカオス

知識,処理,意識

論点1と関連しますが,まずもってこの本は各章でそれぞれの著者がそれぞれの概念的定義で暗示的・明示的知識という用語を使っています。また,類似する概念である宣言的知識(declarative knowledge),手続き的知識(procedural knowledge)であったり,「手続き化」(procedualization),「自動化」(automatization)といった用語も含めて,それが何を指すのかも章ごとにばらつきがあります。また,「意図的」(intentional)という用語が「意識的」(conscious)という用語と同じような意味で使われているのではと思う箇所(pp.52-53あたり)もありました(意識という用語関連の整理については福田(2018)がわかりやすいです)。

例えば,第4章では語彙の知識という観点から暗示的・明示的知識についての議論がされています。p.58に 「手続き的知識の習得を促す…」とありますが,ここまでの流れで読むと「手続き的知識=暗示的知識」と読めると思います。つまり,暗示的知識=手続き的知識であり,この2つはinterchangableであるという使い方になってると解釈できると思います。しかしながら,これは第2章2.3節の「明示的・暗示的知識と宣言的・手続き的知識の関係」の内容や第9章の「第二言語習得研究で言うところの暗示的・明示的知識の区分と,脳科学で言うところの手続き・宣言的記憶の説明に多少ずれがある」(p.137)という記述と矛盾することになるのではないかと思います。

こうした用語が意味するもののズレが生じてしまう大きな原因として,「知識」(つまり脳内に保存されている情報)と「処理」(保存されている情報へのアクセス)を分けて議論できていないことが大きな問題(これはSLA全体に言える問題)なのではないかという話も読書会でありました。そして,「処理の話」と「意識の話」を切り分けることも重要です。

SLAでは,暗示的知識というのは母語話者が言語使用に用いるものであるという理解があります。言語学者でなければ,ほとんどの人間は自分の持っている言語の知識について意識することもありませんし,その情報へのアクセスを意識的にすることもないわけです。そして,第二言語学習者と比較して圧倒的な速さで言語の処理ができます。このことから,暗示的知識の概念的定義に速いことと無意識であることが含まれるようになりました。この章(第4章)のpp.53-54の最後の段落の記述を見ると,「学習者はjunctionの意味的表象に素早くアクセスする能力を有しているとみなすことができるだろう」とあります。こういう部分に,速い=無意識,という前提があることが現れています。「処理の話と意識の話」が混ざってしまっているわけです。つまり,持っている知識に対して,そのことを意識しているかどうか(自分がその知識を有していることを自分が認識しているかどうか)と,その知識にどれくらいのスピードでアクセスできるのかどうかということを分けて議論できていないように感じました。Tamura et al. (2016)で主張したように,スピードが早い=無意識,スピードが遅い=意識という単純な関係ではありません。

小学生の暗示的知識?

話をまた「はじめに」に戻します。この本の最初のページはこのように書いてあります。

(前略)たとえば,多くの小学6年生は,英語の疑問文における倒置の規則を知らないのにもかかわらず,英会話で”What color do you like?”, “What would you like?”, “Do you like soccer?”と正しく発話することができる。(中略)また,明示的知識はないが暗示的知識があると考えられるため,小学生が正しく英語を使うことができるということになる。

はじめに iii

端的に言いましょう。小学生が疑問文生成に必要な倒置の規則の暗示的知識を持っているわけありません。これはただの模倣です。仮に知識として持っているとすれば,Do you like X?で「Xが好きですか」という意味をなすというくらいのものでしょう。

こういうのを読むと,言語を「使う」の意味も多義的でコミュニケーションを難しくしているなと思います。これと同じような意味で,第6章のp.83には 「小学校英語教育の第一義的な目標は英語表現を使えるようになること(強調は筆者)」とあります。もしも小学生が暗示的知識を持っていて英語が使えるのであれば,第2章の「『使える』文法知識」について考えなくてもいいんじゃないでしょうか,となります。だって小学生でもう暗示的知識あるのですから。たしかに,小学生の言語習得はその他の章の議論と噛み合いません。なぜなら,2章では前提として多くの学習者がたどるプロセスとして「知る」->「使える」のようになっているからです。そうであれば,そうしたケースと比較して小学生がどういった学習のプロセスをたどるのか,どういった文法知識を持っているのかは議論すべきポイントです。

そしてp.84を読むわけですが,そこに書かれている内容は首をかしげるものでした。そもそもこの著者の言っている「文法知識」なるものは他の著者の言っている文法知識と指しているものが異なるように感じました。例えば,What X do you like?のX部分を様々に入れ替えて質問ができる,質問の内容を理解して答えることができる,といったとき,この小学生はいったいどのような文法の知識を持っているということになるのでしょうか。Wh句が前置されて疑問文が生成されるという知識?do挿入の知識?Xの要素を引き連れてwhを前に移動させるという知識?そうではなく,似た構造のインプットをたくさんうけることによって,構造的な類似性をヒントに構文を構築していくというような用法基盤モデルのような考え方を採用しているのであれば,そういった説明が必要でしょう。

論点3: 言語・テストが良くない

これは特に第5, 第6章の内容に関連するものですが,知識測定の道具として使用される刺激文の質が悪く,これでは測定したい知識が測れているかどうかも怪しいと思いました。

読書会で挙げられたことを1つ出せば,81ページにある刺激文の一覧をみると,

  • 正文: I have a cat.
  • 誤文: *I like animal.

となっていて,この項目で測定したいのは「名詞の単数形・複数形」となっています。正しくはI like animals.と複数形形態素がついていないといけないということでしょう。問題は2つあります。まず,このときの複数形形態素が欠如していることというのは,*I have two car.のような誤りとは訳が違います。なぜなら,後者の文であれば,「名詞が表すモノが複数なら-sをつける」という知識があれば対応できるでしょうが,I like animalに-sをつけるというのは,「種類を表す場合は裸の名詞の複数形(bare plurals)である」という知識が求められるからです。これは,単に複数=-sの知識とは言えません(名詞周りの知識ではあるのでそれも含めて複数形の知識という点で誤りではないですが,それでも対になってるとは言い難いと思います)。catは具体物を表しますが,animalは動物というカテゴリの名詞ですから,そういう意味でもこの2つは対になっているとは言えません。

2つ目の問題は,「名詞の単数形」が正文であり,「名詞の複数形」が誤文になっていることです。本来であれば,名詞の単数形について正文と誤文をつくり,名詞の複数形について正文と誤文をつくるべきでしょう。この章では文法性判断課題の正文への反応は「暗示的知識」を測っていて,誤文への反応は「明示的知識」という立場をとっています。そうなると,「単数形の知識」は暗示的知識しか測っていないし,「複数形の知識」は明示的知識しか測っていないことになります。

第6章でもこうした問題が散見されます。例えば,pp.88-89では動詞フレーズの獲得状況についての調査をした浦田他(2014)という研究が紹介されています。p.89の表1をみると,*I can play piano.という英文があります。これ以外の誤文はすべてcanの後ろに動詞がない(*I can soccer),動詞とcanの語順が異なる(I play can kendama.)など,canと動詞に焦点が当てられているものの,play pianoは「playの後ろに楽器が来る場合はtheがくる」という知識です。それって全然違うことなのでは?というのが読書会でも話題になりました。元論文を読むとTomaselloが引用されていたりして,用法基盤モデルの考え方を採用しているのだなと思いながら読めば,can VPみたいなものを見ているのかなとか思ったりもしました(それでもこの章の説明だけでは違和感を覚える人は少なくないはず)。4.2節の物井他(2015)も,正答率の低かった問題について「最初に,問題2については,rhinocerosesという児童に聞き慣れない語がふくまれていたことが原因である」と書いていて,文法性判断課題で未知語が含まれていたらその影響が出るのは当然で,そうなると語順の知識は測定できないのではと思います。元論文を読むと,以下のような記述があります。

rhinoceroses(サイ)という児童に馴染みのない単語を挿入しており,未知の単語と遭遇した場合に,その意味を推測しながら文の正誤を判断できるかを確認する意図があった。(p.88)

物井尚子・矢部やよい・折原俊一(2015)『外国語活動を経験した児童の語順に関する理解度調査 ―SVOに焦点をあてて―』千葉大学教育学部紀要, 63, 85-94.

ちなみに,このことが書いてあるのは結果部分の88ページであり,テスト作成部分には,未知語が入っているという説明は出てこず,次のように書いてあるのみです。

使用する単語についてであるが,Sは1・2人称に限定しI,youのみ, Vは外国語活動で使用頻度が高いと考えられるhave, eat,play,likeの4動詞,Oに用いる名詞はapples, baseball,lunch,pen,soccer,tennisに上位語のcolor,sportの8語,句動詞としてgo to school,get upの2種, 時間を表す前置詞を含む表現としてat six,at eightを用いた。(p.87)

物井尚子・矢部やよい・折原俊一(2015)『外国語活動を経験した児童の語順に関する理解度調査 ―SVOに焦点をあてて―』千葉大学教育学部紀要, 63, 85-94.

