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JABAET Journal No.19

届きました。

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査読委員(って言わないか)の中に知っている先生方が何人も載っていて驚きました。そして,豪華。この号から外部査読制度を取り入れたとのことで,それが大きいのでしょう。

私の修士論文の研究も載っています。

Tamura, Y. (2015). Reinvestigating consciousness-raising grammar task and noticing. JABAET Journal, 19, 19–47.[abstract]

査読のコメントはとても有益なものが多く,非常に勉強になりました。学会員しか投稿の権限はありませんが,良いジャーナルだと思います(宣伝)。ウェブ上での情報が少なく,いろんな人に認知されにくいというのはありますが,これからそのあたりも今後充実していくことを望みます。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

 

基礎研第3回年次例会発表資料

明日,2月27日に名古屋学院大学で開催される,外国語教育メディア学会中部支部外国語教育基礎研究部会第3回年次例会で発表する際に使用する投影資料をSlideShareにアップロードしました。

※slideshare上でうまくサムネイルが表示されないようですが,全画面表示にする,あるいはファイルをDLしてご覧いただく等で問題が解決すると思われます。ファイル自体は問題ないので。今までとスライドの元のデザイン同じなのになぜこの問題が発生するのかわからず若干不機嫌ではあります。

 

 

なお,当日は,結果の部分の図表や引用文献の一覧を印刷した資料を配布する予定です。内容はスライドと重複しますが,紙版の資料も閲覧・ダウンロード可能にしていますので,以下リンクよりどうぞ。

https://drive.google.com/file/d/0BzA9X1kZX185Nk5ONDJ5eUlOLVk/view?usp=sharing

ちなみに,これまで特に指定のない場合に配布資料を配ることはなかった私が配布資料を配るのはこのブログ記事の影響ではありませんw

単純に,結果の図表くらいは配ったほうが良いかもしれないというのは何回か発表を重ねるうちに思ったというのが大きいです。

ある人に,「なめたアブストラクト書きやがったな」と言われてヒィィって感じですが,どうか当日はよろしくお願いいたします。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

2016.03.28追記

slideshareでうまく表示されないようなので,speaker deckにスライドをアップしました。

「選ぶ力」とタスク

なぜ学校へ行くのか」という本を読んだ。途中までずっと積読状態になっていたのだけれど,ふと最近また本を読んでないなと思って再開した。第3章あたりから,人間の本質的な能力であり,人間らしさの根源である選択能力,選ぶ力,という話が出てくる。人間は生まれてからずっと様々な選択を繰り返していく生き物であり,選択することができるというのが人間であることであるというような事が述べられている。しかしながら,学校ではこの選ぶ力を育てることができていないのが現状ではないかというのが著者の主張である。

この主張を自分の興味関心や研究に引きつけて考えたときに,タスクのことが思い浮かんだ。別にタスクである必要はないのだけれど,新しい言語項目を教える->練習する->使う,というような手順の指導のことを考えたのだ。いわゆるPPP(Presentation-Pracice-Production)というやつ。そう,この指導過程の中には,学習者が何かを「選ぶ」という過程が全く無いではないかと考えたのだ。いや,まったくないとも言い切れないかもしれない。例えば,いわゆるfill-in-the-blank exerciseのような課題を練習セクションで行ったとすると,そのカッコに何が入るのかを「選ぶ」という作業は確かに発生するからだ。ただし,実際に言語を使う際に,あるカッコに何が入るかを「選ぶ」という作業の必要性が発生する場面があるだろうか。昨年中部地区英語教育学会にて発表した中学校教科書分のタスク性分析研究(たぶんそろそろ投稿する)のときにも散々主張したことであるのだが,「何を言うのか」を考えて,それを「どのような言語形式で表現するのか」という過程を体験することは,中学校教科書に掲載されているコミュニケーション活動を行っただけではほとんどできないと言っていい。

しかしながら,この過程を体験する事こそがまさに「選ぶ力」につながるのではないだろうか。「どのような言語形式で表現するのか」を「選ぶ」というのが,産出の際には非常に重要になってくる。そこを考える,何を選択すべきなのかに思いを巡らせることがほとんどないということの背景には様々なものがあろうだろう。著者は,テストの点数で能力を測定しそれによって序列化することを問題点として挙げ,その影響で,とにかく問題の答えを知りたがる子どもができあがっている,問題から答えに至るまでの過程をすっ飛ばして答えを暗記することを暗に助長してしまっていると述べている。

