JABAET2015研究大会発表資料

明日,法政大学市ヶ谷キャンパスにて開催される第21回日・英英語教育学会研究大会にて,「理解型インプットタスクを用いた授業実践」というタイトルで発表があります。非常勤先での実践内容の報告です。今年度から,自分自身の英語の使用量をできるだけ多くすることと,学生が英語を処理する機会を確保することを目的(目標?)として,産出を必要としない理解型インプットタスクを用いた授業を行っています。英語のインプットを増やすことは言語習得の大前提であり,それが圧倒的に足りないEFLの教室環境だからこそ,教室内でインプットをたくさん供給する機会を確保したいという思いがあります。また,インタラクティブなタスクは言語面や情意面でハードルが高い学生も多いので,その前にインプットタスクを用いて「英語を使用して課題を達成する」という経験を積ませてあげたいという思いもあります。

いつもマニアックなSLA系・心理言語学系の発表が多く,今回は初めての実践報告となります。タイトルと内容のミスマッチが起きていないか不安ですが,皆様からのコメントお待ちしています。

当日使用する発表資料はslideshareにアップロードしていますので御覧ください。なお,当日は印刷した資料を配布する予定はありません。ご了承ください。

JASELE2015熊本大会発表資料

こんにちは。明日から始まる全国英語教育学会(JASELE)熊本研究大会で,同じ名古屋大学大学院の後輩と,一応先輩の福田さんとの共同研究プロジェクトの発表があります。2日目(8月23日)の朝10:30から第5室(1141)です。anomaly detection(異常検知)の手法を用いずに,統語的に表される等位接続詞の複数(e.g., the boy and the girl)と,複数形態素によって表される複数(e.g., the teenagers)の処理が異なることを示した研究です。元にしているのは,以下の論文です。

Patson, N. D., & Ferreira, F. (2009). Conceptual plural information is used to guide early parsing decisions: Evidence from garden-path sentences with reciprocal verbs. Journal of Memory and Language, 60, 464–486. http://doi.org/10.1016/j.jml.2009.02.003

当日使用する投影資料はslideshareからアクセスできますので御覧ください。なお,当日印刷した資料を配布する予定はありません。ご了承ください。

なお,私が第二著者として参加しているライティング関係の共同研究プロジェクトの発表もあります。こちらは2日目(8月23日)の朝一番,9:30から第12室(1242)です。

川口勇作・田村祐・福田純也 「推敲時の筆記ランゲージングにおける学習者の注意配分とライティングの質の向上―フィードバックの有無に焦点をあてて―」第41回全国英語教育学会熊本研究大会. 熊本学園大学.

こちらの発表資料は,代表者の福田さんにご連絡いただければスライドをお送りします(たぶん)。

“Your English is fine.”

久しぶりになんでもないただの現実逃避の駄文。

先日久しぶりにプライベートで英語を話す機会があった。私はアメリカに2年いた割には自分の英語力に対する自己評価は低くて,まぁTOEICとか受けても800点くらいがいいところだろうと思ってる(ボキャ貧なのが致命的)。しかしながら,他者評価だと「英語マッチョ」にカテゴライズされることが多い。実際論文は基本的に英語で書くし,口頭発表も基本的には英語でやることにしている。でもそれはあたっている文献がだいたい英語なので,適切な日本語訳を探すプロセスが面倒だったり,あとで結局論文にするときに英語で口頭発表した方が楽だからとかそういう理由が大きい。英語で論文を書くのは単純に英語で書いたほうがsubmitできるジャーナルが圧倒的に多いから。国内誌でも英語のみしか受けつけないところもあるし(ARELEとか),日本語しか受けつけないってところは少ない。だったら落ちた後に別のところにsubmitするのも英語の方が楽かなと思う。

というのは前置き。そうそう,英語を話す機会があった話。1対1だったのでほとんどしゃべりっぱなしだったわけなのだけれど,それなりにそれなりなパフォーマンスをしたと自分では思っていた。たまに英語が出てこない(単語がわからない)ところもあったけれど。それで,「第二言語で話すのって難しいねなかなかうまく伝えられてないね」みたいなことを言ったら

“Your English is fine.”

