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Yu Tamura について

第二言語習得の研究者。博士(学術)。英語教育のことや統計・データ分析に関わること、趣味のサッカーのことなどについて書いています。

『外国語学習での暗示的・明示的知識の役割とはなにか』を読みました

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はじめに

大修館書店から発売されている,下記の書籍についての記事です。

まず一言でこの本の感想を言うと,多くの人にこの本は「そのまま」読まれるべきではないと感じました。したがって,忖度なしで書きます。

また,以下の記事では私が読んで考えたことに加え,私を含めた4名の研究者で行ったこの本の読書会で話題にあがったことも含めます。読書会で議論になったことは,その都度そのように言及しますので,そうでない限りは私の主張であると考えてもらって構いません。

ちなみに,私は過去にこの本で取り上げられている暗示的・明示的知識(英語ならimplicit/explicitだと思いますけど日本語だと明示的・暗示的という人のほうが多いような)についていくつか記事を書いています。

どれも院生時代の記事ですが,私のスタンスというか立場,見方はこれらの記事に現れていると思いますのでぜひお読みください。また,本記事の以下の内容は,自己批判を多く含んでいます。それは,私が初めて「論文」というものを発表した時期にやっていた研究(2014-2015あたり)は明示的知識や暗示的知識といったものを対象としていて,測定や構成概念に対する認識の点であまりにもナイーブすぎたと思っているからです。

初学者には非推奨

もしも,「暗示的・明示的知識ってなんだろう?」とか,帯に書いてあるような「規則を知っていても使えないのはなぜ?」という疑問を持っている人がこの本を読もうとしているのを見かけたら,私は止めたほうがいいとアドバイスすると思います。なぜなら,そういった疑問は解決されるどころか余計に頭の中がこんがらがってしまうからです(理由は後述)。

そういった意味で,この本は批判的に検討できる者のみが読むべきだと思います。初学者が読むと余計にわけわからなくなってしまって悩んでしまうか,または逆に誤った知識を身につけてしまう可能性すらあるかもしれません。よって,学部や大学院生レベル,または研究職に従事しない方が手に取るべき本だとはあまり思えません。

なにがこの本の価値を下げているか

この本に対して私が否定的な印象をいだく理由を端的に言えば,この本は「だからだめだよSLA」の典型例だと思うからです。帯に「第二言語習得研究×認知心理学×脳科学」というように,この本に書かれていることがいかにも「科学的である」ような装いがありますし,真理・真実が明らかになっているかのような書き方がされている部分もあります。しかしながら,実際には曖昧性を多分に含んでいて,その最たるものは明示的知識とはなにか,暗示的知識とはなにかについて執筆者全員の定義が一致しておらず,その測定方法も違うからです。このことについては後述します。

つい先日,

第二言語習得研究(者)はなぜ「誤解」されたか

という記事を書きましたが,この記事で批判したことのいくらかも当てはまっている本ではないかと思います。

さて,本題です。本の中で気になるポイントを一つ一つ指摘していくときりがないくらいたくさんありますが,以下ではいくつかの論点にしぼって書きます。

論点1: 全体を統一する視点に欠ける

この本が全体を通して非常に残念な仕上がりになってしまったと感じる最も大きな理由は,各章の独立した論考をまとめて統一感をもたせる構成になっていないことでしょう。「はじめに」と「終章」はありましたが,本の意義のアピールが多く,全体を俯瞰的にまとめきれていたようには感じませんでした。このことは,何もこの本に限ったことではないと思います。他の分野の本がどうかはよくわかりませんが,私がこれまでに自分の研究に関わる専門書をそれなりの数読んできた印象は,多くの執筆者が各章に独立した論考を書いているパターンの書籍は質があまり高くないことが多いというものです(特に洋書)。一冊の中で扱われるトピックに多様性をもたせようとした結果,一冊の本のまとまりを欠いてしまうというのはしばしば見かけます。この本もそういう系統だというのが私の印象で,それだけであればそういう本のうちのone of themだということでスルーしていたかもしれません。

ただし,この本のテーマは一つの「概念」(明示的・暗示的を別個にカウントすれば2つ)です。暗示的・明示的知識という目に見えない概念を扱っています。それがこの本の各章に通底するテーマであるわけです。だからこそ,編者はこの本で言う「暗示的・明示的知識」が指すものを冒頭で(操作的定義も含めて)定義するべきであり,その定義に沿って各章の執筆者に執筆を依頼するか,または原稿を受け取った時点で章の間の記述の齟齬を解消するような修正作業を行うべきだったと思います。この点は読書会に参加した全員が同じような印象でした。

そういう調整がなされていないのは,すべての章で著者が独自に概念的・操作的定義を述べていることからも明らかです。結果として,第3章では暗示的知識の測定具として適切ではないと言われていた文法性判断課題が第5章や第6章では暗示的知識の測定具だとして論じられています。

百歩譲って,それが不可能である,つまり,暗示的・明示的知識を定義することは不可能であるという態度でこの本を世に送り出すのであれば,そのことを正直に書くべきでした。私がもしもこの本の編者に入っていたらそうすると思います(終章の151ページに測定具の問題への言及はありますが,全部読み終わって最後にそれ言われると詐欺っぽいので本来であれば先に言及するべきで,その意味では終章を読んでから各章を読むほうが良いでしょう)。なぜなら,この記事を執筆している2021年現在でも,研究者間ですら,暗示的知識と明示的知識がどのような測定具を用いて測定されるものであるかについての合意には至っていないからです。例えば,以下の論文は第3章(第二言語環境で日本語の文法知識はどのように発達していくかー文法項目の特徴と学習者の個人差の影響)で提示されるような明示的・暗示的知識の測定方法の分類とは異なり,時間制限つきの文法性判断課題なども暗示的知識の測定具としています(よってどちらかというとRod Ellisの分類に近い)。

Godfroid, A., & Kim, K. (2021). THE CONTRIBUTIONS OF IMPLICIT-STATISTICAL LEARNING APTITUDE TO IMPLICIT SECOND-LANGUAGE KNOWLEDGE. Studies in Second Language Acquisition, 43(3), 606-634. doi:10.1017/S0272263121000085

最新の研究ですらそういった状態なわけですから,そもそも明示的知識とはなんなのか,暗示的知識とはなんなのか,そしてそういった2種類の知識をどうやって測定仕分けるのか(より大きな問題は,そういう知識2つの実在を仮定して良いかどうか)ということについては科学的な真実があると言える状態でも,その確信度が高いと言えるような状態でもないというのが現状というのが,この文法知識の二元性というトピックを研究を初めたときから追いかけている(とはいっても研究のキャリアは修士をスタートとしてまだ10年ほどですが)私の現状認識です。

にもかかわらず,この本の「はじめに」では,次のような記述があります。

(前略)明示的知識と暗示的知識の区別はSLAの中心的課題であるが,同時に,問題もいくつか抱えている。たとえば,日本人の英語習得を扱った研究が少ないこと,研究対象が文法習得に限られていること,個人差や情意に関する研究がほとんどないこと,近接領域(たとえば,認知心理学や脳科学)の最新の手法を取り入れた研究が少ないこと,などである。本書の目的は,これらの問題点を網羅し,科学的証明を行うことにある。

はじめに iv

このパラグラフだけでツッコミどころはたくさんあって,なぜ日本人の英語習得を扱った研究が少ないとそれがSLAの問題となるのか,とか近接領域の最新の手法を取り入れていないとSLAの何がどう良くない状態になるのか,とか色々思うところはあります。また,たかだが本一冊で解決できる問題ではないだろうとも思いますが,それはおいておきます。それよりも私が驚いたのは,「科学的証明を行う」という記述です。「科学的証明」という言い方は私は人文科学の中では非常に強い主張だと思います。しかし残念ながら,「科学的証明」には失敗していると思います。全員が同じ概念なり現象なりを同じ方法で測定するというのは科学の最も基本的かつ重要な部分であると思いますが,それが成立していないからです。

一方で,1万歩くらい譲ってもう一度この本のタイトルを思い出してください。そうなんです。この本のタイトルは,『外国語学習での暗示的・明示的知識の役割とはなにか』であって,「暗示的・明示的知識とはなにか」ではありません。よって,この本は暗示的・明示的知識とはなんなのかの答えを与えるものではないのですと言われたら,まあそういう解釈もありえますよね,とは思います。ただ,そういう政治家みたいなことばの使い方は読者に対して不誠実だと思います。そしてそのことは,本の中で一切語られていないからこそ罪が重いです。本の冒頭または最後で暗示的・明示的知識というのは非常にcontroversialなトピックである,ということが明示的に書いてあり,その整理をある程度の紙幅を割いて試みた上で(この役割が第2章だったのかもしれませんが)の各章の内容であれば,私のこの本に対する評価は変わっていたと思います。

論点2: 用語・定義がカオス

知識,処理,意識

論点1と関連しますが,まずもってこの本は各章でそれぞれの著者がそれぞれの概念的定義で暗示的・明示的知識という用語を使っています。また,類似する概念である宣言的知識(declarative knowledge),手続き的知識(procedural knowledge)であったり,「手続き化」(procedualization),「自動化」(automatization)といった用語も含めて,それが何を指すのかも章ごとにばらつきがあります。また,「意図的」(intentional)という用語が「意識的」(conscious)という用語と同じような意味で使われているのではと思う箇所(pp.52-53あたり)もありました(意識という用語関連の整理については福田(2018)がわかりやすいです)。

例えば,第4章では語彙の知識という観点から暗示的・明示的知識についての議論がされています。p.58に 「手続き的知識の習得を促す…」とありますが,ここまでの流れで読むと「手続き的知識=暗示的知識」と読めると思います。つまり,暗示的知識=手続き的知識であり,この2つはinterchangableであるという使い方になってると解釈できると思います。しかしながら,これは第2章2.3節の「明示的・暗示的知識と宣言的・手続き的知識の関係」の内容や第9章の「第二言語習得研究で言うところの暗示的・明示的知識の区分と,脳科学で言うところの手続き・宣言的記憶の説明に多少ずれがある」(p.137)という記述と矛盾することになるのではないかと思います。

こうした用語が意味するもののズレが生じてしまう大きな原因として,「知識」(つまり脳内に保存されている情報)と「処理」(保存されている情報へのアクセス)を分けて議論できていないことが大きな問題(これはSLA全体に言える問題)なのではないかという話も読書会でありました。そして,「処理の話」と「意識の話」を切り分けることも重要です。

SLAでは,暗示的知識というのは母語話者が言語使用に用いるものであるという理解があります。言語学者でなければ,ほとんどの人間は自分の持っている言語の知識について意識することもありませんし,その情報へのアクセスを意識的にすることもないわけです。そして,第二言語学習者と比較して圧倒的な速さで言語の処理ができます。このことから,暗示的知識の概念的定義に速いことと無意識であることが含まれるようになりました。この章(第4章)のpp.53-54の最後の段落の記述を見ると,「学習者はjunctionの意味的表象に素早くアクセスする能力を有しているとみなすことができるだろう」とあります。こういう部分に,速い=無意識,という前提があることが現れています。「処理の話と意識の話」が混ざってしまっているわけです。つまり,持っている知識に対して,そのことを意識しているかどうか(自分がその知識を有していることを自分が認識しているかどうか)と,その知識にどれくらいのスピードでアクセスできるのかどうかということを分けて議論できていないように感じました。Tamura et al. (2016)で主張したように,スピードが早い=無意識,スピードが遅い=意識という単純な関係ではありません。

小学生の暗示的知識?

