月別アーカイブ: 2020年2月

後輩の原稿を読んであげてほしい

はじめに

この記事は,主に現在大学院に在学していて,そして同じ大学院に(大きなくくりでの分野が同じ)先輩・後輩の関係があるような人(主に私の後輩なんですがそれ以外の人にも)向けで書いています。ただし,私が博士後期課程時代を過ごした環境はかなり特殊な環境だったので,どんなところでも実践可能なわけではないかもしれないという点だけご留意ください。

最近,発表や論文投稿などを意欲的に行っている後輩の話を聞いて,先輩が後輩の成果物が他の人の目に触れる前に見てあげるというようなことが私がいたときのようには行われていないのかなと感じることがありました。それはもったいないなと思うと同時に,きっといろんな要因があるかなと思うので,いくつか論点をあげてみたいと思います。

自分がどういう経験をしてきたか

私が所属していた大学院では,いわゆる講座制のような形で,ある研究室(ゼミ)に所属して,そのゼミのトップである教授のもとで研究を行っていくというスタイルではありませんでした。主の指導教官は決まっていても,その先生以外のゼミに出ることは当たり前に行われていて,縦と横の相互交流が非常に活発な環境でした。また,学生の自主性を尊重する土壌があったので,学生同士で縦に横につながって共同研究をすることもたくさんありました。一方で,先生主導で研究をやるということは私はほとんど経験しませんでした(別にこのことにまったく不満はないです念の為)。そうした環境だったからか,先輩が後輩の面倒を丁寧に見てあげるということも,明文化されないルールのようなものとしてありました。ゼミ発表前のレジュメチェックから,口頭発表申し込み前のアブストラクトのチェック,投稿論文のチェックなど,後輩は先輩にチェックをしてもらっていました。それだけにとどまらず,同期同士で見せあったり,ときには先輩(n=1)から読んでほしいと頼まれることもまれにありました。余談ですが,私が見聞きする範囲では,現所属先の研究科(厳密に言うと私は大学院の担当になっていないので私の所属は学部ですが)は人数もそこまで多くないのと,フルタイムの院生が多くないのでそういったことがあまり行われていないのかなと思いました。

後輩からしたら先輩にお願いはしづらい

普通に考えて,ただでさえ忙しそうに見える先輩ですし,自分の論文を読んでもらおうと思うのは躊躇して当然です。投稿論文はどこに投稿するかで長さは変わってきますが,それなりの量の論文をまず読んで理解しなければいけませんし,その問題点を指摘したり,質をあげるためのコメントをすることはそれなりに労力がかかることです。学年が近かったり,いつも行動をともにするような親密度があればハードルはいくらか下がるかもしれませんが,それでも後輩からは頼みづらいでしょう。

後輩の立場にある人に言いたいのは,先輩は忙しそうに見えるかもしれませんが,先輩だって後輩に頼られることは嬉しいことなので,勇気を出してお願いしてみてほしいということです。もちろん,締め切り直前に送るとか,「明日までにお願いします」みたいな無理なお願いはNGです。余裕を持って仕上げて,そしてある程度時間の猶予をもって「○○日が投稿の締め切りですので,○○日までにコメントいただければと思います」みたいな感じで依頼するのがいいでしょう。こうしたやりとりは1度ではなく,何度も繰り返せるのが理想的です。

先輩の立場にある人は,そういう後輩からの声のかけづらさを考慮して,積極的に後輩に声をかけてあげてほしいなと思います。「最近論文書いてる?」「今度の○○は投稿するの?」とか,そういう日常的な会話の中で後輩の事情を聞いてあげていれば,「実は今○○に投稿する論文を書いてるんです」みたいなことをもあるはずです。そうなったら,「投稿する前に送ってもらえたら読むよ~」とかって言ってあげれば,後輩が感じるハードルはぐっと下がるでしょう。

