Cunnings, I. (2012). An overview of mixed-effects statistical models for second language researchers. Second Language Research, 28(3), 369–382. https://doi.org/10.1177/0267658312443651
この本が全体を通して非常に残念な仕上がりになってしまったと感じる最も大きな理由は,各章の独立した論考をまとめて統一感をもたせる構成になっていないことでしょう。「はじめに」と「終章」はありましたが,本の意義のアピールが多く,全体を俯瞰的にまとめきれていたようには感じませんでした。このことは,何もこの本に限ったことではないと思います。他の分野の本がどうかはよくわかりませんが,私がこれまでに自分の研究に関わる専門書をそれなりの数読んできた印象は,多くの執筆者が各章に独立した論考を書いているパターンの書籍は質があまり高くないことが多いというものです(特に洋書)。一冊の中で扱われるトピックに多様性をもたせようとした結果,一冊の本のまとまりを欠いてしまうというのはしばしば見かけます。この本もそういう系統だというのが私の印象で,それだけであればそういう本のうちのone of themだということでスルーしていたかもしれません。
SLAでは,暗示的知識というのは母語話者が言語使用に用いるものであるという理解があります。言語学者でなければ,ほとんどの人間は自分の持っている言語の知識について意識することもありませんし,その情報へのアクセスを意識的にすることもないわけです。そして,第二言語学習者と比較して圧倒的な速さで言語の処理ができます。このことから,暗示的知識の概念的定義に速いことと無意識であることが含まれるようになりました。この章(第4章)のpp.53-54の最後の段落の記述を見ると,「学習者はjunctionの意味的表象に素早くアクセスする能力を有しているとみなすことができるだろう」とあります。こういう部分に,速い=無意識,という前提があることが現れています。「処理の話と意識の話」が混ざってしまっているわけです。つまり,持っている知識に対して,そのことを意識しているかどうか(自分がその知識を有していることを自分が認識しているかどうか)と,その知識にどれくらいのスピードでアクセスできるのかどうかということを分けて議論できていないように感じました。Tamura et al. (2016)で主張したように,スピードが早い=無意識,スピードが遅い=意識という単純な関係ではありません。
小学生の暗示的知識?
話をまた「はじめに」に戻します。この本の最初のページはこのように書いてあります。
(前略)たとえば,多くの小学6年生は,英語の疑問文における倒置の規則を知らないのにもかかわらず,英会話で”What color do you like?”, “What would you like?”, “Do you like soccer?”と正しく発話することができる。(中略)また,明示的知識はないが暗示的知識があると考えられるため,小学生が正しく英語を使うことができるということになる。
はじめに iii
端的に言いましょう。小学生が疑問文生成に必要な倒置の規則の暗示的知識を持っているわけありません。これはただの模倣です。仮に知識として持っているとすれば,Do you like X?で「Xが好きですか」という意味をなすというくらいのものでしょう。
そしてp.84を読むわけですが,そこに書かれている内容は首をかしげるものでした。そもそもこの著者の言っている「文法知識」なるものは他の著者の言っている文法知識と指しているものが異なるように感じました。例えば,What X do you like?のX部分を様々に入れ替えて質問ができる,質問の内容を理解して答えることができる,といったとき,この小学生はいったいどのような文法の知識を持っているということになるのでしょうか。Wh句が前置されて疑問文が生成されるという知識?do挿入の知識?Xの要素を引き連れてwhを前に移動させるという知識?そうではなく,似た構造のインプットをたくさんうけることによって,構造的な類似性をヒントに構文を構築していくというような用法基盤モデルのような考え方を採用しているのであれば,そういった説明が必要でしょう。
となっていて,この項目で測定したいのは「名詞の単数形・複数形」となっています。正しくはI like animals.と複数形形態素がついていないといけないということでしょう。問題は2つあります。まず,このときの複数形形態素が欠如していることというのは,*I have two car.のような誤りとは訳が違います。なぜなら,後者の文であれば,「名詞が表すモノが複数なら-sをつける」という知識があれば対応できるでしょうが,I like animalに-sをつけるというのは,「種類を表す場合は裸の名詞の複数形(bare plurals)である」という知識が求められるからです。これは,単に複数=-sの知識とは言えません(名詞周りの知識ではあるのでそれも含めて複数形の知識という点で誤りではないですが,それでも対になってるとは言い難いと思います)。catは具体物を表しますが,animalは動物というカテゴリの名詞ですから,そういう意味でもこの2つは対になっているとは言えません。
