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国際誌至上主義について考えたこと

はじめに

このブログは,研究者の「アウトリーチ」的な意味合いでやっているわけでもなく,田村祐という個人の思考を言語化するという目的でやっています。この記事に書くことももれなく,私がタイトルに掲げたことについて考えたことを書くものです。

きっかけ

最近,ある研究コミュニティについて語られた文章を読みました。そこでは,国際誌で論文を出版していることが研究者として「第一線」にいる証であり,そうした研究者が集まる場だからこそフラットで建設的な議論が成り立つのだ,という趣旨のことが書かれていました。権威主義を否定し,役職や過去の業績ではなく「今何をしているか」が大事だという主張もありました。

一見すると,研究者として健全な価値観のようにも思えますし,自分もそうあらねばという気持ちになる人もいるかもしれません。しかしながら,私はどうしても違和感が残りました。もやもやしました。そのもやもやを端的に表したのが以下のポストです。

「反権威」が作り出す別の権威

役職や過去の業績で人を序列化することへの批判というのは,それ自体は真っ当だと思います。かくいう私も,自分のことを,「反権力」と自認していますし,アカデミアの世界に飛び込んだのも,研究という場では誰もがフラットに議論できると感じたからです。私はサッカーが好きなのでサッカーの例えを出しますが,ピッチの上では歳下も歳上も,若手もベテランも関係ない。若手が歳上の選手に要求することだってあるでしょうし,強い気持ちでフリーキックやPKのキッカーを志願することだってあるでしょう。高校時代に私はバスケ部に所属していましたが,その時の顧問の先生も,オンザコートでは先輩・後輩は関係ないと常々言っていました。先輩相手だからビビってるようじゃだめだってことです。

しかしながら,権威主義を批判しようとする際に,その批判と同じ口で「国際誌で出版していることが第一線の定義だ」と言ってしまうのは,構造的な矛盾があるように思います。つまり,「権威主義」とレッテルを貼った「古い」物差し・価値観を否定して,「別の権威主義」を持ち出しているだけではないかということです。そして,それがなぜ正当化されるように感じられたのかというのはまさにその「別の権威主義」の恩恵を自分自身が受けているからだと思います。

国際誌に論文を出し続けるためにどんな労力がかかるのか,私自身ももちろん経験があるのでそれを理解しています。理解しているからこそ,バンバン国際誌に出している研究者は年齢に関係なくリスペクトの気持ちを持っています。私ももっと頑張らねばという気持ちもあります。しかしそういう気持ちがある一方で,今ある学術出版の仕組みや研究業績の評価の仕組みというのが,ある特定の価値観によって形作られているだけである,という自覚は常に持っているべきだという気持ちも同時にあります。

さらに,私が「国際誌至上主義」という言葉で形容した物差しには入れ子構造があります。国際誌に出しているかどうかというのがまずひとつ目の序列です。そしてその中でも,どのジャーナルに載せたかというインパクトファクターであったりジャーナルランキングであったり,あるいは研究者の間の投稿経験に基づく出版の難易度などに基づくふたつ目の序列です。例えば,Language LearningStudies in Second Language Acquisitionなどに論文が掲載されるほうが,あまり聞いたことのないけれども国際誌というラベルのつくジャーナルに載った論文よりも「優れている」とか,あるいはそちらに載せるほうが「すごい」というような。

私自身が,そういう国際誌の序列に対する気持ちがないかといえばそれは嘘になります。トップジャーナルと呼ばれるところ(に私は出版できたことはないですけれども)に載るのは簡単ではないですし,「まあこのレベルのジャーナルなら通るよね。でもこっちには出しても通らなそう」みたいな感覚は,国際誌の投稿経験があればどんどん生まれるでしょう。その査読を受けた経験(や自分が査読者側に回ったときの経験)が蓄積・シェアされていくことで,より一層その主観的な序列は強化されていくと思います。しかしながら,研究者というのは本来はどんな研究をやったのか,という研究の中身で評価されるべきなはずです。それを,掲載ジャーナルというラベルで価値判断してしまえば,権威主義の否定ではなく,権威の基準を入れ替えただけになってしまうでしょう。