話をまた「はじめに」に戻します。この本の最初のページはこのように書いてあります。

(前略)たとえば,多くの小学6年生は,英語の疑問文における倒置の規則を知らないのにもかかわらず,英会話で”What color do you like?”, “What would you like?”, “Do you like soccer?”と正しく発話することができる。(中略)また,明示的知識はないが暗示的知識があると考えられるため,小学生が正しく英語を使うことができるということになる。

はじめに iii

端的に言いましょう。小学生が疑問文生成に必要な倒置の規則の暗示的知識を持っているわけありません。これはただの模倣です。仮に知識として持っているとすれば,Do you like X?で「Xが好きですか」という意味をなすというくらいのものでしょう。

こういうのを読むと,言語を「使う」の意味も多義的でコミュニケーションを難しくしているなと思います。これと同じような意味で,第6章のp.83には 「小学校英語教育の第一義的な目標は英語表現を使えるようになること(強調は筆者)」とあります。もしも小学生が暗示的知識を持っていて英語が使えるのであれば,第2章の「『使える』文法知識」について考えなくてもいいんじゃないでしょうか,となります。だって小学生でもう暗示的知識あるのですから。たしかに,小学生の言語習得はその他の章の議論と噛み合いません。なぜなら,2章では前提として多くの学習者がたどるプロセスとして「知る」->「使える」のようになっているからです。そうであれば,そうしたケースと比較して小学生がどういった学習のプロセスをたどるのか,どういった文法知識を持っているのかは議論すべきポイントです。

そしてp.84を読むわけですが,そこに書かれている内容は首をかしげるものでした。そもそもこの著者の言っている「文法知識」なるものは他の著者の言っている文法知識と指しているものが異なるように感じました。例えば,What X do you like?のX部分を様々に入れ替えて質問ができる,質問の内容を理解して答えることができる,といったとき,この小学生はいったいどのような文法の知識を持っているということになるのでしょうか。Wh句が前置されて疑問文が生成されるという知識?do挿入の知識?Xの要素を引き連れてwhを前に移動させるという知識?そうではなく,似た構造のインプットをたくさんうけることによって,構造的な類似性をヒントに構文を構築していくというような用法基盤モデルのような考え方を採用しているのであれば,そういった説明が必要でしょう。

論点3: 言語・テストが良くない

これは特に第5, 第6章の内容に関連するものですが,知識測定の道具として使用される刺激文の質が悪く,これでは測定したい知識が測れているかどうかも怪しいと思いました。

読書会で挙げられたことを1つ出せば,81ページにある刺激文の一覧をみると,

  • 正文: I have a cat.
  • 誤文: *I like animal.

となっていて,この項目で測定したいのは「名詞の単数形・複数形」となっています。正しくはI like animals.と複数形形態素がついていないといけないということでしょう。問題は2つあります。まず,このときの複数形形態素が欠如していることというのは,*I have two car.のような誤りとは訳が違います。なぜなら,後者の文であれば,「名詞が表すモノが複数なら-sをつける」という知識があれば対応できるでしょうが,I like animalに-sをつけるというのは,「種類を表す場合は裸の名詞の複数形(bare plurals)である」という知識が求められるからです。これは,単に複数=-sの知識とは言えません(名詞周りの知識ではあるのでそれも含めて複数形の知識という点で誤りではないですが,それでも対になってるとは言い難いと思います)。catは具体物を表しますが,animalは動物というカテゴリの名詞ですから,そういう意味でもこの2つは対になっているとは言えません。

2つ目の問題は,「名詞の単数形」が正文であり,「名詞の複数形」が誤文になっていることです。本来であれば,名詞の単数形について正文と誤文をつくり,名詞の複数形について正文と誤文をつくるべきでしょう。この章では文法性判断課題の正文への反応は「暗示的知識」を測っていて,誤文への反応は「明示的知識」という立場をとっています。そうなると,「単数形の知識」は暗示的知識しか測っていないし,「複数形の知識」は明示的知識しか測っていないことになります。

第6章でもこうした問題が散見されます。例えば,pp.88-89では動詞フレーズの獲得状況についての調査をした浦田他(2014)という研究が紹介されています。p.89の表1をみると,*I can play piano.という英文があります。これ以外の誤文はすべてcanの後ろに動詞がない(*I can soccer),動詞とcanの語順が異なる(I play can kendama.)など,canと動詞に焦点が当てられているものの,play pianoは「playの後ろに楽器が来る場合はtheがくる」という知識です。それって全然違うことなのでは?というのが読書会でも話題になりました。元論文を読むとTomaselloが引用されていたりして,用法基盤モデルの考え方を採用しているのだなと思いながら読めば,can VPみたいなものを見ているのかなとか思ったりもしました(それでもこの章の説明だけでは違和感を覚える人は少なくないはず)。4.2節の物井他(2015)も,正答率の低かった問題について「最初に,問題2については,rhinocerosesという児童に聞き慣れない語がふくまれていたことが原因である」と書いていて,文法性判断課題で未知語が含まれていたらその影響が出るのは当然で,そうなると語順の知識は測定できないのではと思います。元論文を読むと,以下のような記述があります。

rhinoceroses(サイ)という児童に馴染みのない単語を挿入しており,未知の単語と遭遇した場合に,その意味を推測しながら文の正誤を判断できるかを確認する意図があった。(p.88)

物井尚子・矢部やよい・折原俊一(2015)『外国語活動を経験した児童の語順に関する理解度調査 ―SVOに焦点をあてて―』千葉大学教育学部紀要, 63, 85-94.

ちなみに,このことが書いてあるのは結果部分の88ページであり,テスト作成部分には,未知語が入っているという説明は出てこず,次のように書いてあるのみです。

使用する単語についてであるが,Sは1・2人称に限定しI,youのみ, Vは外国語活動で使用頻度が高いと考えられるhave, eat,play,likeの4動詞,Oに用いる名詞はapples, baseball,lunch,pen,soccer,tennisに上位語のcolor,sportの8語,句動詞としてgo to school,get upの2種, 時間を表す前置詞を含む表現としてat six,at eightを用いた。(p.87)

物井尚子・矢部やよい・折原俊一(2015)『外国語活動を経験した児童の語順に関する理解度調査 ―SVOに焦点をあてて―』千葉大学教育学部紀要, 63, 85-94.

私の感覚からすると,テスト作成の段階の記述と言ってることが違うというのはありえないです。これはまあ本の批判ではないんですが。

第5, 第6章で紹介されている研究すべてに当てはまる指摘ですが,テストに使われる刺激文だけではなく,そもそも問題数が少なすぎるという問題もあります。小中学生に大量の項目のテストを行うことの実行可能性などを考慮すれば,問題数を増やすことが難しい事情は理解できます。しかしながら,文法性判断課題とはテストである以上,なにかを測定するためには測ろうとする文法のターゲットについて1つや2つの項目だけでは学習者が安定して判定を行えているのかどうかを判断することはかなり難しいといえます。ましてや二択の問題であるからなおさらです。「文法知識」というからには,1つの事例にだけ適用ができるものではなく,複数の事例に適用可能な規則であるはずです。そういうものを測ろうとするのであれば,1つや2つの項目に正しい回答をしただけでは,単に「それとほとんど同じ文を聞いたこと(見たこと)があった」という記憶だけでも正答にたどり着く可能性も十分にあります。また,5, 6章で出てくる「正答率」とは,1人の学習者の正答率ではなく,参加者全体の中で正答した学習者の割合であることも注意が必要でしょう。つまり,ここでは学習者個人ではなく,集団の問題となっているということです。

このことは,結果の解釈とも関わります。第5章の結果の考察については,そもそも二択の問題で5割を切っている部分の「伸び」になにか有益なものがあるようにはあまり思えません。さらに言えば学習者個人ではなく集団の話であるわけで,正答できる学習者の人数が増えた事をもって,学習が進んだというように解釈するのは少し違和感があります。

第6章でも同様に,

全体の正答率は5年生が44.5%,6年生は51.6%で,6年生のほうが高く,この差は統計的に有意であった。つまり,物井らの研究と同様,5年生よりも6年生のほうが全体として暗示的知識をより多く持っていることが明らかになった」(p.95)

とあります。ところが,p.89では,

GJTの分析では,正答率をチャンスレベル(当て推量で解答した際に期待される確率)と比較する場合が多い。GJTは提示された文が文法的かどうかを判断する二者択一のテストであるため,チャンスレベルは50%,(中略)したがって,GJTはでは正答率が50%よりも高いかどうかが重要である

という旨の記述があるのです。こういうことを書いておきながら,50%を下回っている正答率や50%をわずかに上回る程度の正答率に対して,「知識がある」という判定を下している。これはあきらかに矛盾していないでしょうか。全体の結果から「GJTで語順の正答率が5年生でも高い(特に正文)ことから,5年生でも語順に関する暗示的知識は身についている児童は多いことがわかる」(p.96)という結論も同意できません。カッコ内の「特に正文」という部分が絶妙に不誠実だと思いました。なぜなら,p.95の表2を見れば,非文とされている(10)過去形, (2)be動詞, (4)語順, (6)can, (8)want toの5項目の5年生の正答率をみると,語順の正答率はたったの32.1%しかないからです。これは他の非文の正答率25.6%~48.8%と比較しても高くない上に,50%を大幅に下回っています。そして正答率が「高い」と解釈されている正文反応の方を見ても,2択で答えられる問題(しかもたったの1回の反応)で,66.1%の学習者が正解したことをもって,暗示的知識は身についている児童は多いと結論づけるのはあまりにもナイーブすぎないでしょうか。言語の暗示的知識をもつ母語話者は正文を正文と判断することも,非文を非文だと判断することも暗示的知識を使ってやっていると思います。よって,本文に明示的に書かれてはいませんが,もし仮にGutiérrez (2013)をもってきて,非文への反応は暗示的知識なので,明示的知識は持っていないが暗示的知識はあると考える,というように言われてもちょっと納得がいきません。

場外戦: そもそも明示・暗示は厳密には教育には役に立たない

終章の3節「教育的な示唆」には,明示的・暗示的知識の測定が教育・指導上役に立つとして以下の3点が挙げられています。

  1. 暗示的知識は学習者が気づかない(意識できない)知識であるが,この暗示的知識の習得こそが学習上のゴールであると考える教員や研究者が多いため,暗示的知識が測定可能になったことは重要
  2. 明示的・暗示的知識の測定方法が確立してきた事によって,教育場面でも応用可能
  3. 明示的・暗示的知識の習得プロセスにおける諸要因の役割がわかりつつあるため,教師がフォーカスすべきところが明確になってきた。

まず1について。そもそも,今のSLAで仮定される暗示的知識というものが実際に人間の頭の中に実在すると仮定して,心理学的な考え方でそれを測定することができるという意味でいうと,「測定可能」になっていると言い切れるほどではないと思います。まだまだ不確実なことが多い状況で,あまり確定的な記述をすることは逆に教育現場に誤った理解を広めたり,そのことが教育現場に余計な軋轢を生んでしまうかもしれない可能性を危惧しています。

暗示的知識の習得プロセスを学習者に示す事ができるということの例として第8章が言及されていますが,この章で紹介されている単語学習は,まず単語を見せて訳語を思い出してもらい,その上で正解を見て到達度を「良い」「もう少し」「だめ」「全然だめ」という4段階で評定するものです。単語を学習せよという指示はしていないから意図的学習ではなく,「潜在記憶レベルの語彙学習」と書いてありますが,この学習で単語を覚えようとしないわけがないと思います。意図的学習と偶発的学習を比較して,ここでフィーチャーされている学習が後者の学習だと論じられていますが(p.128),本来の偶発的学習(意味理解を目的とした言語処理時に未知語の知識を獲得するような学習)とは明らかに異なります。また,この評定値があがっていくことが語彙の暗示的知識であるとすれば,それは4章で議論されたようなアクセスのスピードの速さを暗示的知識とする理論的枠組みともずれます。

こういうズレは,教育場面でのテストや測定と,研究としてのテストや測定に求められる厳密さが異なるということを意味していると思います。このことは,2番目の論点にも関わります。

2の教育場面での応用については,時間制限付きの文法性判断課題を用いたりelicited imitation(誤りの含まれた英文を復唱させ,復唱の際に誤りを直すかどうかで知識の有無を判定するテスト)をすることだと書かれています。ところが,その前の節(p.151)では,これまでのSLA研究で用いられてきた課題は問題点も指摘されているという記述もあります。そういうのを読んだあとで,「測定方法が確立してきた」(p.152)と言われると,え?本当に「確立」しているのでしょうか?と読者は疑問に思わないでしょうか。私は思いました。さらに,終章第2節でもたびたび,暗示的知識の測定具は実際の言語使用とは大きく異なるものであるという問題点も指摘されています。この点については私も「明示・暗示の測定と指導法効果研究」という記事の中で指摘しました。であるならば,そうした実際の使用場面からかけ離れたテストをしてまで暗示的知識を測定する必要が教育現場にあるのかどうかということは問いたいです。そのことが,英語の授業や指導においてどういったメリットを持つかを考えずに持ち込もうとすることは,私はSLA研究者は避けるべきだと思います。私個人としては,明示的知識と暗示的知識という概念は純粋な認知科学としての第二言語習得研究でのみ追究されるべきであり,指導現場への導入は少なくとも今の段階ではメリットがないと思っています。第二言語習得研究では,母語話者と第二言語学習者の差が生まれる要因を解明することが研究の大きな目的ですから,厳密な暗示的知識の測定具を開発することは必要なことです。詳しくは過去記事をお読みください。

