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Prince (2013) まとめ

こんばんは。誰得ブログ記事の更新です。こちらの論文のまとめ。

Prince, P. (2013). Listening, remembering, writing: Exploring the dictogloss task. Language Teaching Research.

http://ltr.sagepub.com/content/early/2013/07/05/1362168813494123.abstract

フランスの大学のリスニングコースにおいて文法項目の指導ではなくリスニング力の向上を目的としたディクトグロスの活用法を探索的に調査した論文
  • Introduction
フランスの大学での2年間のリスニングコースの担当としてどうやってそのコース設計をしていこうかというところが出発点。最初にとられた2つの策は

(1)multiple choiceやlistening grid(リスニングして表を埋める形式の課題)を採用しないようにしたこと
(2)トップダウン・ボトムアップの両方の処理を含む多様なリスニング課題を用いるようにしたこと
前者の理由としては試験中にカンニング行為てきなものが発生しやすく大人数クラスではそれを監視しづらいということと、選択肢を読んだりそれぞれを比較したりするという行為によって学習者のリスニングのプロセスに影響が出てしまうため。代わりに理解したことを書き取らせるような方法を採用。2点目に関しては、それぞれの処理方法はクリアカットではないもののインプットの処理中は両方を用いて意味理解をするために、トップダウンとボトムアップの処理をさせる課題をさせる必要があると考えたため。
本研究ではとくにディクトグロスという活動が学生のリスニング力に与える影響について扱っている。理論的背景としてはディクトグロスが学習者の口語のL2インプットの知覚的処理を促進するという提案に基づいている(Wilson, 2003)。実践のレベルではリスニング指導は過剰にトップダウン処理をさせるような活動に偏っていたが近年はそうではなく学習者のボトムアップの処理に注目が集まっている(Field, 2008)。ディクトグロスはこの学習者の処理過程の観察に適した活動なのではないか。リスニング指導は、しばしばリスニング力を評価しているだけであってリスニングを指導していないことが多い(筆者注:例えばリスニングさせてcomprehension questionをさせるような場合はリスニングできたかどうかを評価しているにすぎず、学習者のリスニングの処理はみれていないという指摘だと思う)。というわけで、どれだけ聞き取れたかを測定するのではなくもっとリスニングにおいて学習者の理解度をあげるためにはどのような支援が必要なのかということが問題。ディクトグロスをリスニング指導に取り入れる場合にもう一点注意しなくてはいけないのは、リスニングとライティングを同時に行うということによる認知負荷の問題である。
  • ディクトグロスとはなにか
(省略)
  • リスニング理解における記憶
(省略)←ここもwwwwwwww
  • 方法
質的・量的の両データともに2ヶ月間に渡って収集されたが期間は別。対象はフランスの大学で応用外国語?(applied foreign languages)を専攻する2回生。リスニングのクラスの他にも文法や翻訳、音声学、文化なども学んだりする課程らしい。
参加者は量的データ52名、質的データ55名。期間が長かったため欠席や授業をdrop outした学生もおり、12回の授業のうち2回以上欠席していない学生のみ量的データの分析対象となった(n=30;M=11F=19で平均年齢20.2)。英語学習歴は平均で9年間。一応1年次の試験はパスしているがそれでも学生のレベルに差は多少あってCEFRでいうとB1からC1+くらい。
用いられたタスクは3種類でセンテンスレベルに特化したもの。初回の授業でこれはディクテーションではないので必要なときは自分の言葉を使ってよいという説明をいれていてボトムアップとトップダウンという2種類の処理プロセスに関しても”the need for constant interaction between perceived phonological input and the top-down demands of plausibility or meaningfulness”を強調しつつ説明し、コースを通してこのことはリスニングのキーとして指導された。
タスクのタイプ
(1)ひとつの意味ユニットに対して1つのキーワードをメモさせる
意味ユニットごとにポーズを置くように工夫。文は2回読まれるが、書いていいのは1語のみで、2回目に新しく書き加えるのはだめ(ただし書いた1語を書き換えるのはあり)。キーワードを書かせたあとにペアで比較してそれらをもとに全文の再構成をさせる。2、7、11週目に学生の書いた文を回収。オンラインの意味処理中に書かせたということではないので産出された文は比較的長めで平均24.7語(意味ユニットでは4つ)。スコアリングは”intelligible”なユニットの数で行われた。完璧にintelligibleなものは1で部分的にintelligibleなものは0.5、スペリングミスや統語のエラーはカウントされず。
(2)リスニングの回数が一度だけ(書き取りありorなしで)
リスニングの機会が複数回あると、学習者はまず一回目で最初から一語ずつ書いていって二回目で書き取れなかった部分を書き足すというようなストラテジーをとったりするので、学習者がその文の意味自体ではなく語にフォーカスするのを防ぐためにリスニング回数を一度に制限。3,7,11週目に学生の書いた文を回収。平均語数は16.6語。スコアリングは正しく書かれた語と音節の数。元の文と意味的に一致していれば正しい語としてカウントされた。(1)同様スペリングと形態統語エラーはカウントされず
(3)未知語を聞いた時の対応をどうするか(意味を推測して自分の知ってる言葉で置き換えさせるトレーニング)
未知語に遭遇したときの方略としては、(a)スルーする、(b)聞こえたとおりに文字に書き起こしてみる(a phonological strategy)、(c)文の意味から未知語の意味を推測し自分の知っている言葉で置き換える(a semantic strategy)というような方法が考えられるが後者のほうがベターで、学習者にトップダウン処理で意味を補わせるトレーニングをさせることで文の再構成が可能になる。というわけで、この活動では未知語をなるべく知ってる語で置き換えるように指導。3,6,10週目に産出された文を回収。2文の中で、出現頻度の低い語を片方の文では後ろの方に、もう一方の文では前方に配置するように工夫。学生にはこの低出現頻度語の位置は前もって知らせた。文の平均語数は15.2語。スコアリングは低頻出語を置き換えた語のcontextual plausibilityで判断(上記2つのタスクと同様に1、0.5、0のスケールで)。
以上の3つのすべてのタスクで課題文は録音されたものではなくその場で読み上げられた。よってそのスピードは多少差はあるが学期末の試験のスピードに限りなく近い95wpsであった。このスピードは通常のスピーチに比べればかなりゆっくりであり、またかなり明瞭に発話するように注意した。
  • 結果
主に産出された文とタスク後の学生とのディスカッションから。
タスク(1)でのintelligible unitは2週目から11週目で2.7から3.8に上昇。
例えば、
When the engineer tried to borrow some money / to start up his own business / he had to ask some old friends from school / because the banks refused.(スラッシュは意味ユニットの区切りを表す)
という文では1ユニットに1語しか書けないので、わずか4語から全体の文の再構成するということになる。この場合書き取った1語がワーキングメモリーに保存された2番目、3番目の語あるいは学習者自身が保持していた語を思い出すキューになる。上記の文の最初のユニットではengineerと書いた学生が34%、borrowと書いた学生が54%で残りの学生はmoneyと書いていた。スペリングがわからないあるいはその語自体を認識していなかったという理由でengineerを書くことを避けた学生もいた。engineerと書いた学生の方がより文の再構成に成功しており、うち74%の学生は続く動詞のborrowを覚えていて、残りの学生はtried to borrowをneededやwantedに書き換えていた。ここで問題になるのは主語と動詞のどちらを書くほうがいいのかということだが学生の感想では一概にどちらとはいえず、両者の意味と関係性による。またコロケーションも重要な要素であり、例えばborrowと書いてmoneyを思い出すほうがmoneyを書いてborrowを思い出すより簡単だという声も。
結論として、学生は意味ユニットの記憶を強めるための意識的な方略としてチャンキングを認識した。
タスク(2)では書かれた語数は平均で10%、音節数は14%上昇。このタスクは、初めはどのような方略がよいのかという指示は一切なしでやった。文を最後まで聞いてから書き始めた学生のほうがそうでない学生より全体の文の再構成がよくできていた。またそのような学習者は不必要な語を削除していた(たとえばHe said he hopedにおけるsaid heなど)。文の読み上げられるとすぐに書き始めた学生は途中で抜け落ちていた。しかしながらすべての学生が「最後まで聞いてから書く」という方略に肯定的というわけではなく、そうすることによって文の始めの方を覚えることができないという意見もあった。どのくらいのアイテムを保持できるのか、そのアイテムを構成するものはなにかというはなしで、関連性のない2語よりは関連性のある2語の方がセットで記憶しやすい。またitems数が同じの場合は語数が少ないほうが覚えやすい。
タスク(3)では平均のplausibility scoreは文の始めの語で0.56から0.74に、文の終わりの語では0.68から0.84に。ほとんど全ての学生が未知語に遭遇したあとにその後の部分に集中するのが難しいとコメント。というわけで、そういうときでもインプットにしっかりと注意を向けさせるためにこの活動はいい。未知語でも、それが意味的なものだけでなくもっと統語的処理に関わってくることもあった。例えば分詞構文における文頭の過去分詞など。それを主語だと解釈したために文の理解が困難になってしまったケースが多かった。しかし、2文目を聞くことにより文脈が補完されて1文目の理解が促進されたということもあり、単文に集中するのではなくテキスト全体(この場合は2文全体)をしっかり捉えるということの必要性が示唆された。
質的データ。リスニングのコースに関する学生の反応と、リスニングスキル一般に対する学生の態度について自由記述の質問紙調査。ディクトグロスに焦点をあてた質問は
  1. Has the framework adopted in the course (i.e. stressing the interaction between bottom-up and top-down processes) been useful to you; why or why not?
  2. Has the emphasis on chunking been useful to you; why or why not?
一つ目の質問に関しては、このようなボトムアップとかトップダウンとかを意識したことがなかったという学生が多数で、この質問に答えた34名のうち21名が”useful”と答えており、うち15名は特に文脈や全体の意味に注意を払うことが自分が理解できた語から文を解釈することに役立ったという点に言及していた。
他方、この実験で用いられたリスニング方略が役に立たなかったと回答した13名のうち、その主な理由としては学習者自身のリスニングの仕方を変えるにはいたらなかったというものである。また、教わったことは今まで自分がやってきたやり方と同じでそのことには気づいていなかった(そしてそれは有効ではないと思っている)。という意見もあった。このような回答からは、リスニングのフレームワークに関しては意識的な気づきは必要でないのかもしれないともいえる(教えてなくても自然にやっている例もあったということ)。未知語に遭遇した時にトップダウンの知識を用いるという方法をどのような場合にあるいはどのくらいの頻度でやるのかという問題は結構難しくて学習者の確信度に関係があるはず。また聞いた音をもとに語を書くというのは自然な作業ではあるものの、それを修正したくないという気持ち(自分の言葉で置き換えるのではなく音に依存してしまう傾向)が困難度をあげているということもある。”deep sea fishing”を”dipsy fishing”としてしまったという場合には母音の知覚という問題が絡んでいる。
二つ目の質問にたいしての33の回答のうち25名がチャンキングが有効であると回答。数名の学生がチャンキングは有効ではあるが実際に適用するのが難しいと考えていた。チャンキングをうまく使いこなすために重要なのはキーワードの見極め。キーワードがうまく拾えなかったらそこから再構成するのが難しくなってしまう。チャンキングが有効と認識しているにもかかわらず、文が長すぎた場合にはチャンキングでうまく対応できないという学生もいた。この問題はワーキングメモリーのキャパシティと関連しているだろうがより直接的には熟達度と関係している。つまりは熟達度によって「長すぎる」と感じる長さが違ってくる。高熟達度の学習者は無意識的に文を処理可能な長さのチャンクごとに処理しているが低熟達度の学習者はこれができず結果的に音声のみでは理解できず文字を読まないと理解ができないというような具合に。
  • ディスカッション
ワーキングメモリーの容量という問題以外にリスニングにおいて学習者が抱える困難点。
  1. インプットの区切りを間違える(illustratesがin the streetsになってしまうなど)
  2. インプットに対応する語彙を探す際に、L2学習者は出現頻度の高いものを思いつきやすい傾向にある(それがインプットとはかけ離れている可能性)
上記のようなsegmentationとlexical mismatchという2つの問題は、ワーキングメモリーにインプットを記憶する困難さによって悪化する。
実験の結果は語や意味のユニットを書き取ることや未知語の処理に関して学習者の能力が向上したことから好意的に解釈できる。またリスニングのプロセスを処理可能な構成要素ごとに分けることにも学生は前向きで学生の自信も学期がすすむごとに上昇していった。よってディクテーションを用いたリスニング力向上の試みは効果があったと考えられる。
  • Limitations
グループがひとつしかなかったので実験で用いられた教材がカウンターバランスされていなかったという可能性。こういう場合にはスコアリングに最低でも2人は必要だった
学生のワーキングメモリー容量のアセスメントがなかったために、実験の結果みられた変化がワーキングメモリー容量があがったことによるものなのかが不明。でもパフォーマンスの向上を見ているのであってなにが原因であるかということが実験の主旨ではないのでそんなに問題でもない。
一番の問題は与えられたインプットのスピードと内容がauthenticではなかったということ。ディクトグロスによるリスニング力の向上がauthenticなinputの処理の際にも有効であるかどうかということや、この実験で用いられたリスニング方略がどの程度他の状況にも転移するかということをみるのもおもしろいだろう。この実験で行われた用にゆっくりはっきり発話されるということはかなりレアなので学習者のよりauthenticな口語の英語の理解度が必ずしもあがったとは言えない。が、それでもとりあえずこの研究で用いられたディクトグロスを利用したリスニング活動は少なくとも学習者にリスニングの処理を意識的に行わせ、その処理がどのような要素で構成されているかというのを理解させる機会は与えている。
  • 結論
リスニングのコース全体としては、本実験で紹介したディクトグロス以外にもauthenticな教材を用いたリスニング活動も行われた。その前段階として、ディクトグロスを取り入れたリスニングは学習者のよりよりリスニング理解への足がかりとなった(以下略