出版先は戦略であって価値ではない

私自身,国際誌に論文を出版するという経験をしてきていますし,それを辞めることはないと今のところは思っています。しかしながら,それは自分の研究テーマに関心を持っている人が世界中に散らばっているからです。国内誌に出しても,私の研究に興味のある人はそんなにいない。でも,国際誌に載ったら,自分の知らないところで自分の研究が読まれる可能性が広がる。ただそれだけです。

私が初めて海外の学会で発表したのは,2019年のSLRFでした。その時,口頭発表の同じ部屋にアメリカの大学の院生さんがいらっしゃって,私と似たような領域(数の一致)の研究を発表していました。発表後に少しお話をしたら,「Applied Psycholinguisticsに論文出してましたよね?」と言われたのです。びっくりしました。あんなマイナー現象の文処理の論文を読んだことがあるのかって。国内誌でそういう論文を出そうと思うと,投稿先を選ぶのがなかなか難しい。でも,国際誌ならいくつか選択肢を考えられる。そして,そこに出したら読んでもらえるだろう。私はただただそういう気持ちです。

一方で,例えばですが,日本の英語教育現場が抱える固有の問題に取り組む研究者はどうでしょうか。日本の中学校で生徒が文法をどう学んでいるかを調査し,その知見を日本の教員に届けたいと考える研究者が,国内誌に書くことは「第一線ではない」のでしょうか。

そんなはずがないですよね。

どこに出すかは「誰に読んでほしいか」という戦略的な判断であって,研究の質や研究者としての格とは「本来は」(ここが重要)無関係のはずです。この二つを混同した瞬間,研究者としての多様な貢献を,「国際誌への出版」という一つの評価軸に押し込めてしまっているのではないかと感じるのです。

「フラット」を内部で判断できるのか

きっかけとなった文章では,ある研究コミュニティがフラットで開かれた場であるとも語られていました。しかしながら,そのフラットさを実感できるのは,そのコミュニティの基準に自分がたまたま合致しているからではないかと思います。

国際誌に出版し,英語で議論ができ,分野の主流パラダイムの中で仕事をしている人間にとって居心地がいい場所を,「フラットだ」と感じるのは自然なことです。しかし,それはその場の開放性を証明しているのではなく,自分と場の基準が一致していることを証明しているに過ぎません。そこでの議論が本当にフラットかどうかは,その基準に乗れていない人間がどう感じているかということからしか検証できないのではないかと思います。

次の世代に何をインストールするのか

研究コミュニティが影響力を持つことは,責任を伴います。「国際誌に出版している研究者が集まる場こそが建設的だ」とも解釈できるようなメッセージは,その場に集う次世代の研究者たちに何を伝えることになるかも考えたいです。

国際誌に載った研究が優れた研究であり,国内誌に書いている研究者は第一線にいない。こうした前提が無批判に共有されたとき,どういうことが起こり得るでしょうか。例えば,「国際誌至上主義」のパラダイムの恩恵を受ける営みだけが「正しい研究」や「価値のある研究」として承認され,それ以外の貢献が暗に格下げされるかもしれません。「国内の既存の学会に行ってもしょうがない」,「あの人は国際誌に論文を出していないから大した事ない」,そういう目で同業者を見るようになる可能性はないでしょうか。もう今の時点で,「国際誌になんて縁のない私は…」と悲観的になる人や,「一生懸命頑張って自分の実践を地方学会で発表して紀要に載せたけれど,私のやったことなんて大した事ないよね」と卑下してしまう人を生み出してしまっている可能性すらあると思います。反対に,「国際誌に載っているからあの先生はすごい人だ」,「あの人は有名な先生だからあの先生の言っていることは正しい」というように,無批判に権威を受け入れてしまう人を生み出す可能性もあるかもしれません(学会というのは望まなくともそういう機能が多かれ少なかれあるはずだと思いますが)。

「非建設的な批判」を批判するのは大歓迎なのですが,研究コミュニティが本当に建設的であるとはどういうことなのでしょうか。それは,特定の出版基準に合致する人間だけが居心地よく過ごせる場を作ることではないはずです。

おわりに

この記事では,「国際誌至上主義」が権威主義の否定ではなく,形を変えた権威主義ではないかということについて考えました。研究者である以上,何らかの軸で評価を受けることは避けられません。しかし,その軸を無自覚に受け入れることと,自覚した上で選ぶことは違うはずです。私自身も国際誌に論文を出版して,その枠組の中でここまで研究者としてキャリアを築いてきた側面はあります。そういう立場の人間として,自分が「乗っかっている」構造を問い直すために書きました。

