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博士号の要件としての査読付き論文

はじめに

以前書いた,以下の記事に少し関連する話です。

いや,関連しないかもしれません。タイトルに書いたように,博士論文(博士号)と査読付き論文の関係についての話です。ググったところ,以下のような記事も見つけました。

博士号取得に査読付き論文は必要か否か

査読付き論文の「求められ方」

博士号取得の要件として,何らかの学術的業績(典型的には査読付き論文がX本,といったもの)が求められる場合,それが博士論文それ自体を構成する一部になっているかどうかということと,そういうものとは独立しているかどうかが一つ分かれ道になるのかなとなんとなく思います。

そして,博士論文研究の一部が外部の査読付き学術誌に公刊されていること,というのは,博士論文研究それ自体のクオリティを担保することなるというロジックからの制度設計なのかなと思います。

一方で,博士論文研究との関わりが必ずしも明示されない場合,それは博士論文研究のクオリティとは別に,「博士号取得者」としての適格性を判断する要素としての学術業績を求めているということなのかなと個人的には理解しています。

ちなみに,私の所属先は前者のパターンです。一方で,私自身が博士号を取得したときは後者のパターンでした。よって,私の博士論文を構成する主要な実験研究2本は,博士号取得後に就職してから学術誌にそれぞれ独立した研究として投稿して採択されました。博士課程時代に筆頭著者の査読付き論文はおそらく5本だったと思いますが,そのどれもが博士論文研究とは関係のないものでした。

博士論文が査読付き論文から構成されているときに起こり得る問題

博士論文研究の一部が査読付き論文で構成されているということは,一見,その研究の質がある種外部査読というシステムによって担保されているという見方ができそうです。一方で,査読付き論文といってもその中身には当然のことながらばらつきが多く見られます。ジャーナルのランキングのようなものを持ち出すまでもなく,です。先行研究として世の中に存在する査読付き論文はすべて正しいという前提で研究を進めていくことができないのと同じように,博士論文の一部が査読を通過した論文に基づいたものであっても,見る人が変わればその評価は変わる可能性があると私は思います。

人によって評価が変わるなんてそんな属人的な基準で評価されたら博士号を取得しようともう人も「たまったもんじゃない」と思うでしょうね。しかしながら,そもそも査読というシステムは完璧でもなんでもありませんし,限界があります。仮に同じ「国際誌」という名前で括られるジャーナルでも,査読の厳しさが違いますし,同じ雑誌でも,査読する人が違えば通ったり通らなかったりすることは普通にあります。むしろ,そこは運の要素もあるでしょう。もちろん,学生の立場にたてば,複数回の査読のやりとりがあり,審査に時間もかかる国際誌に掲載するハードルが高いことは間違いないでしょう。しかも,そこを博士課程在籍中に超えていくことを奨励しているのだから,そして,なおさらそれを超えたのだから,それがそのまま博士論文の研究を前に進めることに繋がっているという感覚になって当然だと思います。

しかしながら,ある研究が査読付き論文に掲載されている,ということは,博士論文の審査とは別のモノとして考えるべきだと私は思っています。少なくとも私が審査をする側の立場にたったと仮定して,その研究が業界のトップジャーナルに掲載されていたら審査の基準が緩くなるとか,あるいは「まあここはざっくり流して読めばいいか」みたいになるかと言われると,絶対にそうはならないと思います。専門的なところのドメイン知識が要求されるところは一旦置いておいて,次のようなところを考えながら読むでしょう。

  • 書いてあることの曖昧性がないかどうか(Aという解釈でも読めるしBという解釈でも読めるみたいなことがない)
  • 基本的なロジック(論理関係)の破綻がない
  • 因果推論に対して慎重である

上の3つのどこかで引っ掛かれば,その研究が査読付き論文として公刊されているかどうかには関係なくコメントつけますし,それが改善されないのなら改善されるまで私は「納得」しないと思います。

自分が審査の立場になるということは,それすなわちそれがレコードとして一生残り続けるということです。ブラインドの向こう側にいる査読者とはそういう意味で立場が違うのです。もちろん,昨今では査読者が身分を明かした状態で査読を行うジャーナルもありますし,査読プロセス自体はブラインドでも,あとから査読のレコードをオープンに公開するジャーナルも出てきています。それでも,まだまだダブルブラインドまたはシングルブラインドの査読の方が多いでしょう(少なくとも私の経験している範囲ではそうだと思います)。

また,査読者が担保するのは,広い意味では学術界の研究の質担保ですが,もう少し狭い視野ではジャーナルの質を守っています。つまり,同じ査読者でもジャーナルが違えば当然審査の基準も(場合によっては観点も)違うわけです。それぞれのジャーナルがそれぞれのスタンダードを持っていますからね。一方で,学位論文の審査員は,自分の所属機関(学部審査であれば依頼を受けた先の機関)が授与する学位の質の責任を負っているわけです。それを「他のジャーナルが認めたから」という理由で,博士論文審査の基準を動かすようなことをすれば,自分たちの機関では学位に値するかどうかを審査できないという宣言にもなりかねません。

おわりに

この記事は,査読付き論文が学位審査の要件になる際に,個人的に感じた問題点を書きました。査読付き論文そのもの自体を否定したいわけではまったくなく,博士論文の審査と学術誌の査読は役割が違うのではないかというのが私の今の段階での考えです。では,博士論文の審査において実際に問われているものは何なのでしょうか。また,査読付き論文が博士論文の一部になるような要件として課されている場合に,その経験は博士論文のどの側面の保証として機能しうるのでしょうか。このあたりについては,また機会があれば改めて考えてみたいと思います。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。