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2015年の振り返り

気づいたらクリスマスも終わってどうやら2015年も残すところあと数日で終わってしまうようですね。ということで,今年も1年を振り返ってみたいと思います(2014年の振り返りはこちら)。

2015年は,自分の書いた論文が初めて出版された年でした。投稿したのは2014年中だったものが多いですが,出版されたのは2015年なので,私の研究者人生も2015年からスタートしたようなものです。

1月はD1報告の準備を泣きそうになりながらやっていました。博士後期課程に入学したときとは全く違うテーマに変えたので,論文を何十本も読みながら計画を練り直したのを覚えています。そのテーマで博士論文を書くことに決めたので,そういう意味でも2015年はターニングポイントだなと思っています。2月には基礎研の年次例会があったり,3月はあっという間にすぎていきました(たぶん)。

今年度はD2になり,先輩におんぶにだっこだった昨年度よりも自分で研究をガンガン進めていく立場にならないといけないと思い,後輩と一緒に研究プロジェクトをいくつかやりました。それらを中部地区英語教育学会(和歌山),言語科学会(大分),全国英語教育学会(熊本)で発表しました。今年は色々なところに出向いて学会発表をし,美味しいものをたくさん食べられたのもいい思い出です。来年は東京の学会が多いのが少し残念ではありますが…(実家に滞在すればよいので滞在費とか削減できるのは良いですけど)。

夏がすぎると論文執筆の時期…のはずだったのですが,全然筆が進まず,スケジュール管理と目標設定を意識的にやりながらなんとか論文を進めていたのが9-11月あたりでしょうか。

7月には母方の祖父が亡くなりました。祖父は長野県で教員をやっていたので,僕が教師を目指していたことをとても喜んでいました。教員をやっている姿を見せられなかったことが今でも残念ですが,僕は僕なりに一生懸命頑張って,この道で生きていこうと思います。

そういえば,基礎研の部会長にもなりました。会の運営は色々大変なこともありますが,川口くんと協力しながらなんとかやっています。彼は本当に優秀で,一緒に仕事するのがとても楽ですね。僕がわりと好き勝手にやれているのも,彼がいるからだと思います。感謝しています。今後も会が続いていくように,色々考えて動いていきたいと思います。

 

昨年の今ごろも博論やりたくないとうだうだ言っていましたが,今年も同じで1月のゼミ発表と2月のD2報告が今は嫌で嫌で仕方ありません…(準備は全然進んでいませんヒィィ

そういえばツイッターも事実上やめました。アカウントは消してませんが(理由はこちら)。今はFacebookはたまに覗いていますけどね。自分のことをウェブ上に発信するのはブログでやっていこうと思います。色々ありましたが,私は元気にやっています。

というわけで,2015年も健康上特に大きな問題もなく過ごすことができました(初めて虫歯の治療したというのはありましたが)。2016年も,健康に過ごせるよう,たまには息抜きをして,自分のできる範囲で自分のできることをコツコツやっていこうと思います。

それではみなさま,良いお年を。

 

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

Dear My Sister

私が高校に入学した時,入学祝いとして姉にもらったBURBERRYの財布。当時は高校生のくせにBURBERRYなんて生意気だったような気もしますが,BURBERRYが似合うような男になれということで(それもどうかというのはある),10年以上ずっと使い続けてきました。小銭入れの部分の布はやぶれ,縫ってある布はほつれ,皮はつるんつるんになっていました。でも,自分で今まで財布を買ったことがなくて,いまいち踏ん切りがつかずにずっと愛用していたのですが,さすがにボロボロになってちょっとみすぼらしい感じすらするので,思い切って新しい財布を買いました。最近嬉しいお知らせをいただいた(自分のことで)があったので,自分へのご褒美という意味も込めて。

今までありがとう。

KATHARINE HAMMNETT

KATHARINE HAMMNETTくんこれからよろしく

書けなかったacknowledgement

ご無沙汰しております。新年度が始まり,大学院のゼミ,非常勤の授業,自分の研究,と,慌ただしい生活が始まりました。

そんな中,昨年度acceptされた論文が,ついにpublishされて手元に届きました。全国英語教育学会の紀要であるAnnual Review of English Language Education in Japanです。

先輩の草薙さんとの共著で,

Asymmetrical representation in Japanese EFL learners’ implicit and explicit knowledge about the countability of common/material nouns.

