PPPいいよっていう論文

ELT Journalから,PPPいいよっていう論文が出たようです。

Anderson, J. (2016). A potted history of PPP with the help of ELT Journal. ELT Journal. Advance Online Publication. doi: 10.1093/elt/ccw055

 今年の全国英語教育学会のシンポジウムでもPPP vs TBLTが取り上げられますよね。タイミング良いというかなんというか。読んだらまたここに追記しようと思います。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

アカデミックな議論をする能力を説明するのはインプット仮説?アウトプット仮説?

アカデミックな場面で,議論する力を身につけるにはどんな力が必要なのかなという話です。

私は例えばゼミでは,狭い意味で私の研究分野から外れるような発表でも,何かしらコメントしますし,それができないことは研究者としての能力がないことだと思っています。それから,発表資料を作って,わざわざ発表してくれた人に対して,何もコメントがないのは発表者に対しても失礼だと思っています。例えば1対1の状況なら,20分とか時間をかけて話をしてくれた人に対して何も言わないのって絶対あり得ませんよね。それがゼミとかになると普通にあり得てしまう。少なくとも私の参加しているゼミは「1人1回必ず質問」というようなルールはありませんから,90分間何も言わず,その場にいても居なくても同じような存在の人が大半です。例えばM1くらいだと,まだまだ知識や経験が足りないので議論についていけないということもあるかもしれせん。そんなこと言ってる間に修士なんか終わってしまうけどね,と個人的には思っていますけど。

よく聞くのは

  • どういうコメントや質問をしたらいいのかわからない
  • 自分の質問が的はずれで頓珍漢かもしれないから言えない

というものです。そこで,こういう人たち(多くは後輩,Dでゼミ中に一言も喋らない人ははっきり言ってDの院生としての自覚も足りないし資格もない)が,ゼミでの,または学会でのアカデミックな議論に参加できるようになるためには何が必要なのかなと考えました。

1つは先輩や先生のコメントから,どういうコメントや質問をすれば生産的な議論になるのかを「見て,聞いて,学ぶ」というもの。ゼミ中に出てくる質問やコメントが全て「良い」ものだとは限りませんが,ようするにインプット(肯定証拠みたいなもの)をたくさん受けるなかで学習されだろうという見方。この考え方だと,とにかくゼミに出て聞いてれば自然に学ばれることになると思います。そもそもインプットに注意向けてない(全然聞いてない)というのは論外だと思いますので,ゼミに参加する人はみなインプットをしっかり処理していることを前提としています。つまり,インプットさえあればいいというのが1つ目。

2つ目は,インプットだけでは不十分で,アウトプットの機会がなければいけないというもの。つまり,聞いているだけではダメで,なにかしらのアウトプットを行うことで,次第に能力が身についていくだろうという仮説です。アウトプットすれば,「自分の質問やコメントが的はずれか頓珍漢か」ということは検証できるはずです。もし的はずれなら,「いやそれは関係ない話です」というフィードバックを受けて(実際はもっとやんわりとした表現になるでしょうが),自分の質問が的はずれだったことを学習します。アウトプットすることで,否定証拠を手に入れる機会があり,その上でインプットによる肯定証拠もあるので,それによって内部のシステムが構築されていくと。インプットのみだと,「どんなコメントや質問はダメか」みたいなことはわかりません。もちろん,誰か別の人が頓珍漢な質問をして「それ頓珍漢」みたいなことを言われたというようなやり取りをインプットとして受ければ,否定証拠になる可能性はあります。それでも,自分の思考の過程から生み出された質問に対して受けるフィードバッとは違うのかなとも思います。

インプットだけでいいという立場をとると,インプットを浴び続ければ自然に議論に加われるようになるはずです。逆に,アウトプットが必要という立場だと,とにかくアウトプットを促すような介入が必要になってきます。さてどちらが正しいのでしょうか。個人差もあるかもしれませんね。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

ニコ生

ひっさしぶりにニコ生見たけど相変わらず面白かった。ひっちゃかめっちゃかだけど猪瀬さんの乱入後からが特に。

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なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

