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非常勤の話

はじめに

3年目に入った関学と追手門の非常勤,教えてる内容は基本的に同じなので,自分の中であんまり変化がないように感じることがたびたびありました。それが理由で,そろそろ辞めどきかなと思うことが何回かありました。ところが,続けていると毎年毎年新しい学びが自分にもありますし,やっぱり教えてる学生さんが違えば交互作用があって受け止め方だったり,思考の発展していく方向性だったりも違うのでそれが面白いなと思って続けてるところがあるんですよね,というお話。

第二言語習得の授業

追手門の第二言語習得は,フルオンデマンド開講ですので,これまでに一度も学生さんたちに会ったことはありませんし,読むための資料教材ベースで授業を作っています。それでも,学生さんたちも必死に理解しようとしてくれていて,自分のことと引きつけながら色んな内容を咀嚼してくれています。第二言語習得研究の面白さだったり,研究という営みそれ自体に対する理解だったりが伝わっているのが毎回のリアクション・ペーパーから伝わってきます。そらを全部読んで、毎回60ほどのリアクション・ペーパーに全て返事を書いています。フルオンデマンドな分,インタラクティブな要素を唯一もてるのがそこなので。学生さんに刺激をもらって,こちらも毎週頑張ろうと思えています。

もちろん,フルオンデマンドなので,「全然資料を読まずに生成AIにキーワードだけ伝えて文章作ったでしょ」と思ってしまうような,資料に全く関係ないことを書いている人もいます。それ自体は,どういう授業をやっても一定数出てきてしまうものだと思うので諦めているところはあります。

英語科教育法の授業

関学の英語科教育法の非常勤も,当たり前ですが,学生が変われば反応も違うし,どこが「刺さるか」みたいなのも年によって違います。例えば最初の頃は,主にピアフィードバックに対して,「生徒の能力の差があったらうまくいかない」,「できない子は何もフィードバックできなくて,できる子が損する」,みたいな意見が結構あって,そこをときほぐすようにしていました。その次は,「入試があるから」,という入試要因に強く反応する学生が多くいました。そこで,「でも実際には4大進学率自体がそもそも高校生の半分ほどで,さらに大学進学者の中でもいわゆる受験勉強が必要な一般受験が必要な割合はこのくらいで、最近は流れ的に年内入試の割合も増える方向に(主に大学側の都合で)シフトしているよ?それでも入試のために授業はあるべき?」みたいな話をしたり。

この春学期に教えている学生たちは,実践に対する関心が高くて,学習者の立場ではなく,教師の立場でTBLTを体験したいという声が出たので, これまでやったことのなかった模擬授業的なことを取り入れたりもしました。本来は,私の受け持つ科目は理論重視のはずで,実践は他の授業でカバーされていると聞いていたんですけどね。

教師役が学生だと,学習者の立場でタスクをやる学生たちも,タスクそのものに熱中するのはもちろんのこと、同じ学生の立場でありながらも教師役をやる学生たちのパフォーマンスを見ていますし,実際に教師役をやったら気づけたということにもたくさん思考がふくらんでいるように思います。

初めての取り組みだったので,改善のしようはあると思うのですが,今後も継続的にやろうかなという気持ちではいます。実際に教師役を授業の一部でも体験してもらうと,こちら側としても,普段の授業ではみえないような教師としての適性を感じることもあります。

また,実際に教えてみたら自分には無理だと思ったという感想もありました。そういう感想は少し残念ですが,なんていうか,「TBLTは難しい。無理だ」っていう気持ちも理解できます。それはある意味では真理というか,実際に学習者に即興を求めるのであるからこそ,教師の側も即興の能力を求められることは間違いないと思います。ただ,だからTBLT「の方が」難しいみたいに思われてしまうと自分の意図とは違う方に行っているなという気はします。そもそも,授業をやることそれ自体がそんな簡単なはずはないですしね。机間巡視してる中でどうやってフィードバック出すか,どこは説明してどこは説明せずにいくか,早くタスクが終わった学習者を退屈させないためにどうするか,沈黙が続いてるペアにはどんな介入をするか,とかそういうのはTBLT関係なく,英語の授業を成り立たせるために必要なことですからね。方法論に全く関係なく。「そうだとしたら,そもそも英語教師は私には無理だ、こんなことはできない」と思われてしまってもちょっと違うという気もしています。

「英語教師は簡難しくないよ。誰だってなれるよ」なんてことは言いたくないです。専門職ですし,自分の職業にプライドも持ってほしい。でも,なんていうか最初から完璧に何もかもこなせないとやってはいけない仕事でもないわけですよね。むしろ,そういう仕組みにもそもそもなっていないわけですし。私が彼ら・彼女らが教師になってからその成長をサポートできるわけではないので(求められたらそりゃ全力でしますけども),大丈夫だ頑張れっていうのも無責任なんですけどね。

おわりに

最後に脱線しましたけど,今やっている非常勤の授業も,毎授業自分にとって新しい発見があるし,毎学期,その時の受講生にプラスになるような内容を提供できている部分もあるかな思うことができている,というポジティブなお話でした。もちろん,今に満足せずにもっといい授業にしていくための営みは止めることなく続けていきます。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

SLA研究における反応時間の扱い(Hui & Jia, 2024)

はじめに

以下の論文のレビューというと大げさですが,まあ読んで思ったことなどを書きます。

Hui, B., & Jia, R. (2024). Reflecting on the use of response times to index linguistic knowledge in SLA. Annual Review of Applied Linguistics, 1–11. doi:10.1017/S0267190524000047

