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Wordで作った問題を1問ずつに分割してPDF化する

はじめに

ここ数年,絶対にやらなくちゃいけないわけではないけれども,できたらいいなと思っていて,でもめんどくさくて挫折していたのがタイトルの作業です(実際にはもとはPDFで,それをWordファイルにして扱いやすいフォーマットにしてから…という話なんですが)。PDFで持っている文法の練習問題があって,それをLMSで教材にすると,PDFを1枚貼り付けて,それを別画面で開いてそれを見ながら回答の入力はLMS上で行う,という運用になるわけです。ただ,学生側からすると問題入力する画面で問題も見せてくれよとなりますよね。それをどうにかしないとなぁとずっと思っていたのですが,めんどくさくて放置していて,生成AI(ChatGPT 4o or Claude 3.5)に助けを求めたりもしたのですがうまくいかず,今日「はっ!もしかして!」と今までと違うアプローチを試みたらうまくいったので,その嬉しさのあまりこの記事を書いています。人によっては,そんなこと最初から思いつけよと思うかもしれません。

なぜめんどくさいのか

普通の空欄補充問題とかなら,たぶん生成AIに渡して問題ごとにWordで出力してとか,あるいは選択肢もカラムで整理してcsv形式にしてLMSにそのまま流せるようにとか多分できるんですよ。でも,その文法問題は,空欄補充以外にも下線部のエラー特定問題も含まれています。下記画像のような感じです。

こういうのは,下線の下のアルファベット記号のレイアウトが肝なのでテキスト処理的にはうまく扱えないんですよね。それで,生成AIに頼んでもうまくいかないと。

私がどういうことをやりたいと生成AIに伝えていたかというと,PDFを見せて,これを問題ごとに分割して別のファイルにしたいんだということでした。どうしても下線部問題のレイアウトが崩れてしまったんですよね。それから,画像ファイルとしてLMSに上げることも考えました。画面のスクショを撮るなら正直1問数秒で終わりますから,数十問あってもそこまで時間はかかりませんし,ファイル名を連番に変えるというような作業は機械的にできるので。しかしながら,画像として問題をLMSにあげると,画質が悪くて問題が見づらいという問題にぶちあたってしまいました。これに悩んでいたときはo1のような推論モデルもなく,推論モデルにPDFファイルやWordファイルを見せることもできませんでした。もしかすると,その方法なら(私が思いついたのとは違う)良い解決策を提案できたかもしれません。

解決の糸口

ふと,Claude 3.7 sonnetにWordあるいはPDFでどっちならどうにかできるかと今日相談してみました。すると,WordでVBAを使えばできると言ってきました。なるほどその手があったか!と思いました。私は,Adobe AcrobatでPDFからWordに変換し(レイアウト崩れはゼロに近いクオリティ),VBAは使えないので,提案されたコードをただ貼り付けて,スクリプトを実行しました。すると,数十個のWordファイルが生成されました!あとは,Adobe Acrobatでこれを一括で読み込んでPDFにすればいいだけです(WordのままLMSに読み込ませるとレイアウト崩れがあるため)。ところが,出力されたファイルはやっぱり下線部問題でレイアウト崩れがありました。問題部分を抽出して,コピペするというやり方でしたが,新しいファイルを開いてコピペする際に,元のレイアウトを保持してコピペするというのがなかなか難しいようでした。

そのとき,私はひらめいたのです。

これもしかして,問題を分割することとファイルを分けることを一緒にやろうとしていたから難儀な作業になっていただけで,空行をページ区切りに置換して1ページ1問のWordファイルにすれば,あとはそのままPDF化してそのPDFを1ページごとに別個のPDFファイルに出力するだけいいのでは?

と!いやむしろなんで最初からそういう発想になってなかったのよメチャクチャ簡単やん!となりました。そこで,ClaudeにWordで空行をページ区切りに変換する方法を尋ねると…

  • 検索と置換機能(Ctrl+H)を使用
  • 検索欄で「^p^p」(2つの段落記号)を入力
  • 置換欄で「^m」(手動改ページ記号)を入力
  • 「すべて置換」をクリック

というサジェストがありました。あとはこの通りに置換して,1問が1ページになっていることを確認したらPDF化して,Adobe Acrobatの”organize pages”で1pageずつにsplitすれば,1問1PDFファイルの完成です。あとはLMSの仕様に従ってzipファイルにまとめてアップロードすれば,各問題ページにPDFの問題が配置された設問ができるというわけです。

余談

実は途中で,HTMLで下線部問題できないのか?と思って生成AIに聞いてみたこともありましたが,結果としてはやはりABCDをうまく表示させることができなくて失敗に終わりました。

おわりに

正直,この作業自体は絶対にやらないといけないわけではないし,むしろ何年もやらないままできたのできっとやらなくてもよかったのかもしれません。ただ,私としてはどうしてもいつもなんか引っかかるものがあって,なんとかしたいと思っていたので,今回解決できてよかったです。まだまだもっとこうしたいというのがあるので,そこにもしっかり手が回りますように…。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

文章の断片を並び替えるタスクに現れるもの

はじめに

コミュニケーション・タスクのアイデアとマテリアル』のpp.96-97に,”Put the Story in Order”というタスクがあります。このタスクは,英語力の「ごまかし」がきかない課題だなと実感したというお話。

どんなタスクか

この課題では,学習者は1つの物語を行ごとに切断してバラバラにしたものの片方を受け取ります。そして,ペアの相手の学習者はもう半分の行を持っています。「文」ではなく「行」と表現しているのは,1つの「ピース」は必ずしも完全な文ではないからです。自分の持っている行の束を見せ合うことなく,元の物語の順番にそれぞれの行を並び替えるというのがこの課題のゴールとなります。1行目は片方の学習者に与えられており,2行目以降を考えます。必ず交互にくるように,つまり自分が1行目を持っていたら2行目は必ず相手が持っている,のように課題を構成するかどうか,そしてそれを活動前に学習者に伝えるかどうかによって難易度の調整が可能です(もちろん,交互でさらに学習者にそれを伝えると難易度は下がります)。

この課題は情報合成と呼ばれるタイプの課題で,分割された情報を組み合わせることによって1つのものができあがるという性質を持っています。お互いに与えられた情報の間にギャップがあり,それを埋めることを求められるという意味では間違い探しのような典型的な情報交換タスクと似ている部分もありますが,情報交換タスクではパズルのピースを組み合わせるようなことは求められていません。その意味で,情報合成タスクは情報交換タスクとは異なります。

課題のポイント

この課題では,言語的な知識の側面と,議論をすすめるためのメタ的な会話,の2つの要素が重要となります。この重要性は,例えば同じ情報合成タスクでも複数コママンガの並び替えのような課題で必要とされるものとは比較にならないほど高くなります。例えば,自分の持っている文が”I think that”で終わっていれば,その次に来るのは

  1. 主語+動詞(thatが節のマーカー)
  2. 助動詞+動詞(thatが指示代名詞で節内の主語の場合。I think that would be interesting….のように続く時など)
  3. 現在形の動詞(これもthatは代名詞で主語になる。I think that requires a lot effort….のように続くときなど)
  4. 名詞(thatが「その」の意味の指示形容詞の場合。I think that man you saw was the suspect….のように続くときなど)

などのような可能性が考えられます。ここまで明示的な知識がなかったとしても,どのような単語のつながりは文法的にありえて,どのようなつながりはありえないのかについてを判断する知識を持っていなければ,この課題の達成は非常に困難となります。つまり,意味中心のやりとりで文法的な部分の理解が多少あやふやでも相手とのやりとりを重ねてゴールに近づいていけるようなタスクとは異なるアプローチが必要になってくるということです。

さらに,文法用語,最低でも品詞(動詞,名詞,形容詞,副詞,前置詞くらい)を英語で表現できないと,文法的なルールをヒントにして文の並び替えを行うことは難しくなるでしょう(し,もっといえば文法規則についての明示的な知識がなければ,そもそもこの課題を文法の規則をベースに解決しようという発想にすらいたらないかもしれません)。

また,自分たちがどのような「作戦」を取るのかを話し合う必要も出てくるでしょう。学習者たちのやりとりを見ていると,この「作戦」がタスクの成功の鍵を握っていると感じる場合も多いです。例えば,この課題を進めるにあたって私が教室内で4つのペアを観察した限りは次のようなパターンが有りました。

  1. 次の行を探す際,自分も意思決定に参加できるように,相手が持っている文をすべて読み上げてもらい,どれが自分の持っている行の前あるいは後ろに来そうかを考えるようにする
  2. 1の派生とも言えますが,相手の読んだ文をすべて書き写そうとする(これやると書き写した後は個人で課題の達成ができてしまうので,基本的には非推奨だと思います)
  3. 行の順番を特定する前に,バラバラの状態のお互いの持っている行に任意の記号(アルファベット)を付与する(これによって,記号を使ってやりとりできる)
  4. 1->2->3…と最初から順番に特定していくのではなく,最後の語と最初の語の組み合わせで比較的容易に繋がりそうな行を先に特定し,その上で話しの流れを踏まえて最終的な順番を特定していく
  5. 文法的なことよりもむしろ意味内容に焦点をあて,ストーリー全体の流れを大まかに予測し,それに沿うように行を並べていく(ただ,基本的には文法を考えるほうが圧倒的に短い時間でタスクが達成できると思います)

もちろん,これらは「最初からそうしようと決めて始めた」というケースと,途中で「こうしたほうがよさそうだ」と気づいてそのようなストラテジーをとったケースとがありました。いずれにせよ,こうした「課題の進め方」に関する意思疎通は,ただ情報を交換するよりも難易度が高くなります。

チャレンジングな部分

私が持っているクラスの学生で,例えば複数コママンガの並び替えはこちらの想定したくらいの時間でゴールまでたどり着くような場合でも,文章の並び替えとなるとその2倍から3倍以上の時間を必要としていました。