 

というわけで(以下感想)ディクトグロスというのは文法指導の1つのテクニックとして使われる(フォーカス・オン・フォームという言葉が伴うことも)わけですが、それをリスニング力向上のために取り入れてみましたという実践報告っぽい感じですかね。冒頭の方でディクトグロスはボトムアップうんぬんみたいなことが書いてあったんですが結局やらせていることってトップダウンでキーワード類推とか未知語類推みたいなことだったんじゃないかなという気がしないでもないんですが。オンライン処理中に未知語に遭遇した時に既知の語にどうやってアクセスしてんだろうとかリスニング中に文脈から未知語類推するのがどれだけ簡単or困難なんだろうとかそういうことが気になったんですが。語彙のサイズによるんじゃなないかと思うんですけどね。リスニングっていうのはあまり専門じゃないのであれなんですがまあ先生もトップダウンとボトムダウンてのがあってだなごにょごにょとか言うよりは(それもそれで効果あるとは思うけれどそんなこと言われてもへー。で終わるケースの方が多い気がする)、こうやって実際にいくつかのディクトグロスベースのリスニング活動させて自分がどうやってインプット処理しているのかっていうのを意識的に体験させるのはいいかもしれませんね。これは特に統計検定かけてるわけでもないので結果の一般化はできないわけですが研究の可能性としてこういうのどうかなっていうアイデアとしてはいいんじゃないでしょうか。

 

そんなところですかね。

 

なにをゆう たむらゆう

 

おしまい。

“Point to Point”

どうも。前回のSato (2010)の続きです。前半2つがその2010の論文へのレスポンス、その次がそれらのコメントに対する再反論になってます。その後に一応一連の論文を読んでのコメントを書きます。

 

Sybing, R., Urick, S. T., & Sato, R. (2011). Point to Point: Responses to ‘Reconsidering the Effectiveness and Suitability of PPP and TBLT in the Japanese Classroom’. JALT Journal33(1), 67-76.

 

Sybing, R. (2011) A Response to Criticism of TBLT in Japan’s Language Classrooms

  • PPPモデルのメリットに関しては認める。例えばある程度自由度を制限した状況を与えることで不安を軽減する可能性など。また大学入試や資格試験が重要視される日本という環境でのでは適しているかもしれない。
  • 問題は、SatoがTBLTの反対として直接PPPをおいたこと。つまりPPPとTBLTの二分法という考え方はよくない。そのような分け方は理論面実践面双方でなされていない。そしてそれはSatoのアプローチが新しいということを意味するのだが、それは必ずしも理論的であるとはいえない。
  • PPPは望ましい結果を達成するために修正が必要であると容認しながらも、TBLTは日本というEFL環境には適応されえない融通性のない教授法であると批判しているというのがSatoのロジックの誤りである。
“…his argument affords no simmilar concession to TBLT, which, he implies, forbids at all costs both the treatment of grammar strctures and comunication in the native language” (p.68).

 

  • (TBLTを日本に適用する際の問題点として語られている)L1使用の件に関しては例えばL1の使用を認めるTBLTの実践もある(Carless, 2007;Swain, 2000)。
  • どんな教授法でもその最も純粋な形で語学教室で実践的に実現可能であるという考えが甘い。
  • 実践とは、教授法に関して臨機応変であることと、状況に合わせてあらゆるアプローチを教室での使用に落とし込むということを教育者たちに要求している。
  • まずは日本における言語教育のゴールを決めるべきであって、今の状況に合っているかどうかではなく、なんのために言語教育をするのかという観点を考える必要がある。口頭によるコミュニケーションレベルを挙げるということであれば、コミュニケーション能力をあげるための教授法をどうやって適応させるかを考えなくてはいけない。

 

Urick (2011) On Methodology in Japanese Secondary English Classrooms

 

  • Satoが取り上げた第二言語習得のモデルはその分野で主流ではない。
  • 宣言的あるいは明示的知識は必ずしも言語習得の出発点ではないし、SATを提唱したAnderson自身もその考えを軟化させている。
  • 現在は暗示的学習と暗示的知識が、ほとんどのSLA理論に組み込まれてきている
  • 教育目標の問題について触れているが、どの目標が適切であるかについての明確な青写真を提示することに失敗している。
  • 文科省や中等教育教育者たちがまず英語教育界の目標と目的について広く議論をし、共通の認識を共有することが必要。その上で教授法の問題が話し合われるべきではないのか。

 

Sato, R. (2011). A Reply to Responses to “Reconsidering the Effectiveness and Suitability of PPP and TBLT in the Japanese Classoom”

主張したいのはとにかくPPP修正版推しだということ。

タスクの定義の曖昧性

Matsumura(2009);タスクのコア概念は、意味重視。言語的なものではなくコミュニケーションの結果としての産物があること。実際の世界で用いられるものに似た言語プロセス・認知プロセスを含んだ活動であること

Ellis(2003);focusedタスクは学習者によるある特定の言語表現の使用を引き出すことが目的であるが、それでも一番の焦点は意味にあるべきである。

 

このように定義が複数あるので、どの考えも1人のTBLTの著者に帰することはできない。しかしながら、明示的なform-focusedの指導や集中的なform-focusedの練習はTBLTでは必須であるとは考えられておらず、しばしば退けらていることは明らかである(Ellis, 2003;Nunan, 1989;Skehan, 1996)。

 

明示的知識の重要性

 

  •  TBLTでは軽視されている明示的知識だが、構造に関するそのような知識やイミテーション・繰り返し・パタプラ・ドリル・暗記、つまりpracticeはインプットの不足しているEFL環境では実際不可欠である。
  • ターゲット構造の原理やルールを(明示的にL1で、あるいは暗示的にL2で)の文法指導を与えることによって学習し、それに続く大量の意識的な練習なしに日本の中高生(例えばACTFLでlow levelとされるような)は、コミュニケーションのために英語を使うであろうとは思わない。

 