第6章でもこうした問題が散見されます。例えば,pp.88-89では動詞フレーズの獲得状況についての調査をした浦田他(2014)という研究が紹介されています。p.89の表1をみると,*I can play piano.という英文があります。これ以外の誤文はすべてcanの後ろに動詞がない(*I can soccer),動詞とcanの語順が異なる(I play can kendama.)など,canと動詞に焦点が当てられているものの,play pianoは「playの後ろに楽器が来る場合はtheがくる」という知識です。それって全然違うことなのでは?というのが読書会でも話題になりました。元論文を読むとTomaselloが引用されていたりして,用法基盤モデルの考え方を採用しているのだなと思いながら読めば,can VPみたいなものを見ているのかなとか思ったりもしました(それでもこの章の説明だけでは違和感を覚える人は少なくないはず)。4.2節の物井他(2015)も,正答率の低かった問題について「最初に,問題2については,rhinocerosesという児童に聞き慣れない語がふくまれていたことが原因である」と書いていて,文法性判断課題で未知語が含まれていたらその影響が出るのは当然で,そうなると語順の知識は測定できないのではと思います。元論文を読むと,以下のような記述があります。
学部長・研究科長が竹内先生で,英語教育で言えばその名前を知らない人はいないのではみたいな人(e.g., 水本先生,新谷先生,to name a few)が一人ではなく何人もいるみたいな環境です。いやいやこの先生がその仕事してる場合ちゃうやろっていうのを思ったことは就職してから数え切れないほどあります。
ターンの交代は明確な時(例えば疑問文を使えば次はその疑問文を使わなかった人のターンになるというような)もあれば,そうではないときもあります。また,1対1であれば複数人で会話しているときと比較すればターンを渡す,自分からターンを取る,というのも容易です。ただし,特に熟達度にばらつきがあるような場合には,話すのが苦手な側が簡単なレスポンスしかしなかったり,あるいは熟達度の高い側が,沈黙になるなら自分が話したほうがいいと考えたりしてどちらか一方が話し続ける時間が長くなってしまうこともよくあります。とはいえ,「共同的なやりとりを心がける」ことだけを目標として掲げてしまうと,”What do you think?”や”How about you?”だけを使って相手にぶっきらぼうなパスを出すだけになってしまうということもよくあります。そこで,ここでは「共同的なやりとりを心がける」という主原則の下により具体的な準原則を示してあげることも大事かもしれません。例えば,「質問をするなら相手が答えやすい質問の仕方をする」とか。実は,話すターンと聞くターンの原則を意識していると,自然とターン交代も起こるんですけどね。
特に,”How was your day?”みたいな感じで聞かれるのがおそろしく苦手なのだ。なんのへんてつもない日常なのだから,取り立てて会話の話題になるようなものでもないし,それをそのまま話しても何も面白くない。仮に自分が話し相手として聞いたら「へえ〜」としか言いようがないことしかないような毎日だからだ。2011年にTwitterを初めてからは,しょっちゅうツイートしてた。面白くもない話を延々と。それに,毎日の出来事についてもツイートしてた。誰も興味ないのに。それがTwitterだから良かった。自分も若かったので周りなんか気にしてなかった。まあそういう使い方が本来の”tweet”であるべきなのだ。今でもそれなりにツイートする数は多いほうだと思うけれど,昔に比べたらずいぶん減ったと思うし,ツイートしようと思ってやめるということも増えてきたように思う。それでも,人と話すよりはツイートするほうがよっぽど楽なのだ。なぜなら相手からの反応がなくて当然だから。
前回書いたことをざっくり振り返ると,要するにサッカーというスポーツの競技力を向上させることと,言語能力を向上させることの間には共通点がたくさんあるんじゃないかということですね。そして,そのキーワードは「複雑系」です。これまでも,言語能力の発達を複雑系で捉えることだったり,あるいは特にTask-based Language Teachingの文脈で身体技能の発達を例にとって言語能力の発達を捉えるみたいなことは「話の種として」出されることはあったように思います。
長々となってしまうかもしれないので,先に結論言っておきますが,私は戦術的ピリオダイゼーションのような考え方でサッカーの練習を考えるのと非常に似た思想がTask-based Language Teachingであると思っています。また,タスクとはなにか,とかタスクの定義,と言われるようなものがなぜ大事であるのかというのは,タスクでなくてはいけないから,とかそういうことじゃなくて,その定義を満たすような活動(サッカーでいえば練習)を設計することによって,実際の言語使用場面(サッカーでいえば実際の試合)を意識したトレーニングをすることができるからです。よって,「これってタスクですか?」「それはタスクではありません」みたいなやりとりが不毛なのはその部分の共通理解が不足しているからだと思っています。つまり,実際に私達が言語を使用する時の状況に近づけるように言語活動を設定しようと思ったときに,その指針としてタスクの定義というものが有益であるということです。