ちなみに,私がこのブログ記事を書くに至ったきっかけはテストでの学生たちのパフォーマンスを見て,です。学期中に一度この”Put the Story in Order”をやって,別の素材で同じ課題をやったのですが,少し文章が難しいかなとは思っていたのですが,私が思っていた以上に全員が苦戦していて,おそらく私が4月から見てきた中で初めて「難しすぎてモチベーションが急降下した」瞬間を目の当たりにしてしまったのです。学生には本当に申し訳ない気持ちになりました。

苦戦していた学生は,言語的な部分もそうですし,意味的な部分も統合しながら,つまり,文法的にも意味的にも文として成立するか,”That doesn’t make any sense.”とはならないかについての判断を適切に下すことができていないように思いました。ここが,私が「ごまかしが効かない」と冒頭で表現したことにつながります。タスク遂行中は基本的に意味のやり取りに焦点があたります。したがって,consciousness-raising taskのように意図的に学習者の注意を文法的側面に向けさせるような課題でなければ,たとえ文法項目のターゲットを学習者には直接伝えない形で設定したfocused taskであっても,学習者は文法面に注意を向けることが難しくなります。なおかつ,文法的な正確性に欠ける発話であったとしても,相手に自分の言いたいことが伝わっていればタスク達成に著しく支障をきたすようなことはあまりないと思います。ところが,この並べ替えタスクではその「曖昧さ」が許容されないことがしばしばあります。もちろん,行をどこで区切るのかで言語的なつながりの見つけやすさ・見つけにくさを変動させることは可能ですが,基本的には「なんとなく」では最後までたどり着けないことが多いです。絵の並べ替えタスクとの違いはここにあると言えるでしょう。

ただ,これは絵の並べ替えタスクが「なんとなく」でできるというわけではなく,絵の並べ替えタスクも絵の微妙な差異や変化を言語的に表現できなければ順番が特定できないということもあります。しかしながら,絵の情報をどうやって伝えるのかは学習者の工夫次第で乗り越えられる部分がある一方で,行の並び替えはそういった学習者の表現方法の工夫で乗り越えられる要素があまりないのではないかと思います。

おわりに

この課題は,文章という素材があればあとはそれを行ごとに区切って分割するだけなので,どのような素材を用いてもタスクを作成することができます。さらに,文法的な知識も要求される課題ですので,「タスクをやらせると盛り上がるけど,でも文法がおろそかになってしまわないだろうか…」ということを懸念される先生方にとっても取り組みやすいのではないかと思います。

事前に品詞の英単語くらいは与えておくことはやっておくのがよいかと思います。もちろんなくてもできなくはないと思いますが,特に高校段階くらい以上だと品詞の概念を使うほうがいいと思います。また,課題作成時の注意点として,文章のすべてを並び替えるのは難しいので,出だしの部分は全体で共有し,内容理解を済ませた上で,物語の中盤から後半あたりの並び替えをするようにしたほうがよいと思います。

他のタスクに取り組んでいるときとはまた違う学生のパフォーマンスが見れるので,今後もこういう系のタスクを適宜取り入れて授業をやっていきたいなと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

『外国語学習での暗示的・明示的知識の役割とはなにか』を読みました

Photo by Vanessa Garcia on Pexels.com

はじめに

大修館書店から発売されている,下記の書籍についての記事です。

まず一言でこの本の感想を言うと,多くの人にこの本は「そのまま」読まれるべきではないと感じました。したがって,忖度なしで書きます。

また,以下の記事では私が読んで考えたことに加え,私を含めた4名の研究者で行ったこの本の読書会で話題にあがったことも含めます。読書会で議論になったことは,その都度そのように言及しますので,そうでない限りは私の主張であると考えてもらって構いません。

ちなみに,私は過去にこの本で取り上げられている暗示的・明示的知識(英語ならimplicit/explicitだと思いますけど日本語だと明示的・暗示的という人のほうが多いような)についていくつか記事を書いています。

どれも院生時代の記事ですが,私のスタンスというか立場,見方はこれらの記事に現れていると思いますのでぜひお読みください。また,本記事の以下の内容は,自己批判を多く含んでいます。それは,私が初めて「論文」というものを発表した時期にやっていた研究(2014-2015あたり)は明示的知識や暗示的知識といったものを対象としていて,測定や構成概念に対する認識の点であまりにもナイーブすぎたと思っているからです。

初学者には非推奨

もしも,「暗示的・明示的知識ってなんだろう?」とか,帯に書いてあるような「規則を知っていても使えないのはなぜ?」という疑問を持っている人がこの本を読もうとしているのを見かけたら,私は止めたほうがいいとアドバイスすると思います。なぜなら,そういった疑問は解決されるどころか余計に頭の中がこんがらがってしまうからです(理由は後述)。

そういった意味で,この本は批判的に検討できる者のみが読むべきだと思います。初学者が読むと余計にわけわからなくなってしまって悩んでしまうか,または逆に誤った知識を身につけてしまう可能性すらあるかもしれません。よって,学部や大学院生レベル,または研究職に従事しない方が手に取るべき本だとはあまり思えません。

なにがこの本の価値を下げているか

この本に対して私が否定的な印象をいだく理由を端的に言えば,この本は「だからだめだよSLA」の典型例だと思うからです。帯に「第二言語習得研究×認知心理学×脳科学」というように,この本に書かれていることがいかにも「科学的である」ような装いがありますし,真理・真実が明らかになっているかのような書き方がされている部分もあります。しかしながら,実際には曖昧性を多分に含んでいて,その最たるものは明示的知識とはなにか,暗示的知識とはなにかについて執筆者全員の定義が一致しておらず,その測定方法も違うからです。このことについては後述します。

つい先日,

第二言語習得研究(者)はなぜ「誤解」されたか

という記事を書きましたが,この記事で批判したことのいくらかも当てはまっている本ではないかと思います。

さて,本題です。本の中で気になるポイントを一つ一つ指摘していくときりがないくらいたくさんありますが,以下ではいくつかの論点にしぼって書きます。

論点1: 全体を統一する視点に欠ける

この本が全体を通して非常に残念な仕上がりになってしまったと感じる最も大きな理由は,各章の独立した論考をまとめて統一感をもたせる構成になっていないことでしょう。「はじめに」と「終章」はありましたが,本の意義のアピールが多く,全体を俯瞰的にまとめきれていたようには感じませんでした。このことは,何もこの本に限ったことではないと思います。他の分野の本がどうかはよくわかりませんが,私がこれまでに自分の研究に関わる専門書をそれなりの数読んできた印象は,多くの執筆者が各章に独立した論考を書いているパターンの書籍は質があまり高くないことが多いというものです(特に洋書)。一冊の中で扱われるトピックに多様性をもたせようとした結果,一冊の本のまとまりを欠いてしまうというのはしばしば見かけます。この本もそういう系統だというのが私の印象で,それだけであればそういう本のうちのone of themだということでスルーしていたかもしれません。

ただし,この本のテーマは一つの「概念」(明示的・暗示的を別個にカウントすれば2つ)です。暗示的・明示的知識という目に見えない概念を扱っています。それがこの本の各章に通底するテーマであるわけです。だからこそ,編者はこの本で言う「暗示的・明示的知識」が指すものを冒頭で(操作的定義も含めて)定義するべきであり,その定義に沿って各章の執筆者に執筆を依頼するか,または原稿を受け取った時点で章の間の記述の齟齬を解消するような修正作業を行うべきだったと思います。この点は読書会に参加した全員が同じような印象でした。

そういう調整がなされていないのは,すべての章で著者が独自に概念的・操作的定義を述べていることからも明らかです。結果として,第3章では暗示的知識の測定具として適切ではないと言われていた文法性判断課題が第5章や第6章では暗示的知識の測定具だとして論じられています。

百歩譲って,それが不可能である,つまり,暗示的・明示的知識を定義することは不可能であるという態度でこの本を世に送り出すのであれば,そのことを正直に書くべきでした。私がもしもこの本の編者に入っていたらそうすると思います(終章の151ページに測定具の問題への言及はありますが,全部読み終わって最後にそれ言われると詐欺っぽいので本来であれば先に言及するべきで,その意味では終章を読んでから各章を読むほうが良いでしょう)。なぜなら,この記事を執筆している2021年現在でも,研究者間ですら,暗示的知識と明示的知識がどのような測定具を用いて測定されるものであるかについての合意には至っていないからです。例えば,以下の論文は第3章(第二言語環境で日本語の文法知識はどのように発達していくかー文法項目の特徴と学習者の個人差の影響)で提示されるような明示的・暗示的知識の測定方法の分類とは異なり,時間制限つきの文法性判断課題なども暗示的知識の測定具としています(よってどちらかというとRod Ellisの分類に近い)。

Godfroid, A., & Kim, K. (2021). THE CONTRIBUTIONS OF IMPLICIT-STATISTICAL LEARNING APTITUDE TO IMPLICIT SECOND-LANGUAGE KNOWLEDGE. Studies in Second Language Acquisition, 43(3), 606-634. doi:10.1017/S0272263121000085

最新の研究ですらそういった状態なわけですから,そもそも明示的知識とはなんなのか,暗示的知識とはなんなのか,そしてそういった2種類の知識をどうやって測定仕分けるのか(より大きな問題は,そういう知識2つの実在を仮定して良いかどうか)ということについては科学的な真実があると言える状態でも,その確信度が高いと言えるような状態でもないというのが現状というのが,この文法知識の二元性というトピックを研究を初めたときから追いかけている(とはいっても研究のキャリアは修士をスタートとしてまだ10年ほどですが)私の現状認識です。

にもかかわらず,この本の「はじめに」では,次のような記述があります。

(前略)明示的知識と暗示的知識の区別はSLAの中心的課題であるが,同時に,問題もいくつか抱えている。たとえば,日本人の英語習得を扱った研究が少ないこと,研究対象が文法習得に限られていること,個人差や情意に関する研究がほとんどないこと,近接領域(たとえば,認知心理学や脳科学)の最新の手法を取り入れた研究が少ないこと,などである。本書の目的は,これらの問題点を網羅し,科学的証明を行うことにある。

