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構想する段階と書く段階をわける

はじめに

いままで,パソコンを開いて原稿のファイルを開く,ということを自分の書くきっかけにしてきていたのですが,そもそもそれはうまくいきづらいってことに気づけたというお話。

構想と執筆を分離する

どう書くかとか何を書くかとか構成とか構造みたいなものを考えるのと,実際に文字を打ち込む作業を私は一体化させて論文を書いてきていました(書いてきてましたと言っても全然書けていないんですが)。私が愛用しているScrivenerはまさに,『考えながら書く人のためのScrivener入門』という書籍があるように,考えることと書くことを一体化させることによって書くことを効率化させようという思想だと思います(cf. 論文執筆環境を教えてもえらえますか?特に論文執筆中に活用しているアプリやツールなど)。

生成AIが登場する前というのは考えるのも自分1人だし,書くのも自分1人だったんです(もちろん共同研究の場合は違います)。やっぱり1人だと,どんなにスマホ版のアプリがあったとしても,ラップトップ上でやっているような「考えながら書く」をスマホ版のアプリでやるには限界がありました。そうなると結局,机に向かってファイルを開く時間を取れなかったら,全然論文執筆は進まないんですよね。しかも,ファイルを開いても,「思い出す」ための時間もかかってしまうので,思い出してはまた忘れ,思い出してはまた忘れの繰り返しみたいな。

考えるのは生成AIとスマホでやる

アイデアを考える作業自体は,スマホの生成AIアプリで壁打ちしまくるのが個人的には一番しっくりきています。それなら電車の中とかお風呂の中とか,ちょっとした隙間時間にできます。そうすると,連続性が確保されていて間隔が開きすぎないので,頭の隅っこに原稿のことがいつもあるという状態をキープできます。そうすると,論文執筆についての考えが浮かびやすくなりますし,浮かんだらすぐにまた壁打ち,というループに持っていくことができます。

原稿ファイルを定期的にアップロードしておく

そうやってある程度の分量を書くことができたら,その段階で一旦ファイルをチャットにアップロードしておきます。そうすれば,あとはその原稿に書いてある内容について,そのファイルを開くことなく(スマホでファイルを開くとやっぱり見づらいです)ディスカッションすることができるようになります。こういうことをやっていると,自然に,書きたいことが頭の中に溜まっている状態になります。原稿ファイルについてのやりとりをしていたら,修正すべき箇所がみつかるとか。そういうのが見つかると,「早く修正しておきたい」っていうむず痒い気持ちになるので,パソコンに向かう時間があったらそれをとにかく早く原稿ファイル(私の場合はScrivener)に打ち込んでおきたいという気持ちになります。パソコンを開くのを待てずに,ScrivenerをiPhoneのアプリで開いてメモっておいたり修正しておいたりということもありますし,それすらも手間に思えるときはもうノートアプリ(私の場合,研究はObsidian)に生成AIとのやりとりをコピペして貼り付けておくこともあります。

他のことをブロックする

こういうことを続けていると,何か別のやらないといけないことがあっても自然と時間を「ブロック」して(cf. How to write a lot),集中して執筆できる気がしています。もちろん,「ああ,あの課題の採点がまだだ」,とか,「あのメール返してないな」とか,後回しにしていることは山程あるんですけど。それよりもむしろ,「論文書こうぜ書くなら今だぜこの熱を逃すな!」っていう気分になりやすいんですよね。というか,その気持ちを持てなかったら,一生論文は後回しで一生書かないですよね。だって,別に絶対にやらないといけないことではないわけですから。

Scrivenerは不要?