研究の価値は,それがどこに掲載されたかということではなく,何を明らかにしたのか,そしてそれが何に(誰に)役に立ったのか,そういう視点で測られるべきだと思います。国や行政や大学がいろんな指標で研究や研究者の評価をしていようが,それをそのまま研究者がインストールすべきではないでしょう。少なくとも,私はそう信じてこれからも研究者としてやっていきます。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

第二言語習得研究(者)はなぜ「誤解」されたか

Photo by Matheus Bertelli on Pexels.com

はじめに

今日は,「外国語教育研究の再現可能性2021」というオンライン開催のシンポジウムに参加しました。久しぶりに,集中して興味深く全ての話を聞けたなと思うイベントでした。開催にあたっては登壇者・発表者の皆様と,運営をされたプロジェクトメンバーの方々にまずお礼申し上げます。

さて,この記事では第二言語習得研究者を自称する者として感想がてらに,前半のシンポジウムで批判にあがっていたことについて私見を述べます。

私の質問の意図

私はシンポジウム後のディスカッションで,以下のような内容(書いた内容を保存していなかったので覚えている限りの内容)の質問を登壇者の一人である柳瀬先生宛にしました。

モデルが真実ではないというのはそのとおりだと思いますが,そのことはモデル自体が有用でないということを意味しませんし,モデルの精度をあげていくという営み自体を否定しないと個人的には思いますがいかがでしょうか。

柳瀬先生の答え(として私が受け取ったものは),受け取る側がモデルとして提示されたものを真実だと思っている(ように見えるのがよくない)。ということと,モデル構築の方法としてナラティブのほうが良いと思っている,という2点だったと記憶しています。

まず,2点目については,そういうアプローチもあっていいだろうと思います。また,非常に狭義の第二言語習得(SLA)研究者からすれば,そもそも大半の研究はモデルすら構築できてませんけどねって言われるような気もしますが,そこは一旦置いておきます。私がこの記事で焦点を当てたいのは1点目です。

私が上記のような質問をした意図は,柳瀬先生の発表を聞いて,モデルを作ることやモデルそのものを科学的に追求するという営み自体が否定されているというように感じてしまったことに起因しています。私としては,そもそも科学というのは絶対的な真理にたどり着くための永遠の営みのようなものだと思っています。草薙さんの言葉で言えば可謬主義を受け入れています。というか,人文社会系の研究者であれば(もっといえば自然科学の研究者であっても),研究によって世の中の真理が明らかになる,真実が一つに決まる,と思っている人ってほとんどいないのではないかと思っています。

それにも関わらず,モデル(研究の成果の結果として構築された現実の近似)を世の中の真理として受け取っている人がいる(あるいはそうやって広く受け入れられてしまっている),と研究者が考えてしまうのはなぜかということが重要な問題なのではないかと思いました。

ディスカッションで私の質問をとりあげていただく前だったかあるいは草薙さんの発表のときだったかは記憶が曖昧ですが,SLAの教科書と言われるような本にはすべて科学的事実かのように記述されているというような内容の発言があったかと思います。

よって,SLA研究者がどうやって自分たちのことを認識しているかは別として,「外から」はそう見られているということは間違いなさそうです。そして,それは柳瀬先生も草薙さんにしても(私は柳瀬先生の過去の研究のことは存じ上げておりませんで亘理先生の話を聞いて知ったわけですが)どちらかというと「そっち寄りだった」人からそう思われている,ということです(草薙さんは私が博士課程の2年間文字通り毎日一緒にいて共同研究もたくさんやったのでよくわかっているつもりです)。

研究者・実践者双方に研究に対しての態度を改める必要あり

上記のような問題,つまり研究の知見と言われるようなものをどう捉えるのか,という点についての私の意見は短くまとめれば以下のツイートのようなものです。

以下では,便宜的に「研究者視点」「実践者視点」に分けて良くなかった点を考察します。これはそれぞれが別の人物であることを必ずしも意味しない(一人の人間として研究者であり実践者である可能性も当然あるという認識がある)ことは言及しておきます。

研究者がやってしまったこと

上述の「SLAの教科書と言われるような本にはすべて科学的事実かのように記述されている」みたいな発言(実際にそうかは置いておいて他の研究者からそう思われてしまうこと)は,SLAという研究分野を立ち上げ,そしてそれを研究として他の分野と同等の価値があるものだということを社会に認識してもらわなくてはいけなかったという先人たちの苦労の結果として起きてしまった不幸なのではないかと思います。