X(旧Twitter)につぶやいたことの再構成という形で以下いきます。反応時間はReaction Timeなので,RTと省略して記述します。

RTと正確性

正確さ見ずにRTだけ見たら本質を見誤るというのが1つ目の論点です。RTは,例えば判断課題のRT(語彙性判断課題,文法性判断課題等(Grammaticality Judgment Task; GJT))が使われることがよくありますが,その場合には,誤答(誤った判断)の試行は一般的には除外されます。よって,正答率が低いような文法知識を扱う際には誤答が多ければ除外される試行が多くなり,それだと分析で見たいものが見れなくなってしまうのではというのが著者の主張。

個人的には,そもそもRT使うのは正確さでは弁別できない事象を扱いたいからです。明示的知識・暗示的知識の枠組みでRTを使った課題が用いられているのも,正確さでは母語話者と変わらなくても,RTでは母語話者と差がある文法項目がある,というような前提があるわけです。よって,知識が獲得される初期段階や,そこからの熟達度による変化を対象にするのであれば,RTは使わずに正確性(正答率)を従属変数にするでしょう。もし見るなら正確さの「変化」とRTの「変化」ですね。この論文でもそういう話をしていますが,つまりは複数の観測点を設けて,正確さとRTの関係性を分析するということです。

ということで,それって当たり前体操では…?と思いました。初期段階で正確性を見るというのは,私が共同でやった下記の研究でも論じています。

Terai, M., Fukuta, J., & Tamura, Y. (2023). Learnability of L2 collocations and L1 influence on L2 collocational representations of Japanese learners of English. International Review of Applied Linguistics in Language Teaching. https://doi.org/10.1515/iral-2022-0234

RTの差分を個人の指標とすることの問題

RTを使う分析は,基本的には条件間におけるRTの差分の大きさに焦点があります。例えば,自己ペース読み課題(Self-paced reading task; 以下SPRT)で文法的な文を読んだときと非文法的な文を読んだときを比較し,非文法的な文でのRTが長い(読みが遅れる)ことを比較します。ポイントは,グループレベルで統計的に有意かどうか,というのが結果の解釈のポイントであることです。つまり,差分が小さい人もいれば,逆方向の人(文法的な文を読むときのほうが遅い人)もいるなかで,全体的な傾向としては非文法的な文の方のRTのほうが長いよね,ということをももって,その実験の参加者集団が何らかの文法的な知識を有していると推論するというわけです。

こういう前提はありながらも,実はSLA研究ではRTの差分が個人の知識や能力を反映しているように解釈している研究が存在しています。つまり,何らかのペーパーテスト的なもので測られる正答率と同じ扱いをしてしまっている,ということですね。例えば,何らかの文法性判断課題みたいなものをやったとします。すると,そのテストのスコアが高い人ほど,文法知識を有している(または文法知識が安定している)と解釈すると思います。この点は多くの研究で暗黙的に了解されていることでしょうし,母語話者がテストを受ければ,真面目にやっていないというような場合を除いて一貫して高い正答率が期待されるはずです。ところが,RTは前述のようにこうした個人の能力の反映とみなすことはできません。あくまでグループレベルで結果を解釈するのであって,非文法的な文を読んだときのRTの遅れが大きい人のほうがより文法知識を有している(または文法知識が安定している)と解釈することはできないはずなのです。繰り返しになりますが,母語話者を対象にしてSPRTをやっても,全員が非文法的な文の方に大きな遅れが見られるとは限りません。では,その時に母語話者の中にもその文法の知識がない人がいると考えるでしょうか。

それにもかかわらず,RTの差分をSEMに使ったり,あるいは独立変数や従属変数として扱って回帰分析をしてしまっている,これは問題だよね,ということです。この問題は個人的には超重要で5年以上前から思っていました(しSLRF2019でGodfroid先生にも質問しました)。

このセクションでは個別具体的な研究に対して批判的な言及をしているわけではありませんが,明示・暗示の測定具関係の研究でRTを用いた課題を構造方程式モデリング(SEM)に入れているような研究にはこの2つ目の論点の問題点がつきまといます。

あえて個別に名前や研究をここで挙げたりはしませんが,論文で引用されている研究の中にこの批判が当てはまる研究がいくつもあります。こういう大事な指摘を論文として国際誌に載せる力は私には残念ながらなかったので,こういう論調が出てきたことはいいことだと思いました。

RTの差分を使ってる研究ってどんなのがあるだろうと思われた方は,レビュー的なものが同じ第一著者の次の論文の中にあるのでこれを読まれるといいかと思います。

Hui, B., & Wu, Z. (2024). Estimating reliability for response-time difference measures: Toward a standardized, model-based approach. Studies in Second Language Acquisition46(1), 227–250. doi:10.1017/S027226312300027X

上記論文ではRT差分の利用について概念的な問題点を指摘しているというよりは,RT指標そのものの信頼性が低いという問題に焦点をあてているので,差分を使うことのぜひについてはそこまで論じられていませんが(福田先生とやりとりしている中で論文読み直してこのことに気づいたのでgracias)。

RTは様々なプロセスを反映している

これが最後の論点です。SPRTやGJTには様々なプロセスが入ってるので、RTはピュアに知識を反映してると言えないのではないか,という話です。これ,まあそれはそうというか,それはわかったうえでやっていますけどね,というのが正直な感想です。他の要因が極力入りこまないように,条件間での刺激文の違いをできるだけ最小限に抑える工夫がされます。文法構造によってはそれができない場合もあるわけですが,その場合でも単語の長さを揃える,文法構造を揃える,というように実験前の統制が肝になるわけです。それでも単語の長さが違ってしまう場合などは,単語長(文字数で操作化されることが多いです)を回帰分析に入れて残差読み時間(Residual RT)を計算してそれを従属変数にしたり,あるいは単語長を共変量(covariate)として回帰モデルに組み込んだりします。よって,RTを盲目的に何かを表すものとしているのではなく,一応妥当な推論たりうるように実験上の工夫は施されていると思っています。