英語の勉強はやめよう

授業の時間は限られている。だからこそ,その限られた時間を有効に使いたい。それを突き詰めると,授業という場,教師と学生が1つの教室に集まるその場所でしかできないこと,その場所でしかできない学習をさせてやりたい。それが私の教師としての思い。あえて授業の時間を割く必要がない学習については授業外に各自で学習させるようにすればよい。それを予習とか復習とかいう名前で呼ぶのはきらい。家庭学習ならまだいいかもしれない。それから,勉強という言葉がきらい。「勉強させる」ということばはもっときらい。もしかすると,私が語学学習という意味での「勉強」が嫌いだからかもしれない。しかし,私は英語の勉強は好きである。それはlearning Englishではなくstudying Englishであり,to master Englishという目的ではなく,to acquire knowledge “about” Englishという目的のためにするものである。自身の研究のためでもあるし,英語を教える者として言語に関する知識は多ければ多いほど良い。純粋に知的好奇心もある。

ただ勉強だけしても英語ができるようになるわけではない。いわゆる「勉強」ってヤツをしないと英語ができるようにならないと思っている人(教師も学生も)がいるようだが,それだからダメなんだ。大学生にもなってbe動詞もできないからbe動詞を「しっかり」教えようとか,「基礎からもう一度やり直そう」とか,そんなことやってるからダメなんだ。彼らは間違いなく「教わった」はずだ(cf. 文法の明示的指導研究について思うこと)。中学だけでなく,高校でも「基礎からもう一度」とやり直すような授業をやったのかもしれない。ではなぜ,彼らは大学生にもなってbe動詞もわからず,代名詞の目的格もわからないのか。それは教えただけじゃできるようにならないしすぐ忘れるからである。こんな当たり前のことにも気づかないのか。リメディアルという名のもとにくそつまらない文法やり直し問題集を大学向けの教科書にしてる場合じゃない。

どんなに話のうまい先生がどんなにわかりやすい丁寧な説明をしたところで,そこで「わかったつもり」になってあとは忘れるだけである。普通の教師が説明しても身につかなくて当たり前。だいたい教師の説明なんてほとんど聞いてない。必死にメモを取っても忘れる。「英語は教わったように教えるな」という若林先生の名言があるが,私はもっとラディカルに,「英語は教えるな」くらい言いたい。ただこれだと語弊がある(若林先生に教えない教師など必要ない。失格だ。と言われてしまう)。教えるなとは言わない。教えてと言われた時に教えればいい。教えてと言われなければ教えなくていい。少なくとも,説明などしなくてもよい。どうしても説明したいなら紙でも配って勝手に読ませれば良い。教師が教室で話す意味はあまりない。少なくとも,何か別の活動に関連した規則についてその活動のあとに説明するなど,何かしらの活動と関連性がある場合を除いては。もし「配っても読まないし」と言うのなら,それを読まない学生は知りたくもないし教えて欲しいとも思っていないのだ。やはり教えなくてよい。どうしても,どうしても教えたいのなら「どうしたら学生が食い入るように文法説明のプリントを読む状態になるか」を考え,そのために必要な活動をやらせれば良い。それを考えずに上手くもない説明を無理矢理学生に聞かせることになど意味がない。

もうひとつ教える場面があるとすれば,それはフィードバックを出すときである。学習者の産出した言語に対してフィードバックを出すのは良い(もちろん文法項目によっては受容面に関してprocessing instruction的なことをやることにも意味はあると思う)。むしろどんどんフィードバックすればよい(どうフィードバック出すかが問題だが)。そこで教師としての力量が問われる。ただし,誤りが害悪だからフィードバックを出すのではない。学習者の誤りはそれ自体が学習者の中間言語体系を表しているからである。学習者がどのように中間言語を発達させているかを見るには誤りを観察するほかない。それがCorder(1967)の“The significance of learner’s errors”の意味である。学生が何かの目的を持って言語を使う。そして教師がフィードバックをする。そこで発生するのはstudyingではない。learningである。いつまでたっても英語ができないのは,教室で英語を勉強する/勉強させるからだ。教室以外のところでは勉強しても良い。learningのために必要なstudyingならさせても良い。ただし教室内では,英語の勉強はやめよう。そういう授業をやろう。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

“Mac向け文章作成エディタ「Scrivener」のiPhone・iPadアプリがついに登場! | iTea4.0”

