
はじめに
大修館書店から発売されている,下記の書籍についての記事です。
まず一言でこの本の感想を言うと,多くの人にこの本は「そのまま」読まれるべきではないと感じました。したがって,忖度なしで書きます。
また,以下の記事では私が読んで考えたことに加え,私を含めた4名の研究者で行ったこの本の読書会で話題にあがったことも含めます。読書会で議論になったことは,その都度そのように言及しますので,そうでない限りは私の主張であると考えてもらって構いません。
ちなみに,私は過去にこの本で取り上げられている暗示的・明示的知識(英語ならimplicit/explicitだと思いますけど日本語だと明示的・暗示的という人のほうが多いような)についていくつか記事を書いています。
どれも院生時代の記事ですが,私のスタンスというか立場,見方はこれらの記事に現れていると思いますのでぜひお読みください。また,本記事の以下の内容は,自己批判を多く含んでいます。それは,私が初めて「論文」というものを発表した時期にやっていた研究(2014-2015あたり)は明示的知識や暗示的知識といったものを対象としていて,測定や構成概念に対する認識の点であまりにもナイーブすぎたと思っているからです。
初学者には非推奨
もしも,「暗示的・明示的知識ってなんだろう?」とか,帯に書いてあるような「規則を知っていても使えないのはなぜ?」という疑問を持っている人がこの本を読もうとしているのを見かけたら,私は止めたほうがいいとアドバイスすると思います。なぜなら,そういった疑問は解決されるどころか余計に頭の中がこんがらがってしまうからです(理由は後述)。
そういった意味で,この本は批判的に検討できる者のみが読むべきだと思います。初学者が読むと余計にわけわからなくなってしまって悩んでしまうか,または逆に誤った知識を身につけてしまう可能性すらあるかもしれません。よって,学部や大学院生レベル,または研究職に従事しない方が手に取るべき本だとはあまり思えません。
なにがこの本の価値を下げているか
この本に対して私が否定的な印象をいだく理由を端的に言えば,この本は「だからだめだよSLA」の典型例だと思うからです。帯に「第二言語習得研究×認知心理学×脳科学」というように,この本に書かれていることがいかにも「科学的である」ような装いがありますし,真理・真実が明らかになっているかのような書き方がされている部分もあります。しかしながら,実際には曖昧性を多分に含んでいて,その最たるものは明示的知識とはなにか,暗示的知識とはなにかについて執筆者全員の定義が一致しておらず,その測定方法も違うからです。このことについては後述します。
つい先日,
第二言語習得研究(者)はなぜ「誤解」されたか
という記事を書きましたが,この記事で批判したことのいくらかも当てはまっている本ではないかと思います。
さて,本題です。本の中で気になるポイントを一つ一つ指摘していくときりがないくらいたくさんありますが,以下ではいくつかの論点にしぼって書きます。
論点1: 全体を統一する視点に欠ける
この本が全体を通して非常に残念な仕上がりになってしまったと感じる最も大きな理由は,各章の独立した論考をまとめて統一感をもたせる構成になっていないことでしょう。「はじめに」と「終章」はありましたが,本の意義のアピールが多く,全体を俯瞰的にまとめきれていたようには感じませんでした。このことは,何もこの本に限ったことではないと思います。他の分野の本がどうかはよくわかりませんが,私がこれまでに自分の研究に関わる専門書をそれなりの数読んできた印象は,多くの執筆者が各章に独立した論考を書いているパターンの書籍は質があまり高くないことが多いというものです(特に洋書)。一冊の中で扱われるトピックに多様性をもたせようとした結果,一冊の本のまとまりを欠いてしまうというのはしばしば見かけます。この本もそういう系統だというのが私の印象で,それだけであればそういう本のうちのone of themだということでスルーしていたかもしれません。
ただし,この本のテーマは一つの「概念」(明示的・暗示的を別個にカウントすれば2つ)です。暗示的・明示的知識という目に見えない概念を扱っています。それがこの本の各章に通底するテーマであるわけです。だからこそ,編者はこの本で言う「暗示的・明示的知識」が指すものを冒頭で(操作的定義も含めて)定義するべきであり,その定義に沿って各章の執筆者に執筆を依頼するか,または原稿を受け取った時点で章の間の記述の齟齬を解消するような修正作業を行うべきだったと思います。この点は読書会に参加した全員が同じような印象でした。
そういう調整がなされていないのは,すべての章で著者が独自に概念的・操作的定義を述べていることからも明らかです。結果として,第3章では暗示的知識の測定具として適切ではないと言われていた文法性判断課題が第5章や第6章では暗示的知識の測定具だとして論じられています。