こうやって考えると,いわゆる「練る」機能が満載で,私が愛用しているScrivenerみたいなツールや,「考えながら書く」という思想自体が,生成AIというツールの登場で重要さを失ってしまったのかもしれないとも思うようになりました。練るのは生成AIとの壁打ちで済ませるのだとしたら,それこそ書くという段階では,むしろ「書くことに集中できる」というツールのほうが望ましいとすら言えるわけですからね。そうなると,それこそ論文を書くのはWordでいいし,なんならテキストエディターでもいいわけですしね。

とはいえ,完全に考えることと書くことを分離することもできません。なぜなら,書いているときに考えることもあるからです。書いているときに考えていることも逃すことなく保存しておきたいじゃないですか。そうなったら,Scrivenerまではいかなくても,書くと考えるをつなげる機能のついたアプリケーションというのは価値があるなと思います。

おわりに

この記事では,「考える」と「書く」は統合したほうがいいのか,分けたほうがいいのかということについて書きました。個人的には,分けたとしても書けるような体勢を取りつつ,書くときに考えることができる環境にしておく,というのが一番大事なのかなというのが結論です。

最近めっちゃブログ記事を書けているなという気がしているのですが,これは間違いなく,「思いついたことをメモしておく」という作業をNotionでやれているからだなと思います(できねーよと過去記事で書きましたけど以外にできている)。Notionいいぞ。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

研究をして論文にするプロセスについての質問

はじめに

2025年1本目の記事ですが,例によって最近多めのQuerie.meでいただいた質問シリーズ。

質問

あけましておめでとうございます。
文法習得に焦点を当てて研究しているSLAの学生です。何か研究をして、論文にまとめていくという作業をすることに関して、2つ質問します。
【1】研究をして論文にまとめるときに、投稿するジャーナルを決めてから研究をしていきますか。それとも、研究をして、まとめきったところで投稿するジャーナルを選びますか?
↳追加で、研究がどこまでいったら、「投稿する」というレベルだと判断していますか。
【2】投稿するジャーナルを選ぶときに、SLR、SSLA、LA、などなどいろいろな雑誌が国内誌・国際誌にあるなかで、それぞれの採択難易度や、どれに投稿するのが妥当だろうという判断はどのようにされていますか?
以上の2点です、よろしくお願いします。

回答

投稿する前にジャーナルを決めるかどうか

1については,投稿するジャーナルを決めてから研究することは今はほとんどないかなと思います。院生のときは,もう研究をスタートする時点で,これはどこの学会で発表してどこに投稿する,みたいなのを最初から決めていたと思いますね。ただ,それは院生のときはかなりバラエティに富んだ種類の本当に英語教育・応用言語学の幅広い研究に手を出していたから,というのも大きいと思います。

ただ,国内の学会誌に投稿するのでなければ締切がないはずなので,どこに出すかは別に最初に決める必要ってまったくないんじゃないかなと思います。逆に言うと,締切がある場合にはまず研究をスタートするタイミングが重要ですよね。私の経験でいうと,全国英語教育学会の紀要は10月締切だったので(今は会員ではないのでもう知らないですが),構想は前年度の春休みから練っておき,新学期スタートと同時にデータ収集,分析,そして8月にある全国大会の発表申し込みが確か5月頃だったのでそこまでになんとかざっとアブスト書ける位の状態にはする->夏に発表したら10月の投稿に向けて執筆,みたいな流れがあったと思います。

私のときは院生で国際雑誌に投稿するというのはまだまだ一般的とはとても言えない時代だったので,締切のある国内誌(=結果が基本的にはすぐに出る)である程度業績を稼ぎつつ,自信がまああるやつは国際誌にトライする,という感じだったと記憶しています。その点でいえば,これは国際誌いけるぞ,みたいなのはネタの時点(あるいは結果が出た時点)で決まっていたのかもしれません。私は院生のときに国際誌に載せたことは結局なかったのですが,就職してから出版になった研究の元は院生時代のもの,というのもいくつかあります。何回か国際誌の投稿を経験して思うことは,別に国内誌よりも国際誌のほうが難しいみたいなのはないということですね。なぜかというと,国際誌もピンキリだからです。自信がなくても,あるいは国内誌に落ちても,低めの国際誌に出したら通ることもあるので。

追加の質問の,「投稿する」レベルにあるというのをどう判断するか,ですが,それも「どこに出したいか」によるんじゃないかなと思います。例えば,心理言語学系のジャーナルだと実験1つでは基本的に載らないというところもあると聞いたことがあります。あとは,もっと内容的なことでいうと,「一本の論文として一応のストーリーはできるか」が大事かなと思います。仮に結果が自分の予測していたとおりにならかなったとしても(私の場合はほとんど予測通りになったことがない),それを解釈して一応のストーリーになっていれば論文にはなるし,論文になる=投稿するレベルにある,ということだと私は思っています。

