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不明 のアバター

Yu Tamura について

第二言語習得の研究者。博士(学術)。英語教育のことや統計・データ分析に関わること、趣味のサッカーのことなどについて書いています。

人と話すこと

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いつからだろう。人と話すのが苦手だなと感じるようになったのは。昔から人見知りだったのは間違いない。初めて会う人と上手に話をするのは苦手だった。でも,家族と過ごしているときはいつでもずっと自分が喋っていて,そういう意味では「おしゃべり」というラベリングをされて育ってきたと思う。「5分黙ってたらお小遣いあげるから」とか母親に言われて。もちろん黙ってられなかったわけだけど。

学校生活でも,誰かと喋らずにはいられなかった思い出がある。中学の時も,高校の時も,授業中に隣や後ろのクラスメイトと(それが男子でも女子でも)ずっと喋っていてよく注意されていたような気がする。それに,先生の発問に対しても自分が当てられてないのに答えをいうこともあったらしい。久しぶりにログインしたmixiで友達からの紹介メッセージが並ぶページを見ていたら,高校3年生のときのクラスメイトが英語の授業のときにいつも私が答えを言ってしまうことが嫌だったというようなことを書いていた。全然覚えてないけど,そういうことがあっても不思議ではない。

大学に入ってからも,授業中はいつも喋っていたし,1年次のとある授業のとき,温厚で優しい先生(3, 4年次はその先生のゼミにも出ていたし,卒業してからも定期的に食事を行くほど仲良かった)に教室から出ていけと言われたのも今でも覚えている。

でもいつからか,喋らなくなっていったと思う。おそらく私が大学を卒業して以降に私と知り合った人は,私のことを「おしゃべり」と思ったりすることなんてないだろうと思う。いつからか,自分が話すことがつまらなくて価値のないことのように思えてきた。面白い話,価値のある話ができないなら,その話を聞かなくてはいけない相手に迷惑なので話さないほうがましだと思うようになった(それはきっと,自分が面白い話や価値のある話以外は聞く価値がないと心のどこかで思っているのかもしれないと疑っている)。

特に,”How was your day?”みたいな感じで聞かれるのがおそろしく苦手なのだ。なんのへんてつもない日常なのだから,取り立てて会話の話題になるようなものでもないし,それをそのまま話しても何も面白くない。仮に自分が話し相手として聞いたら「へえ〜」としか言いようがないことしかないような毎日だからだ。2011年にTwitterを初めてからは,しょっちゅうツイートしてた。面白くもない話を延々と。それに,毎日の出来事についてもツイートしてた。誰も興味ないのに。それがTwitterだから良かった。自分も若かったので周りなんか気にしてなかった。まあそういう使い方が本来の”tweet”であるべきなのだ。今でもそれなりにツイートする数は多いほうだと思うけれど,昔に比べたらずいぶん減ったと思うし,ツイートしようと思ってやめるということも増えてきたように思う。それでも,人と話すよりはツイートするほうがよっぽど楽なのだ。なぜなら相手からの反応がなくて当然だから。

皮肉なことに,そういう人間が人前で話すことを仕事にしているわけだ(しかもコミュニケーションを重視した授業とかやっちゃってる)。授業中も,あまり自分が話す時間が長くなると苦痛だと感じる事が多い。それでも,そうではない場面(日常生活における会話)よりはさほど話すことに苦痛を感じないのは,きっとそこに権威性が存在しているからだと思う。教員は話すのが当然で,学生はその話を聞くのが当然であるというような。でも本音で言えばそういう権力関係がある状態で話すのは本当に辛い。常に,自分の話を苦痛に思いながら聞いている学生に申し訳ないなと思ってしまうからだ。そうやって話す側と聞く側のパワーバランスがはっきりしている場面で話すのは(そうじゃない場面の会話のほうがむしろ少ないのが普通かもしれないが),メンタルのリソースを著しく奪う。研究発表もそうだし,経験は数えることしかないがセミナーだったりワークショップだったりの講師となるとその傾向がより強くなる。

昔は『スラムダンク』のフクちゃんのように,「もっとホメてくれ」と思っていた。自分という存在が他者からの承認をうけるべきだと思っていた時代があった。ところがいつしか,ゲーム・オブ・スローンズでいう”no one”のほうが心地よく感じるようになった(そこに作中で描かれるような信仰はないにせよ)。自分のアイデンティティを真っ白なものとして生きるほうが楽に感じるのだ。そこには背負うべきものが何もないから。だからこそ,その道を捨てて私はアリア・スタークだと言って自分のアリア・スタークとしての役割(責任)を全うした(自分が自分であることを引き受けた)アリアは尊いのだ(もしゲーム・オブ・スローンズをご覧になっておらず,なおかつ観ようとしている人がいたとしたら唐突のネタバレになってしまうことを大変申し訳なく思う)。

自分が何者でもないと思うことはそう簡単なことではないと思う。誰だって,自分は人から承認されるべきなにかを持っていて,それがこの社会に何かしらの意味を与えていて,それが自分が生きることを肯定する材料になっていると思いたいものだと思う。だって,この世の中でそういう人たちが称賛を受けている,そういう世の中で生きているのだから。だがしかし,本来はそんなことはどうだっていいのだ。世の中の役に立つとか立たないとか,「生産性」があるとかないとか,そんなことに関係なく人は生きる権利があり,人権をもっているのだ。そうやって自分以外の他者をリスペクトすることはできるのに,自分を肯定できないことのジレンマにきっと今陥っているのだと思う。

人と話すことに戻ろう。私はもともと,どちらかというと年上の人といるほうが気が楽なタイプだ。家族の中でも自分が一番下で(2歳年上の姉がいる),昔から年上の人と過ごす機会のほうが年下の人と過ごす機会よりも多い中でずっときたこともあるかもしれない(近所に年上の人が多くいたのと,家族ぐるみの付き合いがあったのが姉と同い年の家族だった)。高校,大学と,上下関係がより強調されるような環境で自分が上になったとき,あまり年下とうまく人間関係を築くことができなかったし(高校にいたっては年下とほとんど接点がないといっていい),苦手だからそういうのを避けてきたと思う。大学のときはそれでも何人か仲良しな後輩もいたかもしれない(専修の中では何人か思い浮かぶ。どちらかというとサークルの後輩は親しみやすい子が多くて自分も楽しかった記憶が多い)。大学院でも,先輩とうまくやるより後輩とうまくやるほうが難しいと思っていたし,結局あまりうまくやれなかったと今でも思っている(自分の先輩が偉大すぎたという言い訳くらいしてもいいはずだ)。

本当はつまらない話をしたっていいし,面白くなくたっていいし,たわいもない話こそが人間が本当に必要としてる会話なんだと思う。そのはずなのに,たわいもない話をするのが苦手なのだ。きっと昔は,人がどう思ってるかなんて何も考えずにしゃべることができたし,周りも聞いてくれたから自分が喋りたいように喋っていただけなんだと今になっては思う。その結果として,話を聞く側に対する想像力がほとんど育たなかったのだ。だからこそ,自分の話を相手が聞いた時にどう思うかがわからなくて,問題が起こることが増えた(問題が顕在化することが増えたという方が適切かもしれない)。オトナになると(本来オトナコドモ関係ないんだが),自分が喋りたいことだけ喋っていればいいようでもなくなってくるから難しい。そのことが,自分がなにかを話したところで相手は「へえ〜」しか言うことないよねで片付けてしまうような思考回路になってしまっている要因かもしれない。

とはいえ,「くだらないことだって話していい」は世の中でそこまで受け入れられてないのかもしれないと思ったりもする。だからこそ,お金を払ってどんな話(それでも許容範囲はあるだろうが,他の場所よりは許容範囲がおそらく広いと思われる)でも聞いてくれる場所に足繁く通うオトナがいるんだろうと思う(典型的な例がキャバクラ)。きっとそういう人は,聞いてもらえる感覚がない(不特定多数に発信する)ようなツイートでは満たされることはないのだろうなと思う。別に軽蔑ではなくて,むしろ気持ちはよくわかるなと思う。おそらく20代前半くらいの若者だったときは,お金を払うなら性的サービスが受けられるところにいくでしょって思ったと思う(そういう経験は人生で大学生のときの1度きりしかかないが)。むしろ,性的サービスですら,お金を払わなくても女性を口説けば事足りるのにって思っていたと思う。

私は88年生まれの33歳だが,今同じことは思わない。それは金銭感覚が学生のそれとは違うというのも大きいだろう。時間的コストをお金で買えるという考えになったといってもいいかもしれない。しかしながら,それと同時にあのときはなぜそんなエネルギーがあったのだろうとも思ったりする。若いってすごい。純粋なスポーツテストで測定されるような「体力」ではないようなエネルギーがあった。今はない。だから,自分よりひと回りも(場合によってはふた回りも)年上の人がギラギラしてるのをたまに見かけたりすると,最近はすごいなと思うようになった。その年でもそんなエネルギーあるなんてすごいですねって。リスペクト。それこそが「生きるチカラ」なんじゃないかと思わざるを得ない。

