教室で一斉に同じことをやらせる意味は何なのか

今日ちょっと色々考えたので忘れないうちにメモしておこうと思います。あらかじめ申し上げておきますと,以下,問いに対する答えはありません。

北米留学時代,社会言語学の授業を取っていた頃に教育とはどういうことなのか,ということや,言語教育を含む教育のもつ暴力性みたいなものを考えたことがありました。

当時はこんなことを書いています。

【授業】教育について考えた

今日引っかかったのは,「教室で一斉に同じことをやらせる意味は何なのか」という問いでした。

もっともだとも思います。本来,人の興味関心や学習の進度などなどはそれこそ十人十色であるわけなので,その中で「全員に一斉に同じことに取り組ませる意味」があるのかどうかということです。もしあるのだとしたらそれはなんなのかということになります。これは実は教室内のほぼすべての活動に当てはまるわけです。言語教育で考えてみると,全員で一斉に音読するにしろ,ペアワークをやるにしろ,グループワークをするにしろ,個別の多読活動に取り組むにしろ,どんなことをやるにしても,「教室の中で,(それぞれのペースやそれぞれのやり方でであったとしても)同じ◯◯をするのはどうしてか」ということ。すごく意地の悪い言い方をすると,「それって結局全部教員側の都合じゃないか」と言い換えられなくもないかもしれません。

教育といっても,学校教育かどうかは大きな違いであるでしょう。また,例えば言語教育でもどのような文脈で行われる言語教育なのかでこの問いのもつ意味も変わってくるでしょう。

教育を,「生徒・学生のためのものである」と考えると,「教員の都合(意見・ビリーフとも言い換えられるかもしれません)」が優先されるべきではなく,「生徒・学生が何を学びたいのか」ということ,こそ重要視されるべきだということになるでしょうか。そのとおりでしょうね。ただし,学校教育においては,「学習指導要領」というもので学ぶ内容に関しての規定があるわけですし,また小中高生が「何を学びたいのか」はあるにしても,「学びたいと思うことや興味が有ることしか教えなくていいのか,教えてはいけないのか」という意見や,「何が自分の人生に必要なのか」を主体的に取捨選択できる能力があるのか,という意見もあるでしょう。大学における教育でも同じような議論は当てはまるのではないでしょうか。自分の学部時代を振り返ってみても「あれを勉強しておけばよかった」と思うことは山ほどあります。そう今思うということは,当時は重要だと思っていなかったからろくすっぽ勉強しなかったか,あるいはそれがこの先重要になると考えもしなかったということでしょう。「そもそもその『あれ』を知りもしなかった」という可能性もあるかもしれません。

さて,ここで,ニーズ分析(needs analysis)についてです。これは,言語教育の分野では最近だと特にTask-based Language Teaching(TBLT),English for Specific Purposes (ESP)との兼ね合いで聞かれることが多い用語かもしれません。あるいは,curriculum developmentやevaluation and assessmentの文脈でも使われると思います。TBLTにしてもcurriculum developmentやevaluation and assessmentでも,大事なことは「目標を設定する」ということです。どんな目標を設定すればよいのか,というときに,学習者のニーズに基づいた目標を設定するべきであり,それに基づいたシラバスデザインなりカリキュラムなりを作り,そしてその目標の達成度合いを評価することが重要であるという考えです。学習者の目線から教育内容を考えるというのは,先ほどの「生徒・学生が何を学びたいか」ということを考えているということができると思います。

学習者のニーズは,それが今必要であるという意味のニーズか,あるいは未来に必要になるという意味でのニーズかで違ってきます。例えば,私がアメリカにいた時に実習で教えていた移民の人達にとって必要なのは,彼らが今まさに生きていくために必要となる様々な場面での言語使用(買い物であったり職探しであったり)でした。当然そのニーズにあった言語教育が提供されていました。目標言語環境における言語教育では,そういった現在のニーズが重要視されることが多いでしょう。対照的に,例えば日本の外国語教育を考えてみると,現在のニーズというのはない場合が多いでしょう。あったとしても,それが入試突破や資格試験のスコアアップという意味でのニーズという場合がほとんどなのが現状なのではないでしょうか。むしろ,「実際に言語が使用できるようになる」ということを目標にした場合,大学の一般教養科目としての外国語教育,中でも英語教育では,学生が卒業後に必要となるであろう(あるいはかもしれない)ニーズに合わせたカリキュラムを組むことになると思います。そうなると,教員ができるのは,教える学生層の進路状況からニーズを逆算したり,あるいは学習者に直接聞いたりということになるでしょう。「卒業後の進路が明確に決まっている学生」が多ければ後者の方法も有効かもしれません。しかし,そうでない場合や,ニーズのばらつきが大きすぎる場合には,別の方法で的を絞ることになります。そこで,例えば題材自体はある学習者のニーズにフィットしていなくとも,そこで行われる活動で用いられる言語や,活動中に発生するインタラクションが実際の言語使用場面においても応用可能であるようなタスクを用いたりします。

と,こうやって「学習者のニーズ分析」から始まってタスクに落としこむところまでいったとろこで,一番最初の疑問にぶち当たっていることに気づかされます。つまり,「なぜ,全員のニーズの共通項や,最小公倍数をとって授業を組み立てようとするのか,それは結局全員に同じことをさせようとしている発想から抜け出せていないではないか」ということです。