後輩の指導をするというのは自分のためになる

正直,自分が論文を書いていなかったら人の論文にコメントするなんてできませんよね。だからこそ,先輩は自分が論文を書いている姿を積極的に後輩に示してあげるとともに,自分が経験したことを少しでも後輩に還元できるようにしてほしいなと思います。もちろん,自分のことに使える時間を人のために費やすわけですから,めんどくさいと思ったりするかもしれません。ただ,私はこうしたことも次にあげる3点で研究者としての自分の成長に必ずつながると思っています。

1. 自分のこの先のキャリアで役に立つ

あまり将来の利益という観点で語るのは好きではありませんが,そういうことも2つあるかなと思います。1つは,大学教員で指導生を持ったとき。もう1つは,査読者になったときです。

普通,誰かの論文を見てコメントをするというのは指導生をもつ大学教員しかやらないような仕事だと思います。それを大学院時代に経験できるというのは,大学教員としてそのようなポジションについたときに間違いなく役に立つでしょう。また,論文をそれなりに書いていて,それなりに研究者として認知されるようになれば国内の学会誌であったり国際誌であったりの査読を頼まれることがあります。これも研究者の重要な責務の1つです。出版前の論文を読んで,論文の問題点,評価できるポイント,どうしたらもっと良くなるかを指摘するというのは,まさに査読者が行うことだと思います。研究者を目指すのであれば研究コミュニティへの貢献という観点でも良い査読者になったほうがいいに決まっていますので,人の論文を読んでコメントすることは査読者になるための練習でもあると思います。

2. 自分の論文を読む目線が変わる

1つ目のポイントは長期的な視点で役に立つという話でしたが,もちろん短期的にも人の論文を読むことの意味はあります。それは,人の論文を読むとより客観的に自分の論文も読めるようになるということです。議論の流れがちぐはぐなことに気づいたり,結果の解釈の問題に気づいたり,本当にいろいろなところに「論文を書く」ということに対しての学習のポイントが転がっています。そういったことは,出版された論文を読むだけ,あるいは自分で書いた論文を読み直すだけではなかなか経験できません。後輩の論文を良くするためには何が必要なのか,ということを考えることは,必ずや自分の論文を良くすることにもつながってきます。そしてこれは,いままさに自分が書いている論文であったり,直近の未来に論文を書く際にも生きてくることなのです。

3. 自分の幅を広げる

自分の研究に関わる論文だけを読んでいたりすると,なかなか他の領域の話を読む機会に出会うことはできません。同じ分野の後輩といえど,自分とそこまで近い領域の研究ではない研究をしている後輩の論文を読めば,その領域のことを勉強する機会にもなります。そうすれば,自分の視野も広がりますし,少しメタ的な目線で複数の研究領域の関連性を考える機会にもなります。

これは私も院生時代に経験したことがあるのですが,ある程度研究テーマが決まってくるとどんどん細部にのめり込んでしまって,そこから派生的に別の研究テーマを生み出そうとしがちになってしまいます。そうすると,なんでその研究やっているのだろうとか,その研究が分野にどう貢献できるのだろうという視点を取ることが難しくなってきます。こういうときに,少し離れた分野の研究を読むと,その視点を1つ抽象的なレベルにもっていくことができると感じています。自分の専門と言える領域で一流を目指すのはもちろんですが,私が見ていて一流だなと感じる人は,その領域外についても豊富な知識を持っていて,やろうと思えばその領域で質の高い研究ができるだろうなという人です。これは私の個人的な意見ですが,そういう研究者って憧れませんか?

時間はかかるかもしれないが誰でも経験できることでもない

繰り返しになりますが,いくら自分にメリットがあるといっても時間はかかります。それは間違いありません。ただ,先輩と後輩の交流が活発に行われているという環境でなければ,そもそも後輩の研究論文を読むという機会はないわけです。そう考えると,どこの大学院でも,そして誰でもが経験できることではありません。自分を成長させてくれる機会が周りにあるのであれば,それは積極的に活かしてほしいなと思います。