はじめに iv

このパラグラフだけでツッコミどころはたくさんあって,なぜ日本人の英語習得を扱った研究が少ないとそれがSLAの問題となるのか,とか近接領域の最新の手法を取り入れていないとSLAの何がどう良くない状態になるのか,とか色々思うところはあります。また,たかだが本一冊で解決できる問題ではないだろうとも思いますが,それはおいておきます。それよりも私が驚いたのは,「科学的証明を行う」という記述です。「科学的証明」という言い方は私は人文科学の中では非常に強い主張だと思います。しかし残念ながら,「科学的証明」には失敗していると思います。全員が同じ概念なり現象なりを同じ方法で測定するというのは科学の最も基本的かつ重要な部分であると思いますが,それが成立していないからです。

一方で,1万歩くらい譲ってもう一度この本のタイトルを思い出してください。そうなんです。この本のタイトルは,『外国語学習での暗示的・明示的知識の役割とはなにか』であって,「暗示的・明示的知識とはなにか」ではありません。よって,この本は暗示的・明示的知識とはなんなのかの答えを与えるものではないのですと言われたら,まあそういう解釈もありえますよね,とは思います。ただ,そういう政治家みたいなことばの使い方は読者に対して不誠実だと思います。そしてそのことは,本の中で一切語られていないからこそ罪が重いです。本の冒頭または最後で暗示的・明示的知識というのは非常にcontroversialなトピックである,ということが明示的に書いてあり,その整理をある程度の紙幅を割いて試みた上で(この役割が第2章だったのかもしれませんが)の各章の内容であれば,私のこの本に対する評価は変わっていたと思います。

論点2: 用語・定義がカオス

知識,処理,意識

論点1と関連しますが,まずもってこの本は各章でそれぞれの著者がそれぞれの概念的定義で暗示的・明示的知識という用語を使っています。また,類似する概念である宣言的知識(declarative knowledge),手続き的知識(procedural knowledge)であったり,「手続き化」(procedualization),「自動化」(automatization)といった用語も含めて,それが何を指すのかも章ごとにばらつきがあります。また,「意図的」(intentional)という用語が「意識的」(conscious)という用語と同じような意味で使われているのではと思う箇所(pp.52-53あたり)もありました(意識という用語関連の整理については福田(2018)がわかりやすいです)。

例えば,第4章では語彙の知識という観点から暗示的・明示的知識についての議論がされています。p.58に 「手続き的知識の習得を促す…」とありますが,ここまでの流れで読むと「手続き的知識=暗示的知識」と読めると思います。つまり,暗示的知識=手続き的知識であり,この2つはinterchangableであるという使い方になってると解釈できると思います。しかしながら,これは第2章2.3節の「明示的・暗示的知識と宣言的・手続き的知識の関係」の内容や第9章の「第二言語習得研究で言うところの暗示的・明示的知識の区分と,脳科学で言うところの手続き・宣言的記憶の説明に多少ずれがある」(p.137)という記述と矛盾することになるのではないかと思います。

こうした用語が意味するもののズレが生じてしまう大きな原因として,「知識」(つまり脳内に保存されている情報)と「処理」(保存されている情報へのアクセス)を分けて議論できていないことが大きな問題(これはSLA全体に言える問題)なのではないかという話も読書会でありました。そして,「処理の話」と「意識の話」を切り分けることも重要です。

SLAでは,暗示的知識というのは母語話者が言語使用に用いるものであるという理解があります。言語学者でなければ,ほとんどの人間は自分の持っている言語の知識について意識することもありませんし,その情報へのアクセスを意識的にすることもないわけです。そして,第二言語学習者と比較して圧倒的な速さで言語の処理ができます。このことから,暗示的知識の概念的定義に速いことと無意識であることが含まれるようになりました。この章(第4章)のpp.53-54の最後の段落の記述を見ると,「学習者はjunctionの意味的表象に素早くアクセスする能力を有しているとみなすことができるだろう」とあります。こういう部分に,速い=無意識,という前提があることが現れています。「処理の話と意識の話」が混ざってしまっているわけです。つまり,持っている知識に対して,そのことを意識しているかどうか(自分がその知識を有していることを自分が認識しているかどうか)と,その知識にどれくらいのスピードでアクセスできるのかどうかということを分けて議論できていないように感じました。Tamura et al. (2016)で主張したように,スピードが早い=無意識,スピードが遅い=意識という単純な関係ではありません。

小学生の暗示的知識?

話をまた「はじめに」に戻します。この本の最初のページはこのように書いてあります。

(前略)たとえば,多くの小学6年生は,英語の疑問文における倒置の規則を知らないのにもかかわらず,英会話で”What color do you like?”, “What would you like?”, “Do you like soccer?”と正しく発話することができる。(中略)また,明示的知識はないが暗示的知識があると考えられるため,小学生が正しく英語を使うことができるということになる。

はじめに iii

端的に言いましょう。小学生が疑問文生成に必要な倒置の規則の暗示的知識を持っているわけありません。これはただの模倣です。仮に知識として持っているとすれば,Do you like X?で「Xが好きですか」という意味をなすというくらいのものでしょう。

こういうのを読むと,言語を「使う」の意味も多義的でコミュニケーションを難しくしているなと思います。これと同じような意味で,第6章のp.83には 「小学校英語教育の第一義的な目標は英語表現を使えるようになること(強調は筆者)」とあります。もしも小学生が暗示的知識を持っていて英語が使えるのであれば,第2章の「『使える』文法知識」について考えなくてもいいんじゃないでしょうか,となります。だって小学生でもう暗示的知識あるのですから。たしかに,小学生の言語習得はその他の章の議論と噛み合いません。なぜなら,2章では前提として多くの学習者がたどるプロセスとして「知る」->「使える」のようになっているからです。そうであれば,そうしたケースと比較して小学生がどういった学習のプロセスをたどるのか,どういった文法知識を持っているのかは議論すべきポイントです。

そしてp.84を読むわけですが,そこに書かれている内容は首をかしげるものでした。そもそもこの著者の言っている「文法知識」なるものは他の著者の言っている文法知識と指しているものが異なるように感じました。例えば,What X do you like?のX部分を様々に入れ替えて質問ができる,質問の内容を理解して答えることができる,といったとき,この小学生はいったいどのような文法の知識を持っているということになるのでしょうか。Wh句が前置されて疑問文が生成されるという知識?do挿入の知識?Xの要素を引き連れてwhを前に移動させるという知識?そうではなく,似た構造のインプットをたくさんうけることによって,構造的な類似性をヒントに構文を構築していくというような用法基盤モデルのような考え方を採用しているのであれば,そういった説明が必要でしょう。

論点3: 言語・テストが良くない

これは特に第5, 第6章の内容に関連するものですが,知識測定の道具として使用される刺激文の質が悪く,これでは測定したい知識が測れているかどうかも怪しいと思いました。

読書会で挙げられたことを1つ出せば,81ページにある刺激文の一覧をみると,

  • 正文: I have a cat.
  • 誤文: *I like animal.

となっていて,この項目で測定したいのは「名詞の単数形・複数形」となっています。正しくはI like animals.と複数形形態素がついていないといけないということでしょう。問題は2つあります。まず,このときの複数形形態素が欠如していることというのは,*I have two car.のような誤りとは訳が違います。なぜなら,後者の文であれば,「名詞が表すモノが複数なら-sをつける」という知識があれば対応できるでしょうが,I like animalに-sをつけるというのは,「種類を表す場合は裸の名詞の複数形(bare plurals)である」という知識が求められるからです。これは,単に複数=-sの知識とは言えません(名詞周りの知識ではあるのでそれも含めて複数形の知識という点で誤りではないですが,それでも対になってるとは言い難いと思います)。catは具体物を表しますが,animalは動物というカテゴリの名詞ですから,そういう意味でもこの2つは対になっているとは言えません。

2つ目の問題は,「名詞の単数形」が正文であり,「名詞の複数形」が誤文になっていることです。本来であれば,名詞の単数形について正文と誤文をつくり,名詞の複数形について正文と誤文をつくるべきでしょう。この章では文法性判断課題の正文への反応は「暗示的知識」を測っていて,誤文への反応は「明示的知識」という立場をとっています。そうなると,「単数形の知識」は暗示的知識しか測っていないし,「複数形の知識」は明示的知識しか測っていないことになります。

第6章でもこうした問題が散見されます。例えば,pp.88-89では動詞フレーズの獲得状況についての調査をした浦田他(2014)という研究が紹介されています。p.89の表1をみると,*I can play piano.という英文があります。これ以外の誤文はすべてcanの後ろに動詞がない(*I can soccer),動詞とcanの語順が異なる(I play can kendama.)など,canと動詞に焦点が当てられているものの,play pianoは「playの後ろに楽器が来る場合はtheがくる」という知識です。それって全然違うことなのでは?というのが読書会でも話題になりました。元論文を読むとTomaselloが引用されていたりして,用法基盤モデルの考え方を採用しているのだなと思いながら読めば,can VPみたいなものを見ているのかなとか思ったりもしました(それでもこの章の説明だけでは違和感を覚える人は少なくないはず)。4.2節の物井他(2015)も,正答率の低かった問題について「最初に,問題2については,rhinocerosesという児童に聞き慣れない語がふくまれていたことが原因である」と書いていて,文法性判断課題で未知語が含まれていたらその影響が出るのは当然で,そうなると語順の知識は測定できないのではと思います。元論文を読むと,以下のような記述があります。

rhinoceroses(サイ)という児童に馴染みのない単語を挿入しており,未知の単語と遭遇した場合に,その意味を推測しながら文の正誤を判断できるかを確認する意図があった。(p.88)

物井尚子・矢部やよい・折原俊一(2015)『外国語活動を経験した児童の語順に関する理解度調査 ―SVOに焦点をあてて―』千葉大学教育学部紀要, 63, 85-94.