ジャーナル選びの採択難易度など

この質問者さんがもし仮に名大の方だったら,門外不出の通称「ソルジャー・マニュアル」という文章があるので,先輩に聞いてファイルもらってください。その中に「国内の主な論文投稿先リスト」というのがあって,そこに作成者の独断と偏見で判定した難しさランキングがあります。

投稿先を選ぶときに気にするのは,難易度もそうですけど,そのジャーナルのスコープじゃないでしょうか。例えば,教育に関係があるなら言語教育系の学会誌や教育系の雑誌に出すというようなことです。例えば,国内の学会でいえば,テストが関係するなら日本言語テスト学会のJLTA Journalに出すとか,コーパスが関係するなら英語コーパス学会のEnglish Corpus Linguisticsに出すとか。

横ではなく縦でみると,まずは学会誌の中でも外国語教育メディア学会(LET)や全国英語教育学会(JASELE),大学英語教育学会(JACET)は支部や地区学会の学会誌もありますよね。全国誌よりも地方誌のほうが「基本的には通す」という編集方針でやっていると思うので,よっぽどひどいものでなければ採択はされるはずです。こういう学会に所属しているなら,学部生・院生で手始めに出してみる,というのはありだと思います。研究成果をコミュニティに広く受け入れてもらいたいと思うと,地方誌に出しても…っていうところはあると思いますが,今はほとんどの地方誌がオンラインで公開されていると思うし,昔のように紙媒体だけで出版されていたときよりは引っかかりやすくなっているんじゃないでしょうか。あとは,単に自分の名前を宣伝する意味でも,もし仮に国内で大学に就職することを最終的に目指すのなら学会活動に積極的に貢献して名前覚えてもらって悪いことは一個もないとも思います。別にそれが主目的で論文書くことを推奨しているわけではないですが,学会ってそういうところもあると思うので。ちょっと脱線ですけど,名前覚えてもらうってことでいうととにかく自分のwebsite作る,researchmap登録するとかして,名前で検索されたときにその人がどんな人かがわかるようにするというのが超絶大事だっていうのは言っておきたいです。私も院生時代から自分のウェブサイト作ってました。

国際誌はもう純粋に教育系かそうじゃないかで結構分かれるような気がします。言語学系の研究ならLTRとかSystem出すのはちょっと違うかなみたいな。たぶん一般的によく言われることですが,「自分の研究と似たような研究がよく載っているところを選ぶ」と言い換えられるかもしれません。SLR,SSLA,LA(と略される雑誌はLanguage AwarenessとLanguage Acquisitionがありますが,この並びてきに後者ですかね)と並んだら,そりゃやっぱりSSLAから出すんじゃないでしょうか(私は何回か出してますが落ちたことしかないです)。そういうこと言えるのも,私が任期のない職についていて,業績競争の渦中にいないからかもしれませんけど,基本的には上からどんどん出していって,どっかで引っかかれば,っていう感じで私はやりますかね。とはいえ,例えばLLからスタートするような研究だと,「まあ通りはしないだろうけどフィードバックは仮にdesk rejectでもエディターからでももらえるし無料だしいっか」くらいの感じでやってます。SLRに通ったやつは,BLC(desk reject) -> LL (desk reject) -> SLR (major -> major -> minor -> accept)って感じでした。いやLLから出してないやんけってなりそうですが,私は初めて投稿した国際誌がBLCだったので,なんか思い入れがあってBLCに出したのですが,ダメで,「ほんならもうLLいっとけー!」ってなってLL出してダメだったって感じです。

私も国際雑誌投稿の経験がそこまであるわけではないですが,レベルが高くない雑誌のほうが通りやすいかというとそうでもないということは多分あって,そういうことを言われたこともあります。実際に,2019年にApplied Psycholinguisticsに出版された論文はそこよりもSJRのランキングでいうと下のところに出してリジェクトされたあとにApplied Psycholinguisticsに出して採択されました(最初に出したのはBLC)。