百歩譲って,それが不可能である,つまり,暗示的・明示的知識を定義することは不可能であるという態度でこの本を世に送り出すのであれば,そのことを正直に書くべきでした。私がもしもこの本の編者に入っていたらそうすると思います(終章の151ページに測定具の問題への言及はありますが,全部読み終わって最後にそれ言われると詐欺っぽいので本来であれば先に言及するべきで,その意味では終章を読んでから各章を読むほうが良いでしょう)。なぜなら,この記事を執筆している2021年現在でも,研究者間ですら,暗示的知識と明示的知識がどのような測定具を用いて測定されるものであるかについての合意には至っていないからです。例えば,以下の論文は第3章(第二言語環境で日本語の文法知識はどのように発達していくかー文法項目の特徴と学習者の個人差の影響)で提示されるような明示的・暗示的知識の測定方法の分類とは異なり,時間制限つきの文法性判断課題なども暗示的知識の測定具としています(よってどちらかというとRod Ellisの分類に近い)。
最新の研究ですらそういった状態なわけですから,そもそも明示的知識とはなんなのか,暗示的知識とはなんなのか,そしてそういった2種類の知識をどうやって測定仕分けるのか(より大きな問題は,そういう知識2つの実在を仮定して良いかどうか)ということについては科学的な真実があると言える状態でも,その確信度が高いと言えるような状態でもないというのが現状というのが,この文法知識の二元性というトピックを研究を初めたときから追いかけている(とはいっても研究のキャリアは修士をスタートとしてまだ10年ほどですが)私の現状認識です。
にもかかわらず,この本の「はじめに」では,次のような記述があります。
(前略)明示的知識と暗示的知識の区別はSLAの中心的課題であるが,同時に,問題もいくつか抱えている。たとえば,日本人の英語習得を扱った研究が少ないこと,研究対象が文法習得に限られていること,個人差や情意に関する研究がほとんどないこと,近接領域(たとえば,認知心理学や脳科学)の最新の手法を取り入れた研究が少ないこと,などである。本書の目的は,これらの問題点を網羅し,科学的証明を行うことにある。
はじめに iv
このパラグラフだけでツッコミどころはたくさんあって,なぜ日本人の英語習得を扱った研究が少ないとそれがSLAの問題となるのか,とか近接領域の最新の手法を取り入れていないとSLAの何がどう良くない状態になるのか,とか色々思うところはあります。また,たかだが本一冊で解決できる問題ではないだろうとも思いますが,それはおいておきます。それよりも私が驚いたのは,「科学的証明を行う」という記述です。「科学的証明」という言い方は私は人文科学の中では非常に強い主張だと思います。しかし残念ながら,「科学的証明」には失敗していると思います。全員が同じ概念なり現象なりを同じ方法で測定するというのは科学の最も基本的かつ重要な部分であると思いますが,それが成立していないからです。
一方で,1万歩くらい譲ってもう一度この本のタイトルを思い出してください。そうなんです。この本のタイトルは,『外国語学習での暗示的・明示的知識の役割とはなにか』であって,「暗示的・明示的知識とはなにか」ではありません。よって,この本は暗示的・明示的知識とはなんなのかの答えを与えるものではないのですと言われたら,まあそういう解釈もありえますよね,とは思います。ただ,そういう政治家みたいなことばの使い方は読者に対して不誠実だと思います。そしてそのことは,本の中で一切語られていないからこそ罪が重いです。本の冒頭または最後で暗示的・明示的知識というのは非常にcontroversialなトピックである,ということが明示的に書いてあり,その整理をある程度の紙幅を割いて試みた上で(この役割が第2章だったのかもしれませんが)の各章の内容であれば,私のこの本に対する評価は変わっていたと思います。
論点2: 用語・定義がカオス
知識,処理,意識
論点1と関連しますが,まずもってこの本は各章でそれぞれの著者がそれぞれの概念的定義で暗示的・明示的知識という用語を使っています。また,類似する概念である宣言的知識(declarative knowledge),手続き的知識(procedural knowledge)であったり,「手続き化」(procedualization),「自動化」(automatization)といった用語も含めて,それが何を指すのかも章ごとにばらつきがあります。また,「意図的」(intentional)という用語が「意識的」(conscious)という用語と同じような意味で使われているのではと思う箇所(pp.52-53あたり)もありました(意識という用語関連の整理については福田(2018)がわかりやすいです)。