私にはそういう「生きるチカラ」なるものが欠けていると思う。それに加えて,自分という人間の人生について,それが自分だけのものであるという妄想も抱かないようになった。むしろ全くの逆で,自分の人生は他者の存在なしにはありえないものだと思うようになった。自分が生きているのは自分の意志ではないとすら思うくらいだ。自分の意志だけで生きていけるほど強くない。少なくとも自分はそんな超人的な精神力を持ち合わせていない。自分が死んだら困る人がいる(悲しむかどうかではなく困るかどうか)だろうなと思うから,まあそれなら生きてるほうが世の中のためかと思う。

こんな話も,誰か人にするもんじゃないからここに書いている。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

サッカーと英語教育の交差点(2)

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はじめに

先日書いた以下の記事の続編です。サッカーに全く興味がないという方もいらっしゃるかもしれませんが,そういう方もぜひ「急に脱線しますね」のセクションだけでも読んでいただけると嬉しいです。

サッカーと英語教育の交差点(1)

下記の本も読み終わったので,本の中で英語教育と結びつけて考えられるなと思ったところを引用しながら記事にしたいと思います。

前回書いたことをざっくり振り返ると,要するにサッカーというスポーツの競技力を向上させることと,言語能力を向上させることの間には共通点がたくさんあるんじゃないかということですね。そして,そのキーワードは「複雑系」です。これまでも,言語能力の発達を複雑系で捉えることだったり,あるいは特にTask-based Language Teachingの文脈で身体技能の発達を例にとって言語能力の発達を捉えるみたいなことは「話の種として」出されることはあったように思います。

私が記憶している中だと,浦野先生が自転車に乗る話の例を出したり,松村さんがジムでゴルフのトレーニングをする子供の話をだしたりという感じです。この戦術的ピリオダイゼーションの本は,そういった例をもう一つ上のレベルに引き上げてくれると思っています。なぜなら,サッカーという複雑なシステムを捉える目を持ちながら,それを具体的にどうやってトレーニングに落とし込むのかという視点もあるからです。もちろん,サッカーの練習のことを学んだって,と思われるかもしれませんが,サッカーという複雑なゲームをどうやって要素還元主義に陥らずにトレーニングに落とし込むのかという「考え方」それ自体は,言語能力という複雑なものをどうやって要素還元主義に陥らずに指導できるか,ということを考えるヒントを与えてくれると思うからです。

よって,サッカーに興味がある言語教育関係者はとにかく上記の本を読んでみることをおすすめします。途中の具体的なトレーニング例は,何を意識しているのかさえ理解すればあとはさっと流し読みする程度でいいと思います。

急に脱線しますね

長々となってしまうかもしれないので,先に結論言っておきますが,私は戦術的ピリオダイゼーションのような考え方でサッカーの練習を考えるのと非常に似た思想がTask-based Language Teachingであると思っています。また,タスクとはなにか,とかタスクの定義,と言われるようなものがなぜ大事であるのかというのは,タスクでなくてはいけないから,とかそういうことじゃなくて,その定義を満たすような活動(サッカーでいえば練習)を設計することによって,実際の言語使用場面(サッカーでいえば実際の試合)を意識したトレーニングをすることができるからです。よって,「これってタスクですか?」「それはタスクではありません」みたいなやりとりが不毛なのはその部分の共通理解が不足しているからだと思っています。つまり,実際に私達が言語を使用する時の状況に近づけるように言語活動を設定しようと思ったときに,その指針としてタスクの定義というものが有益であるということです。

実はまさにこのことをテーマにした共著の論文を昔書いたことがあります。

福田純也・田村祐・栗田朱莉(2017)「中学校教科書における口頭コミュニケーションを志向した活動の分析―第二言語習得研究におけるタスク基準からの逸脱に焦点をあてて―」JALT Journal, 36, 165182.

この論文は無料で読めるし日本語で書いてあるのに(だから?)ほとんど引用されることがないのが悲しいですが,タスクの定義( e.g., 意味中心,ギャップがある,リソースの指定がない,結果としての成果がある)というものを使ってコミュニケーション活動を良くするにはどうしたらいいかを研究の知見を借りて考えてみましたというような論文です。別に目新しいこと言ってるわけでもなんでもないんですが,タスクの定義というものがなぜ実践的に価値があるのかについて述べた論考です。

「サッカーはサッカーでしかうまくならない」

さて,ここからが本題です。

前回の記事でもこのことが書いてある一節を紹介したのですが,もう少し具体的なことが書いてある箇所を引用します。

例えばハードな筋力トレーニングをこなしたにもかかわらず、実際のゲームやトレーニングでのデュエル(1対1の競り合い)に勝てないという現象はよく見られる。だが、実際にプレー中に起きる「ぶつかり合い」を分析してみると、そこにはあまりにも複雑なプロセスが関連していることがわかるはずだ。相手がどの方向からどのような状態で自分に向かってくるのかを認知すること、その場面における最適なプレー方向やプレー方法を選択するための意思決定をすること、相手をブロックしながらもボールのコントロールを失わないための身体のコントロールを維持することなどを一瞬のうちに同時並行で行うことが求められる。しかも、このような複合的な動作は90分の間休むことなく続き、しかも自分の他にも味方の10人、相手の11人も同様の意思決定を行い続けている。このように考えると、単純な筋力トレーニングだけで試合におけるデュエルの勝率を改善するのは不可能とは言わないが、効率が悪いのは間違いない。

山口遼. 「戦術脳」を鍛える最先端トレーニングの教科書 欧州サッカーの新機軸「戦術的ピリオダイゼーション」実践編 (Japanese Edition) (Kindle Locations 151-160). Kindle Edition.

「筋力トレーニング」の部分を何かしらの下位技能のトレーニング(発音練習とか単語を書いて覚えるとか)に置き換えて考えれば,言語能力を高めるトレーニングと実際の言語使用の間のズレの話でも同じことだと思います。つまり,実際に言語使用する際には(単一の技能だけに限らずどの技能でもまたは技能統合が要求される場合でも),非常に複雑な意思決定が瞬時に求められますよね。もちろんサッカーの試合のように90分みたいな時間それが続くことはあまりないにせよ(ただ,極端な話10秒以内で完結する場合もあれば,仕事で英語を使うみたいな場面なら90分どころか1日中というケースだってありうる)。だからこそ,教室の中でどれだけリアリティを意識させながらトレーニングするかというのが重要になってくるわけです。前述のように,そのヒントとしてタスクの定義はヒントになりそうだよねということです。

トレーニングを要素や局面ごとに分割し、例えばパスだけ、シュートだけ、1対1だけ、というような環境との相互作用が存在しないトレーニングを行うと、実際の試合で経験するリアリティが欠けた状態になってしまう。ゆえに、戦術的ピリオダイゼーションでは、サッカーを構成する要素が包括的に含まれていることが推奨されている。

山口遼. 「戦術脳」を鍛える最先端トレーニングの教科書 欧州サッカーの新機軸「戦術的ピリオダイゼーション」実践編 (Japanese Edition) (Kindle Locations 354-357). Kindle Edition.

「包括的に含まれている」という部分と,「環境との相互作用」が大事だと思います。つまり,サッカーというのはその試合を構成する要素や技能に分解して練習し,それを向上させてもチーム全体のシステムの向上にはつながるわけではない,とか,個々人の能力の向上がチーム全体のシステムの向上につながるわけではない,といえそうです。

ただし,それってじゃあひたすら試合と同じ11対11の試合をやるしかないってこと?って話になりますよね。著者の主張は(もちろん私の主張も)そういうことではありません。

システムの中にあるサブシステムに着目し,そのサブシステムを対象としたトレーニングを行うことが推奨されています。

戦術的ピリオダイゼーションで推奨されるトレーニングは、「試合で起こる状況や構造を再現し、パフォーマンスを様々な階層間で最適化していくこと」と言い換えることができる。

山口遼. 「戦術脳」を鍛える最先端トレーニングの教科書 欧州サッカーの新機軸「戦術的ピリオダイゼーション」実践編 (Japanese Edition) (Kindle Locations 384-386). Kindle Edition.