最後に次の引用の一節で述べられているとおり,「それが何を反映しているのか」,というのは別にRTに限らずあらゆる課題・テスト・測定具についてまわる問題でしょう。

These are perhaps not problems unique to RT research. The key message here is that to ensure validity of their measures (i.e., to make accurate interpretations of their results), SLA researchers should be mindful of the psychological processes involved in completing the tasks. While no measure is a pure measure of anything, knowing what is or can be underpinning a numerical result that we interpret is of paramount importance.

そんなこと言われなくても当たり前のことでしょうと思っている人がほとんどだと私自身は思っていますが,もしそうじゃないとしたらこの基本が頭になくてSLA研究やってるのやばすぎでしょと思ってしまいました。

おわりに

個人的には1つ目と3つ目の論点は別に対して重要じゃないというか当たり前だよな〜って話でした。ただ,2つ目の論点はとても重要なので,ここだけに焦点をあてたconceptual review articleみたいなのだったらもっとよかったのにと思いました。論文を読んでブログ書いたのめちゃくちゃ久しぶりかもしれない。

なにをゆう

たむらゆう。

おしまい。

『外国語学習での暗示的・明示的知識の役割とはなにか』を読みました

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はじめに

大修館書店から発売されている,下記の書籍についての記事です。

まず一言でこの本の感想を言うと,多くの人にこの本は「そのまま」読まれるべきではないと感じました。したがって,忖度なしで書きます。

また,以下の記事では私が読んで考えたことに加え,私を含めた4名の研究者で行ったこの本の読書会で話題にあがったことも含めます。読書会で議論になったことは,その都度そのように言及しますので,そうでない限りは私の主張であると考えてもらって構いません。

ちなみに,私は過去にこの本で取り上げられている暗示的・明示的知識(英語ならimplicit/explicitだと思いますけど日本語だと明示的・暗示的という人のほうが多いような)についていくつか記事を書いています。

どれも院生時代の記事ですが,私のスタンスというか立場,見方はこれらの記事に現れていると思いますのでぜひお読みください。また,本記事の以下の内容は,自己批判を多く含んでいます。それは,私が初めて「論文」というものを発表した時期にやっていた研究(2014-2015あたり)は明示的知識や暗示的知識といったものを対象としていて,測定や構成概念に対する認識の点であまりにもナイーブすぎたと思っているからです。

初学者には非推奨

もしも,「暗示的・明示的知識ってなんだろう?」とか,帯に書いてあるような「規則を知っていても使えないのはなぜ?」という疑問を持っている人がこの本を読もうとしているのを見かけたら,私は止めたほうがいいとアドバイスすると思います。なぜなら,そういった疑問は解決されるどころか余計に頭の中がこんがらがってしまうからです(理由は後述)。

そういった意味で,この本は批判的に検討できる者のみが読むべきだと思います。初学者が読むと余計にわけわからなくなってしまって悩んでしまうか,または逆に誤った知識を身につけてしまう可能性すらあるかもしれません。よって,学部や大学院生レベル,または研究職に従事しない方が手に取るべき本だとはあまり思えません。

なにがこの本の価値を下げているか

この本に対して私が否定的な印象をいだく理由を端的に言えば,この本は「だからだめだよSLA」の典型例だと思うからです。帯に「第二言語習得研究×認知心理学×脳科学」というように,この本に書かれていることがいかにも「科学的である」ような装いがありますし,真理・真実が明らかになっているかのような書き方がされている部分もあります。しかしながら,実際には曖昧性を多分に含んでいて,その最たるものは明示的知識とはなにか,暗示的知識とはなにかについて執筆者全員の定義が一致しておらず,その測定方法も違うからです。このことについては後述します。

つい先日,

第二言語習得研究(者)はなぜ「誤解」されたか

という記事を書きましたが,この記事で批判したことのいくらかも当てはまっている本ではないかと思います。

さて,本題です。本の中で気になるポイントを一つ一つ指摘していくときりがないくらいたくさんありますが,以下ではいくつかの論点にしぼって書きます。

論点1: 全体を統一する視点に欠ける

この本が全体を通して非常に残念な仕上がりになってしまったと感じる最も大きな理由は,各章の独立した論考をまとめて統一感をもたせる構成になっていないことでしょう。「はじめに」と「終章」はありましたが,本の意義のアピールが多く,全体を俯瞰的にまとめきれていたようには感じませんでした。このことは,何もこの本に限ったことではないと思います。他の分野の本がどうかはよくわかりませんが,私がこれまでに自分の研究に関わる専門書をそれなりの数読んできた印象は,多くの執筆者が各章に独立した論考を書いているパターンの書籍は質があまり高くないことが多いというものです(特に洋書)。一冊の中で扱われるトピックに多様性をもたせようとした結果,一冊の本のまとまりを欠いてしまうというのはしばしば見かけます。この本もそういう系統だというのが私の印象で,それだけであればそういう本のうちのone of themだということでスルーしていたかもしれません。

