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第二言語習得研究(者)はなぜ「誤解」されたか

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はじめに

今日は,「外国語教育研究の再現可能性2021」というオンライン開催のシンポジウムに参加しました。久しぶりに,集中して興味深く全ての話を聞けたなと思うイベントでした。開催にあたっては登壇者・発表者の皆様と,運営をされたプロジェクトメンバーの方々にまずお礼申し上げます。

さて,この記事では第二言語習得研究者を自称する者として感想がてらに,前半のシンポジウムで批判にあがっていたことについて私見を述べます。

私の質問の意図

私はシンポジウム後のディスカッションで,以下のような内容(書いた内容を保存していなかったので覚えている限りの内容)の質問を登壇者の一人である柳瀬先生宛にしました。

モデルが真実ではないというのはそのとおりだと思いますが,そのことはモデル自体が有用でないということを意味しませんし,モデルの精度をあげていくという営み自体を否定しないと個人的には思いますがいかがでしょうか。

柳瀬先生の答え(として私が受け取ったものは),受け取る側がモデルとして提示されたものを真実だと思っている(ように見えるのがよくない)。ということと,モデル構築の方法としてナラティブのほうが良いと思っている,という2点だったと記憶しています。

まず,2点目については,そういうアプローチもあっていいだろうと思います。また,非常に狭義の第二言語習得(SLA)研究者からすれば,そもそも大半の研究はモデルすら構築できてませんけどねって言われるような気もしますが,そこは一旦置いておきます。私がこの記事で焦点を当てたいのは1点目です。

私が上記のような質問をした意図は,柳瀬先生の発表を聞いて,モデルを作ることやモデルそのものを科学的に追求するという営み自体が否定されているというように感じてしまったことに起因しています。私としては,そもそも科学というのは絶対的な真理にたどり着くための永遠の営みのようなものだと思っています。草薙さんの言葉で言えば可謬主義を受け入れています。というか,人文社会系の研究者であれば(もっといえば自然科学の研究者であっても),研究によって世の中の真理が明らかになる,真実が一つに決まる,と思っている人ってほとんどいないのではないかと思っています。

それにも関わらず,モデル(研究の成果の結果として構築された現実の近似)を世の中の真理として受け取っている人がいる(あるいはそうやって広く受け入れられてしまっている),と研究者が考えてしまうのはなぜかということが重要な問題なのではないかと思いました。

ディスカッションで私の質問をとりあげていただく前だったかあるいは草薙さんの発表のときだったかは記憶が曖昧ですが,SLAの教科書と言われるような本にはすべて科学的事実かのように記述されているというような内容の発言があったかと思います。

よって,SLA研究者がどうやって自分たちのことを認識しているかは別として,「外から」はそう見られているということは間違いなさそうです。そして,それは柳瀬先生も草薙さんにしても(私は柳瀬先生の過去の研究のことは存じ上げておりませんで亘理先生の話を聞いて知ったわけですが)どちらかというと「そっち寄りだった」人からそう思われている,ということです(草薙さんは私が博士課程の2年間文字通り毎日一緒にいて共同研究もたくさんやったのでよくわかっているつもりです)。

研究者・実践者双方に研究に対しての態度を改める必要あり

上記のような問題,つまり研究の知見と言われるようなものをどう捉えるのか,という点についての私の意見は短くまとめれば以下のツイートのようなものです。

以下では,便宜的に「研究者視点」「実践者視点」に分けて良くなかった点を考察します。これはそれぞれが別の人物であることを必ずしも意味しない(一人の人間として研究者であり実践者である可能性も当然あるという認識がある)ことは言及しておきます。

研究者がやってしまったこと

上述の「SLAの教科書と言われるような本にはすべて科学的事実かのように記述されている」みたいな発言(実際にそうかは置いておいて他の研究者からそう思われてしまうこと)は,SLAという研究分野を立ち上げ,そしてそれを研究として他の分野と同等の価値があるものだということを社会に認識してもらわなくてはいけなかったという先人たちの苦労の結果として起きてしまった不幸なのではないかと思います。

SLAは学際領域だっていうことがよく言われますが,それは私は「表面」で,「裏面」は研究として確立することに非常に苦労したし,研究,または学問としての体をなすために試行錯誤してきたのがこれまでの歴史だというようにも思っています。