私の感覚からすると,テスト作成の段階の記述と言ってることが違うというのはありえないです。これはまあ本の批判ではないんですが。

第5, 第6章で紹介されている研究すべてに当てはまる指摘ですが,テストに使われる刺激文だけではなく,そもそも問題数が少なすぎるという問題もあります。小中学生に大量の項目のテストを行うことの実行可能性などを考慮すれば,問題数を増やすことが難しい事情は理解できます。しかしながら,文法性判断課題とはテストである以上,なにかを測定するためには測ろうとする文法のターゲットについて1つや2つの項目だけでは学習者が安定して判定を行えているのかどうかを判断することはかなり難しいといえます。ましてや二択の問題であるからなおさらです。「文法知識」というからには,1つの事例にだけ適用ができるものではなく,複数の事例に適用可能な規則であるはずです。そういうものを測ろうとするのであれば,1つや2つの項目に正しい回答をしただけでは,単に「それとほとんど同じ文を聞いたこと(見たこと)があった」という記憶だけでも正答にたどり着く可能性も十分にあります。また,5, 6章で出てくる「正答率」とは,1人の学習者の正答率ではなく,参加者全体の中で正答した学習者の割合であることも注意が必要でしょう。つまり,ここでは学習者個人ではなく,集団の問題となっているということです。

このことは,結果の解釈とも関わります。第5章の結果の考察については,そもそも二択の問題で5割を切っている部分の「伸び」になにか有益なものがあるようにはあまり思えません。さらに言えば学習者個人ではなく集団の話であるわけで,正答できる学習者の人数が増えた事をもって,学習が進んだというように解釈するのは少し違和感があります。

第6章でも同様に,

全体の正答率は5年生が44.5%,6年生は51.6%で,6年生のほうが高く,この差は統計的に有意であった。つまり,物井らの研究と同様,5年生よりも6年生のほうが全体として暗示的知識をより多く持っていることが明らかになった」(p.95)

とあります。ところが,p.89では,

GJTの分析では,正答率をチャンスレベル(当て推量で解答した際に期待される確率)と比較する場合が多い。GJTは提示された文が文法的かどうかを判断する二者択一のテストであるため,チャンスレベルは50%,(中略)したがって,GJTはでは正答率が50%よりも高いかどうかが重要である

という旨の記述があるのです。こういうことを書いておきながら,50%を下回っている正答率や50%をわずかに上回る程度の正答率に対して,「知識がある」という判定を下している。これはあきらかに矛盾していないでしょうか。全体の結果から「GJTで語順の正答率が5年生でも高い(特に正文)ことから,5年生でも語順に関する暗示的知識は身についている児童は多いことがわかる」(p.96)という結論も同意できません。カッコ内の「特に正文」という部分が絶妙に不誠実だと思いました。なぜなら,p.95の表2を見れば,非文とされている(10)過去形, (2)be動詞, (4)語順, (6)can, (8)want toの5項目の5年生の正答率をみると,語順の正答率はたったの32.1%しかないからです。これは他の非文の正答率25.6%~48.8%と比較しても高くない上に,50%を大幅に下回っています。そして正答率が「高い」と解釈されている正文反応の方を見ても,2択で答えられる問題(しかもたったの1回の反応)で,66.1%の学習者が正解したことをもって,暗示的知識は身についている児童は多いと結論づけるのはあまりにもナイーブすぎないでしょうか。言語の暗示的知識をもつ母語話者は正文を正文と判断することも,非文を非文だと判断することも暗示的知識を使ってやっていると思います。よって,本文に明示的に書かれてはいませんが,もし仮にGutiérrez (2013)をもってきて,非文への反応は暗示的知識なので,明示的知識は持っていないが暗示的知識はあると考える,というように言われてもちょっと納得がいきません。

場外戦: そもそも明示・暗示は厳密には教育には役に立たない

終章の3節「教育的な示唆」には,明示的・暗示的知識の測定が教育・指導上役に立つとして以下の3点が挙げられています。

  1. 暗示的知識は学習者が気づかない(意識できない)知識であるが,この暗示的知識の習得こそが学習上のゴールであると考える教員や研究者が多いため,暗示的知識が測定可能になったことは重要
  2. 明示的・暗示的知識の測定方法が確立してきた事によって,教育場面でも応用可能
  3. 明示的・暗示的知識の習得プロセスにおける諸要因の役割がわかりつつあるため,教師がフォーカスすべきところが明確になってきた。

まず1について。そもそも,今のSLAで仮定される暗示的知識というものが実際に人間の頭の中に実在すると仮定して,心理学的な考え方でそれを測定することができるという意味でいうと,「測定可能」になっていると言い切れるほどではないと思います。まだまだ不確実なことが多い状況で,あまり確定的な記述をすることは逆に教育現場に誤った理解を広めたり,そのことが教育現場に余計な軋轢を生んでしまうかもしれない可能性を危惧しています。

暗示的知識の習得プロセスを学習者に示す事ができるということの例として第8章が言及されていますが,この章で紹介されている単語学習は,まず単語を見せて訳語を思い出してもらい,その上で正解を見て到達度を「良い」「もう少し」「だめ」「全然だめ」という4段階で評定するものです。単語を学習せよという指示はしていないから意図的学習ではなく,「潜在記憶レベルの語彙学習」と書いてありますが,この学習で単語を覚えようとしないわけがないと思います。意図的学習と偶発的学習を比較して,ここでフィーチャーされている学習が後者の学習だと論じられていますが(p.128),本来の偶発的学習(意味理解を目的とした言語処理時に未知語の知識を獲得するような学習)とは明らかに異なります。また,この評定値があがっていくことが語彙の暗示的知識であるとすれば,それは4章で議論されたようなアクセスのスピードの速さを暗示的知識とする理論的枠組みともずれます。

こういうズレは,教育場面でのテストや測定と,研究としてのテストや測定に求められる厳密さが異なるということを意味していると思います。このことは,2番目の論点にも関わります。

2の教育場面での応用については,時間制限付きの文法性判断課題を用いたりelicited imitation(誤りの含まれた英文を復唱させ,復唱の際に誤りを直すかどうかで知識の有無を判定するテスト)をすることだと書かれています。ところが,その前の節(p.151)では,これまでのSLA研究で用いられてきた課題は問題点も指摘されているという記述もあります。そういうのを読んだあとで,「測定方法が確立してきた」(p.152)と言われると,え?本当に「確立」しているのでしょうか?と読者は疑問に思わないでしょうか。私は思いました。さらに,終章第2節でもたびたび,暗示的知識の測定具は実際の言語使用とは大きく異なるものであるという問題点も指摘されています。この点については私も「明示・暗示の測定と指導法効果研究」という記事の中で指摘しました。であるならば,そうした実際の使用場面からかけ離れたテストをしてまで暗示的知識を測定する必要が教育現場にあるのかどうかということは問いたいです。そのことが,英語の授業や指導においてどういったメリットを持つかを考えずに持ち込もうとすることは,私はSLA研究者は避けるべきだと思います。私個人としては,明示的知識と暗示的知識という概念は純粋な認知科学としての第二言語習得研究でのみ追究されるべきであり,指導現場への導入は少なくとも今の段階ではメリットがないと思っています。第二言語習得研究では,母語話者と第二言語学習者の差が生まれる要因を解明することが研究の大きな目的ですから,厳密な暗示的知識の測定具を開発することは必要なことです。詳しくは過去記事をお読みください。

3については,明示・暗示という知識の二元論を導入するまでもなく,言語学習というのは非常に時間のかかるプロセスです。そのことは知識の二元論という余剰な概念を持ち出すことで初めて可能になることではありません。であれば,シンプルに「言語学習とは時間のかかるものである」といえばいいだけではないでしょうか。

科学的というような装いで,その内実が非常に曖昧なものに教育場面での有用性があるように断定的に研究者が言ってしまうことのリスクは研究者が考えるべきでしょう。「先週やったよね?」と教員が学習者に言わなくなったとしても,教員同士で「あなたの期末テストって暗示的知識を測定するものじゃありませんよね?」「これは明示的知識しか反映されていない問題ではないでしょうか」みたいなカオスが生まれてしまわないことを願うばかりです。

おわりに

この記事では,『外国語学習での暗示的・明示的知識の役割とは何か』という本の内容について,いくつかの観点から批判的に検討しました。私の記事の内容についても,批判的な検討をよろしくお願いいたします。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。


2021.09.22.03:24 更新

読解上やや不自然な部分や読みづらい部分などについて,軽微な文言の加筆修正等を行いました。最初に公開したものと内容的な変更はありません。

サッカーと英語教育の交差点(3)

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はじめに

第二弾で書いていた記事が結構長くなってしまったので,後半部分を切り出して第三弾の記事として別に公開することにしました。これまでに書いてきた記事は以下の2本です。

サッカーと英語教育の交差点(1)

サッカーと英語教育の交差点(2)

本記事でも引き続きこの本の内容についてです。

ゲームモデルとプレー原則という考え方

書いてあったことの理解を確認する意味も含めてちょっと長いですが説明

この本でもう一つ特徴的なのは,ゲームモデルとプレー原則という概念です。ゲームモデルとは簡単にいうと,試合でどういうサッカーをやるか,です。そして,それを表現するために,主原則,(=目的),準原則(=自己組織化の手段),準々原則のように階層的に原則を作ります。サッカーという競技は攻守が激しく入れ替わるスポーツですが,その中でも「4局面」という形で以下のように場面を分ける考え方が主流です。

  • 攻撃時
  • 守備時
  • 攻撃から守備への切り替え
  • 守備から攻撃への切り替え

しかしながら,「攻撃時」=「ボール保持」としたら,攻撃時というのも相手がハイプレスに来たときにどうやってプレスを回避するか,そしてどうやってボールを前進させ(ビルドアップして)敵陣に侵入するか,敵陣に入ったらどうやって相手の守備組織を崩してゴールを奪いに行くかといったさらに細かい局面があります。よって,その局面ごとに原則を決めることになります。ゲームモデルが必要な理由として著者は以下のように述べています。

なぜゲームモデルが必要かと言えば、複雑系であるサッカーチームをマネジメントする上でメリットがあるからだ。理由は主に3つある。

①自己組織化を促し、創発現象の恩恵を得る

②システムのレジリエンスの向上

③システム全体の目的/目標の共有による全体最適化

いずれもシステム思考に基づいた概念であり、システムを上手く機能させるためのツールとしてゲームモデルというフォーマットが考案された。

山口遼. 「戦術脳」を鍛える最先端トレーニングの教科書 欧州サッカーの新機軸「戦術的ピリオダイゼーション」実践編 (Japanese Edition) (Kindle Locations 509-515). Kindle Edition.