ただし,この本のテーマは一つの「概念」(明示的・暗示的を別個にカウントすれば2つ)です。暗示的・明示的知識という目に見えない概念を扱っています。それがこの本の各章に通底するテーマであるわけです。だからこそ,編者はこの本で言う「暗示的・明示的知識」が指すものを冒頭で(操作的定義も含めて)定義するべきであり,その定義に沿って各章の執筆者に執筆を依頼するか,または原稿を受け取った時点で章の間の記述の齟齬を解消するような修正作業を行うべきだったと思います。この点は読書会に参加した全員が同じような印象でした。

そういう調整がなされていないのは,すべての章で著者が独自に概念的・操作的定義を述べていることからも明らかです。結果として,第3章では暗示的知識の測定具として適切ではないと言われていた文法性判断課題が第5章や第6章では暗示的知識の測定具だとして論じられています。

百歩譲って,それが不可能である,つまり,暗示的・明示的知識を定義することは不可能であるという態度でこの本を世に送り出すのであれば,そのことを正直に書くべきでした。私がもしもこの本の編者に入っていたらそうすると思います(終章の151ページに測定具の問題への言及はありますが,全部読み終わって最後にそれ言われると詐欺っぽいので本来であれば先に言及するべきで,その意味では終章を読んでから各章を読むほうが良いでしょう)。なぜなら,この記事を執筆している2021年現在でも,研究者間ですら,暗示的知識と明示的知識がどのような測定具を用いて測定されるものであるかについての合意には至っていないからです。例えば,以下の論文は第3章(第二言語環境で日本語の文法知識はどのように発達していくかー文法項目の特徴と学習者の個人差の影響)で提示されるような明示的・暗示的知識の測定方法の分類とは異なり,時間制限つきの文法性判断課題なども暗示的知識の測定具としています(よってどちらかというとRod Ellisの分類に近い)。

Godfroid, A., & Kim, K. (2021). THE CONTRIBUTIONS OF IMPLICIT-STATISTICAL LEARNING APTITUDE TO IMPLICIT SECOND-LANGUAGE KNOWLEDGE. Studies in Second Language Acquisition, 43(3), 606-634. doi:10.1017/S0272263121000085

最新の研究ですらそういった状態なわけですから,そもそも明示的知識とはなんなのか,暗示的知識とはなんなのか,そしてそういった2種類の知識をどうやって測定仕分けるのか(より大きな問題は,そういう知識2つの実在を仮定して良いかどうか)ということについては科学的な真実があると言える状態でも,その確信度が高いと言えるような状態でもないというのが現状というのが,この文法知識の二元性というトピックを研究を初めたときから追いかけている(とはいっても研究のキャリアは修士をスタートとしてまだ10年ほどですが)私の現状認識です。

にもかかわらず,この本の「はじめに」では,次のような記述があります。

(前略)明示的知識と暗示的知識の区別はSLAの中心的課題であるが,同時に,問題もいくつか抱えている。たとえば,日本人の英語習得を扱った研究が少ないこと,研究対象が文法習得に限られていること,個人差や情意に関する研究がほとんどないこと,近接領域(たとえば,認知心理学や脳科学)の最新の手法を取り入れた研究が少ないこと,などである。本書の目的は,これらの問題点を網羅し,科学的証明を行うことにある。

はじめに iv

このパラグラフだけでツッコミどころはたくさんあって,なぜ日本人の英語習得を扱った研究が少ないとそれがSLAの問題となるのか,とか近接領域の最新の手法を取り入れていないとSLAの何がどう良くない状態になるのか,とか色々思うところはあります。また,たかだが本一冊で解決できる問題ではないだろうとも思いますが,それはおいておきます。それよりも私が驚いたのは,「科学的証明を行う」という記述です。「科学的証明」という言い方は私は人文科学の中では非常に強い主張だと思います。しかし残念ながら,「科学的証明」には失敗していると思います。全員が同じ概念なり現象なりを同じ方法で測定するというのは科学の最も基本的かつ重要な部分であると思いますが,それが成立していないからです。

一方で,1万歩くらい譲ってもう一度この本のタイトルを思い出してください。そうなんです。この本のタイトルは,『外国語学習での暗示的・明示的知識の役割とはなにか』であって,「暗示的・明示的知識とはなにか」ではありません。よって,この本は暗示的・明示的知識とはなんなのかの答えを与えるものではないのですと言われたら,まあそういう解釈もありえますよね,とは思います。ただ,そういう政治家みたいなことばの使い方は読者に対して不誠実だと思います。そしてそのことは,本の中で一切語られていないからこそ罪が重いです。本の冒頭または最後で暗示的・明示的知識というのは非常にcontroversialなトピックである,ということが明示的に書いてあり,その整理をある程度の紙幅を割いて試みた上で(この役割が第2章だったのかもしれませんが)の各章の内容であれば,私のこの本に対する評価は変わっていたと思います。

論点2: 用語・定義がカオス

知識,処理,意識

論点1と関連しますが,まずもってこの本は各章でそれぞれの著者がそれぞれの概念的定義で暗示的・明示的知識という用語を使っています。また,類似する概念である宣言的知識(declarative knowledge),手続き的知識(procedural knowledge)であったり,「手続き化」(procedualization),「自動化」(automatization)といった用語も含めて,それが何を指すのかも章ごとにばらつきがあります。また,「意図的」(intentional)という用語が「意識的」(conscious)という用語と同じような意味で使われているのではと思う箇所(pp.52-53あたり)もありました(意識という用語関連の整理については福田(2018)がわかりやすいです)。