あとは原稿のタイプや語数なども考慮する要因に入るかなと思います。実験研究ならどのジャーナルでも基本的には受け付けていると思いますが,Opinion Paperみたいなやつは,その原稿の種類を受け付けているジャーナルとそうではないジャーナルがあると思います。今だと追試研究というセクションがあるかどうかというのもあるかもしれません。例えば,SSLAにはCtirical Commentaryというセクションがあり,語数はマックスで6000語です。

Critical Commentary. These manuscripts are shorter essays (i.e., non-empirical) motivated by current theory and issues in second and subsequent language acquisition or heritage language acquisition, including methodological issues in research design and issues related to the context of learning. Maximum length is 6,000 words all-inclusive (i.e., abstract, text, tables, figures, references, notes, and appendices intended for publication).

https://www.cambridge.org/core/journals/studies-in-second-language-acquisition/information/author-instructions/preparing-your-materials

SSLAのCritical Commentaryに相当するSLRの原稿タイプはResearch Notesだと思いますが,こちらは語数は4000語とかなり短めです。SSLAでいうResearch ReportsやReplication StudyもSLRだとこのResearch Notesに含まれると思います(下記引用)。

(b) Research Notes (4,000 words) 

Research notes are short reports and discussion papers of interest to the Second Language Research community. Research notes also include original research and follow the same outline as above but should be highly focused on one specific question related to SLA. Research notes may include replications of previously published studies.

https://journals.sagepub.com/author-instructions/SLR

Language Acquisitionにはこれらに相当する原稿タイプがあるかというと,Brief articlesになるのかもしれませんが,SSLAのCritical Commentaryのようなところに出して落ちたやつをLAのBrief Notesに出して受け入れられるかっていうとどうかなというところでしょうね。

*Brief articles must report original empirical findings, major theoretical advances, or crucial developments that warrant rapid communication to the developmental linguistics community. As in the main section of the journal, manuscripts on all areas of language acquisition are welcome and will be selected on the basis of sound argumentation, theoretical evidence, and methodological rigor. A submission to the Brief Articles section should conform to the same requirements as an article with the following exceptions: The manuscript should not exceed 15 double-spaced pages, including footnotes and references. Inclusion of experimental materials is not required in the manuscript, but it is recommended that published articles make their materials available for review on the world wide web.

https://www.tandfonline.com/action/authorSubmission?show=instructions&journalCode=hlac20#article-types

おわりに

こういう話も私がどうやって学んだかっていうと,身近なところで情報収集して(主に福田さんから聞いてた)ような気がしますね。本当なら,指導教官の先生とか,院生仲間(先輩含む)からこういう話聞ける環境だといいんでしょうね。あとは,たまに学会で会う国際誌投稿が豊富な方々からも国際誌の投稿・査読の経験の話なんかはよく聞いていたかもしれませんね。ぜひ,学会でそういう「国際誌でよく名前を見る人達」を捕まえて投稿経験を聞きましょう。もしも,いやそういう人たちに話しかけるのは恐れ多い,ということなら,誰にでもニコニコ対応してくれる福田さんに聞いてみましょう。あ,でも福田さんは英語教育系の学会にはいないからな…。そうだ,福田さんに会えるかもしれない学会が…!(子どもがいるから行けないかもしれないけど)

おあとがよろしいようで。

質問したい方はどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

「業績的価値」が低く見積もられる論文を書く意味

はじめに

水曜の会議で,研究科の紀要への投稿が少ないみたいな話題が出ていました。私は(研究科の担当をしていないため)厳密には研究科委員会の構成員ではないのですが,慣例で学部教授会構成員は出るような感じなので大学院はこういう感じなのだなぁといつも思いながら話を聞いています。この話題に関しては思うところがちょっとあったので,Twitterに書いたことも含めて再構成してまとめておこうと思います。ちなみに,分野横断的に通じる話ではないと思いますので,私が所属しているのは外国語学部(そしてその上にあるのは外国語教育学研究科)であるということを念頭に以下をお読みください。