例えばサッカーでは,自陣からパスをつないで相手の守備をくぐり抜けて前進していくことをビルドアップと言ったりします。そこで,ディフェンスの選手がどうやって相手のプレッシャーを回避して中盤の選手や前線の選手にボールを届けるのか,という部分のトレーニングをするとします。これがサッカーというゲームの中のある種のサブシステムといえます。そして,そのサブシステムの中でもさらに,例えばDFラインのサイドの選手にボールが入ったときに守備的な中盤の選手(ボランチといわれる役割の選手)がどうやってサポートに入るのかといったもっと小さなサブシステムにフォーカスして,このサブシステムがどうなれば上位のシステムや全体のシステムが向上するのかを考えるということです。

言語使用をシステムだと考えるのであれば,じゃあその時のサブシステムとは何になるか,というのは考えてみる価値のある問いではないかと思いました。また,そのときに,どのような規模のサブシステムを取り出したときにも共通する構造(この本ではサッカーでいうそれは「ボール」,「目的地」,「スペース」,「切り替え」などだと言われています)を見つけることができれば,それを含んだトレーニングを考えればよいことになります。この点は私の中でも答えはまだ出ていませんが,実践編としてトレーニングメニュー実例集というのが第4章にあります。ここでゲームモデルをどうやってトレーニングメニューに落とし込んでいるのかを読み解くことで,その考え方を概念的に言語指導にも応用できないかを考えることはできるかもしれないと思っています。

おわりに

本当は,このあとのセクションで上掲書のもう一つの肝であるゲームモデルとプレー原則という話も英語教育に引きつけて語ることができそうだなと思ったのですが,複雑系の話に出てくる概念やサッカーの説明が思いのほか長くなってしまい,1つの記事にまとめると10,000字を超えてしまいそうでした。そこで,とりあえず第2弾の記事はここで一旦おしまいということにして,第3弾でゲームモデルとプレー原則の話をメインとした記事を公開しようと思います。前述のとおり,上掲書には実践的な部分も含まれていて,具体的なトレーニング方法についても豊富に紹介されています。この第4章の考察も第3弾かまたはその次の記事として書けるかなと思います。そして,第5章ではゲームモデルを持たないのに優れたシステムとして機能しているように見えるチームの例としてスペインのレアル・マドリーが紹介されています。このレアル・マドリーはどういう仕組みでうまくいっているのかについての分析も非常に興味深く,レアル・マドリー的なアプローチも言語教育の視点で考えることができると思いました。このこともまたブログに書こうと思います。というわけで,2本で終わるつもりがなんだかこのブログ始まって以来の大型連載みたいになってきました(笑)

少し前まではブログ書くこと全然ないなと思っていたわけですが,やっぱりインプットをすれば何かを書きたくなるもので,インプットが足りていなかったのかなと今は思っています(インプットしていなかったわけではまったくないんですけどね)。夏休みで時間に余裕がありますし,専門の本も,そうでない本も,もっと読む夏休みにしたいなと思います(もちろんそれ以外にもやることはあるしやってるんですが)。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

[R] mutateとacrossでデータの下処理を少しだけエレガントに

まえおき

私はdplyrは5年前くらいから使っていて,自分が扱うようなデータについて自分がやりたいことを(その表現方法のエレガントさは別として)表現することはできていました。ただ,近年dplyrはアップデートを重ねていました。昔覚えたやり方でやろうとしても,その関数は使えませんとか,その表記方法は違いますとか言われることが増えました。分析の下処理でやりたいことは基本的に研究が変わらないので同じです。よって,過去に自分が書いたスクリプトのコピペをすることが多いわけです。それができなくなっていたと。

特に,最近の更新でacross()という関数が導入されたことが変更として大きいなと思います。まだまだこのacross()に関する記事も少なかったので,自分が使うにあたって覚えたことをメモ代わりに書いておきます。ここでは,mutate関数と一緒に使うケースです。つまり,ある特定の列について,ある処理を施して,その処理を施した列をデータフレームに追加するという作業です。単純に列に対して処理を施すだけというのは結構記事があったんですが,列を追加することについては全部列挙するみたいな方法しか見つかりませんでした。そこでacross関数の出番というわけですね。

やりたいこと

例えば,今やってる研究のデータでは,データフレームの中に頻度のデータが入っています。これをログ変換したいとします。すると,これまでは以下のように書いていました。

log(dat$ColFreq)->dat$ColFreq_log #コロケーション頻度
log(dat$AdjFreq)->dat$AdjFreq_log #コロケーション内の形容詞の頻度
log(dat$NounFreq)->dat$NounFreq_log #コロケーション内の名詞の頻度
log(dat$MIScore)->dat$MIScore_log #Mutual Information Score

別にコピペ&書き換えみたいなことをしながらやればいいし,これでだめだってことはないんですけど,複数の列について

  1. 同じ関数を適用
  2. 列を追加する

という同じ動作をしているわけなので,これは一気にできたほうが応用可能性があがります。私は手作業でやるの無理みたいな列数のデータを扱うことはないんですが,もし仮にそういうデータを扱う場合には何十行も使うのは好ましくないし無駄な作業だといえます。そこで列に対して処理を施して追加するという機能があるmutate関数と,それを複数列に適用する際に便利なacross関数を組み合わせます。

やりかた

ちなみに,なんだかんだでdplyrのパッケージのPDFが一番わかりやすかったです(pp. 3-6のacross関数のセクションとpp. 43-46のmutate関数のセクション)。across関数の引数は,列(.cols),関数(.fns),追加する列の名前(.names)という3つの引数があります。よって,今回のケースで言えば列のところで頻度情報が入ってる列を選択し,関数はlogを選べばOKです。ただ,.namesがないと情報を上書きしてしまいます。.namesのところは手書きで全部列名指定してやらなかんのかと思いましたが,そんなことはありません。”{.col}”を使えば,もとの列名を使えます。これにあとは自分で好きなタグのようなものをつけてあげればいいですね。”{.fn}”というのも使えて,これは使った関数名が入ります。

ということで,以下のようにすれば頻度情報にログ変換して列追加という作業ができます。

dat%>%
  mutate(across(c(ColFreq, AdjFreq, NounFreq, MIScore),log,.names = "{.col}_log"))->dat

.namesの部分は”{.col}_log”としていますが,”{.col}_{.fn}”でも同じです。dat$ColFreq_log, dat$AdjFreq_log,dat$NounFreq_log,dat$MIScore_logという4つの列が追加されます。ちなみに,列指定の部分は列の数値(e.g., 1, 2)でも可能です。頻度の情報が5~8列目にあるなら,次のように書くこともできます。ある特定の文字列が含まれる列を選ぶcontains()関数starts_with()関数とかも使えるはずです(こういうのは調べれば結構例があります)。

dat%>%
  mutate(across(5:8,log,.names = "{.col}_log"))->dat

ちょっと応用

さて,mutate関数とacross関数でたいぶすっきりしたコードを書くことができました。そこでふと,私がもう一ついつも下処理で複数列に適用する作業を思い出しました。それは,変数の標準化です。いつもなら次のようにしてました。

dat$z.oqpt <-scale(dat$oqpt)[,1] #Oxford Placement Testの点数の中心化
dat$z.rating <-scale(dat$rating)[,1] #評定値の中心化

これも別に2行だけなので大したことないんですが,やってることは先ほどのログ変換と同じですので,これもmutate関数を使って書き直してみましょう。次のようになります。

dat%>%
  mutate(across(c(oqpt,rating),scale,.names = "z.{.col}"))->dat

これでうまくいっているようにも見えますが,実はscale関数って出力された結果がベクトルではありません(データ型を調べるとmatrix型なのがわかります)。よって,大抵の場合は分析に問題はありませんが,あとで(私の場合だと分析結果の図示とか)ベクトル形式が求められる関数に渡した際に問題が発生することがよくあります。データフレームをただ眺めるだけではそのことはわからないので,次のように工夫してあげる必要があります。

dat%>%
  mutate(across(c(oqpt,rating),~scale(.x)[,1],.names = "z.{.col}"))->dat

さきほどと関数部分の書き方が変わっているのがわかると思います。このように”~”をつける書記法はpurrr-styleと呼ばれるそうですが,これは一般的には関数内の引数を指定する場合によく用いられます。例えば,~mean(.x, na.rm=T) のように使います。”na.rm=T”は欠損値は外して関数を適用するという設定のようなものです。今回は引数の設定ではなく,~scale(.x)[,1]としています。”[,1]”とすることで,行列の1つ目の要素(つまりこれは標準化された数値のベクトル)だけを出力してくれます。ちなみに,この方法で.namesに{.fn}をつかって次のようにすると,出力される列名はoqpt_1, rating_1のようになりました(理由は不明)。

dat%>%
  mutate(across(c(oqpt,rating),~scale(.x)[,1],.names = "{.col}_{.fn}"))->dat

おわりに

というわけで,改良されているんだろうけれども前のやり方に慣れてるこっちからしたらアップデートたびにコードを書き換えるのまじで面倒…って思っていたのですが,調べてみるとやっぱり便利でしたというお話でした。

またこういう系のことで新しく覚えたことがあれば記事に書こうと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

サッカーと英語教育の交差点(1)

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はじめに

『2050年W杯 日本代表優勝プラン』という本を読みました。東京五輪で日本の男子サッカーチームは準決勝でスペイン代表に破れ,そして三位決定戦ではメキシコに破れました。金メダルを目標として掲げていましたが,2012年ロンドン五輪の4位をまたしても上回ることができませんでした。地元開催で招集メンバーもベストというアドバンテージを活かせず,メダルにも届かなかったという事実を受け止め,ここから強くなるためにはどうすればいいんだろうと思っていました。そんななかでこの本を見つけたので読み始めたわけです。

また,その流れで別の本も読んでいます。

この2冊の本を読んでいくうちに,いくつか自分の職業的興味である英語教育の部分にも当てはまるなと思うような話がいくつか出てきました。この記事では適宜引用しながらサッカーの話を英語教育の話に置き換えてその「交差点」を描きたいなと思っています(風呂敷広げすぎ)。

応用力と判断力

『2050年W杯 日本代表優勝プラン』の第3章「2050年までの選手育成プラン」の中に以下の記述があります。

林舞輝さんがスキーマセオリーでのシュート練習(常にシチュエーションを変えて行う)の話をしていたけど、あれはホントにその通りだなと思います。特に日本人は「応用力が足りない」とか「臨機応変が苦手」とか「とっさの判断が」とか言われがちなので、なおさら。

川端暁彦,浅野賀一. 2050年W杯 日本代表優勝プラン (Japanese Edition) (Kindle Locations 1627-1629). Kindle Edition.