って言われたのです。さて,みなさんなら,こう言われたとき,自分の英語がどのように評価されたのだと思いますか?fineということば,どう解釈しますか?(もちろんトーンとか表情とか言い方に多分に左右されるところはあるかと思いますけど)

私は,「まぁ悪くない」「わかるレベル」みたいな解釈をしたんですよね(ほとんど無意識的に)。でも,fineていう単語は基本的にはポジティブな意味を持っている言葉ですよね。

ウィズダム英和辞典より

ウィズダム英和辞典より

ただし,こんな注意書きもあります。

ウィズダム英和辞典より

ウィズダム英和辞典より

割りと幅広い意味があって勘違いされたりするかもしれないので,私は褒めるときにfineは個人的にあまり使いません。というか,叙述用法では使わないといった方がいいかもしれません。あとは,「べつにいいよー」くらいの意味でfine with meとか言うくらい。意図的に冷たく返すときや不機嫌なときに,あえてfineを使うような感じ。別に

“How are you?”

“I’m fine, thank you.”

みたいなやりとりはネイティブは使わないよ!とかそういうくだらないことを言ってるわけではなく,ですけど。うーんでもやっぱりfine performanceとかいうならgood performanceとかexcellent performanceとかいうかなぁ?みなさんはどうですか?

私はちょっとひねくれて,

“Alright. My English is FINE.”

と返したら,「いやいやそういうことじゃなくてほらあのその,ね,私がいつも教えてるのはもっとレベルの低い子たちで…」というようなことを言われました。フォローになってないよw

久しぶりに,あぁもっと英語がうまくなりたいなぁ,と思ったのと,英語難しいなぁ,と思ったのと。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

2015.07.27追記

映画 “Fifty Shades Of Grey”を見ていたら,fineの用例があったのでメモ。

  1. ルームメイトのケイトの代わりにインタビューにいったアナスタシア。帰宅して,ケイトに”What was he like?”と聞かれて,”He was fine.”と答えた。字幕は「いい人よ」。それを聞いたケイトは”Fine? Just fine?”「いい人?それだけ?」と聞き返す。

    この時のfineは明らかに褒めていそうで心がこもっていない感じ。

  2. 弟が骨折して母親が看病のために卒業式に出席できないと連絡。弟を置いて来てくれたらいいのにと頼むも断られ,「わかってちょうだい」と言われたアナスタシアは”yeah, it’s fine”と答えた。

これは不満はありつつも「わかったよ」という感じ。どちらもポジティブな意味ではなかった。fineの用例ってこういうのの方が多そうだけど実際どうなのだろう?(人任せ

JSLS2015@大分

今週末に大分の別府で開催される言語科学会の研究大会で共同研究のポスター発表があります。1年前から追いかけているthere構文における主語と動詞の一致についてです。今回のポスターには盛り込めませんでしたが,別で取ってるデータもあるのでそれもまとめて今年中にどこかに論文を投稿予定です。

昨年JABAETで発表したときの資料はこちら。

 

今回のポスターはこちら。

CELES2015和歌山大会発表資料

中部地区英語教育学会和歌山大会で,同じ名古屋大学大学院の後輩である西村くんと,共同研究の発表があります。語彙のネットワークモデルである階層改訂モデル(Kroll & Stewart, 1994)に基づき,文法の情報である複数素性がどのように処理されているかをL2英単語をみてからL1翻訳のマッチングを判断する課題と,L2英単語をみたあとに写真を見るという課題で検討したものです。資料のPDFはslideshareからアクセスできるようになっていますので御覧ください。なお,当日印刷した配布資料の用意はありませんのでご了承ください。

おしゃれカフェごはん風ガーリックオムライス

昨日の夜,思いつきで作ったらとっても美味しかったのでご紹介。

オムライスなんですが,ケチャップライスの代わりにガーリックライスを使って,卵の上にトマト煮込みソースをかけたものです。

材料

  • ガーリックライス
    • にんにく:1かけ(ガーリックパウダーとかでも代用可)
    • ごはん:1膳分
    • 塩コショウ:適量
  • オムレツ
    • 卵:2個
    • 牛乳:大さじ1
    • 塩コショウ:適量
  • ナスと豆のトマト煮込み
    • ナス:1本
    • 玉ねぎ:1/2個
    • 人参:1/3本
    • にんにく:1かけ
    • カットトマト:1缶
    • サラダに!まめ:1袋
    • コンソメ顆粒:適量
    • ベーコン:2,3枚(挽き肉でも美味しいと思います)
    • 水:50ccくらい(適当)
    • 塩コショウ:適量
    • チリパウダー:お好みで