自己組織化とは,複雑系において組織的にすることを目的として外からなんらかの手が加えられることなく,自律的にシステム化することです。前回の記事の中で引用したイワシのトルネードでは,イワシの一匹一匹はああいったトルネードを形成して大きな塊をなし,天敵である大きな魚から身を守るわけですが,イワシがそういう目的を理解しているわけではありません(あくまで動き方のいくつかのシンプルな原則を守っているだけ)。サッカーでも同じように,プレー原則を意識したプレーをさせることで,サブシステムの自己組織化を促して,個人の能力の足し算以上のものを引き出そうということです。

レジリエンスはシステムの変動が起こったときにそれを元に戻そうという回復力と言われます。サッカーでいえば,相手の攻撃によってポジションバランスが崩されたときに,それを元に戻そうとすることが例として挙げられています。自分たちの状況が悪くなったときに,それを立て直そうとする力とも言えるでしょう。これを可能にするのは,個々人が共有された原則にしたがって行動することに他なりません。たとえば相手のカウンター攻撃を受ける可能性がある際にはまずゴールに最も直結する可能性の高いピッチ中央部分を埋める動きを取ることが原則の一つとしてあったとします。仮に自分の持ち場が右サイドだったとして,中央部分が手薄になってしまっているのに自分の持ち場に戻ることを優先して攻守の切り替えで右サイドに戻ってしまえば,がら空きの中央を突破されてしまうことになります。これでは失点のリスクが高く不安定です。よって,こうした場面でもシステムを安定的に維持するためにはプレー原則が重要になるというわけです。

ちなみに,①と②を達成するために大事なのは,「局所的でシンプルなルールである」ことだと著者は述べています。複雑すぎれば一瞬の判断に適応することができませんし,特定の局面における原則でなければ試合中のどのタイミングでその原則を適用すればいいのかの判断もできません。よって,様々な場面に適応できるくらいの局所性(上述のプレス回避とかビルドアップとか)で,なおかつシンプルなルールでないと,逆に頭でっかちになってしまい良いプレーが生まれないことになってしまいます。

最後の全体最適化は,チームが目指すべき方向を「全体で」共有しておかないと組織がうまく回らないということとともに,うまくいってないときに原則という立ち返る場所があるとも言えます。一番上位の主原則が変わればサッカーは(システムは)まったく違ったものになりますから,システムがうまくいっていないときにそこに介入する手段として,プレー原則をもっておくことが有効であるということになります。

言語教育にも有用な概念では

さて,このあたりは複雑系の込み入った話が多いので少し説明が長くなってしまいました。私は,このプレー原則という考え方は言語教育にも有用な概念ではないかと思いました。つまり,言語使用を局面ごとに切り分け,そのなかで主原則,準原則,準々原則のように階層化した局所的でシンプルなルールを学習者に提示してあげるということです。

おそらく,具体的な教室での指導場面では「こういうことに気をつけよう」みたいなことはよくされていると思います。ただし,私はそれはここでいうプレー原則とは違うかなと思っています。その理由は,そこに体系性と階層性が存在しているかどうかという観点が重要だと思うからです。これは,「Aに気をつけるのとBに気をつけるのは相反するから常にAを気をつけようと言っている。これは一貫しているので問題ない。」みたいなのでは乗り越えることができていない問題です。

コミュニケーション論とかの文献を参照しながら考えていくほうが学術的な議論としては適切かと思いますが,それは別の機会に然るべき論考にまとめるとして,試しにここでは1対1の口頭でのやりとりをするという言語使用場面を考えてみましょう。もちろんこのやりとりがどのような状況で,どのような相手との関係性なのか,みたいないわゆる「設定」もどのようなやりとりを行うのかの重要な要因となります。ただし,ここではそういった状況によらないもう少し上位の観点でやりとりを捉え,どのような状況であっても適用することができるような原則を考えてみます。まず,口頭のやりとりを,自分が話すターン,自分が聞くターン,そしてそのターンの交代が起こる場面,の3つに分けてみます。

自分が話すターン

では,自分が話すターンの主原則とは何になるでしょうか。私は,自分の意図を伝えることが最も重要だと思っていますので,それを主原則にしてもいいのですが,それってサッカーでいう攻撃の主原則を「ゴールを奪う」に設定しているのと同じように感じてしまいます。

もしかすると,サッカーというのがどういうスポーツなのかを理解していない人にこうしたプレー原則のようなものを教えても効果がないのと同じように,1対1のやりとりとはそもそもどういうものなのかをメタ的に考えさせることも必要かもしれないとも思いますが。私達はあまりにも日常的に当然のように言葉を使っていますが,実際にそれがどういう構造なのかであったり,どのように成立しているのかについてはほとんど意識したことがないからです。自分があまり熟達していない言語を使う場合には,第一言語を使う場合よりもそういった部分にある程度意識的になることが必要かもしれません。よって,「自分の意図を伝える」ことの重要性というのは伝えてもいいでしょう。ここでは,その目的(サッカーでいうゴールを奪う)をどう達成するのかについての原則を考えてみます。例えば,「相手が自分の伝えたい内容を理解しているかどうかを意識する」みたいなのは主原則になりそうかなと思いました。授業で1対1のやりとりを学生にさせたりしていると,自分が言ってることを口に出したというだけで満足してしまっている例がしばしば見られます。本来は,それを相手が自分の考えているのと同じように理解してくれて初めて「うまくいった」と言えるだけです。しかしながら,この視点が欠けていることが多いように思います。

自分が聞くターン

前節の相手が「自分の伝えたい内容を理解しているかどうかを意識する」という自分が話すターンにおける主原則(仮)と必然的に関わってくるのが聞くときの主原則です。これはもちろん「相手の言っていることを理解する」と言いたいところですが,これも話すときに考えたのと同じようにサッカーに例えれば「ゴールを奪われない」みたいなのと同じレベルになってしまいます。そこで,「自分が理解していることを相手に示す」とか,「自分が理解できていないときはそのことを相手に伝える」みたいなことを主原則にするのはどうでしょうか。

ターンの交代

ターンの交代は明確な時(例えば疑問文を使えば次はその疑問文を使わなかった人のターンになるというような)もあれば,そうではないときもあります。また,1対1であれば複数人で会話しているときと比較すればターンを渡す,自分からターンを取る,というのも容易です。ただし,特に熟達度にばらつきがあるような場合には,話すのが苦手な側が簡単なレスポンスしかしなかったり,あるいは熟達度の高い側が,沈黙になるなら自分が話したほうがいいと考えたりしてどちらか一方が話し続ける時間が長くなってしまうこともよくあります。とはいえ,「共同的なやりとりを心がける」ことだけを目標として掲げてしまうと,”What do you think?”や”How about you?”だけを使って相手にぶっきらぼうなパスを出すだけになってしまうということもよくあります。そこで,ここでは「共同的なやりとりを心がける」という主原則の下により具体的な準原則を示してあげることも大事かもしれません。例えば,「質問をするなら相手が答えやすい質問の仕方をする」とか。実は,話すターンと聞くターンの原則を意識していると,自然とターン交代も起こるんですけどね。

おわりに

本記事では,サッカーにおけるゲームモデルとプレー原則の考え方を言語指導の場面に置き換えて考えてみるということを試みました。記事中ではわかりやすそうな例として「1対1の口頭のやりとり」について考えましたが,これはリーディングだろうがリスニングだろうが,どのような技能についても考えることが可能だと思います。あとは,はてさて言語使用における「ゲームモデル」をどう言語化するかというところがまだできていないかなと思っています。

ゲームモデルを考える際に重要な点でこの記事でここまで言及しなかったことを最後に書いておこうと思います。本記事ではゲームモデルとプレー原則について,サッカーのピッチ上で起こるプレー面に焦点をあてましたが,上掲書の中ではより外部的な要因(クラブの組織体制,やクラブ・国のサッカー文化,クラブの目標)に加え,選手の質や指導者のビリーフなどの要因の影響も受けてゲームモデルが決定されると書かれています。つまり,脱文脈化してゲームモデルとプレー原則を語ることは実はあまり有益ではないことであるとも言えます。この記事で書いたことも,私が自分が普段教える大学生英語学習者,私が今担当している(またはこれまで担当してきた)授業,私が教える大学の外国語科目のカリキュラム,そしてなによりも指導者としての私個人の信念が入っています。サッカーにおけるクラブ,チームという単位をどこに定めるのかというのが難しいところだとは思いますが,そういった視点も持っておくのは重要でしょう。

次回(いつになるかは不明)はサッカーのトレーニングの考え方を言語指導に応用するということを考えてみたいと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

サッカーと英語教育の交差点(2)

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はじめに

先日書いた以下の記事の続編です。サッカーに全く興味がないという方もいらっしゃるかもしれませんが,そういう方もぜひ「急に脱線しますね」のセクションだけでも読んでいただけると嬉しいです。

