カテゴリー別アーカイブ: アメリカ滞在中の記事

Consciousness-raising task

どうもお久しぶりです。前回FonFの記事を書いてから3週間くらいでしょうか。なんとかかんとか秋学期に履修していた3つの授業が無事に全て終わり、冬休みに突入です。というわけで、木曜日に終わって金土ととくになにをしたってわけでもなくリラックスして本を読んだりしています。まだ雪があまり降ってないのですが近々初滑りにも行こうと思います。

さて前置きが長くなりましたが今回は記事のタイトルにもあるようにconsciousness-raising taskについて、その中でも特にtaskの主題を「文法問題の解決」に設定しているconsciousness-raising grammar taskというものについて、課題でペーパーを書きました。まあ授業はlinguistiscsという名前がついていたんですがやったことは前半は音声学について、後半はThe Grammar Bookを読みすすめるという感じで特に「言語学」をやったという気はあまりしていないのですが。この課題で求められていたことは文献や教科書のレビューと、そこからある特定の言語的側面に焦点をあてた指導法の検証とその批評?ということでして、僕はとにかくtaskに興味があったのでTBLT関連の文献から入って、また文法指導にも興味があったということもありこのconsciousness-raising taskについて書くことにしました。ペーパーの構成的には、

  1. Introduction
  2. What is task?
    1. Definition of task
    2. Type of Task
    3. What is Good Task
  3. Characteristics of EFL context
  4. Task-based Approach to Grammar Instruction
    1. The effect of Formal Instruction
      1. Explicit and implicit knowledge
  5. Grammar Consciousness-raising Task
    1. Grammar CR tasks in Teaching if Conditionals
  6. Evaluation of CR Grammar Task
  7. Conclusion

となっています。上記の章立てには入ってませんが、グループワークの効果、TBLTが根拠とする仮説、宣言的・手続き的知識の箇所を最終的に提出する際に削りました。なのでリンクは提出して先生からのコメントが入っているものと、削った箇所をそのままにしたもの両方貼っておきます。上が先生からのコメント入り、下が削った箇所が入ってる版です。

https://drive.google.com/file/d/0BzA9X1kZX185OGNneUlMN25nVzA/view?usp=sharing&resourcekey=0-xoODLV-g6Zya693u42auTA

https://drive.google.com/file/d/0BzA9X1kZX185dVRmUHZsaGJrblU/view?usp=sharing&resourcekey=0-AtVWY8Zf_OykkjNA5wnf_g

個人的にはもっといろいろコンパクトにまとめられたらっていうのとif節に関してもっと考察が必要だったなとは思っています。ちなみに、このペーパーをもとに指導案を作ることも課題になっていて、それもリンク貼っておきます。

https://drive.google.com/file/d/0BzA9X1kZX185dVRmUHZsaGJrblU/view?usp=sharing&resourcekey=0-AtVWY8Zf_OykkjNA5wnf_g

一応対象は日本の高校生ってことで作りましたが、時間いっぱいいっぱいかなという気はします。先生からのコメントで、”Does the teacher evaluate their classifications or discuss the reasons for their analysis?”というのがありました。確かにそういう記述はないので書いておくべきでした。やったらやらせっぱなしというのは良くないですしね。ただその後の説明の段階で生徒とのやりとりを含めながら説明をしていくという方法は考えられるかと思います。

そのあとに、対面で日本語を見ながら英語を言うという活動があり、そこに音声指導も入れるようになってるんですが、”What’s the purpose of hte translation exercise? And why do you extend this to include pronunciation?”というコメントがあります。僕としては意味と形式を結びつける自由度の低い活動としてこういうのを入れたつもりで、音声指導の理由はただ単に音声指導が必要だと思ったからいれたんですが、だったらなぜ最初のペアでtaskやってるときには音声指導が入らないのかっていうのもあると思うんですが…

もちろんそれはそのとおりで、自由度の高い活動のときこそ音声指導が必要なのだとは思います。だけどそれが可能なのは練習段階でもそういう指導がしてあるからであると思うのでこの練習段階での音声指導が問題視される理由というのはよくわからないのというか。文法が主眼なのになんで音声指導?みたいな話なのでしょうか。それとも明示的知識を主眼においてるのに音声指導?みたいな話なのでしょうか。うーむ。

そんなわけで早くスノボー行きたいです。

では。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。

Focus on Form

兼ねてから感想を書いた記事が眠っていたんですが、最近いろいろ読んだりしていてちょっとこれは書いておきたいと思ったのと、それからお願いされていて「はい」と返事したのになかなかアップできない罪悪感みたいなのもずっと感じていたので、『学習英文法を見直したい』の第7章の松井先生の論考に関してだけ手短に記事を書きます。間違っているところがあればご指摘ください。

松井先生はこの論考で、フォーカス・オン・フォーム(Focus on Form以下FonF)と、「フィーリング」や「イメージ」という2つの文法指導アプローチに対する提言をされています。僕が言及しておきたいのは前者です。松井先生が引用されている和書の文献は残念ながら現在参照できないのですが、どうやらフォーカス・オン・フォームやあるいはそこに関連した「気づき(noticing)」というものが、少し違ったかたちで理解・共有されているのかなという印象を僕は受けました。そしてそれは日本の英語教育が今までどうやってなされてきたのかという点を反映しているようにも思えます。松井先生は、FonFをFocus on Formsの「アンチ・テーゼ」としていますが、この表現はあまり正確ではないと思います。FonFというのは、僕がここ最近書いた記事でとりあげたTask-based Language Teaching(TBLT)の枠組みにおける一つの”methodological principle” (Doughty & Long, 2003)であり、FonFを達成するためには様々なテクニックがあります。そして、このFonFは、FonFsの直接のアンチ・テーゼというよりは、どちらかというと、意味だけでもだめだし形式だけでもだめなんだよという主張でしょう。つまり、FonFsに則った指導法(例えばAudio lingual methodなど)がまずあり、「形式ではなく意味が大事なんだ!」という批判から生まれたfocus on meaning、そして現在は、「いやいや、意味だけじゃダメで、意味中心のやりとりの最中に言語形式に注意が向くことが大事なんだ!」というFonFという概念が主流であるというのが僕の理解です。また、その文脈で登場するnoticingという概念は、なにも「初学者のうちから、実際の英語運用をする中で、『伝達したい意味』と『自分が表現できる形式』とのギャップに気づかせ、そのギャップを教師からの支援で埋め、自分が表現できる形式を整備していくということになるようです。」(p.90) ということだけではありません。この引用部分は、noticingの中の、noticing the gapという概念のことだと思われますが、もともとSchmidt (1990)で提案されたのは、形式に気づいていないインプットはインテイクにはならないのではないか、言語習得には、形式に気づくことが必須なのではないか、という点であり、その主張は、先ほど述べたように、「意味だけではなく形式も」というかたちでその後の理論や研究に取り入れられていき、また一方では言語習得の認知プロセスに関して、Krashenのいうように、「意識的な学習はacquisitionにはならない」という主張に対する反論として様々な文献で引用されてきているように思います。ですので、「『気づき』を得るには実際に運用することです」と言われても…」(p.90)の部分は、どこでそんなことが言われているのか不思議に思いました。引用されている和書でしょうか?

また、FonFのformが無冠詞であるのは「ここの具体例の集合体としての一般論である無冠詞複数形の”forms”との差異化を図った概念なのだろうと理解しています。しかしながら、そこでの『気づき』や『フィードバックの結果成功したアウトプット』の説明で用いられるのは、結局は冠詞の習得だったり、時制の習得だったり…結局”a form”の話に戻っているのではないか」(p.91)という記述があります。前段は同意ですが、僕はこのFonFという概念がFonFsと対比されているのは、シラバスデザインに関してだと思っています。後者は、structural syllabusと対応しており、structural syllabusとは言語形式をひとつずつ導入し、学習者はそれを少しずつ積み上げていきコミュニケーションに使用するという考えが念頭にあります。しかしながら、指導によって文法を身につけさせる(暗示的知識を習得させる)ことができるのは、学習者がその段階に達した場合のみであり、教師の介入によってその順番を変えることができないという考えがあります。しかし、学習者がどこの段階にいるのかを見極めてその段階を狙って指導をするのは不可能です。よって、無冠詞の単数形であるformにすることで形式という概念を抽象化したものがFonFなのではないでしょうか。この問題に関しては暗示的知識ではなく学習者内シラバスの影響を受けない明示的知識を教えることによってこの問題を回避しようという案もあります(Ellis, 2002b, p.163)。日本では、文法シラバスに則って指導が行われているため、TBLTやFonFといった指導法が想定しているものとはそもそも相容れないという可能性があります。それを最先端の言語習得理論だといって日本に取り入れようとするがために、このような「誤解」が生まれてしまうのかもしれません。「文法を教える」という考え方自体がもともとのTBLTでは否定されています。これをなんとかするために、focused taskの一種であるconsciousness raising task (Fotos, 1994 and Fotos & Ellis, 1991)が提案されていたりします。このような指導法では、明示的文法説明の可能性は排除されていません。第6章で亘理先生も触れていますが、明示的な指導が一切ダメというわけではないということです。読んでいて、フォーカス・オン・フォームや気づきといったことを、明示的指導や文法指導と対比させて、前者を批判しているように思いました。それは正しくもあり間違ってもいるというようなことに関して簡単に書かせていただきました。

追記:Ellis2002bは、アメブロに僕が書いたレビュー記事があるのでそちらをご覧いただければと思います。それから、これに若干関連したペーパー書いてまして提出して返却されたらブログにアップしようと思います。もしかしたらこの記事に加筆するかもしれません。

 

Doughty, C. J., & Long, M. H. (2003). Optimal Psycholinguistic Environments for Distance Foreign Language Learning. Language Learning & Technology, 7(3), 50-80.

Ellis, R. (2002). Methodological Options in Grammar Teaching Materials. In E. Hinkel, S. Fotos (Eds.) , New Perspectives on Grammar Teaching in Second Language Classrooms (pp. 155-179). Mahwah, NJ: Erlbaum

Fotos, S., & Ellis, R. (1991). Communicating about grammar: A task-based approach. TESOL Quarterly, 25, 605-628. doi: 10.2307/3587079

Fotos, S. (1994). Integrating grammar instruction and communicative language use through grammar consciousness-raising tasks. TESOL Quarterly, 28, 323-351. doi: 10.2307/3587436

Schmidt, R. W. (1990). The role of consciousness in second language learning. Applied Linguistics, 11(2), 129-158.