TBLTの限界

Miyamoto (2009);タスク型シラバスで、高校生に体系的に文法をおしえることは難しい。EFLだしモチベもあれだし。

Miyasako(2010);暗示的学習により過ぎてて日本では機能しない。

Muranoi(2006);修正版PPP(PCPP)の提案。content-orientedアプローチが日本人英語学習者のコミュニケーション能力の発達に効果的。

しかしながら、productionの段階ではオープンあるはクローズドのタスクの使用もありうる。のちに学習者が構造についての暗示的知識を使えることができるようになったあたりまでオープンな産出活動を遅らせたり繰り返したりすることもできる。

 

明示的知識と暗示的知識


  • 確かに自動化のプロセスにおいて宣言的あるいは明示的知識を経ずに手続き的知識が得られる場合もあるだろうが、これは、教師がそのような明示的・宣言的知識を育成する方法で教えることができない、すべきではないということにはならない。
  • 大量のインプットを与えることによって、教師は学習者が暗示的知識を発達させることができるような状況をつくるように努力すべき。このあたりについては詳述すべきだった。しかしながら、暗示的知識や暗示的学習が日本の中等教育レベルの学習者たちへの指導法として取り入れられうるという考えについては疑問。
  • TBLTの一番の欠点は明示的意識的学習を代償として暗示的知識を強調する点。

 

日本におけるTBLTの実践

  • 文法の正確さと同様にコミュニケーション能力も伸びたという研究はある(Fukumoto, 2010;Matsumoto, 2010;Naito, 2009;Okumura, 2009;S. Sato, 2010)。
  • しかしながらほとんどのケースで事前に目標構造が指定されており指導(明示的・暗示的)そのあとに練習が続く形だった。ほかのケースでは、TBLTは補助的な形で取り入れられていた。
  • TBLTのスタイルは少なくとも決定的な概念についてはPPPと共通している。

 

有効なTBLT

  1. 目標文法項目の指導がある(明示的・暗示的、演繹的・帰納的になされる)
  2. 形式に焦点をおいた十分な練習がある
  3. アウトプットの機会がある、あるいは補助的に修正版TBLTを用いている
しかしながら、これらが実際にTBLTと呼ばれうるのかどうかは疑問がある。それは先行研究として挙げた例でも同じ。

 

英語教育の目標

オーラルコミュニケーションのレベルをあげるために障害を乗り越えて英語教育改革するべきというのは同意。中高でこのゴールを現実化させるためには、英語教師の英語力の向上と伝統的文法訳読式からの脱却が必要。

 

結論

日本の中高生に英語の言語構造の明示的知識を教え、大量の練習と、習ったことを使う現実的なコミュニケーションの機会が大事であると再度強調したい。

コメント

 

これまずTBLTっていうもの自体がそのTBLTという枠の中で、支持している言語習得理論や仮説の違いで微妙に言ってることが違うからなかなか難しいですよね。で、この論文の出版の時期とかの関係で無理だったのかもしれませんが、ふと疑問に思ったのは先日僕が取り上げたEllis (2009)が引用されてないってところなんですね(このためにあのブログ記事を先にアップしたというのもあります)。詳しくはあちらの記事を参照していただきたいのですが、あれが2009年で、それまでにもTBLTっていろいろ批判はあるわけですけども、それに丁寧にEllis先生が反論なさってるんですよね。そこでは文法シラバスに関する話や、TBLTが上級者向けであるということに関しても記述はあるんですよね。まあ確かにEllis先生は割りとTBLTを広く捉えていらっしゃって、focused taskの活用や、明示的知識の重要性を主張していると僕は理解しているので、僕も考え方はそっちよりになっているのかもしれませんが。例えばTBLTは必ずしもoutput basedではなくて、input-basedのTBLTも可能であるということはEllis先生がおっしゃっていて、もちろん限られたリソースを用いて(例えそれがhiddenされた文法を使っていなくても)コミュニケーションを成立させることにも意味はあるし、初学者にはinput中心のTBLTもできますよっておっしゃってます。なのでそのへんの検討が必要であると思いますし、もしも日本での実践例が限られてるとしたらそのへんがこれから研究されなければならないのかなと思います。また、元論文のperspectivesの方で上級者と想定される大学生にタスクやらせてみてダメだった(現在完了を使わせたいのに使わなかった)ってことなんですけどまあタスク自体がダメだったかあるいは実施の際の手順がよくなかった(改善できた)とかそういう可能性はないのかなとかちょっと思ったり。例えばpre-task段階でのplanningとか。まあそもそも文法指導って一度やって「はい今日現在完了ねー。はい練習してーはいじゃあタスクで使わせてー。おーよくできてたー。じゃ次不定詞いこー。」とかじゃなくて、一度やったのをまた繰り返して身につけさせるわけであって、タスクの繰り返しとかも選択肢としてありますしね(どっかにそんなことが書いてあったけど忘れました汗)。それから環境面(テストや入試、学習者のモチベーション、日本人英語教師の英語使用割合の低さ)がTBLTとミスマッチであるという点に関しては、じゃあそれ変えればいいんじゃないって単純に思ってしまいました(もちろんそんな簡単に変わるかボケという批判があるのはわかったうえです)。モチベーションの部分はともかく入試とか、あるいは学校の定期テストは教師側が変えられる可能性は大いにありますよね。入試はちょっとまた違う要素が入ってくるとは思いますけど(弁別力とか)。日本人英語教師の英語使用の問題も、英語でやるようにすればいいんじゃない?って思ったり(いや英語は英語でとは言わないですけどさすがに日本語ばっかりっていうのもちょっとそれはどうかなとは思いますのでね)。

perspectivesに対する2つの反論に関しては、例えば「PPPは望ましい結果を達成するために修正が必要であると容認しながらも、TBLTは日本というEFL環境には適応されえない融通性のない教授法であると批判しているというのがSatoのロジックの誤りである。」なんかは確かにと思いました。ただ英語教育のゴールみたいな話になってくるとまたちょっと話しはずれるのかなとか思ったり。その上の方の話と現場での指導うんぬんはもちろんつながっていますし、誰にとっても他人ごとではないのですが「いやそれは俺に言われても」みたいな。いや、ていうよりどんな問題も最終的にやっぱりそこなんだよなって再再再確認くらいしたともいえますけど。あとは、「宣言的ー手続き的」のACTモデルがPPPと合ってるっていう説には、perspectives読んでるときに、「明示ー暗示」の話はなんで出てこないのかなとは少し思ってましたけどちゃんと指摘されてましたね。2つの立場があるのならなんで一つを選択してその枠組で話を進めていって、なぜもう一方ではないのかっていうのをしっかり組み立ててあるとありがたいなと。紙面の都合とかあって深く踏み込めなかったのかもしれませんけど。

そうそうそれで「明示ー暗示」の話になりますが、今ってそこまで強く明示的知識が習得に役立つという立場が否定されてるんでしょうか?TBLTとかFonFの話になると、あまりにもその暗示的指導や暗示的学習の側面が推されすぎて、もちろんそれがTBLTの肝であることには変わりないとしても、先ほども言及したように「いやいや明示的指導もTBLTの中に組み込めますよ、文法指導には必要ですよ」っていう流れになっているんではないでしょうか。これはもしかしたら僕の個人的思想が入り込んでそうやって解釈してしまっているのかもしれませんけど。

「TBLTとかPPPとかラベルはどうでもいいから目の前の生徒を見ればそこに答えはある」とかサムライの方はおっしゃりそうですけれども、実際CLT(の一つのスタイルとしてのPPP)を発展させたものがTBLTであって、共通の概念があるのは当然なんじゃないでしょうかね。最後の方に、「有効なTBLT」という提案があり、これは果たしてTBLTなのかということになってますが、形式に焦点をおいた十分な練習というところがTBLTの理念にはそぐわないのかなとは思いますね。TBLTの中心は「タスク」であってこれが一番大事なわけですけれど、TBLTに向けた批判がなされる場合ってまず指導法としてのTBLTなのか、シラバスデザインとしてのTBLTなのか、あるいは両方なのか、どっちがどうそぐわなくて、じゃあどうすればいいのかっていう順番で考えていきたいですよね。この観点で整理すると、多分今回のTBLT批判は両方の観点で日本の英語教育には合わないんじゃないんでしょうかってことになるかと思います。

最後の結論部分(2011の方)で明示的知識の指導が大事であるというのがあるんですが、これもその前に文法項目の指導は(明示ー暗示、演繹ー帰納」のいずれでもいけるっておっしゃってまして、そうなんですよね、だから明示的知識を教えるために明示的に教える必要はないわけでしてWatari (2012)でも「学習英文法は明示的指導を前提として論じられることが多いように思いますが、明示的に教えるのか暗示的におしえるのかという選択の余地があります。そしてどちらを選ぼうと、学習者の側で学習は明示的にも暗示的にも生じうることに留意すべきです」(『学習英文法を見直したい』 p. 77)という記述があります(ここを今書いてるペーパーで引用したくて英訳探してたのでした)。そして、「形式に焦点をおいた十分な練習」ということなんですが、これは形式と意味をつなげるための練習ってことですよね?DeKeyser(1998)をSato先生は引用されていらっしゃるので間違いないと思いますが、この形式の練習っていうのがAudiolingualism的なmechanical drillsと誤解されてしまう、そしてこのドリルっていうのがformsとmeaningをつなげるためとかいって実際に学習者の頭の中で起こってるのは”forms-forms”じゃないかよっていうのがDeKeyser (1998)のp.53-54あたりで言われてることですよね。なので問題はこのpracticeの段階なのかなあとは思いますね。ちなみにpoint-to-pointの方では引用文献がポスター発表だったり日本の書籍だったりして見られなくてイラッと(´・ω・`) ショボンでした。

ちなみにTBLTに関しては、僕がまとめたやつで申し訳ないんですがこちらの第38回 全国英語教育学会 愛知研究大会(第1日目) ハッシュタグまとめの最後の方に、Ortega先生の講演中の先生方のつぶやきがありますので参考までにどうぞ。