サッカーと英語教育の交差点(1)

下記の本も読み終わったので,本の中で英語教育と結びつけて考えられるなと思ったところを引用しながら記事にしたいと思います。

前回書いたことをざっくり振り返ると,要するにサッカーというスポーツの競技力を向上させることと,言語能力を向上させることの間には共通点がたくさんあるんじゃないかということですね。そして,そのキーワードは「複雑系」です。これまでも,言語能力の発達を複雑系で捉えることだったり,あるいは特にTask-based Language Teachingの文脈で身体技能の発達を例にとって言語能力の発達を捉えるみたいなことは「話の種として」出されることはあったように思います。

私が記憶している中だと,浦野先生が自転車に乗る話の例を出したり,松村さんがジムでゴルフのトレーニングをする子供の話をだしたりという感じです。この戦術的ピリオダイゼーションの本は,そういった例をもう一つ上のレベルに引き上げてくれると思っています。なぜなら,サッカーという複雑なシステムを捉える目を持ちながら,それを具体的にどうやってトレーニングに落とし込むのかという視点もあるからです。もちろん,サッカーの練習のことを学んだって,と思われるかもしれませんが,サッカーという複雑なゲームをどうやって要素還元主義に陥らずにトレーニングに落とし込むのかという「考え方」それ自体は,言語能力という複雑なものをどうやって要素還元主義に陥らずに指導できるか,ということを考えるヒントを与えてくれると思うからです。

よって,サッカーに興味がある言語教育関係者はとにかく上記の本を読んでみることをおすすめします。途中の具体的なトレーニング例は,何を意識しているのかさえ理解すればあとはさっと流し読みする程度でいいと思います。

急に脱線しますね

長々となってしまうかもしれないので,先に結論言っておきますが,私は戦術的ピリオダイゼーションのような考え方でサッカーの練習を考えるのと非常に似た思想がTask-based Language Teachingであると思っています。また,タスクとはなにか,とかタスクの定義,と言われるようなものがなぜ大事であるのかというのは,タスクでなくてはいけないから,とかそういうことじゃなくて,その定義を満たすような活動(サッカーでいえば練習)を設計することによって,実際の言語使用場面(サッカーでいえば実際の試合)を意識したトレーニングをすることができるからです。よって,「これってタスクですか?」「それはタスクではありません」みたいなやりとりが不毛なのはその部分の共通理解が不足しているからだと思っています。つまり,実際に私達が言語を使用する時の状況に近づけるように言語活動を設定しようと思ったときに,その指針としてタスクの定義というものが有益であるということです。

実はまさにこのことをテーマにした共著の論文を昔書いたことがあります。

福田純也・田村祐・栗田朱莉(2017)「中学校教科書における口頭コミュニケーションを志向した活動の分析―第二言語習得研究におけるタスク基準からの逸脱に焦点をあてて―」JALT Journal, 36, 165182.

この論文は無料で読めるし日本語で書いてあるのに(だから?)ほとんど引用されることがないのが悲しいですが,タスクの定義( e.g., 意味中心,ギャップがある,リソースの指定がない,結果としての成果がある)というものを使ってコミュニケーション活動を良くするにはどうしたらいいかを研究の知見を借りて考えてみましたというような論文です。別に目新しいこと言ってるわけでもなんでもないんですが,タスクの定義というものがなぜ実践的に価値があるのかについて述べた論考です。

「サッカーはサッカーでしかうまくならない」

さて,ここからが本題です。

前回の記事でもこのことが書いてある一節を紹介したのですが,もう少し具体的なことが書いてある箇所を引用します。

例えばハードな筋力トレーニングをこなしたにもかかわらず、実際のゲームやトレーニングでのデュエル(1対1の競り合い)に勝てないという現象はよく見られる。だが、実際にプレー中に起きる「ぶつかり合い」を分析してみると、そこにはあまりにも複雑なプロセスが関連していることがわかるはずだ。相手がどの方向からどのような状態で自分に向かってくるのかを認知すること、その場面における最適なプレー方向やプレー方法を選択するための意思決定をすること、相手をブロックしながらもボールのコントロールを失わないための身体のコントロールを維持することなどを一瞬のうちに同時並行で行うことが求められる。しかも、このような複合的な動作は90分の間休むことなく続き、しかも自分の他にも味方の10人、相手の11人も同様の意思決定を行い続けている。このように考えると、単純な筋力トレーニングだけで試合におけるデュエルの勝率を改善するのは不可能とは言わないが、効率が悪いのは間違いない。

山口遼. 「戦術脳」を鍛える最先端トレーニングの教科書 欧州サッカーの新機軸「戦術的ピリオダイゼーション」実践編 (Japanese Edition) (Kindle Locations 151-160). Kindle Edition.

「筋力トレーニング」の部分を何かしらの下位技能のトレーニング(発音練習とか単語を書いて覚えるとか)に置き換えて考えれば,言語能力を高めるトレーニングと実際の言語使用の間のズレの話でも同じことだと思います。つまり,実際に言語使用する際には(単一の技能だけに限らずどの技能でもまたは技能統合が要求される場合でも),非常に複雑な意思決定が瞬時に求められますよね。もちろんサッカーの試合のように90分みたいな時間それが続くことはあまりないにせよ(ただ,極端な話10秒以内で完結する場合もあれば,仕事で英語を使うみたいな場面なら90分どころか1日中というケースだってありうる)。だからこそ,教室の中でどれだけリアリティを意識させながらトレーニングするかというのが重要になってくるわけです。前述のように,そのヒントとしてタスクの定義はヒントになりそうだよねということです。

トレーニングを要素や局面ごとに分割し、例えばパスだけ、シュートだけ、1対1だけ、というような環境との相互作用が存在しないトレーニングを行うと、実際の試合で経験するリアリティが欠けた状態になってしまう。ゆえに、戦術的ピリオダイゼーションでは、サッカーを構成する要素が包括的に含まれていることが推奨されている。

山口遼. 「戦術脳」を鍛える最先端トレーニングの教科書 欧州サッカーの新機軸「戦術的ピリオダイゼーション」実践編 (Japanese Edition) (Kindle Locations 354-357). Kindle Edition.

「包括的に含まれている」という部分と,「環境との相互作用」が大事だと思います。つまり,サッカーというのはその試合を構成する要素や技能に分解して練習し,それを向上させてもチーム全体のシステムの向上にはつながるわけではない,とか,個々人の能力の向上がチーム全体のシステムの向上につながるわけではない,といえそうです。

ただし,それってじゃあひたすら試合と同じ11対11の試合をやるしかないってこと?って話になりますよね。著者の主張は(もちろん私の主張も)そういうことではありません。

システムの中にあるサブシステムに着目し,そのサブシステムを対象としたトレーニングを行うことが推奨されています。

戦術的ピリオダイゼーションで推奨されるトレーニングは、「試合で起こる状況や構造を再現し、パフォーマンスを様々な階層間で最適化していくこと」と言い換えることができる。

山口遼. 「戦術脳」を鍛える最先端トレーニングの教科書 欧州サッカーの新機軸「戦術的ピリオダイゼーション」実践編 (Japanese Edition) (Kindle Locations 384-386). Kindle Edition.

例えばサッカーでは,自陣からパスをつないで相手の守備をくぐり抜けて前進していくことをビルドアップと言ったりします。そこで,ディフェンスの選手がどうやって相手のプレッシャーを回避して中盤の選手や前線の選手にボールを届けるのか,という部分のトレーニングをするとします。これがサッカーというゲームの中のある種のサブシステムといえます。そして,そのサブシステムの中でもさらに,例えばDFラインのサイドの選手にボールが入ったときに守備的な中盤の選手(ボランチといわれる役割の選手)がどうやってサポートに入るのかといったもっと小さなサブシステムにフォーカスして,このサブシステムがどうなれば上位のシステムや全体のシステムが向上するのかを考えるということです。

言語使用をシステムだと考えるのであれば,じゃあその時のサブシステムとは何になるか,というのは考えてみる価値のある問いではないかと思いました。また,そのときに,どのような規模のサブシステムを取り出したときにも共通する構造(この本ではサッカーでいうそれは「ボール」,「目的地」,「スペース」,「切り替え」などだと言われています)を見つけることができれば,それを含んだトレーニングを考えればよいことになります。この点は私の中でも答えはまだ出ていませんが,実践編としてトレーニングメニュー実例集というのが第4章にあります。ここでゲームモデルをどうやってトレーニングメニューに落とし込んでいるのかを読み解くことで,その考え方を概念的に言語指導にも応用できないかを考えることはできるかもしれないと思っています。

おわりに

本当は,このあとのセクションで上掲書のもう一つの肝であるゲームモデルとプレー原則という話も英語教育に引きつけて語ることができそうだなと思ったのですが,複雑系の話に出てくる概念やサッカーの説明が思いのほか長くなってしまい,1つの記事にまとめると10,000字を超えてしまいそうでした。そこで,とりあえず第2弾の記事はここで一旦おしまいということにして,第3弾でゲームモデルとプレー原則の話をメインとした記事を公開しようと思います。前述のとおり,上掲書には実践的な部分も含まれていて,具体的なトレーニング方法についても豊富に紹介されています。この第4章の考察も第3弾かまたはその次の記事として書けるかなと思います。そして,第5章ではゲームモデルを持たないのに優れたシステムとして機能しているように見えるチームの例としてスペインのレアル・マドリーが紹介されています。このレアル・マドリーはどういう仕組みでうまくいっているのかについての分析も非常に興味深く,レアル・マドリー的なアプローチも言語教育の視点で考えることができると思いました。このこともまたブログに書こうと思います。というわけで,2本で終わるつもりがなんだかこのブログ始まって以来の大型連載みたいになってきました(笑)