こちら(教員側)であの手この手をつかって色々考えてやってるつもりが,実はそれって押し付けなんじゃないのか,と考えさせられてしまうのです。そう考えると,教育っていうのはそもそもが押しつけというか,暴力性を帯びた行為であるということになるのかもしれません。教員と学生のパワーバランスの話も関わってくるでしょう。今のところ僕の中で答えや解決策は見つかっていません。ただ,授業をする,何かを教えるということの難しさを考え,自分の今の実践や過去の実践を振り返り,またこれからの授業がどうあるべきかについて思いを馳せた。そんな日でした。

MBAの充電残り3%で充電器は研究室。そろそろ寝ます。

遠くからライフルで撃つか,接近戦でナイフで仕留めるか。

別にゲームの話ではありません。戦争の話でもありません。ただし,私達の日々の仕事は戦闘です。敵は?そうトドです。日々どのようにトドを狩るか。狩っても狩っても湧いてくるトドをどうしたら効率的にたおせるのか。それが人生です。トドの狩り方は人それぞれでしょうから,この狩り方が良いという絶対の方法もないでしょう。遠くからライフルで撃つもよし,放置してたから接近戦になりあえて近くまでおびき寄せてからナイフで仕留めるもよし。要するに,トドに殺られる前にやっつければよいというわけです。

さて,私の狩り方はどうか。振り返ってみました。私は,他の多くの方と同じように〆切がなければなにもしないクズ野郎です。ですから,いつも視界に入っているトドを見て見ぬフリをして,そろそろやばいかもという段階になって必死にナイフで戦ってなんとか一命を取り留めるということをしてきました。そして接近戦闘の次の日は使い物にならずHPの回復に費やすということも多々有りました。しかし,本当はライフルで華麗に狙い撃ちしたいのです。身の危険がより少ない段階でトドを仕留めておきたいのです。口頭発表の申し込みの日にはスライドが完成していて,論文の募集が始まった日に原稿を投稿してしまうそして落ちる,そういう仕事の出来る人になりたいのです。それには,トドを把握すること,どのトドを先に狙い撃つか,計画をしっかり立てることが重要ですよね。当たり前の話です。つまり,トドの管理です。私は今まで,iPhoneのリマインダーやGoogleのカレンダーのTo doリストを使っていました。iPhoneのリマインダーは,そもそもそのリマインダーをいつもチェックするというクセがなく,僕にはあまり合いませんでした。昨年度までは使っていましたが,名古屋に来てからはGoogleカレンダーのTo doリストにしていました。基本的にGoogleカレンダーはいつも見ているので,そこにTo doリストがあればいつもTo doを気にしながら作業ができるからです。ただし,ちょっと物足りなさを感じていたのはカテゴリ分けやサブタスクの設定ができないことでした。プライベートのトドや,仕事のトドがごっちゃになってしまい,さらには「論文投稿」というタスクの下に,「第1稿完了」や「英文校閲に出す」などのサブタスクをつけて,各タスク間の階層関係をつけることもできませんでした。そしてつい最近こんなことを言われました。

うちのゼミはトドの早狩りが売りなのに,お前はいつもギリギリ

……

てへぺろ☆  ★
*   ___ +
★  + /)⌒ ⌒\
+ _ヘ//(●) < ヽ
/ヒノノ _二⊃(_人_)  |
< +  ヽノ ノ
/ ̄\) *    \

というわけで,いよいよ私は接近戦型社畜RA戦士から,遠距離狙撃型社畜RA戦士にならなくてはいけなくなりました。額にもう1つの目がある感じで撃っちゃうよと。1キロ先のトドも撃っちゃうよと。そこでevernoteを漁っていたらこんな記事を見つけました。

米Lifehacker編集部のiPhoneのイチオシToDoアプリは『Wunderlist』

http://www.lifehacker.jp/2011/10/111027iphonewunderlist.html

無料のTo doリストで人気なのはRemember the Milkかもしれません。名前はよく聞いたことがあります。でもWunderlistはデザインもなんかスタイリッシュでかっこいいのでそっちにしました。というかGoogleカレンダーとの連携やウェブ版があって窓機からでも見れるというのもRTMでもできますからね。

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Mac版のホームはこんなかんじです。背景は無料版でも20種類から選ぶことができます。左側でカテゴリ分けをしています。とりあえず今は試しにプライベート,食料品の買い物,仕事,ほしい物リストという感じです。

食料品の買い物というカテゴリを開くと,こんなかんじ。

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一番上の黒っぽいところに新しいのをどんどん書いていきます。肉類というところを開くと,

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こんな感じで何を買うかというのを入力することができるわけですね。ここにサブタスクを突っ込む感じです。順番は後で入れ替え可能です。due dateのところで日付を設定したり,その下でリマインダーの登録も出来ます。Todoリストは名前順で並び替えたり。まぁまだ使い始めたばかりなので,実際の使用感とかはまたレビューしようかなと思います。そういえば,今日の授業でこんなTED動画を扱いました。

Keep your goals to yourself

目標を決めて何かをするときは,それを人には言わないほうがよいそうです。人にいうことで満足感を得てしまい,努力しなくなってしまうとか。こんなところで遠距離狙撃するぞ!なんて言ってる僕はもうだめですね…