というわけでなんかいろいろ引っ張っておいて大したコメントも出来ずに申し訳ない気持ちはありつつもこのへんでおしまいにしたいと思います。

では。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。

Ellis, R. (2009) Task-based language teaching: sorting out the misunderstanding

どうもご無沙汰しております。かねてからTBLTに関しては興味がありまして、そのあたりのことを扱ったペーパー書くのでその周辺的というか大枠というかでTBLT関連の論文を読んでいます。今回はこちら。タイトルにもあるようにTBLT批判への再反論といった内容です。まとめというかメモと訳に近いですので日本語力が問われてヤバイですね

Ellis, R. (2009). Task-based language teaching: sorting out the misunderstandings. International Journal Of Applied Linguistics19(3), 221-246. doi:10.1111/j.1473-4192.2009.00231.x

Introduction

TBLTは様々なSLA関係研究者にとって関心度の高いテーマになっている。また一般教育論や言語教育の経験知からも支持を受けている。
TBLTは、systematicに少しずつ言語を教えるという従来の試みを否定し、言語習得は、言語教育の目標が学習者の持って生まれた言語習得能力が成熟していくことができるようなコンテクストをつくることという原理に基づいているという点で、言語教育の主流の見方に異議を唱えている(p. 222)。
そしてSheen (1999, 2004)やSwan(2005)などからの批判もある。他にもSeedhouse (1999, 2005)は、「タスク」は言語教育プログラムの周辺において妥当な構成概念を成していないという点でTBLTに反論し、Widdowson(2003)はタスクの定義がかなりゆるく、そしてauthenticな言語使用を強調しすぎていると主張している。
また、TBLTは、TBLTの根底にある教育哲学と根本的に異なる哲学を教師が支持しやすく、限られた第二言語能力あるいはテストの波及効果というような実践的な問題に直面しているアジア諸国など、異なる指導環境における実施の実証研究の面でも批判にあっている(e.g., Li 1998, Carless 2004, Butler 2005など)。

 

Task-based language teaching: key percepts

言語教育活動が「タスク」であるために満たされるべき条件
  1. 意味に第一義的フォーカス(意味論的・語用論的側面)
  2. 意見表明や意味伝達など情報をつたえるために必要な’ギャップ’があること。
  3. 活動を遂行するために学習者が自分自身のリソースに依存していること。
  4. 明確に定義された結果があること
上記の定義に従うと、taskとsituational grammar exerciseの違いは、後者は2と3は満たしているが、1は満たされない(学習者が、活動の目的が、メッセージや意味を伝えることではなく正しい言語使用の練習だと思っているため)。また、4も満たされない(活動の結果が正確な言語使用であるため)。1
タスクはまたfocusedとunfocusedに分類できる。後者は学習者に(彼らのもつ)言語一般のコミュニカティブな使用の機会を与えるためにデザインされたもの。前者は、ある特定の言語的特徴(典型的なのは文法構造)を用いてコミュニケーションを図る機会を与えるためにデザインされたもの。しかしながら、focusedタスクも上記の4条件は満たしていなければならない。よって、目標となる言語的特徴は’hidden’されている。つまりは明示的にはその特徴を指示されない。
また、taskとsituational grammar exerciseの違いは’task-based’と’task-supported’言語教育という重要な違いの基礎となる。前者はunfocused taskによって構成されるシラバスが必要で、後者は構造的シラバスを利用し一般的にはPPPを含む。後者も教育的にのぞましくないわけではなく両立させることもできるし安易に後者を切り捨ててはいけない(engagementをinspireしうる)。
‘Input-providing task’ と’output-prompting task’という分け方もある。つまりは4技能をカバーしているしいくつかを統合することも可能。
デザインと教授法という観点。つまり、どのタスクがコースに含まれるべきか、タスクの内容はどんなものか、そして一番決定的なのが、学習を促進するためにどのようにタスクを並べるか。教授法の決定は、タスク型授業をどのように組織するかということ、どのタイプの参加構造を使用するかということに関係している。
タスクの3段階
  • pre-task phase
  • main-task phase (obligatory)
  • post-phase
“[I]t is important to recognize that there is no single way of doing TBLT” (p.224).
TBLTの3アプローチ比較(Table.1)
Long (1985)
Skehan (1998a)
Ellis (2003)
上記3アプローチの比較の際に用いた5つの特徴
  1. 自然な言語使用
  2. 学習者中心
  3. Focus on Form
  4. focused or unfocused
  5. 伝統的アプローチの否定

Misunderstandings about TBLT

TBLTに関する誤解の原因は特に2つ。TBLTに関する理論的根拠の誤った解釈と、TBLT支持者の間にある違いを認めることをしていないこと。以下、著者が列挙するTBLTに関する12の誤解。

 

⒈ タスクの定義が、他の指導法との違いを明確にするほど十分ではない点
 
WIddowson(2003)は、Skehan (1998b)によるタスクの定義を取り上げ、’meaning’、’goal’、’real-world relationship’などの用語の不明瞭さを指摘している。この点に関しては正しい指摘である。しかし、タスクのoutcomeに関しては、タスクがうまく遂行できたとしても、言語使用が最小限であった場合には学習に繋がらないと主張している。しかしながら、これはタスクを定義する目的は学習のoutcomeを具体的に記述することではなく、タスクがどのような教育上の活動なのかを規定することにすぎないという点で論点がずれている。
タスクの定義に関しては問題が多いことが明らかになっている。しかしながら、Skehanの定義よりも正確なものもあり、Widdowsonがタスクの定義づけに関しては’loosely formulated’であるというならば、ひとつの定義を持ち出してそこから一般化するよりもむしろ定義の幅を考慮することは必要条件である。
さらには、Skehanの言及しているタスクの多くは、人々の実際の生活には起こりそうもないとかなり正確な主張をしている。Widdowsonはタスクの定義的特徴を、’authentic’であるべきと想定しているようにみえる。しかし、Bachman(1990)が指摘しているように、situational authenticityとinteractional authenticityという2つのauthenticityを区別することが可能である。Widdowsonは明らかに前者が頭にあるようだが、さらにはタスク型論文はinteractional authenticityが重要であるということを明確にすべきであるというせっかちな読み方が頭にあるようだ。つまり、situational authenticityを満たすようなタスクもあるかもしれない(しかしWiddowsonも指摘しているが教室における必要性を考えるとこおれはおこりそうにない)が、すべてのタスクは前述のような自然に起こる言語使用場面において生じるインタラクションの過程(例えば意味交渉、スキャフォールディング、推測、モニターなど)が起こるようにデザインされている。

 

⒉  タスクは語用論的意味を重視していて意味論的意味を軽視している。

 

伝統的アプローチ(Widdowsonのいうstrctural-oral-situational teaching) は語用論的側面が無視されている。逆にTBLTは語用論的意味を処理することを求めているが、意味論的意味を獲得するのに必要な状況的なヒントを学習者に提供することに失敗している。学習者が語用論・意味論両者をマスターしなければいけないとすると、WiddowsonはTBLTとSOSのコンビネーションが必要であると主張しているようである。これには同意だがエッセイの全体的な方向性は明らかにTBLTに否定的である。
Widdowsonの主張には2つ問題がある。1つはTBLTでは意味論的側面を指導できないという誤解。2つ目はある特定の文法構造を教えるために与えるコンテクストを工夫することによって学習者がそれらの構造を獲得できるようになるという想定が誤っていること。この考えは学習者自身に内在するシラバスやそれを導く形式と機能のマッピングを考慮にいれていない。

 

⒊ タスクから得られるインタラクションはたいてい不十分でL2習得のために適切なコンテクストを構築できない。

 

Seedhouse(1999)は学習者がコンテクストに過剰に頼りすぎることや、彼らのもつ言語資源が限られているために、結果としてタスクのパフォーマンスは”indexicalized and pidginized’’ な言語ばかりになり、このようなインタラクションは習得ではなく化石化を促すだろうと主張している。
確かにインフォメーションギャップタスクがこのようなインタラクションを生み出すことはありうるが、そのことはタスク型の否定を正当化できない。
  1. 学習者が初級者であった場合そのようなインタラクションは彼らのもつ限られた言語資源を活用する能力を発達させ、彼らのstrategic competenceを発達させることを助けるという点で実際有益であるかもしれない。
  2. TBLTで起こるインタラクションの性質は3つの要素による(生徒の熟達度、タスクデザインの特徴、実施方法)。より複雑なタスクにより上級な学習者が取り組むほど、より言語的に豊かなインタラクションが期待できる。特に学習者がpre-taskやオンラインプランニングする機会が与えられていれば。
”One of the aims of TBLT is, in fact, to create contexts in which learners can experience what it means to communicate at different stages of their development — using whatever resources at their disposal. Inevitably, with beginners, the interactions will be limited, but this does not mean that they are of no pedagogic value” (p.230).