3については,明示・暗示という知識の二元論を導入するまでもなく,言語学習というのは非常に時間のかかるプロセスです。そのことは知識の二元論という余剰な概念を持ち出すことで初めて可能になることではありません。であれば,シンプルに「言語学習とは時間のかかるものである」といえばいいだけではないでしょうか。

科学的というような装いで,その内実が非常に曖昧なものに教育場面での有用性があるように断定的に研究者が言ってしまうことのリスクは研究者が考えるべきでしょう。「先週やったよね?」と教員が学習者に言わなくなったとしても,教員同士で「あなたの期末テストって暗示的知識を測定するものじゃありませんよね?」「これは明示的知識しか反映されていない問題ではないでしょうか」みたいなカオスが生まれてしまわないことを願うばかりです。

おわりに

この記事では,『外国語学習での暗示的・明示的知識の役割とは何か』という本の内容について,いくつかの観点から批判的に検討しました。私の記事の内容についても,批判的な検討をよろしくお願いいたします。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。


2021.09.22.03:24 更新

読解上やや不自然な部分や読みづらい部分などについて,軽微な文言の加筆修正等を行いました。最初に公開したものと内容的な変更はありません。

第二言語習得研究(者)はなぜ「誤解」されたか

Photo by Matheus Bertelli on Pexels.com

はじめに

今日は,「外国語教育研究の再現可能性2021」というオンライン開催のシンポジウムに参加しました。久しぶりに,集中して興味深く全ての話を聞けたなと思うイベントでした。開催にあたっては登壇者・発表者の皆様と,運営をされたプロジェクトメンバーの方々にまずお礼申し上げます。

さて,この記事では第二言語習得研究者を自称する者として感想がてらに,前半のシンポジウムで批判にあがっていたことについて私見を述べます。

私の質問の意図

私はシンポジウム後のディスカッションで,以下のような内容(書いた内容を保存していなかったので覚えている限りの内容)の質問を登壇者の一人である柳瀬先生宛にしました。

モデルが真実ではないというのはそのとおりだと思いますが,そのことはモデル自体が有用でないということを意味しませんし,モデルの精度をあげていくという営み自体を否定しないと個人的には思いますがいかがでしょうか。

柳瀬先生の答え(として私が受け取ったものは),受け取る側がモデルとして提示されたものを真実だと思っている(ように見えるのがよくない)。ということと,モデル構築の方法としてナラティブのほうが良いと思っている,という2点だったと記憶しています。

まず,2点目については,そういうアプローチもあっていいだろうと思います。また,非常に狭義の第二言語習得(SLA)研究者からすれば,そもそも大半の研究はモデルすら構築できてませんけどねって言われるような気もしますが,そこは一旦置いておきます。私がこの記事で焦点を当てたいのは1点目です。

私が上記のような質問をした意図は,柳瀬先生の発表を聞いて,モデルを作ることやモデルそのものを科学的に追求するという営み自体が否定されているというように感じてしまったことに起因しています。私としては,そもそも科学というのは絶対的な真理にたどり着くための永遠の営みのようなものだと思っています。草薙さんの言葉で言えば可謬主義を受け入れています。というか,人文社会系の研究者であれば(もっといえば自然科学の研究者であっても),研究によって世の中の真理が明らかになる,真実が一つに決まる,と思っている人ってほとんどいないのではないかと思っています。

それにも関わらず,モデル(研究の成果の結果として構築された現実の近似)を世の中の真理として受け取っている人がいる(あるいはそうやって広く受け入れられてしまっている),と研究者が考えてしまうのはなぜかということが重要な問題なのではないかと思いました。

ディスカッションで私の質問をとりあげていただく前だったかあるいは草薙さんの発表のときだったかは記憶が曖昧ですが,SLAの教科書と言われるような本にはすべて科学的事実かのように記述されているというような内容の発言があったかと思います。

よって,SLA研究者がどうやって自分たちのことを認識しているかは別として,「外から」はそう見られているということは間違いなさそうです。そして,それは柳瀬先生も草薙さんにしても(私は柳瀬先生の過去の研究のことは存じ上げておりませんで亘理先生の話を聞いて知ったわけですが)どちらかというと「そっち寄りだった」人からそう思われている,ということです(草薙さんは私が博士課程の2年間文字通り毎日一緒にいて共同研究もたくさんやったのでよくわかっているつもりです)。

研究者・実践者双方に研究に対しての態度を改める必要あり

上記のような問題,つまり研究の知見と言われるようなものをどう捉えるのか,という点についての私の意見は短くまとめれば以下のツイートのようなものです。

以下では,便宜的に「研究者視点」「実践者視点」に分けて良くなかった点を考察します。これはそれぞれが別の人物であることを必ずしも意味しない(一人の人間として研究者であり実践者である可能性も当然あるという認識がある)ことは言及しておきます。

研究者がやってしまったこと

上述の「SLAの教科書と言われるような本にはすべて科学的事実かのように記述されている」みたいな発言(実際にそうかは置いておいて他の研究者からそう思われてしまうこと)は,SLAという研究分野を立ち上げ,そしてそれを研究として他の分野と同等の価値があるものだということを社会に認識してもらわなくてはいけなかったという先人たちの苦労の結果として起きてしまった不幸なのではないかと思います。

SLAは学際領域だっていうことがよく言われますが,それは私は「表面」で,「裏面」は研究として確立することに非常に苦労したし,研究,または学問としての体をなすために試行錯誤してきたのがこれまでの歴史だというようにも思っています。

その結果として,私達のやっていることはscienceなんだ,ということを周りにアピールする必要がありました。そうではないと,研究として認めてもらえないからです。そういう苦労の結果として,様々な学会が立ち上がり,多くの学術雑誌が誕生し,そしてこれまでにたくさんの研究者を世に送り出すことに成功しました。一方で,そういった「アピール」が,意図的であるかどうかは別として誤解を生んでしまった面もあると思います。

世間に自分たちのやった研究の成果を発表する際に,本来であれば,そこまで確定的なことを言うべきではない,結果の解釈には慎重になるべきところを,研究ではこういうことが明らかになっている,というようにしてしまったこともあるのではないかと思っています。これはもちろん私自身も過去にそういった過ちをしている可能性も認識した上で言っています。メタ分析だろうが同じことです。研究の結果の解釈には必ず留保がつくべきはずなのに,そこをもし丁寧に説明しようとするとそもそも紙幅の関係で無理だし読者にも「結局何がわかったの?」と思われてしまう。だからわかりやすくしようとした。結果として,誤解を生んでしまうような知見が広まってしまった可能性もあるのではないかと思います。

余談ですが,いまや胡散臭い語学系広告にも「第二言語習得」という言葉が権威付け的に使われるようになってしまったことも,真摯に第二言語習得研究をしている人たちが望まない結果だと思います。もう一つ余談をすると,自分が先人の苦労に乗っかって今の職業的地位と安定を得ていることに最大限のリスペクトを払った上であえていうのは,英語教育「学」や外国語教育「学」という「学問」へのこだわりは,中身のほうが追いつかずにここまで来てしまったのではないかというのも思っているということです。私達世代(より下)の使命は,このことについて一度立ち止まって考えることだと思います。

実践者がやってしまったこと

研究の知見を解釈する側の実践者の視点からいうと,「科学的」ということばに過剰な信頼を置いてしまったことを反省する必要があるのではないかと思います(これは教育実践者のみならず一市民としての科学リテラシーも絡むでしょう)。

「あすの授業に役に立つ」というのは,実践者にとって有益であることを表すスローガンのように用いられている風潮があると思いますが,私としては少なくとも学会発表や一論文レベルで,それがそのまま「あすの授業に役に立つ」研究ということはほとんどないんじゃないかと思います。授業を考えるヒントになる可能性はたくさんあると思いますが。即効性をもって「あすの授業に役に立つ」のは研究ではなく,授業のアイデアレベルのことではないでしょうか。

再現可能性を思考したプロジェクトの先に研究の蓄積がなされたうえで,「あすの授業に役に立つ」のではなく,より広く授業を考える際のなにかのタイミングでの意思決定の基準の一つになりうるような研究の知見を出す,というのは可能だと思いますし,それこそがプロジェクト(の目標ではないと思いますがその先の)目標になっているのではないかと思っています。そのことについては賛同します。

ここで強調したいのは,私は実践者を責めているわけではないということです。実践者の方々の多くが置かれている環境に,余裕がない,これが最も重大な,そして喫緊の課題でしょう。余裕がないからこそ「あすの授業に役に立つ」ことを求めてしまうわけです。本来なら,1週間先,1ヶ月先,1年先,自分の教えている学習者が自分の所属している教育機関を離れるとき,まで見据えて授業は考えるべきです。ところが,それができない。そんな余裕がないからです。そういう状況まで追い込まれたら,藁にもすがる思いで何かを「信じたい」と思うことは当然のように思います。私も8ヶ月間という短い間で,なおかつ担任ももっていませんでしたが,公立の中学校教員として勤務していたことがありました。その時を振り返ってみると,あの時より忙しかったことはこれまでの人生でないし,この先の人生でもおそらくないだろう,と確信を持って言えるほどには激務でした。もちろん経験がゼロだったので非効率な働き方をしていたと思いますし,手の抜きどころも全くわかりませんでした。むしろ,手を抜いたら絶対にいけないという強迫観念で,自分という人間のあらゆるリソースをすべて仕事に振り向けていたとすら思います。悲劇的なことは,そこまでやっても自分にとって満足のいく授業に到底及ばない出来だったことです。

本当に辛かった。だから私は,教育実践者を責めるつもりはありません。そのうえで敢えてここで言わなければいけないのが,「研究」というものはたった一つの真実を教えてくれるものとは限らないということです。研究者が,わかりやすさを重視した部分がある。そしてそのわかりやすさが受け入れられる環境が実践者側にあったのではないかと。このことは,間接的にですが今回のシンポジウムが扱っていた再現可能性のテーマに非常に大きく関連していると思います。

不確実さへの不寛容

これはなにも英語教育の分野に限らないことかもしれません。人間ははっきりしないことをはっきりさせたがる生き物なんじゃないかと思います。曖昧なことや不確実さのあることを受け入れることが難しい。なぜなら,それでは自分がどうすべきかわからないからです。しかしながら,世界は不確実さに満ちあふれているわけです。そこで,その世界の不確実さを多少ましにする,人々の不安を和らげようとする営みが研究と言ってもいいかもしれません。「多少ましにする」とはつまり,研究が明らかにしたことには必ず確からしさのグラデーションがあるということです。今受け入れられていることがのちに否定されるというようなことは起こりえます。研究者がやっている営みは,その現時点での確からしさを高める努力をすることと,その努力を続けていくことだと思っています。そのことをいくら研究者が認識していたとしても,研究者が発信する情報を受け取る側とそういった合意形成が取れていなければミスコミュニケーションが起こってしまいます。この状況こそが,私は解決されるべき根本的問題だという認識を持っています。

わかりやすさの弊害

とはいえ,世間の風潮としても,わかりやすいことは人々が最も価値を置いていることの一つではないかと思えるほどに,この世の中は(人々は)わかりやすさを求めているように思います。その態度が,わかりやすくないものにたいしての否定的な感情や排除を生んでいるように思うのです。だからこそ,わかりやすくない研究というのは金の無駄だと言われ,意味がないと思われてしまう。そう言われると研究者は,無駄なことに意味がある,と反論します。ところが,これはそもそもの前提の部分でずれているのではないかと思います。わかりにくさは無駄ではない,というのが一つ。そもそも世の中はわかりづらいものです。人間が何年もかけて一生懸命時間とお金と労力を費やしても謎だらけなわけです。つまり,そもそもわかりにくいものなのだ,という認識を共有すべきだと思います。研究のブレイクスルーというのは,このわかりにくい状況を一瞬にしてわかりやすいものに変えるものなんじゃないかという気もします。しかしながら,それはそんなに頻繁に起こるものではありません。