サッカーというスポーツは11人対11人で行われるスポーツですが,近年では選手の身体能力が飛躍的に向上したことを背景に,プレー中に瞬時の判断が連続的に求められる非常にスピーディな展開が世界の最先端となっています。W杯で優勝することを考えると,そのレベルでのプレーが求められるわけです。ただ,サッカー界では昔から日本人は監督に言われたことはできるが自分たちで判断するのが苦手だと言われ続けていました。

これは英語教育で言われている問題,「学校で英語を学んでも実際に英語を使うことはできない」みたいな話と通底する部分もあるかもしれないなと思いました。おそらくどちらにも共通するのは,実際に力を発揮すべき場面が想定された練習(トレーニング)がされているかという点だと思います。サッカーであれば試合が本番で,そこで最大限のパフォーマンスをするために練習します。言語使用であれば,実際の言語使用場面を想定してトレーニングをしないと,練習のための練習になってしまいますし,練習でやった場面が試合中に現れないとしたら,練習の成果を本番で発揮することができないわけです。サッカーの試合であれ現実の言語使用場面であれ,様々な要素が複雑に絡みあって予測不能な展開が発生するものです。それに対応できるようにするためには,その予測不能な展開が発生する状況を練習の中で意図的に作り出す必要があるわけですよね。この点で,サッカーの試合で求められる「応用力」と,言語使用場面で求められる「応用力」は割と近いものがあるんじゃないかなと思っています。

サッカーでは「止める,蹴る」という言葉が最近バズワードになりつつあって,それはJ1リーグで首位を独走する川崎フロンターレの躍進とも関係が深いです。つまり,「(ボールを)止める,蹴る」という基礎技術の正確性にこだわることがサッカーの質的向上をもたらすということですね。先述のように,現代サッカーはボール保持時の余裕がない状況がどんどん増えていますから,その状況でも正確にボールを扱える技術がレベルがあがればあがるほど重要になります。サッカー初心者でこれがまったくできない人にとっては,この基礎技術だけを取り出して,敵もいない状況で,ひたすら転がってきたボールを足元に止めて,正確なキックで相手にボールを渡す練習をする必要があるでしょう。しかし,実際の試合では自分の体の向きやボールを受ける場所,味方との距離や方向,そして相手の位置も刻々と変化し,その中で正確な技術を出すことが求められるわけです。よって,「止める,蹴る」の技術向上を目指したとしても,少しでも試合で起こりうる「止める,蹴る」の状況の中で練習する必要があるでしょう。これを言語教育にうまく置き換えて練習を考えられるかどうかというのは私が個人的に挑んでみたい課題です。

さて,こうしたサッカーの練習に対する考え方の背景にあるのが,サッカーに関わる要素を分解して取り出して向上させようとしても,それが全体の向上につながるわけではないという考え方です。つまり,要素還元主義を否定し,サッカーを複雑系と捉えなおすということになります。この考え方に基づいているのが,「戦術的ピリオダイゼーション」という概念です。

こうしたことを考えていたら,結局サッカーでも英語教育でも,日本人はだめだみたいな言説の根っこにある問題って共通しているのかもしれないなと思ったわけです。もちろん,学校の教育はプロサッカー選手の育成や日本代表が世界で勝つみたいなことを目指した育成とはぜんぜん違う論理のもとで行われていることです。ただし,サッカーと言語使用というのは,どちらも複雑系であるという点で共通点があると思います。したがって,サッカーのレベル向上を目指す試みの中には,言語使用のレベル向上を目指す営み(としての英語教育)にも示唆があるのではないかと思っています。

指導者としての態度

W杯で優勝するためには,そのための選手を育成する必要があります。書籍紹介でも「30年後の主力選手はまだ生まれていない!」という記述がありますが,『2050年W杯 日本代表優勝プラン』の第4章「2050年までの指導者育成プラン」はそうした選手を育てる指導者についての話です。その中に,長崎総合科学大学附属高等学校の小嶺監督に言及した次のような記述があります。

現代っ子に響く言葉、態度を探している。言われていたのが「最近の子どもは変わってしまったから難しいとか言うけど、それは指導者として言い訳だろう」と。「子どもが変わって指導が響かなくなってるなら、響かせる指導に変えないといけない。それでこそ指導者だ」と言うんですね。あと、「そもそも昔が美化されちゃうだけで、子どもはそんなに変わっていないよ」とも言っていましたが(笑)。(強調は筆者)

川端暁彦,浅野賀一. 2050年W杯 日本代表優勝プラン (Japanese Edition) (Kindle Locations 2537-2541). Kindle Edition.

これは教育という仕事に携わるものとしてぐさっときました。別に教育にかかわらず一般的に,「最近のXXは」(XXには若者,学生,新卒など若年層の集団を表す言葉が色々入ると思います)で始まる否定的な言説はよくあると思います。教育という行為自体が教師-児童・生徒という関係性にの基づいて何らかの知識や技術を身に着け「させる」ことから完全に逃れることができない以上,そこに相手を変えようという暗黙的な気持ちが入り込む余地は大いにあります。そういう状況で自分のやり方がうまくいかなかったときに,ベクトルを自分に向けられるかどうかっていうことですよね。

少し英語教育からは話がずれますが,上記引用のあとには次のような浅野さんの発言があります。

フットボリスタ(筆者注:著者の一人である浅野さんが編集長を務めるサッカー雑誌)でも取り上げたメンタルコーチのメソッドで再三言われたのが「自分でコントロールできないことに意識を割かないこと」。たとえば、そのメンタルコーチによると試合に出られない選手はたいてい「監督が使ってくれない」と言うと。ただ、監督が自分を試合に使ってくれるかどうかは監督が決めることでコントロールできない。そうじゃなくて、自分の成長にフォーカスすべきだ。それは具体的に計測できるものがいい。そうやって自分が成長すれば、結果的に試合にだって出られるようになるかもしれない。(強調は筆者)

川端暁彦,浅野賀一. 2050年W杯 日本代表優勝プラン (Japanese Edition) (Kindle Locations 2545-2549). Kindle Edition.

私は大学教員・研究者という職業柄,上司に「使ってもらう」ような仕事はしてませんが,自分がコントロールできないことに意識を割かない,というのは生きていく上で重要だと思っているので,日々このことを意識しながら生活しています。

そして,このあとにもまた指導者の話に戻ります。

川端:ただ、理屈ではわかっていても実践するのは簡単ではない。特に一度『成功』してしまった人ほど難しいと思う。よく小学生とかで活躍しすぎるとよくないみたいに言うけど、それもこういうところだと思う。努力や工夫ではなく、結果を褒められちゃうだろうし。

浅野:成功したそのやり方が正しいとなっちゃうしね。下手な成功体験は怖い。

川端:よく「正解を教えるんじゃなくて試行錯誤させなさい」というのも、そういうことだと思います。別の機会で壁に当たったとき、新しい道を探そうというマインドを持っていること自体が大事というか。

浅野:特に若いうちはそれだよね。

川端:正解を教えて助けてあげたくなっちゃうのも人情ですけどね(笑)。それで教えて感謝されたことで満足しちゃう指導者は、やっぱり二流なんだと思います。(強調は筆者)

川端暁彦,浅野賀一. 2050年W杯 日本代表優勝プラン (Japanese Edition) (Kindle Locations 2552-2560). Kindle Edition.