Intonation and pitch pattern

発音の授業で、自分の発音の矯正とその指導法みたいなのを学んでいるんですが、その授業中に見たビデオが面白かったので、これもしかしたらYoutubeにアップされてたりしないかなと思って探してたのですが残念ながら見つけられずw

Introduction to The Sound and Style of American English

http://www.3480.net/usa/index.htm

ここにワークシートというか資料みたいなのがあるんですが、やっぱり聞かないとわかんないんですよね。そんでなんか音源が中国のサイトにアップされてたのでまあ興味ある人は聞いてみてください。

http://www.tudou.com/listplay/QWsPFq14xwk/Hxu4mYZbw6I.html

Dr. David Alan Sternていう先生のなんですが、アメリカ発音に近づけるためのコツとして、”Jump up & Step down” というパターンを提唱しています。

発話の直後にピッチが急上昇して、そこから各音節ごと(各語ではなく)にピッチを段々と下げるというパターンを適用することで、より「ネイティブ」な発音に近づくということです。ポイントは、

  • 声の大きさではなくピッチを高くすること
  • ジャンプアップ(急上昇)であってスライドアップ(段々上昇)でない
  • 各語ごとではなく、各音節ごとにピッチを下げる。

の3点で、例えば

http://www.3480.net/usa/Course3_5.htm

THE SOUND AND STYLE OF AMERICAN EINGLISH: INTONATION & SYLLABLE STRESS via kwout

こんな感じ。どこで、ピッチを急上昇させるのかとかいう点については詳述されていて(もちろんコンテクストによるし何を強調したいのかによもるけどまあいくつか一般的ガイドラインはあって、という話ではあります)、例えば代名詞や機能語は基本的にストレスがこないので代名詞の直後、あるいは機能語の前後でピッチが上昇する等。まあ一般に言われてる英語のストレスやイントネーションパターンに加えてというか違う点からアプローチして、この”jump up and step down”のパターン意識してみるとアメリカ英語っぽくなりますよっていう話です。強勢よりもピッチの高低って結構意識しないとなかなかうまくできないし、結構大げさにするくらいでいいといつも先生には指導されているのですが、これもその一環ですかね。先生曰く、「大げさにするくらいでやっていれば普段の発話に自然にそのパターンが生きてくるから」ってことらしいです。

まあ僕は特にインプットもアメリカ英語だしそれに似せるように、それがモデルだと思って発音してるのでアメリカ英語に近い(明らかにイギリス英語ではない)発音してるわけですので、こういう練習は結構ためになったりしますけど、これをじゃあ教えるかっていうと悩みどころです。「ヒント」として使えたらいいなくらいには思いますけどね。

関係無いですけどStern先生の動画をYouTubeより。

[iframe src=”https://www.youtube.com/embed/f9EsyYw5d40″ width=”100%” height=”480″]

では。

アメリカ New Hampshireより

おしまい。

pleaseとpolitenessのお話。

今日の授業で面白かったことを少しメモ。pleaseっていう言葉はよく疑問文の最後あるいは疑問文中の主語の後ろにおかれて、依頼などの際により丁寧さを出すために使われたりしますよね。例えば

Could you tell me how to get to the station please?
Could you please tell me how to get to the station?

こんな感じで。で僕の中ではこういった助動詞が使われている依頼の文や、

Do you mind hitting the light on?

みたいなのだったらpleaseつけるのわかるんですよ。たぶんこの場合は文末しかダメだと思いますけど。でも、今日教科書に出てきた文で、

Do you know where the bank is please?

っていうのがあったんですね。この下線部のところにいろいろ場所を表す名詞句を挿入して使うみたいな。それでまあエクササイズのメインはイントネーションパターンについてだったんですが、僕にとってはこの文にpleaseが付加されてるのにすごい違和感があるんですね。なぜかというと、なんか押し付けがましく感じてしまうからです。もちろんコンテクストにはよりますけど、道でこうやって聞かれたら、話し手は知ってるかどうかが知りたいのではなくて(いやそれはもちろんそうなんですが)、その先のことを知りたいわけじゃないですか。つまり、この文にこめられてる一番大事なメッセージは、「知ってたら教えてほしい」ってことだと思うんですね。そういう点でいうと、tell meを使って「教えてくれませんか?」というよりは「知りませんか?」の方がより婉曲表現な気はします。「教えてくれませんか?」だと、知ってるのが前提で、つまり、質問している相手が「銀行の場所を知っている」と確信して聞いてると考えられますよね。なので「教えてくれるか否か」を聞かれてるわけであって「知らない」は選択肢にないですからね。表面上は。もちろんtell meの場合だって、”Sorry, I don’t know.”という答えは何も問題ないわけですけど。たぶんこれって日本語でも一緒で、というかむしろ日本人なら「すいません銀行どこにあるかわかりますか?」と聞く方が一般的な気がします。「銀行への行き方教えてくれませんか?」と聞くよりも、場所がどこにあるかわかるか聞いた方が丁寧な感じしません?なんとなく。だから、たぶんあまり英語が得意ではない人に、「あなたは銀行へ行こうとして、道に迷いました。通行人の人に助けを求めましょう。さて英語でなんと聞きますか?」みたいな質問出したら結構な割合でDo you know~?が出てくるような気がしますがどうでしょう。それで、Do you know~の場合なんですけど、せっかく「知っていたら教えて欲しい」というメッセージを隠しているのに、pleaseが付加されることによってその隠されたメッセージが前面に出ちゃってるように感じるんです。pleaseをつけることによって丁寧さをあげようとしているにも関わらず、なんかそれが逆効果になってしまっているように僕は逆に感じてしまうんですね。まああくまで個人的な感想なんですけど。でも話を聞くとまあイギリスではこういう感じでいろいろな表現にpleaseをつけることが割とよくあることなんだそうです。イギリス行ったらよく耳にすると。

まあそうなのかあって感じなんですけど、それでもなんだかこの文は変だなあと。

Do you know where the bank is?

よりも、

Do you know where the bank is please?

の方が丁寧さが上であるというのが僕にはどうもしっくりこないなあと思ったのでした。そんな話。

アメリカ  New Hampshireより。

おしまい。

“Point to Point”

どうも。前回のSato (2010)の続きです。前半2つがその2010の論文へのレスポンス、その次がそれらのコメントに対する再反論になってます。その後に一応一連の論文を読んでのコメントを書きます。

 

Sybing, R., Urick, S. T., & Sato, R. (2011). Point to Point: Responses to ‘Reconsidering the Effectiveness and Suitability of PPP and TBLT in the Japanese Classroom’. JALT Journal33(1), 67-76.

 

Sybing, R. (2011) A Response to Criticism of TBLT in Japan’s Language Classrooms

  • PPPモデルのメリットに関しては認める。例えばある程度自由度を制限した状況を与えることで不安を軽減する可能性など。また大学入試や資格試験が重要視される日本という環境でのでは適しているかもしれない。
  • 問題は、SatoがTBLTの反対として直接PPPをおいたこと。つまりPPPとTBLTの二分法という考え方はよくない。そのような分け方は理論面実践面双方でなされていない。そしてそれはSatoのアプローチが新しいということを意味するのだが、それは必ずしも理論的であるとはいえない。
  • PPPは望ましい結果を達成するために修正が必要であると容認しながらも、TBLTは日本というEFL環境には適応されえない融通性のない教授法であると批判しているというのがSatoのロジックの誤りである。
“…his argument affords no simmilar concession to TBLT, which, he implies, forbids at all costs both the treatment of grammar strctures and comunication in the native language” (p.68).

 

  • (TBLTを日本に適用する際の問題点として語られている)L1使用の件に関しては例えばL1の使用を認めるTBLTの実践もある(Carless, 2007;Swain, 2000)。
  • どんな教授法でもその最も純粋な形で語学教室で実践的に実現可能であるという考えが甘い。
  • 実践とは、教授法に関して臨機応変であることと、状況に合わせてあらゆるアプローチを教室での使用に落とし込むということを教育者たちに要求している。
  • まずは日本における言語教育のゴールを決めるべきであって、今の状況に合っているかどうかではなく、なんのために言語教育をするのかという観点を考える必要がある。口頭によるコミュニケーションレベルを挙げるということであれば、コミュニケーション能力をあげるための教授法をどうやって適応させるかを考えなくてはいけない。

 

Urick (2011) On Methodology in Japanese Secondary English Classrooms

 

  • Satoが取り上げた第二言語習得のモデルはその分野で主流ではない。
  • 宣言的あるいは明示的知識は必ずしも言語習得の出発点ではないし、SATを提唱したAnderson自身もその考えを軟化させている。
  • 現在は暗示的学習と暗示的知識が、ほとんどのSLA理論に組み込まれてきている
  • 教育目標の問題について触れているが、どの目標が適切であるかについての明確な青写真を提示することに失敗している。
  • 文科省や中等教育教育者たちがまず英語教育界の目標と目的について広く議論をし、共通の認識を共有することが必要。その上で教授法の問題が話し合われるべきではないのか。

 

Sato, R. (2011). A Reply to Responses to “Reconsidering the Effectiveness and Suitability of PPP and TBLT in the Japanese Classoom”

主張したいのはとにかくPPP修正版推しだということ。

タスクの定義の曖昧性

Matsumura(2009);タスクのコア概念は、意味重視。言語的なものではなくコミュニケーションの結果としての産物があること。実際の世界で用いられるものに似た言語プロセス・認知プロセスを含んだ活動であること

Ellis(2003);focusedタスクは学習者によるある特定の言語表現の使用を引き出すことが目的であるが、それでも一番の焦点は意味にあるべきである。

 

このように定義が複数あるので、どの考えも1人のTBLTの著者に帰することはできない。しかしながら、明示的なform-focusedの指導や集中的なform-focusedの練習はTBLTでは必須であるとは考えられておらず、しばしば退けらていることは明らかである(Ellis, 2003;Nunan, 1989;Skehan, 1996)。

 

明示的知識の重要性

 

  •  TBLTでは軽視されている明示的知識だが、構造に関するそのような知識やイミテーション・繰り返し・パタプラ・ドリル・暗記、つまりpracticeはインプットの不足しているEFL環境では実際不可欠である。
  • ターゲット構造の原理やルールを(明示的にL1で、あるいは暗示的にL2で)の文法指導を与えることによって学習し、それに続く大量の意識的な練習なしに日本の中高生(例えばACTFLでlow levelとされるような)は、コミュニケーションのために英語を使うであろうとは思わない。