なにをゆう たむらゆう

おしまい

文法の明示的指導研究について思うこと

明示的指導について前々から思っていたことを書きます。

文法に対する明示的指導の有効性は,文法指導研究における主たる関心のひとつです。明示的知識が自動化されるという立場でも,明示的知識が間接的に暗示的知識の習得に寄与するという立場でも,「明示的知識の習得には意味がある」→「それを促進するであろう明示的指導をやる」という流れにすごく雑にまとめるとなると思いますので,その有効性を主張しようとするのは(とりあえず)ここでは問題にしません。私がずっと疑問に思うのは,その前提の部分です。

研究の対象に,大学生が選ばれるケースは結構あります。これはいろんな研究に当てはまるでしょう。大学生以上のある程度熟達度の高い学習者を見たい,あるいはそうでないと見れないものを見たいという動機のばあいもあるでしょう。それは問題ありません。私が気になるのは「中高6年間の英語教育を受けた大学生でも誤用がある」みたいなケースです。これが,「ある程度熟達度が高くても誤用がみられるのでその原因を理論的に探る」とかいう研究の出発点になるならそれはすごく面白いと思います。このモデルでその原因の説明つくとかそういう研究。そういうことは大いにやるべきだと思います。しかし,その「大学生でも誤用が見られる」という現象に対して「教わったことがないのだ」という解釈をしようとする(あるいはそうだと言い切ってしまう)のはちょっと待ってと思います。その教わったことがないっていうのはどうしてわかるの?という問題です。それが,「参加者がそう言っていた」という程度の証拠に基づいた発言ならば,それを信頼できるデータとして疑うことってないのですか?と聞きたくなるわけです。「教わったことがない」というのは,「学習していない」という意味でしょうが,それは「指導していない」と必ずしも同じことを意味しないのではないでしょうか。「指導は受けたけれど学習しなかった(色々な要因があってまじめに取り組んでいなかった)」ということもあるでしょう。また,「学習はしたけれど,覚えていない(のでできない)」ということもあるでしょう。さらに、明示的な知識が一回の指導介入で長期的に伸びるということは,先行研究で支持されていることでしょうか?

「教わったことがない」という人たちはそういった可能性は考えないのでしょうか。「教わったことがないっぽいから教えました。うまくいきました。明示的指導効果ある!」という主張の研究をみると,じゃあとりあえず1年後に遅延テストやってみましょうかねとか言ってみたくなります。ものすごくマニアックな項目(例えば僕がCELESで発表した「非断定的述語」とか)なら教わってないだろうとか言ってもまあまあ説得力があるかもしれません(だって「英語教育研究者」すらなにそれって感じでしょうから)。

しかし例えば自動詞・他動詞みたいなのは本当に「教わらなかった」のかなとか思ってしまいます。ある個別の文法項目に対する明示的な指導が中学や高校時代にあったかなかったかは調べようがないので,「インプットが少ない」というならまだわからなくはありません。教科書に登場する回数が少ないというようなことがデータによって示されるケースです。それでもこの手の論の運び方の問題は,「そもそも教科書に書いてあるものがどれだけ中高生のインプットになっているのか」ということと,「教科書に書いていないことは教えていないのか」ということです。ある特定の項目に対する介入効果をみようとするとき,それが「規則の明示的説明」という明示的指導を指すことは少なくありません。そこで私はこう問いたいです。それやるならもっと面白い「明示的指導」を考えませんか,と。

研究の結果に対して中立的になるならば,「今回の結果は明示的指導の効果があったというだけであって,明示的指導を推進することはしない」という主張もあるのかもしれません。しかしそうであるとすれば,その研究って誰がハッピーになるのだろうかと。明示的指導の効果を検証する研究のゴールはそういった研究を蓄積していって最終的には項目間の差を明らかにするということだと私は思っています。ということは,最終的には,明示的指導に効果のある項目は明示的指導をしましょうとかなっていくはずですよね。しかしながら,その明示的指導がプリントにただただ規則が書いてあってそれを渡して教員が読むなんてそんな工夫のくの字もないような指導のことだったとしたらー規則が与えられるだけでいいのだとしたらーその辺に売ってる文法書を読んだ人はその文法マスターするはずじゃないのと思うわけです。

また,明示的指導の効果としての明示的知識は長続きしないと言われています。しかしながら,明示的知識にもその後のインプット中の気づきの機会を増やすという役割が主張されることがあります。であるとするならば,そういった明示的知識の役割に焦点をあてた研究のほうが,教育的示唆もあるのではないでしょうか?あるいは,明示的知識が維持されるような継続的な介入法を探るというのも1つの方法かもしれません。

要するに,「授業としての指導介入」という視点をまったくもたないような(もっているのか疑わしいような)文法指導研究は,その結果をどこに還元したいの?という点で非常に疑問が多いということです。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

パフォーマンスとしての授業

昨日,「マイクロティーチング&マイクロリサーチ」という題目のワークショップで,授業者を担当させていただくという機会をいただいた。大雑把な主旨は,

その場で事前事後テストデザインの指導介入を行い,その介入効果を実際にデータ分析して示す

というのを90分でやるというもの。基礎研チームでテストの実施からトリートメント,理論的な背景の説明,分析結果の提示と解釈,考察までをやるというワークショップで,誰がミスってもうまくいかないというものだった。結果として,表面的には成功したように見せることができた。その意味での達成感と充実感はある。ただし,それは表面上の話。このワークショップの詳細は,別の機会にまとまった文章をしかるべきところで書かせていただくとして,自分がやった授業のことを少し振り返っておきたい。