私も,正解を教えるのはあまり好きじゃないんですよね。でも,教えられる側(学生側)からしたら,「(周りに間違えたって思われるから)間違えたくないし間違えたら(先生から)怒られるんだから,最初からどうしたらいいか教えてくれたらそのとおりにやりますよ」っていうマインドなんじゃないかなと思っています。大学教員としての私の仕事は,その価値観を揺さぶることだと思っています。間違えたって怒らないしそもそも世の中でぶち当たる問題のほとんどには「これだ」という唯一の正解なんてないものなわけです。そのときに大事なのは,浅野さんの言葉にあるように自分で何が正解か,どうやって解決すべきかを考えようとすることだと思います。言語学習も同じようなもので,なかなか正解を1つに決めるのが難しいですし,要素還元主義的に学習をすることも(そのほうが学習者にとっては馴染みがあるし取り組みやすいものだとしても)推奨しづらいのです。だからこそ,教える側もわかりやすさを求めたり,正解を教えて満足しちゃう方に流れがちです。そこで一度踏ん張って自分にベクトルを向けて,指導者として一流になりたいなと思います。

ひとまずおわりに

少し長くなったので,続きはまた別の記事で書こうと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

吉田麻也選手のインタビュー動画

真面目に話すところと冗談を交えるところが絶妙で,こういうところもキャプテンとして信頼を集める理由なんだろうなと思いました。

【東京五輪後初インタビュー】キャプテン吉田麻也が大会を振り返る

五輪が終わった後にこういう長いインタビューを受けることもすごいです。もうヨーロッパのリーグはいよいよ開幕で,少しでも早く日本を発ってチームに合流したいという気持ちだってあったはず。

キャプテンとしてどう振る舞うか,どういう言葉をかけるか,チームメイトの小さな変化を見逃さない観察力,などなど,自分は吉田麻也選手と同い年だけどまだまだ若手のポジションですが,自分が上になったときに参考になるなと思いました。この人の文章は人気出るんじゃないかと思ったら,2018年に本出してるみたいですね。買って読んでみようと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

なんでサッカー観るのこんなに好きになったんだろう

はじめに

Photo by Tembela Bohle on Pexels.com

成績もつけ終わったので夏休みで,時間に余裕が少し出たのでオリンピックをテレビでつけながらサッカー関連の本を最近読んでいます(オリンピックは昨日で終わっちゃいましたけど)。少し前から footballistaというサッカー専門誌のサブスク(ウェブの有料記事読める&雑誌が毎月送られてくる)もはじめました。ただ,学期中はなかなか雑誌記事を読む時間もなかったので今読んでます(内容が結構ボリューミーでサラッと読める記事ばかりでもないので)。それで,ある本を読む中で,「あー英語教育とつながるところあるなぁ」と「こんなところで趣味で読んでるものと自分の仕事に関わるものがつながるなんて!」という興奮を感じています。

その話を書こうと思ったんですが,その前になんでそんなサッカーにドハマリしてるんだろうと思ったのでその話を。本の話は読み終わったら書きます。

きっかけを考える

もともと,サッカー自体はスポーツの中で小さいときからずっと好きだったスポーツでした。幼稚園の年長からサッカークラブに入っていて,小学校6年生までサッカーをやっていました(余談ですが,今回の男子サッカー五輪代表の相馬選手は私と同じ東京都調布市出身)。途中サッカーの練習に行くのが嫌になった時期もあり,中学ではサッカー部がなかった(正確に言うと顧問の先生がサッカーに詳しい方でなかった&結果的にその方が異動したあと顧問がいなくなって実質廃部になった)こともあって中高大とバスケをすることになります(大学はサークル)。ただ,中学も高校も体育でサッカーがあれば一番楽しみにしていたし,大学でもフットサルをたまにやってましたし,アメリカに留学してたときもバスケよりもサッカーしていた時間のほうが長かったですし,今でも地元に帰ったら地元の友だちとソサイチという7人制サッカーの大会に出たりしています(コロナ禍になってからそもそも東京に帰ってもいないのでしばらくやれてないですけど)。つまり,ずっとサッカーは好きでした。ただ,それはやるのが好きだっただけで,サッカーを観るという観点でいうと日常的には見ていなかったと思います。それと比べれば,今は人生で一番サッカー観戦に時間を費やしているなと思います。もちろん,体力的にも環境的にもサッカーを実際にプレーするのが難しいので観る方に興じているのはあると思いますが。以下,なんでサッカー観るようになったのか,その理由をいくつか考えてみたいと思います。

1. DAZN

一番影響が大きいのは間違いなくDAZNですね。JリーグとDAZNがパートナーシップを結び,Jリーグ全試合がDAZNで放送されるようになったことでサッカーを観ることが身近になりました。それまでサッカーの試合は地上波で放送される日本代表戦かカップ戦の決勝,たまーにNHKでやるJリーグの注目カードくらいしか見たことなかったと思います。くわえて,博士課程進学とともに名古屋に引っ越してからはテレビのない生活を4年間(厳密にいうと最後の年の初売りで大阪に引っ越すことを見越してテレビ買ったので4年弱)送っていたので,テレビでやるサッカーすら見れていなかったわけです。

それまでは,見たいと思った代表の試合は海外の怪しげなサイトで広告のポップアップと戦いながら超低画質で観る以外の選択肢しかありませんでした。それが,2017年(私が博士課程の最後の年)からDAZNとJリーグが契約したことで,PC(やスマホ等のデバイス)で気軽にサッカー中継を観ることができるようになりました。これは本当に大きかった。また,DAZNはJリーグだけでなく海外サッカーのコンテンツもありますから,海外サッカーも観るようになりました。これがきっかけで,娯楽としてサッカーを観るということが日常になったわけです。

2. YouTube

YouTubeで有名人が自分のチャンネルで発信するようになったのも大きな影響があると思います。その先駆者は那須大亮さんですよねなんといっても。今でこそいろんな企画モノ(というと一部の方には別のことが思い浮かぶような気もしますがもちろんそうじゃないです)が多いですが,開設当初は現役選手との対談が多かったです。サッカー選手の声を「動画」として見られるって,一昔前では本当に貴重だったんですよね。それがいまやYouTubeで簡単に見られてしまうと。そうやってまたサッカーコンテンツを消費する中で,サッカーに対する興味がましていきました。

さらに,サッカー解説者で元日本代表の戸田和幸さんの存在も大きいです。とにかく解説が良い。今ピッチ上で何が起こっているのか,何が良くて何が良くないのかを的確に言語化して伝える能力に優れている戸田さんの解説が好きです。そんな戸田さんがご自身のチャンネルでアップする動画は,実際の解説の数十倍の密度なんです。そういう話を聞くことで,サッカーというスポーツの構造というか真髄というかその奥深さをもっと理解したいという欲求が高まったのは間違いありません。戸田さんは地上波で放送される日本代表戦の解説者になることもあって,戸田さんが解説のときは嬉しい気持ちになります。なぜなら,地上波放送となるとサッカーファンというかライト層じゃない自分のような存在からすると解説が(もちろん実況がそもそもですけど)物足りなく感じてしまうからです。戸田さんは地上波ではDAZNやWOWOWといったお金を払ってる見ているサッカーファンのコア層が視聴者の中心となるわけではないので解説の仕方を変えている(DAZNやWOWOWでは専門的な,マニアックな,話を多めにする)というようなことをおっしゃられています。よって,ライト層からしたら難しすぎるというイメージをもたれてしまうかもれませんが,私からするとそういう解説を聞きたいわけですよね。それによって,自分の「サッカーを見る目」も養われるわけですから。

あとは,全部じゃないですが気になったらチェックするチャンネルは蹴球メガネーズですね。このチャンネルは比較的新しいですが,元日本代表で今はDAZNでも解説されてる水沼貴史さん,元サッカーマガジン編集長の北條聡さん,元エルゴラッソ編集長の川端暁彦さんの3人でサッカーの話をする番組です。この番組も割とサッカーのマニアックな話が出てくるのですごく勉強になっています。この番組を見ていなかったら,今私が読んでる(冒頭で述べた)本,『2050年W杯 日本代表優勝プラン』を買って読んでみようと思わなかったかもしれません。蹴球メガネーズを見ていて,川端さんがどんな方かというのがわかっていたからこそ,この人の話は読んでみたいと思ったわけですので。

3. ガンバ大阪

さて,きましたよ。ガンバ大阪。私が今最もお金と時間を使っている対象です。もはやガンバ大阪のために私の生活は組み立てられていると言っても過言ではありません。ガンバの試合があれば溜まった仕事もすぐに投げ出せる。ガンバの試合が18時キックオフなら17時までの会議が終わってから着替えて自転車ガチ漕ぎして千里山にある仕事場からパナソニックスタジアム吹田まで15分弱で行ってしまう。そして,英語教育0.2という名前をつけたブログであるにも関わらずなんのためらいもなくガンバ大阪の記事を書いてしまうのです。

私は出身が東京ですので,ガンバ大阪に対して昔から愛着があるわけではありません。ただ,いつかの記事で書いたような気もするんですがJリーグが開幕してブームだったときがちょうどサッカーを始めた幼稚園のときで(お昼はレトルトのJリーグカレーでシール集めてたりした),そのときにガンバ大阪のマスコットキャラであるガンバボーイの人形を買ってもらったのは覚えています。もう一つはジェフだったかサンフレッチェだったかなと。そう考えると,昔から馴染みのあったチームではありました。

