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お世話になります。私は大学生であり、ChatGPTの使用に関するラインについて分からない点があり…

Querie.meの回答をブログに書くシリーズ。最近これでしかブログを更新していない気がしてきています。質問は以下のとおり。

質問

お世話になります。私は大学生であり、ChatGPTの使用に関するラインについて分からない点があり、Tamさんに大学教員として今現在のchatgptの使用についてどの程度まで学生に認められると考えられているかご意見をいただきたいと思っています。

一つの具体例として、エッセイ課題(どの言語でも、例はライティングスキルをみる課題)を書く際にどのくらいChatGPTを使用するとチートと見なされると現在お考えでしょうか。

①単語について質問する。e.g. 今まで、例文を確認して”noxious”という単語が自分のエッセイの文脈に合っているか判断していたが、ChatGPTに聞く。代替え案があれば、その英単語を使う。

②文法や構成の質問をする。e.g. 自分が書いたエッセイをChatGPTに改善(redundantなところはないかを聞くなど)の提案を聞き、その改善された文章をそのまま使用する。

③内容の指示をする。e.g. 自分で考えたthesis statementをサポートする内容の提案を聞く。(具体例の提案など)その内容を参考にする。(あるいは使用する)

Tamさんはなんでも活用できるなら時場合に応じて活用すべきだとお考えだと思いますし、ChatGPTの機能を目的によっては活用することができる点もたくさんあると思います。しかし、現在大学においてChatGPTの使用に関するガイドラインがなく、これから課題のエッセイ、レポート、またプレゼンの制作などにおいてChatGPTをどの程度使用していいかわからず、tamさんのご意見をいただきたいと思っています。

よろしくお願いいたします。

回答

非常に良い質問だとは思いますが,授業を担当される先生に聞くのが一番良いと思います。私の意見も質問者様に理解いただいているようですし。もし万が一私の授業を取っている学生であれば,匿名でこういう場所で聞くのではなく直接メールやLMSのメッセージ機能を利用して連絡してください。

剽窃とはまた違うレベルの話なので,認めるか認めないかや,どの程度認めるのかの線引きを教員側が仮に決めたとしても,学生がそれを守っているかどうかを確かめることは教員側からは不可能でしょう。レポート提出課題などは,教室で実際にレポートを書かせて提出させないのであれば,実際に本人が書いているかを確かめようがないというのと同じような話ではないでしょうか。剽窃検出ソフトウェアは,ウェブ上にあるものに引っかかるかどうかしか検出できないので,例えばですが親や兄弟や友達が代わりに書いたものを自分のものだと偽って提出してきた学生がいたとして,そのプロダクトについての質疑応答のようなテストが無い限りはそのプロダクトの本当の著者が誰かは教員が採点するときにはわかりません。ChatGPTを使ったのかどうかも,教員がコントロールできるものではないと私は思います。だからこそ,実際に授業をしている教員に確認するのが最も重要だということです。

というのが回答です。例として挙げていただいたライティング課題の話だと,どれも「チート」と私は思いません。テストや課題のcheatingはもっと悪質性があるものだと考えています。質問者様の「チート」の使い方や意味と,私がその単語をどう解釈しているのかにズレがあると,そもそもやりとりが噛み合わなくなります。したがって,以下では挙げていただいたライティング課題の例で,1から3の行為をしても良いかと学生に聞かれた時に私はどう答えるのか,という点で書きます。

したがって,「Tamさんはなんでも活用できるなら時場合に応じて活用すべきだとお考えだと思いますし、ChatGPTの機能を目的によっては活用することができる点もたくさんあると思います。しかし、現在大学においてChatGPTの使用に関するガイドラインがなく、これから課題のエッセイ、レポート、またプレゼンの制作などにおいてChatGPTをどの程度使用していいかわからず、tamさんのご意見をいただきたい」という部分については,以下をお読みいただいても回答はありません。

どんな力を身につけるための課題なのか

まず大事なことは,その課題を通してどのような力を身につけることが意図されているのかということかと思います。ツールを利用することも含めて能力であるとみなすのか,その個人が持つものだけをその人の能力であるとみなすのかによって,ツールの利用に対する考え方も変わってくるでしょう。私はツールが使えることも,ツールを使わなくてもできることも,どちらも大事だと思っています。よって,ツールを使うことを認める場合や,積極的に推奨する場合でも,それなしでも同じようなパフォーマンスができることを目指してもらいたいと学生には伝えています(目指すだけでそうなれとは言ってないところがポイント)。

アカデミック・ライティングに限って言えば,その「頂上タスク」と呼べるような目標は,エッセイやターム・ペーパーを書くことであったり,あるいは学術論文を書くことであると思います。そのような課題に実際に英語学習者が取り組む際に,実際には一切のツールの利用が制限されるわけでもありませんし,むしろ使えるリソースは何でも動員して言語面のクオリティを上げることが良いとされているはずです。ライティング・センターのような場所でアドバイスを受けたり,学術論文であれば専門の業者に校閲を依頼することも一般的です。そこを目指していると考えれば,ツールを利用することを制限するよりはむしろ,どうやってうまく使いこなせるようになるのかを教えることも目標に近づくための手段としては何も不自然なことではないでしょう。