少し前まではブログ書くこと全然ないなと思っていたわけですが,やっぱりインプットをすれば何かを書きたくなるもので,インプットが足りていなかったのかなと今は思っています(インプットしていなかったわけではまったくないんですけどね)。夏休みで時間に余裕がありますし,専門の本も,そうでない本も,もっと読む夏休みにしたいなと思います(もちろんそれ以外にもやることはあるしやってるんですが)。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

サッカーと英語教育の交差点(1)

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はじめに

『2050年W杯 日本代表優勝プラン』という本を読みました。東京五輪で日本の男子サッカーチームは準決勝でスペイン代表に破れ,そして三位決定戦ではメキシコに破れました。金メダルを目標として掲げていましたが,2012年ロンドン五輪の4位をまたしても上回ることができませんでした。地元開催で招集メンバーもベストというアドバンテージを活かせず,メダルにも届かなかったという事実を受け止め,ここから強くなるためにはどうすればいいんだろうと思っていました。そんななかでこの本を見つけたので読み始めたわけです。

また,その流れで別の本も読んでいます。

この2冊の本を読んでいくうちに,いくつか自分の職業的興味である英語教育の部分にも当てはまるなと思うような話がいくつか出てきました。この記事では適宜引用しながらサッカーの話を英語教育の話に置き換えてその「交差点」を描きたいなと思っています(風呂敷広げすぎ)。

応用力と判断力

『2050年W杯 日本代表優勝プラン』の第3章「2050年までの選手育成プラン」の中に以下の記述があります。

林舞輝さんがスキーマセオリーでのシュート練習(常にシチュエーションを変えて行う)の話をしていたけど、あれはホントにその通りだなと思います。特に日本人は「応用力が足りない」とか「臨機応変が苦手」とか「とっさの判断が」とか言われがちなので、なおさら。

川端暁彦,浅野賀一. 2050年W杯 日本代表優勝プラン (Japanese Edition) (Kindle Locations 1627-1629). Kindle Edition.

サッカーというスポーツは11人対11人で行われるスポーツですが,近年では選手の身体能力が飛躍的に向上したことを背景に,プレー中に瞬時の判断が連続的に求められる非常にスピーディな展開が世界の最先端となっています。W杯で優勝することを考えると,そのレベルでのプレーが求められるわけです。ただ,サッカー界では昔から日本人は監督に言われたことはできるが自分たちで判断するのが苦手だと言われ続けていました。

これは英語教育で言われている問題,「学校で英語を学んでも実際に英語を使うことはできない」みたいな話と通底する部分もあるかもしれないなと思いました。おそらくどちらにも共通するのは,実際に力を発揮すべき場面が想定された練習(トレーニング)がされているかという点だと思います。サッカーであれば試合が本番で,そこで最大限のパフォーマンスをするために練習します。言語使用であれば,実際の言語使用場面を想定してトレーニングをしないと,練習のための練習になってしまいますし,練習でやった場面が試合中に現れないとしたら,練習の成果を本番で発揮することができないわけです。サッカーの試合であれ現実の言語使用場面であれ,様々な要素が複雑に絡みあって予測不能な展開が発生するものです。それに対応できるようにするためには,その予測不能な展開が発生する状況を練習の中で意図的に作り出す必要があるわけですよね。この点で,サッカーの試合で求められる「応用力」と,言語使用場面で求められる「応用力」は割と近いものがあるんじゃないかなと思っています。

サッカーでは「止める,蹴る」という言葉が最近バズワードになりつつあって,それはJ1リーグで首位を独走する川崎フロンターレの躍進とも関係が深いです。つまり,「(ボールを)止める,蹴る」という基礎技術の正確性にこだわることがサッカーの質的向上をもたらすということですね。先述のように,現代サッカーはボール保持時の余裕がない状況がどんどん増えていますから,その状況でも正確にボールを扱える技術がレベルがあがればあがるほど重要になります。サッカー初心者でこれがまったくできない人にとっては,この基礎技術だけを取り出して,敵もいない状況で,ひたすら転がってきたボールを足元に止めて,正確なキックで相手にボールを渡す練習をする必要があるでしょう。しかし,実際の試合では自分の体の向きやボールを受ける場所,味方との距離や方向,そして相手の位置も刻々と変化し,その中で正確な技術を出すことが求められるわけです。よって,「止める,蹴る」の技術向上を目指したとしても,少しでも試合で起こりうる「止める,蹴る」の状況の中で練習する必要があるでしょう。これを言語教育にうまく置き換えて練習を考えられるかどうかというのは私が個人的に挑んでみたい課題です。

さて,こうしたサッカーの練習に対する考え方の背景にあるのが,サッカーに関わる要素を分解して取り出して向上させようとしても,それが全体の向上につながるわけではないという考え方です。つまり,要素還元主義を否定し,サッカーを複雑系と捉えなおすということになります。この考え方に基づいているのが,「戦術的ピリオダイゼーション」という概念です。

こうしたことを考えていたら,結局サッカーでも英語教育でも,日本人はだめだみたいな言説の根っこにある問題って共通しているのかもしれないなと思ったわけです。もちろん,学校の教育はプロサッカー選手の育成や日本代表が世界で勝つみたいなことを目指した育成とはぜんぜん違う論理のもとで行われていることです。ただし,サッカーと言語使用というのは,どちらも複雑系であるという点で共通点があると思います。したがって,サッカーのレベル向上を目指す試みの中には,言語使用のレベル向上を目指す営み(としての英語教育)にも示唆があるのではないかと思っています。

指導者としての態度

W杯で優勝するためには,そのための選手を育成する必要があります。書籍紹介でも「30年後の主力選手はまだ生まれていない!」という記述がありますが,『2050年W杯 日本代表優勝プラン』の第4章「2050年までの指導者育成プラン」はそうした選手を育てる指導者についての話です。その中に,長崎総合科学大学附属高等学校の小嶺監督に言及した次のような記述があります。

現代っ子に響く言葉、態度を探している。言われていたのが「最近の子どもは変わってしまったから難しいとか言うけど、それは指導者として言い訳だろう」と。「子どもが変わって指導が響かなくなってるなら、響かせる指導に変えないといけない。それでこそ指導者だ」と言うんですね。あと、「そもそも昔が美化されちゃうだけで、子どもはそんなに変わっていないよ」とも言っていましたが(笑)。(強調は筆者)

川端暁彦,浅野賀一. 2050年W杯 日本代表優勝プラン (Japanese Edition) (Kindle Locations 2537-2541). Kindle Edition.

これは教育という仕事に携わるものとしてぐさっときました。別に教育にかかわらず一般的に,「最近のXXは」(XXには若者,学生,新卒など若年層の集団を表す言葉が色々入ると思います)で始まる否定的な言説はよくあると思います。教育という行為自体が教師-児童・生徒という関係性にの基づいて何らかの知識や技術を身に着け「させる」ことから完全に逃れることができない以上,そこに相手を変えようという暗黙的な気持ちが入り込む余地は大いにあります。そういう状況で自分のやり方がうまくいかなかったときに,ベクトルを自分に向けられるかどうかっていうことですよね。

少し英語教育からは話がずれますが,上記引用のあとには次のような浅野さんの発言があります。

フットボリスタ(筆者注:著者の一人である浅野さんが編集長を務めるサッカー雑誌)でも取り上げたメンタルコーチのメソッドで再三言われたのが「自分でコントロールできないことに意識を割かないこと」。たとえば、そのメンタルコーチによると試合に出られない選手はたいてい「監督が使ってくれない」と言うと。ただ、監督が自分を試合に使ってくれるかどうかは監督が決めることでコントロールできない。そうじゃなくて、自分の成長にフォーカスすべきだ。それは具体的に計測できるものがいい。そうやって自分が成長すれば、結果的に試合にだって出られるようになるかもしれない。(強調は筆者)

川端暁彦,浅野賀一. 2050年W杯 日本代表優勝プラン (Japanese Edition) (Kindle Locations 2545-2549). Kindle Edition.

私は大学教員・研究者という職業柄,上司に「使ってもらう」ような仕事はしてませんが,自分がコントロールできないことに意識を割かない,というのは生きていく上で重要だと思っているので,日々このことを意識しながら生活しています。

そして,このあとにもまた指導者の話に戻ります。

川端:ただ、理屈ではわかっていても実践するのは簡単ではない。特に一度『成功』してしまった人ほど難しいと思う。よく小学生とかで活躍しすぎるとよくないみたいに言うけど、それもこういうところだと思う。努力や工夫ではなく、結果を褒められちゃうだろうし。

浅野:成功したそのやり方が正しいとなっちゃうしね。下手な成功体験は怖い。

川端:よく「正解を教えるんじゃなくて試行錯誤させなさい」というのも、そういうことだと思います。別の機会で壁に当たったとき、新しい道を探そうというマインドを持っていること自体が大事というか。

浅野:特に若いうちはそれだよね。

川端:正解を教えて助けてあげたくなっちゃうのも人情ですけどね(笑)。それで教えて感謝されたことで満足しちゃう指導者は、やっぱり二流なんだと思います。(強調は筆者)

川端暁彦,浅野賀一. 2050年W杯 日本代表優勝プラン (Japanese Edition) (Kindle Locations 2552-2560). Kindle Edition.