「業績的価値」

一応カッコ書きにしました。研究の価値を決めるための代理指標としては一定程度論文が掲載される媒体というのが機能している部分は否めないと思います。そして,そのことを研究者(または研究組織)の業績評価に使用している部分もあると思います。査読システム自体を全否定するほどラディカルな意見は私は持っていません。ただし,現状の査読システムは問題も多いとは思っています。今回はその話はしません。あくまで現状として,査読があるかないか,紀要であれば地方レベルか全国レベルか,国内誌か国際誌か,国際誌でいえばSJRはどれくらいかというような,それなりに研究者が持っていそうな(あるいは表立ってはいないけれども組織内で数値的に優劣がつけられていそうな)「業績的価値」が低いと考えられているような媒体へ投稿することにはどんな意味があるだろうか,そこに院生が投稿しようと思えるにはどうしたらいいのか,そういうことを書きます。

そもそも研究科の紀要とはどういったものか

ウェブで公開されている情報が少ないですが,編集規定は以下のようになっています

ポイントとしては,

  • 学生主体で刊行(院生協議会の会員は在籍院生に限られるという規約があります)
  • 研究科に在籍している院生しか投稿できない(費用が院生の学費から捻出されているという理由で修了生の投稿が認められなくなったらしいです)
  • 原稿のタイプは論文だけに限らず割と幅広い(実践報告や書評もある)
  • オンラインで公開されていない

あたりでしょうか。「5. 論文の掲載」の記述がややこしいですね。査読があるとは書いてありませんが,「掲載を許可される」というのは,拒否されることもあるというようにも読めます。ただし,院生の研究成果を報告する様式では「その他紀要等(査読なし)」のカテゴリに「【『千里への道』を含む】」とあります。したがって,無査読という扱いになっているのは間違いないでしょう。

院生にとってのメリット

さて,投稿する院生にとってどういうメリットがあるのかなと考えてみます。まず,論文を書いて出版するということの(私が考える)最も大きな動機は自分の研究を多くの人に届けたい(そしてそのことによって研究者コミュニティやもっと広く社会に貢献したい)ということがあると思います。そう考えると,インターネット上で公開されているかどうかというのは非常に大きな要素になります。学内紀要のようなものであっても,大学の学術レポジトリに登録されていればインターネットに接続した世界中の人たちがアクセスできるわけですから,たとえその「業績的価値」が低く見積もられたとしてもそこに投稿するメリットはあると言えるはずです。なんなら学部生とかに論文を探してこさせるとその多くは学内紀要みたいなものだったりすることもしばしばあります。そういうところに掲載されたものは読者側に価値判断をする力がないといけないことが多く,その判断力に乏しい学生が内容を鵜呑みにしてしまうと良くないという問題がありますが,これは今回の記事の内容からずれるので深堀りしません。

院生忙しい問題

これは特にうちの研究科に特有の問題である気もしますが,院生からすると「そんなとこに書いてる暇ない」というのがありそうな気がしています。フルタイム院生の数があまり多くないので,例えば私が名古屋大学大学院に所属していたときのように常時フルタイム院生が一定数いて,なおかつ毎日研究室に来るほど熱心な院生が多かった(ちなみに研究室に行くことを私の半径数メートル以内では「出勤」と言っていました)環境とは訳が違います。そういった環境なら,就活に求められる業績を目指しつつも,そのレベルではないなという論文を出す先としては無査読の媒体があればそこに出す選択を取れる院生もいました。また,フルタイムだからこそ,「なんか書いて出して」って言われたら書いて出せるくらいの余裕はありました。そして,それが『基礎研報告論集』であったわけです。

基礎研論集の話

名古屋大学大学院の学生の多くは外国語教育メディア学会中部支部に所属していました。私がちょうど入学する前くらいの当時の院生を中心に,その支部学会の研究部会として,「外国語教育基礎研究部会」というものが発足しました。部会の活動の一環として,毎年報告論集を発行しています。この報告論集は学会の所属とはまったく関係なく投稿を受け付けているので(というか部会の活動自体が学会員限定になっていないはず。昔の例会の発表は除く),過去の論集を見ると「え!この人が!」みたいなのがあったりします(2014年度報告論集)。とはいえ,投稿者の多くは名古屋大学大学院の学生が占めてきていたと思います。私も過去に部会長をやっていましたし,投稿の経験があります。過去に「キソケンとはなんだったか」という記事でこの組織がどういうものだったかというのを振り返って書いたりしているので気になる方はそちらをお読みいただくとして,論集に関してはこう書いていました。少し長いですが引用です。