約1年ほど前から,論文執筆はMacでScrivenerを使っています。MBAはほとんど常に持ち歩きますから,研究室以外の場所でもMBAでガリガリ書けるのでかなり気に入っています。そのScrivenerのiOS版が出たみたいですね。MBAを買ってからはiPadは基本的にPDFの論文を読んだりKindleアプリで本読んだり,Duetでサブディスプレイとして使ったりという使い方をしています。そして先日,4,5年前アメリカにいた時に買って,MBAを2013年末に買うまで重宝していた折りたたみ式キーボードが壊れたので,いよいよiPadで物書きはしなくなるなぁと思っていたところです。そこにきてこのiOS版Scrivenerの登場。キーボードがあればiPadの方が軽くて気軽に持ち運べるので,ScrivenerのiOS版をかなり待ち望みにしていた人も多かったのではと思います。Mac版持ってたらFreeとかだったらよかったんですが,iOS版も2400円払って購入しないといけないんですね。そう考えると別にいままで通りMBAで執筆作業ってことでいいのかなと思っています。キーボードも買わないといけませんし。悩みます。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。


Macで人気の文章作成エディタ「Scrivener」のiPhone・iPadアプリが、2016年7月20日に「App Store」でリリースされました。

情報源: Mac向け文章作成エディタ「Scrivener」のiPhone・iPadアプリがついに登場! | iTea4.0

ブルーベリーでジャム作った

この前長野に行った時,ブルーベリーをもらいました。畑にブルーベリーがあるのです。それで,たぶん500gくらいはあったと思いますが,正直どうすればいいのかわからなかったので,半分は冷凍して,もう半分はジャムにすることにしました。ブルーベリーと砂糖と少しの水だけ。

洗ってお鍋に投入

焦げ付かないようにヘラでかき混ぜながら弱火で煮詰めていきます。

グツグツ煮詰めていきます

するとこんな感じ。もうこれだけで美味しそうです。

もうちょい煮詰めてもいいかなという感じでしたが冷やすと固くなります。

そして,ブルーベリージャムを作ったらどうしてもやってみたいと思っていたのが,ホットケーキです。ホイップクリームとブルーベリージャムでホットケーキとか最高に美味しそうじゃないですか?

どん!

そしてこれがやってみたいと思ってたホットケーキ!!!!!

キッチンが暑すぎてホイップクリームがみるみる溶けてしまいキッチンがだいぶ生クリーム祭りになりましたw

ちなみにこのためだけに泡立て器を買いました。本当はもうチューブに入ってて絞るだけのやつが欲しかったんですが売ってなかったので,粉と牛乳を混ぜて作るタイプのやつにしました。それにしてもさすがにホットケーキ4枚は多すぎて(間にもジャムとホイップクリームを挟んでます),胃もたれを起こして胃薬飲んで寝ていました(木曜日)。当分ホットケーキは食べなくてよさそうですw

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

3単現の-(e)sは口をついて出るくらいまで練習

馬鹿じゃないのと思った。

今,とある原稿の執筆にあたって(〆切に間に合いそうになくてやばい),中学や高校の教科書のCAN-DOリスト,評価基準,年間指導計画なんかを見ている。そこで,とある教科書の(あえて名前は出さない)年間指導計画の,指導例というカラムに次のような記述があった。

3単現の-(e)sは理屈で覚えるよりも口をついて出るくらいまで文を言い,書く練習をする

まさに,「お前は何を言っているんだ」の気分である。そんな無駄なことをさせるくらいだったらもっといくらでもやること,やれることがあるだろう。これを書いた人は,自分が3単現の-sをまったく落とさない自信があるというのだろうか。3単現の-sは,超高熟達度の学習者でも習得が困難であると言われる文法項目の典型的な代表である。そして,文法的に主語をidentifyする機能はあるが,これがなくても文の理解に支障をきたすことはほとんどないと言っていい。なぜなら,英語は語順がわかれば主語が(ほとんどの場合)わかるからである。また,有生性も動作主-被動作主の関係を表すのに重要な手がかりとなる。3単現の-sが脱落していることが,意味理解を阻害することはほとんどない。過剰使用されている場合もそうだ(実は過剰使用の方が気づきやすいらしい)。