 

TBLTの限界

Miyamoto (2009);タスク型シラバスで、高校生に体系的に文法をおしえることは難しい。EFLだしモチベもあれだし。

Miyasako(2010);暗示的学習により過ぎてて日本では機能しない。

Muranoi(2006);修正版PPP(PCPP)の提案。content-orientedアプローチが日本人英語学習者のコミュニケーション能力の発達に効果的。

しかしながら、productionの段階ではオープンあるはクローズドのタスクの使用もありうる。のちに学習者が構造についての暗示的知識を使えることができるようになったあたりまでオープンな産出活動を遅らせたり繰り返したりすることもできる。

 

明示的知識と暗示的知識


  • 確かに自動化のプロセスにおいて宣言的あるいは明示的知識を経ずに手続き的知識が得られる場合もあるだろうが、これは、教師がそのような明示的・宣言的知識を育成する方法で教えることができない、すべきではないということにはならない。
  • 大量のインプットを与えることによって、教師は学習者が暗示的知識を発達させることができるような状況をつくるように努力すべき。このあたりについては詳述すべきだった。しかしながら、暗示的知識や暗示的学習が日本の中等教育レベルの学習者たちへの指導法として取り入れられうるという考えについては疑問。
  • TBLTの一番の欠点は明示的意識的学習を代償として暗示的知識を強調する点。

 

日本におけるTBLTの実践

  • 文法の正確さと同様にコミュニケーション能力も伸びたという研究はある(Fukumoto, 2010;Matsumoto, 2010;Naito, 2009;Okumura, 2009;S. Sato, 2010)。
  • しかしながらほとんどのケースで事前に目標構造が指定されており指導(明示的・暗示的)そのあとに練習が続く形だった。ほかのケースでは、TBLTは補助的な形で取り入れられていた。
  • TBLTのスタイルは少なくとも決定的な概念についてはPPPと共通している。

 

有効なTBLT

  1. 目標文法項目の指導がある(明示的・暗示的、演繹的・帰納的になされる)
  2. 形式に焦点をおいた十分な練習がある
  3. アウトプットの機会がある、あるいは補助的に修正版TBLTを用いている
しかしながら、これらが実際にTBLTと呼ばれうるのかどうかは疑問がある。それは先行研究として挙げた例でも同じ。

 

英語教育の目標

オーラルコミュニケーションのレベルをあげるために障害を乗り越えて英語教育改革するべきというのは同意。中高でこのゴールを現実化させるためには、英語教師の英語力の向上と伝統的文法訳読式からの脱却が必要。

 

結論

日本の中高生に英語の言語構造の明示的知識を教え、大量の練習と、習ったことを使う現実的なコミュニケーションの機会が大事であると再度強調したい。

コメント

 

これまずTBLTっていうもの自体がそのTBLTという枠の中で、支持している言語習得理論や仮説の違いで微妙に言ってることが違うからなかなか難しいですよね。で、この論文の出版の時期とかの関係で無理だったのかもしれませんが、ふと疑問に思ったのは先日僕が取り上げたEllis (2009)が引用されてないってところなんですね(このためにあのブログ記事を先にアップしたというのもあります)。詳しくはあちらの記事を参照していただきたいのですが、あれが2009年で、それまでにもTBLTっていろいろ批判はあるわけですけども、それに丁寧にEllis先生が反論なさってるんですよね。そこでは文法シラバスに関する話や、TBLTが上級者向けであるということに関しても記述はあるんですよね。まあ確かにEllis先生は割りとTBLTを広く捉えていらっしゃって、focused taskの活用や、明示的知識の重要性を主張していると僕は理解しているので、僕も考え方はそっちよりになっているのかもしれませんが。例えばTBLTは必ずしもoutput basedではなくて、input-basedのTBLTも可能であるということはEllis先生がおっしゃっていて、もちろん限られたリソースを用いて(例えそれがhiddenされた文法を使っていなくても)コミュニケーションを成立させることにも意味はあるし、初学者にはinput中心のTBLTもできますよっておっしゃってます。なのでそのへんの検討が必要であると思いますし、もしも日本での実践例が限られてるとしたらそのへんがこれから研究されなければならないのかなと思います。また、元論文のperspectivesの方で上級者と想定される大学生にタスクやらせてみてダメだった(現在完了を使わせたいのに使わなかった)ってことなんですけどまあタスク自体がダメだったかあるいは実施の際の手順がよくなかった(改善できた)とかそういう可能性はないのかなとかちょっと思ったり。例えばpre-task段階でのplanningとか。まあそもそも文法指導って一度やって「はい今日現在完了ねー。はい練習してーはいじゃあタスクで使わせてー。おーよくできてたー。じゃ次不定詞いこー。」とかじゃなくて、一度やったのをまた繰り返して身につけさせるわけであって、タスクの繰り返しとかも選択肢としてありますしね(どっかにそんなことが書いてあったけど忘れました汗)。それから環境面(テストや入試、学習者のモチベーション、日本人英語教師の英語使用割合の低さ)がTBLTとミスマッチであるという点に関しては、じゃあそれ変えればいいんじゃないって単純に思ってしまいました(もちろんそんな簡単に変わるかボケという批判があるのはわかったうえです)。モチベーションの部分はともかく入試とか、あるいは学校の定期テストは教師側が変えられる可能性は大いにありますよね。入試はちょっとまた違う要素が入ってくるとは思いますけど(弁別力とか)。日本人英語教師の英語使用の問題も、英語でやるようにすればいいんじゃない?って思ったり(いや英語は英語でとは言わないですけどさすがに日本語ばっかりっていうのもちょっとそれはどうかなとは思いますのでね)。

perspectivesに対する2つの反論に関しては、例えば「PPPは望ましい結果を達成するために修正が必要であると容認しながらも、TBLTは日本というEFL環境には適応されえない融通性のない教授法であると批判しているというのがSatoのロジックの誤りである。」なんかは確かにと思いました。ただ英語教育のゴールみたいな話になってくるとまたちょっと話しはずれるのかなとか思ったり。その上の方の話と現場での指導うんぬんはもちろんつながっていますし、誰にとっても他人ごとではないのですが「いやそれは俺に言われても」みたいな。いや、ていうよりどんな問題も最終的にやっぱりそこなんだよなって再再再確認くらいしたともいえますけど。あとは、「宣言的ー手続き的」のACTモデルがPPPと合ってるっていう説には、perspectives読んでるときに、「明示ー暗示」の話はなんで出てこないのかなとは少し思ってましたけどちゃんと指摘されてましたね。2つの立場があるのならなんで一つを選択してその枠組で話を進めていって、なぜもう一方ではないのかっていうのをしっかり組み立ててあるとありがたいなと。紙面の都合とかあって深く踏み込めなかったのかもしれませんけど。

そうそうそれで「明示ー暗示」の話になりますが、今ってそこまで強く明示的知識が習得に役立つという立場が否定されてるんでしょうか?TBLTとかFonFの話になると、あまりにもその暗示的指導や暗示的学習の側面が推されすぎて、もちろんそれがTBLTの肝であることには変わりないとしても、先ほども言及したように「いやいや明示的指導もTBLTの中に組み込めますよ、文法指導には必要ですよ」っていう流れになっているんではないでしょうか。これはもしかしたら僕の個人的思想が入り込んでそうやって解釈してしまっているのかもしれませんけど。

「TBLTとかPPPとかラベルはどうでもいいから目の前の生徒を見ればそこに答えはある」とかサムライの方はおっしゃりそうですけれども、実際CLT(の一つのスタイルとしてのPPP)を発展させたものがTBLTであって、共通の概念があるのは当然なんじゃないでしょうかね。最後の方に、「有効なTBLT」という提案があり、これは果たしてTBLTなのかということになってますが、形式に焦点をおいた十分な練習というところがTBLTの理念にはそぐわないのかなとは思いますね。TBLTの中心は「タスク」であってこれが一番大事なわけですけれど、TBLTに向けた批判がなされる場合ってまず指導法としてのTBLTなのか、シラバスデザインとしてのTBLTなのか、あるいは両方なのか、どっちがどうそぐわなくて、じゃあどうすればいいのかっていう順番で考えていきたいですよね。この観点で整理すると、多分今回のTBLT批判は両方の観点で日本の英語教育には合わないんじゃないんでしょうかってことになるかと思います。

最後の結論部分(2011の方)で明示的知識の指導が大事であるというのがあるんですが、これもその前に文法項目の指導は(明示ー暗示、演繹ー帰納」のいずれでもいけるっておっしゃってまして、そうなんですよね、だから明示的知識を教えるために明示的に教える必要はないわけでしてWatari (2012)でも「学習英文法は明示的指導を前提として論じられることが多いように思いますが、明示的に教えるのか暗示的におしえるのかという選択の余地があります。そしてどちらを選ぼうと、学習者の側で学習は明示的にも暗示的にも生じうることに留意すべきです」(『学習英文法を見直したい』 p. 77)という記述があります(ここを今書いてるペーパーで引用したくて英訳探してたのでした)。そして、「形式に焦点をおいた十分な練習」ということなんですが、これは形式と意味をつなげるための練習ってことですよね?DeKeyser(1998)をSato先生は引用されていらっしゃるので間違いないと思いますが、この形式の練習っていうのがAudiolingualism的なmechanical drillsと誤解されてしまう、そしてこのドリルっていうのがformsとmeaningをつなげるためとかいって実際に学習者の頭の中で起こってるのは”forms-forms”じゃないかよっていうのがDeKeyser (1998)のp.53-54あたりで言われてることですよね。なので問題はこのpracticeの段階なのかなあとは思いますね。ちなみにpoint-to-pointの方では引用文献がポスター発表だったり日本の書籍だったりして見られなくてイラッと(´・ω・`) ショボンでした。

ちなみにTBLTに関しては、僕がまとめたやつで申し訳ないんですがこちらの第38回 全国英語教育学会 愛知研究大会(第1日目) ハッシュタグまとめの最後の方に、Ortega先生の講演中の先生方のつぶやきがありますので参考までにどうぞ。

というわけでなんかいろいろ引っ張っておいて大したコメントも出来ずに申し訳ない気持ちはありつつもこのへんでおしまいにしたいと思います。

では。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。

Sato, R. (2010). Perspectives Reconsidering the Effectiveness and Suitability of PPP and TBLT in the Japanese EFL Classroom

どうもどうも。かなり前から「お前はこれも読んでないのか」と言われてヒィィすいませんつって読んだ論文がありまして、それでまあまとめブログということで更新させていただこうと思います。

Sato, R. (2010). Reconsidering the Effectiveness and Suitability of PPP and TBLT in the Japanese EFL Classroom. JALT Journal32(2), 189-201.