作り方

  • ナスと豆のトマト煮込み
  1. まずはナスと豆のトマト煮込みから。野菜を切ります。ナスは1センチくらいの輪切り,玉ねぎ・にんじん・にんにくはみじん切りにします
  2. 鍋にオリーブオイルをひいて,にんにくを弱火で炒めます
  3. 香りを油にうつしたら,ベーコンを軽く炒めます
  4. 少し炒めたら人参と玉ねぎをいれてしんなりするまで炒めます
  5. 人参と玉ねぎがしんなりしたら,サラダに!まめをいれてなじませます
  6. 豆がなじんできたら,カットトマト缶,水,コンソメ顆粒をいれてふたをして10分ほど弱火で煮込みます
  7. たまにふたをとってまぜてください
  8. 水分がある程度なくなってきたら,お好みでチリパウダーなどのスパイス,塩コショウで味をととのえます
  9. 完成。このトマト煮込みはバケットにつけて食べても美味しいし,パスタソースにしてもいいですし,色々使い勝手がいいので作りおきオススメです
  • ガーリックライス

  1. にんにくをみじん切りにします(ガーリックパウダーで代用する場合はスキップ)
  2. フライパンにオリーブオイル(サラダ油でもOK)をひいて,にんにくを炒めます
  3. にんにくが少しきつね色になったら火を強めて,ご飯を投入して切るように炒めます
  4. フライパンを煽りながらご飯がパラパラになるようにいためて,塩コショウで味付けをします
  5. お皿に盛って,上からラップをかぶせて楕円形に形を整えておきます
  • オムレツ
  1. ボウルに卵を割り入れて,牛乳と塩コショウをいれてときほぐします
  2. フライパン(小さめがよいですが,お皿に盛ったご飯の量と相談です)に油をひいて熱します
  3. 箸につけた卵をフライパンにつけてみて,ジューっと音がするくらいになったら卵を投入します
  4. ボウルから勢い良く卵を流し入れます
  5. フライパン全体に広がったら,10-15秒我慢します
  6. 10秒ほどたったら,フライパンを揺らしながら全体を箸で混ぜます
  7. 「ちょっと早いかな」くらいで火をとめます
  8. フライパンからうまくはがして,ご飯にかぶせます
  9. もしもきれいにできなそうでしたら,卵をフライパンの上で半分に折ってしまい,その状態でご飯の上に載せたあとに開いて全体を覆うようにすると,半熟の面が上になって見栄えが綺麗になります
  • 仕上げ

  1. 卵の上に,ナスと豆のトマト煮込みをかけます
  2. 熱々のうちに,上にチーズを載せるとさらに美味しくなります
  3. 最後に,上からパセリをパラパラとかけます

完成!!!!

 

ふわとろ卵とトマトソース,ガーリックライスの相性がばつぐん!

ふわとろ卵とトマトソース,ガーリックライスの相性がばつぐん!

 

思いついたきっかけは,ケチャップライスでオムライス作って,その上にトマトソースをかけるのはなんだかなぁということをぼんやり考えたからです。そこで,トマトソースと相性の良さそうなにんにくで,ガーリックライス作ってかけたら美味しいんじゃないかと。そしてどうせならトマトソースと相性の良いチーズも載せればいいんじゃないかと。それから,サラダに!まめはとっても便利で,トマト缶で煮込んだトマトソースはよく作って料理に使っています。ハンバーグと合わせてもいいし,魚料理にもいけるし,もちろんパスタでも。カレー粉いれたらカレーにもなります。今回は,そのトマトソースを作り置きしてあったのでこの料理ができたというのはあります。というわけで,普通のオムライスはちょっと飽きたなぁという方はお試しください。

なにをゆう たむらゆう

おしまい

 

英語で授業ができないのは学習者がアルファベットを書けないからか

ツイッターである記事に対する反応を見つけて,それに対していくつかつぶやいたのですが,いまいち伝えきれてないような気がして(というか自分の中で整理しきれていないような気がして)ちょっとブログに書いておきます。

もとの記事はこれです。

英検準1級以上 公立高校教員は5割余 NHKニュース

この記事に対するコメントはツイッターでもちらほらありまして,例えばツイッターで記事のリンクを検索したり,NHKニュースのアカウントがした当該記事のツイートへのメンションをみてみるとかするとまぁいろんな考えの人がいるんだなぁ(粉蜜柑

という感想です。

Anyway.

この記事に対して,

という反応を見かけました。端的にいうと,これってあまりいいロジックじゃないよなというのがこの記事の主旨です。リンク先のNHKの記事は,「英語教員で英検準1級以上を取得している割合が5割くらい」ということと,「英語で授業をしている割合が低い(都道府県でばらつきがかなりあるけど)」ということを書いています。上記のツイートをした人が批判しているのは,

  • 英検などの資格試験で比較的高いとされるレベルに達している教員の割合が半数程度であることと,英語で授業を行っている教員の割合も低いということを並べることで,教員の英語力が低いから英語で授業をやっていないのだという因果関係を暗示する形になっており,「印象操作」である