また,私達は短期的なものを重視しがちです。中長期的なことは見えづらいし想像が及びづらいからです。だからこそ,すぐに得られる結果(「目に見える成果」)を重視します。研究もそういう枠組みに絡み取られてしまっています。多くの研究者が,自分が貢献できる部分はその研究分野のゴールから見てものすっっっっっっごくちっぽけなものであることを自覚しているはずです。自分が生きているうちにはまず解明されないだろうなぁという大きな課題を前に,それを切り分けて,切り分けて,切り分けて,その一部を多くの研究者で分担しながら明らかにしようと試みています。だから本当は,一つの研究で世の中を変えることなんて殆どの場合無理だし,一人の研究者が生涯で変えることのできることも,世間一般の人の感覚からすればよほど小さいわけです。このことを理解してもらうのがすごく難しいのではないでしょうか。

おわりに

思考を垂れ流すように書いていたらずいぶんと話が大きくなってしまいました。私が言いたかったのは,「科学」や「研究」ということばに対する認識をすり合わせていく必要がありそうですね,ということです。いちおう未熟ながら研究者の端くれですので研究者目線の記述になってしまい,それが自己保身のように解釈されてしまう面もあったかもしれません。私としては,研究者がのらりくらりしていて良いわけではないですし,研究の知見を世の中に伝える際にわかりやすさは度外視していいとも思いません。人生をかけたプロジェクトに挑みつつ,真摯な態度で,慎重に話をするべきだと思います。こういうのはおそらくサイエンス・コミュニケーションということばで語られるものだと思いますので,そういった本をいくつかAmazonで注文した次第です。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

「自律」の基盤的な部分

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さて,恒例の酔っ払ったので過去のことを振り返ってみるブログ記事の更新です。今回は「自律」という部分について,それを自分がどのように身に着けていったのかなというのを考えてみます。

幼少期のサッカーの経験

これはかなり大きいと思います。私は幼稚園の年少から地域のサッカークラブに入っていて,小学校の6年生までそのクラブでサッカーをやっていました。途中,サッカーの練習に行くのが嫌だと思ったこともありましたが,続けてました。このサッカークラブでの経験が大きかったなと思うのは親元を離れて合宿を毎年していた経験だったのではないかなと思います。

毎年夏と春に一泊二日ないしは二泊三日での合宿がありました。おそらく,ほとんどの小学生にとって親元を離れて過ごす機会というのは学校での宿泊行事(移動教室とか修学旅行とか)がメインになると思います。ただし,私は小学校の低学年のときからサッカークラブの行事を通じて宿泊行事に慣れていました。持ち物の準備,部屋で身の回りの整理整頓をすること,規則正しく行動することなどは,きっと幼少期からサッカークラブに所属していたことがきっと大きいんだなと思います。おねしょも割と大きくなってからもしてた記憶がありますが,宿泊行事では絶対しませんでした。

宿泊行事となると,様々な場面でいろいろな管理を求められるようになります。朝何時に起きるかだけではなく,何時に試合があるからそこから逆算してこの時間にはウォーミングアップを済ませておくとか,昼食のあと何時間後に試合だからそれを見据えて食事を摂るとか。もちろん朝早いから寝る時間も考えないといけませんし。「あれがない,これがない」ということがないように,荷物を常に整理整頓して自分が必要となるものがすぐにみつかるようにしたり。そういうことを,個人,そして仲間とともに経験したことは,自分が意識していないレベルで自分のベースになっていると思います。そういう費用を負担してくれた親には感謝しないといけません。

親が離婚したこと

20歳(大学2年次の夏)の時に両親が離婚して母親が出ていきました。この頃から,食事を基本的に自分で作るようになりました。朝は食べないか車での通学途中にコンビニに寄ってサンドイッチを買って運転しながら食べるみたいな感じでした。余裕があれば朝起きて自分でサンドイッチを作っていったりもしていました。もちろん食費は与えられていましたけど,自分の飯は自分で用意する,みたいな環境で過ごしました。そりゃぁ大学生ですから友達と夜ご飯を食べたり,飲み会があったりということも頻繁にはあったわけですけど。どっかで書いた記憶もあるんですが,サークルの友達は一人暮らし組が多かったので,「実家組はいいよなぁ」なんて言われたりして,「いや俺実家だけど帰ってもご飯は自分で作らないとないけどね」って思っていました。大学3-4年生くらいのときは大学近くで家庭教師をやっていました。家庭教師っていうと夜ご飯をごちそうになってみたいなエピソードを聞くこともありましたが,缶コーヒーくらいでしたね(別にそのことは全く不満に思ってもないです)。ただ,サークル終わりに家庭教師をやって21時くらいに帰途についてそこから御飯作るみたいなのは結構しんどかったです。もちろん帰り道に外食して帰るとか弁当買って帰るみたいな選択肢だってあったしたまにはそうしていたわけですけどね。

自分の飯は自分で用意するというのはすなわち食料品の買い出しも自分で考えてしないといけないわけで,帰り道の国道添いにある業務スーパーに寄って保存期間の長い食品を買ったり,西友で安い食料品を見繕って買って帰ったりすることが日常的にありました。そういう経験は,のちにアメリカで自立した生活を送る(もちろんルームメイトはいましたけど親に頼らないで生きる)ことや,その後名古屋で4年間の大学院生生活を過ごす際の基盤になったと思います。

こういう経験は人間として生きていくうえで身についていてよかったなと思います。自分のケツは自分で拭く精神が身についたというか。

What doesn’t kill you makes you stronger

ですね。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

なんでゼミやるの?

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はじめに

「そんなにゼミやりたいんすか?」と言われて,それめっちゃいい質問だなと思ったので,私(33歳私学外国語学部准教授)の今の気持ちを書き留めておこうと思います。

所属先の環境

私は今,関西大学外国語学部というところに所属しています。ゼミの話をする前に,弊学部の特徴を少し。カリキュラムの特色は2年次の留学プログラムです。

  • 1年次:専門の導入科目,アカデミックスキル養成,留学に向けて語学力をバチバチに鍛える
  • 2年次:留学
  • 3,4年次:留学先で培った語学力を維持しつつ専門を深める

ざっくりいうとこんな感じのカリキュラムです。おそらく一般的な大学のゼミ(演習)は3年次春学期(前期)からスタートすると思いますが,弊学部では留学から帰ってくる時期の関係でゼミ選択を3年次の春学期にせざるを得ず,よって3年次秋学期と4年次にゼミの1年半がゼミ履修ということになります。2年次にプレゼミ的なのがあったりするところもあると思いますが,2年次に1年間留学をしても4年間で卒業できることを売りにしているので,専門的な教育としては3, 4年次に詰め込んでいる感があり,そこは教員間でも課題として認識されているのが現状だと思います。

そういう事情の中で,いわゆるゼミは教授のみ必須,准教授と助教は希望者のみ開講しても良いということになっています。他の学部は知りませんが,私の所属している関西大学外国語学部は若手教員の授業負担や学内業務負担をできるだけ軽減し,研究によりエフォートを割いてもらうみたいなことが制度設計として実現されています。ゼミ開講のことについても,そういう配慮があると思います(もしかすると,准教授や助教はゼミで指導生を持つような能力がまだないと思われてるのかもしれませんが)。

さらに,学部定員(170くらい)と教員の人数(50)の割合が極めて高いのも特徴です。一人の教員が受け入れられるゼミ生の人数を制限しているので,少人数の演習でみっちり指導しますよ,というのも学部の特徴です。

なんでゼミやるの

「そんなにゼミやりたいんですか?」はすごくいい問いだなと思いました。特に,私の所属先のように義務としてゼミを開講しなくてはいけないわけではなく,開講しないという選択肢が与えられているのだから,別にやらなくてもいいのではというのは理解できます。現に,開講の義務がない准教授,助教の先生でゼミを開講しているのは少数派だと思います。

まずひとつは,やっぱり大学教員という仕事の醍醐味の一つとしてゼミの運営があるというのはあると思います。自分も学部時代,博士課程時代にゼミを通してたくさんのことを学んだというポジティブな経験があります(博士課程時代は国立大学でなおかつ独立大学院だったので学部のゼミにはあまり直接的つながりはなかったですが)。

学部時代に教員と少人数の学生で密にコミュニケーションしながら突っ込んだ話について議論を深めたりしたことや,難解な洋書の専門書をみんなで協力しながら読み進めた経験は確実に今の自分の基盤となっています。それは当然ながら,今の自分のキャリアがその延長線上にある(ゼミで学んだことと無関係な仕事をしていない)ということも大いに影響しているでしょう。そういう意味でいうと,教員養成課程というマジョリティが教員になるという道を選ぶ環境と,私の今の環境ではゼミのあり方も異なって当然であるとは思います。

ゼミの活動を見ていると,活動系のことを大きく宣伝しているゼミも多いですし,むしろそういうゼミが人気を集めているようにも思います。学生にとって,その後の人生に役立つことが直感的にわかりそうなゼミを選ぼうとする気持ちも,昨今の就活事情を鑑みると理解もできます。それ自体を責める気もありませんし,結果として優秀な人材を世に送り出しているといえますからゼミの募集に誰も来ない教員よりもよほど学部,そして社会に貢献しているといえるでしょう。

そういったゼミを運営する先生やそういったゼミに入る学生が学問を軽視しているとは言いません。ただ,やはり私はやっぱり研究者でいたいと思っています。私は良くも悪くも学問の専門家であり,もちろん産学連携とか地域貢献も大学の大事な役割ではあるとはいえ,それが自分の専門であるというようには考えていません(しそこに今から自分のリソースを投じることが有益であるともあまり思えない)。もちろん,いわゆる「現場」といわれるような学校に呼ばれて,その学校の教育を良くするために力を貸してほしいと言われたらそれは全力でコミットします。ただ,そのことを自分のメインの仕事として捉えることはおそらく今後ないだろうと思います。それは,その仕事については手を抜くということではなく,それは自分がもっとも力を発揮できる場所であるという自信がないということです(かといって研究なら力が発揮できるかと言われるとそれも自信があるわけではないですが,ただ研究者ならそこで力を発揮できないなら辞めたほうがいい)。

所属先の構造でいうと,研究科が上にある場所にいる(所属先が外国語学部で,同じ組織の構成員の外国語教育研究科がある)ので,やっぱり学術的なことを扱うゼミをやりたいという思いもあります。学部の上に研究科がある,ましてや修士課程だけではなく博士課程まであるというのは一般的とは言えないと思います。そうした環境で職を得ているからには,そこも見据えたいという思いもあります。もちろん,現実的には学部から修士課程に上がる学生の数は数えるほどで,そこから博士後期課程までとなるといるかいないかレベルで,後期課程はほとんど外部から人が来るというのが現実だと思います。

学部長・研究科長が竹内先生で,英語教育で言えばその名前を知らない人はいないのではみたいな人(e.g., 水本先生,新谷先生,to name a few)が一人ではなく何人もいるみたいな環境です。いやいやこの先生がその仕事してる場合ちゃうやろっていうのを思ったことは就職してから数え切れないほどあります。

「まあだから自分はゼミやんなくてもいいや」という思いもある一方で,自分がそこに割って入る気持ちでいないでどうするという気持ちや,自分をチャレンジングな状況に意識的に置くことで成長したいという気持ちもあります。

自分と近い分野の先生が多いということはすなわち,ゼミを開講しても分野がかぶる可能性が高いということを意味します。さらに,弊学部は1学年のゼミの受け入れ人数上限が二桁になることはないわけですから,そのばらつきを考えればなおさら他の先生たちのとの差別化ができないと,若くて経験も浅い私のゼミを選ぶ可能性は低くなります。だからこそ,ニッチかもしれないけれども自分のキャラクターを生かそうという発想になりました。結果としてそれはうまく機能しなかったわけですが…

もう一つは,ゼミをやることが自分を成長させてくれるという気持ちがあります。学生から見たら,貴重な教育の機会をお前の成長のために使うんじゃあねぇという声も聞こえてきそうですが。これは冗談抜きで亘理先生がいいからやってみんしゃいと言ってくださったことが大きいです。もしかしたらそんなことは言ってないかもしれないんですが,個人的にはどっかでそういうメッセージをもらった気がしています。私が,ゼミやろうかどうか迷うというようなことをツイートしたときにかけられた言葉だと記憶しています(念の為書いておきますが,だからといって履修者ゼロだったことは亘理先生のせいでもなんでもないです)。