ちなみに,このことが書いてあるのは結果部分の88ページであり,テスト作成部分には,未知語が入っているという説明は出てこず,次のように書いてあるのみです。

使用する単語についてであるが,Sは1・2人称に限定しI,youのみ, Vは外国語活動で使用頻度が高いと考えられるhave, eat,play,likeの4動詞,Oに用いる名詞はapples, baseball,lunch,pen,soccer,tennisに上位語のcolor,sportの8語,句動詞としてgo to school,get upの2種, 時間を表す前置詞を含む表現としてat six,at eightを用いた。(p.87)

物井尚子・矢部やよい・折原俊一(2015)『外国語活動を経験した児童の語順に関する理解度調査 ―SVOに焦点をあてて―』千葉大学教育学部紀要, 63, 85-94.

私の感覚からすると,テスト作成の段階の記述と言ってることが違うというのはありえないです。これはまあ本の批判ではないんですが。

第5, 第6章で紹介されている研究すべてに当てはまる指摘ですが,テストに使われる刺激文だけではなく,そもそも問題数が少なすぎるという問題もあります。小中学生に大量の項目のテストを行うことの実行可能性などを考慮すれば,問題数を増やすことが難しい事情は理解できます。しかしながら,文法性判断課題とはテストである以上,なにかを測定するためには測ろうとする文法のターゲットについて1つや2つの項目だけでは学習者が安定して判定を行えているのかどうかを判断することはかなり難しいといえます。ましてや二択の問題であるからなおさらです。「文法知識」というからには,1つの事例にだけ適用ができるものではなく,複数の事例に適用可能な規則であるはずです。そういうものを測ろうとするのであれば,1つや2つの項目に正しい回答をしただけでは,単に「それとほとんど同じ文を聞いたこと(見たこと)があった」という記憶だけでも正答にたどり着く可能性も十分にあります。また,5, 6章で出てくる「正答率」とは,1人の学習者の正答率ではなく,参加者全体の中で正答した学習者の割合であることも注意が必要でしょう。つまり,ここでは学習者個人ではなく,集団の問題となっているということです。

このことは,結果の解釈とも関わります。第5章の結果の考察については,そもそも二択の問題で5割を切っている部分の「伸び」になにか有益なものがあるようにはあまり思えません。さらに言えば学習者個人ではなく集団の話であるわけで,正答できる学習者の人数が増えた事をもって,学習が進んだというように解釈するのは少し違和感があります。

第6章でも同様に,

全体の正答率は5年生が44.5%,6年生は51.6%で,6年生のほうが高く,この差は統計的に有意であった。つまり,物井らの研究と同様,5年生よりも6年生のほうが全体として暗示的知識をより多く持っていることが明らかになった」(p.95)

とあります。ところが,p.89では,

GJTの分析では,正答率をチャンスレベル(当て推量で解答した際に期待される確率)と比較する場合が多い。GJTは提示された文が文法的かどうかを判断する二者択一のテストであるため,チャンスレベルは50%,(中略)したがって,GJTはでは正答率が50%よりも高いかどうかが重要である

という旨の記述があるのです。こういうことを書いておきながら,50%を下回っている正答率や50%をわずかに上回る程度の正答率に対して,「知識がある」という判定を下している。これはあきらかに矛盾していないでしょうか。全体の結果から「GJTで語順の正答率が5年生でも高い(特に正文)ことから,5年生でも語順に関する暗示的知識は身についている児童は多いことがわかる」(p.96)という結論も同意できません。カッコ内の「特に正文」という部分が絶妙に不誠実だと思いました。なぜなら,p.95の表2を見れば,非文とされている(10)過去形, (2)be動詞, (4)語順, (6)can, (8)want toの5項目の5年生の正答率をみると,語順の正答率はたったの32.1%しかないからです。これは他の非文の正答率25.6%~48.8%と比較しても高くない上に,50%を大幅に下回っています。そして正答率が「高い」と解釈されている正文反応の方を見ても,2択で答えられる問題(しかもたったの1回の反応)で,66.1%の学習者が正解したことをもって,暗示的知識は身についている児童は多いと結論づけるのはあまりにもナイーブすぎないでしょうか。言語の暗示的知識をもつ母語話者は正文を正文と判断することも,非文を非文だと判断することも暗示的知識を使ってやっていると思います。よって,本文に明示的に書かれてはいませんが,もし仮にGutiérrez (2013)をもってきて,非文への反応は暗示的知識なので,明示的知識は持っていないが暗示的知識はあると考える,というように言われてもちょっと納得がいきません。

場外戦: そもそも明示・暗示は厳密には教育には役に立たない

終章の3節「教育的な示唆」には,明示的・暗示的知識の測定が教育・指導上役に立つとして以下の3点が挙げられています。

  1. 暗示的知識は学習者が気づかない(意識できない)知識であるが,この暗示的知識の習得こそが学習上のゴールであると考える教員や研究者が多いため,暗示的知識が測定可能になったことは重要
  2. 明示的・暗示的知識の測定方法が確立してきた事によって,教育場面でも応用可能
  3. 明示的・暗示的知識の習得プロセスにおける諸要因の役割がわかりつつあるため,教師がフォーカスすべきところが明確になってきた。

まず1について。そもそも,今のSLAで仮定される暗示的知識というものが実際に人間の頭の中に実在すると仮定して,心理学的な考え方でそれを測定することができるという意味でいうと,「測定可能」になっていると言い切れるほどではないと思います。まだまだ不確実なことが多い状況で,あまり確定的な記述をすることは逆に教育現場に誤った理解を広めたり,そのことが教育現場に余計な軋轢を生んでしまうかもしれない可能性を危惧しています。

暗示的知識の習得プロセスを学習者に示す事ができるということの例として第8章が言及されていますが,この章で紹介されている単語学習は,まず単語を見せて訳語を思い出してもらい,その上で正解を見て到達度を「良い」「もう少し」「だめ」「全然だめ」という4段階で評定するものです。単語を学習せよという指示はしていないから意図的学習ではなく,「潜在記憶レベルの語彙学習」と書いてありますが,この学習で単語を覚えようとしないわけがないと思います。意図的学習と偶発的学習を比較して,ここでフィーチャーされている学習が後者の学習だと論じられていますが(p.128),本来の偶発的学習(意味理解を目的とした言語処理時に未知語の知識を獲得するような学習)とは明らかに異なります。また,この評定値があがっていくことが語彙の暗示的知識であるとすれば,それは4章で議論されたようなアクセスのスピードの速さを暗示的知識とする理論的枠組みともずれます。

こういうズレは,教育場面でのテストや測定と,研究としてのテストや測定に求められる厳密さが異なるということを意味していると思います。このことは,2番目の論点にも関わります。

2の教育場面での応用については,時間制限付きの文法性判断課題を用いたりelicited imitation(誤りの含まれた英文を復唱させ,復唱の際に誤りを直すかどうかで知識の有無を判定するテスト)をすることだと書かれています。ところが,その前の節(p.151)では,これまでのSLA研究で用いられてきた課題は問題点も指摘されているという記述もあります。そういうのを読んだあとで,「測定方法が確立してきた」(p.152)と言われると,え?本当に「確立」しているのでしょうか?と読者は疑問に思わないでしょうか。私は思いました。さらに,終章第2節でもたびたび,暗示的知識の測定具は実際の言語使用とは大きく異なるものであるという問題点も指摘されています。この点については私も「明示・暗示の測定と指導法効果研究」という記事の中で指摘しました。であるならば,そうした実際の使用場面からかけ離れたテストをしてまで暗示的知識を測定する必要が教育現場にあるのかどうかということは問いたいです。そのことが,英語の授業や指導においてどういったメリットを持つかを考えずに持ち込もうとすることは,私はSLA研究者は避けるべきだと思います。私個人としては,明示的知識と暗示的知識という概念は純粋な認知科学としての第二言語習得研究でのみ追究されるべきであり,指導現場への導入は少なくとも今の段階ではメリットがないと思っています。第二言語習得研究では,母語話者と第二言語学習者の差が生まれる要因を解明することが研究の大きな目的ですから,厳密な暗示的知識の測定具を開発することは必要なことです。詳しくは過去記事をお読みください。

3については,明示・暗示という知識の二元論を導入するまでもなく,言語学習というのは非常に時間のかかるプロセスです。そのことは知識の二元論という余剰な概念を持ち出すことで初めて可能になることではありません。であれば,シンプルに「言語学習とは時間のかかるものである」といえばいいだけではないでしょうか。

科学的というような装いで,その内実が非常に曖昧なものに教育場面での有用性があるように断定的に研究者が言ってしまうことのリスクは研究者が考えるべきでしょう。「先週やったよね?」と教員が学習者に言わなくなったとしても,教員同士で「あなたの期末テストって暗示的知識を測定するものじゃありませんよね?」「これは明示的知識しか反映されていない問題ではないでしょうか」みたいなカオスが生まれてしまわないことを願うばかりです。

おわりに

この記事では,『外国語学習での暗示的・明示的知識の役割とは何か』という本の内容について,いくつかの観点から批判的に検討しました。私の記事の内容についても,批判的な検討をよろしくお願いいたします。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。


2021.09.22.03:24 更新

読解上やや不自然な部分や読みづらい部分などについて,軽微な文言の加筆修正等を行いました。最初に公開したものと内容的な変更はありません。

ライティングの採点の不備と一緒に学習者の心ぶった斬ってませんか

民間試験導入の問題がわーっとなったとき(あるいはその少し前),ちょくちょくTwitterで,

こんなのでこの点数!!