という論文です。合格点ギリギリで通ったので,査読者との相性も含めて,「ラッキー」だったのだなと思っています。今年は本数も多くて紀要自体分厚めでしたし。その反動で,来年はちょっと厳しくなるのではないかなと邪推しています。

Anyway. 私自身,論文をすっきりと書くのがどうもニガテで,うまくまとめることができず,いつも規定の語数(またはページ数)におさめるためになんとか削って削ってギリギリにおさめるということを繰り返しています。ARELEに載った論文も例外ではなく,正直16ページにおさめるのに相当苦労しました。その関係で,謝辞を書く余裕もなくなってしまいました。というわけで,あの論文のacknowledgementをこの場を借りて書きたいと思います。

まず,あの論文は,昨年度の全国英語教育学会徳島研究大会での口頭発表をもとにしたものです。台風で天候も悪い中,朝一番の私の発表に来てくださった方々,またコメントをいただいた方々にまずはお礼を申し上げます。

また,データを取って口頭発表する前の段階で,名城大学の松村先生が主催する勉強会でも発表させていただきました。その勉強会でもコーパスの頻度データの話などに関して有益なコメントをいただきました。松村先生をはじめ,桃山学院大学の島田先生,静岡文化芸術大学の横田先生,愛知教育大学の藤原先生に感謝を申し上げます。

学内のゼミの方々にもご指導頂きました。口頭発表の後,論文の体裁として書き上げたものを,木下先生のゼミで発表させていただきました。もうデータも取って論文の形になっていたものでしたから,あとは「どう書くか」というところだったわけですが,うまく伝わっていない部分が明らかになり,そこを修正した上で最終的には提出しましたので,木下先生をはじめ,ゼミでコメントをいただいた方々にもお礼を申し上げます(指導教官のY先生のゼミでは一切発表もせずにsubmitしたものというのがヒィィという感じではあります)。

最後に,同じ研究室の隣の隣の席の福田さん。彼の論文(彼の論文もARELEの同じ号に掲載されています!)の謝辞には私の名前が入っていたので(さらにはARELEに掲載された論文を引用していただいてもいる…!),私の論文で彼に対する謝辞を述べられなかったことはとても残念でなりません。毎日のように意見交換し,彼と話す中で自分の考えが整理されていったことは言うまでもありません。その過程がなければ,あの論文が採択されていたかどうかはわからないといっても過言ではありません。本当に感謝しています。そして,これからも一緒に(あと1年しか同じ研究室で過ごす時間はないかもしれませんが),切磋琢磨していきましょう。彼と共著の論文を出版することが,私の今年度の目標でもあります。

同じ大学院生で,単著でARELEに掲載されている方がたくさんいる中で,このようにブログで謝辞を綴るなどというのは「舞い上がっている」のかもしれません。しかし,私にとっては初めての第一著者としての掲載論文であり(査読なしの論文を含めても),私の出発点ともなる論文になることでしょう。これからも,「一発屋」だとか,「草◯の名前がないと載らない」等々言われないよう,一層研究に励んでいきたいと思います。

ということで,これからもご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします。

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なにをゆう たむらゆう

おしまい。

業績づくりを野球に例えてみる

空白の業績欄に「量より質」と書いてあったのを見てなんだかもやっとしたので少しだけ。

「業績づくり」という表現自体があまり好ましい言い方ではないと思いますが,わかりやすさを重視しています。要するに,研究したことを学会なり,論文なりで発表することをここでは意味しているとお考えください。

「研究は量より質だ」という言説があったとします。「◯◯は量より質だ」というテンプレートに,研究という言葉をあてはめただけだとここではお考えください。

研究を野球に例えることが適切かはわかりません。それは読者の方の判断を仰ぎたいと思います。

まず,上述の「研究は量より質だ」というのは,言外の意味として「量が多い=質が低い」,「量が少ない=質が高い」という関係が成り立っていることが示唆されています。つまり,量より質だという人は,数が少なくても質の高い研究をやっていくべきだという主張をしているわけです。一方で,「研究は質より量だ」という立場の人がいたとします。先ほどの「量が多い=質が低い」,「量が少ない=質が高い」という前提を共有していると仮定すると,「質より量」を主張する人は,多少質が低くてもたくさん発表して論文を書くべきだと主張をしていることになります。

ここでもう1つ確認しておきたいのは,「質の高い研究は質の高いジャーナルに掲載されるべきである」という前提です。もしも,その研究に本当に価値があると考えているならば,より多くの人に読まれる場所でその研究成果を発表したいと考えるであろうということです。私の分野でいえば,例えば,Studies in Second Language Acquisition, Language Learning, Applied Linguistics, TESOL Quarterlyあたりでしょうか。