自分が経験したことないことを経験することによって,自分が成長できるというのはゼミを開講しようとするメリットだと思いました。また,今の私はどちらかというと英語を教える科目の担当がメインなので,自分の専門に関わることを授業を通じて教える機会はありません。そういった自分の専門に関連する科目の担当はそれはそれで大変だとは思いますが,その授業を担当できる(任される)ということは,すなわちそれだけの研究者であるということを意味すると思います。そういった授業の担当は自分が希望すればできるわけではない以上,ゼミというのは自分次第でそういった環境への直接的アクセスが可能な手段でもありました。

学生からすると経験が薄い教員のゼミに入るのはリスクも大きいと思うでしょうし,先輩からの情報が得られる先生だったり,就職に強い先生のゼミを選びたいと思うのは当然だと思います。それを上回るようなメリットを自分自身がシラバスで提示できなかったということが,自分の未熟さや至らなさなんだろうなと思います。また,ある程度その学年の学生にも顔が知れている(学年の多くの学生の授業を担当している)にもかかわらず,私のゼミの希望者がいなかったというのは,学生からの授業の評判も良くないということの表れでもあるかもしれないと思っています。

もともと授業がうまいという自己評価をしたことは一度もありませんが,だからといってこの状況を自分に対してのフィードバックとして受け取らないのは無責任すぎます。来年度も開講の希望を出すかどうかは今の時点では迷っていますが,結局私のゼミに入りたいと思うゼミ生が現れるかどうかは自分のパフォーマンス次第であると思うので,来年度以降もチャレンジしたいと思います。発想は体育会系かもしれないんですが,私は私の持てる知識の全力で向き合うので,「教えを請う」という態度ではなく,全力で私にぶつかってきてくれる人と切磋琢磨したいなって感じですね。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

2021.09.01.12:41

タイポの修正と一部加筆修正をしました。

サッカーと英語教育の交差点(3)

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はじめに

第二弾で書いていた記事が結構長くなってしまったので,後半部分を切り出して第三弾の記事として別に公開することにしました。これまでに書いてきた記事は以下の2本です。

サッカーと英語教育の交差点(1)

サッカーと英語教育の交差点(2)

本記事でも引き続きこの本の内容についてです。

ゲームモデルとプレー原則という考え方

書いてあったことの理解を確認する意味も含めてちょっと長いですが説明

この本でもう一つ特徴的なのは,ゲームモデルとプレー原則という概念です。ゲームモデルとは簡単にいうと,試合でどういうサッカーをやるか,です。そして,それを表現するために,主原則,(=目的),準原則(=自己組織化の手段),準々原則のように階層的に原則を作ります。サッカーという競技は攻守が激しく入れ替わるスポーツですが,その中でも「4局面」という形で以下のように場面を分ける考え方が主流です。

  • 攻撃時
  • 守備時
  • 攻撃から守備への切り替え
  • 守備から攻撃への切り替え

しかしながら,「攻撃時」=「ボール保持」としたら,攻撃時というのも相手がハイプレスに来たときにどうやってプレスを回避するか,そしてどうやってボールを前進させ(ビルドアップして)敵陣に侵入するか,敵陣に入ったらどうやって相手の守備組織を崩してゴールを奪いに行くかといったさらに細かい局面があります。よって,その局面ごとに原則を決めることになります。ゲームモデルが必要な理由として著者は以下のように述べています。

なぜゲームモデルが必要かと言えば、複雑系であるサッカーチームをマネジメントする上でメリットがあるからだ。理由は主に3つある。

①自己組織化を促し、創発現象の恩恵を得る

②システムのレジリエンスの向上

③システム全体の目的/目標の共有による全体最適化

いずれもシステム思考に基づいた概念であり、システムを上手く機能させるためのツールとしてゲームモデルというフォーマットが考案された。

山口遼. 「戦術脳」を鍛える最先端トレーニングの教科書 欧州サッカーの新機軸「戦術的ピリオダイゼーション」実践編 (Japanese Edition) (Kindle Locations 509-515). Kindle Edition.

自己組織化とは,複雑系において組織的にすることを目的として外からなんらかの手が加えられることなく,自律的にシステム化することです。前回の記事の中で引用したイワシのトルネードでは,イワシの一匹一匹はああいったトルネードを形成して大きな塊をなし,天敵である大きな魚から身を守るわけですが,イワシがそういう目的を理解しているわけではありません(あくまで動き方のいくつかのシンプルな原則を守っているだけ)。サッカーでも同じように,プレー原則を意識したプレーをさせることで,サブシステムの自己組織化を促して,個人の能力の足し算以上のものを引き出そうということです。

レジリエンスはシステムの変動が起こったときにそれを元に戻そうという回復力と言われます。サッカーでいえば,相手の攻撃によってポジションバランスが崩されたときに,それを元に戻そうとすることが例として挙げられています。自分たちの状況が悪くなったときに,それを立て直そうとする力とも言えるでしょう。これを可能にするのは,個々人が共有された原則にしたがって行動することに他なりません。たとえば相手のカウンター攻撃を受ける可能性がある際にはまずゴールに最も直結する可能性の高いピッチ中央部分を埋める動きを取ることが原則の一つとしてあったとします。仮に自分の持ち場が右サイドだったとして,中央部分が手薄になってしまっているのに自分の持ち場に戻ることを優先して攻守の切り替えで右サイドに戻ってしまえば,がら空きの中央を突破されてしまうことになります。これでは失点のリスクが高く不安定です。よって,こうした場面でもシステムを安定的に維持するためにはプレー原則が重要になるというわけです。

ちなみに,①と②を達成するために大事なのは,「局所的でシンプルなルールである」ことだと著者は述べています。複雑すぎれば一瞬の判断に適応することができませんし,特定の局面における原則でなければ試合中のどのタイミングでその原則を適用すればいいのかの判断もできません。よって,様々な場面に適応できるくらいの局所性(上述のプレス回避とかビルドアップとか)で,なおかつシンプルなルールでないと,逆に頭でっかちになってしまい良いプレーが生まれないことになってしまいます。

最後の全体最適化は,チームが目指すべき方向を「全体で」共有しておかないと組織がうまく回らないということとともに,うまくいってないときに原則という立ち返る場所があるとも言えます。一番上位の主原則が変わればサッカーは(システムは)まったく違ったものになりますから,システムがうまくいっていないときにそこに介入する手段として,プレー原則をもっておくことが有効であるということになります。

言語教育にも有用な概念では

さて,このあたりは複雑系の込み入った話が多いので少し説明が長くなってしまいました。私は,このプレー原則という考え方は言語教育にも有用な概念ではないかと思いました。つまり,言語使用を局面ごとに切り分け,そのなかで主原則,準原則,準々原則のように階層化した局所的でシンプルなルールを学習者に提示してあげるということです。

おそらく,具体的な教室での指導場面では「こういうことに気をつけよう」みたいなことはよくされていると思います。ただし,私はそれはここでいうプレー原則とは違うかなと思っています。その理由は,そこに体系性と階層性が存在しているかどうかという観点が重要だと思うからです。これは,「Aに気をつけるのとBに気をつけるのは相反するから常にAを気をつけようと言っている。これは一貫しているので問題ない。」みたいなのでは乗り越えることができていない問題です。

コミュニケーション論とかの文献を参照しながら考えていくほうが学術的な議論としては適切かと思いますが,それは別の機会に然るべき論考にまとめるとして,試しにここでは1対1の口頭でのやりとりをするという言語使用場面を考えてみましょう。もちろんこのやりとりがどのような状況で,どのような相手との関係性なのか,みたいないわゆる「設定」もどのようなやりとりを行うのかの重要な要因となります。ただし,ここではそういった状況によらないもう少し上位の観点でやりとりを捉え,どのような状況であっても適用することができるような原則を考えてみます。まず,口頭のやりとりを,自分が話すターン,自分が聞くターン,そしてそのターンの交代が起こる場面,の3つに分けてみます。

自分が話すターン

では,自分が話すターンの主原則とは何になるでしょうか。私は,自分の意図を伝えることが最も重要だと思っていますので,それを主原則にしてもいいのですが,それってサッカーでいう攻撃の主原則を「ゴールを奪う」に設定しているのと同じように感じてしまいます。

もしかすると,サッカーというのがどういうスポーツなのかを理解していない人にこうしたプレー原則のようなものを教えても効果がないのと同じように,1対1のやりとりとはそもそもどういうものなのかをメタ的に考えさせることも必要かもしれないとも思いますが。私達はあまりにも日常的に当然のように言葉を使っていますが,実際にそれがどういう構造なのかであったり,どのように成立しているのかについてはほとんど意識したことがないからです。自分があまり熟達していない言語を使う場合には,第一言語を使う場合よりもそういった部分にある程度意識的になることが必要かもしれません。よって,「自分の意図を伝える」ことの重要性というのは伝えてもいいでしょう。ここでは,その目的(サッカーでいうゴールを奪う)をどう達成するのかについての原則を考えてみます。例えば,「相手が自分の伝えたい内容を理解しているかどうかを意識する」みたいなのは主原則になりそうかなと思いました。授業で1対1のやりとりを学生にさせたりしていると,自分が言ってることを口に出したというだけで満足してしまっている例がしばしば見られます。本来は,それを相手が自分の考えているのと同じように理解してくれて初めて「うまくいった」と言えるだけです。しかしながら,この視点が欠けていることが多いように思います。

自分が聞くターン

前節の相手が「自分の伝えたい内容を理解しているかどうかを意識する」という自分が話すターンにおける主原則(仮)と必然的に関わってくるのが聞くときの主原則です。これはもちろん「相手の言っていることを理解する」と言いたいところですが,これも話すときに考えたのと同じようにサッカーに例えれば「ゴールを奪われない」みたいなのと同じレベルになってしまいます。そこで,「自分が理解していることを相手に示す」とか,「自分が理解できていないときはそのことを相手に伝える」みたいなことを主原則にするのはどうでしょうか。

ターンの交代

ターンの交代は明確な時(例えば疑問文を使えば次はその疑問文を使わなかった人のターンになるというような)もあれば,そうではないときもあります。また,1対1であれば複数人で会話しているときと比較すればターンを渡す,自分からターンを取る,というのも容易です。ただし,特に熟達度にばらつきがあるような場合には,話すのが苦手な側が簡単なレスポンスしかしなかったり,あるいは熟達度の高い側が,沈黙になるなら自分が話したほうがいいと考えたりしてどちらか一方が話し続ける時間が長くなってしまうこともよくあります。とはいえ,「共同的なやりとりを心がける」ことだけを目標として掲げてしまうと,”What do you think?”や”How about you?”だけを使って相手にぶっきらぼうなパスを出すだけになってしまうということもよくあります。そこで,ここでは「共同的なやりとりを心がける」という主原則の下により具体的な準原則を示してあげることも大事かもしれません。例えば,「質問をするなら相手が答えやすい質問の仕方をする」とか。実は,話すターンと聞くターンの原則を意識していると,自然とターン交代も起こるんですけどね。

おわりに

本記事では,サッカーにおけるゲームモデルとプレー原則の考え方を言語指導の場面に置き換えて考えてみるということを試みました。記事中ではわかりやすそうな例として「1対1の口頭のやりとり」について考えましたが,これはリーディングだろうがリスニングだろうが,どのような技能についても考えることが可能だと思います。あとは,はてさて言語使用における「ゲームモデル」をどう言語化するかというところがまだできていないかなと思っています。

ゲームモデルを考える際に重要な点でこの記事でここまで言及しなかったことを最後に書いておこうと思います。本記事ではゲームモデルとプレー原則について,サッカーのピッチ上で起こるプレー面に焦点をあてましたが,上掲書の中ではより外部的な要因(クラブの組織体制,やクラブ・国のサッカー文化,クラブの目標)に加え,選手の質や指導者のビリーフなどの要因の影響も受けてゲームモデルが決定されると書かれています。つまり,脱文脈化してゲームモデルとプレー原則を語ることは実はあまり有益ではないことであるとも言えます。この記事で書いたことも,私が自分が普段教える大学生英語学習者,私が今担当している(またはこれまで担当してきた)授業,私が教える大学の外国語科目のカリキュラム,そしてなによりも指導者としての私個人の信念が入っています。サッカーにおけるクラブ,チームという単位をどこに定めるのかというのが難しいところだとは思いますが,そういった視点も持っておくのは重要でしょう。