…報告論集についても,「書きたいことを書いて載せられた」という点で自分にとっては良かったです。私は2014年度から2016年度まで,つまり私が博士後期課程に在籍している間は毎年1本を報告論集に投稿していました。キソケンの報告論集は査読なし扱いなので,査読なしだから出しても意味がないというように思う人もいるかもしれません。それはそれで有りだと思います。ただ,私にとってはだからこそ,「書いて残しておきたいもの」ではあるけれども「ジャーナル論文にするような性格のものではないようなもの」を書いて出すのにちょうどよい場所でした(そういうアイデアが当時割とあったとも言えます)。例えば,2014年度には「実験研究の過程と手法のよりよい理解のためにーマイクロリサーチ体験という試みー」と題した論文を出しました。これは,2014年度に静岡で行った学生向けのワークショップについてまとめたものです。マイクロリサーチ体験というのは,事前テスト-処遇-事後テスト-分析-結果-議論といった一連の流れをその場で実演し,研究の進め方についての理解を深めるというものでした。これは,キソケンのメンバーで行ったWSであったので基礎研論集に出したということもありますが,例えばどこかの学会誌に出そうとしたとしてもどの枠で出せばいいのかわかりません。ただ,どうしてもやって終わりではなく文章として形にしておきたかったのです。

2015年度は,「外国語教育研究における二値データの分析ーロジスティック回帰を例にー」というテクニカルレポートを書きました。これは,当時自分で勉強していたことをまとめたかったことと,Rのコードとともに残すことで自分の後輩にも読んでもらいたかったという意図がありました。院生時代にもデータ分析に関する相談を受けることは多く,その際に一般化線形モデルや一般化線形混合モデルを使ったらどうでしょうということがしばしばありました。そのときに,もちろんそれに関する書籍を紹介することもできましたし,グーグル検索すればロジスティック回帰に関する記事はたくさん見つけることができます。ただ,外国語教育研究の例で,Rのコードとともに,ということになるとなかなか例がありませんでした。そこで,「この論文がウェブで無料で公開されていますので読んでください」と言いたかったということです。これも,もちろんmethodological reviewというような形でジャーナルに投稿することもできたかもしれません。私にはその力はなかったというのもありますが,そこにリソースを割くよりも手っ取り早くpublishしたかったというのもあります。

2016年度は査読付き雑誌に2回落ちた論文を横流しする形で出したので,それまでのものとはやや性格は異なります。ただ,これも「教育実践について形になった論文をとにかく出したかった」ということと,同じような研究をやっている方々に読んでもらうためにオープンにウェブで公開したかったということが理由です。実際,自分も関わったプロジェクトに関する論文で引用したりもしました。草薙さんと共著で書いた「外国語教育研究における事後分析の危険性」という論文も,読まれる価値はあるけれども,学会誌等の投稿規定にはそぐわないだろうということがあって基礎研論集に書きました。

キソケンとはなんだったか

院生の業績ハードルもあがってる(下がってる?)

これは私たち(mid 30世代。いいですか私達がもうmid 30ですよ)世代よりも下の世代で顕著になってきているのかなと思います。海外の大学院でPh.Dをやっていて,院生時代から国際ジャーナルにどんどん論文を出している世代と同世代の国内の院生は結構プレッシャーに感じているところもあったりするんじゃないかなと思っています。昔(私が大学院生の頃とかそれより前も多分)なら院生で国内全国誌に通っていればとりあえずはまあ院生としてはいい方だという認識もあったように思います。ただ,今では院生でも国際雑誌に投稿するのは何も珍しくないことになってきているように思います(私も投稿自体は院生時代に何回かした経験があります)。そうなると,それが「当たり前」のような雰囲気になっているところがあるような気がします。ある意味では,国際誌投稿のハードルが下がっていると捉えることもできるとは思いますが,自分が院生時代にその環境だったらどうだっただろうと思うと,きついよねぇと思います。御存知の通り,どこに投稿するにせよ国際雑誌投稿は出版までにかかる査読のプロセスにかかる労力がすごいです。最近はOpen Data, Open Materialとか事前登録とか国際雑誌の基準自体もあがっていますから,そこに出そうと思ったら査読なしのところに出している余裕なんかあるかいなとなりますよね。