みたいな投稿についた画像で学習者のライティングプロダクトとその点数の写真を見かけることがありました。私のタイムラインは英語教育関係者が多いですし,民間試験導入の問題についても声を上げている人がたくさんいらっしゃって,関連したツイートが比較的頻繁に流れてくるので目についただけかもしれません。おそらく,一般的なレベルでいえば認知度が高まったのはほんの最近のことで,下記のことを考えたのはおそらく私くらいだと思います。「なーに言ってんだばかか」と思われてもいいです。

私は上記のようなツイートを見るたびに,「試験の採点がおかしい」とか,「こんな試験を入試に導入なんてありえない」とか,そういうことの問題提起は理解していても,やっぱり学習者の実際のライティングをもってそういう主張をすることには賛同できないという気持ちになりました。本人が(「こんなんでいいの?」というようなノリで)画像をあげていることもあるかもしれないので難しいですが,試験の不備と一緒に学習者の心までぶった斬ってはいないでしょうか。その本人だけではなく,似たような質のライティングをした学習者がそうやってオトナが叩きまくっているのを見て(叩いているのは試験そのものだとしても)どう感じるだろうというのは私の考えすぎでしょうか。

水をさすつもりはまったくありません。標準化された試験としてやっていて採点基準どうなってるのという批判はそのとおりだと思います。ただ,元のツイートにぶら下がっていたコメントなんかがとくにですが,「正確さ」に対して過剰に反応しすぎではないですかね,誤りに対しての不寛容さみたいなのも一緒にそこに投影されていませんかね,と思わずにはいられないのです。

たしかに,たしかに,お世辞にもうまく書けているとは言えないようなものだったりもします。文法的なエラーやつづりのエラーも含まれています。なんとかかんとか文意を汲み取ろうとこちらが最大限の努力をして,意味解釈はできるかな,というレベルのものです(私が見たものは)。それでも,問いが与えられて,その問いに答えるために自分の持っているリソースを最大限に活用して,英語を書いたということと,その学習者が現時点でそのレベルの発達段階であるということは何も悪くないと思うのです。

あまり具体的なことを言うとどの画像見たかとかになってしまうので詳しく言及することは避けますが,評価できるポイントだって見つけようと思えば見つけられるように私には思いました(一つの観点でいえば流暢さとしての語数)。課題が何を求めているのかや,何を測定しようとしているのかにもよりますが,同様のライティングプロダクトに対して私はこれまでにゼロをつけたことはないなと思いましたし,意味のわからない単語の羅列ではなく英語の文を表出しようとしたことを評価したいなと思いました。何度も言いますが,そういう性格のテストではないとか,誰も書かれたものそのものへの批判はしていないとか,そういうのはすべて,「そうだろう」と思っています。そのうえであえてこういうことを書いているのです。

杞憂であってほしいと思っていますし,実際に杞憂なのだと思います。それでも,それでもやっぱり,「ああやっぱりこれじゃ全然だめなんだ」と思う学習者がいたら,それは英語教育にとって良いこととは言えないと思います。「あれでいい」と言っているのではありません。もっと良い英文が書ければそれに越したことはありません。私はただ,英語を使ったときに少しでも誤りだったり誰かから見て不自然と感じられるようであったらすごい勢いで寄ってたかってあーだこーだ言う,そういうのが本当に嫌いなのです。そして,ライティングの採点基準についての批判を真摯にする人の周りに,意図せず人の誤りを笑うそういう人たちが集まっているのではないかと思ってしまったのです。

なにをゆう。

たむらゆう。

 

「知っている」事の影響を排除するための2つのアプローチ

思いついたことを書き留めておくだけのメモ記事です。粗いところもあるかもしれませんがご容赦ください。

「狭義の」(文法の)第二言語習得研究が目指していることは,母語話者が持っているのと同じ知識を第二言語学習者も身につけることができるのか,できるとすればそれはなぜか,できないとすればそれはなぜか,というのが分野の抽象的で大きな問いであるというのがざっくりとした私の理解です。

で,この問いに迫ろうとしたときに問題となるのが,いかにして「知っている」ことの影響を排除するのかなという点です。母語話者は基本的には言語の規則を意識的には知らない(説明はできない)という状態で,でもある法則に従って規則的な振る舞いをするわけですよね。その規則的な振る舞いを言語理論で説明しようというわけです。そういうことを見ようとすると,学習者が意識的に知っていること(言葉で規則を説明できること)を対象にしていては意味がないじゃん,ということになります。知っているだろうよ,というような現象を対象としている限り,「知っている」からできるという可能性を排除することができません。よって,習っているはずもないのに母語話者と同じような振る舞いを見せる現象があるよ,とか,あるいはそれが第一言語によって同じような振る舞いを見せたり見せなかったりするよ,というような方向性で研究をデザインしていくことになります。そして,それを生成文法の理論から予測していこうとすると。生成ベースの第二言語習得研究をやっている人たちの基本的な考え方はそういうことなのかなというのが私の個人的な印象です(もちろんそうじゃない人もいるとは思いますけれど)。

一方で,SLAの初期からずっとSLA研究者が関心を持ち続けてきたことは,「知っている(=規則は説明できる)のにも関わらず,産出などをさせると間違いが頻繁に起こってしまう」という第二言語学習者に典型的な現象についてどのような説明を与えるのか,ということです。この関心を説明するために生まれたのが,明示的・暗示的という2つの知識源を仮定する考え方でしょう。つまり,知っている=明示的知識はあるけれども,産出などの課題で主に使用されると考えられている暗示的知識が不十分であるために,誤りが生じてしまうというようなロジックです。この考え方でいくと,そもそもの出発点が「知っているのにできない文法項目」(典型的なのが三単現の-s)の振る舞いについての説明を与えることになります。よって,知っていることの影響を排除しようとしたときに,「習っていないであろう項目を対象とする」という理論ベースの考え方は採用されえません。そこでどうなるかというと,測定の方法としてできるだけ「知っている知識」が作動しないような課題を用いるというアプローチを取ることになります。文法性判断課題に時間制限をつけたり,elicited imitationを使ったり,その後の反応時間パラダイム(自己ペース読み課題やword monitoring課題)や視線計測,そして脳系の測定具を使うというように,測定具によって「知っている」ことの影響を排除しようとしてきた,というのがもう一つのアプローチとしてあるのかなと考えています。

私も最初の関心は後者のアプローチにあり,どうすれば明示的知識の干渉を抑えた知識の測定ができるのか,という点にありました。ところが,それでは拉致があかない部分もあります。明示的・暗示的知識系の研究の重大な欠陥だと思っている部分で,それは,「意識的かどうか」についてを直接的に測定してこなかった(できなかった)という点です。反応時間や視線計測というパラダイムを用いたとしても,何らかの反応の違いが観察されたときに,それが「おやっ?」という意識にのぼるレベルの知識を使ったから反応時間や注視時間が長くなったのか,はたまた自分では全く気づいてもいなかったけれどもそうなってしまったのか,については測定していませんでした。よって,暗黙の了解として「反応時間や注視時間の条件間差は無意識なものである」だとか,「因子分析したら文法性判断や誤り訂正課題とは違う因子にローディングするからと自己ペース読み課題や視線計測で測られているものは暗示的知識であるのだ,みたいな想定をしてきたんですよね。それってなんかちょっとそこを当然のことのように受け入れちゃってもいいのかしら。という疑問が生まれてくるわけです。そういうこともあって,私が博士後期課程時代に扱ってきた文法現象は(もちろんこれは草薙さんの影響を大いに受けているのですが),どちらかというと前者の「知っているはずもないような文法」を対象にしているものが多くなっていきました。今必死にディスカッションを書いているthere構文の数の一致 (当時はこれも明示・暗示に当てはめようとしてたんですが今は違う方向性で書こうとしてます)だったり,tough構文の研究  なんかはまさにそういうことだったと言えます。conceptual numberの研究(これは言語習得よりは文処理ですが)も,「そんなことは習っているはずもないけどなんかガーデンパス回避しちゃう」というような話でもあります。

別にどちらがいいとか悪いとかいうわけではないのですが,同じように第二言語の文法習得を対象にしている研究で,「知っていることの影響をできるだけ排除したい」という目的は共有していたとしても,そのときに知っているはずもない現象を対象とするのか,はたまた当然知っているだろうというような現象を扱って測定具の工夫によって知っているという知識の干渉を極力抑えるというアプローチに行くのか,そういう違いが出てくるのは結構興味深いことなんじゃないかなぁということを考えたのでした。

もちろん,これはただの思いつきなので,そもそもの前提が間違っているとか,2つのアプローチは別に同じ方向を向いているわけではないとか色々あるかもしれませんが,こういう整理の仕方ってどうですか?というような投げかけ的な記事でした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

文法知識の手続き化の謎(Sato and Kimのレビュー)

下記論文を読んでちょっとしたレビューというか考えたことを書き留めておこうと思います。

Sato, M., & McDonough, K. (2019). Practice is important but how about its quality? Contextualized practice in the classroom. Studies in Second Language Acquisition. Advance Online Publication. doi:10.1017/S0272263119000159

ざっくりとした内容は,WH疑問文の習得について,教室内で教師とのやりとりという形での”practice”を5週に渡って繰り返していくと,当該項目の手続き化が起こるかどうかという話です。従属変数は正確さと流暢さという2つの側面。それから,練習セッション前の段階での宣言的知識が,練習での伸びとか練習後の正確さを予測するかというのも研究課題です。

宣言的記憶,手続き的記憶,手続き化

本当は,この辺の用語の説明省こうと思っていましたが,やはり自分の理解と論文でどういう捉え方しているかを照らし合わせたほうがいいと思ったのでこの節では用語の理解の確認をします(そもそもそんなものが必要な概念ってなんなのってなりますけど)。論文に書かれている内容自体に興味があるという方は読み飛ばしてください。