次回(いつになるかは不明)はサッカーのトレーニングの考え方を言語指導に応用するということを考えてみたいと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

人と話すこと

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いつからだろう。人と話すのが苦手だなと感じるようになったのは。昔から人見知りだったのは間違いない。初めて会う人と上手に話をするのは苦手だった。でも,家族と過ごしているときはいつでもずっと自分が喋っていて,そういう意味では「おしゃべり」というラベリングをされて育ってきたと思う。「5分黙ってたらお小遣いあげるから」とか母親に言われて。もちろん黙ってられなかったわけだけど。

学校生活でも,誰かと喋らずにはいられなかった思い出がある。中学の時も,高校の時も,授業中に隣や後ろのクラスメイトと(それが男子でも女子でも)ずっと喋っていてよく注意されていたような気がする。それに,先生の発問に対しても自分が当てられてないのに答えをいうこともあったらしい。久しぶりにログインしたmixiで友達からの紹介メッセージが並ぶページを見ていたら,高校3年生のときのクラスメイトが英語の授業のときにいつも私が答えを言ってしまうことが嫌だったというようなことを書いていた。全然覚えてないけど,そういうことがあっても不思議ではない。

大学に入ってからも,授業中はいつも喋っていたし,1年次のとある授業のとき,温厚で優しい先生(3, 4年次はその先生のゼミにも出ていたし,卒業してからも定期的に食事を行くほど仲良かった)に教室から出ていけと言われたのも今でも覚えている。

でもいつからか,喋らなくなっていったと思う。おそらく私が大学を卒業して以降に私と知り合った人は,私のことを「おしゃべり」と思ったりすることなんてないだろうと思う。いつからか,自分が話すことがつまらなくて価値のないことのように思えてきた。面白い話,価値のある話ができないなら,その話を聞かなくてはいけない相手に迷惑なので話さないほうがましだと思うようになった(それはきっと,自分が面白い話や価値のある話以外は聞く価値がないと心のどこかで思っているのかもしれないと疑っている)。

特に,”How was your day?”みたいな感じで聞かれるのがおそろしく苦手なのだ。なんのへんてつもない日常なのだから,取り立てて会話の話題になるようなものでもないし,それをそのまま話しても何も面白くない。仮に自分が話し相手として聞いたら「へえ〜」としか言いようがないことしかないような毎日だからだ。2011年にTwitterを初めてからは,しょっちゅうツイートしてた。面白くもない話を延々と。それに,毎日の出来事についてもツイートしてた。誰も興味ないのに。それがTwitterだから良かった。自分も若かったので周りなんか気にしてなかった。まあそういう使い方が本来の”tweet”であるべきなのだ。今でもそれなりにツイートする数は多いほうだと思うけれど,昔に比べたらずいぶん減ったと思うし,ツイートしようと思ってやめるということも増えてきたように思う。それでも,人と話すよりはツイートするほうがよっぽど楽なのだ。なぜなら相手からの反応がなくて当然だから。

皮肉なことに,そういう人間が人前で話すことを仕事にしているわけだ(しかもコミュニケーションを重視した授業とかやっちゃってる)。授業中も,あまり自分が話す時間が長くなると苦痛だと感じる事が多い。それでも,そうではない場面(日常生活における会話)よりはさほど話すことに苦痛を感じないのは,きっとそこに権威性が存在しているからだと思う。教員は話すのが当然で,学生はその話を聞くのが当然であるというような。でも本音で言えばそういう権力関係がある状態で話すのは本当に辛い。常に,自分の話を苦痛に思いながら聞いている学生に申し訳ないなと思ってしまうからだ。そうやって話す側と聞く側のパワーバランスがはっきりしている場面で話すのは(そうじゃない場面の会話のほうがむしろ少ないのが普通かもしれないが),メンタルのリソースを著しく奪う。研究発表もそうだし,経験は数えることしかないがセミナーだったりワークショップだったりの講師となるとその傾向がより強くなる。

昔は『スラムダンク』のフクちゃんのように,「もっとホメてくれ」と思っていた。自分という存在が他者からの承認をうけるべきだと思っていた時代があった。ところがいつしか,ゲーム・オブ・スローンズでいう”no one”のほうが心地よく感じるようになった(そこに作中で描かれるような信仰はないにせよ)。自分のアイデンティティを真っ白なものとして生きるほうが楽に感じるのだ。そこには背負うべきものが何もないから。だからこそ,その道を捨てて私はアリア・スタークだと言って自分のアリア・スタークとしての役割(責任)を全うした(自分が自分であることを引き受けた)アリアは尊いのだ(もしゲーム・オブ・スローンズをご覧になっておらず,なおかつ観ようとしている人がいたとしたら唐突のネタバレになってしまうことを大変申し訳なく思う)。

自分が何者でもないと思うことはそう簡単なことではないと思う。誰だって,自分は人から承認されるべきなにかを持っていて,それがこの社会に何かしらの意味を与えていて,それが自分が生きることを肯定する材料になっていると思いたいものだと思う。だって,この世の中でそういう人たちが称賛を受けている,そういう世の中で生きているのだから。だがしかし,本来はそんなことはどうだっていいのだ。世の中の役に立つとか立たないとか,「生産性」があるとかないとか,そんなことに関係なく人は生きる権利があり,人権をもっているのだ。そうやって自分以外の他者をリスペクトすることはできるのに,自分を肯定できないことのジレンマにきっと今陥っているのだと思う。

人と話すことに戻ろう。私はもともと,どちらかというと年上の人といるほうが気が楽なタイプだ。家族の中でも自分が一番下で(2歳年上の姉がいる),昔から年上の人と過ごす機会のほうが年下の人と過ごす機会よりも多い中でずっときたこともあるかもしれない(近所に年上の人が多くいたのと,家族ぐるみの付き合いがあったのが姉と同い年の家族だった)。高校,大学と,上下関係がより強調されるような環境で自分が上になったとき,あまり年下とうまく人間関係を築くことができなかったし(高校にいたっては年下とほとんど接点がないといっていい),苦手だからそういうのを避けてきたと思う。大学のときはそれでも何人か仲良しな後輩もいたかもしれない(専修の中では何人か思い浮かぶ。どちらかというとサークルの後輩は親しみやすい子が多くて自分も楽しかった記憶が多い)。大学院でも,先輩とうまくやるより後輩とうまくやるほうが難しいと思っていたし,結局あまりうまくやれなかったと今でも思っている(自分の先輩が偉大すぎたという言い訳くらいしてもいいはずだ)。

本当はつまらない話をしたっていいし,面白くなくたっていいし,たわいもない話こそが人間が本当に必要としてる会話なんだと思う。そのはずなのに,たわいもない話をするのが苦手なのだ。きっと昔は,人がどう思ってるかなんて何も考えずにしゃべることができたし,周りも聞いてくれたから自分が喋りたいように喋っていただけなんだと今になっては思う。その結果として,話を聞く側に対する想像力がほとんど育たなかったのだ。だからこそ,自分の話を相手が聞いた時にどう思うかがわからなくて,問題が起こることが増えた(問題が顕在化することが増えたという方が適切かもしれない)。オトナになると(本来オトナコドモ関係ないんだが),自分が喋りたいことだけ喋っていればいいようでもなくなってくるから難しい。そのことが,自分がなにかを話したところで相手は「へえ〜」しか言うことないよねで片付けてしまうような思考回路になってしまっている要因かもしれない。

とはいえ,「くだらないことだって話していい」は世の中でそこまで受け入れられてないのかもしれないと思ったりもする。だからこそ,お金を払ってどんな話(それでも許容範囲はあるだろうが,他の場所よりは許容範囲がおそらく広いと思われる)でも聞いてくれる場所に足繁く通うオトナがいるんだろうと思う(典型的な例がキャバクラ)。きっとそういう人は,聞いてもらえる感覚がない(不特定多数に発信する)ようなツイートでは満たされることはないのだろうなと思う。別に軽蔑ではなくて,むしろ気持ちはよくわかるなと思う。おそらく20代前半くらいの若者だったときは,お金を払うなら性的サービスが受けられるところにいくでしょって思ったと思う(そういう経験は人生で大学生のときの1度きりしかかないが)。むしろ,性的サービスですら,お金を払わなくても女性を口説けば事足りるのにって思っていたと思う。

私は88年生まれの33歳だが,今同じことは思わない。それは金銭感覚が学生のそれとは違うというのも大きいだろう。時間的コストをお金で買えるという考えになったといってもいいかもしれない。しかしながら,それと同時にあのときはなぜそんなエネルギーがあったのだろうとも思ったりする。若いってすごい。純粋なスポーツテストで測定されるような「体力」ではないようなエネルギーがあった。今はない。だから,自分よりひと回りも(場合によってはふた回りも)年上の人がギラギラしてるのをたまに見かけたりすると,最近はすごいなと思うようになった。その年でもそんなエネルギーあるなんてすごいですねって。リスペクト。それこそが「生きるチカラ」なんじゃないかと思わざるを得ない。

私にはそういう「生きるチカラ」なるものが欠けていると思う。それに加えて,自分という人間の人生について,それが自分だけのものであるという妄想も抱かないようになった。むしろ全くの逆で,自分の人生は他者の存在なしにはありえないものだと思うようになった。自分が生きているのは自分の意志ではないとすら思うくらいだ。自分の意志だけで生きていけるほど強くない。少なくとも自分はそんな超人的な精神力を持ち合わせていない。自分が死んだら困る人がいる(悲しむかどうかではなく困るかどうか)だろうなと思うから,まあそれなら生きてるほうが世の中のためかと思う。

こんな話も,誰か人にするもんじゃないからここに書いている。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

サッカーと英語教育の交差点(2)

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はじめに

先日書いた以下の記事の続編です。サッカーに全く興味がないという方もいらっしゃるかもしれませんが,そういう方もぜひ「急に脱線しますね」のセクションだけでも読んでいただけると嬉しいです。

サッカーと英語教育の交差点(1)

下記の本も読み終わったので,本の中で英語教育と結びつけて考えられるなと思ったところを引用しながら記事にしたいと思います。

前回書いたことをざっくり振り返ると,要するにサッカーというスポーツの競技力を向上させることと,言語能力を向上させることの間には共通点がたくさんあるんじゃないかということですね。そして,そのキーワードは「複雑系」です。これまでも,言語能力の発達を複雑系で捉えることだったり,あるいは特にTask-based Language Teachingの文脈で身体技能の発達を例にとって言語能力の発達を捉えるみたいなことは「話の種として」出されることはあったように思います。

私が記憶している中だと,浦野先生が自転車に乗る話の例を出したり,松村さんがジムでゴルフのトレーニングをする子供の話をだしたりという感じです。この戦術的ピリオダイゼーションの本は,そういった例をもう一つ上のレベルに引き上げてくれると思っています。なぜなら,サッカーという複雑なシステムを捉える目を持ちながら,それを具体的にどうやってトレーニングに落とし込むのかという視点もあるからです。もちろん,サッカーの練習のことを学んだって,と思われるかもしれませんが,サッカーという複雑なゲームをどうやって要素還元主義に陥らずにトレーニングに落とし込むのかという「考え方」それ自体は,言語能力という複雑なものをどうやって要素還元主義に陥らずに指導できるか,ということを考えるヒントを与えてくれると思うからです。

よって,サッカーに興味がある言語教育関係者はとにかく上記の本を読んでみることをおすすめします。途中の具体的なトレーニング例は,何を意識しているのかさえ理解すればあとはさっと流し読みする程度でいいと思います。

急に脱線しますね

長々となってしまうかもしれないので,先に結論言っておきますが,私は戦術的ピリオダイゼーションのような考え方でサッカーの練習を考えるのと非常に似た思想がTask-based Language Teachingであると思っています。また,タスクとはなにか,とかタスクの定義,と言われるようなものがなぜ大事であるのかというのは,タスクでなくてはいけないから,とかそういうことじゃなくて,その定義を満たすような活動(サッカーでいえば練習)を設計することによって,実際の言語使用場面(サッカーでいえば実際の試合)を意識したトレーニングをすることができるからです。よって,「これってタスクですか?」「それはタスクではありません」みたいなやりとりが不毛なのはその部分の共通理解が不足しているからだと思っています。つまり,実際に私達が言語を使用する時の状況に近づけるように言語活動を設定しようと思ったときに,その指針としてタスクの定義というものが有益であるということです。

実はまさにこのことをテーマにした共著の論文を昔書いたことがあります。

福田純也・田村祐・栗田朱莉(2017)「中学校教科書における口頭コミュニケーションを志向した活動の分析―第二言語習得研究におけるタスク基準からの逸脱に焦点をあてて―」JALT Journal, 36, 165182.