こちらの論文なんですが、後にこの論文への「反論」があり、その後にその反論に応えるかたちでもう一度著者が再度論点を提示しなおしていたりして、そこまでがひとつになってる感じですね。なので、それはまた別記事でアップして、その後に僕のコメントを添える形にしたいと思っていますので、この記事では僕のコメントは記しません。途中でなんか書き方とか変わってるのは同じ僕が書いてるやつでも違う日に書いているだけですのでご了承を。

イントロ

文科省の学習指導要領では、中学校の英語教育の目的は基本的なコミュニケーション能力の育成となっており、さらに高校においては情報を伝えたり考えや意見を表明するといったコミュニケーション能力の育成を図ることとなっている。文科省は、実際の言語を用い、考えや意見の交換をするように生徒を導く活動に取り組むべきと言っている。CLTからの理論的発展形態であるTBLTの利用は昨今日本の英語教育において注目を集めている。

タスクの定義(Ellis, 2003)

  • ワークプランであること
  • 主に意味に焦点をあてていること
  • 実世界の言語使用のプロセスを含んでいること
  • 4技能のうちのどれもが含まれうること
  • 認知プロセスに働きかけること
  • 明確に定義された、コミュニケーションによって得られる結果があること

PPPモデルでは、特定されたtarget structureの産出による練習が決定的な役割をもっており、教師によるL2の新しい形式と意味の説明から始まる。

Skehan(1998)を引いたPPPのまとめ

  1. ”元にあるルールが理解され内在化される機会を最大限にするために、明示的あるいは暗示的に提示される単一の文法のポイントに焦点をあてる。これは基本的にはdeclarativeな知識の発達を目的としているだろう。”
  2. 練習段階ではおもに正確さに焦点があてられ、生徒は教師の用意周到なコントロールに従う。declarativeな知識を産出可能な知識にするのが目的である。
  3. 教師のコントロールは徐々に弱まっていき、産出段階にはいる。この段階では生徒はコミュニケーション活動を通した目標形式の産出機会を与えられる。”学習者は彼らの表現したい意味内容に基づきより瞬時に言語を産出することが要求される。
PPP反対論者

Skehan(1996):ある特定の言語形式に焦点をあてることが学習と自動化を導くという考えは言語学や心理学の分野ではもはや信頼性をほとんど有していない。
Willis(1996):言語習得はadditiveな流れで起こることはほとんどない。

White(1988):PPPは意味の側面が欠落した方法である

TBLTは文法指導において効果的なのかという疑問

  • TBLTは前もって特定された形式の指導には向いていないかもしれない
  • 試験のためにデザインされていない
  • 日本の教室では日本語が主な指導言語である
  • SLA研究においてこの指導法の効果が完全にテストされていない以上、PPPを教室から完全に排除してしまうことは早熟なのではないか(DeKeyser,1998)
  • 英語に触れる機会が限られており、日常生活において英語でのコミュニケーションの必要性がほとんどないという日本のEFL環境を考慮すると、PPPの効果を考え直し、TBLTと比較することは重要である。

Reconsidering the Suitability of TBLT in the Japanese EFL Classroom

Target Grammatical Structures

日本の中等学校における英語教育では、教師は日本政府によって認可された教科書を使用しなくてはならない。これらの教科書はそれぞれのセクションで目標の文法形式を学習するようになっている。目標の文法構造の習得は線形ではないというWillis(2004)の主張はそうかもしれないが、教科書に収録されている教室環境の活動は生徒が順を追って目標言語を習得することが必要となるように機械的に編集されている。意味やコミュニケーションに焦点がおかれた典型的なタスク活動では、目標形式は必ずしも生徒によって使用されないということがあり得る。実際に目標形式を使用しているかどうか、そしてタスクに対してどのように感じているかの簡単な調査(対象は国立大学で英語教育を専攻する大学生21人)。タスクは高島(2005)からのものを使用。現在完了形の使用を促す目的のタスクであったが、15人の参加者は当該項目を一切使用しなかった。タスクは、タスクを遂行するためにどのような言語を使用するかは学習者が選択することができ、どのような文法項目を用いるかは学習者に自由が与えられているので、教師が想定している目標形式がタスク中に使用されるかどうかはわからないというのはかなり理解できる。英語に触れる機会が英語の授業中しかないという日本人英語学習者にはとっては、授業中で新しい項目を習得するということが決定的である。しかしながらタスクはこの必要性を満たしていないかもしれない。

Ellis(2003):学習者はしばしばコミュニカティブタスクを学習の機会というよりはコミュニケーションの機会としてみている

Willis(1996):TBLTの利点。タスクの役割はスピーキングとライティングそして理解の両方ために、学習者がすでに持っている言語を使わせ、活性化させることを促すこと(p.147)そして学習者に彼らが既に持っている言語を発展させるための動機付けにもなる。

Swain(2005):TBLTは上級学習者に適している。

しかしながら、著者の行った実験では被験者は比較的に上級であると考えられる国立大学の英語専攻の大学生であり、彼らであってもタスクが効果的に機能しなかったということは、中高生にはより効果は薄い可能性があるということを示唆しているのではないか。
Bruton(2005):タスクの適応力はEFL学習者に対しては限られている。

日本人英語学習者にとってタスク型アプローチが適切かどうかに懐疑的である。

高島(2005)では、彼も日本人英語学習者がTBLTの文脈でいうタスク活動では適切に目標語彙や形式を使用できないかもしれないと主張しており、日本の中高生の学習環境により適していると彼が考えるfocused-taskを提案している。

Examinations and Tests

Yashima (2000): 日本人学習者の目標は2つ。1つは入試等の現実的なゴール、もう1つはコミュニケーションのために英語を使うという理想的目標。そして学習者はそれぞれに多かれ少なかれ重きを置いている。

日本人学習者はテスト関連の動機付けのほうが強いようにみえる(Yashima, Zenuck-Nishide, & Shimizu, 2004)。

タスク型指導は入試等を念頭に置いておらず、文法的なエラーやミステイクをおかしたとしても教室外で英語が使えるようになる学習者の育成を目的にデザインされている(Willis and Willis, 2007)

入試以外にも、日本の中等教育では伝統的な手法の期末テストをやっていて、それらはリーディングがメインでたまにリスニングやライティングもあるけどスピーキングはない。よってTBLTとのミスマッチはある。

English Classes Conducted in Japanese

TBLTの教室では教室運営と指導をすべて英語で行うことがベストである。これによってコンテクストを作れるしリスニングにもなる(Willis & Willis, 2007, p.220)

しかしながら、日本の中等教育現場では英語は主な指導言語にはなっていない。文科省の調査では3分の1以下の中学校教員、10%以下の高校教員が英語をおもに使用して授業を行っていた(Kan,2006)。

この問題にまず当たらなければならない。しかしながら、教師が英語の授業中で日本語メインで生徒とのコミュニケーションを図っている以上、生徒は先生に従って(真似して)ペアワークやグループワークで日本語を使うはず。コミュニケーションのための英語授業という状態を作ることがTBLTの前提条件としてあるだろう。教室内で日本語の使用が主であるという現実を直視すると、TBLTの導入は節操ではないだろうか。文科省の目標に逆らうわけではないが。

Reconsidering the Utilization of PPP

Declarative Knowledge and Procedural Knowledge

2種類の知識タイプ
  • declarative knowledge; 宣言的知識。「知っている」ということ
  • procedural knowledge; 暗示的知識。「使える、できる」ということ。”procedural knowledge can only be performed”
インプットの不足している日本では生徒はまず宣言的知識を得たのちに、反復練習や英語に触れることによって、それを手続き的知識に発展させる(Sharwood Smith, 1981)。手続き的知識は自動化された宣言的知識であり(Anderson, 1992)、第二言語習得の最終的なゴールは手続き的知識の獲得であるべき。

Skill Acquisition Theory

第二言語習得はdeclarative formから始まり、数多くの練習によって手続き化される段階を経て知識が自動化される(Anderson, 1993,1995)。

スキル獲得の3段階
  1. cognitive stage;宣言的知識の段階
  2. assoociative stage;手続き化の段階
  3. autonomous stage;自動化の段階
すべての知識が宣言的知識からスタートするわけではないし、手続き的知識の習得(宣言的知識の自動化)は宣言的知識の消失を必ずしも意味しない。しかしながらこの理論の肝は目標行動に取り組むことによって宣言的知識が手続き的知識に発展するという点である。

PPP and Skill Acquisition Theory

SATはPPPの効果を説明しうる。DeKeyser(1998)によると、SATは学習者の明示的文法指導が先に与えられるべきであり、その後に宣言的知識を手続き的知識に発展させる活動や練習が続くべきで、そして手続き化を自動化に高めるためのより自由度の高いコミュニカティブ活動があたえられるべきであるとなっている。この段階はPPPのpresentation・practice・productionという3つの段階と対応する。ちなみに、TBLTではpractice・associativeのステージが完全に却下されてるようにみえると筆者は指摘する。

Yamaoka(2005, 2006);イミテーション、繰り返し、パターンプラクティスは日本のEFL環境において宣言的知識を手続き的知識に発展させるために不可欠である。

Dekeyser(2001);活動は言語が定型句を通して学習されるようなルールベースのモデルのあとに活動が導入されるのが理想的であると結論づけている。なぜならば、明示的指導によって、生徒は新出の構造に気づき、その形式と意味のつながりを処理することができ、そうすることで彼らは最終的にその新出文法を習得することができる。

Suggestion

AndersonのSATにあるように、PPPモデルは日本人英語学習者が限られた時間のなかで効果的効率的にターゲット構造を習得するためには役に立つはずである。

Yamaoka(2005);手続き的知識を発展させる際には伝統的PPPモデルにみられるような単純で機械的な繰り返し練習では意味はなく練習をとおして意味と形式のつながりを経験するべき。むしろ複雑でアクティブなイミテーションや繰り返しが必要。意味と形式のつながりを確立するためには認知的練習が必要。

