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専門書についても通読した方がよいですか

はじめに

Querie.meでいただいた質問シリーズ。

質問

修論をやっていて、論文はともかく専門書については、関係するチャプターだけ読むとか、関係するところをindexからさかのぼって読む、ということは多くやっています。他方で、専門書についても通読した方がよいのかな、と思うことも多くあります。何をうかがいたいかというと、①通読はどれぐらいするべきか、②通読する機会はどうやって確保しているか、③最後まで読むためのノウハウ的なものを教えていただければ幸いです。

回答

これ,矢野さんにも全く同じ質問されてましたよね…?矢野さんの回答でご自身の満足する回答を得られなかったために私にも質問されていると思いますが,さすがに質問丸コピはわざわざ答えてくださった矢野さんにも失礼ではないかと思いました(もちろん,丸コピの質問を横流しされた私もいい気はしないです)。

よって,この質問には答えるかどうかめちゃくちゃ迷ったのですが,ブログで答えることにします。普段こんなこと絶対言わないですが,この手間をかけて質問に答えることに色々思いを馳せてくださいね。

「専門書」の認識が一致しているか

まず,専門書って言ったときに,何を想像するのかっていうのは一義的に決まらない気もするので,そこから。論文との対比なので,論文以外の書物が専門書に含まれるのかな,と最初に解釈しました。そうなると,いわゆる分野をざっくり概観するような書籍,例えば私の分野であれば,Second Langauge Acquisitionがタイトルに含まれていて,大学の授業のテキストにも採用されそうな第二言語習得をある程度網羅的にさらっているような書物も含まれそうだなと思ったのです。もちろん,そういった書籍の中にもかなり入門向けのものなから,割と歯ごたえのあるものまで多少の幅はあると思います。

もし仮に,そういう分野を概観するようなものも質問者の方の「専門書」に含まれるとしたら,次のセクションをお読みください。そうではなくて,もっとトピックを限定して,そのトピックだけをかなり掘り下げて書いているような書物のことを「専門書」と呼んで質問しているなら次のセクションはスキップしてもらって構いません。

概論書は何冊でも読んでいい

ガチガチの専門書ではなく,ある程度ライト層(大学院生や学部生)も読者層として考えられているような,いわゆる入門書レベルの本(とは言っても新書とか一般書ではなく)であれば何冊でも読んだ方がいいと思います。

というのは,論文何本読んでもその分野の全体像が見えて来ないので,自分のやってる研究が全体のどこに位置していて,全体で解決すべき問題のうちのどの部分を扱っているのは論文を読んでいるだけでは把握できません。学術論文であれば,そんな広いところがイントロのスタート地点にはならないでしょうけど,学位論文になったらある程度広いところからスタートすると思うんですよね。その方がディスカッションも広がると思うし(ここは議論分かれそうですが)。なんでその研究が大事なの?とか,その研究の意義とかっていうのは,私は俯瞰的な視点からも考えられるべきだと思っています。よって,特に研究を始めて間もない頃ほど入門書読み漁るのがいいと思います。

専門書を読むかどうか

いや,入門書じゃなくて,もっと扱ってるトピックが狭い専門書のことです,ということであれば,その専門書がどんなものなのかとか,なんの目的でその本を読むのか,みたいなところも関係するかなと思います。どの分野の修士課程やられているかわからないので,例えにしっかりきてもらえるかわからないのですが、私の例でいいますね。

私は修士論文が意識高揚タスクと呼ばれる類のタスクを行うことにより、目標言語項目への「気づき」が促されるのかというものでした。このとき、意識高揚タスクが自分のフォーカスだからといって、例えばもっと大きな枠組みのTask-based Language Teachingの専門書を通読したことがない、というのはちょっと心許ない感じがしますよね。Ellis (2003)くらい読んでるだろう普通みたいな。この領域の研究をするなら,これは誰しもが読んでいるだろうみたいな専門書って割とある気がするんですよね。スピーキングの研究やってるならLeveltは絶対に読んでいるはずとか,Lingua Franceの研究やっているならJenkinsは読んでいるはずとか。とくに,複数著者がチャプターを書いているcollectionぽいものではなくて,単著または共著で一冊の本を書いているタイプのやつです。チャプターごとに著者が異なるやつだと,割とチャプターごとに話が変わるので,チャプターつまみ食い的な読み方でもいいのかなとは思うのですが。自分の領域の論文を読んでいて,多くの論文で引用されるような文献が書籍であったら,それは読んだほうがいい専門書だという気がしています。

②通読する機会はどうやって確保しているか

私自身を振り返ると,やっぱり授業のテキストとして指定されているから読むとか,研究会で輪読するから読む,が多かったかもしれません。修士課程のときは読むことしかやることがなかったというかとにかく暇さえあれば図書館に行って読むという日々だったので自分のど真ん中ではない本も読んでいたと思いますが(それこそ言語政策の本とか)。D1の時でもM生の人たちと一緒に授業とってテキストに指定された本を通読していましたし,同じSLAの授業でも別の先生が担当している授業を複数取ったりしていました(今考えると,そんな贅沢な環境にいた,とも言えますね)。