私も,正解を教えるのはあまり好きじゃないんですよね。でも,教えられる側(学生側)からしたら,「(周りに間違えたって思われるから)間違えたくないし間違えたら(先生から)怒られるんだから,最初からどうしたらいいか教えてくれたらそのとおりにやりますよ」っていうマインドなんじゃないかなと思っています。大学教員としての私の仕事は,その価値観を揺さぶることだと思っています。間違えたって怒らないしそもそも世の中でぶち当たる問題のほとんどには「これだ」という唯一の正解なんてないものなわけです。そのときに大事なのは,浅野さんの言葉にあるように自分で何が正解か,どうやって解決すべきかを考えようとすることだと思います。言語学習も同じようなもので,なかなか正解を1つに決めるのが難しいですし,要素還元主義的に学習をすることも(そのほうが学習者にとっては馴染みがあるし取り組みやすいものだとしても)推奨しづらいのです。だからこそ,教える側もわかりやすさを求めたり,正解を教えて満足しちゃう方に流れがちです。そこで一度踏ん張って自分にベクトルを向けて,指導者として一流になりたいなと思います。

ひとまずおわりに

少し長くなったので,続きはまた別の記事で書こうと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

最短距離は常に最良かまたは余剰の意味とはなにか

はじめに

下記のブログ記事を読んで考えたことをもとにツイートしたことのまとめプラスαの記事です。

タスクの達成を重視することの弊害

上のブログ記事の内容からは少しずれますが,タスクの達成を重視したときに無味乾燥な言葉の投げ合いになってしまうことがある状況は授業でも気になることがしばしばあります。逆にまどろっこしくてもすれ違いがあっても遠回りでもやりとりをしてるのを見ると,「いいぞいいぞ」という気持ちになることが多くあります。学生からすると,私がいいなぁと思うのはむしろ「良くない」,サクサク終わるのが「良い」という思いがありそうな気がしています。先日の英語教育2.0newsletterのPCの流暢さの話にもかするかもしれませんが,無駄のないコミュニケーションがいい場面というのは言葉のやりとりの中で割合的に限定的なはずでは?っていう思いもあります。要するに,ある課題を達成するときに要する時間が短ければ短いほど良いというわけではないということですね。

無駄なことはしたくない,というのはそりゃそうだし,一回のやりとりで済むことを複数回繰り返すめんどくささも日常にはあります。でもその余剰を限りなく削ぎ落とした時の人間のコミュニケーションはもはや機械のコミュニケーションなんじゃないかな,みたいなことを思わなくもないわけです。それが身につけてもらいたいコミュニケーション能力かというと,違うよなぁと。

効率至上主義的な考え方がいろんなところに蔓延っていることも無関係な話じゃないかもしれません。スムースでスマートなやりとりが悪いわけじゃありません。ただ,泥臭い内野安打でもヒットはヒットだし,タスクの達成が評価されるというのはむしろそういうことなんじゃないかなぁっていう気もします。

サッカーに例えてみる(無理やり)

話を元の話題に戻すと,余剰を生み出せる,直線的ではないということがむしろ能力の表れでもあるっていう内野安打とは逆の考え方もできるかもしれませんね。サッカーもロングボール蹴ってこぼれ球拾う戦略もある。でも能力のあるチームはGKからつないで,相手を剥がして,崩して,ゴールするんですよ。手間かけてる。それができる能力があるから。相手にプレッシャーかけられてもつなげる技術があるから。現在J1リーグで圧倒的な強さを誇っている川崎フロンターレはまさにそうですよね。

直接的に関係のない(かもしれない)ことを会話の中に差し込める事というのは,タスクの達成には直接寄与しないかもしれません。しかしながら,それは能力がないとできないわけです。ロングボール蹴れば得点までたどり着くスピードは早いかもしれないし,後ろでボールを失って相手に得点機会を与えるリスクも少ない。でもサッカーは90分。言語のやりとりも,過度に時間制限をかける方が本質を見れないリスクはありますよ。

もちろん,適切に時間制限があるからこそ,考えたことを素早く言語化して口に出すという意味での流暢さを鍛える機能はあります。ただし,それが適切ではないと,時間の余裕があれば生まれた有意味な意味交渉も削り落とされた旨みもない薄味スープになっちゃうわけです。

じゃあ適切な時間設定教えてよってなりますよね。でも,それは一義的に決まらないのです。やりながら試行錯誤するしかない。あーこれは短すぎるか,長すぎるかという経験と,あとはある程度タスクによって長めでいいのと制限かける方がタスクの良さが活きるものがありますからそれとの兼ね合いです。

最後にツイートを一つ紹介

ツイートに対して浦野先生から反応があったのでご紹介。

タスク設計の問題となると,例えばですが描写課題であればディテールにこだわることが求められるようになっていたりすることで解決可能かもしれません。間違い探しのようなsimpleなタスクであっても,違いが有り無しのような単純なものではなく,大きさや長さ,幅のようなものだと必要になる描写の質も変わってきますし。reasoningが必要になるタスクであればそこの質が求められる設計になっていればやりとりの質もあがってくるかもしれません。

評価に関して難しいのは,テスト場面ならある程度示すことができますが,通常の授業場面ではタスクの達成以外(その過程)を評価することがほぼ不可能という問題があります。ただ,私は評価がこうだから,という構造的な解決よりも,学習者に余剰の意味を理解してもらうことを心がけています。評価されるからそれに従う,という構造的解決は少なくともこの事例についてはあまり個人的に好ましいとは思えません。それよりはむしろ,余剰を楽しめる様になることを通してその余剰を生み出せる能力の伸長を期待するというアプローチをとっています。

そういうやりとりはいつでもポジティブなフィードバックをしていますし,一見遠回りで時間がかかっても頑張ってお互いの理解をすり合わせたり細かい部分にこだわってやりとりしているところをできるかぎり拾い上げて全体に共有するようにしています。そうやっていくことで,「それがいいものなのだ」という意識を植えつけていくというイメージです。

宿題

この問題は,次にPodcastにお呼ばれしたらanf先生と話すネタにしますかね…

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

【レビュー】タスク中のL1使用について

はじめに

超久しぶりに論文のレビュー記事。対象は以下の論文。メモ的なものです。

Xu, J., & Fan, Y. (2021). Task complexity, L2 proficiency and EFL learners’ L1 use in task-based peer interaction. Language Teaching Research, 13621688211004632. https://doi.org/10.1177/13621688211004633

概要

Task complexityの異なるinteractiveなタスクに取り組ませ,その中でのL1使用について,熟達度グループごとの比較をした研究です。上級グループでは複雑なタスクでL1の使用が増加しており,このL1使用はメタ認知的あるいは文法に関する会話の役割を担っていた。一方で,下級グループではそういった傾向は見られなかった。という話です。

本研究

RQ

  1. タスクの複雑さがL1使用に与える影響
  2. タスクの複雑さがL1使用に与える影響は熟達度によって異なるか
  3. タスクの複雑さはL1使用のどのような機能に影響を与えるか
  4. タスクの複雑さがL1使用の機能に与える影響は熟達度によって異なるか

参加者

  • 48人の中国語話者大学生
  • 大学一年生でレベルの違う2つの大学からリクルート(24ずつ)
  • レベルの高い方->high group, レベルの低い方-> low group

タスク

  • 複数コマのナレーションタスクで,Mr. Beanの動画の一部を10コマで表したものが2種類あって,それを二人で協力してナレーションするタイプの課題です(どっちの素材でもsimple/complexでやった)
  • 複雑さの操作
    • Robinsonのフレームワークの中で,+/- here and nowを選択
    • + here/now は絵を見ながら現在のこととして,-here/nowは写真を見ずに過去のこととしてという感じ(絵を見る時間は3分間でメモとかはなし)
    • expert ratingでも難しさの違いがあることは担保してる

手順

  • L1は使う必要があると感じたら使っても良いと言われている
  • within subject-designで同じ学習者が2つのタスクをやる

データコーディング

  • まずはL1の使用をコーディングして5つのカテゴリに分類
    – metacognitive talk(タスクのマネジメントなどについての発話)
    – grammar talk(文法について話す)
    – vocabulary talk(語彙について話す)
    – phatics(expressions such as ‘mmm, yeah, ok’みたいなものらしいです)
    – off-task talk(タスクとは直接関連しないもの)
  • L1使用の量については次の3つ
    • 全発話語のうちのL1の発話語
    • 全ターンのうちのL1のターン
    • predominant L1 turns(L2の語数と同じかそれよりもL1語数が多い)とminor L1 turnsに分類

結果

結果は以下の通り。

検定を何回もやるので有意水準を1%に設定
  • 語数とターンでは有意差あり(難しいほうがL1多め)
  • ただしpredominant L1 turnsでみると差はない
  • ただしSD広め
  • 一応RQ1はYES

熟達度別で見ると…

熟達度低いグループでは差がない->RQ2はYES

機能別では…


1%基準で有意なのはgrammarだけ


熟達度も入れてみてみると,高熟達度群でmetacognitive talkとgrammar talkだけsimple/complexの差が有意

議論

  • 以下の記述を見ると,そんなにL1使用が多かったとは著者たちは思ってないっぽい

Our results show that the participants did not use their shared L1 excessively, 27% in the simple tasks and 31% in the complex tasks. In other words, in spite of the fact that participants were allowed to use Chinese, students did not rely much on their L1,….

p.11
  • 先行研究よりは多かったということは言っているけど<-3割はさすがに多すぎでは?(今作っている教科書では,9割以上英語で話せたかというのを目安に自己評価をさせようということでいまのところやってます)
  • 意味中心のやりとりだとL1使用が多くなるとは言われているから,それが原因かも(Moore 2013, Tognini & Oliver 2012がそういうこと示したらしいけど,それどういうロジックなんだ?)<-読んでないです
  • more complex, more L1

熟達度に違いがあるL1使用例

論文中で会話のスクリプトが出てるんですがここでは要約だけ。

High group

  • complex task
    物語の詳細を描写しようとしたり,描写の質をあげるためにL1使ってる
  • simple task
    語彙を探しているときに使ってる

Low group

  • complex task
    – そもそも細かいとこまで描写しようとしてない
    – 過去形も使ってないし,それを修正しようともしない(low awareness towards linguistic forms)
  • simple task
    – こっちだと逆に細かいとこまで描写しようとする
    – でも能力的にそこまでできないのでL1を使う(主に語彙)
    – 結果的にどっちでもL1使用の量は変わらない

L1の機能

  • task management的な部分でL1使う(役割分担,どうやってナレーションするか,絵に含まれる情報,などについて話すときにL1使う)

なぜ高熟達度はL1使用多い?