この論文は無料で読めるし日本語で書いてあるのに(だから?)ほとんど引用されることがないのが悲しいですが,タスクの定義( e.g., 意味中心,ギャップがある,リソースの指定がない,結果としての成果がある)というものを使ってコミュニケーション活動を良くするにはどうしたらいいかを研究の知見を借りて考えてみましたというような論文です。別に目新しいこと言ってるわけでもなんでもないんですが,タスクの定義というものがなぜ実践的に価値があるのかについて述べた論考です。

「サッカーはサッカーでしかうまくならない」

さて,ここからが本題です。

前回の記事でもこのことが書いてある一節を紹介したのですが,もう少し具体的なことが書いてある箇所を引用します。

例えばハードな筋力トレーニングをこなしたにもかかわらず、実際のゲームやトレーニングでのデュエル(1対1の競り合い)に勝てないという現象はよく見られる。だが、実際にプレー中に起きる「ぶつかり合い」を分析してみると、そこにはあまりにも複雑なプロセスが関連していることがわかるはずだ。相手がどの方向からどのような状態で自分に向かってくるのかを認知すること、その場面における最適なプレー方向やプレー方法を選択するための意思決定をすること、相手をブロックしながらもボールのコントロールを失わないための身体のコントロールを維持することなどを一瞬のうちに同時並行で行うことが求められる。しかも、このような複合的な動作は90分の間休むことなく続き、しかも自分の他にも味方の10人、相手の11人も同様の意思決定を行い続けている。このように考えると、単純な筋力トレーニングだけで試合におけるデュエルの勝率を改善するのは不可能とは言わないが、効率が悪いのは間違いない。

山口遼. 「戦術脳」を鍛える最先端トレーニングの教科書 欧州サッカーの新機軸「戦術的ピリオダイゼーション」実践編 (Japanese Edition) (Kindle Locations 151-160). Kindle Edition.

「筋力トレーニング」の部分を何かしらの下位技能のトレーニング(発音練習とか単語を書いて覚えるとか)に置き換えて考えれば,言語能力を高めるトレーニングと実際の言語使用の間のズレの話でも同じことだと思います。つまり,実際に言語使用する際には(単一の技能だけに限らずどの技能でもまたは技能統合が要求される場合でも),非常に複雑な意思決定が瞬時に求められますよね。もちろんサッカーの試合のように90分みたいな時間それが続くことはあまりないにせよ(ただ,極端な話10秒以内で完結する場合もあれば,仕事で英語を使うみたいな場面なら90分どころか1日中というケースだってありうる)。だからこそ,教室の中でどれだけリアリティを意識させながらトレーニングするかというのが重要になってくるわけです。前述のように,そのヒントとしてタスクの定義はヒントになりそうだよねということです。

トレーニングを要素や局面ごとに分割し、例えばパスだけ、シュートだけ、1対1だけ、というような環境との相互作用が存在しないトレーニングを行うと、実際の試合で経験するリアリティが欠けた状態になってしまう。ゆえに、戦術的ピリオダイゼーションでは、サッカーを構成する要素が包括的に含まれていることが推奨されている。

山口遼. 「戦術脳」を鍛える最先端トレーニングの教科書 欧州サッカーの新機軸「戦術的ピリオダイゼーション」実践編 (Japanese Edition) (Kindle Locations 354-357). Kindle Edition.

「包括的に含まれている」という部分と,「環境との相互作用」が大事だと思います。つまり,サッカーというのはその試合を構成する要素や技能に分解して練習し,それを向上させてもチーム全体のシステムの向上にはつながるわけではない,とか,個々人の能力の向上がチーム全体のシステムの向上につながるわけではない,といえそうです。

ただし,それってじゃあひたすら試合と同じ11対11の試合をやるしかないってこと?って話になりますよね。著者の主張は(もちろん私の主張も)そういうことではありません。

システムの中にあるサブシステムに着目し,そのサブシステムを対象としたトレーニングを行うことが推奨されています。

戦術的ピリオダイゼーションで推奨されるトレーニングは、「試合で起こる状況や構造を再現し、パフォーマンスを様々な階層間で最適化していくこと」と言い換えることができる。

山口遼. 「戦術脳」を鍛える最先端トレーニングの教科書 欧州サッカーの新機軸「戦術的ピリオダイゼーション」実践編 (Japanese Edition) (Kindle Locations 384-386). Kindle Edition.

例えばサッカーでは,自陣からパスをつないで相手の守備をくぐり抜けて前進していくことをビルドアップと言ったりします。そこで,ディフェンスの選手がどうやって相手のプレッシャーを回避して中盤の選手や前線の選手にボールを届けるのか,という部分のトレーニングをするとします。これがサッカーというゲームの中のある種のサブシステムといえます。そして,そのサブシステムの中でもさらに,例えばDFラインのサイドの選手にボールが入ったときに守備的な中盤の選手(ボランチといわれる役割の選手)がどうやってサポートに入るのかといったもっと小さなサブシステムにフォーカスして,このサブシステムがどうなれば上位のシステムや全体のシステムが向上するのかを考えるということです。

言語使用をシステムだと考えるのであれば,じゃあその時のサブシステムとは何になるか,というのは考えてみる価値のある問いではないかと思いました。また,そのときに,どのような規模のサブシステムを取り出したときにも共通する構造(この本ではサッカーでいうそれは「ボール」,「目的地」,「スペース」,「切り替え」などだと言われています)を見つけることができれば,それを含んだトレーニングを考えればよいことになります。この点は私の中でも答えはまだ出ていませんが,実践編としてトレーニングメニュー実例集というのが第4章にあります。ここでゲームモデルをどうやってトレーニングメニューに落とし込んでいるのかを読み解くことで,その考え方を概念的に言語指導にも応用できないかを考えることはできるかもしれないと思っています。

おわりに

本当は,このあとのセクションで上掲書のもう一つの肝であるゲームモデルとプレー原則という話も英語教育に引きつけて語ることができそうだなと思ったのですが,複雑系の話に出てくる概念やサッカーの説明が思いのほか長くなってしまい,1つの記事にまとめると10,000字を超えてしまいそうでした。そこで,とりあえず第2弾の記事はここで一旦おしまいということにして,第3弾でゲームモデルとプレー原則の話をメインとした記事を公開しようと思います。前述のとおり,上掲書には実践的な部分も含まれていて,具体的なトレーニング方法についても豊富に紹介されています。この第4章の考察も第3弾かまたはその次の記事として書けるかなと思います。そして,第5章ではゲームモデルを持たないのに優れたシステムとして機能しているように見えるチームの例としてスペインのレアル・マドリーが紹介されています。このレアル・マドリーはどういう仕組みでうまくいっているのかについての分析も非常に興味深く,レアル・マドリー的なアプローチも言語教育の視点で考えることができると思いました。このこともまたブログに書こうと思います。というわけで,2本で終わるつもりがなんだかこのブログ始まって以来の大型連載みたいになってきました(笑)

少し前まではブログ書くこと全然ないなと思っていたわけですが,やっぱりインプットをすれば何かを書きたくなるもので,インプットが足りていなかったのかなと今は思っています(インプットしていなかったわけではまったくないんですけどね)。夏休みで時間に余裕がありますし,専門の本も,そうでない本も,もっと読む夏休みにしたいなと思います(もちろんそれ以外にもやることはあるしやってるんですが)。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

[R] mutateとacrossでデータの下処理を少しだけエレガントに

まえおき

私はdplyrは5年前くらいから使っていて,自分が扱うようなデータについて自分がやりたいことを(その表現方法のエレガントさは別として)表現することはできていました。ただ,近年dplyrはアップデートを重ねていました。昔覚えたやり方でやろうとしても,その関数は使えませんとか,その表記方法は違いますとか言われることが増えました。分析の下処理でやりたいことは基本的に研究が変わらないので同じです。よって,過去に自分が書いたスクリプトのコピペをすることが多いわけです。それができなくなっていたと。

特に,最近の更新でacross()という関数が導入されたことが変更として大きいなと思います。まだまだこのacross()に関する記事も少なかったので,自分が使うにあたって覚えたことをメモ代わりに書いておきます。ここでは,mutate関数と一緒に使うケースです。つまり,ある特定の列について,ある処理を施して,その処理を施した列をデータフレームに追加するという作業です。単純に列に対して処理を施すだけというのは結構記事があったんですが,列を追加することについては全部列挙するみたいな方法しか見つかりませんでした。そこでacross関数の出番というわけですね。

やりたいこと

例えば,今やってる研究のデータでは,データフレームの中に頻度のデータが入っています。これをログ変換したいとします。すると,これまでは以下のように書いていました。

log(dat$ColFreq)->dat$ColFreq_log #コロケーション頻度
log(dat$AdjFreq)->dat$AdjFreq_log #コロケーション内の形容詞の頻度
log(dat$NounFreq)->dat$NounFreq_log #コロケーション内の名詞の頻度
log(dat$MIScore)->dat$MIScore_log #Mutual Information Score

別にコピペ&書き換えみたいなことをしながらやればいいし,これでだめだってことはないんですけど,複数の列について

  1. 同じ関数を適用
  2. 列を追加する

という同じ動作をしているわけなので,これは一気にできたほうが応用可能性があがります。私は手作業でやるの無理みたいな列数のデータを扱うことはないんですが,もし仮にそういうデータを扱う場合には何十行も使うのは好ましくないし無駄な作業だといえます。そこで列に対して処理を施して追加するという機能があるmutate関数と,それを複数列に適用する際に便利なacross関数を組み合わせます。

やりかた

ちなみに,なんだかんだでdplyrのパッケージのPDFが一番わかりやすかったです(pp. 3-6のacross関数のセクションとpp. 43-46のmutate関数のセクション)。across関数の引数は,列(.cols),関数(.fns),追加する列の名前(.names)という3つの引数があります。よって,今回のケースで言えば列のところで頻度情報が入ってる列を選択し,関数はlogを選べばOKです。ただ,.namesがないと情報を上書きしてしまいます。.namesのところは手書きで全部列名指定してやらなかんのかと思いましたが,そんなことはありません。”{.col}”を使えば,もとの列名を使えます。これにあとは自分で好きなタグのようなものをつけてあげればいいですね。”{.fn}”というのも使えて,これは使った関数名が入ります。

ということで,以下のようにすれば頻度情報にログ変換して列追加という作業ができます。

dat%>%
  mutate(across(c(ColFreq, AdjFreq, NounFreq, MIScore),log,.names = "{.col}_log"))->dat

.namesの部分は”{.col}_log”としていますが,”{.col}_{.fn}”でも同じです。dat$ColFreq_log, dat$AdjFreq_log,dat$NounFreq_log,dat$MIScore_logという4つの列が追加されます。ちなみに,列指定の部分は列の数値(e.g., 1, 2)でも可能です。頻度の情報が5~8列目にあるなら,次のように書くこともできます。ある特定の文字列が含まれる列を選ぶcontains()関数starts_with()関数とかも使えるはずです(こういうのは調べれば結構例があります)。

dat%>%
  mutate(across(5:8,log,.names = "{.col}_log"))->dat

ちょっと応用

さて,mutate関数とacross関数でたいぶすっきりしたコードを書くことができました。そこでふと,私がもう一ついつも下処理で複数列に適用する作業を思い出しました。それは,変数の標準化です。いつもなら次のようにしてました。

dat$z.oqpt <-scale(dat$oqpt)[,1] #Oxford Placement Testの点数の中心化
dat$z.rating <-scale(dat$rating)[,1] #評定値の中心化