それがいいかどうかは別として,発表する場所や媒体によってその研究がもつ価値はどうしても変わってきますよね。もちろんその基準が1つであるとも思いません。ただし現実には,地方学会の発表より国内学会の全国大会での発表が,全国大会での発表より国際学会での発表が高く評価されます。論文も,査読のない紀要や雑誌よりも査読のある紀要や雑誌のほうが評価が高く,また国内誌よりも国際誌のほうが評価が高くなるのが一般的であると思います(それが良いか悪いか,適切か適切でないかは別問題としておきます)。評価が高いというのは数量的に言えば点数が高いということです。地方学会の発表1件が1ポイントで,全国大会の発表1件は2ポイントになるとか,査読なし論文1本が1ポイントで,国際誌1本が10ポイントとかいう具合です(あくまで例えです。私の価値観ではなく)。

要するに,「研究は量より質だ」ということは,数少ない研究で多くの点数を稼ぐことと言い換えられるのではないでしょうか(その人が得点稼ぎを目指しているかどうかは別として)。そして「研究は質より量だ」というのは点数は低くともたくさんの研究をやって多くの点数を稼ぐことといえるでしょう。

では,業績づくりを無理やり野球に例えます。「研究は量より質」の人は,数少ない手数で多くの点数を稼ぐことと同義だと先ほど述べました。これは野球でいうと,ホームランを打つことになるのではないでしょうか。野球は,ランナーがホームに戻ってくると1点です。つまり,シングルヒットなら最低でも4本必要です(場合によってはシングルヒットで2塁から生還できる場合もあるが便宜上そういう状況は考えないこととします)。しかし,ホームランなら一振りで1点です。ヒット4本で1点に対し,ホームラン1本で1点。「量より質」とは,ホームランで得点を稼ごうとすることだといえるのではないかということです。もちろんヒットを打つことでも難しいことです。優秀な打者でも打率は3割,つまり10回に3回しかヒットにはできません。さらに,打者であればヒットを打てない人はいないでしょうが(そもそもヒットも打てない打者は試合にすら出られない),だれでもホームランを打てるでしょうか。そりゃ打席に立てる打者なら打てないことはないでしょうが,コンスタントに打てる人は本当に限られているはずですよね。それほどにホームランを打つことは難しいことなはずです。

さて,ここでまた野球の話を研究の話に戻して,打者というのを研究者に置き換えてみたいと思います。優秀な研究者であっても,accept率は3割,つまり,10本に3本しかpublishできません。なんてことはないでしょうが,研究者であればヒットを打てない人はいないというのはtrueでしょう。発表できないor論文書けないなんて人はそもそも研究者にすらなれないか,あるいは肩書は研究者でも「研究」という「試合」には出場していないということです。さらに,研究者であればホームランを打つこと(majorなjournalに載せて1本で高得点を稼ぐこと)はできる「はず」ですが,コンスタントにそれが出来る人は本当に限られていますよね。少なくとも私の分野ではそうだと思います。

結局のところ何が言いたいかと言いますと,「ヒットを打てない人にはホームランは打てないでしょう」ということなのです。シングルヒット4本で1点を取れる人はホームランを打つこともできるでしょうが,ヒットすらも打てない人,または打ったこともない人が,ホームランを打とうなんてなに言ってんだおいってなりませんかね。いいから打席に立ってとにかくバット振れと。まずヒットを打ってこいと。そうなりませんかね。「質より量」ができる人が「量より質」を重視できるのではないでしょうか。また,「質が低い」とはいっても「ヒット」にはなっているわけですよね形はどうあれ。綺麗なセンター返しではないボテボテの内野ゴロかもしれませんし,セカンドとライトの間にうまく落ちたポテンヒットかもしれません。それでも「ヒット」です。質の高い研究を目指すことはなんら批判されるべきことでもなく,むしろそれを目指して研究をするべきではあると思います。ただし,「量より質」というのは,せっかく回ってきた打席でホームランが打てそうにないからとバッターボックスに立たないことのようにも思えてしまいます。打席に立ち続けずにホームランって打てるものなのでしょうか?ホームランバッターだって,時には三振したり凡打でチャンスを潰してしまったりするわけですよね(実験をとってはみたけれどうまく結果が出なかったとか,意気込んで書いた論文がリジェクトされたりとか)。繰り返しになりますが,普通のバッターにもなってないのにホームランバッターになれるのかな?と思います。中にはまれに,もうそんなに内野安打ばかり狙ってないで,どっしり構えて,ホームラン狙って強振したらどうですか?そのガタイなんだし。っていう人もいたりするんですけれど。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