  • 高熟達度群は,英語力にある程度自信があるので,より目標を高く設定して頑張ろうとする
  • その際にどうしたらうまくできるか試行錯誤する過程でL1が出てくるのではないか
  • 低熟達度群は,自分たちに自信がある内容自体とタスクを達成することに注力していた

感想

そもそも

complexなほうがL1多いと言うけれど,それはcomplexなタスクだからということではなく,学習者に与えるタスクとして(少なくともtaskを授業で使うという目的に照らして)間違っているということではないのかなというのが最初に思ったことです。機能をみたときにmetacognitive talkが他と比べてかなり多いというのは,タスクの進め方について十分な指示が与えられていなかったという解釈もできると思います。タスク遂行(今回であれば絵を描写すること)に必要なリソースは,タスク遂行についてのリソースとは異なるでしょう。pre-taskというとタスク遂行そのものへの準備に焦点がついつい向かってしまいますが,タスクをどう進めるかについても学習者はやり取りする必要が生じることはもっと認識されていいでしょう。そこでL1を使ってほしくないという思いがあるならば,task managementに必要な汎用性の高い表現は与えてしまって,それが使えるようにしてあげることはしても良いんじゃないかなと思います。そうでなければ,進め方を話し合わせなくてもタスクができるように具体的な指示を与えるべきでしょう。

そういったことまで含めて,大事なことはtask単体の複雑さどうこうの効果というよりも,授業の構成でそこをどうカバーするかだと思うし,授業の前後になにをやるかのほうがよっぽど授業内のL1使用に影響を与えるのではないかなと(それもtask complexityのmanipulationだと言われたらそうなんですけどね)。だとしたら,そうやっていろんな要因がある中で1つだけを取り上げてこういう形の研究やることって理論への貢献もあるのかないのかわからないし(いろんな要因の+/-を操作してL1の使用を調べた研究がたくさん集まったらメタ分析ですか?),実践の参考にもなりそうでそんなにならないですよね。

それタスクか?

あとは,ナレーションするタイプのタスクはいいとしてもそれを2人でやるっていうのは状況がかなり特殊だし,そもそもそれタスクとしてどうなん?という指摘もあると思います。インタラクティブなタスクをやらせるならもっとそれに適したタスクはあるはずだし,コマ使うなら10コマをバラバラに渡して,コマをストーリーの順番に並び替えるような情報合成型のタスクにすればよかったんじゃないかなとか思うところもあります。

もっと授業に関しての記述を

あとは,この論文は授業に関する記述が明らかに少なすぎだと思います。タスクをどう実施したかが5行だけです。通常の授業の中でやられたとは書かれていますが,そうだとしたら普段どのような授業をしているのか,授業と関連させているのか(授業の成績とは関係あるのかないのか),どういうビリーフの教師が普段教えているのか,等が決定的に重要ですし,実践に近いことをやるならそういうことを詳しく記述しなければ実践者が参照することも他の研究結果と比べることも難しいでしょう。実践に近いことをやればやるほどそういう要因で結果が容易に変動することは誰しもが想像できるわけですから。査読者もそういうのちゃんと指摘してほしいなと思います。

ペアの差の考慮

結果の表を見ると,SDがかなり広いですよね。だとしたら,それはペアで傾向がかなり異なっていることを示しているわけですから,こういうときこそマルチレベルの分析しないといけないんじゃないかなと思います。まああんまりテクニカルな分析に関しての指摘はしたくないので,あくまでsuggestionて感じですけど。

おわりに

面白そうかなと思って読んだら面白くなかったというオチでした。タスクのことは知識として持っておかないとなと思う一方で,こういう論文はそろそろ読むのがつらいです。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

追記

Twitterで反応をもらったので追記します。やや複線化してますけど。

上のレビューでは先行研究のレビューの部分をがっつり端折ってしまっていますが,最初のイントロの部分で,インタラクション中のL1使用はL2 learningにポジティブなインパクトをもつという前提にいることを書いてはいます。

(前略)a growing body of research supports that students’ L1 use can be a social and cognitive tool (Alegría de la Colina & García Mayo, 2009; Antón & DiCamilla,1998; Storch & Aldosari, 2010; Thoms, Liao & Szustak, 2005). That is, judicious use of L1 can enhance L2 learning, giving full play to it as a mediating tool to analyse language and perform tasks. Specifically, L1 contributes to supporting peer interaction, helping learners’ negotiation of social identities and pro- moting the exchange of more meaningful and sophisticated ideas (Al Masaeed, 2016) (p.2)

で,このあとに,L1使用に影響を与える要因として熟達度があることを指摘し,それに加えてタスク要因もあるんじゃないかということで本研究がそこを見るよという流れですね。

ただ,そうであっても個人的にはタスクを用いる理由とその背後にある理論を考えれば,L2使用にこだわる理由があると考えるので上の「そもそも」に書いたようなことを思ったということになります。そういうバイアスで読んでいたので,「L1使ったからどうだっての?」という亘理先生の指摘は最もです。

とりあえず一旦ここまで。また加筆するかもしれないです(2021/04/28 19:15)。

2020年度に更新したオンライン授業関係の記事まとめ

大阪はここ数日感染者数がどんどん増えていて,大阪府からの要請で勤務先も4/19から遠隔授業となりました。昨年度春学期に色々とこのブログでオンライン授業関係の記事を書いたので,備忘録と,オンライン授業関係の情報を求めている方に少しでも助けになればと思いここに関連記事をまとめておきます。

オンラインで語学の授業をする際に取り入れたい「やりとり」のためのSlack活用

語学の授業にSlackを導入してみましょうというときに必要となる情報をまとめました。

オンライン授業と対面授業の差分から見えるもの

これオンライン授業に慣れた今でも考えたいことですね。

オンライン授業での「顔出し」問題 (1)

ビデオ会議システムを利用した際に,学生がカメラをオフにすることについて。

オンライン授業での「顔出し問題」(2)

左の記事の続き。主に,コミュニケーション上生じる問題について。

ペアやグループでの「会話テスト」もテキストチャット (Slack) なら効率的に回せるかもという話

擬似的スピーキングテストをSlackのテキストチャットでやろうという話。

Slackを授業で使ってみてわかった課題

授業で実際に使ってオンライン授業をやってみて,うまくいかなかったことについて書いています。

slackを利用して,「全員の前で」スピーチさせるスピーキング活動

個人的にはこれは対面授業でも活用できるテクニックかなと思っています。

slackでテキストチャット型テストをやってみた感想

上の記事で書いたアイデアを実際にやってみての報告です。

slackの通話機能でスピーキング活動しよう(案)

これは対面授業でもSlack使おうという話。実際に2020年度秋学期はここで考えたことを実践しました。

Task-basedなレッスンにおける教員が与えるインプット

以前,タスク教材集が出ましたという記事を書きました。これに関連する話です。

この本では,タスクそのものをタイプ別に掲載してあります。一応そのままでも授業に使えるように,デフォルトの「レシピ」的なものは書いてあります。ただし,これを使って例えば大学の90分の授業を「真面目に」成立させようと思うと,タスクの前の活動(pre-task)とあとの活動(post-task),タスクの繰り返し(task repetition)等も考えないといけないのでひと手間かかります。今年は自分が担当する授業のうちの1つでこの本に掲載されているタスクでシラバスを作ってやろうと思っています。というわけで,掲載されているタスクをレッスンプラン的なものに落とし込むようなことをやっています。

そこで,私としては最も重要視したいと思っているのが「まずはインプットから」という大原則。学習者同士のやりとりがメインだとしたら,その前にインプットをたくさん与えたいわけです(もちろんメインがinput-taskでもその前にinputがほしい)。その際に重要になるのが,教師自身がinput providerになれるかどうかということだなと感じています。教員が教室内で話す(または書く)英語が,挨拶,”Open your textbook…”みたいな指示英語,repeat after meのモデルというだけではなく,いわゆるインプットの素材として,学習者が聞いたり読んだりする意味のあるものであることが非常に重要ではないかと思っています。そして,既製の音源ではなく教師がやれば,活動の幅がぐっと広がる上に,学習者のレベルに合わせてインプットを調整することもできるわけです。授業をやっていく上でこのことの利点を活かさない手はありません。学習者に描写させるのであれば,教師自身がまず描写してみせる,というように。これって言ってることは簡単なんですが,実際にはそれなりにchallengingであり,教員のスキル(英語そのもののスキルと指導のスキル)が要求されます。そこに自信がないのであれば,自分が達成する自信がないと思うような課題を学習者に与える教員てどうなの?ってなりますよね。そこはプライドを持って教員もトライしたいところです。ただ,そういう意味でいうと,task-basedなレッスンをやるのは敷居が高いと敬遠されてしまうのも理解できるかもしれないと思ったりしてしまいました。