 

⒋ タスクのパフォーマンスがどのような言語使用を生むかは予想が不可能なためにタスク型コース内で目標言語が適切にカバーされていることを保障できない。

 

ワークプランとしてのタスクとプロセスとしてのタスクの違いという分け方は不完全である。Skehan(2001)やRobinson(2007)は、言語の正確さ、複雑さ、流暢さに影響を与える特定のデザイン上の特徴を示している。Foster & Skehan(1996)などもplanningのような実施変数がタスクが予測可能な方法で行われるかということに影響を与えるということを明らかにした。Skehanの研究は学習者が言語の様々な側面に優先順位をつけるように導くようなタスクのデザインや実施が可能であることを証明している。focusedタスクによってもある特定の側面を引き出すことは可能(Ellis, 2003;Mackey, 1999)。
また、Seedhouseのタスクがコースデザインに不適切であるという主張は、タスクとはアウトプットを促すものという彼の分析に基づいているが、タスクはインプットを与えるモノとしても機能し、この場合はある特定の要素に注意が向くようにし、実際にそれがタスク活動時に使用されるようにするのはよりいっそう簡単になる。

 

⒌ TBLTは文法シラバスに則っていないので、文法を十分にカバーできる保証がない。

 

この問題を考える際にはまずタスク型「シラバス」とタスク型「指導」を分けることが重要。シラバスの場合でもタスクはfocusedとunfocusedに分けることができ、Sheen(2003)やSwan(2005)が批判しているのは完全にunfocusedタスクのみで構成されるシラバスの場合である。しかしながら、focusedをから成る”grammar-oriented task-based syllabus”というのも可能であるし、focusedとunfocusedのハイブリッド型もありうる。Willis(1996)、Long & Crookes (1993)、Skehan(1998b)などは概して”pure task-based”シラバスを選んでいるが、Ellis(2003)やSamuda &Bygate(2008)などは文法もタスク型シラバスの中に位置づけられるという立場である。

 

⒍ TBLTではタスクのパフォーマンスを阻害しないようにするために形式への注意がcorrective feedbackに限られている

 

FonFはTBLTにおいて文法を扱う主要な方法のうちの一つである。
“[T]he only grammar to be dealt with (in TBLT) is that which causes a problem in communication” (Sheen, 2003).
Longの提案したTBLTの場合はこの批判が的を射ている可能性がある。しかしながら形式への注意を向けさせることはLongの定義によるFonFのみではなく様々な方法が考えられる。また、FonFはコミュニケーションに問題がおきた場合にのみ機能するというのも正しくない。形式への注意はcommunicativelyにもdedacticallyにも生じうる (Ellis et al, 2001)。この例ではコミュニケーションにはまったく問題は起きていないが、教師による教訓的なcorrective feedbackが行われている。このように、むしろ、コミュニケーションに断絶があった場合にのみ形式に注意を向けさせる方が逆に難しのではないか。

 

⒎ post-task段階での文法への注意がconsciousness-raising activitiesに限られており、産出練習活動がない。

 

著者自身がCRタスクを支持しており、そのことが原因でこのような批判があるのだろうという分析。著者は、CRタスクと産出活動を比較し、前者の方が明示的知識に関連しており、暗示的知識と関係がある学習者内シラバスと指導を一致させようとする問題を扱う必要がないという点で、L2習得についてわかっていることと矛盾しないと述べている。また、CRタスクはタスクが満たすべき条件を満たしつつ、
「文法」を話題にして話すことになる点でcommunicativeタスクとしてもいける。
CRタスクはpost-taskの理想ではあるがが唯一の方法ではない。(Ellis, 2003; Willis, 1996参照)

 

⒏ TBLTの理論的根拠は文法指導にはあるが語彙や発音指導は無視されている。

 

FonFの意味するところのformが文法と結びつけて考えられているだけであって、Williams (1999)の研究では学習者のFonFは語彙が最も多かったという報告があり、 Ellis et al (2001)でも、批判されるほど文法に偏ってるわけではなく、文法と同量の語彙へのFonFがあり、その半分ほどの量の発音へのFonFがあった。Loewen (2005)の研究でも43%が語彙、22%が発音、33%が文法という結果だった。このように実証研究からも、TBLTが語彙や発音を無視しているとは言えないことがわかる。

 

⒐ TBLTはアウトプット重視しているために、学習者に十分なインプットに触れさせることができない。

 

Swanはこの点に関して、伝統的・タスク型アプローチにおいて、どのようにして学習者が触れるの量を測定するかということを提案していない。そして、”new language”の意味も不明瞭。
4でも指摘されているが、タスク型とは必ずしもインタラクションと産出活動を含んでいなければならないということはない。様々な研究で、Ellis (2003)で提案したインプット型のタスクの効果が取り上げられている(e.g., Loschky 1994; Ellis, Tanaka, Yamazaki 1994; Ellis and Heimbach 1997)。多読活動もインプット型のタスクだとみることもできるし、多読活動によって付随的な語彙習得がおこるという研究もある(e.g.,  Dupuy & Krashen 1993)。
さらに、人気の伝統的アプローチを用いた教材の研究では、それらの教材のスペースの多くが言語的インプットよりも絵や写真に割かれており、インプットにかけるということが明らかになった(筆者注:Ellis (2002)か?)

 

10. TBLTでは教師の役割はコミュニケーション活動の”manager”や”facilitator”に限られてしまう。

 

この批判の想定は言語教育において、少人数のグループワークは役に立つが、教師中心の活動も、学習者の言語使用を促す雰囲気をつくるという点では使い道があるということがあるかもしれない。また、多くの指導環境では教師が主なインプットのソースである。
しかしながら、完全な教師主導のTBLTもあるし、例えばPrabhu (1987)では、pre-taskを教師が、main-taskを生徒がやるというようにタスクを分けることも提案されている。彼の主張は、教師こそ学習者の中間言語発達に必要な英語の「良いモデル」を保障できる存在であり、学習者間のインタラクションはその中間言語システムの刷新にはつながらず、L2のピジン化や化石化につながるというものである。Prabhuはある種のティーチャートークで、教師が生徒に合わせて語彙選択やスピード等スピーチを調整することはタスクの管理よりも教師の参加が伴っているとしている。
インプット型のタスクでも教師主導であるし、タスク中でのFonFでも教師の役割はある。また、タスクの前後に明示的指導を含めることもTBLTでは可能であるという点も無視されている。
TBLTでは教師は確かに”manager”や”facilitator”といった役割を求められるがそれだけではなくもっと「教師的」な役割も必要とされる。また、他の指導法と同様にTBLTは教師主導でも生徒主導にもなる。

 

11. TBLTは”acquisition-rich”なコンテクストにしか適していない。

 

一般的な見方として初学者には文法指導が必要で、そうでなければコミュニケーションもできず、文法に関する基本的な知識しかない故にコミュニケーション中に形式に注意を向けることもできないというものがある。この見方の帰結として、TBLTは学習者が教室外でも広く目標言語にアクセスできる環境で適しており、そうではない、コミュニケーションのために学習者の文法リソースを発達させるために構造的アプローチが必要となる外国語環境には適していないという考えが生まれる。
著者がいく度となく指摘しているように、TBLTは学習者が初学者の場合は最初から学習者に産出活動を求めるわけではなく、インプット型のTBLTもある。初学者には明らかにリーディングやリスニングのタスクを中心としたアプローチが適している(Ellis, 1999のレビュー参照のこと)
また、L2習得のかなり初期の段階は”agrammatical”でありgrammaticalizationは徐々に起こるものである。
この観点でみると、初学者への文法指導はその目的が学習者の文法規則に関する明示的知識の発達でない限り意味がない。
であるからこそむしろ’acquisition-poor’な環境にこそTBLTは適しているのではないか。2

In situations where learners have access to communicaive contexts outside the classroom, there may be a case for teaching grammar as a way of preventing the stabilization that often occurs in interlanguage development after learners have achieved a basic ability to communicate in everyday situations. In situations where such communicative opportunities are not found (e.g. for learners of English in many European and Asian countries), there is an ovbious need to provide them inside the classroom. TBLT is a means for achieving this (pp. 237-238).

 

12. TBLTの理論的根拠を支持する、あるいはTBLTが伝統的アプローチよりも優れているということを示す実証的な研究結果が不足している。

 

SheenもSwanもPrabhu(1987)やBretta & Davies(1985)の実証研究に言及していない。後者ではTBLTの方が伝統的指導法より優れているという実験結果がでたが、しかし彼らはこの結果に慎重的であり、包括的な指導法の比較の難しさはよく知られているところである。しかしながら他にも小規模の実証研究はある (Ellis et al,1994, Mackey 1999)。
Swan(2005)が指摘したTBLTの理論的根拠となる4つの仮説3、The online hypothesis, The noticing hypothesis, The teachability hypothesisに対しての反論。4
次にTBLTが他の指導法よりも優れているかという点に関しては、SLAの研究で、付随的な学習がタスク遂行の結果起こることなどを明らかにしているが、SheenやSwanを納得させるほど十分な結果が得られているわけではないと認めている。しかしながら、TBLTはSLAのみを理論的根拠としているわけではなく一般教育理論もその理論的根拠としていると主張している。

 

Problems in implementing TBLT

これまでに見てきたWiddowson, Seedhouse, Sheen, SwanのTBLTに対する反論は主にTBLTの理論的根拠や、TBLTを支持する実証研究の不足についてであった。この点については著者の挙げた12の点について反論してきたわけだが、現実には教師がTBLTの実施において実践的な問題に直面していることは事実である。これは真実であり、TBLTが実際の教室でも機能するはずであるとするならばこの問題にも触れておかなくてはいけない。
Carless (2004)では香港の小学校の”target-oriented curriculum”においてのTBLT実践とその問題が報告されている。結論として、教師のタスクがなんであるかという理解が不足しており、その結果として行われるタスクが実際のコミュニケーションというよりもむしろ「練習」になってしまっているということをCarlessは主張しており、タスク実施上の鍵となる問題として、
  1. 生徒の母語の幅広い使用
  2. 生徒に会話させることと授業規律を維持する難しさ
  3. 多くのタスクが生徒にL2を使用させるよりも(絵を描くといったような)非言語的活動になってしまっている。
の3点を指摘。
McDonough & Chaikimotongkol (2007)では、タイの大学におけるTBLT実践の報告があり、
  1. 学生の自立度があがった
  2. 教師の間で文法の扱いが不十分ではないかという不安があった(コースが進むにつれて解消されたが)
  3. 学生はこのコースは彼らの現実のアカデミックなニーズには関連していたが、アカデミックな文脈以外のニーズとは関連がなかったと認識していた