DeKeyser(1998);機械的ドリルやアウトプットを急がせることは宣言的・手続き的、両知識の発展のためには理想とはほど遠い。活動やプラクティスの前にまずターゲット項目の宣言的説明が必要。コンテクスト内での大量の練習が必要でありそれによって宣言的知識が手続き的知識になる。

Gatbonton and Segalowitz(1988);コミュニカティブ活動は学習者に同じ表現や決まり文句を繰り返し使わせるようなものに工夫されるべきである。

Arevart and Nation(1991);学習者が同じストーリーを数回話し、回を重ねるごとに時間の制限を厳しくするような活動を紹介。同じ語彙項目や決まり文句を何回も使うことになり学習者の習得に効果あり。

同じターゲット項目を繰り返し使わせるようなfocusedな活動が効果的であるかも議論の余地はある。TBLTの観点ではターゲット構造を正確に産出できるかという点にプライオリティをおくのは批判されうる、たぶん。例えばWillis(1996)は生徒はしばしば目標形式を過剰使用し、彼ら自身の伝えたい意味を表現するというよりも構造をうまくコントロールすることを示そうとすると指摘している。単にすでに習ったあるいは内在化された形式を使用するというよりもむしろ新しく文法構造を習うように仕向けるということを考えると、産出段階において自由度の低い活動を使用することは合理的である。入試やテストのために勉強するという環境とTBLTのミスマッチ。産出段階においてもSではなくRLWが重視されたりする。その活動の一例としてディクトグロスがある。

Conclusion

TBLTは注目されているが日本という環境での英語学習には適していないのではないか。日本で行われているPPPモデルの問題はproductionの段階でコミュニケーションを改善させるための十分な時間が取れていないということ。コンテクスト無視した練習段階を重視すぎてもそれは学習にはつながらない。
日本人のスピーキング力がダメなのは過剰に自由度の低いドリルやエクササイズに頼りすぎた指導法にある(Lucas, 1984)
伝統的PPPアプローチの改善が明らかに必要。しかしながら、改善が必要であるにはあるが伝統的PPPがそれでも日本に1番適しているという可能性もある。

TBLTは実際のコミュニケーションのために英語を使うことができるという状況に学習者をおくことによって学習者のモチベーションをあげるしL2の真の流暢さを発達させるのに役立つという面もあるのでTBLTの効果は退けられるべきではない(DeKeyser, 1998)。

最初の段階でPPPを使用すれば、算出段階でtaskが効果的に機能する(折衷案?)

Ellis(2006)も言っているように文法指導のアプローチは一つではない。第二言語・外国語の文法学習・習得は複雑なプロセス。どんなオプションが可能で、それらの理論的根拠はどのようなものなのか、そしてその理論的根拠の問題点とはなにかを認識する必要がある(p.103)

二分法でそれぞれのアプローチを考えるよりも現実に合わせたコンビネーションが大事なんじゃないか。しかしながら特に高校レベルではPPPアプローチの効果があるはず。

ボストンキャリアフォーラムに行ってきますた

メモ

日英バイリンガル留学生の集うボストンキャリアフォーラムなう。一応チノパンにシャツ着てネクタイしてベストのセーター着て入れたけどスーツじゃないやついねえw 日本人以外にも留学生がいたり。ぐろーばる人材の卵がたくさんいます(棒
歩きながらレッツノートいじってるノマドの卵もいました(棒 知ってる企業もあれば聞いたことのなような企業もあり。日本語で説明会やってるところもあれば英語でやってるところもあり。日本人じゃない人(英語喋ってるけど国籍はわからん)がブースの前に立ってるところもあったし。来たはいいけどやっぱりこういう雰囲気は苦手というか、やっぱ興味ないからつまらない。話し聞いてみようかなという気にもならないほど僕はチャレンジ精神というか好奇心とかないなと思ったり。スライドぐちゃぐちゃしててなにこれみたいなのも散見されるしどう見ても日本人同士なのになぜかぎこちない英語で喋ってたりと。

いやーでもこういう人たちがこれからの日本を支えるぐろーばる人材として期待されてる人たちなんだろうし、僕が教師になったとして、将来的にはこういうところにくるような子たちにも英語教えることになるんだろうなとか思うわけで。例え僕がそういうことを目指していなくても、国や世間的にはこうやって留学して、「世界をまたにかけて」仕事するぐろーばる人材育成のための「学校英語教育」という位置づけなのだろうし、そこに携わろうとしている以上、僕が教育に携わった結果として、僕がなんか違和感のようなものを覚えるようなこういう所にくるような子たちが増えていくのかもしれない。というかむしろそういう子たちを応援するような立場にあるはずなのに、僕がこのイベントに感じてる違和感や、「ぐろーばる」という標語に感じる嫌悪感はいったいどこからきてるのだろう。

僕は英語を教えたいと思うし、だから英語教師になろうと思っている。どのような英語学習が効果があるのか、どのような指導が効果があるのか、また英語教育に関わる諸問題についてを日々勉強しているわけでして。「日本人が英語ができない」というのが学校英語教育のせいになっている現状がどうしても納得がいかなくて、それをどうにかしたいと、そういう仕事に従事したいと強く思いながらここ数年は生きてきて、でも例えば日本人が英語が得意になったとして、それで「日英バイリンガル留学生」と言われるような学生が増えたとする。それは僕の夢なんだろうか。

追記:いや絶対そんなことはないと思う。そりゃきっと英語教師になって、英語を使う仕事についていたり海外に留学しますなんて教え子がでたらそれは嬉しいものなんだろう。でもそのために英語を教えるわけじゃないような気がしている。学校教育が軽視しがちと言われるいわゆる「できる子たち」のことをどうでもいいと思っているわけではないのだけれど、どっちかっていうと英語マジ無理っすみたいな層に働きかけたいという気持ちの方が強いのかなあと思ったり。英語教育の目的なんて偉い人が考えればいいんじゃないのっていう意見をちらっとみかけて、うーんでもそれはなんだか違うようなって思ってしまったんですよね。教師の志望動機は「英語教えたいから」でいいじゃないかと思ってるんですが、じゃあなんで英語を教えるんだろう。教えるからには「英語が少しでもできるようになる」ことを目指して日々指導にあたるんでしょうけれども、じゃあその結果として生徒が英語ができるようになったことによって世の中がどうなるんだろうとかそういうことも考えたんです。いや考えてもわからないんですけど。でも、「学生や生徒が英語ができるようになってほしい」しそのためにいろんなことを勉強していくわけですけどじゃあその先は?ってなると、今の僕には具体的なことが思い浮かばないんですよね。皆様はどうお考えなのかも気になります。

ボストンキャリアフォーラム行ったときに、暇だったから思ったことつらつら書いてて、そのことにちょっと追記しました。肝心のボスキャリどうだったんだっていう感想は特に無いですね。ああ日本人留学生ってこんなにいるんだなあってくらいでした。

そんな感じ。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。

Ellis, R. (2009) Task-based language teaching: sorting out the misunderstanding

どうもご無沙汰しております。かねてからTBLTに関しては興味がありまして、そのあたりのことを扱ったペーパー書くのでその周辺的というか大枠というかでTBLT関連の論文を読んでいます。今回はこちら。タイトルにもあるようにTBLT批判への再反論といった内容です。まとめというかメモと訳に近いですので日本語力が問われてヤバイですね

Ellis, R. (2009). Task-based language teaching: sorting out the misunderstandings. International Journal Of Applied Linguistics19(3), 221-246. doi:10.1111/j.1473-4192.2009.00231.x

Introduction

TBLTは様々なSLA関係研究者にとって関心度の高いテーマになっている。また一般教育論や言語教育の経験知からも支持を受けている。
TBLTは、systematicに少しずつ言語を教えるという従来の試みを否定し、言語習得は、言語教育の目標が学習者の持って生まれた言語習得能力が成熟していくことができるようなコンテクストをつくることという原理に基づいているという点で、言語教育の主流の見方に異議を唱えている(p. 222)。
そしてSheen (1999, 2004)やSwan(2005)などからの批判もある。他にもSeedhouse (1999, 2005)は、「タスク」は言語教育プログラムの周辺において妥当な構成概念を成していないという点でTBLTに反論し、Widdowson(2003)はタスクの定義がかなりゆるく、そしてauthenticな言語使用を強調しすぎていると主張している。
また、TBLTは、TBLTの根底にある教育哲学と根本的に異なる哲学を教師が支持しやすく、限られた第二言語能力あるいはテストの波及効果というような実践的な問題に直面しているアジア諸国など、異なる指導環境における実施の実証研究の面でも批判にあっている(e.g., Li 1998, Carless 2004, Butler 2005など)。

 

Task-based language teaching: key percepts

言語教育活動が「タスク」であるために満たされるべき条件
  1. 意味に第一義的フォーカス(意味論的・語用論的側面)
  2. 意見表明や意味伝達など情報をつたえるために必要な’ギャップ’があること。
  3. 活動を遂行するために学習者が自分自身のリソースに依存していること。
  4. 明確に定義された結果があること
上記の定義に従うと、taskとsituational grammar exerciseの違いは、後者は2と3は満たしているが、1は満たされない(学習者が、活動の目的が、メッセージや意味を伝えることではなく正しい言語使用の練習だと思っているため)。また、4も満たされない(活動の結果が正確な言語使用であるため)。1
タスクはまたfocusedとunfocusedに分類できる。後者は学習者に(彼らのもつ)言語一般のコミュニカティブな使用の機会を与えるためにデザインされたもの。前者は、ある特定の言語的特徴(典型的なのは文法構造)を用いてコミュニケーションを図る機会を与えるためにデザインされたもの。しかしながら、focusedタスクも上記の4条件は満たしていなければならない。よって、目標となる言語的特徴は’hidden’されている。つまりは明示的にはその特徴を指示されない。
また、taskとsituational grammar exerciseの違いは’task-based’と’task-supported’言語教育という重要な違いの基礎となる。前者はunfocused taskによって構成されるシラバスが必要で、後者は構造的シラバスを利用し一般的にはPPPを含む。後者も教育的にのぞましくないわけではなく両立させることもできるし安易に後者を切り捨ててはいけない(engagementをinspireしうる)。
‘Input-providing task’ と’output-prompting task’という分け方もある。つまりは4技能をカバーしているしいくつかを統合することも可能。
デザインと教授法という観点。つまり、どのタスクがコースに含まれるべきか、タスクの内容はどんなものか、そして一番決定的なのが、学習を促進するためにどのようにタスクを並べるか。教授法の決定は、タスク型授業をどのように組織するかということ、どのタイプの参加構造を使用するかということに関係している。
タスクの3段階
  • pre-task phase
  • main-task phase (obligatory)
  • post-phase
“[I]t is important to recognize that there is no single way of doing TBLT” (p.224).
TBLTの3アプローチ比較(Table.1)
Long (1985)
Skehan (1998a)
Ellis (2003)
上記3アプローチの比較の際に用いた5つの特徴
  1. 自然な言語使用
  2. 学習者中心
  3. Focus on Form
  4. focused or unfocused
  5. 伝統的アプローチの否定