例えば,第4章では語彙の知識という観点から暗示的・明示的知識についての議論がされています。p.58に 「手続き的知識の習得を促す…」とありますが,ここまでの流れで読むと「手続き的知識=暗示的知識」と読めると思います。つまり,暗示的知識=手続き的知識であり,この2つはinterchangableであるという使い方になってると解釈できると思います。しかしながら,これは第2章2.3節の「明示的・暗示的知識と宣言的・手続き的知識の関係」の内容や第9章の「第二言語習得研究で言うところの暗示的・明示的知識の区分と,脳科学で言うところの手続き・宣言的記憶の説明に多少ずれがある」(p.137)という記述と矛盾することになるのではないかと思います。

こうした用語が意味するもののズレが生じてしまう大きな原因として,「知識」(つまり脳内に保存されている情報)と「処理」(保存されている情報へのアクセス)を分けて議論できていないことが大きな問題(これはSLA全体に言える問題)なのではないかという話も読書会でありました。そして,「処理の話」と「意識の話」を切り分けることも重要です。

SLAでは,暗示的知識というのは母語話者が言語使用に用いるものであるという理解があります。言語学者でなければ,ほとんどの人間は自分の持っている言語の知識について意識することもありませんし,その情報へのアクセスを意識的にすることもないわけです。そして,第二言語学習者と比較して圧倒的な速さで言語の処理ができます。このことから,暗示的知識の概念的定義に速いことと無意識であることが含まれるようになりました。この章(第4章)のpp.53-54の最後の段落の記述を見ると,「学習者はjunctionの意味的表象に素早くアクセスする能力を有しているとみなすことができるだろう」とあります。こういう部分に,速い=無意識,という前提があることが現れています。「処理の話と意識の話」が混ざってしまっているわけです。つまり,持っている知識に対して,そのことを意識しているかどうか(自分がその知識を有していることを自分が認識しているかどうか)と,その知識にどれくらいのスピードでアクセスできるのかどうかということを分けて議論できていないように感じました。Tamura et al. (2016)で主張したように,スピードが早い=無意識,スピードが遅い=意識という単純な関係ではありません。

小学生の暗示的知識?

話をまた「はじめに」に戻します。この本の最初のページはこのように書いてあります。

(前略)たとえば,多くの小学6年生は,英語の疑問文における倒置の規則を知らないのにもかかわらず,英会話で”What color do you like?”, “What would you like?”, “Do you like soccer?”と正しく発話することができる。(中略)また,明示的知識はないが暗示的知識があると考えられるため,小学生が正しく英語を使うことができるということになる。

はじめに iii

端的に言いましょう。小学生が疑問文生成に必要な倒置の規則の暗示的知識を持っているわけありません。これはただの模倣です。仮に知識として持っているとすれば,Do you like X?で「Xが好きですか」という意味をなすというくらいのものでしょう。

こういうのを読むと,言語を「使う」の意味も多義的でコミュニケーションを難しくしているなと思います。これと同じような意味で,第6章のp.83には 「小学校英語教育の第一義的な目標は英語表現を使えるようになること(強調は筆者)」とあります。もしも小学生が暗示的知識を持っていて英語が使えるのであれば,第2章の「『使える』文法知識」について考えなくてもいいんじゃないでしょうか,となります。だって小学生でもう暗示的知識あるのですから。たしかに,小学生の言語習得はその他の章の議論と噛み合いません。なぜなら,2章では前提として多くの学習者がたどるプロセスとして「知る」->「使える」のようになっているからです。そうであれば,そうしたケースと比較して小学生がどういった学習のプロセスをたどるのか,どういった文法知識を持っているのかは議論すべきポイントです。

そしてp.84を読むわけですが,そこに書かれている内容は首をかしげるものでした。そもそもこの著者の言っている「文法知識」なるものは他の著者の言っている文法知識と指しているものが異なるように感じました。例えば,What X do you like?のX部分を様々に入れ替えて質問ができる,質問の内容を理解して答えることができる,といったとき,この小学生はいったいどのような文法の知識を持っているということになるのでしょうか。Wh句が前置されて疑問文が生成されるという知識?do挿入の知識?Xの要素を引き連れてwhを前に移動させるという知識?そうではなく,似た構造のインプットをたくさんうけることによって,構造的な類似性をヒントに構文を構築していくというような用法基盤モデルのような考え方を採用しているのであれば,そういった説明が必要でしょう。

論点3: 言語・テストが良くない

これは特に第5, 第6章の内容に関連するものですが,知識測定の道具として使用される刺激文の質が悪く,これでは測定したい知識が測れているかどうかも怪しいと思いました。

読書会で挙げられたことを1つ出せば,81ページにある刺激文の一覧をみると,

  • 正文: I have a cat.
  • 誤文: *I like animal.

となっていて,この項目で測定したいのは「名詞の単数形・複数形」となっています。正しくはI like animals.と複数形形態素がついていないといけないということでしょう。問題は2つあります。まず,このときの複数形形態素が欠如していることというのは,*I have two car.のような誤りとは訳が違います。なぜなら,後者の文であれば,「名詞が表すモノが複数なら-sをつける」という知識があれば対応できるでしょうが,I like animalに-sをつけるというのは,「種類を表す場合は裸の名詞の複数形(bare plurals)である」という知識が求められるからです。これは,単に複数=-sの知識とは言えません(名詞周りの知識ではあるのでそれも含めて複数形の知識という点で誤りではないですが,それでも対になってるとは言い難いと思います)。catは具体物を表しますが,animalは動物というカテゴリの名詞ですから,そういう意味でもこの2つは対になっているとは言えません。