また,もしそこに出せなかったとしても,査読付きの国内誌や地方学会紀要に出すという判断も当然理解できます。特に,うちの研究科では博士号の審査にかかるときに「いいとこ」に載っていることが推奨されるので,査読なしの論文に手をかける暇なんてないでしょうね。私の記憶が正しければ,私が名古屋大学大学院国際開発研究科で博士号をとったときはそもそも博士論文の内容が査読付き雑誌に載った論文の内容に基づいていることすら要件ではなかったと思います。査読付き雑誌に2本?だったか論文が掲載されたことがあるというのは要件だったと思いますが。このことは私が着任した1年目か2年目に研究科委員会でも話題になったように記憶しています。要するに,「いいとこ」に載っている論文の内容がベースなら博士論文の質も担保されるでしょうというようなロジック。それ自体は私も十分理解できます。

それに加えて,上述のようにそもそもフルタイムの院生が少なく,博士号取得にかかる期間も長い人が多いわけですから,より一層とにかく学位取得に全エフォートを注ぎ込まないといけないという状況になっているのだと思います。そういう環境に身を置いていたら,そりゃあ査読なしで公開もされない学内紀要に投稿なんてしないという判断を責められないですよね。だってその仕組みをつくっているのは教員なんですから。

先輩・後輩の縦横つながり問題

また,そういう院生が自分の学位論文取得に注力せざるを得ない状況というのはもう一つ,縦の関係の意味でもあんまりよくないんだろうなと思います。院生時に論文を出版できるかどうかは,教員の引き上げかもしくは院生同士の切磋琢磨,この2つの要因が大きいのではと個人的に思っています。この中で後者の部分においては,(院生指導していないので実態はよくわかっていないですが),少なくとも自分が経験した大学院生活とはずいぶん違う環境なんだろうなとは思っています。フルタイムの院生が少ないと,そもそも院生同士のつながりがそこまで強固に形成されにくいんだと思います。私がいた名古屋にいた頃は「全寮制なんでしょ?」といじられるほどに縦横のつながりが外部からも認識されていたわけですが,おそらくうちの研究科にはそういうものはなさそうです。そうなると,先輩が後輩の面倒を見て論文の出版を後押しするみたいなことや,院生同士で「なんかネタない?」とか,「あれちょっと書いてまとめとこうや」みたいなことにもなりづらいんだと思います。

大学院を担当される先生方は授業担当という意味でも,学内のその他の業務担当という意味でも私のような若手(学内だと次の公募で私より下の方が来なかったらまだ私が当分は最若手では…?)よりも業務量が多いです。となると,そういう先生たちも学位論文指導以外の面で院生の研究をサポートするところまでできるというようにはあまり思えません(繰り返しますが実際に先生方がどうなさっているかは知りません)。また,教員側からしても投稿するメリットを学生になかなかアピールしづらかったり,そもそもそれを言いづらい(学位論文に注力してもらわないと困るわけなので)という現状もあると思います。

そもそも査読なし媒体自体の価値が見出しづらい?