英語の授業(テスト)を考えみると,正確さの重視というものが,問題の答えだけを知りたがるという状況を作り出してしまっているのかもしれない。とにかく誤りがあれば減点されるわけなので,誤りのない表現が欲しい。なので,「なぜその言語形式なのか」はすっ飛ばしても,この表現なら間違いがないというものを持っていれば安全なのだ。

タスクを遂行することを考えてみる。タスクは文法的な正確さで評価をされず,タスクが達成されたかどうかが評価の基準となる。「正しい」か否かで評価されることがなければ,とにかく自分の伝えようとしていることが相手に伝わるかどうかという点だけに学習者は集中する事ができる。そういう状況では,自分が伝えようとしていることをどのような言語形式で表現したらいいのかを考えて選択し,まず頭に思い浮かんだ表現で伝えてみるだろう。もしその表現で伝わらなかったという場合には,ではどのような別の表現を使えば相手に伝わるのだろうかとさらに考えて選択を行う必要が生じるはずだ。

いくら練習に練習を重ねても,「何を言うべきか」と「どう伝えるべきか」という2つの選択をする機会が保障されなければ,その日に習った表現をその日に使うことはもしかするとできるようになるかもしれないが,どのような表現を使うべきかの選択が迫られるコミュニケーション(実際に起こるコミュニケーションではこれが当たり前のはず)場面では何も言えずに終わってしまうだろう。

タスクの話をすると教えることを軽視しているというような批判をよく受けるが,教えるなとは言っていない。教えてもいいから,教えたことを使うということに終始せずに,とにかく「選択する力」を養うことができる機会をもっともっと増やしませんかと言っているだけなのである。学習者が選択できるほどの言語材料を持っていなければ選択すらできないというならば,なぜ中学校教科書では学年があがるにつれてコミュニケーション活動そもののの割合すら減っていってしまうのか(先述の研究の結果明らかになったこと)。学年があがるにつれて選択できる材料は増えていくはずなのだから,学年があがるにつれて選択の機会を増やしていくべきなのではないのか。高校に行ったらその機会ももっともっと増えていくはずなのではないのか。実際に行われている指導はそのようになっているだろうか。そう考えると,選ぶほどの材料がないから,というのは批判の理由にならない。教えないとできないと勝手に思っているから批判するのであって,さらにその「できる」も「(正確に文法的な誤りを犯すことなくかつ流暢に)できる」ことを意味しているからこそ選択させる前に教えたがるのだろう。

繰り返しになるが,先に教えることそれ自体が選択する機会を奪う可能性をはらんでいる。特に(学校的な意味で)真面目な学習者ほど,教わったことを使うことが求められていると思ってしまいがちな気もするからである(ただの推測)。

何が言いたいのかよくわからなくなってしまったが,とにかく,英語の授業の中で,「どうやって言うか」という言語形式を「選ぶ」機会がどれだけあるか,ちょっと振り返ってみませんかね?ということ。実はこの記事は約2週間前に書いていたものなのだが,ここ最近anfieldroad先生(もしかして徳島以来お会いしてないかも…)がブログ記事で書いていらっしゃる「お皿」と「お肉」の喩えともリンクするところがあるように思う。anf先生は,「何を言うか」はとりあえず与えてしまってもいいから,「どうやって言うか」にあたる「お皿」選びをできるようにさせたいというお話。タスクはこの辺は結構融通がきいて,シンプルな情報交換タスク(e.g., 間違い探し)なら伝えるべき情報はそこにあるという状態だが,意思決定タスク(e.g., 無人島タスク)になれば,まず「無人島に何を持っていくか」を考える必要があるし,「なぜそれを持っていくのか」を考える必要も出てくる。さらにはタスク中にはグループのメンバーの話を聞き,「どうやって説得して自分の意見を主張するか」も考える必要がある。事前のプランニングタイムを与えるにせよ,お皿に盛り付ける料理とそれを盛るお皿(もしかしたらお椀や丼ぶりかもしれないが)を両方考える必要が出てくるというわけだ。

冒頭で紹介した本はもっともっと教育の根本的な問題についての話であり,「選ぶ力」というものが意味するところももっと幅も広いし奥も深い。しかしながら,英語の授業に限定して考えた場合,「適切に」「正確に」言語を使用するために何かを選ぶ作業は結局著者の批判するテストの答えを覚えることに等しいのではないかと思う。そうではなくて,伝えようとすることを伝えるために何かを選ぼうとし,そこで,迷い,悩む,という経験自体は,著者のいう「選ぶ力」に通じるものがあると私は思っている。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