という3点がTBLT実施の結果として報告されている。さらに、コース設計者がどのようにこの研究の参加者(教師と学生)の不安に立向かったという点で、

  1. 教師と学生の両者がコースに適応できるように修正することを引き受けたこと
  2. タスク課題の理解のための補助教材の開発などの学生サポート
  3. コース内の活動の数を減らしたこと
の3点を挙げ、結果としてこのタスク型コースは成功したという報告がなされている。そして著者はこの香港の小学校での実践とタイの大学での実践の比較から、TBLT実施の際の問題を解決する原則として、
  1. タスクが学習者のレベルに合わせてあること(学習者の英語力が高くない場合にはアウトプットよりもインプット重視のタスクを先に)
  2. タスクが適切なL2使用を引き出すかを確認するために試験的に実施してみたり、経験的知見に基づいて改良する必要性
  3. TBLTが機能するためには教師のタスクとは何かに対する明確な理解が必要であること
  4. 教師と生徒がタスクを遂行することの目的や理論的根拠に気づいている必要性
  5. タスク型コースで教える教師がタスク教材の開発に関わること
の以上5点を上げている。そして、これはTBLTに限らずどのような指導形態であっても関係していると付け加えている。しかしながら、このようなレベルでは解決できないより構造的な問題が世界中に数多く存在することも事実であり、例えばスキルの向上ではなく知識学習に重点があったり、スキルではなく知識を測定するようなテストがあったりするために、パフォーマンス型のTBLTがそぐわないといったことが実際には有り得る。また、大人数のクラスではTBLTの実施は簡単ではない。このようなTBLT実施の問題点を解決するには教室内に存在する教育哲学などをラディカルに再検討することが必要となる。
 

Conclusion

 
結論部分では今までみてきたTBLTの長所をまとめて(めんどくさいので省略)、前節の最後でも述べたような問題があることは認めている。さらに、TBLTへの別の観点からの批判として、すべての環境に適用できる唯一の言語教育アプローチはないという見方があることにも触れている。Widdowson (1993)の議論を例として挙げ、社会文化的な土壌がTBLTにそぐわないということもありうるし、TBLTが求める教室での実践は西洋の価値観の押し付け、あるいは”cultural imperialism” (Pennycook, 1994)にもなりうるといったsocio-cultural context的観点からの批判についても言及している。TBLTには文化的な障壁があるということは認められなければならないとしたうえで、たとえどんなに心理言語学にTBLTが支持されても、社会・文化的な要素によってTBLTの実施が困難(あるいは不可能)になってしまう場合はあると認めており、このジレンマの解決は容易ではないとして締めくくっている。

 

コメント

注1: しかし著者は後者が教授法上の価値がないと言っているわけではない。

注2:正直ここの論理がよくわからなかった。”there is an obvious need to provide them”のthemがコミュニケーションの機会を示していて、それがTBLTによって与えられるべきであるという主張だとすると、前半部分のESL環境では化石化を防ぐための明示的指導が必要だが、EFL環境ではそうではなくまずコミュニケーションの機会をということなのだろうか?それともそのコミュニケーションの機会と明示的指導のコンビネーションを発動させるためにTBLTでやろうということなのか。Ellis先生は明示的指導も認める立場にあるという理解だったのでよくわからない。

注3:fourと本文中にはかいてあるが、Table4に示されているのは3つで著者の反論も3つの仮説に対して、また、Swan(2005)でも”2.1 Three hypotheses”となっているので著者のミスだと思われる。

注4:ここに関しては、Swanが引用している文献等やその引き方への直接的な反論とはなっておらず、「いや実証研究あるから」という感じで、それぞれの仮説を支持する実証研究を列挙している感じ。Swanも、「仮説は仮説だろ」という感じの否定で、仮説を反証する研究とかをあげてたりするのであまり効果的な反論になっていない気もする。

こんな感じ。長くてすいません。

では。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。

“The ownership of English”の続き

さて先日の記事の続きで、

•Saito, A., & Hatoss, A. (2011). Does the ownership rest with us? global english and the native speaker ideal among japanese high school students. International Journal of Pedagogies & Learning, 6(2), 108-125.

こちらの論文のまとめしたいと思います。

背景

基本的な立ち位置としては、Matsuda (2003)とほぼ同じで、英語使用の世界的な広まりが学術界では広く議論されているなかで、日本の現状はまだまだその状態にはいたっておらず、巷でよく聞かれる「ネイティブスピーカー信仰」(この言葉が本文の冒頭で出てくる英語表現の適切な訳語ではないと思いますがこの文脈では一番しっくりくると個人的に思っています)のようなものが日本の高校生にも影響があるかというの扱った量的研究。Matsuda (2003)では、その結果の一般化の可能性が非常に限られていたという点を考慮し、より日本の高校生一般に実験結果を反映できるように研究が計画されています。

冒頭部分では、”Native speakership”という言葉が使われていて、日本における「ネイティブ礼讃」みたいなものの例として、英会話学校などの宣伝文句としてよく聞かれる「ネイティブスピーカーの英語」、「本物の英語」そして「ネイティブスピーカーの講師」といった言葉が挙げられています。しかしながらこのような思想は、非英語母語話者の英語やあるいは非英語母語話者そのものに対しての否定的な印象を助長している可能性があると指摘しています。また、外国語として英語を学習する学習者にとっては、英語母語話者の英語を目標にすることで多くの学習者にとってそれが到達不可能で不適切な目標となってしまい、自信を失くしてしまうという原因になるといった点も指摘されています。

リサーチクエスチョンは以下の3点。

  1. Do Japanese high school students’ attitudes differ towards native and non-native varieties of English?
  2. Do their motivation differ in the native speaker context and in the lingua franca context?
  3. Do their (temporary and short) visits to an Anglophone country1 affect their attitudes and motivations?  (p.111)

 さて、実験結果の解析に入る前に、理論的枠組の検証が行われています。まず”language attitudes”について、この研究では、学習者の英語の種類に対する”attitudinal disposition (AD)”と英語学習に対する”motivational dispositions (MD)”から成るものであると定義しています。また、Gardner & Lambert (1972)を引用し、MDを構成する要素をさらに”integrative orientation”と”instrumental orientation”の2つに分けています。前者は、言語学習によって他言語のコミュニティの一員になりたいというような願望のことで、後者は外国語の知識で社会的に認められたり、経済的な利益を得たいというような願望を指します(pp.111-112)。しかしながら、第二言語習得における動機付けは、単純にこの2つの要素で説明されるわけではなく、先行研究から英語母語話者コミュニティの認識が欠けていたとしても言語学習がおこなわれうることや(Warden & Lin, 2000; Yamashita, 2000; Lamb, 2004; Ladegaard & Sachdev, 2006)、「統合的志向性」と「道具的志向性」を完全に区別することは非常に難しいこと(Kimura et al., 2001; Lamb, 2004)などの注意点を挙げています。そこで、この研究では、MDをネイティブスピーカーコンテクストと、リンガフランカコンテクストという2つの指標で調べることにしています。つまり、2志向性×2コンテクストという構成です(質問紙の構成については後述)。

加えて、先行研究では、滞在期間の長さや、ネイティブスピーカーとのコミュニケーション量とlanguage attitudesの関係については一貫した結果が得られていないということは指摘しつつ、海外滞在経験の影響についても本研究における周辺的な対象に設定しています。

参加者

参加者は東日本の地方にある公立と私立の2校から175名の高校生(2年生150名、3年生25名)が選ばれました。この学校の卒業生の過半数が大学に進学しており、生徒たちは入試の重要な科目として英語を学習するように指導されていたようです。Matsuda (2003)の被験者と違い、非日本語話者との接触は最小限で、さらに複言語的背景をもった生徒はいませんでした。Anglophone countryへ行ったことがある生徒は全体の22%で、教科としての英語学習歴は最低で4年。

方法

3つのパート(メイン2パート+補助的質問)からなる質問紙調査。

  1. ADについて。UK, US (inner circle), India, Singapore (outer circle), Japan, China (expanding circle)の6種の英語について、それぞれuncool-cool, unimportant-important, lacking prestige-prestigious, powerless-powerful, unpopular-popular, unfashionable-fashionableの6つの観点で1-5の5件法。これにより、それぞれの種について肯定的・否定的態度であるかを調べます。
  2. MDについて。統合的志向性と道具的志向性のそれぞれについて8項目。”Studying English is important for me to…”のあとにすべての項目がつながるようになっています。例えば”understand cultures of”のような項目があり、そのあとにAnglophone country/non-Anglophone countryの2とおり。つまり、統合的志向性の8つの項目は実質4つの質問で、それがAnglophoneとnon-Anglophoneのペアで聞かれるために合計8項目となっています。道具的志向性についても同様で、4つの質問がAnglophoneとnon-Anglophoneの2パターンあり、合計8項目。MD全体として16項目あり、英語学習の動機づけについて調べています。
  3. 性別、年齢、言語的背景などの情報を得る目的の質問があとに続いています。

手順と結果

えっとSPSSを用いた統計的検定が行われているわけですが、僕の個人的な統計的検定の知識を整理するために少し詳しく(本文では言及されていないことも含めて)書いていこうと思うので、ざっと読み流していただいて結構です。

まず、この研究はあるサンプル(高校生175名)のデータをもとに、日本の高校生という母集団の傾向を予測するものなので、推測統計になります。また、質問紙調査の結果をもとに、その回答傾向から学習者の英語の各種に対する態度や英語学習の動機づけの傾向を仮説に基づき明らかにする目的があり、検証的因子分析という方法が取られてます。サンプル数の明確な規準はないものの、175名という人数は十分であると判断します。ただし、サンプル数が多くなりすぎると統計的優位な差が出やすくなるので注意も必要です。また、5件法は実質的には名義尺度であり、因子分析を行うためには間隔尺度以上を用いる必要があるという要件を満たしていないように思われますが、5件法以上の順序尺度データは間隔尺度とみなしても実質的に結果に大きな影響はでないとされています。

この研究ではTypeⅠのエラー(本当は有意差がないのに有意差があるとしてしまうこと)を最小限にするために有意水準はα=0.01に設定されています(p.113)。次に、データが正規分布になっているかの確認です。歪度(skewness)と尖度(kurtosis)が0の場合が綺麗な正規分布で±2の範囲に収まっていれば、そのデータはおおむね正規分布をなしていると考えられます。Appendix 2の記述統計量を見ると、どの項目もこの規準を満たしていると判断できるので、分析を続けることができそうです。因子の推定には、最尤法(maximum likelihood method)が用いられ、加えてt検定がすべてのリサーチクエスチョンに対して用いられています(p.113)。