Misunderstandings about TBLT

TBLTに関する誤解の原因は特に2つ。TBLTに関する理論的根拠の誤った解釈と、TBLT支持者の間にある違いを認めることをしていないこと。以下、著者が列挙するTBLTに関する12の誤解。

 

⒈ タスクの定義が、他の指導法との違いを明確にするほど十分ではない点
 
WIddowson(2003)は、Skehan (1998b)によるタスクの定義を取り上げ、’meaning’、’goal’、’real-world relationship’などの用語の不明瞭さを指摘している。この点に関しては正しい指摘である。しかし、タスクのoutcomeに関しては、タスクがうまく遂行できたとしても、言語使用が最小限であった場合には学習に繋がらないと主張している。しかしながら、これはタスクを定義する目的は学習のoutcomeを具体的に記述することではなく、タスクがどのような教育上の活動なのかを規定することにすぎないという点で論点がずれている。
タスクの定義に関しては問題が多いことが明らかになっている。しかしながら、Skehanの定義よりも正確なものもあり、Widdowsonがタスクの定義づけに関しては’loosely formulated’であるというならば、ひとつの定義を持ち出してそこから一般化するよりもむしろ定義の幅を考慮することは必要条件である。
さらには、Skehanの言及しているタスクの多くは、人々の実際の生活には起こりそうもないとかなり正確な主張をしている。Widdowsonはタスクの定義的特徴を、’authentic’であるべきと想定しているようにみえる。しかし、Bachman(1990)が指摘しているように、situational authenticityとinteractional authenticityという2つのauthenticityを区別することが可能である。Widdowsonは明らかに前者が頭にあるようだが、さらにはタスク型論文はinteractional authenticityが重要であるということを明確にすべきであるというせっかちな読み方が頭にあるようだ。つまり、situational authenticityを満たすようなタスクもあるかもしれない(しかしWiddowsonも指摘しているが教室における必要性を考えるとこおれはおこりそうにない)が、すべてのタスクは前述のような自然に起こる言語使用場面において生じるインタラクションの過程(例えば意味交渉、スキャフォールディング、推測、モニターなど)が起こるようにデザインされている。

 

⒉  タスクは語用論的意味を重視していて意味論的意味を軽視している。

 

伝統的アプローチ(Widdowsonのいうstrctural-oral-situational teaching) は語用論的側面が無視されている。逆にTBLTは語用論的意味を処理することを求めているが、意味論的意味を獲得するのに必要な状況的なヒントを学習者に提供することに失敗している。学習者が語用論・意味論両者をマスターしなければいけないとすると、WiddowsonはTBLTとSOSのコンビネーションが必要であると主張しているようである。これには同意だがエッセイの全体的な方向性は明らかにTBLTに否定的である。
Widdowsonの主張には2つ問題がある。1つはTBLTでは意味論的側面を指導できないという誤解。2つ目はある特定の文法構造を教えるために与えるコンテクストを工夫することによって学習者がそれらの構造を獲得できるようになるという想定が誤っていること。この考えは学習者自身に内在するシラバスやそれを導く形式と機能のマッピングを考慮にいれていない。

 

⒊ タスクから得られるインタラクションはたいてい不十分でL2習得のために適切なコンテクストを構築できない。

 

Seedhouse(1999)は学習者がコンテクストに過剰に頼りすぎることや、彼らのもつ言語資源が限られているために、結果としてタスクのパフォーマンスは”indexicalized and pidginized’’ な言語ばかりになり、このようなインタラクションは習得ではなく化石化を促すだろうと主張している。
確かにインフォメーションギャップタスクがこのようなインタラクションを生み出すことはありうるが、そのことはタスク型の否定を正当化できない。
  1. 学習者が初級者であった場合そのようなインタラクションは彼らのもつ限られた言語資源を活用する能力を発達させ、彼らのstrategic competenceを発達させることを助けるという点で実際有益であるかもしれない。
  2. TBLTで起こるインタラクションの性質は3つの要素による(生徒の熟達度、タスクデザインの特徴、実施方法)。より複雑なタスクにより上級な学習者が取り組むほど、より言語的に豊かなインタラクションが期待できる。特に学習者がpre-taskやオンラインプランニングする機会が与えられていれば。
”One of the aims of TBLT is, in fact, to create contexts in which learners can experience what it means to communicate at different stages of their development — using whatever resources at their disposal. Inevitably, with beginners, the interactions will be limited, but this does not mean that they are of no pedagogic value” (p.230).

 

⒋ タスクのパフォーマンスがどのような言語使用を生むかは予想が不可能なためにタスク型コース内で目標言語が適切にカバーされていることを保障できない。

 

ワークプランとしてのタスクとプロセスとしてのタスクの違いという分け方は不完全である。Skehan(2001)やRobinson(2007)は、言語の正確さ、複雑さ、流暢さに影響を与える特定のデザイン上の特徴を示している。Foster & Skehan(1996)などもplanningのような実施変数がタスクが予測可能な方法で行われるかということに影響を与えるということを明らかにした。Skehanの研究は学習者が言語の様々な側面に優先順位をつけるように導くようなタスクのデザインや実施が可能であることを証明している。focusedタスクによってもある特定の側面を引き出すことは可能(Ellis, 2003;Mackey, 1999)。
また、Seedhouseのタスクがコースデザインに不適切であるという主張は、タスクとはアウトプットを促すものという彼の分析に基づいているが、タスクはインプットを与えるモノとしても機能し、この場合はある特定の要素に注意が向くようにし、実際にそれがタスク活動時に使用されるようにするのはよりいっそう簡単になる。

 

⒌ TBLTは文法シラバスに則っていないので、文法を十分にカバーできる保証がない。

 

この問題を考える際にはまずタスク型「シラバス」とタスク型「指導」を分けることが重要。シラバスの場合でもタスクはfocusedとunfocusedに分けることができ、Sheen(2003)やSwan(2005)が批判しているのは完全にunfocusedタスクのみで構成されるシラバスの場合である。しかしながら、focusedをから成る”grammar-oriented task-based syllabus”というのも可能であるし、focusedとunfocusedのハイブリッド型もありうる。Willis(1996)、Long & Crookes (1993)、Skehan(1998b)などは概して”pure task-based”シラバスを選んでいるが、Ellis(2003)やSamuda &Bygate(2008)などは文法もタスク型シラバスの中に位置づけられるという立場である。

 

⒍ TBLTではタスクのパフォーマンスを阻害しないようにするために形式への注意がcorrective feedbackに限られている

 

FonFはTBLTにおいて文法を扱う主要な方法のうちの一つである。
“[T]he only grammar to be dealt with (in TBLT) is that which causes a problem in communication” (Sheen, 2003).
Longの提案したTBLTの場合はこの批判が的を射ている可能性がある。しかしながら形式への注意を向けさせることはLongの定義によるFonFのみではなく様々な方法が考えられる。また、FonFはコミュニケーションに問題がおきた場合にのみ機能するというのも正しくない。形式への注意はcommunicativelyにもdedacticallyにも生じうる (Ellis et al, 2001)。この例ではコミュニケーションにはまったく問題は起きていないが、教師による教訓的なcorrective feedbackが行われている。このように、むしろ、コミュニケーションに断絶があった場合にのみ形式に注意を向けさせる方が逆に難しのではないか。

 

⒎ post-task段階での文法への注意がconsciousness-raising activitiesに限られており、産出練習活動がない。

 

著者自身がCRタスクを支持しており、そのことが原因でこのような批判があるのだろうという分析。著者は、CRタスクと産出活動を比較し、前者の方が明示的知識に関連しており、暗示的知識と関係がある学習者内シラバスと指導を一致させようとする問題を扱う必要がないという点で、L2習得についてわかっていることと矛盾しないと述べている。また、CRタスクはタスクが満たすべき条件を満たしつつ、
「文法」を話題にして話すことになる点でcommunicativeタスクとしてもいける。
CRタスクはpost-taskの理想ではあるがが唯一の方法ではない。(Ellis, 2003; Willis, 1996参照)

 

⒏ TBLTの理論的根拠は文法指導にはあるが語彙や発音指導は無視されている。

 

FonFの意味するところのformが文法と結びつけて考えられているだけであって、Williams (1999)の研究では学習者のFonFは語彙が最も多かったという報告があり、 Ellis et al (2001)でも、批判されるほど文法に偏ってるわけではなく、文法と同量の語彙へのFonFがあり、その半分ほどの量の発音へのFonFがあった。Loewen (2005)の研究でも43%が語彙、22%が発音、33%が文法という結果だった。このように実証研究からも、TBLTが語彙や発音を無視しているとは言えないことがわかる。

 

⒐ TBLTはアウトプット重視しているために、学習者に十分なインプットに触れさせることができない。

 

Swanはこの点に関して、伝統的・タスク型アプローチにおいて、どのようにして学習者が触れるの量を測定するかということを提案していない。そして、”new language”の意味も不明瞭。
4でも指摘されているが、タスク型とは必ずしもインタラクションと産出活動を含んでいなければならないということはない。様々な研究で、Ellis (2003)で提案したインプット型のタスクの効果が取り上げられている(e.g., Loschky 1994; Ellis, Tanaka, Yamazaki 1994; Ellis and Heimbach 1997)。多読活動もインプット型のタスクだとみることもできるし、多読活動によって付随的な語彙習得がおこるという研究もある(e.g.,  Dupuy & Krashen 1993)。
さらに、人気の伝統的アプローチを用いた教材の研究では、それらの教材のスペースの多くが言語的インプットよりも絵や写真に割かれており、インプットにかけるということが明らかになった(筆者注:Ellis (2002)か?)