 

たかが現在進行形されど現在進行形

英語の話。

現在進行形(present progressive)という英語の文法項目があります。時制と相でいうと後者の相で現在進行のことです。形式的には動詞に-ingという屈折形態素を付与したもので,be動詞とともに用いられます。「〜しているところ」という訳語をあてられて覚えている人が多いのではないかと思います。今日は,その意味をめぐってちょっとした問題になってしまった件。

さて,次のようなシチュエーションを想像してください。

あなたは彼女(彼氏)とディナーの待ち合わせをしていました。自分の用事が終わったら連絡するということにしてありました。用事が済んで連絡をすると,すでに自分のいる街まで来ているとのこと。駅に向かっていると連絡すると,次のようなメッセージが届きました。

“I’m finishing a tea right now.”

さて,みなさんなら,この文をどのように解釈するでしょうか。まさに,現在進行形というやつですよね。つまり,その動作が持続していてまだ終わっていない状態のことです。と言っておいてなんですが,これはbe + V-ingの用法の1つでしかありません。これは,どのような動詞を現在進行形として用いるかということとの関連でもありますが,近未来を表す(まだ起こっていないけど今から起こることについて言及する)こともありますし,ある動作が連続的に発生することを表す場合もあります。そんなことも色々踏まえつつ,”I’m finishing a tea right now.”をどう解釈するのか,ということになります。まずは動詞を見ていきます。finishというのは,完結性を表す動詞ですよね。つまり,finishというのは終着点があること,そこにたどり着いたことが含意される動詞です。arriveなんかと同じ仲間として捉えてよいでしょう。

ウィズダム英和辞典より

ウィズダム英和辞典より

辞書で見てみると,語義の1bに「<飲食物>を食べ[飲み]終わる」とあり,例文で”Let me finish my tea”とありますね。というわけで,ここのfinishは「飲み終わる」という意味になりそうです(なんだか回りくどいことをしているようですがお付き合いください)。

そうそう,本題は現在進行形でした。ここで問題に戻ってみましょう。”I’m finishing a tea right now.”の解釈についてでした。さて,「飲み終わる」の現在進行形ということで,「飲み終わっているところ」なんてやってみるとよくわかりませんよね。では,具体的には次のうちどのような状況だと思いますか?

(a) 今ちょうどお茶を頼んで飲み始めたところ

(b)今お茶を飲んで今半分くらい飲み終わったところ

(c)もう少しでお茶を飲み終わりそうなところ

(d)たった今お茶を飲み終わるというところ

 

僕の解釈は(c)でした。finish a tea「お茶を飲み終わる」という動作の最中,つまり,もう「お茶を飲み終わるところ」という意味だと思いました。

つまり,”I’m finishing a tea right now.”は,「今お茶を飲み終わるところだからもうちょっと待ってね」という感じだと思ったわけです。そこで,ほんじゃあちょいと待つかと思って,夜ご飯どこで食べようかと食べログ見てました。するとなんだか様子が変。「え,そこで待ってるの?」とか言ってきます。「いまお店探してる」と返事して,駅からすぐの場所にお店を見つけました。3連休初日の土曜日で駅は大分賑わっています。予約無しでお店に入れるかもわからないので,ちょっと先に行って様子を見てみることにしました。すると,「今どこ?」と連絡が来て,そのお店の入っている建物の名前を教えると「なんでそこにいるの?」と。

こっちもせっかく急いで来たのに待たされていることで若干イライラしてきました。「なんでってそこに行こうと思ってるお店があるからだよ」というと,「わかった今向かっている」と。なんだか雲行きが怪しくなってきました。そこに追い打ちをかけるように,「なんで迎えに来なかったの?」と。

____
/   ―  \
/ ノ  ( ●)  \
| ( ●)  ⌒) |
|  (_ノ ̄  /
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\_   ⊂ヽ∩\
/    (_ \
|     \_ノ

(なんでって言われても”where are you?”って聞いても”I asked you first!”とか言われて場所も知らんしお茶もう飲み終わるって言ってたし…)

「いやいや場所聞いたけど言わなかったでしょ」

「いやあなたは聞いてない」

「聞いたから!メッセージ見返してよ!」

「いや聞いてない」

| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
|   what? |
|________|
∧∧ ||
( ゚д゚)||
/ づΦ