私個人としては,授業は大失敗。そもそも,今まで何百回と授業をやってきて,成功した試しなど一度もないので,授業はそもそもうまくなどいかないものであると思っている。そうではあるにしても,到底納得のいく授業はできなかった。しかし,終わったあとにはお招きいただいた先生にお褒めいただき(お世辞かもしれないが),授業に参加していただいた学生さんからは授業がうまいと声をかけていただくこととなった。僕は失敗したと思ったのにもかかわらずである。まずは,その辺のことを考えてみたい。

私がマイクロティーチングでどのようなことをしたかというと,まず基本は”All English”での授業。日本語は一切使用しなかった。また,文法の明示的説明も一切なし。pre-taskとしてSpot the differenceをやったあと,絵を見せながら学生とインタラクションをしつつ目標構文の暗示的訂正フィードバックを行う。というのが授業の一連の流れ。とにかくハイテンションで,いわゆる「馬鹿」になるということに最初から最後まで徹した。

失敗した点は,次の1点に集約されると考えている。それは,学生に目標言語項目の産出をさせる,学生から目標言語項目を使用した発話を引き出す(elicitation)ということができなかったという点である。

この原因は2点ある。1点目は,学生の背景知識の推定と,教材の選択を誤ったという点である。私は,この間違い探しタスクは,場所を表す前置詞句や,there構文の産出を促すタスクとしてよく用いられていると考えていた。実際に,中学2年次でthere構文が導入される際,この間違い探しタスクを用いるという中学校教員の方は少なくないだろう。ましてや,授業参加者の学生の殆どは英語教育ゼミに所属している学生である。私は,このtask自体の持つ性質と,pre-testにおいてthere構文の項目が多く含まれるということから,task中にthere構文が多く産出されるだろうと予想していた。それを前提に,次の絵描写を含めたインタラクションを行う予定だった。しかしながら,実際にはそのようなことは起こらなかった。教材として選んだ間違い探し自体の問題である可能性もある。その絵がthere構文の産出を促すようなものではなかったということである。そのような教材選択も含めて,このpre-taskは失敗だった。「想定通りにthere構文の産出を引き出せなかった」という点においては。学習者同士が活発に英語でインタラクションをしていた点や,その後に,間違いを多く見つけられたペアに,教室後ろにあったリフレッシュメントのお菓子をポケットから出して渡すということで「ひと笑い」取ったことは教室の雰囲気を良くしたということはあったかもしれない。

原因の2点目は,絵描写とインタラクションにおいて,there構文を引き出すための義務的文脈を作り出せなかったという点である。私は,impressiveというソフトウェアのスポットライト機能を使い,部屋の写真を見せた。その後,停電したという設定で,その部屋にあるものをスポットライトで映しながらそのスポットライトに映るものを描写させるということをした。この設定が,果たしてthere構文の産出を引き出すために適切な設定であったのかどうかは考えなおさなくてはいけないと思っている。さらに重要な事は,インタラクションの際に,どのような質問で学習者の発話を引き出すかという点である。wh疑問文なのか,yes / no疑問文なのか。私は,はじめに,”What do you see?”という疑問文をとっさに使ってしまった。これでは,”I see”….という肯定文か,あるいは,単に”Two pens.”という名詞句しか引き出せない。では,どのような疑問文が適切だったのか。”What are there?”という疑問文が思い浮かぶ方もいるだろう。これなら,”There are….”と答える学習者もいるかもしれない。しかしこれであっても,spontaneousな反応が求められる場面では,”Two pens.”という名詞句だけでも意味的に伝わる上にコミュニケーションのbreakdownが発生しない。さらにいえば,違う場所に同じようなものがあった場合(床と机にCDが置いてある場合)でも,場所の前置詞句を加えるだけでもコミュニケーションができてしまう。日本人は,there構文を習うとやたらとthere構文を連発するというが,there構文が正しく使われる場面とはどのような場面なのか,この構造の機能はなんなのかということを熟考した上で展開を考えるべきであった。そしてそれこそが,授業を準備する際のポイントであると思う。

私はそもそも,この場面にインタラクションを絡めることの必要性というかインタラクションが必須であったかということも考えた。実際,私は絵を見せながらのナラティブでdemonstrationを数回見せるはずが,ほとんどすべてをナラティブで説明してしまいそうになった。そして慌ててインタラクションの必要性を思い出して学生に質問を投げかけたのである。それほどに,ナラティブでの語りでなにも問題が発生しない状況設定であったということである。結果として,私は学生から一度もthere構文の産出を引き出すことができず,終始there構文を私が発話するというinput enhancementに近い指導をせざるを得なかった。学生の発話を私が引き取って,there構文で言い換えて発話するという具合である。この点では,corrective feedbackといえなくもないが,そもそも名詞句のみの発話が間違いではない以上,correctiveであったかどうかは疑わしい。しかし面白いのは,そのfeedbackが学習者の頭のなかにある明示的知識に対してcorrectiveに機能したという点ではある。