例えば,第4章では語彙の知識という観点から暗示的・明示的知識についての議論がされています。p.58に 「手続き的知識の習得を促す…」とありますが,ここまでの流れで読むと「手続き的知識=暗示的知識」と読めると思います。つまり,暗示的知識=手続き的知識であり,この2つはinterchangableであるという使い方になってると解釈できると思います。しかしながら,これは第2章2.3節の「明示的・暗示的知識と宣言的・手続き的知識の関係」の内容や第9章の「第二言語習得研究で言うところの暗示的・明示的知識の区分と,脳科学で言うところの手続き・宣言的記憶の説明に多少ずれがある」(p.137)という記述と矛盾することになるのではないかと思います。
こうした用語が意味するもののズレが生じてしまう大きな原因として,「知識」(つまり脳内に保存されている情報)と「処理」(保存されている情報へのアクセス)を分けて議論できていないことが大きな問題(これはSLA全体に言える問題)なのではないかという話も読書会でありました。そして,「処理の話」と「意識の話」を切り分けることも重要です。
SLAでは,暗示的知識というのは母語話者が言語使用に用いるものであるという理解があります。言語学者でなければ,ほとんどの人間は自分の持っている言語の知識について意識することもありませんし,その情報へのアクセスを意識的にすることもないわけです。そして,第二言語学習者と比較して圧倒的な速さで言語の処理ができます。このことから,暗示的知識の概念的定義に速いことと無意識であることが含まれるようになりました。この章(第4章)のpp.53-54の最後の段落の記述を見ると,「学習者はjunctionの意味的表象に素早くアクセスする能力を有しているとみなすことができるだろう」とあります。こういう部分に,速い=無意識,という前提があることが現れています。「処理の話と意識の話」が混ざってしまっているわけです。つまり,持っている知識に対して,そのことを意識しているかどうか(自分がその知識を有していることを自分が認識しているかどうか)と,その知識にどれくらいのスピードでアクセスできるのかどうかということを分けて議論できていないように感じました。Tamura et al. (2016)で主張したように,スピードが早い=無意識,スピードが遅い=意識という単純な関係ではありません。
小学生の暗示的知識?
話をまた「はじめに」に戻します。この本の最初のページはこのように書いてあります。
(前略)たとえば,多くの小学6年生は,英語の疑問文における倒置の規則を知らないのにもかかわらず,英会話で”What color do you like?”, “What would you like?”, “Do you like soccer?”と正しく発話することができる。(中略)また,明示的知識はないが暗示的知識があると考えられるため,小学生が正しく英語を使うことができるということになる。
はじめに iii
端的に言いましょう。小学生が疑問文生成に必要な倒置の規則の暗示的知識を持っているわけありません。これはただの模倣です。仮に知識として持っているとすれば,Do you like X?で「Xが好きですか」という意味をなすというくらいのものでしょう。
こういうのを読むと,言語を「使う」の意味も多義的でコミュニケーションを難しくしているなと思います。これと同じような意味で,第6章のp.83には 「小学校英語教育の第一義的な目標は英語表現を使えるようになること(強調は筆者)」とあります。もしも小学生が暗示的知識を持っていて英語が使えるのであれば,第2章の「『使える』文法知識」について考えなくてもいいんじゃないでしょうか,となります。だって小学生でもう暗示的知識あるのですから。たしかに,小学生の言語習得はその他の章の議論と噛み合いません。なぜなら,2章では前提として多くの学習者がたどるプロセスとして「知る」->「使える」のようになっているからです。そうであれば,そうしたケースと比較して小学生がどういった学習のプロセスをたどるのか,どういった文法知識を持っているのかは議論すべきポイントです。
そしてp.84を読むわけですが,そこに書かれている内容は首をかしげるものでした。そもそもこの著者の言っている「文法知識」なるものは他の著者の言っている文法知識と指しているものが異なるように感じました。例えば,What X do you like?のX部分を様々に入れ替えて質問ができる,質問の内容を理解して答えることができる,といったとき,この小学生はいったいどのような文法の知識を持っているということになるのでしょうか。Wh句が前置されて疑問文が生成されるという知識?do挿入の知識?Xの要素を引き連れてwhを前に移動させるという知識?そうではなく,似た構造のインプットをたくさんうけることによって,構造的な類似性をヒントに構文を構築していくというような用法基盤モデルのような考え方を採用しているのであれば,そういった説明が必要でしょう。
論点3: 言語・テストが良くない
これは特に第5, 第6章の内容に関連するものですが,知識測定の道具として使用される刺激文の質が悪く,これでは測定したい知識が測れているかどうかも怪しいと思いました。
読書会で挙げられたことを1つ出せば,81ページにある刺激文の一覧をみると,
- 正文: I have a cat.