 

まず、attitudeの項目において用いられた6つの項目が英語の各6種それぞれにおいて一貫した概念を測定しているか(一次元性)の確認が行われます。相関行列表は載っていませんが、”Inspection of the correlation matrix revealed the presence of all coefficients ranging from 0.345 to 0.861…”(p.114)ということです。さらに、Kaiser-Meyer-Olkinのサンプリング適正規準は0.6で普通(参照:因子分析の適用例)、そしてBartlettの球面性についての検定も”statistical significance”という結果になったようです(p.114)。

続いて、6つの英語の各種類について最尤法による因子の検証が行われています。Table1の因子負荷量を見ると各種ごとに、どの項目も絶対値で0.6を超える大きな負荷が3つ以上あり、Figure1-6のスクリープロットを見ても、2のところで大きく落ち込んでいるので1因子解だと判断できます。2 また、クロンバックアルファは”0.876-0.944″という高い信頼係数が得られたため、これらの質問項目の一次元性が確認され、そしてそのスコアを集計することで、「学習者の各英語の種類に対する肯定的・否定的態度」の検証をすることができそうです。

Table2には質問紙調査から得られた回答を数値化して合計した、各英語の種に対するADの記述統計量が掲載されていています。また、Figure7にはその平均値(mean)の棒グラフがあります。これを見ると、平均値の高い方からUS, UK, Singapore, India, China, Japanという順に並んでいて、どうやらUKとSingaporeの間に大きな差がありそうだという予想ができます。そこで、UK EnglishとSingapore Englishの平均を比べる対応のあるt検定を行なっています。結果はt(162) = 13.18, p <0.01で統計的に有意な差があると結論づけています。さらにUKとUS間、SingaporeとJapanese間でも同様のt検定を行なっており、前者がt(164) = -4.53, p <0.01、後者がt(165) = 3.28, p <0.01とどちらも統計的に有意な差があることがわかりました。

次に動機づけ(MD)の因子分析です。質問紙上では統合的志向性と道具的志向性に分けられていた8×2の計16項目を、それぞれネイティブスピーカーコンテクスト(NS)とリンガフランカコンテクスト(LF)も8×2に組み直して検証的因子分析が行われています。さきほどと同様に、まず相関行列表を見て(載ってません)、相関係数が例外的に1つだけ低い0.286という値を除いて高く(0.341-0.861)、KMOはADの場合と同様に0.6で、Bartlettの球面性についてもクリア。Table3に示されている因子負荷量を見ると、ネイティブ・リンガフランカどちらもすべての項目が想定される1因子に対して0.6以上であり、因子寄与は前者が58.7%で、後者が64.9%でした。またFigure8と9のスクリープロットからも1因子解であると判断でき、さらにクロンバックアルファもNSでは0.810で、LFでは0.903と高い信頼係数が得られました。

よって、MDに対する質問項目の一次元性が確保されていると判断し、これ以降の分析では統合的志向性と道具的志向性というラベルをとり、NSとLFにおける動機付けの比較がされています。先ほどと同じように、質問紙の回答をスコア化して合計したものの記述統計量がTable4に示されています。この両者の平均を比較するためにt検定を行います。結果は、t(164) = 13.76,  p <0.01で、NSにおけるモチベーションのほうが統計的に有意に高いことがわかりました。

最後に、海外の滞在経験が、ADとMDの双方にどう影響があるのかを調べる対応のないt検定を行なっています。まずADについては記述統計量がTable5に示され、Anglophone countryに行った経験のあるグループとないグループでは英語の各種に対しての態度は、統計的に有意な差がないことがわかりました(本文中に数値の記述はなし)、一方で、MDに関してはAnglophone countryに行ったことがあるグループのほうが、無いグループよりもリンガフランカコンテクスト(LF)において統計的に有意な差があることがわかりました。t検定の結果は、t (98) = 3.61,  p <0.01で、効果量は=0.83で、効果量大と判断できます。しかしながら、NS(ネイティブスピーカーコンテクスト)では経験の有無には統計的に有意な差は見られませんでした。

筆者はこの研究における問題点として2点挙げています。1点目は、質問紙調査による回答の引き出し方が直接的な方法であった点。これによって、被験者は自らが普段から意識している考えにもとづいて回答したことになり、例えば録音した音声を聞かせるなどの間接的な方法を使い、被験者の潜在的意識を引き出せば、今回とは違った結果が得られた可能性を指摘しています。2点目は、”Anglophone country”という用語についてです。この用語が英語が話されている国という意味である旨の説明は被験者にされていたものの、用語の定義に被験者間で違いがあった可能性が指摘されています。3

結論と示唆

質問紙調査の分析結果から、以下の3点が明らかになりました。

  1. 日本の高校生は英語母国語話者の英語(UKとUS)を、その他非英語母国語話者の英語に比べてより肯定的な評価をしている。その中でも、USが一番肯定的である一方、日本人の英語(Japanese English)に対してもっとも否定的。
  2. 日本の高校生は、グローバルな英語使用のためよりもむしろ”intra-Anglosphere currency and utility”のために英語を学習している(p.118)。
  3. Anglophone countryでの滞在経験は、リンガフランカコンテクストに対する英語学習の動機付けに効果がある可能性がある。
1に関しては、Matsuda (2003)のケーススタディの結果とも一致しています。2点目も論文のタイトルにあるような”native speaker ideal”を裏付けるような結果となりました。興味深いのは3点目で、Anglophone countryの滞在経験は、ネイティブスピーカーコンテクストではなく逆にリンガフランカコンテクストに対する動機づけを高める効果があることがわかりました。著者は、海外で、非英語母国語話者として英語を使用することで、リンガフランカとしての英語の機能や、彼らの第二言語のアイデンティティへの認識が高まり、それが結果的にリンガフランカコンテクストに対する英語学習の動機づけを促進したのではないかと推測しています。しかしながら、滞在経験の有無だけでは不十分であり、滞在の目的や期間の長さ、その土地の文化や人々との関わりの量などの情報を集めたさらなる実証研究が必要であると述べています。
以上のような結果は、Matsuda (2003)でも指摘された日本の英語教育の問題点を浮かび上がらせています。日本の高校生には、いわゆるグローバルなコミュニケーションのための英語使用という観点が実感として伴っていない、すなわち、「そういう話は言われているのでなんとなくそう思っている」程度の認識しかないという可能性が高いということです。
著者は、”native speaker ideal”がどこからきているのか、という点について、メディアの影響など様々な要因を列挙しつつ、Matsuda (2002)の指摘に同意し、あくまで推測の域をでないと譲歩しつつも教材や教授法が大きな要因になっている可能性を指摘しています。しかしながら、本研究で見られたような高校生の傾向は、高校の英語学習において形成されたというよりも、英語学習の開始時期である中学生の早い段階で形成されたと考えられると著者は付け加えています。そして、最後はこの一文で締めています。

If the pedagogy of this sort is constructed to be desirable in the Japanese EFL context, such intervention should honour the local language environment of the vast majority of learners of English as a foreign language where an exonormative model holds sway at present, reflecting the language globalization process underway (p.119).

注1. Anglophoneとは通常二言語以上が話されている国における英語話者(例えばカナダの英語話者)を指すために使われる言葉ですが、ここではAnglophone countryを、”a region where English is used as the primary language in society” (p.111注)という意味で使っているようです。

注2. 外国語教育研究ハンドブックでは、スクリープロットを見て、「グラフの急勾配になっているところまでの因子数を採用します。」(p.169)という記述があり、紹介されている図12-2では2因子の箇所で固有値が大きく減少し、そこからはなだらかになっています。そして、このグラフから2因子解と決定されているのですが、この論文に掲載されているスクリープロットはすべて図12-2と同じような傾向があるにもかかわらず、1因子解であることの証拠としているのですが、これは著者がすでに1因子解であるという仮説のもとに分析しているからであって、2因子のところで大きく落ち込むスクリープロットは2因子、あるいは1因子の可能性もあるということなんでしょうか?

注3. このAnglophone countryという用語が日本語でどのように提示されたのかについての言及はなく、この用語の定義である”where English is primarily spoken”というのが英語が母国語として用いられている国に限られるのかあるいはいわゆるouter circleの国も含むのか等曖昧な点もあります。

“The ownership of English”

どうもみなさんこんばんは。ブログお引越し記念特別企画!というわけで、というか別に特別ということもないですけれどもSummer term Bで受講していた授業で以下2本の論文を読んでプレゼンしたのでまとめておこうと思います。

•Matsuda, A. (2003). The Ownership of English in Japanese Secondary Schools. World Englishes, 22(4), 483-496. doi:10.1111/j.1467-971X.2003.00314.x

•Saito, A., & Hatoss, A. (2011). Does the ownership rest with us? global english and the native speaker ideal among japanese high school students. International Journal of Pedagogies & Learning, 6(2), 108-125.