これも別に2行だけなので大したことないんですが,やってることは先ほどのログ変換と同じですので,これもmutate関数を使って書き直してみましょう。次のようになります。

dat%>%
  mutate(across(c(oqpt,rating),scale,.names = "z.{.col}"))->dat

これでうまくいっているようにも見えますが,実はscale関数って出力された結果がベクトルではありません(データ型を調べるとmatrix型なのがわかります)。よって,大抵の場合は分析に問題はありませんが,あとで(私の場合だと分析結果の図示とか)ベクトル形式が求められる関数に渡した際に問題が発生することがよくあります。データフレームをただ眺めるだけではそのことはわからないので,次のように工夫してあげる必要があります。

dat%>%
  mutate(across(c(oqpt,rating),~scale(.x)[,1],.names = "z.{.col}"))->dat

さきほどと関数部分の書き方が変わっているのがわかると思います。このように”~”をつける書記法はpurrr-styleと呼ばれるそうですが,これは一般的には関数内の引数を指定する場合によく用いられます。例えば,~mean(.x, na.rm=T) のように使います。”na.rm=T”は欠損値は外して関数を適用するという設定のようなものです。今回は引数の設定ではなく,~scale(.x)[,1]としています。”[,1]”とすることで,行列の1つ目の要素(つまりこれは標準化された数値のベクトル)だけを出力してくれます。ちなみに,この方法で.namesに{.fn}をつかって次のようにすると,出力される列名はoqpt_1, rating_1のようになりました(理由は不明)。

dat%>%
  mutate(across(c(oqpt,rating),~scale(.x)[,1],.names = "{.col}_{.fn}"))->dat

おわりに

というわけで,改良されているんだろうけれども前のやり方に慣れてるこっちからしたらアップデートたびにコードを書き換えるのまじで面倒…って思っていたのですが,調べてみるとやっぱり便利でしたというお話でした。

またこういう系のことで新しく覚えたことがあれば記事に書こうと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

サッカーと英語教育の交差点(1)

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はじめに

『2050年W杯 日本代表優勝プラン』という本を読みました。東京五輪で日本の男子サッカーチームは準決勝でスペイン代表に破れ,そして三位決定戦ではメキシコに破れました。金メダルを目標として掲げていましたが,2012年ロンドン五輪の4位をまたしても上回ることができませんでした。地元開催で招集メンバーもベストというアドバンテージを活かせず,メダルにも届かなかったという事実を受け止め,ここから強くなるためにはどうすればいいんだろうと思っていました。そんななかでこの本を見つけたので読み始めたわけです。

また,その流れで別の本も読んでいます。

この2冊の本を読んでいくうちに,いくつか自分の職業的興味である英語教育の部分にも当てはまるなと思うような話がいくつか出てきました。この記事では適宜引用しながらサッカーの話を英語教育の話に置き換えてその「交差点」を描きたいなと思っています(風呂敷広げすぎ)。

応用力と判断力

『2050年W杯 日本代表優勝プラン』の第3章「2050年までの選手育成プラン」の中に以下の記述があります。

林舞輝さんがスキーマセオリーでのシュート練習(常にシチュエーションを変えて行う)の話をしていたけど、あれはホントにその通りだなと思います。特に日本人は「応用力が足りない」とか「臨機応変が苦手」とか「とっさの判断が」とか言われがちなので、なおさら。

川端暁彦,浅野賀一. 2050年W杯 日本代表優勝プラン (Japanese Edition) (Kindle Locations 1627-1629). Kindle Edition.

サッカーというスポーツは11人対11人で行われるスポーツですが,近年では選手の身体能力が飛躍的に向上したことを背景に,プレー中に瞬時の判断が連続的に求められる非常にスピーディな展開が世界の最先端となっています。W杯で優勝することを考えると,そのレベルでのプレーが求められるわけです。ただ,サッカー界では昔から日本人は監督に言われたことはできるが自分たちで判断するのが苦手だと言われ続けていました。

これは英語教育で言われている問題,「学校で英語を学んでも実際に英語を使うことはできない」みたいな話と通底する部分もあるかもしれないなと思いました。おそらくどちらにも共通するのは,実際に力を発揮すべき場面が想定された練習(トレーニング)がされているかという点だと思います。サッカーであれば試合が本番で,そこで最大限のパフォーマンスをするために練習します。言語使用であれば,実際の言語使用場面を想定してトレーニングをしないと,練習のための練習になってしまいますし,練習でやった場面が試合中に現れないとしたら,練習の成果を本番で発揮することができないわけです。サッカーの試合であれ現実の言語使用場面であれ,様々な要素が複雑に絡みあって予測不能な展開が発生するものです。それに対応できるようにするためには,その予測不能な展開が発生する状況を練習の中で意図的に作り出す必要があるわけですよね。この点で,サッカーの試合で求められる「応用力」と,言語使用場面で求められる「応用力」は割と近いものがあるんじゃないかなと思っています。

サッカーでは「止める,蹴る」という言葉が最近バズワードになりつつあって,それはJ1リーグで首位を独走する川崎フロンターレの躍進とも関係が深いです。つまり,「(ボールを)止める,蹴る」という基礎技術の正確性にこだわることがサッカーの質的向上をもたらすということですね。先述のように,現代サッカーはボール保持時の余裕がない状況がどんどん増えていますから,その状況でも正確にボールを扱える技術がレベルがあがればあがるほど重要になります。サッカー初心者でこれがまったくできない人にとっては,この基礎技術だけを取り出して,敵もいない状況で,ひたすら転がってきたボールを足元に止めて,正確なキックで相手にボールを渡す練習をする必要があるでしょう。しかし,実際の試合では自分の体の向きやボールを受ける場所,味方との距離や方向,そして相手の位置も刻々と変化し,その中で正確な技術を出すことが求められるわけです。よって,「止める,蹴る」の技術向上を目指したとしても,少しでも試合で起こりうる「止める,蹴る」の状況の中で練習する必要があるでしょう。これを言語教育にうまく置き換えて練習を考えられるかどうかというのは私が個人的に挑んでみたい課題です。

さて,こうしたサッカーの練習に対する考え方の背景にあるのが,サッカーに関わる要素を分解して取り出して向上させようとしても,それが全体の向上につながるわけではないという考え方です。つまり,要素還元主義を否定し,サッカーを複雑系と捉えなおすということになります。この考え方に基づいているのが,「戦術的ピリオダイゼーション」という概念です。

こうしたことを考えていたら,結局サッカーでも英語教育でも,日本人はだめだみたいな言説の根っこにある問題って共通しているのかもしれないなと思ったわけです。もちろん,学校の教育はプロサッカー選手の育成や日本代表が世界で勝つみたいなことを目指した育成とはぜんぜん違う論理のもとで行われていることです。ただし,サッカーと言語使用というのは,どちらも複雑系であるという点で共通点があると思います。したがって,サッカーのレベル向上を目指す試みの中には,言語使用のレベル向上を目指す営み(としての英語教育)にも示唆があるのではないかと思っています。

指導者としての態度

W杯で優勝するためには,そのための選手を育成する必要があります。書籍紹介でも「30年後の主力選手はまだ生まれていない!」という記述がありますが,『2050年W杯 日本代表優勝プラン』の第4章「2050年までの指導者育成プラン」はそうした選手を育てる指導者についての話です。その中に,長崎総合科学大学附属高等学校の小嶺監督に言及した次のような記述があります。

現代っ子に響く言葉、態度を探している。言われていたのが「最近の子どもは変わってしまったから難しいとか言うけど、それは指導者として言い訳だろう」と。「子どもが変わって指導が響かなくなってるなら、響かせる指導に変えないといけない。それでこそ指導者だ」と言うんですね。あと、「そもそも昔が美化されちゃうだけで、子どもはそんなに変わっていないよ」とも言っていましたが(笑)。(強調は筆者)

川端暁彦,浅野賀一. 2050年W杯 日本代表優勝プラン (Japanese Edition) (Kindle Locations 2537-2541). Kindle Edition.

これは教育という仕事に携わるものとしてぐさっときました。別に教育にかかわらず一般的に,「最近のXXは」(XXには若者,学生,新卒など若年層の集団を表す言葉が色々入ると思います)で始まる否定的な言説はよくあると思います。教育という行為自体が教師-児童・生徒という関係性にの基づいて何らかの知識や技術を身に着け「させる」ことから完全に逃れることができない以上,そこに相手を変えようという暗黙的な気持ちが入り込む余地は大いにあります。そういう状況で自分のやり方がうまくいかなかったときに,ベクトルを自分に向けられるかどうかっていうことですよね。

少し英語教育からは話がずれますが,上記引用のあとには次のような浅野さんの発言があります。

フットボリスタ(筆者注:著者の一人である浅野さんが編集長を務めるサッカー雑誌)でも取り上げたメンタルコーチのメソッドで再三言われたのが「自分でコントロールできないことに意識を割かないこと」。たとえば、そのメンタルコーチによると試合に出られない選手はたいてい「監督が使ってくれない」と言うと。ただ、監督が自分を試合に使ってくれるかどうかは監督が決めることでコントロールできない。そうじゃなくて、自分の成長にフォーカスすべきだ。それは具体的に計測できるものがいい。そうやって自分が成長すれば、結果的に試合にだって出られるようになるかもしれない。(強調は筆者)

川端暁彦,浅野賀一. 2050年W杯 日本代表優勝プラン (Japanese Edition) (Kindle Locations 2545-2549). Kindle Edition.

私は大学教員・研究者という職業柄,上司に「使ってもらう」ような仕事はしてませんが,自分がコントロールできないことに意識を割かない,というのは生きていく上で重要だと思っているので,日々このことを意識しながら生活しています。

そして,このあとにもまた指導者の話に戻ります。

川端:ただ、理屈ではわかっていても実践するのは簡単ではない。特に一度『成功』してしまった人ほど難しいと思う。よく小学生とかで活躍しすぎるとよくないみたいに言うけど、それもこういうところだと思う。努力や工夫ではなく、結果を褒められちゃうだろうし。

浅野:成功したそのやり方が正しいとなっちゃうしね。下手な成功体験は怖い。

川端:よく「正解を教えるんじゃなくて試行錯誤させなさい」というのも、そういうことだと思います。別の機会で壁に当たったとき、新しい道を探そうというマインドを持っていること自体が大事というか。

浅野:特に若いうちはそれだよね。

川端:正解を教えて助けてあげたくなっちゃうのも人情ですけどね(笑)。それで教えて感謝されたことで満足しちゃう指導者は、やっぱり二流なんだと思います。(強調は筆者)

川端暁彦,浅野賀一. 2050年W杯 日本代表優勝プラン (Japanese Edition) (Kindle Locations 2552-2560). Kindle Edition.

私も,正解を教えるのはあまり好きじゃないんですよね。でも,教えられる側(学生側)からしたら,「(周りに間違えたって思われるから)間違えたくないし間違えたら(先生から)怒られるんだから,最初からどうしたらいいか教えてくれたらそのとおりにやりますよ」っていうマインドなんじゃないかなと思っています。大学教員としての私の仕事は,その価値観を揺さぶることだと思っています。間違えたって怒らないしそもそも世の中でぶち当たる問題のほとんどには「これだ」という唯一の正解なんてないものなわけです。そのときに大事なのは,浅野さんの言葉にあるように自分で何が正解か,どうやって解決すべきかを考えようとすることだと思います。言語学習も同じようなもので,なかなか正解を1つに決めるのが難しいですし,要素還元主義的に学習をすることも(そのほうが学習者にとっては馴染みがあるし取り組みやすいものだとしても)推奨しづらいのです。だからこそ,教える側もわかりやすさを求めたり,正解を教えて満足しちゃう方に流れがちです。そこで一度踏ん張って自分にベクトルを向けて,指導者として一流になりたいなと思います。

ひとまずおわりに

少し長くなったので,続きはまた別の記事で書こうと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

吉田麻也選手のインタビュー動画

真面目に話すところと冗談を交えるところが絶妙で,こういうところもキャプテンとして信頼を集める理由なんだろうなと思いました。

【東京五輪後初インタビュー】キャプテン吉田麻也が大会を振り返る

五輪が終わった後にこういう長いインタビューを受けることもすごいです。もうヨーロッパのリーグはいよいよ開幕で,少しでも早く日本を発ってチームに合流したいという気持ちだってあったはず。

キャプテンとしてどう振る舞うか,どういう言葉をかけるか,チームメイトの小さな変化を見逃さない観察力,などなど,自分は吉田麻也選手と同い年だけどまだまだ若手のポジションですが,自分が上になったときに参考になるなと思いました。この人の文章は人気出るんじゃないかと思ったら,2018年に本出してるみたいですね。買って読んでみようと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。