ということなのだと私は解釈しました。そこからもう少し踏み込むと,「資格試験取りに行く暇もないし英検もってないからって英語力ないとは限らない」ということなのかもしれません。これは私の憶測に過ぎませんが。ここで,「印象操作である」ということに対するカウンターエビデンス(といっていいのかな?)として持ちだしているのが,「生徒1人1人の事情がまるで反映されていない」という点であり,その具体例として,「アルファベットすら理解しないで高校に入学する生徒」の存在に言及しています。ここから読み取れるのは,英語で英語の授業をしていないのは,英語力の問題ではなく,「生徒1人1人の事情」を考慮してのことであるというロジックです。英語で授業を行う際に,このことは考慮すべき要因であるという意味ならわかります。学習者の習熟度によって,理解できる英語の語彙や文法のレベルが異なるので,異なる習熟度の学習者に合わせるのが難しいということなら,それは現実問題としてなくはないだろうなと思います(ただし,日本語を使えばこれが解決するのかというのはあります)。この,「異なる習熟度の学習者集団」の中の,「下限」あるいは「下位集団」の例として,「アルファベットすら理解しない」という具体的を提示しているのだとしたら,それは難しいだろうなぁとなります。アルファベットを教える段階にある学習者と,中学卒業レベルの英語を学習している学習者では,そもそも一斉授業を行うのが困難であることは容易に想像ができるからです。これは,英語を使うか日本語を使うかという指導に用いる言語を調整することでどうにかなるということではないので,クラスを習熟度別に分けるなりといった別次元の方法で解決されるべきでしょう。

ただし,もしも,万が一,仮に,「アルファベットすら理解しないで高校に入学する生徒に対して、どうやって英語だけの授業が成立するのか。」という文を文字通りに解釈すれば,「アルファベットすら理解しない学習者に対しては,英語だけの授業が不可能である」と読めないこともありません。もしも,この解釈が正しいとすれば,さきほどのツイートが意味するのは,

  • 英語で授業をする教員の割合が低いことや,また授業時間に対する英語使用の割合が低いことの原因は,学習者の熟達度が低いからである

ということになりはしないでしょうか。もしそうだとすると,これって本当なんでしょうか?と疑問を抱かずにはいられないのです。

この問題を考えるにあたって,まずは「アルファベットを理解しない」というのがどういった状態であるのかを確認し,その状態の学習者に何を教えるべきで,どんな指導目標をたてるべきかを考えてみたいと思います。その上で,その指導目標を達成するためにはどのような手段が考えられるのかを考えてみます。ではまず,「アルファベットを理解しない」というのはどういった状態なのでしょうか。これはおそらく,

  • 「A, B, C…Z(a, b, c…z)」で表される記号が,「エー,ビー,スィー」(カタカナでお許し下さい)という音を持っていることが理解できていない,すなわち文字と音が一致していない

という状態であると考えられます。ただし,これも「受容と産出」の両面から考えるべきです。「A, B, C…Z(a, b, c…z)」という文字入力を見て,それを「エー,ビー,スィー」と発音できることと,「エー,ビー,スィー」という音声入力を聞いて,それに対して「A, B, C…Z(a, b, c…z)」という文字記号を割り当てることは別だからです。さらに言えば,音声入力を聞いて,さらにそれを文字として書くことも別です。そういったことをすべて含んで「アルファベットを理解しない」という学習者がいるとここでは仮定しましょう。そして,そういった状態の学習者であれば,まずはアルファベットがわからなければ,と考えたとします(注1)。つまり,

  1. 音声入力を聞いて文字記号を割り当てることができること
  2. 文字入力を見て発音できること
  3. 音声入力を聞いて割り当てられた文字記号を書くことができること

という3つを目標とした指導を考えることにします。では,次にこの3つを学習者ができるようになるためにはどのような指導をすればよいのかを考えてみましょう。せっかく3つに分けたのですから,それぞれの目標を達成するためのアプローチを考えます。ここでカギとなるのが,先ほど触れた「受容と産出」という観点です。普通,言語習得のプロセスは受容→産出という順序をたどります。もちろんこれは本来,「形式で表される意味を理解すること」というのが受容です。つまり,まずは理解が先でしょうということ。これが言語を習得するにはとにかく大量に必要であるというのが,「インプットが大事!」という言説(input仮説とかいわれるもの)の根本原理です(注2)。ここでは指導するのがアルファベットですので,アルファベット自体が何か意味内容を表すということはありません。したがって,ここでの「受容」とは,1番の「音声入力を聞いて文字記号を割り当てることができること」となります(注3)。まずはここからいってみましょう。パッと思いつくのは,AからZまでの文字を提示しながら発音してモデルを示すのを繰り返すというもの。別にここでリピートさせたりしてもいいんですが,例えばリピートさせるとすると,それは上記2番の「文字入力を見て発音できること」につながる練習だと言えます。カルタ取りみたいな感じで,教師が発音したアルファベットのカードをグループで取り合うような活動も,「音声入力を聞いて文字記号を割り当てることができる」からこそ可能なゲームです。これの準備段階で,机の上にランダムに置いたアルファベットのカードを教師が発話したアルファベットの順に取って並べるというような活動も考えられますね(注4)。