ただ後輩の論文を読むだけではなく,一緒に共同研究をやるというのも非常に有効な手段でしょう。この話はまた別の機会にできれば書きたいなと思います。

おわりに

私はまだまだペーペーなので,こんな偉そうなことを言う立場でもないのは重々承知の上ですが,投稿前に論文を読み合う文化というのはそのコミュニティの研究力を上げるということを私は信じて疑わないので,こういう記事を書きました。研究ってやっぱり一人じゃできないというか。願わくば,私のところの研究科もそうやって活発になってほしいなぁと思っているのですが,私はまだまだそちらの運営に関わるほど偉くないので,いつかそういう仕事をするようなときが来たら,頑張りたいなと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

顕在的「脱落者」と潜在的「脱落者」

adolescent adult beauty blur

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はじめに

タスクみたいなことだったり,あるいはもっと広くペアワークさせたとき,うまくいかないことはしょっちゅうあると思います。その原因を1つに決めることは不可能なことですが,それが「タスク」そのものだったり「ペアワーク」そのものだったりに帰せられるときの問題点についてです。話を単純化するために,この記事でいう「タスク」や「ペアワーク」は理想的なもの(ある目的をもった教室内活動として行われるもの)であることとします。一方で,教師は言葉は悪いですが「平均的」な教師を想定していて,どんな状態でも完璧な授業をする理想的な教師は想定していません。教師の力量を出すとすべてがそれで解決するという議論が可能になるためです。そしてこれは教師個人の資質の問題(つまり問題を解決できない教師が悪い論)にもすり替えられてしまいます。これは私が望んでいることではありませんので,そういった意味でも教師の力量はここでは問わないことにします。

基本的に言いたいことは,福田さんが過去に言っていたことと重なる部分が多いかなと思います(『タスク・ベースの言語指導:TBLTの理解と実践』の第3章の中に書いてあったはずですので本をお持ちでしたらご参照ください。実は過去にブログ記事にも書いてあったような気がしたので探したのですが見つけられませんでした)。こうやって言っておくのは,アイデア自体が私のオリジナルではないということを言っておくためです。ただし,この記事自体は私が書いていますので,以下で述べられることについての文責はもちろん私にあります。

「脱落者」

カギカッコつきです。「脱落者」という言葉がぴったり当てはまっているとは思っていませんが,ここでの意味としては「授業についていけなくなってしまった学習者」くらいの意味で捉えてもらえればと思います。顕在的と潜在的は文字どおりで,教師にとって明らかにそれと分かる状態かどうかの違いと言えます。つまり顕在的「脱落者」は「教室の中で授業についていけなくなってしまったということが教師の観察などに基づいて判断ができる状態の学習者」をここでは指します。一方で潜在的「脱落者」とは,「実際には授業についていけなくなってしまってはいるけれども,教師がそのことに気づけていない状態の学習者」です。なお,「授業についていけない」というのは,求められている課題が学習者の能力を上回っていて,課題の遂行が困難である状態であることとします。よって,そもそも課題に取り組まない,などは含まないということです。

可視化されただけ

この記事で一番言いたいことはこれ以上でもこれ以下でもありません。何らかの言語産出や,協同作業が求められるような授業を行った時に,授業についていけていない状態が明らかになった学習者がいたとき,それはその教室の中に教師が目標としていることを遂行できない学習者がいることが可視化されただけであり,そのことだけをもって「タスク」であったり「ペアワーク」であったりという方法が問題であるということにはならないということです。

「脱落者」をどうするか?

教師がリソースを割いて考えるべきはむしろ,できない学習者が授業内の目標を達成できるようにするにはどのような手立てが必要なのかということでしょう。このことは,どのような指導方法にもついてまわる問題です。どんなやり方であっても授業についていけない学習者が出てくることは起こりえます。そのことが目に見えてわかりやすいのが「実際に言語を使わせる」であるとか,「自分の考えをペアで話し合う」のような活動であるだけです。使わせようとして使えないことが明らかになったら,どうやったら使えるようにしてあげられるのか(=同じタスクをもう一度やらせたときにできるようになるのか)を考えてそれを次の授業(または活動の直後)ですれば良いだけではないでしょうか。「自分で考えないからペアでの意見交換もできない」と考えたのであれば,じゃあどんな仕掛けをすれば自分で考えるようになるだろう,という発想で授業を構成していくということです。もちろん,「言語を使ってなにかできるようになってほしい」とか,「自分で考えて意見を表明できるようになってほしい」ということを教師が願っていて,それを目標として授業をやっているということが前提ですが。「言語を使って何かできる必要はないし(どうせできないだろう)」とか,「自分で考えて意見を述べる必要はない(しどうせできないだろう)」と思っているのであれば話は別です。そういう人がもし仮にいるとすれば,「何を教えているんですか?」と聞いてみたいです。

聞いている=できている?