英語の先生になると信じて疑わなかった学部生の自分に要求できるかというと,正直難しいなと思ってしまったことも事実です。学部3年で教育実習に行ったとき,英語で授業することに非常に苦労をして自分の英語力に絶望し(もともと英語が得意だと思っていたからこそ英語教員を目指そうと思ったのに),このままじゃ自分に自信がないからと教員採用試験を受けずに学部を卒業してから北米の大学院に行って英語教授法の修士号を取り,中学校で臨時任用教員として10ヶ月勤務し,そこからさらに博士課程に進学し,非常勤講師として専門学校や大学で英語を教えました。今の職場に来て今年で4年目です。それでも,まだまだ学習者にとってベストなインプットを与えられるような授業ができているかと問われると,まだまだ改善すべき点は多いなと毎週感じます。

実際に授業をやってみたリフレクションなんかの記事も今年度は更新していけたらいいなと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

活動の足し算と引き算

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はじめに

大学で使用されることを想定とした教科書を作るっていうのを考えたとき,必要最小限の核となる部分だけを提供して,あとは自由にやってくださいねっていうスタンス,つまり教師に足し算な考え方を要求する場合と,逆に盛り盛りにアクティビティを盛り込んで適宜飛ばしてくださいっていう引き算的な思考を要求する場合(注),どちらがいいんだろうなっていう話です。

足し算のメリット・デメリット

メインだけ決まっていてあとは自分で,という場合,当然ながら教師が考えることは多くなりますよね。事前にどういう活動をやるか,あるいは事後にどういう活動をやるか,みたいなことも含めて。これって自分の中にある程度こういう授業をやりたいみたいな軸があって,それに合わせて教科書を選ぶような人だったら授業をやりやすいでしょうね。今日のメインは唐揚げです!ってだけ言われたら,揚げ物に合わせてなんかさっぱり目の副菜作ろうかなとか,むしろ唐揚げをアレンジして酢鶏的なもの作ろうかなとか,そういうの考えるの好きな人だったり,自分が食べたいものがはっきりしている人だったらその考える過程も楽しめるでしょう。自由にできるというのはメリットです。一方で,考えたいけど考える時間はない,準備する時間もない,とにかくすぐにご飯を食べたい(食べさせたい)という人にとっては,献立が全部きっちり書いてあったり,あるいはもうすぐに食べられるようなお惣菜がある方が便利なわけですよね。つまり,同じことを別の角度から見たらデメリットにもなります。

「授業を考えることを放棄するなんて知らん!メニューくらい自分で考えろ!」と思う気持ちは一定程度理解する一方で,何校も非常勤掛け持ちしている先生だったり週に10-12コマとか教えている先生に支えられて成り立っている自分の勤務先の英語教育のことを考えたらそこまで突き放す気にもなれません(おそらく色んな所でも似たような状況なのではないでしょうか)。

引き算のメリット・デメリット

いろんな大学用教科書見てきていますけど,その多く,というかほぼすべてはどちらかというとこちらのスタンスなのではないかと思うことが多いです。こんな盛り盛りでいろんな活動が載っててこのユニット数あったら,どう頑張っても時間足りなくないですか?みたいな。私はどちらかというと自由度が高めであるほうが嬉しいタイプです。ところが,「どの教科書を選んでもとにかくてんこ盛り,なおかつ活動自体は別に面白くもなくてドリル的なものが多めでつまらなそう。」って思うことが多いです。そうなると,いわゆる素材というかテーマというか,扱っている内容が面白いものを選択することが多いです。それが面白ければ,あとはこっちでそれをもっと面白くするようなタスクに落とし込んで授業を考えればいいからです。そういう視点でみたら,わざわざ引き算するのめんどくさいからもう素材だけくださいってなります(教科書を使う縛りがなかったら使わないと思います)。

ただし,上述したように足りなくて足すよりは何も考えなくても教科書に載っている活動をやれば授業として成立するほうが嬉しいと思う方もたくさんいらっしゃるのでしょう。だからこそそういう教科書が売られていて,そういうのが売られているということはそれが売れるから,ということだと思いますし。あれもこれもついてきますみたいなのどんどん増えてきている気もしますもんね。オンラインで学習させられるとか,テストがついているとか。

おわりに

確かにありがたいのはありがたいと思うし,自分が作る教材だったりタスクだったりテストだったりがそんなに優れているのかと問われたらそこまで自信を持ってはいと答えられるわけではないのですが,一応英語教師としても飯食ってるわけですから,自分で授業を考えることだけはやめたくないなと個人的には思います。それを自分以外の人にどれだけ求めていいのか,というのが悩ましいと思っているところです。自由度が高すぎることを不親切だと思う人も絶対いると思うので。

でも,本当のところ,(一般的な意味での)ミニマリスト的教科書と活動が豊富に掲載されている教科書どちらがいいんでしょうね。というわけでアンケート置いてみました(初の試み)。Twitterでやったほうが回答集まりそうですけどねw

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。


注:いや飛ばしてほしいと思ってないです。全部やってもらいたいと思っていますということで教科書作られているかもしれないですけどね。

内容の負荷が高いときのタスクの作り方

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はじめに

英語(語学)の授業において,タスクを作るときの基本的な考え方として,最近自分の中でしっくりきたことについて書きます。簡単に言うと,タスクの内容的な負荷が高いときは,タスク自体がもたらす負荷を軽減させることによって学習者が取り組みやすいようにするということです。

内容の負荷

内容の負荷とは,ここでは内容の難しさのような意味で使っています。私がもってる授業のうちの1つのクラスで使っている教科書では,数回に一回ほどの割合で,社会的な問題(環境問題等)をテーマとして扱うものが出てきます。こういうテーマは,学生が普段どれだけこういう問題について考えているかということによってかなり左右されるので,例えば旅行とか食事とか,そういう学生にとってより身近だと考えられるテーマよりは英語を使ってやりとりする負荷があがります。こういう内容的に難しい話題を扱おうとするとき,タスク自体がもたらす負荷も高いものだと失敗する確率があがります。

タスクの負荷

では,タスクの負荷とはなんでしょうか。これも本当にいろいろな要因があって,一概にタスクの負荷を決めることはできないのですが,それでもbeginnerレベルでも取り組みやすいタスクとそうでないタスクはあります。例えば,意見を交換して合意形成を求めるような意思決定タスクは決める内容が簡単であったとしても難しいです。自分で意見を考えないといけないうえに,相手を説得するような論理的思考が求められるからです。一方で,情報のギャップがあってその情報のギャップを埋めるようなタスクは,事前にその情報が与えられていて,相手に情報を伝え,そして相手から情報を得ることさえできればいいので負荷は低いということになります。

内容の負荷×タスクの負荷

内容の負荷が高く,なおかつタスクの負荷も高ければ非常に難しいタスクになり(e.g., 少子高齢化問題への解決策を4人グループの中でそれぞれが提案し,最も良い案を1つ選ぶ),内容の負荷が低く,なおかつタスクの負荷が低ければ易しいタスクになります(e.g., すでに与えられた予定を見て,自分のパートナーの相手と遊びに行ける日時を探し出す)。

このことを念頭においておけば,すでに内容が与えられている状態でタスクを構想する際に役に立ちます。つまり,今回の教科書の内容は社会的な問題(内容の負荷が高い)ということであれば,タスクの負荷が低くなるようなタスクを構成すればよいということです。

もちろん,内容の負荷が高いからこそインプットタスクを充実させて,内容的・言語的な負荷が下がるように工夫したり,タスクの条件面で準備時間を増やす等をすることでもきます。そういう方法もありますが,タスク自体の工夫もできますよねというのが今回の記事の趣旨です。

例えば,環境問題をテーマにしたタスクを作ろうとするのであれば,意思決定タスクにするのではなく情報交換型タスク(e.g., 2人または4人等のグループ内で情報を共有し,どの国でどの問題が深刻なのかの表を完成させるとか)を作ることを考えるということです。ちなみに,情報交換は分割数が多くなれば難しくなります。1つの情報を2人で分割してやるより4人がバラバラの情報を持っている方が難しいということです。

おわりに

これまでに私自身がタスクを考えるときは,基本的にまず教科書の内容と相性の良いタスクのタイプを選んでタスクを構想していました。ただ,内容と相性がいいからと言って内容が難しい意思決定タスクを作ると,やっぱり自分の中での手応えがあまり良くないことが多くありました。そういうことを考えていたときに,思い切ってタスクの負荷を下げてみればいいのでは?と思って,普段よりもかなりタスクのゴール達成が容易になるようにタスクを作ったら,意外とむしろそれが程よい難易度で,学生も達成感を味わっているように見えました。

この記事ではタスクのタイプの詳細についてあまり詳しく説明することはしませんでしたが,それも今度出る教材集にタスクタイプごとに豊富な例がありますのでそちらをぜひ御覧ください。

コミュニケーション・タスクのアイデアとマテリアル 教室と世界をつなぐ英語授業のために

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。