2つ目の問題は,「名詞の単数形」が正文であり,「名詞の複数形」が誤文になっていることです。本来であれば,名詞の単数形について正文と誤文をつくり,名詞の複数形について正文と誤文をつくるべきでしょう。この章では文法性判断課題の正文への反応は「暗示的知識」を測っていて,誤文への反応は「明示的知識」という立場をとっています。そうなると,「単数形の知識」は暗示的知識しか測っていないし,「複数形の知識」は明示的知識しか測っていないことになります。

第6章でもこうした問題が散見されます。例えば,pp.88-89では動詞フレーズの獲得状況についての調査をした浦田他(2014)という研究が紹介されています。p.89の表1をみると,*I can play piano.という英文があります。これ以外の誤文はすべてcanの後ろに動詞がない(*I can soccer),動詞とcanの語順が異なる(I play can kendama.)など,canと動詞に焦点が当てられているものの,play pianoは「playの後ろに楽器が来る場合はtheがくる」という知識です。それって全然違うことなのでは?というのが読書会でも話題になりました。元論文を読むとTomaselloが引用されていたりして,用法基盤モデルの考え方を採用しているのだなと思いながら読めば,can VPみたいなものを見ているのかなとか思ったりもしました(それでもこの章の説明だけでは違和感を覚える人は少なくないはず)。4.2節の物井他(2015)も,正答率の低かった問題について「最初に,問題2については,rhinocerosesという児童に聞き慣れない語がふくまれていたことが原因である」と書いていて,文法性判断課題で未知語が含まれていたらその影響が出るのは当然で,そうなると語順の知識は測定できないのではと思います。元論文を読むと,以下のような記述があります。

rhinoceroses(サイ)という児童に馴染みのない単語を挿入しており,未知の単語と遭遇した場合に,その意味を推測しながら文の正誤を判断できるかを確認する意図があった。(p.88)

物井尚子・矢部やよい・折原俊一(2015)『外国語活動を経験した児童の語順に関する理解度調査 ―SVOに焦点をあてて―』千葉大学教育学部紀要, 63, 85-94.

ちなみに,このことが書いてあるのは結果部分の88ページであり,テスト作成部分には,未知語が入っているという説明は出てこず,次のように書いてあるのみです。

使用する単語についてであるが,Sは1・2人称に限定しI,youのみ, Vは外国語活動で使用頻度が高いと考えられるhave, eat,play,likeの4動詞,Oに用いる名詞はapples, baseball,lunch,pen,soccer,tennisに上位語のcolor,sportの8語,句動詞としてgo to school,get upの2種, 時間を表す前置詞を含む表現としてat six,at eightを用いた。(p.87)

物井尚子・矢部やよい・折原俊一(2015)『外国語活動を経験した児童の語順に関する理解度調査 ―SVOに焦点をあてて―』千葉大学教育学部紀要, 63, 85-94.

私の感覚からすると,テスト作成の段階の記述と言ってることが違うというのはありえないです。これはまあ本の批判ではないんですが。

第5, 第6章で紹介されている研究すべてに当てはまる指摘ですが,テストに使われる刺激文だけではなく,そもそも問題数が少なすぎるという問題もあります。小中学生に大量の項目のテストを行うことの実行可能性などを考慮すれば,問題数を増やすことが難しい事情は理解できます。しかしながら,文法性判断課題とはテストである以上,なにかを測定するためには測ろうとする文法のターゲットについて1つや2つの項目だけでは学習者が安定して判定を行えているのかどうかを判断することはかなり難しいといえます。ましてや二択の問題であるからなおさらです。「文法知識」というからには,1つの事例にだけ適用ができるものではなく,複数の事例に適用可能な規則であるはずです。そういうものを測ろうとするのであれば,1つや2つの項目に正しい回答をしただけでは,単に「それとほとんど同じ文を聞いたこと(見たこと)があった」という記憶だけでも正答にたどり着く可能性も十分にあります。また,5, 6章で出てくる「正答率」とは,1人の学習者の正答率ではなく,参加者全体の中で正答した学習者の割合であることも注意が必要でしょう。つまり,ここでは学習者個人ではなく,集団の問題となっているということです。

このことは,結果の解釈とも関わります。第5章の結果の考察については,そもそも二択の問題で5割を切っている部分の「伸び」になにか有益なものがあるようにはあまり思えません。さらに言えば学習者個人ではなく集団の話であるわけで,正答できる学習者の人数が増えた事をもって,学習が進んだというように解釈するのは少し違和感があります。

第6章でも同様に,

全体の正答率は5年生が44.5%,6年生は51.6%で,6年生のほうが高く,この差は統計的に有意であった。つまり,物井らの研究と同様,5年生よりも6年生のほうが全体として暗示的知識をより多く持っていることが明らかになった」(p.95)

とあります。ところが,p.89では,

GJTの分析では,正答率をチャンスレベル(当て推量で解答した際に期待される確率)と比較する場合が多い。GJTは提示された文が文法的かどうかを判断する二者択一のテストであるため,チャンスレベルは50%,(中略)したがって,GJTはでは正答率が50%よりも高いかどうかが重要である