- 誤文: *I like animal.
となっていて,この項目で測定したいのは「名詞の単数形・複数形」となっています。正しくはI like animals.と複数形形態素がついていないといけないということでしょう。問題は2つあります。まず,このときの複数形形態素が欠如していることというのは,*I have two car.のような誤りとは訳が違います。なぜなら,後者の文であれば,「名詞が表すモノが複数なら-sをつける」という知識があれば対応できるでしょうが,I like animalに-sをつけるというのは,「種類を表す場合は裸の名詞の複数形(bare plurals)である」という知識が求められるからです。これは,単に複数=-sの知識とは言えません(名詞周りの知識ではあるのでそれも含めて複数形の知識という点で誤りではないですが,それでも対になってるとは言い難いと思います)。catは具体物を表しますが,animalは動物というカテゴリの名詞ですから,そういう意味でもこの2つは対になっているとは言えません。
2つ目の問題は,「名詞の単数形」が正文であり,「名詞の複数形」が誤文になっていることです。本来であれば,名詞の単数形について正文と誤文をつくり,名詞の複数形について正文と誤文をつくるべきでしょう。この章では文法性判断課題の正文への反応は「暗示的知識」を測っていて,誤文への反応は「明示的知識」という立場をとっています。そうなると,「単数形の知識」は暗示的知識しか測っていないし,「複数形の知識」は明示的知識しか測っていないことになります。
第6章でもこうした問題が散見されます。例えば,pp.88-89では動詞フレーズの獲得状況についての調査をした浦田他(2014)という研究が紹介されています。p.89の表1をみると,*I can play piano.という英文があります。これ以外の誤文はすべてcanの後ろに動詞がない(*I can soccer),動詞とcanの語順が異なる(I play can kendama.)など,canと動詞に焦点が当てられているものの,play pianoは「playの後ろに楽器が来る場合はtheがくる」という知識です。それって全然違うことなのでは?というのが読書会でも話題になりました。元論文を読むとTomaselloが引用されていたりして,用法基盤モデルの考え方を採用しているのだなと思いながら読めば,can VPみたいなものを見ているのかなとか思ったりもしました(それでもこの章の説明だけでは違和感を覚える人は少なくないはず)。4.2節の物井他(2015)も,正答率の低かった問題について「最初に,問題2については,rhinocerosesという児童に聞き慣れない語がふくまれていたことが原因である」と書いていて,文法性判断課題で未知語が含まれていたらその影響が出るのは当然で,そうなると語順の知識は測定できないのではと思います。元論文を読むと,以下のような記述があります。
rhinoceroses(サイ)という児童に馴染みのない単語を挿入しており,未知の単語と遭遇した場合に,その意味を推測しながら文の正誤を判断できるかを確認する意図があった。(p.88)
物井尚子・矢部やよい・折原俊一(2015)『外国語活動を経験した児童の語順に関する理解度調査 ―SVOに焦点をあてて―』千葉大学教育学部紀要, 63, 85-94.
ちなみに,このことが書いてあるのは結果部分の88ページであり,テスト作成部分には,未知語が入っているという説明は出てこず,次のように書いてあるのみです。
使用する単語についてであるが,Sは1・2人称に限定しI,youのみ, Vは外国語活動で使用頻度が高いと考えられるhave, eat,play,likeの4動詞,Oに用いる名詞はapples, baseball,lunch,pen,soccer,tennisに上位語のcolor,sportの8語,句動詞としてgo to school,get upの2種, 時間を表す前置詞を含む表現としてat six,at eightを用いた。(p.87)
物井尚子・矢部やよい・折原俊一(2015)『外国語活動を経験した児童の語順に関する理解度調査 ―SVOに焦点をあてて―』千葉大学教育学部紀要, 63, 85-94.