ただし,そうしたツールがない状態ではエッセイを書くこともままならないのであれば,質の向上の見込める最大値はリソースを総動員しても低いままだと思います。結局は,どういうものがいいエッセイ,いいターム・ペーパー,いい学術論文であるということがわかっていなければいいものが書けませんし,そういうことがわかるために,そしてそれが自分でも一定程度の水準でできるようにするために必要な(リソースなしでの)英語力は身につける必要があるだろうなと思います。

カリキュラムにもよりますが,ツールなしでのライティングも継続的にやっていくことは,ツールがある場合とない場合の差に自分自身が常に自覚的になれるのでやってほしいところですね。英語力とかどうでもいいし,別に単位だけもらえればそれでいいんですという人は,そもそも大学の授業でもらえる単位がなんらかの知識や技能を習得したことにより得られるものであるという感覚もないと思いますので,何でもやっていいんじゃないかと思います。質問者様はおそらくそういう方ではないからこそこうして長文の質問を送ってくださっているのだと思いますが。

形式面の質向上のための利用

1や2はGrammarlyQuillbotなどのライティング支援ツールを使うのとあまり変わらないと思います。私はこれらのツールをライティングの授業で使うことを推奨しているので,ChatGPTを言語の形式面の質を上げるために使用することを認めないということはないでしょうね。

ただし,私が今年度秋学期に担当していた1年生向けのアカデミック・ライティングのクラスでは,14週目にそうしたツールなしで制限時間付きのエッセイライティング課題を授業内で行いました。ほとんど全ての学生は,その際にツールがないと自分の語彙や文法の知識が圧倒的に不足していてライティングを満足に行えないということを強く感じていたようで,テストの振り返りや学期末のポートフォリオでもそのようなコメントが多くみられました。

ツールを使いこなせばそれなりのものが作れるというのも私は能力であると思っていますが,standardized testなどで測定されるようなproficiencyはそういうものではないので,そこを伸ばしたいと思えばツールを使わないようにしてみるというのも一つの方法なのかもしれません。

内容面のサポート

3についても,Googleで検索して見つけた記事の内容を用いるのとやっていることはあまり変わらないと思います。ウェブ検索を禁じる人はいないと思いますので,3の意味での使用も認めないというのは難しいかなと思います。ただし、ウェブ検索の場合は検索の過程で情報を探し出す,たどり着いた情報を吟味する,得られた情報を取捨選択する,などのような能力が必要となります。こうした能力を重視するのであれば,それはChatGPTではなくウェブ検索でやってもらいたいという意見もありうるかなと思います。

もちろん,ChatGPTの場合も,提示されたものが本当に自分のエッセイにフィットするかどうかを吟味し,提示されたのが複数あればその中から選ぶ必要は出てくるでしょう。しかしながら,ChatGPTに聞く時点で情報はかなり絞り込まれていますので,ウェブ検索で自分の得たい情報を探し出すスキルはChatGPTを使う際には必要ないでしょう。さらに,ChatGPTは平気でそれっぽい話をでっち上げることもあるので,存在しないデータや調査を提示してくるなんてこともあるかもしれません。そうしたことが起こったとしても,それをまたウェブ検索で確かめれば良いという見方もありえますが,それなら最初からウェブ検索で良いのでは?と思います。

辞書は使って欲しい

話を1に戻しますね。1については,辞書は使って欲しいなと私は思います。辞書の例文で確認した上で,自分の判断についてChatGPTの意見を求めるという使い方はいいのではないでしょうか。ChatGPTにどのようなプロンプトを入力するのかによって答え方も変わってきますが,辞書は意味や例文以外にもコーパスのような頻度の情報であったり,文法的な補足が書かれていることもあります。そういった情報に触れる意味でも,辞書は使わない,もうChatGPTでOKというようにはなってほしくないかなと思いますね。少なくとも今の時点では。

理由は理解した上で修正や提案を受け入れる

2の中で文法はともかく構成については,教員が求めるものとChatGPTが出してきたものが必ずしも一致しているとも限らないので,そこは理解しておく必要はあるかなと思います。使用している教科書や題材,エッセイであればエッセイのスタイルなどによって,構成が変化する部分もあるでしょうし,教員が独自に重要視している部分もあるかもしれません。例えば,私は典型的なfour/five paragraph essayにおいて,イントロのthesis statementにボディで言及する内容が含まれているかどうかを重視しています。理由を述べる際に, I believe that this change is necessary because of the following three reasons. のように書くよりは,その3つの理由を簡潔にまとめて,because of A, B, and Cのようにするほうがボディとのつながりが強くなり,結果として読み手にとって内容が理解しやすい文章になるからです。そういうことまで考慮した上で,提示された修正や提案を受け入れるかどうかを判断できるのであれば良いと思います。

また,文法(というか文レベルの話)についても,例えば,「こちらのほうが読みやすいのでこうしたほうが良いです」という理由で修正がなされたときに,その読みやすさは何によってもたらされているものなのかを考える必要があると思います。あるいは,「確かにこっちのほうが読みやすいな」という感覚のようなものを持てているかどうか。そういう判断ができないなら,「使いこなしている」とは言えないでしょう。

おわりに

これは結構いろんな意見の人がいそうですよね。大学がガイドラインを作るっていうようなものでもないかなと個人的には思ったりします。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

学生からの質問と回答の蓄積

はじめに

学生からの英(単)語学習についての質問を受けつけるというのを同僚の先生と一緒に担当している授業の学期の最初の方で毎年やっています。昨年度から,個別に返すのではなく学生からの質問とこちらからの回答をセットにしてQ&A集としてまとめ,それを学生と共有して資料にすることにしました。

なんか今年はコメントの質&量が違う?