あとは矢野さんもおっしゃっていたように,仲間を誘って読書会開くのもありだし,すでに開催されている読書会に参加するのもありでしょう。指導教員の先生にそういった会の開催を相談してみるのもありなんじゃないかと思います。私がもし自分のゼミ生にそういう相談をされたら自分が忙しくてもやろうやろうってなると思います(ゼミ生を持つことが今後あればの話ですが)。

③最後まで読むためのノウハウ

これを聞くということは,ノウハウがなければ通読はできないっていうことなんでしょうかね。正直,それは知的体力みたいなものかなと思うのでなかなか難しいですね。研究者を目指していなかったとしても,本を通読する知的体力がない人よりは絶対にある人のほうが今後の人生にその力が活かせるでしょうし,それを養うのも大学院という場所かなという気もしています。

通読できないのはなんでその本を読むのかという目的がはっきりしないという可能性もありますので,その本を読むのはなぜなのか,どういうことを理解するために必要なのかを最初に明確にしてから読み始めることも有効かもしれません。

あとは,私はブログ書くというアウトプットを目指して論文や本を読んでいた時期もありました(今はちゃうんかい)。レビューのようなレベルまで行ってたわけではなくて,単なる読書感想文止まりの拙い文章でしたけど。アウトプットするために読もうとなると,自分の理解も必然的に深まりますしね。これは単なるアウトプットではなくて,誰かに見られる文章を書くというのがポイントです。自分しか見ないのであれば適当になってしまいますから。それに,業績にはならなくても自分が何からの本を読んでその概要や考えたことをまとめたものというのは,公開したら絶対に誰かに読まれてどこかで誰かの役に立つことがあると私は思っています。

おわりに

質問者の方の知りたいことにストレートに答えられているかはわかりませんが,私からの回答は以上です。修論頑張ってください。

質問したい方はどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

JABAET Journal No.19

届きました。

IMG_4457

査読委員(って言わないか)の中に知っている先生方が何人も載っていて驚きました。そして,豪華。この号から外部査読制度を取り入れたとのことで,それが大きいのでしょう。

私の修士論文の研究も載っています。

Tamura, Y. (2015). Reinvestigating consciousness-raising grammar task and noticing. JABAET Journal, 19, 19–47.[abstract]

査読のコメントはとても有益なものが多く,非常に勉強になりました。学会員しか投稿の権限はありませんが,良いジャーナルだと思います(宣伝)。ウェブ上での情報が少なく,いろんな人に認知されにくいというのはありますが,これからそのあたりも今後充実していくことを望みます。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

 

【R初心者メモ】箱ヒゲ図にbeeswarmを重ねる。

どうもどうも。昨日めっちゃ格闘したので(たぶん初心者すぎて)メモ書きとしてここにやり方を残しておこうと思います。

僕は修論のサンプルが少ないので、ハコを2グループ分つくって

>Lesson <-c(16, 55, 63, 73)

>Task <-c(59, 60, 60, 90)

みたいにしてデータを入れたあとに、

>boxplot(Lesson, Task)

で箱ヒゲ図を書くやり方でやってたんですね。

boxplot_blog

 

そのあとに、さっきの箱ヒゲ図の要領にadd=TRUEを加えて図を重ねようとしたわけです。

>install.packages(“beeswarm”)

>library(beeswarm)
>beeswarm(Lesson,Task, add=TRUE)

>

beeswarm(Lesson,Task,add=TRUE)
以下にエラー match.arg(method) : ‘arg’ must be NULL or a character vector

とこうなってしまうんですね。

http://www.cbs.dtu.dk/~eklund/beeswarm/

こういうとことか見てみても、あとは日本語のサイト

http://sssslide.com/www.slideshare.net/langstat/let-chubu-2013

http://cis-jp.blogspot.com/2012/08/blog-post_3858.html

とか見てみても、データを2つ入れたいときにはどうしたらいいのか書いてなくてorz というより僕は多分Rの基礎のところがいまいちまだよくわかってないからこういうことでつまってしまったんだと思っているんですが、それでもなんとか自力で重ねた図を書くことができました。以下その方法。

まず、エクセルでさっきのデータをシートに打ち込んでCSVで保存。excel_sheet_blog

>data <-read.csv(“blogsample.csv”)

>data

 

でRにCSVを読み込んで確認。すると、こんな感じで、さっきはLessonとTaskという2つのハコに入ってたデータがdataというハコに一緒に入った形になります。

blog_R

 

このdataで箱ヒゲ図を書きます。

>boxplot(data)

ハコヒゲ

そして最後に、

>beeswarm(data,add=TRUE)

でビースウォームを重ねると、

ビースウォーム

サンプル少ないのでものっそい醜いですけどこんな感じになりますw

昨日やってたときは、箱ヒゲ図を書いたときのラベル名とビースウォームを出したときのラベル名がかぶって表示されてしまうというちょっとトリッキーなトラブルが発生して、

ということをやったんですけど、今日は読み込んだCSVでboxplot()とbeeswarm()でなんの問題もなく完成したという。昨日のあの苦労はなんだったんだろう(遠い目