そして,大阪に引っ越してきて,私の職場である関西大学は吹田市ですから,ガンバ大阪のホームタウンです(住んでるのは大阪市内)。そういうわけで,1度観に行ってからドハマリしたわけですね。スタジアムで観るサッカーはめちゃくちゃ楽しいんですが,私の馴染みのあるスタジアムってサッカー専用じゃないんですよ。私の実家の近くの味の素スタジアムは陸上トラックはありませんがピッチから観客席まではかなり遠い。旧国立競技場でもヴェルディ川崎の試合を何回か見た記憶もありますが,あの時と今とでは雰囲気もかなり違います。そういう中でいきなりサッカー専用スタジアムに行ったら,なんじゃこりゃと。2階席なのにピッチがすぐそこにあって,しかもスタジアムがいい感じのコンパクトさ(最大収容人数が4万くらい)なのでその圧迫感みたいなのも相まって雰囲気がすごいと。1階席にいったら選手がすぐそこで,リアルな声や音もバンバン聞こえてくるわけです。そして,スタジアムの熱気がやばいんです。そうやって何回も観に行ってるうちに,選手を覚え,チャンツを覚え,という感じで気づいたらファンクラブに入って年パスを買い,アウェイ遠征に行き,毎年ユニフォームを始めとしたグッズにお金を落とし,スタジアムに行けばスタグルにお金を落とし,という感じで今に至ります。

そうやって,自分の好きなチームができると,そのチームを見ている人,そしていろんな見方をしているひとが世の中にたくさんいることがわかります。Twitterでそういうガンバサポーターのリストを作って,試合のあるときはそのリストのツイートを見ています。そうすると,ブログとかで試合の振り返りやゲーム運びなんかについて非常に深い考察をされてる方たちがいるわけです。そういう人たちのことをすごいなと思う一方で,そのレベルで試合を観ることができていない歯がゆさみたいなのを感じることもあるわけです。

一応自分自身でもそれなりにサッカーについて勉強しているつもりではありますが,まだまだ足りないと。段階でいうと,学部生のときに「うおーSLAすげぇぇぇぇ」ってなったけどまだまだ知らないことがたくさんあることに気づいて大学院に進学しようと思ったみたいなのに近いかもしれません。そういうわけで,もっとサッカーを勉強しよう(他にもっと仕事に直結する勉強でやらないといけないこと山ほどあるわけなんですけど),と思うようになりました。

趣味:サッカーのメタ認知

サッカーというスポーツって「労働者階級の奴らが好きな野蛮なスポーツ」って評されることもあって,まあそれも事実として(成り立ちも含めて)あるのでしょう。別に趣味なんてなんだっていいし人にとやかく言われるもんじゃあないとは思いつつ,自分の職業というか少なくとも自分の観測する範囲でサッカー大好きっていう人がそこまで多くはないんですよね(部活でやってたレベルでも野球とバスケは聞いたことあるけどサッカー部出身は聞いたことないです知り合いが少ないだけとか言わないでください)。それよりは,芸術(クラシックとかバンド活動とかを含めた音楽とか),運動でも紳士のスポーツであるテニスみたいなのが好きな人が多いイメージです。そんな中で,サッカーが好きって公言することとか,趣味がガンバ大阪って言うこととかに抵抗を感じないこともなかったりします(とはいいつつTwitterではガンバサポって書いてるんですけど)。

それでもこれだけ世界で競技人口が多くて沢山の人を魅了するスポーツってないでしょう。スポーツ選手長者番付のトップ10に3人(メッシ,クリスチャーノ・ロナウド,ネイマール)もサッカー選手が入ってますしね(その下も見るとNBA選手多いですけど)。サッカーのワールドカップは放映権料が上がってて日本のテレビ局ももう視聴率もたいして取れないし割にあわないみたいな記事も出てますけど,それでも例えば五輪以外で世界大会が地上波で生中継されて国中で盛り上がるのってやっぱりサッカーじゃないですかねみたいなところはあります。

まあそんなことなかったとしても,自分が好きなものを他の人がなんと思おうが自分は好きだし,そしてその自分が好きなことを好きだと公言して良い世の中であるべきだし,そのことについていちいち考えたりしなくていいんだよ!っていう気持ちのほうが強いんですけどね。

おわりに

最近はなんていうかブログの記事に書きたいと思うことがどんどん減ってきてしまっていて,昔のように溢れ出る思考を書いてまとめておこう,みたいな状態になることがほとんどなくなっているのが現状です(実際更新回数も減ってるしアクセス数も減ってる)。そういうわけで最近なかなか真面目なというか,色んな人に読んでほしいなとかこのブログの名前にふさわしいなと思える記事が書けない状況なんですが,それでも何も書かないよりは書いたほうがいいなと思って書きました。ブログに関しても,第一義的には誰かのために書くというよりは自分のために書いてますからね。

もちろん,例によってこの時間に更新しているということはお酒の勢いも借りています。次に更新する記事は,英語教育と関わる記事になるとは思いますので乞うご期待。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

後輩が国際誌載りました

名古屋大学の後輩が,Studies in Second Language Acquisitionという国際雑誌に論文を載せました。

彼の修士論文がベースの研究です。いやー感慨深い。寺井くんは私が博士修了したのと同時に入学してきたいわゆる入れ替わりなので,実際に大学院で一緒の時間は過ごしていません。ただ,私が博士課程の4年生だったとき,急に個人のメールアドレス(公開はしてた)に「ある地方国立大学で中学校英語を専攻している」寺井ですみたいなメールをもらいました。当時は,「ある地方国立ってなんやねん大学名言えよw」って思ったりしました。

ぜひ名古屋大学に進学したいというような話で,じゃあ一度会いましょうかってことになって名古屋の焼き鳥屋でほかの院生仲間と飲んだのを今でも覚えています。その場に印刷した研究計画書ももってきていて,それを見ながら,学部生でこれはすごいなぁ。よく勉強してるなぁと思いました。

ところが,と言っていいのかはわかりませんが,私個人の印象としては大学院に入学してから「伸び悩んだ」印象でした。最初の印象がよかったのでハードルが上がりすぎていただけなのかもしれませんけど。

私と同じで地方国立の教育学部出身で,そこから研究を目指したという意味では彼と私にには似ているところがあります。そして,頭の中で起こっていることに興味がある(認知的なところに興味がある)という意味でも似ているところがありました。彼は語彙に興味があって,私は文法に興味があるわけですけど。ただ,そういうバックグラウンドが似ているところもあって,実践への示唆を目指した部分と,それとは別に純粋に認知科学的な興味の葛藤というのがとてもよく理解できました。当初はどっちつかずなところが多かったような印象です。それを徐々に形付けていくなかで,今回の論文のような形にまとまったのかなと。別に自分が彼の研究に影響を及ぼしたとは一ミリも思ってないですけど。

ただ,彼のことは私もずっと気にかけていて,大阪と名古屋と離れた場所にはいましたが,週に1度,「ゼミ」と称してSkypeで2時間みっちり研究のことについてやりとりする機会を持ってきました(最近は別に読書会ということでLangackerのCognitive Grammarからのusage-based系の論文を読む会をやってるので隔週開催になりました)。1対1ではなく,中央大の福田先生も呼んで3人で今でも続けていて,slackにある記録によると次回が78回目の開催になるようです。そういう中で生まれたのが先日J-SLAで発表したものです。

正直に言うと,寺井くんは”私から見て”未熟だと思う部分がたくさんあって,本気で怒ったことも数え切れないくらいあります。研究に関することもありますし,それに向かう姿勢的な部分もありますし,舐めてんのかって思ったこともありました。あんまりスポ根みたいな話にはしたくないんですが,それでも彼の研究について議論したり,たまに彼のキャリアだったり院生生活的な部分の話もたくさんして,それを彼が真摯に受け止めて,「ソルジャー」ぶりを発揮してくれた一つの結果として今回のことにつながったのもあるかもしれないなと思っています(繰り返しですが,載せたのは彼で修論なので指導したのは山下先生です)。

修士論文に基づいた研究を国際雑誌に載せるという試みはそれこそ名古屋大学(あくまで私の分野に限る話です)でその道を切り拓いたパイオニア的存在である福田先生に続く快挙です。今は海外の大学院に在籍している日本の院生がバンバン国際誌に載せる時代になってきているので,国際誌に載ること自体がもしかすると「普通」という感覚もあるのかもしれません。それでも,名古屋大学のわたしの分野でいえば院生在籍中に国際雑誌に載せた例は稀少です(私自身も博士課程時代にやった研究を在籍中に国際雑誌に載せることはできませでした)。

私は名古屋大学に在籍中,後輩の指導をうまくできませんでした。私の先輩である草薙さんが私にしてくれたことを思うと,私が大学院在学中にどれほど後進の育成に貢献できたのかということは自信がありませんでした。私が大学院に在籍していた当時は,「名大の院生」というのがある種のステータスで(それは主に草薙・福田の功績),分野の学会で勢いのある若手のイメージを植え付けたのではないかと思います。彼らがいなくなったあと,私は苦しみました。自分の力もないし,自分の後輩を輝かせることもうまくいきませんでした(後輩のみなさんごめんなさい)。