というわけでお店が座れそうなのを確認して待っていたら,彼女が現れました。明らかに不機嫌そう。

「普通に考えて場所聞いて迎えにくるのが当然でしょなんで来なかったのしかも何先に1人で行ってるのまじありえn(以下略」

「オッケーわかったこれは勘違いでだな,”finishing a tea”をもう飲み終わるところって意味だと思ったんだそれで時間かかりそうだから先にお店行って入れるか確認しようかと思っt」

「それなら普通”I’m about to finish”って言うからていうか少なくともお店に入れるか確認しに行くってことを伝えるべきでしょもういいわ店どこ」

「はい」

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

というわけで僕の解釈は大外れ。むしろ逆で,今お茶飲んでいるから迎えに来て欲しいっていう含意だったわけですね…「日本人は空気読むの得意なんじゃないの?」とか言われるしもう「アー!」って感じでした…

色々修行が足りないようです

 

なにをゆう たむらゆう

おしまい

 

※注:その後も色々ありましたが仲直りしました

JASELE2015熊本大会発表資料

こんにちは。明日から始まる全国英語教育学会(JASELE)熊本研究大会で,同じ名古屋大学大学院の後輩と,一応先輩の福田さんとの共同研究プロジェクトの発表があります。2日目(8月23日)の朝10:30から第5室(1141)です。anomaly detection(異常検知)の手法を用いずに,統語的に表される等位接続詞の複数(e.g., the boy and the girl)と,複数形態素によって表される複数(e.g., the teenagers)の処理が異なることを示した研究です。元にしているのは,以下の論文です。

Patson, N. D., & Ferreira, F. (2009). Conceptual plural information is used to guide early parsing decisions: Evidence from garden-path sentences with reciprocal verbs. Journal of Memory and Language, 60, 464–486. http://doi.org/10.1016/j.jml.2009.02.003

当日使用する投影資料はslideshareからアクセスできますので御覧ください。なお,当日印刷した資料を配布する予定はありません。ご了承ください。

なお,私が第二著者として参加しているライティング関係の共同研究プロジェクトの発表もあります。こちらは2日目(8月23日)の朝一番,9:30から第12室(1242)です。

川口勇作・田村祐・福田純也 「推敲時の筆記ランゲージングにおける学習者の注意配分とライティングの質の向上―フィードバックの有無に焦点をあてて―」第41回全国英語教育学会熊本研究大会. 熊本学園大学.

こちらの発表資料は,代表者の福田さんにご連絡いただければスライドをお送りします(たぶん)。

“Your English is fine.”

久しぶりになんでもないただの現実逃避の駄文。

先日久しぶりにプライベートで英語を話す機会があった。私はアメリカに2年いた割には自分の英語力に対する自己評価は低くて,まぁTOEICとか受けても800点くらいがいいところだろうと思ってる(ボキャ貧なのが致命的)。しかしながら,他者評価だと「英語マッチョ」にカテゴライズされることが多い。実際論文は基本的に英語で書くし,口頭発表も基本的には英語でやることにしている。でもそれはあたっている文献がだいたい英語なので,適切な日本語訳を探すプロセスが面倒だったり,あとで結局論文にするときに英語で口頭発表した方が楽だからとかそういう理由が大きい。英語で論文を書くのは単純に英語で書いたほうがsubmitできるジャーナルが圧倒的に多いから。国内誌でも英語のみしか受けつけないところもあるし(ARELEとか),日本語しか受けつけないってところは少ない。だったら落ちた後に別のところにsubmitするのも英語の方が楽かなと思う。

というのは前置き。そうそう,英語を話す機会があった話。1対1だったのでほとんどしゃべりっぱなしだったわけなのだけれど,それなりにそれなりなパフォーマンスをしたと自分では思っていた。たまに英語が出てこない(単語がわからない)ところもあったけれど。それで,「第二言語で話すのって難しいねなかなかうまく伝えられてないね」みたいなことを言ったら

“Your English is fine.”

って言われたのです。さて,みなさんなら,こう言われたとき,自分の英語がどのように評価されたのだと思いますか?fineということば,どう解釈しますか?(もちろんトーンとか表情とか言い方に多分に左右されるところはあるかと思いますけど)

私は,「まぁ悪くない」「わかるレベル」みたいな解釈をしたんですよね(ほとんど無意識的に)。でも,fineていう単語は基本的にはポジティブな意味を持っている言葉ですよね。

ウィズダム英和辞典より

ウィズダム英和辞典より

ただし,こんな注意書きもあります。

ウィズダム英和辞典より

ウィズダム英和辞典より

割りと幅広い意味があって勘違いされたりするかもしれないので,私は褒めるときにfineは個人的にあまり使いません。というか,叙述用法では使わないといった方がいいかもしれません。あとは,「べつにいいよー」くらいの意味でfine with meとか言うくらい。意図的に冷たく返すときや不機嫌なときに,あえてfineを使うような感じ。別に

“How are you?”