次に,「文字入力を見て発音できること」を考えましょう。これは,アルファベットを見て,それを発音することですよね。つまり,文字に対応する音は聞けばわかるという状態にあってこそできることといえます。つまり1番ができることが前提になりそうです。1番の活動を通して,何度も音声入力を聞いていますので,文字を見て発音することの難易度は下がっていることが予想されます。ここでモデルを示して,練習したりすることがすぐに思いつきます。その後,教師がランダムに提示するアルファベットを発音させる,あるいは,ペアでランダムに10枚ずつアルファベットを選んで,1枚交互に提示し,お互いに発音できる枚数を競い合う,というような活動も考えられます。

最後は,「音声入力を聞いて割り当てられた文字記号を書くことができること」ですね。これは,聞いた英語を書くことなので,要するにdictationのような活動がアルファベット単位でできるかということになります。これも教師が読み上げたアルファベットを書き取らせたり,それをペアでやらせてみたりという活動が考えられます。ここまでやってきたことをつなげれば,文字を音にし,音を文字にする,という流れになりますので,flip writingのように表に書いてあるアルファベットを,裏面に声にだしながら書き写すという活動は文字→音→文字という結びつきを作るのに良い練習になるかもしれません。

さて,ここまで,「アルファベットを理解しない」というのはどのような状態なのかを定義し,そうした状態にある学習者が,「アルファベットを理解しない」という状態ではなくなるような指導,つまり,「アルファベットを理解する」状態になるような指導を,「受容と産出」の観点からいくつか考えてみました。ここで,最初の疑問点に戻ってみましょう。要するに,私が言いたいのは,ここまで考えてきた活動って,絶対に英語ではできないのでしょうか?ということです。日本語でなければできないのでしょうか?ともいえます。上記で私の考えたような活動は,外国語活動や,中学1年の入門期の指導として実践していらっしゃる先生も多いのではないでしょうか。そして,英語でこれらの活動をやっている先生もいらっしゃるように思います。

というと,「こんな小学生や中1がやるような活動を高校生がやるわけないだろう」と反論される方もいらっしゃるのかもしれません。確かにそのとおりだと思います。本当にそのとおりだと思います。ただし,そうすると,その問題点というのは,「アルファベットすら理解しない学習者に対しては,英語だけの授業が不可能である」のではなく,「指導する内容またはその方法と学習者の認知レベルの間にギャップが有ること」ですよね。つまり,学習者の習熟度が低い場合には英語で授業することが不可能であるというわけではありませんよね?ということなんです。学習者の習熟度が低くとも,それに合わせた「英語で行う英語の授業」が考えられないかというとそういうことではないと。アルファベットを教えるのだって英語でできないことはないように私は思います。少なくとも,「アルファベットを理解しない」学習者の存在が,英語で授業を行えないことの理由になる,あるいはそういった学習者の存在を理由にするというのは筋が悪いでしょうas discussed above.

問題はもっと別のところにあるというのなら異論はありません。そもそも英語で授業を行うことを考えるほうが,色々なスキャフォールディングを用意しなくてはいけないという点では準備に時間がかかると思います。よって,そのような時間がない,授業準備の時間もとれない,というような状況にある先生方にとっては,英語での授業は難しいというのは十分に理解できます。誤解していただきたくないのは,「英語で授業をできるのに英語で授業をしないなんて怠慢だ!英語でどうやって授業やるか考えろ!」と言っているのでないということです。また,「英語で授業ができない教員なんて!もっと英語で授業やれ!」と言っているわけでもありません。ただ単に,「英語で授業を行えない」ことの理由として,「学習者の習熟度の低さ」,具体的には「アルファベットを理解しないこと」を持ち出すのはあまりいいロジックじゃないですよということです。学習者の習熟度が問題で英語で授業を行えないということは,習熟度の高い学習者に対しては英語で授業をできるということも同時に意味しますしね。そうすると,「では,英語のできる学習者の多い進学校なら英語で授業ができますか?」とか,「アルファベットが理解できる学習者相手であれば英語で授業ができますか?」と聞きたくなってしまいます。きっと,受験なり同僚問題なり学習者からの要望なり,また別の,英語で授業ができない理由を列挙されるのでしょう。そうなんです。「学習者の習熟度が低いこと」は関係がありません。最初から,もっと別の,環境とか構造の要因を理由として挙げるのなら,納得せざるを得ないこともあります。しかしながら,アルファベットができない学習者であるから英語で授業は無理だと読めるような発言には納得できなかったのです。もしそうでないのだとしたら私の誤読ですので申し訳ありません。