宣言的記憶(declarative memory)は,規則に対する(または規則そのものの)知識であると言われています。キーボードのタイピングの例(嫌いな人は嫌いな例ですけど)でいえば,キーの位置の規則といえばいいでしょうか。または,どのキーをどの指で押下するかという知識と言ってもいいかもしれません。タイピングに慣れないうちは,意識しながらキーの位置を確認して押下しますし,スピードもゆっくりですよね。それが,タイピングの練習を重ねるに連れて,だんだんキーの位置がわかってきて,指の使い方も慣れてくるので押し間違いが減ってスピードがあがると思います。これをスキル習得理論から捉えれば,宣言的記憶から手続き的記憶(procedural memory)に頼った行動に徐々に変化しているということになります。これが手続き化と呼ばれるものです。そして,その状態でさらに練習を続けていけば,キーの位置を確認しなくても「体が覚えている」状態になると思います。いわゆる「ブラインドタッチ」みたいなものができるようになるわけですよね。これが自動化(automatization)です。

手続き化というのはこの論文では,なんらかの行動の正確さとスピードが向上することとであると解釈していいと思います。冒頭のイントロでそのような説明がされているので。同じ行動を何度も繰り返す(練習を重ねる)ことによって,ある行動の正確さとスピードが向上するということです。スキル習得理論(Skill Acquisition Theory)はここでいう正確さとスピードの向上というのが,頭の中のシステム自体の変容だと捉えます。つまり,宣言的記憶(declarative memory)に頼った状態から徐々に手続き的記憶(procedural memory)に移行する,これを手続き化(proceduralization)と呼びます。

宣言的知識はあったのか

さて,論文の内容に入っていきます。私がこの論文で一番もやっとしたところは,宣言的知識・手続き的知識というスキル習得理論を理論的枠組として援用ているにもかかわらず,宣言的知識とは何を指すか,そして手続き化とはどのようなプロセスかといったようなことを無視して無理やり結果を解釈しようとしている点です。

まず,知識の手続き化には宣言的知識を持っていることが不可欠です。宣言的知識を持った状態で練習を重ねることにより手続き的知識を獲得し,それが自動化していくというのがこの理論のベースにあるからです。だとすれば,宣言的知識のテストで宣言的知識を学習者が持っていることを事前に確かめる必要があるでしょう(もちろん,実際にテストはやっています)。ここにばらつきがなければそもそも回帰分析もうまくいかないはずなので,ある程度ばらつきがある学習者を対象にするというのはわかります。そうは言っても,事前の宣言的知識テストのスコアの平均値は59%SD25.12です。正規性の逸脱はしていないという報告があるので正規分布だと仮定すると,半分以下しか正答できなかった学習者もいると考えられます(注1)。そして,平均値で59%も決して高いとは言えませんよね。そのようなテストスコアしかなかった学習者は,果たしてどうやって手続き化したのでしょうか。というか,そもそも手続き化できたと言っていいのでしょうか。Wh疑問文の生成にはwhの移動やsubject-auxiliary inversion, 一般動詞の場合はdo挿入もあります。これらが複雑に組み合わさる文法だからこそ,その中のどの部分の知識はあってどの部分の知識はないのかがわからないと,何の宣言的知識があったのかやその手続き化もブラックボックス化してしまうのではないかと思いました。

行われたcontextualized practiceについて

疑問文の産出をある程度コントロールしながら教室内で意味のあるやり取りを,というのはわかります。その中で最大限できることをやったのだということも。ただ,画像とともに疑問詞が一緒に提示されて,それをもとに疑問文の産出が行われたというのはちょっと引っかかります。あくまで”practice”だからと言われたら何も言い返せませんが,コンテクストを大事にするということをauthenticityを大事にするということだと理解して読み進めた私からすると,それが”contextualized”かあという感想になります。結局,疑問文の生成にかなり意識を集中させることが可能であるという状況での口頭産出練習活動ということですね。結果的には,そういった状況で練習を重ね,ある程度その効果があったとしても,最終的に正確性は65%程度にしかならなかったのだというのは結果を解釈する上で重要なポイントでしょう。

それから,宣言的知識の影響を調べる分析では5回のセッションのうちの2, 3, 4が合計されて1と5は省くという処置をしたということが書いてあったのですが,”so as to avoid the independence of observation for the inferencial statistics”(p.13)というロジックがよくわかりませんでした。隔週でタスクの内容が異なるので,これやるとそのバランスが崩れてしまうのではと思いました。まあそこに突っ込むとそもそも複数クラスでタスクの順番のカウンターバランスとか取っているわけでもないので,ここで言われている流暢さや正確さの発達が単純に時系列の変動だけによるものとは言えないでしょう。タスクのタイプやそこで扱われたテーマによる変動も含まれているはずです。

また,対照群の設定もありませんので,研究自体はケーススタディとして扱われるべきものかと思います。「教室環境だから仕方ない」だけでこのあたりの実験デザインの粗さにすべて目をつむっていいわけではないと個人的には思いますので,今後別のデータでも同様の研究が重ねられていくといいのかなと思います。

事前の宣言的知識の手続き化への影響

結果で,練習前に行った宣言的知識のテストスコアは正確さや流暢さの発達を予測しなかったということが言われています。つまり、事前の宣言的知識を測る文法テストのスコアが高ければ高いほど正確さや流暢さが伸びやすい、あるいはスコアが低ければ低いほど伸びないという現象やその逆で高ければ伸びにくい、低ければ伸びやすいというような関係性がみられなかったということになります。このことを、著者らは次のように解釈しています。少し長いですが引用します。

Interestingly, the scores of the declarative knowledge test, administered prior to engaging in contextualized practice, did not predict the extent of the practice effect on accuracy or fluency changes. This result indicates that having declarative knowledge of a grammatical structure may not be related to the development of the procedural system of that structure when practice is considered as the cause of the changes. Accordingly, it could be said that contextualized practice alone facilitates a positive change in accuracy, on the one hand. On the other hand, the result seems to challenge skill acquisition theory in that learners may not need an explicit understanding of a grammatical structure to benefit from contextualized practice. However, in the current study, all learners possessed some declarative knowledge of the target structure. Hence, it is premature to argue that practice alone is sufficient to develop procedural memory of a grammatical structure. What the results suggest is, instead, that the amount of declarative knowledge was not related to the extent to which each learner benefited from practice (p.21).

事前の文法テストスコアとの相関がなかったことは、知識がなくても練習すれば良いということは意味しないという主張です。その根拠として、参加者の知識がゼロではなかったからと言っています。つまり、なんらかの知識は持った状態で練習をすることの意味はあるということです。ただし、どのくらい知識を持っているかは関係ないとも言っています。しかしながら,これは矛盾していると思います。これをサポートするには、知識の閾値みたいなものを想定する必要があるでしょう。つまり,知識がないとダメであり、かつ知識の量が関係ないとすれば、ある一定程度の知識が必要で、その先のレベルの知識は関係ないという想定になるはずです。そうるすと,その閾値とはどこなのか,その閾値が意味することはなにか,が重要になってきます。これを突き詰めると,前述した宣言的知識のテストスコアの解釈や,それが何を測っているのかという問題に再びぶつかるわけです。

まとめ

まとめると,Sato and Kim (2019)はタイトルがちょっと煽りすぎでは?と思います。確かに,practiceといっても機械的な口頭産出練習じゃだめだ,もっと文脈依存でコミュニカティブなインタラクションの中での練習でなくては,という主張自体はわかりますし,そのことを文法知識の手続き化という理論的な枠組みを当てはめて研究に落とし込んだのは面白いと思いました。ただ,宣言的な文法知識とはいったい何なのか,そして文法的知識が手続き化するとはどういうことなのか,という部分が分野として確立されたものが提示しづらいところが原因で疑問が色々浮かぶ研究かなというのが個人的な感想です。こういうところに失望して教室SLA研究を「研究」としてやることに対しての意欲を自分は失ったんだなぁと再確認することとなりました。論文を読んでからずっと放置していて公開までに3ヶ月かかってしまいましたが,とりあえず,私がこの論文を読んだ感想はそんなところです。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

 

注1: Rのrnorm関数を使い,n = 34, m = 59, sd = 25.1として乱数を発生させ,その中で50を下回る人数を数えるというのを10,000回繰り返すと,中央値は12人,最小値は3人,最大値は20人でした。

理論に暗示的知識が内包されたときのジレンマ

以前,教育効果を測定する目的で明示的知識と暗示的知識を測定し分けることの是非についてのエントリーを書きました。

https://tam07pb915.wordpress.com/2016/08/25/implicit-explicit-instruction/

そのときの結論は,「教育効果を測定するのに明示・暗示の話は持ち込まなくていいだろう」というものでした。ただ,理論のスコープが暗示的知識を含むととき,そうも簡単にいかない問題がそこにはあるなと最近(といっても書こうと思ってずっと書けてなかったので少し前)思ったので,その話を書きます。きっかけは以下の論文。

Zhang, X., & Lantolf, J. P. (2015). Natural or Artificial: Is the Route of L2 Development Teachable? Language Learning, 65, 152–180. doi:10.1111/lang.12094

ここで取り上げる理論とはいわゆる処理可能性理論(Processability Theory)です。これが理論足りうるかどうかはとりあえず置いてきます。処理可能性理論とは何かということは上記の論文を読んでいただくか,あるいは同じ号に提唱者のPienemannが書いた論文が載っていますのでそちらをお読み下さい。ざっくりいうと,学習者の言語発達は心理的・認知的な処理能力によって規定されていて,ある段階を飛び越えて次の段階に進んだりはしないという理論です。この理論と同じく紹介されるのが教授可能性仮説(Teachability Hypothesis)というものです(注1)。これは,教育的指導介入によって発達段階をスキップすることができず,学習者が今いる段階よりも上のレベル(正確には2レベル以上高いレベル)の言語規則を教授してもそれは習得されることはというものです。Zhang and Lantolf (2015)の論文は,この教授可能性仮説にそぐわないデータが得られたことを報告するというような趣旨の論文です。