そういう思いの中で,直接は一緒に院生時代を過ごしたわけではないんですが,あの,九州の田舎から出てきた子が,紆余曲折を経て,SSLAという雑誌に論文を載せたということは,私が名古屋大学に在籍していた意味を1ミリくらいは残せたかなという気持ちになりました。

もちろん,それは私が一緒に時間を過ごした西村くんや三上くんがやってきたことに対しての評価をしていないということではまったくありません。彼らは彼らの場所で頑張ってると思います。ただ,寺井くんに関しては,入学前に個人的に連絡をくれたことや,研究の相談を含めてこれまでいろんなことを伝えてきたからこそ,個人的な思い入れがやや強いっていうだけです。

今後は寺井くんが主導する後輩との研究だったり,寺井くんの後輩の名大の院生の研究に期待したいなと思います。願わくば,私の所属先である関西大学外国語学部に,私の「後輩筋」にあたるひとが就職してくれたら私としてはこの上ない喜びです。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

学会のSNS禁止もなんかわかる気がしてきた

はじめに

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今はコロナの影響でどこも学会がオンラインになってるわけですが,そうなるもっと前から,つまり対面で学会をやっていたときから,学会の発表に関してSNSに投稿することを禁止するルールを設ける学会があったりします。昔は,そんなことを禁止する必要ある?みたいなことを思っていました。しかしながら,最近考え方も変わって,まあそういうことをしたくなる気持ちも理解できるなとなったという話です。

Twitterの使い方も変わった

anf先生とのポッドキャストでも話したことですが,昔と今ではTwitterの使い方(雰囲気)も変わったよねみたいなところがあります。その時はノスタルジックな感じで喋りましたし,昔はよかったなみたいなのもある面ではそう思うところがあります。

ただ,アカデミアの人がTwitterで炎上するみたいなのを最近見ていると,本来オープンな場所であるべきSNSでクローズドな場所でやるべきやりとりをしていることが原因の少なくない部分を占めているんじゃないかなと思うところがあります。そして,それってまさに自分が楽しいなと昔思っていたような部分でもあるんですよね。まさにオープンな場所で,いろんな先生と個人的なやりとりができる,そのことが特にアメリカにいた自分にはすごく刺激的でした。当時はオンライン学会なんて発想もおそらくなかったような時代だと思いますし,学会の様子をツイートしてくれる人たちの書き込みを見ながら様子を想像したりするのも好きでした。

その証拠に,togetterで学会に関するツイートのまとめを参加してもいない(というか日本にすらいなかった)自分がやっているということもありました(メニューのTogetterまとめにリンクあります)。そこから数年経って,学会での発表についてSNSに投稿することを禁止するみたいなルールを設ける学会の存在を知りました。当時はそれに反対する気持ちもありましたが,今はまあそういうこともしたくなるわなぁと思ったりもします。

学会員(参加者,もっといえば発表者に)有益であるべき

発表に対するなにかしらの発言て,本来は準備をして発表した発表者に直接届けられるべきだなというのがいまの気持ちです。特に,研究の問題点を指摘する場合にはよりそう思います。なぜなら,その発言が発表者に伝わらないと何も生まれないからです。発表者に届けば,それを聞いた発表者の研究が将来的に改善して,そのことが学会(学界)にポジティブな貢献をする可能性があります。一方で,ツイッターに書いて身内で「あれはないよなー。」みたいなやりとりしたところで,結局それは身内でやってるだけで学会(学界)への貢献はゼロに等しいです。研究は研究分野を発展させるという目的でやってるし学会もそういう意図がある組織なわけです。そこに貢献するにはどうすればよいかという視点で昔は考えられていかなった,つまり自分自身の視点でしか研究を見てなかったんだなというのが反省です。

私はどちらかというと昔から手を上げて質問はしないけどツイッターには書くみたいなのをやっていたほうで,それやるなら質問しなさいということを目上の先生に言われた記憶もあります。よって,昔の自分を棚に上げてえらそうなことを言っているというように思われるかもしれません。ただ,私はそれからはあまり学会参加中に発表内容について書くことはしなくなりました。

アウトリーチ的な意味合いはあるにせよ

学会のことをつぶやくというのは,アウトリーチ的な部分でポジティブに作用する可能性はあると思います。学会でどんなことが起こっているのかをツイートすることで,学会員ではない人や学会には入っていない関係者,そしてさらにそれよりも外側の一般の人達にまで学会で行われていることを届けることができる可能性があります。ツイートを見て,面白そうだなと思ってその学会に入ろうとか,その学会の次のイベントに参加しようとか,そういうこともあるでしょう。まさに私が日本の学会に参加している人たちのツイートを見て,学会楽しそう!と思ったのと同じように。

「メモ代わり」ならメモ帳に書けば良し

もしかすると,ツイッターは自分のメモ代わりに使っているから,そういう目的でつぶやいているのであって,それを誰かに禁止される筋合いはないという意見を持つ人もいるかもしれません。もしそうだとしたら,メモこそオープンなところに書く必要がないからメモ帳に書けばいいということになります。もちろん,そういったメモ的な書き込みに対して誰かが反応して,そこから有意義な議論に発展することもあると思います。そうなれば,その議論に参加している人も,そしてその議論を見ている人にとっても有益です。そういうのも私が昔ツイッターが面白いと思っていた理由でもありますから。しかしながら,その有益性は残念ながら発表者には一ミリも還元されないという点で,やはり良くないと思っています。発表者の人が発表にかけた準備の労力だったり,実際に発表することにかけた労力,そういうものにある意味では「タダ乗り」して自分だけ有益な議論をしているわけですから。

本来は,質疑応答の時間をそういった有益な議論の時間にすることに全員がコミットするべきだと思います。特に今はオンライン学会なわけで,ツイッターに書くならZoomのチャット欄に書いたって同じじゃんと思うこともしばしばあります。もちろん,文字で伝える場合は口頭でやり取りするのと違って誤解(誤読)の可能性がないように,なおかつ自分の質問を明確に,伝えないといけません。よって,そうやって質問しようとしたら非常に長い文章を書かなけれればいけなかった,というように,チャットでの質問のほうが逆に難しいということもあるかもしれませんが(私は参加してませんでしたが,先日寺沢さんがそういうことをツイートしていたような)。

ただし投稿がすべて害悪とは言い切れないので難しい

ただし,ツイッターならではというか発表者にも参加者にとっても有益なツイートというのも十分にありえます。例えば,発表者が引用している文献情報(本や論文のリンク)をツイートするということがあります。今では論文であれば出版社のウェブサイト,本であればアマゾンのリンクが検索すればすぐに見つかります。これをツイートしている人がいれば,同じ発表を聞いている人にとっては自分が探す手間が減りますから助かります。こういうのであれば,自分のメモ代わりであってもそれが他者にとっても有益になりますし,なおかつ発表者にとっても自分が引用している文献を他の人がアクセスしやすくなることはメリットがあるでしょう。

また,発表者が取り組んでいる研究プロジェクトのウェブサイトだったり,あるいはその発表者自身のウェブサイトなどがツイートされれば,これは発表者(の研究)の宣伝になるわけですから,発表者にとっても大きなメリットです。そして,参加者にとっても(参加せずにツイッターだけ見ている人にとっても)その発表者の取り組んでいる他の研究へのアクセスもしやすくなって,参加者にとってもメリットになります。

おわりに

おそらく,本来のテキスト中継( tsudaる)みたいなツイートであれば,それは参加していない人にも発表の内容が届けられるので発表者にとっても(発表を聞いてもらえる人が増えるという意味で)メリットがあります。おそらく問題になってくるのは,本来質疑応答で発表者に対して向けられるべきであろう内容がツイートされる時なのかなと思います。SNS禁止という発想はわからないでもないが,かといって発表者に還元されないような,酷いケースだと発表者が損だと感じてしまうようなツイートを放置しておくのも好ましくない,とはいってもそういうのを規制するルール作りも難しい,というのが現状なのかなと。ルールを作るとそれを監視する必要がありますから。

私個人としては,自分ができるだけ発表者に,そしてそこに参加している人たちにとって有益かどうかという観点でその場での質問と,ツイッターに投稿することというのを分けていこうかなと思っています。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

最短距離は常に最良かまたは余剰の意味とはなにか

はじめに

下記のブログ記事を読んで考えたことをもとにツイートしたことのまとめプラスαの記事です。

タスクの達成を重視することの弊害

上のブログ記事の内容からは少しずれますが,タスクの達成を重視したときに無味乾燥な言葉の投げ合いになってしまうことがある状況は授業でも気になることがしばしばあります。逆にまどろっこしくてもすれ違いがあっても遠回りでもやりとりをしてるのを見ると,「いいぞいいぞ」という気持ちになることが多くあります。学生からすると,私がいいなぁと思うのはむしろ「良くない」,サクサク終わるのが「良い」という思いがありそうな気がしています。先日の英語教育2.0newsletterのPCの流暢さの話にもかするかもしれませんが,無駄のないコミュニケーションがいい場面というのは言葉のやりとりの中で割合的に限定的なはずでは?っていう思いもあります。要するに,ある課題を達成するときに要する時間が短ければ短いほど良いというわけではないということですね。