そのような「失敗」を犯したにも関わらず,実際には介入効果が認められるという結果になった。それは,学生が「空気を読んでくれた」結果だと思っている。pre-postで結果が図られるということで,「どこに注意するべきか」というように学生が構えていた可能性がある。この点に関する考察もまた別の機会に。

最後にひとつだけ。今回私のことを「授業がうまい」だとか「英語がうまい」とか「すごい」とか思った学生さん(が万が一いるとすればだが)にこれだけは言っておく。私は普段あのような授業はしていない。私は現在専門学校で英語の授業を担当しているが,その授業において,”All English”で,ハイテンションで,「ピエロに徹する」,そんな授業はやったことがない。昨年度,臨時的任用教員として中学校に勤務していたときでさえ,そのような授業はやったことがない。

あれはあくまでワークショップという形式の中の,マイクロティーチングとしてのパフォーマンスの授業である。普段の授業とは全く別物なのだ。初めて会った人たちに,あのような形でやったから,それなりに「面白かった」かもしれないし「うまい」と思ったのかもしれない。しかし考えてほしいことは,本当に教員として授業をやる場合,出張授業などの特別な場合をのぞいては,1回きりの授業などはないということだ。中学校であれば週4時間も授業があるわけで,大学でも毎週1時間で半期15回はある。あの授業を週4回,あるいは半期15回受けたとき,1回目と同じような感想を15回目にも抱いているだろうかということをもう一度考えてみてほしい。たいていはあのような「ノリ」に任せた授業はウケても2度目くらいまでだろう。本当に授業がうまい教員は,言語材料の選択,タスクの選択,授業の組み立て,などなど様々な要素と,生徒・学生との信頼関係などを絶妙に組み合わせていい授業を作り上げる。もちろん,特に中学校であれば「ピエロ」的な要素はとても大事な授業スキルにはなってくるとは思う。ただし,それだけで良い授業は作れないということは肝に命じておくべきだと私は思っている。ワークショップにおいて,草薙さんが話していたこととも重なるが,授業も研究と同じで,あのワークショップで見えたものはほんの10%ほど。ここで少し述べたように準備段階の方がむしろ授業の成否を分けることは多い。今回は特に,そこで失敗したと言っても過言ではない。私の授業力が足りなかった。その一言に尽きる。

以上,長くなったが,昨日からずっともやもやしていたのでここに書いた。静岡では学生さんの卒論発表を聞き,なにか頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。忘れかけていた何かを思い出させてもらえたような気がしている。ありがとうございました。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

JABAET2014発表資料

明日,法政大学にて行われる第20回日英・英語教育学会研究大会において,名古屋大学大学院の福田さん,西村くん,草薙さんとの共同研究を発表します。タイトルは,”Japanese EFL Learners’ Implicit/Explicit Knowledge of Subject-Verb Agreement in existential there: A Self-Paced Reading Study”です。当日配布する資料をスライドシェアにアップロードしましたので御覧ください。研究の概要としては,いわゆるThere構文における主語と動詞の一致に着目し,日本人英語学習者の数の一致に関する知識を自己ペース読み課題と誤文訂正課題という2種類の課題を用いて測定し,明示的・暗示的知識という枠組みでの議論を試みたものです。当初の構想段階からかなり方向転換したところがあり,荒削りな状態ですが,よろしくお願いします。

「本当の〆切」

なんとなくふと思い立ったのでちょっと書いておく。お仕事のこと。〆切とか。長いので読まないことをおすすめする。
大学院生(学生)が仕事とか抜かすなとおっしゃる方もいるかもしれない。それは理解した上で書いているのでご了承いただきたい。
一応私達(私の周りの人と私の事)は日々の業務(トド,あるいはTo doといってもいい)をこなすことを勝手に仕事と呼んでいる。研究室に行くことを出勤と呼ぶ。もちろん出勤簿があるわけもないし勤務時間を管理されているわけではない(ただしRAやTAなど賃金の発生する仕事はもちろん出勤簿もあるし勤務時間も管理されている)。賃金の発生しない業務を仕事と呼ぶなということであればルーティーンワークとでも呼べばよいのだろうか。それはともかく。

どんな仕事をやっていても,〆切というのは必ずあるだろう。それこそ学校生活でも〆切は山ほどある。例えば小学校でも各教科の提出物や,保護者と学校のやりとりの書類の提出の〆切があるだろう。

私達大学院生も〆切というのはある。私達の生活の上で大事なものの〆切といえば,例えば学会発表の申込みと,論文の投稿が大きなものかと思う。他にも研究助成金や奨学金への応募や,非常勤があれば授業準備や成績処理などの仕事がある。今回は特に学会発表や論文投稿の話。