こうした言語の発達段階や発達順序に関する研究が主たる関心としているものは,学習者の暗示的知識の発達であると考えられています。つまり,意識的な知識として知っているかどうか,明示的知識を持っているかどうか,ということではなく,暗示的な知識の発達に段階を規定するものです。例えばRod Ellisなんかは,暗示的知識の発達には発達段階による制約があるため,明示的な文法指導介入はそうした発達段階の制約を受けないと考えられる明示的知識の獲得を主たる目的とすべきであるという立場です。明示的知識は間接的に暗示的知識の習得を促す(weak-interface)というのが彼の立場なわけですから,この主張もうなずけます。

問題は,この「発達段階を教育的介入によってスキップできるかどうか」を問題にする場合,暗示的知識の測定が不可欠になってくるわけです。なぜなら,発達段階があるのは暗示的知識であって,明示的知識ではないと考えられているからです。実際,Zhang and Lantolf (2015)でも,guest editorのRod Ellisから「この研究の結果は明示的知識の発達を示しているだけで暗示的知識の発達であるとはいえないんじゃないか?」みたいなツッコミがあったそうです(p.174)。筆者たちの反論は,Pienemannたちが使っているような測定具と発達段階の決定規準(emergence criteria)を使っているのだから,もしこの研究がその点で批判されるのだとしたらそれは処理可能性理論や教授可能性仮説についても当てはまるじゃないかというような反論をしています。

で,一応Pienemann自身は同特集号の論文の中で,まず教授可能性仮説は処理可能性理論に含まれる必須の要素というわけではなく,理論というよりは実践の話で,いくつか研究でサポートされたからまぁプラクティカルにそうなんじゃねーのかみたいにしているだけで処理可能性理論はもっと緻密に作られた理論であるというようなことを言っています。つまり,教授可能性仮説は捨てても処理可能性理論は守られるっていう話なんですね。なんか強がりっぽいこと言ってますけど。でも多分なんですけど,SLA研究者のほとんどは処理可能性理論と教授可能性仮説に関連性あると思っているしむしろ理論の一部か派生かくらいには思ってるんじゃないですかね(実際僕もそう思ってました)?「みんな俺の理論を誤解している」ってそういうことなんでしょうか?百歩譲ってそうだったとしても,測定具の話は処理可能性理論にも及ぶわけなので,そこはちゃんと反論しなくてはいけませんよね。

測定具の話に関してPienemannは,elicited imitationとspontaneous productionを同一視してはいけない。elicited imitationはダメだがspontaneous proudctionは違うんだみたいなことを言っています。これって反論したようで実は全然反論できていなくて,前回も書きましたが,行動データで暗示的知識測定しようとしたらもう「産出データじゃ無理なんじゃね?」っていうのがここ最近の流れです。spontaneous productionってのが「elicited imitationとは違うものを測っている」というのならば,それが測っているものが暗示的知識かどうかも検証されないといけないですよね。でも,実際何が暗示的知識を測っているのかっていう問題の闇は深くて,そんな簡単なことではありません。

処理可能性理論のことを血眼になって研究している人ってこの問題どう考えているんですかね?もちろん,この問題は処理可能性理論についてだけではなくて,「言語発達の制約を受けるのは暗示的知識」という主張をするすべての研究者に当てはまります。この問題ってどうやったら論理的に,あるいは実証的に回避できるのか,有効なアイデアは考えてもパッと思いつきません。熟達度がそれほど高くなく,spontaneous productionで暗示的知識と弁別できないような明示的知識を使えないような学習者ならspontaneous productionでは暗示的知識を測定できるとかでしょうか?実際問題として処理可能性理論が対象にするような学習者は超高熟達度の学習者ではないわけですし。でもあまり有効な反論とはいえないですね。結局はパフォーマンス上に明示的知識の介入がないことを示さないといけないわけですから。うーむ。みなさんどう思います?

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注1. Pienemannは同じ特集号の論文で,” …theTeachability Hypothesis is not a corollary of PT.” (p. 138)と言っていて,教授可能性仮説はPTの一部ではないようなことを言っています。

PacSLRF2016発表資料

金曜日から,中央大学多摩キャンパスで行われているThe Pacific Second Language Research Forum2016に参加しています。大会最終日(9月11日日曜日)午前の口頭発表枠の最初のスロットで口頭発表があります。私がD1の時に出ていた授業のレポートでレビューした論文を批判的に検討して追試を行ったものです。追行研究として良いかどうかはわかりませんが…

その後,D2でデータを取ったのですが,そのまま寝かせたままになっていて,昨年度の冬にまた同じ先生の授業でその取ったデータを分析して発表しました。それをもとにPacSLRF2016に出してみたらどうかと勧められ,応募したら口頭発表通ったので発表する事になったというわけです。詳しくは明日使用予定の下のスライドを見ていただければと思います。

データの解釈が結構難しくて,当初予測していたよりももっと複雑な現象なのかなと思いますが,「知識の習得」を文処理で議論する際にそんなに荒削りで大きいこと言って大丈夫ですか?というのがまぁ言いたいこと(タイトル)です。

ちなみに,午後はShintani Natsuko先生がオーガナイザーのコロキアムで,第二著者としてもう1つ発表があります。そちらは静岡県立大学の福田純也先生との共同で,タスクの繰り返しに焦点を当てた小規模のケーススタディです。

そして月曜日には明治学院大学でVocab@Tokyoという別の学会で口頭発表があります…ということであと数日は踏ん張り所ということで,頑張りたいと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

明示・暗示の測定と指導法効果研究

結論からいうと,もはや指導法効果研究やそのメタ分析系の研究で測定具が明示的知識を測っているのか,あるいは,暗示的知識を測っているのかという話はしないほうが建設的ではないかという話。

Norris and Ortega (2000)やSpada and Tomita (2010)のメタ分析は,明示的指導・暗示的指導という2種類の文法指導の効果を検証したものです。そこでは,指導の効果と知識表象の関連性について議論されています。それで,「実務的な観点」とかいうと草薙さんみたいでアレなんですが,指導の効果測定として厳密な暗示的知識の測定具を用いることにどれほど妥当性があるかという問題です。狭義のSLA研究では,「暗示的知識の習得こそが言語習得」という見方なわけで,明示的知識の介入を許さない暗示的知識の測定具の開発や妥当性検証は必須です。しかしそれは,”ultimate attainment”の研究であり,母語話者と第二言語学習者の境界線を探ったり,あるいは第二言語学習者がどこまで母語話者のような言語知識を獲得することができるのかを目的としています。Suzuki and DeKeyser (2015)やVafaee et al. (2016)などの研究にも代表されるように,Ellis (2005)の因子分析による妥当性検証から10年が経っても未だに「真の暗示的知識測定具とはなにか」の問題はSLA研究の中心的課題の1つです。私が問題としたいのは,指導の効果検証にそこまで厳密な暗示的知識の測定具は必要なのかということです。Ellis (2005)が指摘しているように,実際のパフォーマンス上では明示的知識と暗示的知識の両方をフル活用して学習者は言語を使用しているのであり,Task-based Language Teaching (TBLT)的な観点での「学習者ができること」を重要視する考え方から言っても,ピュアに暗示的知識だけを測定しそれをもって指導の効果とすることにあまり意味があるようには思えません。だからといってすべては明示的知識を授けることが大事だとかPPPだとか自動化だとか言うつもりはありません。

話が一度それますが,明示的知識と暗示的知識の関係性(interface)について,練習によって明示的知識が暗示的知識に変容することをstrong interfaceの立場とし,この立場をとる代表的な研究者としてRobert DeKeyserが引用されることがよくあります。私もそう思っていたのですが,最近のDeKeyserはもはやこの立場でもなくなっています。DeKeyser (2015)では,宣言的知識が手続き的知識に変わる(turning into)という言い方は誤解されやすく,実際は宣言的知識を保有している状態で練習を重ねることにより,手続き的知識を獲得することが可能になると述べています(DeKeyser, 2015, p.103)。また,手続き的知識を獲得する段階は”procedualization”(手続き化)と呼ばれ,この段階ではまだ自動化(automatization)はされていません。手続き的知識を獲得するにはほんの数回のcontrolledな練習を重ねるだけでよく,そこから自動化させるためにはさらなる練習が必要であるとDeKeyserは述べています(DeKeyser, 2015, p.95)。つまり,宣言的知識は手続き化されて手続き的知識になり,その手続き的知識が自動化することで無意識的で流暢な技術を身につけることが可能になるというわけです。さらに,自動化は,自動化したかしていないかの0/1ではなく,連続的なものでもあります。DeKeyserの主張するSkill Acquisition Theoryを研究の基盤とする場合には,90年代のDeKeyserを引用するのではなく,このDeKeyser (2015)を引用するべきでしょう。もう一点,注意が必要なのは,DeKeyserのいう練習とは,いわゆる「パターンプラクティス」のようなものではないという点です。DeKeyser (2015)が,Skill Acquisition Theoryを援用した実証研究の例として,タスクの繰り返しの効果を扱ったDe Jong and Perfetti (2011)を引用していることからも,自動化に必要なのはcontrolledな練習ではないことがわかります。