という旨の記述があるのです。こういうことを書いておきながら,50%を下回っている正答率や50%をわずかに上回る程度の正答率に対して,「知識がある」という判定を下している。これはあきらかに矛盾していないでしょうか。全体の結果から「GJTで語順の正答率が5年生でも高い(特に正文)ことから,5年生でも語順に関する暗示的知識は身についている児童は多いことがわかる」(p.96)という結論も同意できません。カッコ内の「特に正文」という部分が絶妙に不誠実だと思いました。なぜなら,p.95の表2を見れば,非文とされている(10)過去形, (2)be動詞, (4)語順, (6)can, (8)want toの5項目の5年生の正答率をみると,語順の正答率はたったの32.1%しかないからです。これは他の非文の正答率25.6%~48.8%と比較しても高くない上に,50%を大幅に下回っています。そして正答率が「高い」と解釈されている正文反応の方を見ても,2択で答えられる問題(しかもたったの1回の反応)で,66.1%の学習者が正解したことをもって,暗示的知識は身についている児童は多いと結論づけるのはあまりにもナイーブすぎないでしょうか。言語の暗示的知識をもつ母語話者は正文を正文と判断することも,非文を非文だと判断することも暗示的知識を使ってやっていると思います。よって,本文に明示的に書かれてはいませんが,もし仮にGutiérrez (2013)をもってきて,非文への反応は暗示的知識なので,明示的知識は持っていないが暗示的知識はあると考える,というように言われてもちょっと納得がいきません。

場外戦: そもそも明示・暗示は厳密には教育には役に立たない

終章の3節「教育的な示唆」には,明示的・暗示的知識の測定が教育・指導上役に立つとして以下の3点が挙げられています。

  1. 暗示的知識は学習者が気づかない(意識できない)知識であるが,この暗示的知識の習得こそが学習上のゴールであると考える教員や研究者が多いため,暗示的知識が測定可能になったことは重要
  2. 明示的・暗示的知識の測定方法が確立してきた事によって,教育場面でも応用可能
  3. 明示的・暗示的知識の習得プロセスにおける諸要因の役割がわかりつつあるため,教師がフォーカスすべきところが明確になってきた。

まず1について。そもそも,今のSLAで仮定される暗示的知識というものが実際に人間の頭の中に実在すると仮定して,心理学的な考え方でそれを測定することができるという意味でいうと,「測定可能」になっていると言い切れるほどではないと思います。まだまだ不確実なことが多い状況で,あまり確定的な記述をすることは逆に教育現場に誤った理解を広めたり,そのことが教育現場に余計な軋轢を生んでしまうかもしれない可能性を危惧しています。

暗示的知識の習得プロセスを学習者に示す事ができるということの例として第8章が言及されていますが,この章で紹介されている単語学習は,まず単語を見せて訳語を思い出してもらい,その上で正解を見て到達度を「良い」「もう少し」「だめ」「全然だめ」という4段階で評定するものです。単語を学習せよという指示はしていないから意図的学習ではなく,「潜在記憶レベルの語彙学習」と書いてありますが,この学習で単語を覚えようとしないわけがないと思います。意図的学習と偶発的学習を比較して,ここでフィーチャーされている学習が後者の学習だと論じられていますが(p.128),本来の偶発的学習(意味理解を目的とした言語処理時に未知語の知識を獲得するような学習)とは明らかに異なります。また,この評定値があがっていくことが語彙の暗示的知識であるとすれば,それは4章で議論されたようなアクセスのスピードの速さを暗示的知識とする理論的枠組みともずれます。

こういうズレは,教育場面でのテストや測定と,研究としてのテストや測定に求められる厳密さが異なるということを意味していると思います。このことは,2番目の論点にも関わります。

2の教育場面での応用については,時間制限付きの文法性判断課題を用いたりelicited imitation(誤りの含まれた英文を復唱させ,復唱の際に誤りを直すかどうかで知識の有無を判定するテスト)をすることだと書かれています。ところが,その前の節(p.151)では,これまでのSLA研究で用いられてきた課題は問題点も指摘されているという記述もあります。そういうのを読んだあとで,「測定方法が確立してきた」(p.152)と言われると,え?本当に「確立」しているのでしょうか?と読者は疑問に思わないでしょうか。私は思いました。さらに,終章第2節でもたびたび,暗示的知識の測定具は実際の言語使用とは大きく異なるものであるという問題点も指摘されています。この点については私も「明示・暗示の測定と指導法効果研究」という記事の中で指摘しました。であるならば,そうした実際の使用場面からかけ離れたテストをしてまで暗示的知識を測定する必要が教育現場にあるのかどうかということは問いたいです。そのことが,英語の授業や指導においてどういったメリットを持つかを考えずに持ち込もうとすることは,私はSLA研究者は避けるべきだと思います。私個人としては,明示的知識と暗示的知識という概念は純粋な認知科学としての第二言語習得研究でのみ追究されるべきであり,指導現場への導入は少なくとも今の段階ではメリットがないと思っています。第二言語習得研究では,母語話者と第二言語学習者の差が生まれる要因を解明することが研究の大きな目的ですから,厳密な暗示的知識の測定具を開発することは必要なことです。詳しくは過去記事をお読みください。

3については,明示・暗示という知識の二元論を導入するまでもなく,言語学習というのは非常に時間のかかるプロセスです。そのことは知識の二元論という余剰な概念を持ち出すことで初めて可能になることではありません。であれば,シンプルに「言語学習とは時間のかかるものである」といえばいいだけではないでしょうか。

科学的というような装いで,その内実が非常に曖昧なものに教育場面での有用性があるように断定的に研究者が言ってしまうことのリスクは研究者が考えるべきでしょう。「先週やったよね?」と教員が学習者に言わなくなったとしても,教員同士で「あなたの期末テストって暗示的知識を測定するものじゃありませんよね?」「これは明示的知識しか反映されていない問題ではないでしょうか」みたいなカオスが生まれてしまわないことを願うばかりです。

おわりに

この記事では,『外国語学習での暗示的・明示的知識の役割とは何か』という本の内容について,いくつかの観点から批判的に検討しました。私の記事の内容についても,批判的な検討をよろしくお願いいたします。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。