その結果として,私達のやっていることはscienceなんだ,ということを周りにアピールする必要がありました。そうではないと,研究として認めてもらえないからです。そういう苦労の結果として,様々な学会が立ち上がり,多くの学術雑誌が誕生し,そしてこれまでにたくさんの研究者を世に送り出すことに成功しました。一方で,そういった「アピール」が,意図的であるかどうかは別として誤解を生んでしまった面もあると思います。

世間に自分たちのやった研究の成果を発表する際に,本来であれば,そこまで確定的なことを言うべきではない,結果の解釈には慎重になるべきところを,研究ではこういうことが明らかになっている,というようにしてしまったこともあるのではないかと思っています。これはもちろん私自身も過去にそういった過ちをしている可能性も認識した上で言っています。メタ分析だろうが同じことです。研究の結果の解釈には必ず留保がつくべきはずなのに,そこをもし丁寧に説明しようとするとそもそも紙幅の関係で無理だし読者にも「結局何がわかったの?」と思われてしまう。だからわかりやすくしようとした。結果として,誤解を生んでしまうような知見が広まってしまった可能性もあるのではないかと思います。

余談ですが,いまや胡散臭い語学系広告にも「第二言語習得」という言葉が権威付け的に使われるようになってしまったことも,真摯に第二言語習得研究をしている人たちが望まない結果だと思います。もう一つ余談をすると,自分が先人の苦労に乗っかって今の職業的地位と安定を得ていることに最大限のリスペクトを払った上であえていうのは,英語教育「学」や外国語教育「学」という「学問」へのこだわりは,中身のほうが追いつかずにここまで来てしまったのではないかというのも思っているということです。私達世代(より下)の使命は,このことについて一度立ち止まって考えることだと思います。

実践者がやってしまったこと

研究の知見を解釈する側の実践者の視点からいうと,「科学的」ということばに過剰な信頼を置いてしまったことを反省する必要があるのではないかと思います(これは教育実践者のみならず一市民としての科学リテラシーも絡むでしょう)。

「あすの授業に役に立つ」というのは,実践者にとって有益であることを表すスローガンのように用いられている風潮があると思いますが,私としては少なくとも学会発表や一論文レベルで,それがそのまま「あすの授業に役に立つ」研究ということはほとんどないんじゃないかと思います。授業を考えるヒントになる可能性はたくさんあると思いますが。即効性をもって「あすの授業に役に立つ」のは研究ではなく,授業のアイデアレベルのことではないでしょうか。

再現可能性を思考したプロジェクトの先に研究の蓄積がなされたうえで,「あすの授業に役に立つ」のではなく,より広く授業を考える際のなにかのタイミングでの意思決定の基準の一つになりうるような研究の知見を出す,というのは可能だと思いますし,それこそがプロジェクト(の目標ではないと思いますがその先の)目標になっているのではないかと思っています。そのことについては賛同します。

ここで強調したいのは,私は実践者を責めているわけではないということです。実践者の方々の多くが置かれている環境に,余裕がない,これが最も重大な,そして喫緊の課題でしょう。余裕がないからこそ「あすの授業に役に立つ」ことを求めてしまうわけです。本来なら,1週間先,1ヶ月先,1年先,自分の教えている学習者が自分の所属している教育機関を離れるとき,まで見据えて授業は考えるべきです。ところが,それができない。そんな余裕がないからです。そういう状況まで追い込まれたら,藁にもすがる思いで何かを「信じたい」と思うことは当然のように思います。私も8ヶ月間という短い間で,なおかつ担任ももっていませんでしたが,公立の中学校教員として勤務していたことがありました。その時を振り返ってみると,あの時より忙しかったことはこれまでの人生でないし,この先の人生でもおそらくないだろう,と確信を持って言えるほどには激務でした。もちろん経験がゼロだったので非効率な働き方をしていたと思いますし,手の抜きどころも全くわかりませんでした。むしろ,手を抜いたら絶対にいけないという強迫観念で,自分という人間のあらゆるリソースをすべて仕事に振り向けていたとすら思います。悲劇的なことは,そこまでやっても自分にとって満足のいく授業に到底及ばない出来だったことです。