2014年の振り返り

さてさて,今年も気づけばあと2日で終わってしまうようですね。何言ってんだお前と思った方もカレンダー確認してみてくださいね本当ですよ。というわけで,やらなければいけないことは山積みなのですが,備忘録もかねて今年も振り返っておきたいと思います。

2014年の一大イベントといえばなんといっても名古屋に来たことです。1月から3月の間はまだ中学校で臨任していまして,その最終勤務日の夜にはレンタカーに段ボール箱と布団を突っ込んで東名道爆走してましたね。そんなわけで,名古屋で博士後期課程の院生になりました。と同時に,専門学校で非常勤講師としても働き出しました。もう4月から生活がガラッと変わったわけです。私は博士後期課程の学生ですが,M1の学生と一緒に授業に出ていたりもしていました。技術的なことを身につける必要もありましたし,1年弱研究から離れていたことのブランクを埋めるという理由もありました。それと同時に,春は学会の発表申し込みだったり,学振の申請書を書いたり(1次で落ちましたけど)しました。6月はCELESでの発表があり,8月はJASELEでの発表があり,その後には投稿論文の〆切があり,9月にはJABAETでの発表,長野のメソ研に参加,そして静岡の合同ゼミ合宿に基礎研メンバーとして参戦という怒涛の日々でした。10月にはことばの科学会で大阪に行き,そしてまた投稿論文の〆切があり,学会発表の申し込みがあり,11月には研究助成の申請書を提出し,LET中部で発表し,そして今月12月はNagoya.R #12で発表がありました。つい先日はメタ分析の論文輪読会に参加して論文2本をレビューしました。そしてこれからは来月〆切の論文1本,査読が返ってきた修正原稿の〆切2本(1本はほぼ終わり),そしてなんともう今から憂鬱感が半端じゃないんですがD1報告があります。博論…どうしよう…

とまぁとっても充実した1年間だったのではないかと思います。辛い時もたくさんあったけれど,でも本当に名大に来てよかったと思います。一緒に頑張る仲間がいるっていう環境は,何事にも代えがたいですね。とくに,隣の隣の人や隣の隣の隣の人にはとても感謝しています。彼らがいなかったら名大に来ていなかったでしょうから。まぁゆくゆくはみんな別々のところにいってしまうわけで,一緒の空間で過ごす時間は残り少ないんですけどね。それを今から考えるだけでも寂しいですが,それでも頑張っていけるようにならないといけません。自分の色が少しずつ出せるように。二人に少しでも追いつけるように。そして一人でも頑張れるように。来年(度)の目標はとりあえずそこですね。それから,心身ともに健康な1年を過ごすことです。心身ともにとはよくいいますが「心」の部分の健康がとても大事なんだなというのは名古屋に来てから強く感じるようになりました。息抜きやリフレッシュの仕方もちゃんと考えないといけないなと思います。もちろん「身」も大事。今年は持病のヘルニアが悪化することはありませんでしたが,いつ悪くなってもおかしくないので。

というわけで今年もたくさんの方にお世話になりました。皆様どうぞ良いお年をお迎えください。

 

なにをゆう たむらゆう

おしまい

P.S. メタ分析の読書会で私がレビューした論文のレジュメを置いておきますので興味のある方はどうぞ。一本目はタスクの複雑さに関する認知仮説のメタ分析。二本目はL2研究における効果量の解釈に関するメタ分析です。

Jackson, D. O., & Suethanapornkul, S. (2013). The cognition hypothesis: A synthesis and meta-analysis of research on second language task complexity. Language Learning, 63, 330–367.

Plonsky, L., & Oswald, F. L. (2014). How big is “big”? : Interpreting effect sizes in L2 research. Language Learning, 64, 878-912.

教室で一斉に同じことをやらせる意味は何なのか

今日ちょっと色々考えたので忘れないうちにメモしておこうと思います。あらかじめ申し上げておきますと,以下,問いに対する答えはありません。

北米留学時代,社会言語学の授業を取っていた頃に教育とはどういうことなのか,ということや,言語教育を含む教育のもつ暴力性みたいなものを考えたことがありました。

当時はこんなことを書いています。

【授業】教育について考えた

今日引っかかったのは,「教室で一斉に同じことをやらせる意味は何なのか」という問いでした。

もっともだとも思います。本来,人の興味関心や学習の進度などなどはそれこそ十人十色であるわけなので,その中で「全員に一斉に同じことに取り組ませる意味」があるのかどうかということです。もしあるのだとしたらそれはなんなのかということになります。これは実は教室内のほぼすべての活動に当てはまるわけです。言語教育で考えてみると,全員で一斉に音読するにしろ,ペアワークをやるにしろ,グループワークをするにしろ,個別の多読活動に取り組むにしろ,どんなことをやるにしても,「教室の中で,(それぞれのペースやそれぞれのやり方でであったとしても)同じ◯◯をするのはどうしてか」ということ。すごく意地の悪い言い方をすると,「それって結局全部教員側の都合じゃないか」と言い換えられなくもないかもしれません。