大学院生の仕事の多くは,この学会発表と論文投稿になると考えている。というか研究とはなにかを考えた時,その成果を発表して,そしてそれが認められて初めて研究の意義が出てくる。だから学会に赴いて発表をするし論文を書いて投稿するのだろう。もちろん,業績づくりという意味もある。大学などをはじめとした研究機関への就職を考える場合,研究業績は欠かせない。もちろん教育歴も大事な要素であるが,研究業績で足切りされる場合も多いと聞く。特に私の分野(外国語教育学とか広く言えば応用言語学とか)は文系の中でもそういう志向が強いのではないかと思う(あくまで印象)。共同研究も含めて年に10件近く発表などというのは私の周りでは普通に行われているし,論文の投稿も複数回するのが普通である。というか今しかそういうことができないのでそうするということもあるかもしれない。少し話がずれた。とにかく,学会発表や論文投稿は私達の大事な仕事なのである。それは研究者の大事な仕事とも言えるだろう。ただし,大学教員になると研究する時間はフルタイムの大学院生と比べて圧倒的に減る。
そんな大事な仕事だからこそ,必死にやるわけである。本来であれば〆切間際に焦ってやることがないように計画的に進めるべきではあるが,どうしてもそうはならないことがある。〆切との戦いがある。

しかしながら,「オトナ」の世界には,「本当の〆切」なるものが存在するらしい。私は聞いたことしかないのでよく知らないが,聞くところによると,公になっている〆切を過ぎても「なんとかなる」場合が存在するらしいのである。守らなくてもいい〆切。しかしどうしてその公にはなっていない本当の〆切なるものの存在が流布しているのだろうか。そんなものは本当に存在するのだろうか。

ここからはほとんど私の想像で書く。

私達は,学会発表や論文投稿が主な仕事だと先ほど書いた。しかし,大学の先生方は他にもたくさんの「書き物」,「作文」と呼ばれるお仕事があったりするそうだ。詳しくは知らない。どうもそういったお仕事に「本当の〆切」なるものがあるようだ(他にもあるかもしれない。私の想像による)。

少し考えてみた。その「本当の〆切」が使えるのは,提出先の人が知り合いの同業者の場合なのではないだろうか。だからこそ,「ちょっとくらい遅れても許してもらえるだろう」と考えるのではないだろうか。そしてそう考える本人も,きっと別の仕事で「本当の〆切」の存在を知っているのかもしれない。そうやって,色んな所がそういう仕組みで動いているのかもしれない。確かに,〆切は余裕を持って設定しておくものであろう。全体の仕事に支障をきたさないように,万が一なにかあったときのために,安全策として早めに〆切が設定されると考えるのは自然なことである。

ここからは自分へのブーメランも含む。

その「本当の〆切」をアテにして仕事をするのはどうなのだろうということを考えた。「本当の〆切」があることによって,「どうにかなる」ということはあっていいだろうとは思う。

頑張ったけどもどうしても間に合わずにダメ元覚悟で土下座して出して受け取ってもらえた→次からはちゃんと〆切守ってよね→ありがとうございます!

みたいなのならなんかいいような気もしてくる。そんなことを言っても実際にこの遅れた人が「本当に頑張ったけどダメだったのか」「もともと遅れてもいいやと思ってやっていたのか」はわからないのだけれども。いやそうだとしてもだ。私は,個人的に,最初から〆切を守ろうとしない「ああ,あれは遅れても大丈夫(だろう)」みたいなのは好きではない。遅れて大丈夫かどうかは遅れる人が決めることではなく遅れたものを受け取る側が決めることだからだ。

もっとひどいのは,そうやって,自分がなにかをするときに遅れることは棚に上げて,「あれがまだ来ない」「あそこは仕事が遅い」とか人の仕事にケチをつけだす場合である。

これも程度問題なのかもしれないが。

権威主義的になるつもりもないし,年齢や役職で人を判断して,そこに媚びへつらうような生き方は私も好きではない。生きていくためにはそういうことも必要であるというのは認める。人間関係は大事であるしそれがこの先大事だとも思う。

ただし私は「本当の〆切」なるものの存在を見込んで仕事をしようとは思わないし,そこに関わる人達をみて仕事の質を変えるようなことはしたいとは思わない。少なくとも今は。何事にも100%で臨めない場合もある。自分の限られたリソースを振り分けてなんとか乗り越えなければいけないときに,そういう手段を取らざるをえない場合もあるかもしれない。私はまだない。それは業績がたりないからだと,もっと発表してもっと論文を書けと言われればなにも言い返せない。ただしそれは「本当の〆切」なるものを見込んで仕事をすることを正当化はしない。それを当てにしないとできない量の仕事ならば単純に減らせばいい。

大学院生は忙しいという。確かに忙しいとは思う。しかし先程も述べたように大学教員の先生方よりフルタイム院生の方が時間的余裕は絶対に多い。拘束時間も短い。守るべき家族がいるわけでもない(いる人もいるだろうが)。「本当の〆切」なるものの中で仕事を動かしている人たちとは条件が違うのだ。立場も違う。必要なときは立場が違えど物申すこともあるだろうし,研究の場では年齢や役職に関係なく対等に戦うべきであろう。しかし,「本当の〆切」なるもので世の中が動いていることを知り,そうやって仕事をする人たちを間近に見て,そしてその話が聞ける,ということと,私達が同様に「本当の〆切」なるものを見込んで仕事をするというのは違う。その「本当の〆切」なるもののが非常に特殊な条件(交互作用といってもいい)で効果を発揮することは想像に難くない。だれでもいつでもどんなときでも使えるものとはとうてい思えない。それに,単純に失礼であろう。取引先(という言葉が適切かはわからないが)の人たちの仕事をなめていると思われても仕方がないのではないか。どのような学会であれ,どのような学術誌であれ,そこに投稿する(発表を申し込む)ということは私達のためにプラスになる可能性があるからそうしているはずだ。国際誌,全国誌,地方学会の紀要,学内紀要,のようにランク付けがなされていたり,IFや知名度で泊がついたりつかなかったりすることもある。そうであっても,発表ができれば,論文が掲載されれば,私達は喜んでCVに1行書き足すであろう。だからこそ,「受け入れていただく」側の謙虚さはいつでも忘れずにいたいのだ。強気に出るのならば,〆切を守った上で,研究の内容で勝負しようじゃないか。そこで戦おうではないか。