私は,指導言語を始めとする指導法や教授法をトップダウンで決めることに賛成はしません。それこそ様々な要因の複雑な交互作用の中で指導法は選択されるべきですし,画一的にこれで全部万々歳ということはないでしょう。そんなに簡単じゃない。ただし,特に日本語でやる積極的な理由がないときは英語でやりませんか,ということは言いたいです。全部英語でなんてことではなく,状況に応じて日本語と英語をうまく切り替える必要はあるでしょうし,内容によっては日本語メインでいい時もあるはずです。そんななかでも,「少しでも受容と産出の両方を通じて学習者が英語を使う」機会を増やす工夫をしませんか?と。もっとも,私のような若輩者がこんなこと言っても誰にも聞いてもらえませんので,どうか偉い先生方にはこういうことを言い続けていただきたいなぁと思っております(チラッチラッ

というわけで,長文駄文失礼しました。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

注1: 別にこれができなくても,「キャット」という音が「猫」という意味に結びついているというように,音とそれが表す意味が一致している状態であれば英語の授業はできると思います。例えば小学校外国語活動ではアルファベットが書けない状態でも授業やっていますよね。アルファベットが理解できることは非常に重要ですが,言語習得とは究極的には「形式と意味のマッピング(form-meaning mapping)」であることも,授業を考える上では重要だと思います。

注2: インプットを与えるだけじゃダメだ!インテイクなんだ!というのがその後言われるようになりましたが,なにがインテイクなのかというのを操作的に定義するのは実は結構難しく,インテイクという言葉はあまり評判がよくありません。

注3: 実は,「文字と文字を一致させること」も受容的な処理だといえます。例えば,アルファベットの神経衰弱ゲームなどを考えます。「AとA」のように同じアルファベットを引いたらそのカードをとれるというように。これは,音と文字を一致させるよりも難易度が低いでしょう。もう少し難易度をあげるなら,「Aとa」のように大文字と小文字が一致するような神経衰弱ゲームです。

注4: これを発展させて,並べてできるのが単語になっていてそれを正しく発音できたら(あるいは意味がわかったら)1ポイントというようなゲームも可能かもしれません。例えば,c, a, rという順番でアルファベットを教師が読み上げ,それを並べてできるcarという単語が「カー」と発音できたり,「車」という意味だとわかったりすることができるか,というように。順番通りではなくランダムなものを並び替えればよいというゲームにする(例: a, t, cをcatにする)ようにすれば,難易度があがりそうです。

Schulz (2001)の感想

6/6に,名古屋大学にて第14回日英・英語教育学会(JABAET)研究会が開かれることになりました(詳しい内容はこちらから)。

そこで,論文批評というのがあり,私が文法指導のビリーフに関する次の論文の概要報告を担当することとなりました。

Schulz, R. A. (2001) Cultural differences in student and teacher perceptions concerning the role of grammar instruction and corrective feedback: US – Colombia. Modern Language Journal, 85, 244 – 258. doi: 10.1111/0026-7902.00107

私の概要報告のあと,JABAETの会長である安間一雄先生(獨協大学)より論文の批評があります。私に与えられたのは15分のみで,私のコメントは本番で話すことはなさそうなので,ここに論文を読んだ私の感想を書いておきます。