教育といっても,学校教育かどうかは大きな違いであるでしょう。また,例えば言語教育でもどのような文脈で行われる言語教育なのかでこの問いのもつ意味も変わってくるでしょう。

教育を,「生徒・学生のためのものである」と考えると,「教員の都合(意見・ビリーフとも言い換えられるかもしれません)」が優先されるべきではなく,「生徒・学生が何を学びたいのか」ということ,こそ重要視されるべきだということになるでしょうか。そのとおりでしょうね。ただし,学校教育においては,「学習指導要領」というもので学ぶ内容に関しての規定があるわけですし,また小中高生が「何を学びたいのか」はあるにしても,「学びたいと思うことや興味が有ることしか教えなくていいのか,教えてはいけないのか」という意見や,「何が自分の人生に必要なのか」を主体的に取捨選択できる能力があるのか,という意見もあるでしょう。大学における教育でも同じような議論は当てはまるのではないでしょうか。自分の学部時代を振り返ってみても「あれを勉強しておけばよかった」と思うことは山ほどあります。そう今思うということは,当時は重要だと思っていなかったからろくすっぽ勉強しなかったか,あるいはそれがこの先重要になると考えもしなかったということでしょう。「そもそもその『あれ』を知りもしなかった」という可能性もあるかもしれません。

さて,ここで,ニーズ分析(needs analysis)についてです。これは,言語教育の分野では最近だと特にTask-based Language Teaching(TBLT),English for Specific Purposes (ESP)との兼ね合いで聞かれることが多い用語かもしれません。あるいは,curriculum developmentやevaluation and assessmentの文脈でも使われると思います。TBLTにしてもcurriculum developmentやevaluation and assessmentでも,大事なことは「目標を設定する」ということです。どんな目標を設定すればよいのか,というときに,学習者のニーズに基づいた目標を設定するべきであり,それに基づいたシラバスデザインなりカリキュラムなりを作り,そしてその目標の達成度合いを評価することが重要であるという考えです。学習者の目線から教育内容を考えるというのは,先ほどの「生徒・学生が何を学びたいか」ということを考えているということができると思います。

学習者のニーズは,それが今必要であるという意味のニーズか,あるいは未来に必要になるという意味でのニーズかで違ってきます。例えば,私がアメリカにいた時に実習で教えていた移民の人達にとって必要なのは,彼らが今まさに生きていくために必要となる様々な場面での言語使用(買い物であったり職探しであったり)でした。当然そのニーズにあった言語教育が提供されていました。目標言語環境における言語教育では,そういった現在のニーズが重要視されることが多いでしょう。対照的に,例えば日本の外国語教育を考えてみると,現在のニーズというのはない場合が多いでしょう。あったとしても,それが入試突破や資格試験のスコアアップという意味でのニーズという場合がほとんどなのが現状なのではないでしょうか。むしろ,「実際に言語が使用できるようになる」ということを目標にした場合,大学の一般教養科目としての外国語教育,中でも英語教育では,学生が卒業後に必要となるであろう(あるいはかもしれない)ニーズに合わせたカリキュラムを組むことになると思います。そうなると,教員ができるのは,教える学生層の進路状況からニーズを逆算したり,あるいは学習者に直接聞いたりということになるでしょう。「卒業後の進路が明確に決まっている学生」が多ければ後者の方法も有効かもしれません。しかし,そうでない場合や,ニーズのばらつきが大きすぎる場合には,別の方法で的を絞ることになります。そこで,例えば題材自体はある学習者のニーズにフィットしていなくとも,そこで行われる活動で用いられる言語や,活動中に発生するインタラクションが実際の言語使用場面においても応用可能であるようなタスクを用いたりします。

と,こうやって「学習者のニーズ分析」から始まってタスクに落としこむところまでいったとろこで,一番最初の疑問にぶち当たっていることに気づかされます。つまり,「なぜ,全員のニーズの共通項や,最小公倍数をとって授業を組み立てようとするのか,それは結局全員に同じことをさせようとしている発想から抜け出せていないではないか」ということです。