本当に辛かった。だから私は,教育実践者を責めるつもりはありません。そのうえで敢えてここで言わなければいけないのが,「研究」というものはたった一つの真実を教えてくれるものとは限らないということです。研究者が,わかりやすさを重視した部分がある。そしてそのわかりやすさが受け入れられる環境が実践者側にあったのではないかと。このことは,間接的にですが今回のシンポジウムが扱っていた再現可能性のテーマに非常に大きく関連していると思います。

不確実さへの不寛容

これはなにも英語教育の分野に限らないことかもしれません。人間ははっきりしないことをはっきりさせたがる生き物なんじゃないかと思います。曖昧なことや不確実さのあることを受け入れることが難しい。なぜなら,それでは自分がどうすべきかわからないからです。しかしながら,世界は不確実さに満ちあふれているわけです。そこで,その世界の不確実さを多少ましにする,人々の不安を和らげようとする営みが研究と言ってもいいかもしれません。「多少ましにする」とはつまり,研究が明らかにしたことには必ず確からしさのグラデーションがあるということです。今受け入れられていることがのちに否定されるというようなことは起こりえます。研究者がやっている営みは,その現時点での確からしさを高める努力をすることと,その努力を続けていくことだと思っています。そのことをいくら研究者が認識していたとしても,研究者が発信する情報を受け取る側とそういった合意形成が取れていなければミスコミュニケーションが起こってしまいます。この状況こそが,私は解決されるべき根本的問題だという認識を持っています。

わかりやすさの弊害

とはいえ,世間の風潮としても,わかりやすいことは人々が最も価値を置いていることの一つではないかと思えるほどに,この世の中は(人々は)わかりやすさを求めているように思います。その態度が,わかりやすくないものにたいしての否定的な感情や排除を生んでいるように思うのです。だからこそ,わかりやすくない研究というのは金の無駄だと言われ,意味がないと思われてしまう。そう言われると研究者は,無駄なことに意味がある,と反論します。ところが,これはそもそもの前提の部分でずれているのではないかと思います。わかりにくさは無駄ではない,というのが一つ。そもそも世の中はわかりづらいものです。人間が何年もかけて一生懸命時間とお金と労力を費やしても謎だらけなわけです。つまり,そもそもわかりにくいものなのだ,という認識を共有すべきだと思います。研究のブレイクスルーというのは,このわかりにくい状況を一瞬にしてわかりやすいものに変えるものなんじゃないかという気もします。しかしながら,それはそんなに頻繁に起こるものではありません。

また,私達は短期的なものを重視しがちです。中長期的なことは見えづらいし想像が及びづらいからです。だからこそ,すぐに得られる結果(「目に見える成果」)を重視します。研究もそういう枠組みに絡み取られてしまっています。多くの研究者が,自分が貢献できる部分はその研究分野のゴールから見てものすっっっっっっごくちっぽけなものであることを自覚しているはずです。自分が生きているうちにはまず解明されないだろうなぁという大きな課題を前に,それを切り分けて,切り分けて,切り分けて,その一部を多くの研究者で分担しながら明らかにしようと試みています。だから本当は,一つの研究で世の中を変えることなんて殆どの場合無理だし,一人の研究者が生涯で変えることのできることも,世間一般の人の感覚からすればよほど小さいわけです。このことを理解してもらうのがすごく難しいのではないでしょうか。

おわりに

思考を垂れ流すように書いていたらずいぶんと話が大きくなってしまいました。私が言いたかったのは,「科学」や「研究」ということばに対する認識をすり合わせていく必要がありそうですね,ということです。いちおう未熟ながら研究者の端くれですので研究者目線の記述になってしまい,それが自己保身のように解釈されてしまう面もあったかもしれません。私としては,研究者がのらりくらりしていて良いわけではないですし,研究の知見を世の中に伝える際にわかりやすさは度外視していいとも思いません。人生をかけたプロジェクトに挑みつつ,真摯な態度で,慎重に話をするべきだと思います。こういうのはおそらくサイエンス・コミュニケーションということばで語られるものだと思いますので,そういった本をいくつかAmazonで注文した次第です。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。