“I’m fine, thank you.”

みたいなやりとりはネイティブは使わないよ!とかそういうくだらないことを言ってるわけではなく,ですけど。うーんでもやっぱりfine performanceとかいうならgood performanceとかexcellent performanceとかいうかなぁ?みなさんはどうですか?

私はちょっとひねくれて,

“Alright. My English is FINE.”

と返したら,「いやいやそういうことじゃなくてほらあのその,ね,私がいつも教えてるのはもっとレベルの低い子たちで…」というようなことを言われました。フォローになってないよw

久しぶりに,あぁもっと英語がうまくなりたいなぁ,と思ったのと,英語難しいなぁ,と思ったのと。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

2015.07.27追記

映画 “Fifty Shades Of Grey”を見ていたら,fineの用例があったのでメモ。

  1. ルームメイトのケイトの代わりにインタビューにいったアナスタシア。帰宅して,ケイトに”What was he like?”と聞かれて,”He was fine.”と答えた。字幕は「いい人よ」。それを聞いたケイトは”Fine? Just fine?”「いい人?それだけ?」と聞き返す。

    この時のfineは明らかに褒めていそうで心がこもっていない感じ。

  2. 弟が骨折して母親が看病のために卒業式に出席できないと連絡。弟を置いて来てくれたらいいのにと頼むも断られ,「わかってちょうだい」と言われたアナスタシアは”yeah, it’s fine”と答えた。

これは不満はありつつも「わかったよ」という感じ。どちらもポジティブな意味ではなかった。fineの用例ってこういうのの方が多そうだけど実際どうなのだろう?(人任せ

JSLS2015@大分

今週末に大分の別府で開催される言語科学会の研究大会で共同研究のポスター発表があります。1年前から追いかけているthere構文における主語と動詞の一致についてです。今回のポスターには盛り込めませんでしたが,別で取ってるデータもあるのでそれもまとめて今年中にどこかに論文を投稿予定です。

昨年JABAETで発表したときの資料はこちら。

 

今回のポスターはこちら。

CELES2015和歌山大会発表資料

中部地区英語教育学会和歌山大会で,同じ名古屋大学大学院の後輩である西村くんと,共同研究の発表があります。語彙のネットワークモデルである階層改訂モデル(Kroll & Stewart, 1994)に基づき,文法の情報である複数素性がどのように処理されているかをL2英単語をみてからL1翻訳のマッチングを判断する課題と,L2英単語をみたあとに写真を見るという課題で検討したものです。資料のPDFはslideshareからアクセスできるようになっていますので御覧ください。なお,当日印刷した配布資料の用意はありませんのでご了承ください。

Schulz (2001)の感想

6/6に,名古屋大学にて第14回日英・英語教育学会(JABAET)研究会が開かれることになりました(詳しい内容はこちらから)。

そこで,論文批評というのがあり,私が文法指導のビリーフに関する次の論文の概要報告を担当することとなりました。

Schulz, R. A. (2001) Cultural differences in student and teacher perceptions concerning the role of grammar instruction and corrective feedback: US – Colombia. Modern Language Journal, 85, 244 – 258. doi: 10.1111/0026-7902.00107

私の概要報告のあと,JABAETの会長である安間一雄先生(獨協大学)より論文の批評があります。私に与えられたのは15分のみで,私のコメントは本番で話すことはなさそうなので,ここに論文を読んだ私の感想を書いておきます。