こちら(教員側)であの手この手をつかって色々考えてやってるつもりが,実はそれって押し付けなんじゃないのか,と考えさせられてしまうのです。そう考えると,教育っていうのはそもそもが押しつけというか,暴力性を帯びた行為であるということになるのかもしれません。教員と学生のパワーバランスの話も関わってくるでしょう。今のところ僕の中で答えや解決策は見つかっていません。ただ,授業をする,何かを教えるということの難しさを考え,自分の今の実践や過去の実践を振り返り,またこれからの授業がどうあるべきかについて思いを馳せた。そんな日でした。

MBAの充電残り3%で充電器は研究室。そろそろ寝ます。

遠くからライフルで撃つか,接近戦でナイフで仕留めるか。

別にゲームの話ではありません。戦争の話でもありません。ただし,私達の日々の仕事は戦闘です。敵は?そうトドです。日々どのようにトドを狩るか。狩っても狩っても湧いてくるトドをどうしたら効率的にたおせるのか。それが人生です。トドの狩り方は人それぞれでしょうから,この狩り方が良いという絶対の方法もないでしょう。遠くからライフルで撃つもよし,放置してたから接近戦になりあえて近くまでおびき寄せてからナイフで仕留めるもよし。要するに,トドに殺られる前にやっつければよいというわけです。

さて,私の狩り方はどうか。振り返ってみました。私は,他の多くの方と同じように〆切がなければなにもしないクズ野郎です。ですから,いつも視界に入っているトドを見て見ぬフリをして,そろそろやばいかもという段階になって必死にナイフで戦ってなんとか一命を取り留めるということをしてきました。そして接近戦闘の次の日は使い物にならずHPの回復に費やすということも多々有りました。しかし,本当はライフルで華麗に狙い撃ちしたいのです。身の危険がより少ない段階でトドを仕留めておきたいのです。口頭発表の申し込みの日にはスライドが完成していて,論文の募集が始まった日に原稿を投稿してしまうそして落ちる,そういう仕事の出来る人になりたいのです。それには,トドを把握すること,どのトドを先に狙い撃つか,計画をしっかり立てることが重要ですよね。当たり前の話です。つまり,トドの管理です。私は今まで,iPhoneのリマインダーやGoogleのカレンダーのTo doリストを使っていました。iPhoneのリマインダーは,そもそもそのリマインダーをいつもチェックするというクセがなく,僕にはあまり合いませんでした。昨年度までは使っていましたが,名古屋に来てからはGoogleカレンダーのTo doリストにしていました。基本的にGoogleカレンダーはいつも見ているので,そこにTo doリストがあればいつもTo doを気にしながら作業ができるからです。ただし,ちょっと物足りなさを感じていたのはカテゴリ分けやサブタスクの設定ができないことでした。プライベートのトドや,仕事のトドがごっちゃになってしまい,さらには「論文投稿」というタスクの下に,「第1稿完了」や「英文校閲に出す」などのサブタスクをつけて,各タスク間の階層関係をつけることもできませんでした。そしてつい最近こんなことを言われました。

うちのゼミはトドの早狩りが売りなのに,お前はいつもギリギリ

……

てへぺろ☆  ★
*   ___ +
★  + /)⌒ ⌒\
+ _ヘ//(●) < ヽ
/ヒノノ _二⊃(_人_)  |
< +  ヽノ ノ
/ ̄\) *    \

というわけで,いよいよ私は接近戦型社畜RA戦士から,遠距離狙撃型社畜RA戦士にならなくてはいけなくなりました。額にもう1つの目がある感じで撃っちゃうよと。1キロ先のトドも撃っちゃうよと。そこでevernoteを漁っていたらこんな記事を見つけました。

米Lifehacker編集部のiPhoneのイチオシToDoアプリは『Wunderlist』

http://www.lifehacker.jp/2011/10/111027iphonewunderlist.html

無料のTo doリストで人気なのはRemember the Milkかもしれません。名前はよく聞いたことがあります。でもWunderlistはデザインもなんかスタイリッシュでかっこいいのでそっちにしました。というかGoogleカレンダーとの連携やウェブ版があって窓機からでも見れるというのもRTMでもできますからね。

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Mac版のホームはこんなかんじです。背景は無料版でも20種類から選ぶことができます。左側でカテゴリ分けをしています。とりあえず今は試しにプライベート,食料品の買い物,仕事,ほしい物リストという感じです。

食料品の買い物というカテゴリを開くと,こんなかんじ。

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一番上の黒っぽいところに新しいのをどんどん書いていきます。肉類というところを開くと,