長くなった。ここに書いたことは私の想像に基づく。想像に基づいて正論(ぽいこと)を書いた。糞真面目に正論と理想論語ってるだけじゃ生きていけないのはわかっている。こんなことを書いておいて10年後(いや半年後かもしれない)に「あそこは遅れても大丈夫」と言っているかもしれない。それはわからない。ただしここに自分が書いたことは忘れずにいたい。大学院生としてどうとか,研究者としてどうとか,そういうこと以前に,仕事をする人間として,〆切を守る。守ろうとする。そういう「オトナ」になりたいと私は思う。そうして初めて,誰かに〆切を守ってもらえると思うから。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

味噌漬け鶏肉とゴボウのバターペッパー炒め

思いつきで作った料理が意外とヒットしたので備忘録も兼ねて書いておきます。タイトルのお料理。以下レシピ的なものを記しますが,分量は適当にやりました。ザ・男の料理。ただしそれでは再現性がないので,僕の感覚に基づいてまぁこの程度だろうという感じで書きます。もしこれ見て作られる際はご了承ください。まぁそんなに外れるものでもないでしょうけどね。

味噌漬け鶏肉とゴボウのバターペッパー炒め

味噌漬け鶏肉とゴボウのバターペッパー炒め

 

材料(2人前)

  • 鶏もも肉               1/2枚
  • ゴボウ                    1/2本
  • エリンギ                中くらいの1本←冷蔵庫にあったので入れましたが,なくても全然OK
  • 味噌                         大さじ1と1/2
  • 酒                大さじ2と大さじ1(炒めるときに使います)
  • みりん                        大さじ2
  • さとう                     小さじ2
  • おろしニンニク    小さじ2
  • おろししょうが     小さじ2
  • バター                      10グラム
  • 塩        少々
  • ブラックペッパー 少々

作り方

  1. 下ごしらえで,鶏肉を味噌漬けにします。まずは,鶏肉を一口サイズにカットして,ビニール袋の中に。
  2. 味噌,酒,みりん,さとう,おろしニンニクとおろしショウガを袋の中に入れて,揉み込みます。
  3. 僕は冷蔵庫で一晩寝かせましたが,まぁ時間がない時は30分から1時間とかでもいいでしょう(たぶん
  4. ゴボウは洗ってささがきにします。千切りでもいいかもしれませんが,ささがきにしたほうが少ししんなりするので,食べるときに鶏肉と一緒に食べやすくなると思います。
  5. ごぼうには本当はアク抜きは必要ないらしいですが,僕は酢水に少しつけておきました。数分さらしたら,水気を切っておきましょう。
  6. エリンギは横半分に切ってから縦半分に割って,5mmくらいでスライスしていきます。下準備はここまで。
  7. さて,炒める作業に入ります。フライパンを熱し,バターを溶かします。バターをフライパンになじませたら,漬けてあった鶏肉を投入。袋の中に漬け汁が残ったのは残しておいてください。
  8. 焦げないように注意しながら,弱火-中火で鶏肉を炒めます。その間に,さきほど鶏肉を取り出した袋に水気を切ったゴボウを入れて,残ったつけ汁にゴボウをなじませます。
  9. 鶏肉に8割ほど火が通ったら,袋に入れたゴボウを投入して一緒に中火で炒めます。1-2分ほど炒めて鶏肉となじんだら,エリンギも投入。
  10. フライパンを何回かあおったら,酒大さじ1を投入して蓋をします。こうすることでゴボウがしんなりと仕上がります。
  11. 30秒くらい様子を見て,蓋を取ったら全体を混ぜます。
  12. 最後に塩少々を振り,全体にブラックペッパーをふりかけます。
  13. ブラックペッパーが全体になじむようにフライパンを煽って完成。最後に青ネギなんか載せると見た目もいいかもしれませんね。

僕の悪い癖なんですがどうもこう料理の仕方を記述しようとすると感覚的なことが多くて難しいですね。かなり暗示的知識に頼って料理してることがわかりますw

さて,この料理のポイントは,肉にしっかりと味付けしておくことです。作り方を見てもわかるように,炒める段階ではほとんど味付けをしていません。つまり,肉にしっかりと味がついていて,それをゴボウやエリンギにもまとわせることで全体がほどよい塩加減になるようになっています。ですから,肉を漬ける際の調味料の分量は適宜加減してください。少なすぎるとゴボウに味がつかなくなってしまいますので。

このレシピは,実はバリエーションが豊富に考えられます。例えば,味噌漬け肉は,豚肉(豚バラがいいですかね?)でやってもおいしくできると思います。また,バターとブラックペッパーではなく,豆板醤を使えばピリ辛味噌炒めになります。野菜も,ゴボウではなくピーマンを使ってもいいと思いますし,もちろんナスも味噌と相性がいいでしょう。あるいは,しめじやまいたけを使ってキノコ炒めにしてもいいと思います。

肉を漬けておくのは時間がかかりますが,その一手間でグッと料理も美味しくなります。今日の夜ご飯には間に合わないかもしれませんが,明日のお昼や夜ご飯に向けて,味噌漬け鶏肉とゴボウのバターペッパー炒め。いかがでしょうか?