  • 質問紙調査というものを用いた調査としては極めて質が低いと言わざるを得ない。結果的に質問紙の1項目ずつのパーセンテージを恣意的に定めた10%という基準の差がみられたか否かの報告に終始していて,結局なにを測りたかったのが不明のまま。
  •  本来,質問紙によってある構成概念を測定することを試みる場合,それが適切に測定できているかの検証を行う必要がある。Schulz(1996)においてもそのような手順を経て質問紙の開発を行ったという記述が一切ない。また,文化的に異なる2群と,学習者・教師という2群が設定されているが,それぞれの質問紙が同じ構成概念を測定しているのかどうかも定かではない。したがってそのような質問紙を用いて得られた結果を比較することに本当に意味があるのかどうかも疑わしい。
  • 質問紙項目のワーディングにかんしても,”formal study of grammar”と”study of grammar”が指すものは同じなのか違うのか,あるいは”communicative ability”と聞いたときに回答者が思い浮かべるものは同じであるのかが疑問。
  • さらに,タイトルに有るのは”role of grammar instruction”であるのにもかかわらず,質問紙ではinstructionという言葉は使用されていない。教員側の質問では,なぜか”学習者がどう思っているかを教師がどう思うか”というような質問項目があり,これがなぜ”the role of instruction”に関する教師のビリーフを測定しているといえるのかも不明。学習者側からのlearningと,教師側からのteachingが完全に一致することはないとはいえ,教師側の設問文をみると教師の指導観に関する質問であったり学習者の教師観に関する質問であったり,一見してこれらが教師のビリーフを測定しているのかが疑問である。ただし,理論的な背景に基づいて教師の指導観という構成概念の下位尺度として,教員の指導観と学習者が教師や教師の行う指導に対してどのように感じていると思うか,という2つの構成概念を仮定するならば話は別であるが。
  •  誤りの訂正に関しても同様で,recastsのような暗示的訂正から,規則の説明までも含むようなかなり明示的訂正までかなり幅がある上に,スピーキングとライティングというモードの違いでも訂正の出し方,またその訂正のあと学習者になにを要求するかもかなり変わってくる。2001年時点でもCFでこのような区分がされていなかったということはないはず。
  •  「明示的指導」にも様々なバリエーションがあるのと同様に「誤り訂正」にもバリエーションは豊かである(むしろ前者のバリエーションはかなり無視されている感があるが)。これらの指導効果のメタ分析をするにあたっても,調整変数分析で細かく検討されるわけで,「明示的指導」や「誤り訂正」に対するビリーフといった構成概念を測定する場合にも,これらが捨象されてはかなりぼやけたものしかみることができないはずだ。
    こうした「粗さ」がすべてと言っても過言ではない。何度もいうが,結果的になにが明らかになったのかがわからない。この項目ではこっちの差があってこの項目では差がなかったとか言われても質問紙(とも呼べない代物だが)の1項目の1反応(の5段階をさらに3段階に圧縮している)の差(10%だったら差ありで9%だったらなしという恣意的基準に基づく)なんてもので何かを言おうとするな。私自身が「測ること」に対して厳しいところにいるからとかそういう問題ではなく,この質問紙に何も思わないって人がいたら結構ヤバイだろうと思う。
  • この研究の成果を結局どこに還元したいのかが不明瞭。実際に教室で言語を教える実践者に対して,学習者と教師自身のビリーフが異なっているようなことはないか,そこに気をつけるべきであるということなのかと思って読み進めると,最後には教員養成のおいての,というような話も出てくる。教師のビリーフがSLAの文献に基づいているかそれとも自身の学習経験に基づいているか,というアメリカとコロンビアの比較も,そもそも文化的差異というよりかは教員養成プログラムにおいてSLAや応用言語学,外国語教育研究の文献を読んだ経験があるかどうかが大きいはずである。研究の成果はほとんど英語で書かれているわけであるから,教えている言語は違えど,アメリカの教師(英語母語話者)がそのような文献にアクセスして読むことと,英語を外国語または第二言語として学習した教師が英語の文献を読むことを比べれば,明らかに前者の方がハードルが低いはずである。日本に限って言えば和書でSLAや外国語教育研究の概説書もそれなりに出版されているわけだが,英語教員の中で,教員養成の段階で(実際に教壇に立ってからでもいいが)どれほどの人が「研究の成果を参照しながら自分の指導を考える」というような経験をしてきたのだろうか。修士課程を出て教員になったり,または大学院に戻って勉強したという教員ならば,学術書や専門書を手にとることもあるだろうが。
  • 自身の経験に基づいて教えることがなぜダメで(ダメとははっきり言っていないがこういう対比されるとそう読めてしまうのは深読みし過ぎかもしれない),どうしてSLAを参照している方がよいのかという観点も述べられておらず,外国語環境で教える語学教師は自身のビリーフに依っていてアメリカではSLAちゃんと参照しているとか言われても(しかもそれが少人数のインタビューと自分の身の回りにおいての話だけに基づく主張),だからなんなのかとなるしそれが明らかになったところで分野がどうなるのかと思う。常に知識をアップデートし続けるべきなのだというのならばそれはうなずけるわけだが,SLAといっても玉石混交で細かい部分では「ジャスティス大会」がずっと続いており,「どの文献を参照すべきか」は研究者でも難しい問題なのではないだろうか(いわんや教師をば)。