無駄なことはしたくない,というのはそりゃそうだし,一回のやりとりで済むことを複数回繰り返すめんどくささも日常にはあります。でもその余剰を限りなく削ぎ落とした時の人間のコミュニケーションはもはや機械のコミュニケーションなんじゃないかな,みたいなことを思わなくもないわけです。それが身につけてもらいたいコミュニケーション能力かというと,違うよなぁと。

効率至上主義的な考え方がいろんなところに蔓延っていることも無関係な話じゃないかもしれません。スムースでスマートなやりとりが悪いわけじゃありません。ただ,泥臭い内野安打でもヒットはヒットだし,タスクの達成が評価されるというのはむしろそういうことなんじゃないかなぁっていう気もします。

サッカーに例えてみる(無理やり)

話を元の話題に戻すと,余剰を生み出せる,直線的ではないということがむしろ能力の表れでもあるっていう内野安打とは逆の考え方もできるかもしれませんね。サッカーもロングボール蹴ってこぼれ球拾う戦略もある。でも能力のあるチームはGKからつないで,相手を剥がして,崩して,ゴールするんですよ。手間かけてる。それができる能力があるから。相手にプレッシャーかけられてもつなげる技術があるから。現在J1リーグで圧倒的な強さを誇っている川崎フロンターレはまさにそうですよね。

直接的に関係のない(かもしれない)ことを会話の中に差し込める事というのは,タスクの達成には直接寄与しないかもしれません。しかしながら,それは能力がないとできないわけです。ロングボール蹴れば得点までたどり着くスピードは早いかもしれないし,後ろでボールを失って相手に得点機会を与えるリスクも少ない。でもサッカーは90分。言語のやりとりも,過度に時間制限をかける方が本質を見れないリスクはありますよ。

もちろん,適切に時間制限があるからこそ,考えたことを素早く言語化して口に出すという意味での流暢さを鍛える機能はあります。ただし,それが適切ではないと,時間の余裕があれば生まれた有意味な意味交渉も削り落とされた旨みもない薄味スープになっちゃうわけです。

じゃあ適切な時間設定教えてよってなりますよね。でも,それは一義的に決まらないのです。やりながら試行錯誤するしかない。あーこれは短すぎるか,長すぎるかという経験と,あとはある程度タスクによって長めでいいのと制限かける方がタスクの良さが活きるものがありますからそれとの兼ね合いです。

最後にツイートを一つ紹介

ツイートに対して浦野先生から反応があったのでご紹介。

タスク設計の問題となると,例えばですが描写課題であればディテールにこだわることが求められるようになっていたりすることで解決可能かもしれません。間違い探しのようなsimpleなタスクであっても,違いが有り無しのような単純なものではなく,大きさや長さ,幅のようなものだと必要になる描写の質も変わってきますし。reasoningが必要になるタスクであればそこの質が求められる設計になっていればやりとりの質もあがってくるかもしれません。

評価に関して難しいのは,テスト場面ならある程度示すことができますが,通常の授業場面ではタスクの達成以外(その過程)を評価することがほぼ不可能という問題があります。ただ,私は評価がこうだから,という構造的な解決よりも,学習者に余剰の意味を理解してもらうことを心がけています。評価されるからそれに従う,という構造的解決は少なくともこの事例についてはあまり個人的に好ましいとは思えません。それよりはむしろ,余剰を楽しめる様になることを通してその余剰を生み出せる能力の伸長を期待するというアプローチをとっています。

そういうやりとりはいつでもポジティブなフィードバックをしていますし,一見遠回りで時間がかかっても頑張ってお互いの理解をすり合わせたり細かい部分にこだわってやりとりしているところをできるかぎり拾い上げて全体に共有するようにしています。そうやっていくことで,「それがいいものなのだ」という意識を植えつけていくというイメージです。

宿題

この問題は,次にPodcastにお呼ばれしたらanf先生と話すネタにしますかね…

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

[R] [Excel] 多肢選択の正答をランダムにする

はじめに

いままであまり深く考えたことなかったんですけど,多肢選択式のテストを作るとき,正答をどれに指定するかって規則性がないように,同じものが連続にならないように,とかを「なんとなく」,「雰囲気で」やってきたところがあります。それを,ちゃんとランダムにできないかな,というお話。

R編

なにはともあれ,Rを使います。エクセルでもできるのにRです。Rなら一瞬です。

sample関数とLETTERS関数の組み合わせ

要するに,例えば4択問題であればABCDの4つの中からランダムに1つ選ぶのを問題数分だけ繰り返すってことになりますよね。それを表現してあげれば良いだけです。めっちゃ簡単。

例として,ABCDの4択問題を20問作ることにしましょう。

sample関数を使います。sample関数は次のような引数を取ります。

sample (x, size, replace = FALSE, prob = NULL)
  • x: もとデータのベクトル(今回はこれをABCDにしたい)
  • size: サンプリング回数(20問なのでここに20をいれる)
  • replace: 繰り返しありかどうか(デフォルトだとFALSEで同じものが繰り返し出てこないようになってますが,今回はむしろ繰り返し出てきてOKなのでTRUEにしないとだめ)
  • prob: サンプリングの重み付け確率(どれが何%の割合でてくるようにするか決められます。後述します)

さて,次に問題になるのは,ABCDをベクトルにすることですね。もちろん,

> d <- c("A", "B", "C", "D")

で簡単にできます。よって,

> d <- c("A", "B", "C", "D")
> sample (d, 20, replace = TRUE)

これでOKです。ただ,ほんのちょっとだけ便利なやり方は,LETTERSを使うことです。Rはデフォルトで,LETTERSの中に,A~Zまでのアルファベットが入っています(小文字のa~zはlettersです。

> LETTERS
 [1] "A" "B" "C" "D" "E" "F" "G" "H" "I" "J" "K" "L" "M" "N" "O" "P" "Q" "R" "S" "T" "U" "V" "W" "X" "Y" "Z"

今回は,A~Dの4つだけでいいので,1番目から4番目までをつかいます。sample関数と組み合わせて…

> sample(LETTERS[1:4],20,replace = TRUE)
 [1] "B" "D" "C" "A" "D" "D" "C" "A" "A" "C" "B" "A" "D" "A" "B" "C" "C" "C" "A" "C"

これでばっちりですね。もしも,「えーなんかこれC多くない?」みたいなことが気になる方はこのコード何回か走らせていい感じの組み合わせが出たらそれを使えばいいんじゃないかと思いますが,probでABCDがでる確率の重み付けをつけてあげることもできます。

> sample(LETTERS[1:4],20,replace = TRUE, prob=c(0.25,0.25,0.25,0.25))
 [1] "D" "B" "A" "C" "C" "A" "C" "D" "C" "A" "A" "C" "B" "B" "B" "D" "B" "D" "B" "D"

絶対にいつでも等確率で現れるわけではないみたいで,4つだったり6つだったりするものもありますが,完全なランダムよりは出現確率が揃ってるんじゃないかなと。もしもこれをエクセルにはりつけたければ,出力されたものをそのままコピペして,Text Import Wizardでスペース区切りにしてあげればOKです。縦にしたい場合は転置してください。

Excel編

Excelでもそこまで難しくないです。INDEX関数とRANDBETWEEN関数を組み合わせます。下の画像のようにすればOKです。

B3からB21までは,B2を下にコピーしたものが入ってます。INDEX関数の第一引数で参照元の範囲をしています。これがつまりABCDってことですね。そして,次の引数が縦位置の指定です。本当はこの後ろの第三引数で横位置指定もできますが,今回は1列だけなのでこれでOKです。この位置指定が1のときはA,2のときはB,3のときはC,4のときはDってな感じになるというわけです。そして,RANDBETWEEN関数をここに使うことで,1から4がランダムに出てくれる=ABCDがランダムに出てくれる,ということになります。ちなみに,RANDBETEEN関数は,始点と終点の数値を入れればその間の整数をランダムに返す関数です。

ちなみに,横位置指定を使おうと思えば,ABCDを1列ではなく2列に分割することになります。こちらのほうが数式が長くなるのでおすすめしないですが,INDEX関数の挙動のイメージを理解するために見てみます。

こっちだと範囲が2*2のマトリックスになるわけですね。そして,第二引数(縦位置指定)で1か2のどちらかの数字,第三引数(横位置指定)で1か2のどちらかの数字をランダムに返すようになっています。つまり,(1, 1), (1, 2), (2, 1), (2, 2)の4つのパターンがランダムにできて,それに対応するABCDが返ってきます。(1, 1)ならAというような感じ。もっと大きなデータを扱う場合には縦横指定が必要になるでしょうが,今回の用途には不要なので,ABCDを一列にするほうがいいと思います。

おわりに

別に適当に正答指定して何も悪いことはないのですが,ランダムにするのってできるかな?という頭の体操でした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。