 

10. TBLTでは教師の役割はコミュニケーション活動の”manager”や”facilitator”に限られてしまう。

 

この批判の想定は言語教育において、少人数のグループワークは役に立つが、教師中心の活動も、学習者の言語使用を促す雰囲気をつくるという点では使い道があるということがあるかもしれない。また、多くの指導環境では教師が主なインプットのソースである。
しかしながら、完全な教師主導のTBLTもあるし、例えばPrabhu (1987)では、pre-taskを教師が、main-taskを生徒がやるというようにタスクを分けることも提案されている。彼の主張は、教師こそ学習者の中間言語発達に必要な英語の「良いモデル」を保障できる存在であり、学習者間のインタラクションはその中間言語システムの刷新にはつながらず、L2のピジン化や化石化につながるというものである。Prabhuはある種のティーチャートークで、教師が生徒に合わせて語彙選択やスピード等スピーチを調整することはタスクの管理よりも教師の参加が伴っているとしている。
インプット型のタスクでも教師主導であるし、タスク中でのFonFでも教師の役割はある。また、タスクの前後に明示的指導を含めることもTBLTでは可能であるという点も無視されている。
TBLTでは教師は確かに”manager”や”facilitator”といった役割を求められるがそれだけではなくもっと「教師的」な役割も必要とされる。また、他の指導法と同様にTBLTは教師主導でも生徒主導にもなる。

 

11. TBLTは”acquisition-rich”なコンテクストにしか適していない。

 

一般的な見方として初学者には文法指導が必要で、そうでなければコミュニケーションもできず、文法に関する基本的な知識しかない故にコミュニケーション中に形式に注意を向けることもできないというものがある。この見方の帰結として、TBLTは学習者が教室外でも広く目標言語にアクセスできる環境で適しており、そうではない、コミュニケーションのために学習者の文法リソースを発達させるために構造的アプローチが必要となる外国語環境には適していないという考えが生まれる。
著者がいく度となく指摘しているように、TBLTは学習者が初学者の場合は最初から学習者に産出活動を求めるわけではなく、インプット型のTBLTもある。初学者には明らかにリーディングやリスニングのタスクを中心としたアプローチが適している(Ellis, 1999のレビュー参照のこと)
また、L2習得のかなり初期の段階は”agrammatical”でありgrammaticalizationは徐々に起こるものである。
この観点でみると、初学者への文法指導はその目的が学習者の文法規則に関する明示的知識の発達でない限り意味がない。
であるからこそむしろ’acquisition-poor’な環境にこそTBLTは適しているのではないか。2

In situations where learners have access to communicaive contexts outside the classroom, there may be a case for teaching grammar as a way of preventing the stabilization that often occurs in interlanguage development after learners have achieved a basic ability to communicate in everyday situations. In situations where such communicative opportunities are not found (e.g. for learners of English in many European and Asian countries), there is an ovbious need to provide them inside the classroom. TBLT is a means for achieving this (pp. 237-238).

 

12. TBLTの理論的根拠を支持する、あるいはTBLTが伝統的アプローチよりも優れているということを示す実証的な研究結果が不足している。

 

SheenもSwanもPrabhu(1987)やBretta & Davies(1985)の実証研究に言及していない。後者ではTBLTの方が伝統的指導法より優れているという実験結果がでたが、しかし彼らはこの結果に慎重的であり、包括的な指導法の比較の難しさはよく知られているところである。しかしながら他にも小規模の実証研究はある (Ellis et al,1994, Mackey 1999)。
Swan(2005)が指摘したTBLTの理論的根拠となる4つの仮説3、The online hypothesis, The noticing hypothesis, The teachability hypothesisに対しての反論。4
次にTBLTが他の指導法よりも優れているかという点に関しては、SLAの研究で、付随的な学習がタスク遂行の結果起こることなどを明らかにしているが、SheenやSwanを納得させるほど十分な結果が得られているわけではないと認めている。しかしながら、TBLTはSLAのみを理論的根拠としているわけではなく一般教育理論もその理論的根拠としていると主張している。

 

Problems in implementing TBLT

これまでに見てきたWiddowson, Seedhouse, Sheen, SwanのTBLTに対する反論は主にTBLTの理論的根拠や、TBLTを支持する実証研究の不足についてであった。この点については著者の挙げた12の点について反論してきたわけだが、現実には教師がTBLTの実施において実践的な問題に直面していることは事実である。これは真実であり、TBLTが実際の教室でも機能するはずであるとするならばこの問題にも触れておかなくてはいけない。
Carless (2004)では香港の小学校の”target-oriented curriculum”においてのTBLT実践とその問題が報告されている。結論として、教師のタスクがなんであるかという理解が不足しており、その結果として行われるタスクが実際のコミュニケーションというよりもむしろ「練習」になってしまっているということをCarlessは主張しており、タスク実施上の鍵となる問題として、
  1. 生徒の母語の幅広い使用
  2. 生徒に会話させることと授業規律を維持する難しさ
  3. 多くのタスクが生徒にL2を使用させるよりも(絵を描くといったような)非言語的活動になってしまっている。
の3点を指摘。
McDonough & Chaikimotongkol (2007)では、タイの大学におけるTBLT実践の報告があり、
  1. 学生の自立度があがった
  2. 教師の間で文法の扱いが不十分ではないかという不安があった(コースが進むにつれて解消されたが)
  3. 学生はこのコースは彼らの現実のアカデミックなニーズには関連していたが、アカデミックな文脈以外のニーズとは関連がなかったと認識していた

という3点がTBLT実施の結果として報告されている。さらに、コース設計者がどのようにこの研究の参加者(教師と学生)の不安に立向かったという点で、

  1. 教師と学生の両者がコースに適応できるように修正することを引き受けたこと
  2. タスク課題の理解のための補助教材の開発などの学生サポート
  3. コース内の活動の数を減らしたこと
の3点を挙げ、結果としてこのタスク型コースは成功したという報告がなされている。そして著者はこの香港の小学校での実践とタイの大学での実践の比較から、TBLT実施の際の問題を解決する原則として、
  1. タスクが学習者のレベルに合わせてあること(学習者の英語力が高くない場合にはアウトプットよりもインプット重視のタスクを先に)
  2. タスクが適切なL2使用を引き出すかを確認するために試験的に実施してみたり、経験的知見に基づいて改良する必要性
  3. TBLTが機能するためには教師のタスクとは何かに対する明確な理解が必要であること
  4. 教師と生徒がタスクを遂行することの目的や理論的根拠に気づいている必要性
  5. タスク型コースで教える教師がタスク教材の開発に関わること
の以上5点を上げている。そして、これはTBLTに限らずどのような指導形態であっても関係していると付け加えている。しかしながら、このようなレベルでは解決できないより構造的な問題が世界中に数多く存在することも事実であり、例えばスキルの向上ではなく知識学習に重点があったり、スキルではなく知識を測定するようなテストがあったりするために、パフォーマンス型のTBLTがそぐわないといったことが実際には有り得る。また、大人数のクラスではTBLTの実施は簡単ではない。このようなTBLT実施の問題点を解決するには教室内に存在する教育哲学などをラディカルに再検討することが必要となる。
 

Conclusion

 
結論部分では今までみてきたTBLTの長所をまとめて(めんどくさいので省略)、前節の最後でも述べたような問題があることは認めている。さらに、TBLTへの別の観点からの批判として、すべての環境に適用できる唯一の言語教育アプローチはないという見方があることにも触れている。Widdowson (1993)の議論を例として挙げ、社会文化的な土壌がTBLTにそぐわないということもありうるし、TBLTが求める教室での実践は西洋の価値観の押し付け、あるいは”cultural imperialism” (Pennycook, 1994)にもなりうるといったsocio-cultural context的観点からの批判についても言及している。TBLTには文化的な障壁があるということは認められなければならないとしたうえで、たとえどんなに心理言語学にTBLTが支持されても、社会・文化的な要素によってTBLTの実施が困難(あるいは不可能)になってしまう場合はあると認めており、このジレンマの解決は容易ではないとして締めくくっている。

 

コメント

注1: しかし著者は後者が教授法上の価値がないと言っているわけではない。

注2:正直ここの論理がよくわからなかった。”there is an obvious need to provide them”のthemがコミュニケーションの機会を示していて、それがTBLTによって与えられるべきであるという主張だとすると、前半部分のESL環境では化石化を防ぐための明示的指導が必要だが、EFL環境ではそうではなくまずコミュニケーションの機会をということなのだろうか?それともそのコミュニケーションの機会と明示的指導のコンビネーションを発動させるためにTBLTでやろうということなのか。Ellis先生は明示的指導も認める立場にあるという理解だったのでよくわからない。

注3:fourと本文中にはかいてあるが、Table4に示されているのは3つで著者の反論も3つの仮説に対して、また、Swan(2005)でも”2.1 Three hypotheses”となっているので著者のミスだと思われる。

注4:ここに関しては、Swanが引用している文献等やその引き方への直接的な反論とはなっておらず、「いや実証研究あるから」という感じで、それぞれの仮説を支持する実証研究を列挙している感じ。Swanも、「仮説は仮説だろ」という感じの否定で、仮説を反証する研究とかをあげてたりするのであまり効果的な反論になっていない気もする。

こんな感じ。長くてすいません。

では。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。

「英語教育、この一冊」

どうもどうも。今年もこの季節がやってまいりました。anfieldroad先生が半年に1回開催している「『英語教育ブログ』みんなで書けば怖くない!企画」の第4回目に参加させていただこうと思います。僕がこの企画を知ったのがちょうど1年前で、僕にとってはこの企画に参加させていただくのは3回目です。

この企画で、初めて僕のブログを訪れる方もいらっしゃるかと思いますので簡単に自己紹介させてください。僕は埼玉大学を2011年3月に卒業し、同年の6月末から北米に留学していて現在は修士課程でTEFLを学んでいます。一応プロフィールページとか作ってあるのでそちらを御覧頂いて、あとはTwitterのつぶやきなんかでどんなやつかはわかっていただけると思うのでこのへんでやめておきます。

さて、今回のテーマは、「英語教育、この一冊」ということでして、実はこの話でTwitter上で盛り上がったときにはちょうど僕もその中にいまして、和書洋書問わずいろいろな書籍の名前があがっていてほしい物リストにどんどん追加した記憶がありますw