この「文を言い,書く練習をする」というのが,単なるパターンプラクティスのような物を意味していないのだとすれば,それに意味がないとは言わない。しかし,そうであったとしても,そのような活動は3単現の-sの習得を目指して行われるべきものではないだろう。誤解を恐れずに言えば,3単現の-sの習得など目指さなくても良い。それこそ,理屈を知っていて,ライティングの時などにモニタリングして直せれば良い程度のものではないか(それでも見逃すことだって私にはあるが)。3単現の-sが落ちていることにそんなに目くじら立てる必要はどこにあるのだろうかと思う。しかも,あろうことかそのどうでもいい形態素を習ったばかりの中学校1年生に対して,そんな無駄な苦行を強いるなんて言語道断である。もし本当に三単現の-sの習得を目指したいのであれば,それ以外のところにほとんど注意を向けなくとも書いたり話したりできるような訓練をした方がよっぽど良い。そういうことに時間を割いたほうが,全体としての英語力も上がるだろうし,結果的に3単現を落とすことも少なくはなるだろう(それでも母語話者レベルにはならないと思うが)。

私は英語の第二言語話者としてそれなりに機能できる自信があるし,相手の言っていることを理解したり,自分の気持ちや考えを伝えたりすることだってそれなりにはできると思っている(ただし,英語力に自信があるわけではない。語彙とかたぶん5000語くらいしかない)。英語を中学1年から勉強し始め,北米に2年間留学した私でさえ(むしろその程度だからこそ?),3単現はたまに落とす。英語教師として,正確無比な言語使用ができないことはプロとして恥じるべきだとは思うし,実際に毎週英語で授業をしながら「ヤベッ」と思うことがある。それはプロだからである。英語を教えることでお金をもらっているからである。プロを目指してもいない,英語学習を始めたばかりの中学生に(高校生や大学生だってそうだ),「口をついて出てくるまで」きっと無意味な文を言わせるなんて,そんな指導観を持っている人には絶対に教わりたくない。もちろん,そこまでして,情熱的に,なんとかして,英語を身につけさせてやりたいという熱意は素晴らしいと思う。しかしながら,圧倒的にベクトルが間違っている。その情熱はもっと別のところに注ぐべきだ。

余談だが,実はかくいう私も3単現の-sを減点したことがないかと言えば嘘になる。先日のテストのライティング問題である。語数,内容,文法・スペリングという3観点の評価方式を私はよく採用している。昨年度までは,このような形式を取る問題は1問だけで,ほかは文法の間違いは一切評価しない問題も出していた。今年は,そういう問題を出題できる環境でもないので,3観点方式のライティング問題だけを出した。そこで,私の担当しているクラスのうちの1つで,とびっきり出来の良い学生が,3単現の-sを落としたというだけで,99点を取った。私も採点しながら,本当に心苦しい気持ちになってしまった。途中まで採点していて,「これは満点だなぁ」と思っていた矢先,最後の最後のライティング問題で彼の「誤り」を見つけた時,この採点方式を取ったことを本当に後悔した。テストの他の大問も完璧で,ライティング自体もトピックに沿ってよく書けていた。そこにきて,3単現の-sがたった一箇所落ちていただけで,私は彼が満点を取ることを阻止してしまったのだ。そして,翌週テストを返却したとき,答案をみてその学生が言い放った一言を私は一生忘れることがないだろう。

「くだらねえ」

私はなにも言えなかった。そして,自分で問題を作っておきながら,私自身も「くだらねぇ」と思ってしまったのだ。大いに反省した。そして,今度の期末試験では,文法面に関しては「意味理解を阻害するかどうか」という観点で,おおまかにレベルを4段階設定し(Foster & Wigglesworth, 2016を参考にした),意味理解を阻害しない程度の誤りが少数見られる場合は,その観点では満点とすることにした。もちろん,このレベル分けや,誤りのレベルの頻度というやり方も完璧とは言えない。まず,「なにを持って意味理解を阻害しない」と考えるのかは非常に難しい問題である(もちろんいくつの誤りがあれば「少数」とするかも問題である)。意外なことに,第二言語習得研究の知見からこの観点に関して言えることはほとんどないと言っていい。「誤りの重み付け」に焦点をあてた前述のFosterらの研究が「新しい評価法考えたったー!!」と言ってAnnual Review of Applied Linguisticsの最新号に掲載されているくらいだから,本当に研究されてこなかったのだろう。博論が終わったらこういう問題に取り組みたいとは思っているが,誰か「面白そうだな」と思う方がいらっしゃったらどんどんやっていただきたい。というかむしろ誰かやってくださいという感じだ。