そんなわけでシコシコと作業しております。あと3週間…

では。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。

FonFとnoticing(とCR)

どうもみなさんこんにちは。なんだかあれれ?と思うことがあったのでメモしておきます。

題名の通りなんですが、Focus on Form (FonF)とnoticingはなにが違うのかって言うこととあとじゃあそれとConsciousness Raisingはなにが違うんだろうっていうことです。

FonFっていうのはまあ以前にも関連した記事を書いたんですが、

overtly draws students’ attention to linguistic elements as they arise incidentally in lessons whose overriding focus is on meaning or communication (Long, 2001, p.184)

とあって(これがあのTwitterでつぶやいてた1991論文の再録のやつです。元のページは他の論文で見てるから知ってるんですが一応2001の方で)、まあやっぱり意味理解中心の中で、あるいはコミュニケーション中、つまり学習者の意識が意味理解に向いているときに言語形式に注意を向けることなんですよね。

で、noticingっていうのも、それが言語習得の枠組みの中で使われる場合は、そのnoticeするものっていうのは基本的にはmorpho-syntactic featuresですよねというか僕は音声系のnoticing研究は知らないんですけどでも研究の材料としては形態素や文法構造に対して、意識が向いているかっていうのが多いと思います。それで、これはnoticingの曖昧さでもあるのかもしれませんが、このnoticingっていうのはFonFがいうような意味理解中心の中でのnoticingなのか、あるいはそれはあまり関係ないのかっていうのが気になってるんですね。僕が参考にしている先行研究を見ている限り、noticingをオンライン(underliningやnote-takingなど)で測る場合、例えばFotos(1993)ではリスニングとcomprehension questionのあと、あるいはディクテーションさせたあとにテキストを渡して読ませて下線引かせてるんですね。でこれってそうやることで意味への注意を減らして形式に注意が向きやすいように仕向けてると思うんですね。でもこの論文のタイトルは超絶すごくて、”Consciousness Raising and Noticing through Focus on Form”なんですよ。この記事のタイトルが3つ全て詰まっているわけなんです。アウトプットがnoticingにどう影響するかというのを調べたUggen (2012)でも、形式の違い(仮定法現在と仮定法過去)で形式への気づきの量に差が出ていて(後者の方がターゲット項目含め形式への気づきが多かった)、でも全体的には統語的要素よりも語彙に多く下線が引かれているという結果になっています。でまあ読ませる中で同時に線を引かせるってなると、意味と形式に同時に意識が向くわけですしそうなってくると形式への注意を喚起しないがきりは意味へ向かってしまうよなと思います。まあ形式への注意を見たいのだからできるだけそれを阻害する可能性のある要素(ここでは意味理解)をなるべく排除して観察するっていうのはそうじゃなきゃわからんじゃんということになってしまうんですがそうなるとこのnoticingってのは意味理解とは関係なしに(あるいはそれが主目的ではない)インプットを受けている中で形式へ気づきが起こればいいのか?ってことになってそれどうなんだろうってなってたんですね。

そんで、VanPatten (1990)では、形式への注意が意味理解を妨げるということが述べられていて(ここで注意が必要なのはこの実験における「形式」は意味理解への比重の少ない”meaningless” formであったということ)、それでFonFなんてちっと現実的じゃないんじゃないんみたいなことが書いてあったりするんですけどその文脈でSchmidtのnoticingの批判とかがちらっとあるんですね。おやそうするってーとこれはFonFもnoticingも意味理解中の形式への注意っていうことになるんか?とかなってしまってまあ大変。もしもそういうことであったとしたら、noticingを測る際に最初に意味理解を済ませてから取り組むとそれはFonFがいうところの形式への注意ということではなくなるし、でも意味理解のないところで形式に注意したところでそれがどうやって習得につながっていくかっていうところはありますよね。まあもちろんFonFというのは指導する側が、学習者の注意を~という文脈であって、noticingというのは学習者の認知プロセスの話ですから土俵がちょっと違うわけなんですけど、これに加えてRutherford & Smith (1985)のCR

“the deliberate attempt to draw the learner’s attention specifically to the formal properties of the target language” (p.274).

とかが入るとじゃあこれはFonFとはどういうふうに違うんだろうなあとか思っちゃうんですよ。先述のFotos先生の論文だと、FonFとCRっていうのがなんかどうも重なっているように見えてしまうというか。というわけで難しいです。

ではまた。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。

参考文献

Fotos, S. S. (1993). Consciousness Raising and Noticing through Focus on Form: Grammar Task Performance versus Formal Instruction. Applied Linguistics14(4), 385-407.

Long, M. H. (2001). Focus on Form: A Design Feature in Language Teaching Methodology. In C. Candlin, N. Mercer (Eds.) , English Language Teaching in Its Social Context (pp. 180-190). London, England: Routledge, with Macquarie University and Open University.

Rutherford, W. E., & Smith, M. (1985). Consciousness-Raising and Universal Grammar. Applied Linguistics6(3), 274-282.

VanPatten, B. (1990). Attending to Form and Content in the Input: An Experiment in Consciousness. Studies In Second Language Acquisition,12(3), 287-301.