SLAは学際領域だっていうことがよく言われますが,それは私は「表面」で,「裏面」は研究として確立することに非常に苦労したし,研究,または学問としての体をなすために試行錯誤してきたのがこれまでの歴史だというようにも思っています。

その結果として,私達のやっていることはscienceなんだ,ということを周りにアピールする必要がありました。そうではないと,研究として認めてもらえないからです。そういう苦労の結果として,様々な学会が立ち上がり,多くの学術雑誌が誕生し,そしてこれまでにたくさんの研究者を世に送り出すことに成功しました。一方で,そういった「アピール」が,意図的であるかどうかは別として誤解を生んでしまった面もあると思います。

世間に自分たちのやった研究の成果を発表する際に,本来であれば,そこまで確定的なことを言うべきではない,結果の解釈には慎重になるべきところを,研究ではこういうことが明らかになっている,というようにしてしまったこともあるのではないかと思っています。これはもちろん私自身も過去にそういった過ちをしている可能性も認識した上で言っています。メタ分析だろうが同じことです。研究の結果の解釈には必ず留保がつくべきはずなのに,そこをもし丁寧に説明しようとするとそもそも紙幅の関係で無理だし読者にも「結局何がわかったの?」と思われてしまう。だからわかりやすくしようとした。結果として,誤解を生んでしまうような知見が広まってしまった可能性もあるのではないかと思います。

余談ですが,いまや胡散臭い語学系広告にも「第二言語習得」という言葉が権威付け的に使われるようになってしまったことも,真摯に第二言語習得研究をしている人たちが望まない結果だと思います。もう一つ余談をすると,自分が先人の苦労に乗っかって今の職業的地位と安定を得ていることに最大限のリスペクトを払った上であえていうのは,英語教育「学」や外国語教育「学」という「学問」へのこだわりは,中身のほうが追いつかずにここまで来てしまったのではないかというのも思っているということです。私達世代(より下)の使命は,このことについて一度立ち止まって考えることだと思います。

実践者がやってしまったこと

研究の知見を解釈する側の実践者の視点からいうと,「科学的」ということばに過剰な信頼を置いてしまったことを反省する必要があるのではないかと思います(これは教育実践者のみならず一市民としての科学リテラシーも絡むでしょう)。

「あすの授業に役に立つ」というのは,実践者にとって有益であることを表すスローガンのように用いられている風潮があると思いますが,私としては少なくとも学会発表や一論文レベルで,それがそのまま「あすの授業に役に立つ」研究ということはほとんどないんじゃないかと思います。授業を考えるヒントになる可能性はたくさんあると思いますが。即効性をもって「あすの授業に役に立つ」のは研究ではなく,授業のアイデアレベルのことではないでしょうか。

再現可能性を思考したプロジェクトの先に研究の蓄積がなされたうえで,「あすの授業に役に立つ」のではなく,より広く授業を考える際のなにかのタイミングでの意思決定の基準の一つになりうるような研究の知見を出す,というのは可能だと思いますし,それこそがプロジェクト(の目標ではないと思いますがその先の)目標になっているのではないかと思っています。そのことについては賛同します。

ここで強調したいのは,私は実践者を責めているわけではないということです。実践者の方々の多くが置かれている環境に,余裕がない,これが最も重大な,そして喫緊の課題でしょう。余裕がないからこそ「あすの授業に役に立つ」ことを求めてしまうわけです。本来なら,1週間先,1ヶ月先,1年先,自分の教えている学習者が自分の所属している教育機関を離れるとき,まで見据えて授業は考えるべきです。ところが,それができない。そんな余裕がないからです。そういう状況まで追い込まれたら,藁にもすがる思いで何かを「信じたい」と思うことは当然のように思います。私も8ヶ月間という短い間で,なおかつ担任ももっていませんでしたが,公立の中学校教員として勤務していたことがありました。その時を振り返ってみると,あの時より忙しかったことはこれまでの人生でないし,この先の人生でもおそらくないだろう,と確信を持って言えるほどには激務でした。もちろん経験がゼロだったので非効率な働き方をしていたと思いますし,手の抜きどころも全くわかりませんでした。むしろ,手を抜いたら絶対にいけないという強迫観念で,自分という人間のあらゆるリソースをすべて仕事に振り向けていたとすら思います。悲劇的なことは,そこまでやっても自分にとって満足のいく授業に到底及ばない出来だったことです。