私の感覚からすると,テスト作成の段階の記述と言ってることが違うというのはありえないです。これはまあ本の批判ではないんですが。
第5, 第6章で紹介されている研究すべてに当てはまる指摘ですが,テストに使われる刺激文だけではなく,そもそも問題数が少なすぎるという問題もあります。小中学生に大量の項目のテストを行うことの実行可能性などを考慮すれば,問題数を増やすことが難しい事情は理解できます。しかしながら,文法性判断課題とはテストである以上,なにかを測定するためには測ろうとする文法のターゲットについて1つや2つの項目だけでは学習者が安定して判定を行えているのかどうかを判断することはかなり難しいといえます。ましてや二択の問題であるからなおさらです。「文法知識」というからには,1つの事例にだけ適用ができるものではなく,複数の事例に適用可能な規則であるはずです。そういうものを測ろうとするのであれば,1つや2つの項目に正しい回答をしただけでは,単に「それとほとんど同じ文を聞いたこと(見たこと)があった」という記憶だけでも正答にたどり着く可能性も十分にあります。また,5, 6章で出てくる「正答率」とは,1人の学習者の正答率ではなく,参加者全体の中で正答した学習者の割合であることも注意が必要でしょう。つまり,ここでは学習者個人ではなく,集団の問題となっているということです。
このことは,結果の解釈とも関わります。第5章の結果の考察については,そもそも二択の問題で5割を切っている部分の「伸び」になにか有益なものがあるようにはあまり思えません。さらに言えば学習者個人ではなく集団の話であるわけで,正答できる学習者の人数が増えた事をもって,学習が進んだというように解釈するのは少し違和感があります。
第6章でも同様に,
全体の正答率は5年生が44.5%,6年生は51.6%で,6年生のほうが高く,この差は統計的に有意であった。つまり,物井らの研究と同様,5年生よりも6年生のほうが全体として暗示的知識をより多く持っていることが明らかになった」(p.95)
とあります。ところが,p.89では,
GJTの分析では,正答率をチャンスレベル(当て推量で解答した際に期待される確率)と比較する場合が多い。GJTは提示された文が文法的かどうかを判断する二者択一のテストであるため,チャンスレベルは50%,(中略)したがって,GJTはでは正答率が50%よりも高いかどうかが重要である
という旨の記述があるのです。こういうことを書いておきながら,50%を下回っている正答率や50%をわずかに上回る程度の正答率に対して,「知識がある」という判定を下している。これはあきらかに矛盾していないでしょうか。全体の結果から「GJTで語順の正答率が5年生でも高い(特に正文)ことから,5年生でも語順に関する暗示的知識は身についている児童は多いことがわかる」(p.96)という結論も同意できません。カッコ内の「特に正文」という部分が絶妙に不誠実だと思いました。なぜなら,p.95の表2を見れば,非文とされている(10)過去形, (2)be動詞, (4)語順, (6)can, (8)want toの5項目の5年生の正答率をみると,語順の正答率はたったの32.1%しかないからです。これは他の非文の正答率25.6%~48.8%と比較しても高くない上に,50%を大幅に下回っています。そして正答率が「高い」と解釈されている正文反応の方を見ても,2択で答えられる問題(しかもたったの1回の反応)で,66.1%の学習者が正解したことをもって,暗示的知識は身についている児童は多いと結論づけるのはあまりにもナイーブすぎないでしょうか。言語の暗示的知識をもつ母語話者は正文を正文と判断することも,非文を非文だと判断することも暗示的知識を使ってやっていると思います。よって,本文に明示的に書かれてはいませんが,もし仮にGutiérrez (2013)をもってきて,非文への反応は暗示的知識なので,明示的知識は持っていないが暗示的知識はあると考える,というように言われてもちょっと納得がいきません。
場外戦: そもそも明示・暗示は厳密には教育には役に立たない
終章の3節「教育的な示唆」には,明示的・暗示的知識の測定が教育・指導上役に立つとして以下の3点が挙げられています。
- 暗示的知識は学習者が気づかない(意識できない)知識であるが,この暗示的知識の習得こそが学習上のゴールであると考える教員や研究者が多いため,暗示的知識が測定可能になったことは重要
- 明示的・暗示的知識の測定方法が確立してきた事によって,教育場面でも応用可能
- 明示的・暗示的知識の習得プロセスにおける諸要因の役割がわかりつつあるため,教師がフォーカスすべきところが明確になってきた。