かなり脱線したが,3単現の-sは本当に厄介者である。というかむしろ,「数の一致 (number agreement)」という事象自体が実はかなりの厄介者なのである。結論を言うと,文法習得を専門に研究している私から言わせてもらえば

3単現の-sをなめんなよ

である。そして,文法の正確さばかりに目くじらを立てる英語教師(含む過去の自分)は全員引退した方がみんな幸せになると思う。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

“【参院選2016】科学技術政策についての政党アンケート、結果を公開。 “

これは結構面白かった。選挙のときにgeneralに争点になる内容とは違って,自分の仕事に直接的に関わる政党のポジショニングや意見がわかったし,研究者の卵としてとてもありがたい試みだと思った。

 


情報源: 【参院選2016】科学技術政策についての政党アンケート、結果を公開。 | Science Talks

”Evernoteが無料ユーザーに厳しい変更、同期可能な端末を2台に制限”

数年前からEvernoteを愛用しています。使い方は多岐にわたっていて,単なるメモ書きだけにとどまらず,大事な書類をスキャンして放り込んだり,気になるウェブページをガンガンクリッピングしたりしています。研究のネタを書き留めたりもしますし,論文をいつどこに投稿するかの予定を書いておいたり,また実際に投稿した論文の審査過程をメモしてもいます。例えば,いつ投稿して,査読結果が来たのはいつで,修正原稿の〆切はいつで,手元に実物が届いたのはいつか,など。あとは,1度学会の年会費を払ったかどうかを確認できずに冷や汗かいたことがあるので,最近は振り込んだらその領収書をEvernoteに保存するようにしています。こういう小さい紙をスキャンするのに便利なのが,scannableというアプリで、かなり気に入っています。このアプリで書類や領収書などの写真を撮れば自動的にPDF化してくれて,そのままEvernoteに保存することができます(写真として保存することもできます)。scansnapがあれば必要ないかもしれませんが,いつでも気づいたときにパシャりとできて便利です。

さて,そんな便利なEvernoteですが,私のような使い方であれば基本的に無料のベーシックプランで問題ありませんでした。容量の制限が気になったこともありませんし,オフラインでノート共有できないときも最悪iPhoneがあります。どうしてもiPadやMBAで見たいときはデザリングすればいいですし。ところが,どうやらベーシックプランで利用する端末の制限がかかってしまうようなのです。私は現在ウェブアプリの他にiPhone,iPad,MBAでEvernoteを同期しており,2台までの制限だとどれか一つを切り捨てなければいけないことになります。MBAを買ってからは基本的に常にMBAを持ち歩いて作業しているので,iPadの利用頻度は以前に比べるとかなり減ってきています。そう考えると,iPadでは利用せずにiPhoneとMBAだけですませるということも考えられます。

アップグレードするとなると,容量が増えてオフラインでも使えるプラス版で年間3100円、さらにPDF内の文字検索にも対応するプレミアム会員で年間5200円になります。いままでベーシック版の機能だけで事足りていた私からすると,利用端末の制限を解除したいというだけで年間3100円も支払うべきなのか非常に悩ましいところです。

さてどうしましょう。もう少し悩みます。

なにをゆう  たむらゆう

おしまい。


Evernoteは6月29日、価格プランを改定すると発表しました。改定のポイントは2点。無料ユーザー(ベーシックプラン)がノートを同期できる端末を最大2つに制限することと、有料プラン(プラスプラン、プレミアムプラン)を大幅に値上げすることです。価格改定は2016年8月15日以降の更新日から適用されます。

情報源: Evernoteが無料ユーザーに厳しい変更、同期可能な端末を2台に制限 有料プランも大幅値上げ | アプリオ