ペアワークとかではうまくいかないので,教師主導で講義型スタイルでないと授業が成り立たない,と考えている教師がいたとします。これが一般的かどうか,どれだけ多いのか,というのは置いておくとして,このときに私が問いたいのは,

講義型スタイルで授業が成り立っているというとき,そのクラスの中に「潜在的脱落者」はいないと思いますか?また,ペアワークのときに顕在化する「脱落者」の数と比べて少ないと思いますか?

ということです。別にペアワークをやらせないといけないというわけではありません。大事なことは,脱落していないかどうかを確認する手立てがどれだけ授業の中に仕込んであるかどうかではないかと思います。教師-学習者のやりとりでもいいです。「脱落者」がゼロの授業というのができればそれに越したことはありませんが,学習者の数が多くなればなるほどそれはかなり難しくなるでしょう(人数が1人でも課題の難易度設定を誤れば容易に「脱落者」は発生しますしね)。つまり,潜在的であれ顕在的であれ「脱落者」が出てしまうことを避けるのは非常に難しいことなのです。そのうえで教師に求められることは,いかに「脱落者」の存在を把握し,その学習者に対して何らかの手助けを提供することでしょう。文字通り潜在的な「脱落者」は教師の目からは見えにくいので,それを把握することも難しくなります。そうなれば,おのずと手助けを講じることも難しくなるでしょう。一方で,「顕在的脱落者」は教師が見て躓いていることが把握できるわけですから,その躓き具合に応じて指導を行うことが可能なわけです。「脱落者」が出ることよりも,「脱落者」を見逃して放置してしまうことのほうが私は重要な問題だと考えていますので,そうならないように授業を構成しようとします。そうすると,多かれ少なかれ学習者に何らかの反応(言語的やりとりだけに限りませんが)を求める授業スタイルに変化していくのではないかと思います。そして,そのようなことが可能なスタイルの1つとしてタスクだったりペアワークだったりというものも位置づけられるのではないでしょうか。

脱落してもよい

脱落というと諦めてしまうという意味も入ってくるような気がしてしまうので,言葉が良くはないかもしれません。ただ,教室の中ではすべてが完璧にできなくてはいけないということを教師自身や学習者自身が思っていれば,躓いていることが明るみに出るようなことは避けたいと思うのは当然でしょう。周りの学習者よりも自分が劣っていると感じるのは誰だって嫌なことなはずです。そうならないように,つまり見せしめになったりしないように気を使いながら,学習者の状態を観察して適切な指導を行える人こそが良い教師だと思います。

ありきたりな言葉になってしまいますが,教室では躓いてもいいのです。もちろん,あまりにも躓く頻度が高くなれば学習への意欲そのものが削がれていってしまうわけですが,躓いて転んでも起き上がり,一歩でも半歩でも前に進んでいることを実感できる,そんな教室環境が私は理想だと思っています。教師が適切な介入を行うことで意欲を削がずに躓く頻度を減らし,そして成長した部分にはポジティブなフィードバックを行い,教室でともに学ぶ学習者集団としてその過程を肯定的にとらえてみんなで切磋琢磨できるような環境づくりこそが教師には求められるのではないかと思っています。

おわりに

私は別にタスクがすべてとかペアワークは絶対などと思っているわけではありません。ただ,どのような指導の形態であろうとも,教師がすべきことは学習者の状態を観察して,把握し,適切な手立てを施すことだと思っています。大事なのはその部分なのに,タスクやペアワークというのはその言葉だけで批判の対象にされてしまうことも多いので,今回の記事を書きました。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