まず1について。そもそも,今のSLAで仮定される暗示的知識というものが実際に人間の頭の中に実在すると仮定して,心理学的な考え方でそれを測定することができるという意味でいうと,「測定可能」になっていると言い切れるほどではないと思います。まだまだ不確実なことが多い状況で,あまり確定的な記述をすることは逆に教育現場に誤った理解を広めたり,そのことが教育現場に余計な軋轢を生んでしまうかもしれない可能性を危惧しています。
暗示的知識の習得プロセスを学習者に示す事ができるということの例として第8章が言及されていますが,この章で紹介されている単語学習は,まず単語を見せて訳語を思い出してもらい,その上で正解を見て到達度を「良い」「もう少し」「だめ」「全然だめ」という4段階で評定するものです。単語を学習せよという指示はしていないから意図的学習ではなく,「潜在記憶レベルの語彙学習」と書いてありますが,この学習で単語を覚えようとしないわけがないと思います。意図的学習と偶発的学習を比較して,ここでフィーチャーされている学習が後者の学習だと論じられていますが(p.128),本来の偶発的学習(意味理解を目的とした言語処理時に未知語の知識を獲得するような学習)とは明らかに異なります。また,この評定値があがっていくことが語彙の暗示的知識であるとすれば,それは4章で議論されたようなアクセスのスピードの速さを暗示的知識とする理論的枠組みともずれます。
こういうズレは,教育場面でのテストや測定と,研究としてのテストや測定に求められる厳密さが異なるということを意味していると思います。このことは,2番目の論点にも関わります。
2の教育場面での応用については,時間制限付きの文法性判断課題を用いたりelicited imitation(誤りの含まれた英文を復唱させ,復唱の際に誤りを直すかどうかで知識の有無を判定するテスト)をすることだと書かれています。ところが,その前の節(p.151)では,これまでのSLA研究で用いられてきた課題は問題点も指摘されているという記述もあります。そういうのを読んだあとで,「測定方法が確立してきた」(p.152)と言われると,え?本当に「確立」しているのでしょうか?と読者は疑問に思わないでしょうか。私は思いました。さらに,終章第2節でもたびたび,暗示的知識の測定具は実際の言語使用とは大きく異なるものであるという問題点も指摘されています。この点については私も「明示・暗示の測定と指導法効果研究」という記事の中で指摘しました。であるならば,そうした実際の使用場面からかけ離れたテストをしてまで暗示的知識を測定する必要が教育現場にあるのかどうかということは問いたいです。そのことが,英語の授業や指導においてどういったメリットを持つかを考えずに持ち込もうとすることは,私はSLA研究者は避けるべきだと思います。私個人としては,明示的知識と暗示的知識という概念は純粋な認知科学としての第二言語習得研究でのみ追究されるべきであり,指導現場への導入は少なくとも今の段階ではメリットがないと思っています。第二言語習得研究では,母語話者と第二言語学習者の差が生まれる要因を解明することが研究の大きな目的ですから,厳密な暗示的知識の測定具を開発することは必要なことです。詳しくは過去記事をお読みください。
3については,明示・暗示という知識の二元論を導入するまでもなく,言語学習というのは非常に時間のかかるプロセスです。そのことは知識の二元論という余剰な概念を持ち出すことで初めて可能になることではありません。であれば,シンプルに「言語学習とは時間のかかるものである」といえばいいだけではないでしょうか。
科学的というような装いで,その内実が非常に曖昧なものに教育場面での有用性があるように断定的に研究者が言ってしまうことのリスクは研究者が考えるべきでしょう。「先週やったよね?」と教員が学習者に言わなくなったとしても,教員同士で「あなたの期末テストって暗示的知識を測定するものじゃありませんよね?」「これは明示的知識しか反映されていない問題ではないでしょうか」みたいなカオスが生まれてしまわないことを願うばかりです。
おわりに
この記事では,『外国語学習での暗示的・明示的知識の役割とは何か』という本の内容について,いくつかの観点から批判的に検討しました。私の記事の内容についても,批判的な検討をよろしくお願いいたします。
なにをゆう たむらゆう。
おしまい。
2021.09.22.03:24 更新
読解上やや不自然な部分や読みづらい部分などについて,軽微な文言の加筆修正等を行いました。最初に公開したものと内容的な変更はありません。