本当に辛かった。だから私は,教育実践者を責めるつもりはありません。そのうえで敢えてここで言わなければいけないのが,「研究」というものはたった一つの真実を教えてくれるものとは限らないということです。研究者が,わかりやすさを重視した部分がある。そしてそのわかりやすさが受け入れられる環境が実践者側にあったのではないかと。このことは,間接的にですが今回のシンポジウムが扱っていた再現可能性のテーマに非常に大きく関連していると思います。

不確実さへの不寛容

これはなにも英語教育の分野に限らないことかもしれません。人間ははっきりしないことをはっきりさせたがる生き物なんじゃないかと思います。曖昧なことや不確実さのあることを受け入れることが難しい。なぜなら,それでは自分がどうすべきかわからないからです。しかしながら,世界は不確実さに満ちあふれているわけです。そこで,その世界の不確実さを多少ましにする,人々の不安を和らげようとする営みが研究と言ってもいいかもしれません。「多少ましにする」とはつまり,研究が明らかにしたことには必ず確からしさのグラデーションがあるということです。今受け入れられていることがのちに否定されるというようなことは起こりえます。研究者がやっている営みは,その現時点での確からしさを高める努力をすることと,その努力を続けていくことだと思っています。そのことをいくら研究者が認識していたとしても,研究者が発信する情報を受け取る側とそういった合意形成が取れていなければミスコミュニケーションが起こってしまいます。この状況こそが,私は解決されるべき根本的問題だという認識を持っています。

わかりやすさの弊害

とはいえ,世間の風潮としても,わかりやすいことは人々が最も価値を置いていることの一つではないかと思えるほどに,この世の中は(人々は)わかりやすさを求めているように思います。その態度が,わかりやすくないものにたいしての否定的な感情や排除を生んでいるように思うのです。だからこそ,わかりやすくない研究というのは金の無駄だと言われ,意味がないと思われてしまう。そう言われると研究者は,無駄なことに意味がある,と反論します。ところが,これはそもそもの前提の部分でずれているのではないかと思います。わかりにくさは無駄ではない,というのが一つ。そもそも世の中はわかりづらいものです。人間が何年もかけて一生懸命時間とお金と労力を費やしても謎だらけなわけです。つまり,そもそもわかりにくいものなのだ,という認識を共有すべきだと思います。研究のブレイクスルーというのは,このわかりにくい状況を一瞬にしてわかりやすいものに変えるものなんじゃないかという気もします。しかしながら,それはそんなに頻繁に起こるものではありません。

また,私達は短期的なものを重視しがちです。中長期的なことは見えづらいし想像が及びづらいからです。だからこそ,すぐに得られる結果(「目に見える成果」)を重視します。研究もそういう枠組みに絡み取られてしまっています。多くの研究者が,自分が貢献できる部分はその研究分野のゴールから見てものすっっっっっっごくちっぽけなものであることを自覚しているはずです。自分が生きているうちにはまず解明されないだろうなぁという大きな課題を前に,それを切り分けて,切り分けて,切り分けて,その一部を多くの研究者で分担しながら明らかにしようと試みています。だから本当は,一つの研究で世の中を変えることなんて殆どの場合無理だし,一人の研究者が生涯で変えることのできることも,世間一般の人の感覚からすればよほど小さいわけです。このことを理解してもらうのがすごく難しいのではないでしょうか。

おわりに

思考を垂れ流すように書いていたらずいぶんと話が大きくなってしまいました。私が言いたかったのは,「科学」や「研究」ということばに対する認識をすり合わせていく必要がありそうですね,ということです。いちおう未熟ながら研究者の端くれですので研究者目線の記述になってしまい,それが自己保身のように解釈されてしまう面もあったかもしれません。私としては,研究者がのらりくらりしていて良いわけではないですし,研究の知見を世の中に伝える際にわかりやすさは度外視していいとも思いません。人生をかけたプロジェクトに挑みつつ,真摯な態度で,慎重に話をするべきだと思います。こういうのはおそらくサイエンス・コミュニケーションということばで語られるものだと思いますので,そういった本をいくつかAmazonで注文した次第です。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。