  • 質問紙調査というものを用いた調査としては極めて質が低いと言わざるを得ない。結果的に質問紙の1項目ずつのパーセンテージを恣意的に定めた10%という基準の差がみられたか否かの報告に終始していて,結局なにを測りたかったのが不明のまま。
  •  本来,質問紙によってある構成概念を測定することを試みる場合,それが適切に測定できているかの検証を行う必要がある。Schulz(1996)においてもそのような手順を経て質問紙の開発を行ったという記述が一切ない。また,文化的に異なる2群と,学習者・教師という2群が設定されているが,それぞれの質問紙が同じ構成概念を測定しているのかどうかも定かではない。したがってそのような質問紙を用いて得られた結果を比較することに本当に意味があるのかどうかも疑わしい。
  • 質問紙項目のワーディングにかんしても,”formal study of grammar”と”study of grammar”が指すものは同じなのか違うのか,あるいは”communicative ability”と聞いたときに回答者が思い浮かべるものは同じであるのかが疑問。
  • さらに,タイトルに有るのは”role of grammar instruction”であるのにもかかわらず,質問紙ではinstructionという言葉は使用されていない。教員側の質問では,なぜか”学習者がどう思っているかを教師がどう思うか”というような質問項目があり,これがなぜ”the role of instruction”に関する教師のビリーフを測定しているといえるのかも不明。学習者側からのlearningと,教師側からのteachingが完全に一致することはないとはいえ,教師側の設問文をみると教師の指導観に関する質問であったり学習者の教師観に関する質問であったり,一見してこれらが教師のビリーフを測定しているのかが疑問である。ただし,理論的な背景に基づいて教師の指導観という構成概念の下位尺度として,教員の指導観と学習者が教師や教師の行う指導に対してどのように感じていると思うか,という2つの構成概念を仮定するならば話は別であるが。
  •  誤りの訂正に関しても同様で,recastsのような暗示的訂正から,規則の説明までも含むようなかなり明示的訂正までかなり幅がある上に,スピーキングとライティングというモードの違いでも訂正の出し方,またその訂正のあと学習者になにを要求するかもかなり変わってくる。2001年時点でもCFでこのような区分がされていなかったということはないはず。
  •  「明示的指導」にも様々なバリエーションがあるのと同様に「誤り訂正」にもバリエーションは豊かである(むしろ前者のバリエーションはかなり無視されている感があるが)。これらの指導効果のメタ分析をするにあたっても,調整変数分析で細かく検討されるわけで,「明示的指導」や「誤り訂正」に対するビリーフといった構成概念を測定する場合にも,これらが捨象されてはかなりぼやけたものしかみることができないはずだ。
    こうした「粗さ」がすべてと言っても過言ではない。何度もいうが,結果的になにが明らかになったのかがわからない。この項目ではこっちの差があってこの項目では差がなかったとか言われても質問紙(とも呼べない代物だが)の1項目の1反応(の5段階をさらに3段階に圧縮している)の差(10%だったら差ありで9%だったらなしという恣意的基準に基づく)なんてもので何かを言おうとするな。私自身が「測ること」に対して厳しいところにいるからとかそういう問題ではなく,この質問紙に何も思わないって人がいたら結構ヤバイだろうと思う。
  • この研究の成果を結局どこに還元したいのかが不明瞭。実際に教室で言語を教える実践者に対して,学習者と教師自身のビリーフが異なっているようなことはないか,そこに気をつけるべきであるということなのかと思って読み進めると,最後には教員養成のおいての,というような話も出てくる。教師のビリーフがSLAの文献に基づいているかそれとも自身の学習経験に基づいているか,というアメリカとコロンビアの比較も,そもそも文化的差異というよりかは教員養成プログラムにおいてSLAや応用言語学,外国語教育研究の文献を読んだ経験があるかどうかが大きいはずである。研究の成果はほとんど英語で書かれているわけであるから,教えている言語は違えど,アメリカの教師(英語母語話者)がそのような文献にアクセスして読むことと,英語を外国語または第二言語として学習した教師が英語の文献を読むことを比べれば,明らかに前者の方がハードルが低いはずである。日本に限って言えば和書でSLAや外国語教育研究の概説書もそれなりに出版されているわけだが,英語教員の中で,教員養成の段階で(実際に教壇に立ってからでもいいが)どれほどの人が「研究の成果を参照しながら自分の指導を考える」というような経験をしてきたのだろうか。修士課程を出て教員になったり,または大学院に戻って勉強したという教員ならば,学術書や専門書を手にとることもあるだろうが。
  • 自身の経験に基づいて教えることがなぜダメで(ダメとははっきり言っていないがこういう対比されるとそう読めてしまうのは深読みし過ぎかもしれない),どうしてSLAを参照している方がよいのかという観点も述べられておらず,外国語環境で教える語学教師は自身のビリーフに依っていてアメリカではSLAちゃんと参照しているとか言われても(しかもそれが少人数のインタビューと自分の身の回りにおいての話だけに基づく主張),だからなんなのかとなるしそれが明らかになったところで分野がどうなるのかと思う。常に知識をアップデートし続けるべきなのだというのならばそれはうなずけるわけだが,SLAといっても玉石混交で細かい部分では「ジャスティス大会」がずっと続いており,「どの文献を参照すべきか」は研究者でも難しい問題なのではないだろうか(いわんや教師をば)。