メソ研論集も一時期すごい活気があったように思いますが,あれも投稿が集まりづらいのは時代なのかなぁと思ったりもします。もちろん,10年前くらいに今の私たちくらいの年齢でイケイケだった人たちが今や学内組織や学会組織を回す側になり,研究以外の業務で忙しくなってしまったので余裕がなくなってしまったというのもあるでしょう。メソ研論集や基礎研論集はそれでもインターネット上でオープンに公開されていますから,それでもなかなか集まらないとなったらインターネット上でも公開されていないものに投稿が集まらないなんて当然では?と思います。なんのために発行しているの?という媒体そのものの価値を見直さない限りは投稿も増えることは見込めないでしょう。私としては,上で自分の過去記事を引用したような部分が査読なし媒体の存在価値だと思っていますので,利用する機会がなくなったりはしないかなと思います。

ただし,やっぱり広く読まれるのは国際誌だと思っていて,例えば全国英語教育学会紀要(ARELE)に載ってもたいして引用されないですよね。自分のやった研究が学術コミュニティの議論に貢献しているのかなと思うので,よほど理由がなければ(あるいは国際誌に出すほどではないかぁという質のものでなければ)国際誌を基本的には目指してやるだろうなぁと思います。先日届いたARELEの編集後記に投稿数が減っているみたいなことが書いてありましたが,昔ならARELEに出していたようなものを国際誌に投稿するようになっているんだと思います。コロナで研究活動が滞っているということも原因としてなくはないでしょうが,今後も国内の紀要は全国誌・地方誌,査読ありなしに関わらず存在意義を突きつけられていくのではないでしょうか。

公開はまずい的議論

査読なしで公開することに関して,「やばいのが公開されたらやばい」というロジックで公開に後ろ向きな人がいるのだろうなぁとか,そういう議論がされてきたこともあるだろうなぁということは想像できます。つまり,公開しないのは質が低いから,みたいな話です。一理あるとは思いますが,別に査読がないからといって著者以外の誰も原稿に目を通さずに公開に至ることはないわけですし(「専門家の講評」があると編集規定に書かれていますし),教員や院生同士で投稿前の原稿をそれなりのレベルに引き上げるプロセスをすればいいだけでは?と個人的には思います。教員側にその余裕がないのであれば,院生同士が自主的に切磋琢磨しあえる環境を作るようにしていけばいいですし,それも難しいのであれば院生限定でしか投稿できない媒体を維持すること自体が難しいという結論になると思います。

さらに身もふたもないことを言えば,公開されたからといってそんなにたくさん「読まれない」とも思います。有名な研究者の書いたものならまだしもどこの者ともしれぬ院生が出した論文であれば,データベースに載ったりしない限りは研究者の目に引っかかることもあまりないでしょう。研究者の目に引っかからないということはつまり,厳しい目で読まれることもないわけですから,「こんなやべえ論文出してる組織やべえな」ってなることもあまりないように思います。多くの場合は,へーこんな研究やってる院生がいるのねーとか,ここの院生は頑張ってるねーくらいの感じで目次やアブストを眺めるくらいなんじゃないでしょうか。基礎研論集だってちゃんとダウンロードして中身読んだらこれ大丈夫か?みたいなのも見たことありますよ。それでどういう評判になっているかは私のところに聞こえてくることはないですけれども。

それに,審査のプロセスがあった上で「やばい」のがあったら審査した側の責任も問われるべきだと思いますが,無査読であれば(よほど倫理的にやばいみたいなのを覗いて)研究の質が低い・論文の質が低い,みたいなものの責任を負うのは執筆者自身でしょう(編集規定にも「応募論文に関する一切の責任は執筆者が負う」とあります)」。そのことで組織の評判が落ちることを気にするのであれば,やっぱり教員が介入するなり院生同士のネットワークを強化するなりして,院生の投稿を支援する仕組みづくりが欠かせないはずです。あとは,大学院の授業のタームペーパーとして論文のベースになりそうなものを求める授業があるかどうかということも院生の投稿を促すことにつながると思います。実際,名大ではそういうケースでMの院生がタームペーパーをもとに論文化することがありましたし,それは今でもおそらくそうなっていると思います。

おわりに

一言でまとめると,院生が「出してみようかな」と思える環境にそもそもなっていないというか,それを後押しする要素が欠けているということに尽きるのではないかと思います。よって,査読なしであっても院生が投稿しようと思うような媒体にすること(ウェブ公開)と,組織としてそれを支援する仕組みを作ること(教員のサポート&院生同士の切磋琢磨)が取り組むべき課題かなというのが私の結論です。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。