Wunderlistがついに終了する

むかしむかし,大学院生のときに,タスク管理のためにTo doリストを使い始めました。使い始めたときには,使用感をまた記事に書きますねとか言ってたんですが,その記事が書かれないままついにWunderlistがサービスを終了してしまうことになりました。

過去記事:遠くからライフルで撃つか,接近戦でナイフで仕留めるか。

終了するという話は随分前からされていたのですが,まだ別に先の話(実際に5月までは使えますしね)だということで全然乗り換えとかも考えていませんでした。それが,Wunderlistにブラウザ上でログインするとトップ画面に常に早くMicrosoft To Do(MTD)に移行してねっていうメッセージが表示されるようになり,いよいよ本格的に移行を検討しないといけなくなりました。この話題についてGoogleで探してみてヒットした記事は例えば以下のようなもの。

Microsoftが新しいToDoアプリ「To Do」を発表、Wunderlistからの乗り換えを促す

Wunderlist の移行先の検討と移行

Wunderlistがいよいよ終了することに…

Wunderlistの使い方としては昔とそんなに変わっていません。ただ,今のWunderlistは5年前に記事を書いたときと仕様が変わって,フォルダという階層ができました。これが一番上にあって,その下にリストがあって,そのリストの中に個々のタスクを入れていくというようになっています。この階層性を個人的には気に入っています。今は,

  • 研究
  • 仕事
  • プライベート

のようなフォルダを作っていて,研究というフォルダの中に個々の研究プロジェクトのリストがあり,仕事の中に,「授業」,「学内業務」,「学会業務」,「査読」,みたいなリストを入れています。プライベートの中には自分にだけ関わるリスト(G大阪のチケット先行発売日の情報とか)と,妻と共有している買い物リストがあります。

リストの中にいれる個々のタスクには期限日の設定,リマインダの設定,繰り返しの設定,サブタスクの追加ができます。繰り返しの設定があることで,例えば授業の準備のように毎週発生するタスクは一度入れておけば毎週リストに入ります。また,いらない人もいるかと思いますが個人的にはサブタスクが追加できるというのも気に入っている点です。例えば授業準備の中で,リスニングの小テストを作るというタスクがあったとしますよね。そうすると,(a)リスニングの音源を準備する,(b)解答用紙の準備をする,(c)解答用紙を印刷する,のようなサブタスクに分割できるわけです。1度の作業で(a)~(c)の3つすべてを完了できればサブタスクの設定も必要ありませんが,細切れの時間で作業しなくてはいけないことも多いので,サブタスクが設定されていることで,完了までに必要な作業がなにかを瞬時に把握することができます。また,サブタスクを考えるようにすることで,タスク完了までのステップを言語化する必要が生じ,そのことが実際の作業を明確にしてくれるためにタスクを完了するハードルが下がるという効果もあると思っています。こういったサブタスクを普通のタスクとして登録してしまうと,タスクが増えすぎる上に個々のタスクのつながりも見えなくなってしまいますし,リストの数をかなり増やさないといけなくなってしまうので逆に不便です(授業科目ごとにリストを作るとかは別にしたくないし必要性を感じていません)。

今のところ,このように私が必要としているto doリストの機能はMTDにもあるようですし,UIもWunderlistと同じように作られているので,MTDに乗り換えても特に問題は生じないかなと考えています。WunderlistのデータをそのままMTDにインポートすることも可能なようですし。ただ,1つだけ問題があるのは,Googleカレンダーへの同期ができないことです。WunderlistではできるけどMTDではできないことの中で,これはかなり問題が大きくて,実際にMTDのフォーラムでも多くの人がこの機能を熱望していることがわかります。

https://todo.uservoice.com/forums/597175-feature-suggestions/suggestions/32976505-make-microsoft-to-do-with-google-calendar-s-tasks

この連携がないとそこまで困るかというと,タスクの管理に関わる根本的な機能の中では個人的にはサブタスクの設定だったりフォルダ分け(MTDではグループ分け)みたいなものよりは重要度は低いのですが,やっぱりカレンダー見たときにタスクの期限日が一覧で見れるというのは欲しい機能ですよね。

あともう一つの問題は,妻と共有しているリストもあるので私が移行するタイミングで妻にもMTDへ移行してもらわないといけないというところですね。これもちょっと移行をためらう理由ではあります。使えなくなるからしょうがないとはいえ,私は人に何かを頼むという行為のハードルが人より異常に高くて非常に苦手なもので…

というわけで,今日はタスク管理のWunderlistを結構気に入ってたけど,MTDに移行しなければいけなくなってしまいましたというお話でした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

インプット仮説とアウトプット仮説ってそういうことか?