僕も一応教育学部の英語科を卒業した身として、それなりに本は買って読んでいましたし、学部生だった当時はいわゆる「カリスマ」と言われるような有名な先生方の著書を読んで感動していました(遠い目

残念ながら、僕がアメリカに来る際にこちらに送った荷物の中で僕が日本で読んでいた英語教育系の和書が全て入っていたダンボールだけ紛失してしまった(UPSの不手際で)ので、それらの本をまたもう一度眺めておすすめすることもできませんし、「一冊」しか挙げられない中でそれらの本を今「この一冊」として紹介するかというとそうとも思いません。こちらに来てから買った読んだ本も、確かにたくさんあるのですが、包括的な英語教育の本として「これだけは読んでおいてほしい」と自信を持ってオススメするような本というとどうもしっくりくるものがありません。日本から取り寄せた「成長する英語教師をめざして」「学習英文法を見直したい」も候補にあがったのですが、今回はちょっと奇をてらうと言いますか、もしかしたら「おまえなめてんのか?」「ふざけてんのか?」と言われるかもしれないものを一冊あげたいと思います。

こちら。

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すいませんすいませんすいません

いや別にあのふざけてるわけではなくて割りと真面目なんです…

「んなものは書籍じゃないしPDFで読めるだろ」云々かんぬんとか「すすめるまでもなく誰でも読んでて当然だろぼけks」とか「一冊じゃなくて二冊じゃねーか」とかもうバシバシ飛んでくると思うのですが…(二冊だけど値段は一冊分以下(ry

でなんでこれを挙げたかと言いますと、ほら、ついこの前も「指導要領を守れないなら学校を去れ」騒動とかあってコワイからちゃんと読んどきましょうね(棒 とかまあそれは冗談で、よく学習指導要領の内容とか、それに従う従わないとか問題になるじゃないですか?そういう議論自体はどんどんしていくべきだと思うんですけど、例えば指導要領なんか見て授業やってる奴はとかあんなものはとか云々かんぬんいろいろサムライの方とかいろいろ言う人多いんですけど、でもだからといってあれは無視していいものでもなくって、批判するにしてもまずは読んでから批判するべきなので、尖った発言する(文科省に反対する側の)偉い人達の言うことに乗っかって「そうだそうだー」とかやらないでまあちゃんと読みましょうよというのが一点目の理由。

二点目は、英語教育のいわゆる「中の人」でしたらすごくわかると思うのですけれど、教育、とりわけ学校英語教育をはじめとする日本の英語教育っていわゆる「外の人」からボッコボコにしてやんよばりに言われたい放題じゃないですか。それもほとんどが自分の経験とかあるいは自分の子どもの経験とかをもとにした的外れの指摘だったりすることがほとんどで、もちろん日本の英語教育が完璧であってなんの問題もなくて現状維持が最適とか言うつもりはないんですけれど「ちょっとそれはちがうよ」ってこと多いじゃないですか。で、僕の個人的な信条としては、それを無視しちゃいけないと思うんです。「はいはい何もわかってない外の人は黙っててね」とか「そういうのかまってる暇ないから」とかやっちゃうともうまた「教師は世間知らず」だの「英語教師は既得権益にすがってる」だのってなって余計に批判されてしまうと思うんです。もちろんこういったことの原因として、事実を正しく伝えきれていなかったり過度に大衆を煽ったりというメディアのせい、とかもじゃもじゃの人のせい、とかネットで影響力があるぐろーばる界隈の人のせいとかもあるとは思います。で、そういう人たちと話をする際にこの学習指導要領って使えるんじゃないのかなって僕は思うんですね。例えば先ほどは挙げませんでしたがよく話題になる「小学校英語」の話とかをする際に、一つの資料として学習指導要領をもとに話したりもできると思うわけですよ。ネットで公開されてますし、例えばここのこのへん読んでみてくださいこうやって書いてありますよね?でもこれにはこういう問題が実はあって今はこうなってて、とかって説明したりとかにも使えるんじゃないのかなって。学習指導要領が合ってるとか間違っているとかの話とは別にして、はっきり言って教育の外の人で真面目に指導要領読む人なんかほとんどいないと思いますから、そしてそれでも学校の教育に(ときには理不尽な)文句つけられたりして、そういう時にこの学習指導要領に書いてあることを批判的に読んで説明する、伝えることって大事なんじゃないかな。そんなことを考えたんです。

最後の三点目は、指導の話です。指導要領に従う従わない、ここがおかしいあそこが変だとは言っても、「じゃあどうするの?どうやって教えるの?」「なに教えるの?なんで教えるの?」という根本的な疑問を解決するときのスタート地点って結構学習指導要領なんじゃないかと思うんです。そういう意味での「指針」としても使えるんじゃないのかなって。もちろん定期的に新しい指導要領が告示・施行されて、その度に「現場」の先生方は振り回されているという事実はあるわけなんですけれどね。そもそも、経験や実践を積み重ねてきたからこそ学習指導要領に批判的になれるのであって、学習指導要領を通過せずにそこにはたどり着けないんじゃないかなと思います。

おまけですけど教員志望の学生であれば教員採用試験においても学習指導要領読んでて損はないわけですしね。

そんなわけでして、あの僕は別に学習指導要領ごり押し的なあれでもなんでもないですけど、以上三点の理由で学習指導要領を「英語教育、この一冊」として取り上げさせていただきました。

今回の企画の趣旨とはずれてしまったとかもしれませんが、たくさんの方に読んでていただく可能性のあるまたとない機会なので、普段僕が思っていることを書かせていただきました。

10月1日が更新基準日だそうですので一番乗り目指して早めの更新です。他にもたくさんの方々がこの企画に参加されることと思いますが、集まった記事は以下のリンクにまとめられるそうです。

http://d.hatena.ne.jp/anfieldroad/20121001/p1

それでは皆様よい週末を。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。

NY旅行記-4

はい。これがたぶんラストになると思います。NY旅行記。最終日のことはちょっとTwitterに書いたのでもういいかなとw

 

遅めの高級ランチからの午後

来てしまった。せっかくだし…うまいもん食ってみようと…サーロインステーキ(サイドなし)$○○((((;゚Д゚)))))))

ばちあたりそう
でもすっごく雰囲気はいい。抜群にいい。デートで来たいね…
ちなみに夜もBBQ食いに行くつもりw
Tシャツダメか…ドレスコードありか…と思うほどのシャレ乙感
一人客はほとんどいないかな。ましてアジア人僕のみ。いまなんか変なパンを持ってきてくれたお兄さん日本人ぽかた。最初対応してくれたお兄さんはまじディカプリオイケメンすぎワロスレベル
これね。パンの上にローズマリーがのっててとてもいい香り。おいしい。パン自体は塩気なくて上に塩まぶしてある。一緒に出てきたバターも無塩だった。
 そしてきましたよお肉。
ちょっと焼きすぎじゃ…と思ったが切ってみると絶妙。しかしやや塩気強すぎる気がした。それでも特製のステーキソースつけてもうまし。ケチャップとかBBQソースがベースのような感じだけどもっと上品でいろんなもの混ざってた。…奥の小鍋はほうれん草のクリーム煮?炒めたというよりはペースト上のほうれん草というかんじ。バター効いててこれもうまい。
ステーキうますぎてやべえ…肉肉しくてかみごたえあるのに硬すぎない。これぞステーキ。18ozだっけか?お腹いっぱい。もう夜ご飯いらないというか5年くらいステーキ食わなくていいわ…むしろ一生ステーキ食えませんこれが最後ですって言われても後悔ない。お会計チップ抜き$○○((((;゚Д゚)))))))飲んでもいないのに○○○○円とか有り得ん((((;゚Д゚)))))))ぶっちゃけこのステーキならサラダとか頼んで二人でシェアしてもいいのかも。女の子はまず食いきれないだろう。
店を出て、地下鉄に乗りワールドトレードセンター跡地へ。新しいビルが建設中のようで特になんてこともない(メモリアルパークみたいなのも建設中みたいでした)。そのまま歩いてマンハッタン島最南端へ。自由の女神像を海の向こうに拝む。島行きのフェリーは$17するらしく断念。というか歩くのがもうしんどすぎる。チャッカブーツきつい。ウォール街近くのブロードウェイの歩道にはホームレスみたいな若者がいて、この若さでホームレスとか夢も希望もねえなと思ったけれど考えてみると、まだオキュパイしてるってことか?もう喉は渇いて仕方ないし疲れたしでどうにか休みたくて、スタバ入ろうか迷ったけどダンキンあったのでダンキンでラージアイスコーヒー買って、広場で座ってこれを書いている。夜遅くにお腹は減りそうだが…というか夜はバーでビール飲もうと思ってたけど我慢できずにコーヒーがぶ飲みしてるしな…これ以上歩いていい感じのバーを探す気にもならないし。今日は早めに戻ろうかな(´Д` ) むしろ昼での分も使い果たしたに等しいわw
一人旅が楽なのは、こうやって無駄に歩き回って疲れても気を使う必要がないこと。誰かと一緒だとこんなに疲れるまで歩き回りたくないし、一緒にいる人とそれで喧嘩になっても嫌だ。まあだからこそ用意周到な計画が大事なんだけれど、それはちょっとめんどくさい。気軽にふらっと行って、行き当たりばったりでフラフラする。それがいいのです。というかなんか留学生の変なプライドで、「俺は観光客じゃない」みたいなのあるんですよね。まあ留学生も広義には「お客様」なんですが。でもなんかアメリカ来て観光らしいこと初めてした。てええええええ封鎖されたんだがwwwwwwww 出れないwwwwwwwww
 

おわりに

結局このZuccotti Parkは柵で囲まれてて出入口が一箇所。そこに警備員の人が立ってて一般の人は出入りは自由でした。それでも見計らったように一斉に柵を張り巡らせたのにはびっくりしましたね。上の写真にあるように柵の中からおじさんおばさんが必死に訴えているのを外の若者が熱心に聞いていたり、太鼓たたいたりサックス吹いてるおじさんを観光客が写真を撮っていたりと観光名所化しているような印象も受けました。ランチしたレストランは検索するとメニューが見れて値段がばれちゃうので秘密にしておきます(まじでほんとこんな高い物食ったとか…うわ…なにをすr)。