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こんな感じで何を買うかというのを入力することができるわけですね。ここにサブタスクを突っ込む感じです。順番は後で入れ替え可能です。due dateのところで日付を設定したり,その下でリマインダーの登録も出来ます。Todoリストは名前順で並び替えたり。まぁまだ使い始めたばかりなので,実際の使用感とかはまたレビューしようかなと思います。そういえば,今日の授業でこんなTED動画を扱いました。

Keep your goals to yourself

目標を決めて何かをするときは,それを人には言わないほうがよいそうです。人にいうことで満足感を得てしまい,努力しなくなってしまうとか。こんなところで遠距離狙撃するぞ!なんて言ってる僕はもうだめですね…

なにをゆう たむらゆう

おしまい

「本当の〆切」

なんとなくふと思い立ったのでちょっと書いておく。お仕事のこと。〆切とか。長いので読まないことをおすすめする。
大学院生(学生)が仕事とか抜かすなとおっしゃる方もいるかもしれない。それは理解した上で書いているのでご了承いただきたい。
一応私達(私の周りの人と私の事)は日々の業務(トド,あるいはTo doといってもいい)をこなすことを勝手に仕事と呼んでいる。研究室に行くことを出勤と呼ぶ。もちろん出勤簿があるわけもないし勤務時間を管理されているわけではない(ただしRAやTAなど賃金の発生する仕事はもちろん出勤簿もあるし勤務時間も管理されている)。賃金の発生しない業務を仕事と呼ぶなということであればルーティーンワークとでも呼べばよいのだろうか。それはともかく。

どんな仕事をやっていても,〆切というのは必ずあるだろう。それこそ学校生活でも〆切は山ほどある。例えば小学校でも各教科の提出物や,保護者と学校のやりとりの書類の提出の〆切があるだろう。

私達大学院生も〆切というのはある。私達の生活の上で大事なものの〆切といえば,例えば学会発表の申込みと,論文の投稿が大きなものかと思う。他にも研究助成金や奨学金への応募や,非常勤があれば授業準備や成績処理などの仕事がある。今回は特に学会発表や論文投稿の話。

大学院生の仕事の多くは,この学会発表と論文投稿になると考えている。というか研究とはなにかを考えた時,その成果を発表して,そしてそれが認められて初めて研究の意義が出てくる。だから学会に赴いて発表をするし論文を書いて投稿するのだろう。もちろん,業績づくりという意味もある。大学などをはじめとした研究機関への就職を考える場合,研究業績は欠かせない。もちろん教育歴も大事な要素であるが,研究業績で足切りされる場合も多いと聞く。特に私の分野(外国語教育学とか広く言えば応用言語学とか)は文系の中でもそういう志向が強いのではないかと思う(あくまで印象)。共同研究も含めて年に10件近く発表などというのは私の周りでは普通に行われているし,論文の投稿も複数回するのが普通である。というか今しかそういうことができないのでそうするということもあるかもしれない。少し話がずれた。とにかく,学会発表や論文投稿は私達の大事な仕事なのである。それは研究者の大事な仕事とも言えるだろう。ただし,大学教員になると研究する時間はフルタイムの大学院生と比べて圧倒的に減る。
そんな大事な仕事だからこそ,必死にやるわけである。本来であれば〆切間際に焦ってやることがないように計画的に進めるべきではあるが,どうしてもそうはならないことがある。〆切との戦いがある。

しかしながら,「オトナ」の世界には,「本当の〆切」なるものが存在するらしい。私は聞いたことしかないのでよく知らないが,聞くところによると,公になっている〆切を過ぎても「なんとかなる」場合が存在するらしいのである。守らなくてもいい〆切。しかしどうしてその公にはなっていない本当の〆切なるものの存在が流布しているのだろうか。そんなものは本当に存在するのだろうか。

ここからはほとんど私の想像で書く。

私達は,学会発表や論文投稿が主な仕事だと先ほど書いた。しかし,大学の先生方は他にもたくさんの「書き物」,「作文」と呼ばれるお仕事があったりするそうだ。詳しくは知らない。どうもそういったお仕事に「本当の〆切」なるものがあるようだ(他にもあるかもしれない。私の想像による)。

少し考えてみた。その「本当の〆切」が使えるのは,提出先の人が知り合いの同業者の場合なのではないだろうか。だからこそ,「ちょっとくらい遅れても許してもらえるだろう」と考えるのではないだろうか。そしてそう考える本人も,きっと別の仕事で「本当の〆切」の存在を知っているのかもしれない。そうやって,色んな所がそういう仕組みで動いているのかもしれない。確かに,〆切は余裕を持って設定しておくものであろう。全体の仕事に支障をきたさないように,万が一なにかあったときのために,安全策として早めに〆切が設定されると考えるのは自然なことである。

ここからは自分へのブーメランも含む。

その「本当の〆切」をアテにして仕事をするのはどうなのだろうということを考えた。「本当の〆切」があることによって,「どうにかなる」ということはあっていいだろうとは思う。

頑張ったけどもどうしても間に合わずにダメ元覚悟で土下座して出して受け取ってもらえた→次からはちゃんと〆切守ってよね→ありがとうございます!