授業の課題で決められた以下のトピックに関連する論文探してレビューしなさいとのことだったのでまず1本目の論文を読みました。

  • Language, cognition and culture
  • Gender differences in language use
  • The effects of socio-economic status on language use
  • Bilingualism/Bilingual education
  • Cultural discourse norms
  • Style, context and register
  • Politeness conventions
  • Non-standard varieties of English
  • World Englishes
  • The interaction of any of the above (e.g., culture, gender, and politeness)
  • Other relevant topic (with approval from the instructor)

上記の論文を選んだ理由はやっぱり日本関連の論文が読みたかったからですね。それで探してたらちょうど面白そうなのがあったので。内容は、非英語母語話者にとって英語という言語は、英語母国語話者とのコミュニケーション手段としてよりもむしろ非英語母国語話者間での使用が主であるという現状や、”English as an International language (EIL)”という考え方にもあるように、英語という言語はもはや英語母国語話者のものではなく、非英語母国語話者がこれからは英語のあり方を決めていくべきだというような流れを冒頭で紹介し、ブラジル人英語学習者を対象にしたFriedrich (2000)の研究に触れながら、研究者の間で盛んに議論が行われるこのEILという考え方は浸透してはいないのではないか、学習者は英米以外の英語の”variety”についての認識を欠いているのではないかという仮説に基づき、日本の高校生の英語や英語話者に対する認識・態度を質問紙とインタビューを用いて明らかにしようというものです。この論文で紹介されているケーススタディは、Matsuda (2000)という未出版博論が元で、そちらがより詳しいようです。

ケーススタディが行われたのは、東京にある私立高校で、対象は高校3年生の1クラス34人でうち33人が参加に同意し最終的に31名分のデータを分析しています。一人オーストラリア生まれの生徒を除き全員が日本生まれで日本語が母語。英語学習歴は6-13年で大多数が中学から英語学習をスタートしています。特徴的なのは、生徒の海外経験です。5名の生徒を除き、旅行、あるいは親の仕事の都合での海外滞在等なんらかのかたちで海外に行った経験があります。著者はこれを、私立学校に子どもを通わせることのできる裕福な家庭出身者が多いためであろうと推測しています。

また、この学校には希望者向けに短期(数週間)と長期(1年)の交換留学プログラムがあり、フランス、ドイツ、オーストラリア、アメリカの学校と提携を結んでいます。この交換留学プログラムで、上記の国からも生徒が来て日本の生徒と勉強しているそうですが、短期プログラムで来日する生徒は日本の生徒たちとは別に独自のカリキュラムで言語や文化を学習するため、学校に留学生は通年在籍しているものの、日本の高校生と留学生との交流はむしろ限られていると筆者は述べています。

データ収集に用いられたのは、質問紙、ペアor個人インタビュー(質問紙を用いて10名が選ばれた)、さらに英語の授業だけでなく他教科の授業や、それ以外での生徒の発話を観察し、英語の使用や英語(あるいは英語話者)に関する談話を記録したようです。また、生徒の服装や持ち物等、生徒の英語や英語話者に対する態度を反映しているかもしれないものも観察しています。加えて、英語教師4人にも、英語、英語話者、英語教育についてのインタビューを行なっています。ただし、この論文では主に質問紙とインタビューのデータに基づいた分析がされています。

結果として、半数近くの生徒が、アジア圏の人とのコミュニケーションにも英語を使うと答え、インタビューでも英語力が大事であるという認識の生徒が多いこと、またその理由の多くがコミュニケーションツールとしての英語の側面に価値を見出しているということから、生徒は「国際語としての英語」を認識し、その英語を学ぶ価値があるという認識があると著者は分析しています。

しかしながら、「英語話者の定義」について尋ねられると、「北米と欧州(主に英)」という2つがもっとも多かったのに対し、他のアジアやオセアニア諸国への言及は少なく、中南米やアフリカの国々への言及はインタビューを通して一度もなかったということが報告されています。

このことから、著者は生徒たちは英語が国際的に話されているということは認識しているにも関わらず、いわゆる欧米支配的な考え方ももっているのではないかと述べています。この原因として、著者は英語の授業で使われる教材や、あるいは教師の指導が挙げられる可能性を示唆しています。このあたりに関しては、Matsuda (2002)が詳しいようです。

また、生徒たちは英語の”variety”に対する認識が低いことがわかりました。71%の生徒が、自分たちはアメリカ英語を学校で習っているということを認識しているにも関わらず、インタビューではイギリス英語との違いがわかっていない生徒がいました。またシンガポール英語やインド英語といったいわゆる”outer circle variety”と呼ばれるものと英米の英語の違いについても認識が曖昧で、にもかかわらず”I want to pronounce English as Americans or British people do”という項目には84%の生徒が(同意・つよく同意)と回答するなど、ここでも英米偏重の傾向が見られました(p.409)。対照的に、”I am interested in English of Singapore and India”という項目には半数以上の生徒が(不同意・つよく不同意)と答え、生徒たちは英語が第二言語として用いられている国の英語に対する興味関心がうすいと著者は主張します。

次に、(英語の一種としての)ジャパニーズ・イングリッシュについてです。生徒たちは、日本語に外来語(”loanwords”)が入ってくることや、英語から作られた日本語独特の表現(例:サラリーマンなど。本文中では”Japanese-made English”と表記されています)が「日本語」として使われることには肯定的な態度を示しているにも関わらず、サラリーマンなどの言葉が「英語として」使われることには否定的で、半数近くの生徒はそれらは英語ではないために英語を話したり書いたりするときには使うべきでないと考えているということがアンケートからわかりました。また、アクセントがあるということは自然なことでありそれ自体は悪くないと考える生徒や、ジャパニーズ・イングリッシュが受け入れられるべきであるという生徒がいる一方で、ジャパニーズ・イングリッシュは”intelligible”ではないと考える生徒がアンケートでは半数近くにのぼりました(p.492)。筆者は、抽象的な概念レベルではジャパニーズ・イングリッシュは認められるべきであり、アクセントなどは避けられないものであると考えている一方で、個人のレベルではアクセントはないほうがいいと考えており、日本人英語は話されるべきではないと生徒たちは考えていると著者はまとめています。

結論として、英米以外の英語の種類に気づかせたり、親しみをもたせるような働きかけが必要であるということを述べています。外国語として英語を学習する日本の生徒たちにとっては、学校の英語教育が生徒の英語に対する認識や態度の形成に非常に重要な役割を担っているため、現場の教員だけでなく行政や学者も含め、教材の選定や指導方法の選択には慎重になるべきであり、そうした働きかけが生徒の複言語主義に対する理解を深めるとも著者は主張しています。

具体的な方策として、授業内で多様な英語に触れさせることを提案しています。著者は、アメリカ英語が指導のモデルとして用いられている現状については合理的であるという認識を示しつつも、”It is simply one variety―not the only variety―of English” (p.494)と述べています。また、多様な英語に触れることで、自分たちの英語、つまりジャパニーズ・イングリッシュについての否定的な態度を軽減させるかもしれないとし、さらにこう続けます。

The understanding of different varieties is also a prerequisite for developing critical awareness of and resistance to linguistic imperialism and the power inequality that may exist in international communication (p. 494).

 

具体的な方法の2つ目として、この事例研究において、海外経験や限られていたとはいえ留学生との交流等が、英語の多様性に対する認識に影響がなさそうであるということが明らかになったものの、特に欧米以外の人々との交流をもっと増やすべきであると著者は主張しています。高額の修学旅行だけが手段ではなく、メールのやりとりや移民コミュニティとの交流、インターナショナルスクールとのコラボなどが、”eye-opening”な経験になるという記述もあります。

同時に、英語の授業の目標がコミュニケーション能力の育成であるのであれば、文法や発音の正確性よりもコミュニケーションが効果的に行われたかという点を評価するのが適切ではないかということも述られており、上記のような解決策は現場の教員だけではなく、国、地域、学校レベルでの改革が必要であり、各関係者の協力なしには達成し得ないということが付け加えられています。

以下本文中で用いた文献はこの論文中で引用されていたものであり僕は直接参照していませんが参考までに。

Friedrich, Patricia. (2000). English in Brazil: functions and attitudes. World Englishes, 19(2), 215-213.

Matsuda, Aya. (2000). Japanese attitudes toward English: A case study of high school students. Unpublished PhD dissertation, Department of English, Purdue University.

Matsuda, Aya. (2002). Representation of Users and Uses of English in Beginning Japanese EFL Textbooks. JALT Journal, 24(2), 182-200. Retrieved from: http://jalt-publications.org/jj/issues/2002-11_24.2

コメント

このケーススタディは、なんとなく著者の主張に沿うように進められていっているような気もしないではないのですが、まあでも結果は割りと妥当な感じですね。学校の設定や生徒のバックグラウンドなどは、「日本の高校生」として一般化するのは難しいと思います。しかしながら、筆者の主張的には、「比較的に上位校で交換留学プログラムがあり海外旅行や海外在住経験がある生徒もいる高校3年生」というサンプルを示すことによって、「上のほうでこれなんだから日本の真ん中をとってきたらこれよりも結果が悪くなりそうなのは自明なんだからやばいですよ」ということを示唆しているのかなという風にも感じ取れました。そうすることで自分の主張の説得力をあげようという意図があるような。考えすぎでしょうか。

個人的に、一応北米に留学している身としてぼんやりと思ったことは、僕がここで経験したことは、あまり生徒に話しすぎるのもよくないのかなということでした。留学にきた一つの大きな理由として、実際に英語圏の国で生活してその経験を教壇に立った時に活かしたいということがありました。理屈では理解し難いような感覚的なこととか、「肌で感じるもの」みたいなことを、指導に取り入れていけたらいいなと。しかしながら考えてみると、そういうことで生徒たちの英米偏重主義的な考え方を助長してしまうのではないかとも考えました。自分の英語はどう考えてもアメリカ英語(の中でも自分は気がついていないですがNHのアクセントがあるのかもしれません)の影響を多分に受けていますし、自分の感覚的規準はアメリカ英語によっているのは間違い無いです。もちろん、英語教師として、また英語学習者のモデルとして、留学の経験が生徒の英語学習に対するモチベーションを高めることにつながる可能性は十分にありますし、どちらかというとそちら方面での効果を期待したいわけですが、逆にいうと「留学行ったんだから」とか「やっぱ海外に行かないと」みたいな考えにさせてしまうこともなきにしもあらずなわけでして(「留学行ってもその程度か」は絶対に避けなくてはなりませんgkbr)。そういったことを考えると、「日本にいながらもここまでできるんだ。」ということを体現している教師のほうが、現実的なモデルとしての英語教師としては適切なのかもしれないということも考えました。留学経験のある先生方がどのように考えていらっしゃるのかはわかりませんが、今現在留学中またはこれから留学に行く、あるいは留学から帰ってきて、そして教員になるという方々には、ぜひともこの点を考えていただきたいなと思います。

長くなりましたが、このMatsuda (2002)の発展的?位置づけというか、より一般化を目指した量的仮説検証的研究である2本目の論文はまた次の記事に書きたいと思います。

では。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。