話を明示・暗示と指導の効果に戻します。明示的知識の干渉を受けず暗示的知識のみを測定できる測定具を用いることをつきつめると,その手法自体は実際の言語パフォーマンスからはかけ離れたものになります。自己ペース読みや,ワードモニタリングタスクなど,上述のSuzuki and DeKeyser (2015)やVafaee et al. (2016)で暗示的知識の測定具として妥当だと言われているものは,もはや私たちが言語を使用する場面としては特殊すぎるでしょう。ただし,そこまでしないと明示的知識の干渉は防げません。なぜなら,特に高熟達度の学習者ほど明示的知識が介入していてもパフォーマンス上では暗示的知識のみの言語使用と区別がつかないからです。Ultimate attainment研究はそここそが研究の対象であり,一見母語話者と相違ないパフォーマンスを見せる学習者にも母語話者との差が見られる領域についてを研究しています。だからこそ,母語話者と学習者を弁別するための道具として暗示的知識の測定具が必要なのです。一方で,多くが教室環境で行われるような指導を受けた学習者が,どれほど指導によって言語能力を向上させたかをみるには,母語話者と超高熟達度の学習者を弁別するために必要な測定具が適切だとは思えません。測っている領域がまったく違うからです。暗示的知識の測定具の精度を指導法効果研究に求めれば,ほとんどの場合「知識があるとはいえない」という結果が得られることでしょう。また,自己ペース読み(視線計測でもいいです)やワードモニタリングタスクなどは,従属変数として反応時間を用い,主に正文条件と非文条件での反応時間の差が「統計的に有意であるかどうか」によって,知識の有無をカテゴリカルに判断しようというものです。この「知識の有無を0/1で判断できる」という観点が自己ペース読みの強みであるとJiang (2004)は主張しています。したがって,カテゴリカル変数よりも連続変数のほうが適切であるような,学習者の発達自体に興味がある指導法効果研究では,明示的知識が干渉していてもライティングやナラティブなスピーキングタスクで良いのではないでしょうか。もちろん,多肢選択問題や穴埋め課題,書き換え問題などでいいとは思いません。これらの測定具も,言語使用場面としては,自己ペース読みなどとは正反対の方向に特殊すぎるからです。

結果として,指導法の効果を比較した研究で明示的知識と暗示的知識の話を持ち込んで,その結果として「それは暗示的知識測れてない」とかいう批判を受けるような議論が展開されてしまうことになるわけです。それじゃあということで指導法の効果を自己ペース読みで測ったとします。そうなると今度はもともとの指導法の効果という観点からどんどん遠くなっていってしまうわけです。私自身の結論は,もう暗示的知識とか言わずにdiscrete-point testとperformance testで効果検証しました。ってことでいいのでは?ということです。

というようなことをPPPいいよ論文からSpada and Tomita (2010)を読み返して思ったのでした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

引用文献

De Jong, N., & Perfetti, C. a. (2011). Fluency training in the ESL classroom: An experimental study of fluency development and proceduralization. Language Learning, 61, 533–568. doi:10.1111/j.1467-9922.2010.00620.x

DeKeyser, R. (2015). Skill acquisition theory. In VanPatten, B., & Williams, J. (Eds). Theories in second language acquisition: An introduction (2nd ed). New York, NY:Routledge.[Kindle Edition]

Ellis, R. (2005). Measuring implicit and explicit knowledge of a second language: A psychometric study. Studies in Second Language Acquisition, 27, 141–172. doi:10.1017/S0272263105050096

Jiang, N. (2004). Morphological insensitivity in second language processing. Applied Psycholinguistics, 25, 603–634. doi:10.1017/S0142716404001298

Norris, J. M., & Ortega, L. (2000). Effectiveness of L2 Instruction: A research synthesis and quantitative meta-analysis. Language Learning, 50, 417–528. doi:10.1111/0023-8333.00136

Spada, N., & Tomita, Y. (2010). Interactions Between Type of Instruction and Type of Language Feature: A Meta-Analysis. Language Learning, 60, 263–308. doi:10.1111/j.1467-9922.2010.00562.x

Suzuki, Y., & DeKeyser, R. (2015). Comparing Elicited Imitation and Word Monitoring as Measures of Implicit Knowledge. Language Learning, 65, 860–895. doi:10.1111/lang.12138

Vafaee, P., Suzuki, Y., & Kachisnke, I. (2016). Validating grammaticality judgment tests: Evidence from two new psycholinguistic measures. Advance Online Publication. Studies in Second Language Acquisition. 1–37. doi:10.1017/S0272263115000455

3単現の-(e)sは口をついて出るくらいまで練習

馬鹿じゃないのと思った。

今,とある原稿の執筆にあたって(〆切に間に合いそうになくてやばい),中学や高校の教科書のCAN-DOリスト,評価基準,年間指導計画なんかを見ている。そこで,とある教科書の(あえて名前は出さない)年間指導計画の,指導例というカラムに次のような記述があった。

3単現の-(e)sは理屈で覚えるよりも口をついて出るくらいまで文を言い,書く練習をする

まさに,「お前は何を言っているんだ」の気分である。そんな無駄なことをさせるくらいだったらもっといくらでもやること,やれることがあるだろう。これを書いた人は,自分が3単現の-sをまったく落とさない自信があるというのだろうか。3単現の-sは,超高熟達度の学習者でも習得が困難であると言われる文法項目の典型的な代表である。そして,文法的に主語をidentifyする機能はあるが,これがなくても文の理解に支障をきたすことはほとんどないと言っていい。なぜなら,英語は語順がわかれば主語が(ほとんどの場合)わかるからである。また,有生性も動作主-被動作主の関係を表すのに重要な手がかりとなる。3単現の-sが脱落していることが,意味理解を阻害することはほとんどない。過剰使用されている場合もそうだ(実は過剰使用の方が気づきやすいらしい)。

この「文を言い,書く練習をする」というのが,単なるパターンプラクティスのような物を意味していないのだとすれば,それに意味がないとは言わない。しかし,そうであったとしても,そのような活動は3単現の-sの習得を目指して行われるべきものではないだろう。誤解を恐れずに言えば,3単現の-sの習得など目指さなくても良い。それこそ,理屈を知っていて,ライティングの時などにモニタリングして直せれば良い程度のものではないか(それでも見逃すことだって私にはあるが)。3単現の-sが落ちていることにそんなに目くじら立てる必要はどこにあるのだろうかと思う。しかも,あろうことかそのどうでもいい形態素を習ったばかりの中学校1年生に対して,そんな無駄な苦行を強いるなんて言語道断である。もし本当に三単現の-sの習得を目指したいのであれば,それ以外のところにほとんど注意を向けなくとも書いたり話したりできるような訓練をした方がよっぽど良い。そういうことに時間を割いたほうが,全体としての英語力も上がるだろうし,結果的に3単現を落とすことも少なくはなるだろう(それでも母語話者レベルにはならないと思うが)。

私は英語の第二言語話者としてそれなりに機能できる自信があるし,相手の言っていることを理解したり,自分の気持ちや考えを伝えたりすることだってそれなりにはできると思っている(ただし,英語力に自信があるわけではない。語彙とかたぶん5000語くらいしかない)。英語を中学1年から勉強し始め,北米に2年間留学した私でさえ(むしろその程度だからこそ?),3単現はたまに落とす。英語教師として,正確無比な言語使用ができないことはプロとして恥じるべきだとは思うし,実際に毎週英語で授業をしながら「ヤベッ」と思うことがある。それはプロだからである。英語を教えることでお金をもらっているからである。プロを目指してもいない,英語学習を始めたばかりの中学生に(高校生や大学生だってそうだ),「口をついて出てくるまで」きっと無意味な文を言わせるなんて,そんな指導観を持っている人には絶対に教わりたくない。もちろん,そこまでして,情熱的に,なんとかして,英語を身につけさせてやりたいという熱意は素晴らしいと思う。しかしながら,圧倒的にベクトルが間違っている。その情熱はもっと別のところに注ぐべきだ。

余談だが,実はかくいう私も3単現の-sを減点したことがないかと言えば嘘になる。先日のテストのライティング問題である。語数,内容,文法・スペリングという3観点の評価方式を私はよく採用している。昨年度までは,このような形式を取る問題は1問だけで,ほかは文法の間違いは一切評価しない問題も出していた。今年は,そういう問題を出題できる環境でもないので,3観点方式のライティング問題だけを出した。そこで,私の担当しているクラスのうちの1つで,とびっきり出来の良い学生が,3単現の-sを落としたというだけで,99点を取った。私も採点しながら,本当に心苦しい気持ちになってしまった。途中まで採点していて,「これは満点だなぁ」と思っていた矢先,最後の最後のライティング問題で彼の「誤り」を見つけた時,この採点方式を取ったことを本当に後悔した。テストの他の大問も完璧で,ライティング自体もトピックに沿ってよく書けていた。そこにきて,3単現の-sがたった一箇所落ちていただけで,私は彼が満点を取ることを阻止してしまったのだ。そして,翌週テストを返却したとき,答案をみてその学生が言い放った一言を私は一生忘れることがないだろう。

「くだらねえ」

私はなにも言えなかった。そして,自分で問題を作っておきながら,私自身も「くだらねぇ」と思ってしまったのだ。大いに反省した。そして,今度の期末試験では,文法面に関しては「意味理解を阻害するかどうか」という観点で,おおまかにレベルを4段階設定し(Foster & Wigglesworth, 2016を参考にした),意味理解を阻害しない程度の誤りが少数見られる場合は,その観点では満点とすることにした。もちろん,このレベル分けや,誤りのレベルの頻度というやり方も完璧とは言えない。まず,「なにを持って意味理解を阻害しない」と考えるのかは非常に難しい問題である(もちろんいくつの誤りがあれば「少数」とするかも問題である)。意外なことに,第二言語習得研究の知見からこの観点に関して言えることはほとんどないと言っていい。「誤りの重み付け」に焦点をあてた前述のFosterらの研究が「新しい評価法考えたったー!!」と言ってAnnual Review of Applied Linguisticsの最新号に掲載されているくらいだから,本当に研究されてこなかったのだろう。博論が終わったらこういう問題に取り組みたいとは思っているが,誰か「面白そうだな」と思う方がいらっしゃったらどんどんやっていただきたい。というかむしろ誰かやってくださいという感じだ。

かなり脱線したが,3単現の-sは本当に厄介者である。というかむしろ,「数の一致 (number agreement)」という事象自体が実はかなりの厄介者なのである。結論を言うと,文法習得を専門に研究している私から言わせてもらえば

3単現の-sをなめんなよ

である。そして,文法の正確さばかりに目くじらを立てる英語教師(含む過去の自分)は全員引退した方がみんな幸せになると思う。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。