2021.09.22.03:24 更新

読解上やや不自然な部分や読みづらい部分などについて,軽微な文言の加筆修正等を行いました。最初に公開したものと内容的な変更はありません。

「知っている」事の影響を排除するための2つのアプローチ

思いついたことを書き留めておくだけのメモ記事です。粗いところもあるかもしれませんがご容赦ください。

「狭義の」(文法の)第二言語習得研究が目指していることは,母語話者が持っているのと同じ知識を第二言語学習者も身につけることができるのか,できるとすればそれはなぜか,できないとすればそれはなぜか,というのが分野の抽象的で大きな問いであるというのがざっくりとした私の理解です。

で,この問いに迫ろうとしたときに問題となるのが,いかにして「知っている」ことの影響を排除するのかなという点です。母語話者は基本的には言語の規則を意識的には知らない(説明はできない)という状態で,でもある法則に従って規則的な振る舞いをするわけですよね。その規則的な振る舞いを言語理論で説明しようというわけです。そういうことを見ようとすると,学習者が意識的に知っていること(言葉で規則を説明できること)を対象にしていては意味がないじゃん,ということになります。知っているだろうよ,というような現象を対象としている限り,「知っている」からできるという可能性を排除することができません。よって,習っているはずもないのに母語話者と同じような振る舞いを見せる現象があるよ,とか,あるいはそれが第一言語によって同じような振る舞いを見せたり見せなかったりするよ,というような方向性で研究をデザインしていくことになります。そして,それを生成文法の理論から予測していこうとすると。生成ベースの第二言語習得研究をやっている人たちの基本的な考え方はそういうことなのかなというのが私の個人的な印象です(もちろんそうじゃない人もいるとは思いますけれど)。

一方で,SLAの初期からずっとSLA研究者が関心を持ち続けてきたことは,「知っている(=規則は説明できる)のにも関わらず,産出などをさせると間違いが頻繁に起こってしまう」という第二言語学習者に典型的な現象についてどのような説明を与えるのか,ということです。この関心を説明するために生まれたのが,明示的・暗示的という2つの知識源を仮定する考え方でしょう。つまり,知っている=明示的知識はあるけれども,産出などの課題で主に使用されると考えられている暗示的知識が不十分であるために,誤りが生じてしまうというようなロジックです。この考え方でいくと,そもそもの出発点が「知っているのにできない文法項目」(典型的なのが三単現の-s)の振る舞いについての説明を与えることになります。よって,知っていることの影響を排除しようとしたときに,「習っていないであろう項目を対象とする」という理論ベースの考え方は採用されえません。そこでどうなるかというと,測定の方法としてできるだけ「知っている知識」が作動しないような課題を用いるというアプローチを取ることになります。文法性判断課題に時間制限をつけたり,elicited imitationを使ったり,その後の反応時間パラダイム(自己ペース読み課題やword monitoring課題)や視線計測,そして脳系の測定具を使うというように,測定具によって「知っている」ことの影響を排除しようとしてきた,というのがもう一つのアプローチとしてあるのかなと考えています。

私も最初の関心は後者のアプローチにあり,どうすれば明示的知識の干渉を抑えた知識の測定ができるのか,という点にありました。ところが,それでは拉致があかない部分もあります。明示的・暗示的知識系の研究の重大な欠陥だと思っている部分で,それは,「意識的かどうか」についてを直接的に測定してこなかった(できなかった)という点です。反応時間や視線計測というパラダイムを用いたとしても,何らかの反応の違いが観察されたときに,それが「おやっ?」という意識にのぼるレベルの知識を使ったから反応時間や注視時間が長くなったのか,はたまた自分では全く気づいてもいなかったけれどもそうなってしまったのか,については測定していませんでした。よって,暗黙の了解として「反応時間や注視時間の条件間差は無意識なものである」だとか,「因子分析したら文法性判断や誤り訂正課題とは違う因子にローディングするからと自己ペース読み課題や視線計測で測られているものは暗示的知識であるのだ,みたいな想定をしてきたんですよね。それってなんかちょっとそこを当然のことのように受け入れちゃってもいいのかしら。という疑問が生まれてくるわけです。そういうこともあって,私が博士後期課程時代に扱ってきた文法現象は(もちろんこれは草薙さんの影響を大いに受けているのですが),どちらかというと前者の「知っているはずもないような文法」を対象にしているものが多くなっていきました。今必死にディスカッションを書いているthere構文の数の一致 (当時はこれも明示・暗示に当てはめようとしてたんですが今は違う方向性で書こうとしてます)だったり,tough構文の研究  なんかはまさにそういうことだったと言えます。conceptual numberの研究(これは言語習得よりは文処理ですが)も,「そんなことは習っているはずもないけどなんかガーデンパス回避しちゃう」というような話でもあります。

別にどちらがいいとか悪いとかいうわけではないのですが,同じように第二言語の文法習得を対象にしている研究で,「知っていることの影響をできるだけ排除したい」という目的は共有していたとしても,そのときに知っているはずもない現象を対象とするのか,はたまた当然知っているだろうというような現象を扱って測定具の工夫によって知っているという知識の干渉を極力抑えるというアプローチに行くのか,そういう違いが出てくるのは結構興味深いことなんじゃないかなぁということを考えたのでした。

もちろん,これはただの思いつきなので,そもそもの前提が間違っているとか,2つのアプローチは別に同じ方向を向いているわけではないとか色々あるかもしれませんが,こういう整理の仕方ってどうですか?というような投げかけ的な記事でした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。