はじめに

Twitterに流れてきた下記の記事を読みました。

4技能の英語民間試験を大学入試に導入」の根拠とされる学習指導要領改訂のポイントとは?

入試にスピーキングだったりライティングだったりの産出技能を取り入れることに関連して,第二言語習得研究におけるインプット仮説とアウトプット仮説が紹介されています。そして,そこからアウトプットの重要性が導き出されます。この2つの紹介の仕方に語弊があるというか,当該記事の筆者と同様に第二言語習得研究を専門としている者として納得がいきませんでした。この記事でどこに語弊があって,なぜ納得がいっていないのかを書いておきたいと思います。私がここで取り上げる事自体は,上記記事の中心的話題というわけでは必ずしもないですが,理論的な援用がされていると考えられる部分に問題があるのではという意味で指摘する必要があると考えた次第です。

インプット・ファースト?

この記事ではインプット仮説はインプットの重要性を主張したもの,そしてそれに対比されるようにアウトプットの重要性を説いたのがアウトプット仮説だと紹介されています。それについては異論ありません。ただし,インプット仮説=「インプット ・ファースト」と表現することは語弊があると思います。つまり,インプット仮説とアウトプット仮説の対立は,

なぜ英語学習の早い時期からアウトプットが必要なのでしょう?最初はインプット(リスニング・リーディング)だけでは駄目なのでしょうか?

という問いに対する答えを与えてくれるようなものではないし,研究者たちもそのような主張をしているわけではないということです。

この2つの仮説の対立は,必ずしも「先にインプットがあってからアウトプット」ということではありません。言語習得にはまずはインプットというのは大前提の話なのでそこは否定しようがないはずで,アウトプット仮説を提唱したSwainもそのように主張したわけではありません。

インプット仮説はインプットのみ(正確にいうと理解可能なインプット)で習得がされるとした(注1)のに対して,アウトプット仮説は,インプット理解のみでは言語の形式面に注意を向けなくても意味の理解が可能な場合が多く,インプットのみでは限界があるということを指摘したわけです。この主張の背景にはカナダのイマージョン環境でフランス語を学ぶ学習者たちの存在がありました。イマージョン環境でフランス語を学び,フランス語を理解すること,そしてフランス語を使って対話相手に理解されることができるようにはなっても,産出技能ではまだ母語話者とは差があり,非母語話者としての痕跡が残ってしまったのです。この状態からさらに上のレベルに到達するためにはアウプットを通して言語の形式面に注意した処理が必要になるのではないかというのがSwainの考えでした。

初期段階からアウトプットも大事だという主張には同意

私も,学習の初期段階でアウトプットをさせるべきではないとは思っていませんし,インプットだけで良いとは思っていません。インプット・ファーストの原則は守りながらも,アウトプットもさせれば良いだけです。このことを,学校の授業展開を例に取って考えてみましょう。

マクロな視点で見た時に,例えば最初の3年間はインプットしかやらず、その後3年間でアウトプットだけやるというのが「インプット・ファースト」であれば,私は反対です。また,これの方がいいという研究者もあまりいないのではないでしょうか。

大事なことは,インプットの方が簡単だから先でアウトプットの方が難しいから後なのではないということです。インプットにも,アウトプットにも,難易度の差はあるわけです。つまり,簡単なインプットがあれば難しいインプットもあり,簡単なアウトプットもあれば,難しいアウトプットもあるということです。私が大事だと考えるのは,簡単なインプット→簡単なアウトプットという難易度の順番です。つまり,インプット→アウトプットということだけではなく,まずは難易度の低いものから徐々に難しいものへという大きな流れも考える必要があるのです。この点において,私は学習の初期段階でもアウトプットさせることは可能だし,むしろ学習者のレベルにあっているのであればどんどんさせていいと思っています。