みたいなのならなんかいいような気もしてくる。そんなことを言っても実際にこの遅れた人が「本当に頑張ったけどダメだったのか」「もともと遅れてもいいやと思ってやっていたのか」はわからないのだけれども。いやそうだとしてもだ。私は,個人的に,最初から〆切を守ろうとしない「ああ,あれは遅れても大丈夫(だろう)」みたいなのは好きではない。遅れて大丈夫かどうかは遅れる人が決めることではなく遅れたものを受け取る側が決めることだからだ。

もっとひどいのは,そうやって,自分がなにかをするときに遅れることは棚に上げて,「あれがまだ来ない」「あそこは仕事が遅い」とか人の仕事にケチをつけだす場合である。

これも程度問題なのかもしれないが。

権威主義的になるつもりもないし,年齢や役職で人を判断して,そこに媚びへつらうような生き方は私も好きではない。生きていくためにはそういうことも必要であるというのは認める。人間関係は大事であるしそれがこの先大事だとも思う。

ただし私は「本当の〆切」なるものの存在を見込んで仕事をしようとは思わないし,そこに関わる人達をみて仕事の質を変えるようなことはしたいとは思わない。少なくとも今は。何事にも100%で臨めない場合もある。自分の限られたリソースを振り分けてなんとか乗り越えなければいけないときに,そういう手段を取らざるをえない場合もあるかもしれない。私はまだない。それは業績がたりないからだと,もっと発表してもっと論文を書けと言われればなにも言い返せない。ただしそれは「本当の〆切」なるものを見込んで仕事をすることを正当化はしない。それを当てにしないとできない量の仕事ならば単純に減らせばいい。

大学院生は忙しいという。確かに忙しいとは思う。しかし先程も述べたように大学教員の先生方よりフルタイム院生の方が時間的余裕は絶対に多い。拘束時間も短い。守るべき家族がいるわけでもない(いる人もいるだろうが)。「本当の〆切」なるものの中で仕事を動かしている人たちとは条件が違うのだ。立場も違う。必要なときは立場が違えど物申すこともあるだろうし,研究の場では年齢や役職に関係なく対等に戦うべきであろう。しかし,「本当の〆切」なるもので世の中が動いていることを知り,そうやって仕事をする人たちを間近に見て,そしてその話が聞ける,ということと,私達が同様に「本当の〆切」なるものを見込んで仕事をするというのは違う。その「本当の〆切」なるもののが非常に特殊な条件(交互作用といってもいい)で効果を発揮することは想像に難くない。だれでもいつでもどんなときでも使えるものとはとうてい思えない。それに,単純に失礼であろう。取引先(という言葉が適切かはわからないが)の人たちの仕事をなめていると思われても仕方がないのではないか。どのような学会であれ,どのような学術誌であれ,そこに投稿する(発表を申し込む)ということは私達のためにプラスになる可能性があるからそうしているはずだ。国際誌,全国誌,地方学会の紀要,学内紀要,のようにランク付けがなされていたり,IFや知名度で泊がついたりつかなかったりすることもある。そうであっても,発表ができれば,論文が掲載されれば,私達は喜んでCVに1行書き足すであろう。だからこそ,「受け入れていただく」側の謙虚さはいつでも忘れずにいたいのだ。強気に出るのならば,〆切を守った上で,研究の内容で勝負しようじゃないか。そこで戦おうではないか。

長くなった。ここに書いたことは私の想像に基づく。想像に基づいて正論(ぽいこと)を書いた。糞真面目に正論と理想論語ってるだけじゃ生きていけないのはわかっている。こんなことを書いておいて10年後(いや半年後かもしれない)に「あそこは遅れても大丈夫」と言っているかもしれない。それはわからない。ただしここに自分が書いたことは忘れずにいたい。大学院生としてどうとか,研究者としてどうとか,そういうこと以前に,仕事をする人間として,〆切を守る。守ろうとする。そういう「オトナ」になりたいと私は思う。そうして初めて,誰かに〆切を守ってもらえると思うから。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。