とにかく表が多くて項目ごとにパーセンテージをひたすら比較するだけで読みづらく,何がわかったかもあやふやで,それがどう説明されるということもなく,悶々させられました。10年以上も前だからしょうがないよねって感じでもないしModern Language Journalは昔は今ほどレベル高くなかったというのはこういうことなんだなぁと思ったのでした(遠い目

おしまい。

なにをゆう たむらゆう

 

パフォーマンスとしての授業

昨日,「マイクロティーチング&マイクロリサーチ」という題目のワークショップで,授業者を担当させていただくという機会をいただいた。大雑把な主旨は,

その場で事前事後テストデザインの指導介入を行い,その介入効果を実際にデータ分析して示す

というのを90分でやるというもの。基礎研チームでテストの実施からトリートメント,理論的な背景の説明,分析結果の提示と解釈,考察までをやるというワークショップで,誰がミスってもうまくいかないというものだった。結果として,表面的には成功したように見せることができた。その意味での達成感と充実感はある。ただし,それは表面上の話。このワークショップの詳細は,別の機会にまとまった文章をしかるべきところで書かせていただくとして,自分がやった授業のことを少し振り返っておきたい。

私個人としては,授業は大失敗。そもそも,今まで何百回と授業をやってきて,成功した試しなど一度もないので,授業はそもそもうまくなどいかないものであると思っている。そうではあるにしても,到底納得のいく授業はできなかった。しかし,終わったあとにはお招きいただいた先生にお褒めいただき(お世辞かもしれないが),授業に参加していただいた学生さんからは授業がうまいと声をかけていただくこととなった。僕は失敗したと思ったのにもかかわらずである。まずは,その辺のことを考えてみたい。

私がマイクロティーチングでどのようなことをしたかというと,まず基本は”All English”での授業。日本語は一切使用しなかった。また,文法の明示的説明も一切なし。pre-taskとしてSpot the differenceをやったあと,絵を見せながら学生とインタラクションをしつつ目標構文の暗示的訂正フィードバックを行う。というのが授業の一連の流れ。とにかくハイテンションで,いわゆる「馬鹿」になるということに最初から最後まで徹した。

失敗した点は,次の1点に集約されると考えている。それは,学生に目標言語項目の産出をさせる,学生から目標言語項目を使用した発話を引き出す(elicitation)ということができなかったという点である。

この原因は2点ある。1点目は,学生の背景知識の推定と,教材の選択を誤ったという点である。私は,この間違い探しタスクは,場所を表す前置詞句や,there構文の産出を促すタスクとしてよく用いられていると考えていた。実際に,中学2年次でthere構文が導入される際,この間違い探しタスクを用いるという中学校教員の方は少なくないだろう。ましてや,授業参加者の学生の殆どは英語教育ゼミに所属している学生である。私は,このtask自体の持つ性質と,pre-testにおいてthere構文の項目が多く含まれるということから,task中にthere構文が多く産出されるだろうと予想していた。それを前提に,次の絵描写を含めたインタラクションを行う予定だった。しかしながら,実際にはそのようなことは起こらなかった。教材として選んだ間違い探し自体の問題である可能性もある。その絵がthere構文の産出を促すようなものではなかったということである。そのような教材選択も含めて,このpre-taskは失敗だった。「想定通りにthere構文の産出を引き出せなかった」という点においては。学習者同士が活発に英語でインタラクションをしていた点や,その後に,間違いを多く見つけられたペアに,教室後ろにあったリフレッシュメントのお菓子をポケットから出して渡すということで「ひと笑い」取ったことは教室の雰囲気を良くしたということはあったかもしれない。