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

 

LET全国とJASELEの旅

先週末から学会の旅でした。4日から6日は福岡で外国語教育メディア学会の全国大会,9日から10日は徳島で全国英語教育学会でした。九州も四国も初上陸。観光という観光をすることはできませんでしたが,美味しいラーメンや美味しいラーメンを食べることができたのでとても満足しています。

福岡から徳島行く前に香川県高松市でうどん三昧してきました。いや高松市いいですね。僕の住みたい街ベスト5に食い込んでくる素晴らしい街でした。商店街を歩いているだけでも楽しくて,うどん美味しくて,美味しそうな居酒屋もたくさんありました。今回は1人居酒屋できませんでしたが。高松で行ったうどん屋さんは,黒田屋,竹清,さか枝,バカ一代の4店舗でした。

黒田屋の野菜天うどん

黒田屋の野菜天うどん大

竹清のかけうどん1.5玉,ちくわ天,たまご天

竹清のかけうどん1.5玉,ちくわ天,たまご天

さか枝のぶっかけ小

さか枝のぶっかけ小

バカ一代の冷ぶっかけ大(3玉)とかき揚げ

バカ一代の冷ぶっかけ大(3玉)とかき揚げ

あったかいうどんもいいですが,やはり冷たいぶっかけうどんが暑い夏にはいいですね。うどんのコシもすごいですし。でも,その店ごとにどんなうどんをチョイスしたらいいのかというのはとても難しい問題でした。それもつきつめていくとジャスティス大会なんでしょうけれど。またいつかうどん三昧しに行きたいですね。

徳島は台風11号が直撃して雨と風がすごく,宿泊していたホテルの前の川も増水して溢れそうでした(というかちょっと低くなってるところはあふれてました)。避難勧告の緊急速報も飛び込んできましたが,時間を短縮したりプログラムを同時進行にするなどの対応がとられ,なんとか学会は無事に終了しました。大会運営にあたった先生方,本当にお疲れ様でした。

ブログでも宣伝しましたが,私は1日目に,“Countability of Normal / Material Nouns in Japasene EFL Learners’ Explicit and Implicit Knowledge”というタイトルで口頭発表がありました。日本人英語学習者の名詞の可算性に関する知識のうち,とくに普通名詞と物質名詞に焦点をあてた研究です。名詞周りでは,冠詞や可算性の習得困難性の研究はこれまでにもかなり行われてきています。しかしながら,「困難」というのは実際には明示的知識(簡単にいえば「知っている」知識)としてなのか,あるいは暗示的知識(簡単にいえば「使える」知識)としてなのか,という枠組みでは議論されてきていませんでした。そこで,時間制限のない文法性判断課題(untimed GJT)と,「読み直しせず早く解答してください」という指示をした文法性判断課題(speeded GJT)の2種類を用いてそれぞれの名詞に関する知識がどのように表象されているのかを検証した,というのが研究の概要です。

本番の発表後の質疑では,反応時間の分析手法に関して,ex-gaussian分布へのフィッティングという手法を用いた理由についての質問がありました。この研究では,反応時間の平均値を比較してどっちが有意に早かったとかそういう議論はしませんでした。そもそも,反応時間は正規分布をしないため,正規性を仮定した平均値の比較検定に適さないから,というのがその理由のひとつです。もうひとつの理由は,反応時間データをあくまで分布の確認として使ったというのもあります。ex-gaussian分布は反応時間の分布に近似すると言われているため(参考: RT分布のex-Gaussianによる分析 ―データ解析演習―),ex-gaussian分布にフィットさせて,各条件間の反応時間分布の違いを見たかったという感じでしょうか。反応時間データの分析と図示に関しては,広島大学の阪上先生の発表資料もweb上で見つけました。

反応時間データをどう分析し図示するか

この中では,一般化線形混合モデルを用いた反応時間データ分析の提案がされています。

というわけで,1週間ぶりに名古屋に帰ってきました。もう大学は夏休みではありますが,明日から通常営業に戻ります。

なにをゆう たむらゆう

 

 

JASELE徳島発表資料

8/9-10に徳島大学にて行われる第40回全国英語教育学会(JASELE)にて口頭発表があります。私が第1著者で第2著者は同じ名古屋大学大学院の草薙さんです。発表資料をslideshareにアップしました(発表直前まで変更される可能性があります)。研究の概要としては,2種類の文法性判断課題を用いて,学習者(日本人大学院生)の普通名詞と物質名詞の知識を測定し,それぞれの項目に対してどのように知識が表象されているのかの記述を試みたというところでしょうか。

slideshareからもDLできると思いますが,google driveのリンクも貼っておきます。

https://drive.google.com/file/d/0BzA9X1kZX185SUh6VFA1Wk1TRFE/edit?usp=sharing

発表はなんと1日目の1番目で9:30から第11室です。台風も近づいているようで心配ですが,よろしくお願いいたします。