とにかく表が多くて項目ごとにパーセンテージをひたすら比較するだけで読みづらく,何がわかったかもあやふやで,それがどう説明されるということもなく,悶々させられました。10年以上も前だからしょうがないよねって感じでもないしModern Language Journalは昔は今ほどレベル高くなかったというのはこういうことなんだなぁと思ったのでした(遠い目

おしまい。

なにをゆう たむらゆう

 

書けなかったacknowledgement

ご無沙汰しております。新年度が始まり,大学院のゼミ,非常勤の授業,自分の研究,と,慌ただしい生活が始まりました。

そんな中,昨年度acceptされた論文が,ついにpublishされて手元に届きました。全国英語教育学会の紀要であるAnnual Review of English Language Education in Japanです。

先輩の草薙さんとの共著で,

Asymmetrical representation in Japanese EFL learners’ implicit and explicit knowledge about the countability of common/material nouns.

という論文です。合格点ギリギリで通ったので,査読者との相性も含めて,「ラッキー」だったのだなと思っています。今年は本数も多くて紀要自体分厚めでしたし。その反動で,来年はちょっと厳しくなるのではないかなと邪推しています。

Anyway. 私自身,論文をすっきりと書くのがどうもニガテで,うまくまとめることができず,いつも規定の語数(またはページ数)におさめるためになんとか削って削ってギリギリにおさめるということを繰り返しています。ARELEに載った論文も例外ではなく,正直16ページにおさめるのに相当苦労しました。その関係で,謝辞を書く余裕もなくなってしまいました。というわけで,あの論文のacknowledgementをこの場を借りて書きたいと思います。

まず,あの論文は,昨年度の全国英語教育学会徳島研究大会での口頭発表をもとにしたものです。台風で天候も悪い中,朝一番の私の発表に来てくださった方々,またコメントをいただいた方々にまずはお礼を申し上げます。

また,データを取って口頭発表する前の段階で,名城大学の松村先生が主催する勉強会でも発表させていただきました。その勉強会でもコーパスの頻度データの話などに関して有益なコメントをいただきました。松村先生をはじめ,桃山学院大学の島田先生,静岡文化芸術大学の横田先生,愛知教育大学の藤原先生に感謝を申し上げます。

学内のゼミの方々にもご指導頂きました。口頭発表の後,論文の体裁として書き上げたものを,木下先生のゼミで発表させていただきました。もうデータも取って論文の形になっていたものでしたから,あとは「どう書くか」というところだったわけですが,うまく伝わっていない部分が明らかになり,そこを修正した上で最終的には提出しましたので,木下先生をはじめ,ゼミでコメントをいただいた方々にもお礼を申し上げます(指導教官のY先生のゼミでは一切発表もせずにsubmitしたものというのがヒィィという感じではあります)。

最後に,同じ研究室の隣の隣の席の福田さん。彼の論文(彼の論文もARELEの同じ号に掲載されています!)の謝辞には私の名前が入っていたので(さらにはARELEに掲載された論文を引用していただいてもいる…!),私の論文で彼に対する謝辞を述べられなかったことはとても残念でなりません。毎日のように意見交換し,彼と話す中で自分の考えが整理されていったことは言うまでもありません。その過程がなければ,あの論文が採択されていたかどうかはわからないといっても過言ではありません。本当に感謝しています。そして,これからも一緒に(あと1年しか同じ研究室で過ごす時間はないかもしれませんが),切磋琢磨していきましょう。彼と共著の論文を出版することが,私の今年度の目標でもあります。

同じ大学院生で,単著でARELEに掲載されている方がたくさんいる中で,このようにブログで謝辞を綴るなどというのは「舞い上がっている」のかもしれません。しかし,私にとっては初めての第一著者としての掲載論文であり(査読なしの論文を含めても),私の出発点ともなる論文になることでしょう。これからも,「一発屋」だとか,「草◯の名前がないと載らない」等々言われないよう,一層研究に励んでいきたいと思います。

ということで,これからもご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします。

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なにをゆう たむらゆう

おしまい。

たしかに,「努力すればなんでもできる」という言葉は魅力的である。そう言って学習者の心に火を付けられる指導者がいるとすれば尊敬に値するだろう。しかしながら,「努力すれば何でもできる」は「できなかったのは努力しなかったからだ」も同時に意味することに注意したい(論理学上の対偶である)。

これは本章で見たとおり,明らかにナイーブすぎる社会観である。そればかりか,他者に対する想像力を欠いているという意味で,不誠実ですらある。「努力」をするためのスタートラインにすら立てない人が存在するという事実を初めから無視しているからである。(Ch.2, p.49)

「日本人と英語」の社会学 −−なぜ英語教育論は誤解だらけなのか

まえがき