原因の2点目は,絵描写とインタラクションにおいて,there構文を引き出すための義務的文脈を作り出せなかったという点である。私は,impressiveというソフトウェアのスポットライト機能を使い,部屋の写真を見せた。その後,停電したという設定で,その部屋にあるものをスポットライトで映しながらそのスポットライトに映るものを描写させるということをした。この設定が,果たしてthere構文の産出を引き出すために適切な設定であったのかどうかは考えなおさなくてはいけないと思っている。さらに重要な事は,インタラクションの際に,どのような質問で学習者の発話を引き出すかという点である。wh疑問文なのか,yes / no疑問文なのか。私は,はじめに,”What do you see?”という疑問文をとっさに使ってしまった。これでは,”I see”….という肯定文か,あるいは,単に”Two pens.”という名詞句しか引き出せない。では,どのような疑問文が適切だったのか。”What are there?”という疑問文が思い浮かぶ方もいるだろう。これなら,”There are….”と答える学習者もいるかもしれない。しかしこれであっても,spontaneousな反応が求められる場面では,”Two pens.”という名詞句だけでも意味的に伝わる上にコミュニケーションのbreakdownが発生しない。さらにいえば,違う場所に同じようなものがあった場合(床と机にCDが置いてある場合)でも,場所の前置詞句を加えるだけでもコミュニケーションができてしまう。日本人は,there構文を習うとやたらとthere構文を連発するというが,there構文が正しく使われる場面とはどのような場面なのか,この構造の機能はなんなのかということを熟考した上で展開を考えるべきであった。そしてそれこそが,授業を準備する際のポイントであると思う。

私はそもそも,この場面にインタラクションを絡めることの必要性というかインタラクションが必須であったかということも考えた。実際,私は絵を見せながらのナラティブでdemonstrationを数回見せるはずが,ほとんどすべてをナラティブで説明してしまいそうになった。そして慌ててインタラクションの必要性を思い出して学生に質問を投げかけたのである。それほどに,ナラティブでの語りでなにも問題が発生しない状況設定であったということである。結果として,私は学生から一度もthere構文の産出を引き出すことができず,終始there構文を私が発話するというinput enhancementに近い指導をせざるを得なかった。学生の発話を私が引き取って,there構文で言い換えて発話するという具合である。この点では,corrective feedbackといえなくもないが,そもそも名詞句のみの発話が間違いではない以上,correctiveであったかどうかは疑わしい。しかし面白いのは,そのfeedbackが学習者の頭のなかにある明示的知識に対してcorrectiveに機能したという点ではある。

そのような「失敗」を犯したにも関わらず,実際には介入効果が認められるという結果になった。それは,学生が「空気を読んでくれた」結果だと思っている。pre-postで結果が図られるということで,「どこに注意するべきか」というように学生が構えていた可能性がある。この点に関する考察もまた別の機会に。

最後にひとつだけ。今回私のことを「授業がうまい」だとか「英語がうまい」とか「すごい」とか思った学生さん(が万が一いるとすればだが)にこれだけは言っておく。私は普段あのような授業はしていない。私は現在専門学校で英語の授業を担当しているが,その授業において,”All English”で,ハイテンションで,「ピエロに徹する」,そんな授業はやったことがない。昨年度,臨時的任用教員として中学校に勤務していたときでさえ,そのような授業はやったことがない。

あれはあくまでワークショップという形式の中の,マイクロティーチングとしてのパフォーマンスの授業である。普段の授業とは全く別物なのだ。初めて会った人たちに,あのような形でやったから,それなりに「面白かった」かもしれないし「うまい」と思ったのかもしれない。しかし考えてほしいことは,本当に教員として授業をやる場合,出張授業などの特別な場合をのぞいては,1回きりの授業などはないということだ。中学校であれば週4時間も授業があるわけで,大学でも毎週1時間で半期15回はある。あの授業を週4回,あるいは半期15回受けたとき,1回目と同じような感想を15回目にも抱いているだろうかということをもう一度考えてみてほしい。たいていはあのような「ノリ」に任せた授業はウケても2度目くらいまでだろう。本当に授業がうまい教員は,言語材料の選択,タスクの選択,授業の組み立て,などなど様々な要素と,生徒・学生との信頼関係などを絶妙に組み合わせていい授業を作り上げる。もちろん,特に中学校であれば「ピエロ」的な要素はとても大事な授業スキルにはなってくるとは思う。ただし,それだけで良い授業は作れないということは肝に命じておくべきだと私は思っている。ワークショップにおいて,草薙さんが話していたこととも重なるが,授業も研究と同じで,あのワークショップで見えたものはほんの10%ほど。ここで少し述べたように準備段階の方がむしろ授業の成否を分けることは多い。今回は特に,そこで失敗したと言っても過言ではない。私の授業力が足りなかった。その一言に尽きる。

以上,長くなったが,昨日からずっともやもやしていたのでここに書いた。静岡では学生さんの卒論発表を聞き,なにか頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。忘れかけていた何かを思い出させてもらえたような気がしている。ありがとうございました。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。