ミクロなレベルでの授業の構成では,インプット->アウトプットになることは十分にありえますし,むしろアウトプットを取り入れている授業のほとんどはこうした形態になっているのではないでしょうか。例えば最初の1時間目はインプット,2時間目はアウトプットというように「インプット・ファースト」になっていることは当然あるでしょう。あるいは1時間の中で最初の30分はインプットでその後の30分でアウトプットということもあるかもしれません。そして,このことを私は何ら間違っているとは思っていません。むしろ,「インプット・ファースト」は大原則であるとさえ思っています。

「インプット・ファースト」とPPPは違う

ただしここで注意したいのは,このインプットからアウトプットという流れは,必ずしも直前に受けたインプットがその場で習得されてその直後のアウトプットで完璧な形で表出すると想定しているわけではないということです。Presentation, Practice, Production (PPP)の授業構成のように,その日に教えた文法をその日のうちに正しく産出させるような考え方を私は採用しません。むしろ,第二言語の発達はある側面を1回または数回の授業で完璧にして,完璧である側面を増やしていくのではなく,不完全ではあるけれども総体としての形を作っていくという過程を辿るからです。このような考え方でいくと,次の記述にも同意できません。

「インプット・ファースト派は「まずはしっかりと文法を理解してから、アウトプットの練習をしよう」と考えます。

前述のように,ミクロな視点でインプットは先にすべしという考え方を「インプット・ファースト派」と呼ぶのであれば,私は間違いなく「インプット・ファースト派」だと思います。しかしながら,私は「まずはしっかりと文法を理解してからアウトプットの練習をしよう」などとは考えません。これは過去に書いたいくつかのブログ記事であったり,下記の本に収録されている拙稿を読んでいただければわかるかと思います。

タスク・ベースの英語指導―TBLTの理解と実践 

まとめ

ここまでの議論から明らかなように,上記記事中のインプット仮説・アウトプット仮説の説明の仕方は,学術的に不適切であると言えます。一般向けに書かれた記事ですので,ある程度噛み砕いて説明する必要があったことは十分に理解できますが,それでも上記記事は読者にインプット仮説を誤った形で伝えています(注2)。

「インプット・ファースト」はインプット仮説の主張のことを指しているのではなく,私の主張は誤読に基づいているという反論もあり得るかもしれません。しかしながら,それはかなり無理筋でしょう。インプット仮説を紹介する節の最後に、「この『インプット・ファースト』の法則」と書いてあるにもかかわらず,「この『インプット・ファースト』の法則」がインプット仮説を指しているわけではないと読むほうが困難です。だとすれば,「この『インプット・ファースト』の法則」の「この」が指しているのはなんでしょうか。

おわりに

「第二言語習得研究者のコミュニティはあまり身内の批判をしないけれど,誤ったものを誤っていると指摘することも研究者の大事な責務である」,というような話を寺沢さんとポッドキャスト収録で話したので,今回はこういった記事を書きました(注3)。それ以上でもそれ以下でもありません。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

 

注1.英語ではcomprehensible inputと言いますが、これも抽象的な概念なので、実際に何が学習者にとってのcomprehensible inputとなるのかとかを操作的に定義するのは結構難しいという問題があります。ここではこの問題には触れません。また,インプット仮説の意義はこれだけではなくて,習得(acquisition)と学習(learning)を分けたというところにもあると個人的には思っています。詳しくはまた別の機会に論じたいと思いますが,このような考え方自体は形を変えて今でも受け継がれているといえると思います。例えば,明示的・暗示的知識もこの流れでしょう。

注2.アウトプット仮説の説明自体(気づきと文法の意識化の話など)は問題ないかと思いますが,インプット仮説との対比の仕方は語弊があると思います。

注3.英語教育2.2CAST2月号ではこの話にはなっていませんが,寺沢さんとの対談の最終回にこの話をしています。