この科目を担当しだしたのは着任2年目(2019年度)からでした。2019年と2020年は,学生からの質問は個別にLMS上で返すようにしていました。2021年は,質問と回答をまとめてWordファイルにして,そこにどんどん追記していく形にしました。それをクラウド上で学生が見れるようにしていて,今年度は,昨年度作ったQ&A集を見てから学生にコメントを求める形式に変更しました。昨年度以前も鋭いコメントを書いてくる学生はちらほらいましたが,今年度はコメントの質・量ともに昨年度よりあがっているような感覚が個人的にあります。もちろん,全体の中でいうとやっつけっぽいコメントがあったりとか,本当に資料を見てから書いているのかな?と思うコメントもあります。ただそれ以上にびっしりコメントを書いている学生が多いような印象がするのです(LMSからダウンロードして昨年度と今年度の文字数を比較したらどちらが多いかわかりますけどめんどくさいのでそこまではしません)。

1年生のこの時期は非常に真面目なので,同じ課題をもう少し時期をずらしてやったら全然違う結果になるだろうなとは思いますけどね。ただ,鉄は熱いうちに打てじゃないですけど,そうやって一生懸命書いてくれたことにたいして,こちらも全力でぶつかろうじゃないかという気持ちでいます。その中で,私が研究しているようなことだったり,あるいは言語そのものだったりに興味を持つ学生が少しでも増えてくれたらいいなと思います。

自分自身の研鑽にもなる

私は着任5年目ですが,英語科目(と基礎ゼミ)以外の専門科目を教えたことがないので,学生からの質問に対して,自分の持っている専門的な知識で答えるということがあまりありません。専門科目を教えていらっしゃる先生方は日常的に自分の専門に関わる質問を学生から受けているのだろうなと思うと,専門科目を担当すること自体が研究的な意味での自分自身の研鑽になるなと思いました。自分と同年代でそういう(専門科目を担当する)機会があるという話を聞くと単純に羨ましいなと思います。もちろん授業の準備は大変でしょうけど。ただ,専門科目の授業準備は研究とも繋がっているはずなので,英語の授業の準備とはまた全然違いますよね。自分がそういう科目を任されていないのは,それだけの知識があるとみなされていない(研究者としての力量が不足している)ということだと思うので,講義を任せてもらえるように勉強・研究に励みたいと思います。

いつか講義資料になったらいいな(希望的観測)

さて,冒頭で紹介したQ&A集の中には,研究に言及しながら質問に答えている部分もあります。そういう部分を書いていると,昔読んだ論文をまた読み直したり,あるいは関連する新しい論文を探したりして,結構楽しいです。今は私がそうやって時間を費やして回答したものがどれだけの学生に読まれているのかということはわかりませんが,いずれ,今書いているようなものが自分が専門の授業を担当したときの講義資料の一部になったらいいなと思ったりしています。

1年生に向けて書いているということもあって,柔らかめの言葉遣いで文章を書いています。ただ,いつか講義資料になったらいいなということを念頭に置きながら文章を書こうとすると,内容的な部分でそういう講義資料の一部になってもおかしくないようなクオリティの文章を書かないといけないという気持ちになります(気持ちになるだけで実際にクオリティがあがるかどうかというとまた別の話なんですが)。

絶対に読まないといけない資料ではなく,「読んでね☆」くらいで提示しているものなので,まあ興味のある学生しか読まないのだろうとは思いますけれど,それでもなんていうかこういうところでしか自分の研究者としての知識を授業にダイレクトに反映させる機会もないので,なんか気合いが余計に入っちゃうんですよね。正直言ってそこをサボったところで授業の質が落ちるわけでもないと思うのですが,なんか楽しいから頑張っちゃうんですよね。いつか「あーあのとき頑張っててよかったナイス自分」と思える日が来るといいなと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

就活で「AIに代替されるぞ」って言われてぐうの音も出なくなってしまう外国語学部の学生さんへ

Photo by Markus Winkler on Pexels.com

はじめに

最初に断っておくと,私はまだ現在の勤務先である関西大学の外国語学部に着任して3年目で,なおかつ3, 4年次生の授業を担当したことがありません。よって,この記事で書くことは見聞きした話と想像だけで書いています(自分が直接就活している学生に聞いたわけでもなく,就活している学生の指導(授業担当)はしていません)。一応念頭に置いているのは自分の所属先の学生ですが,どんな外国語学部の学生さんにももしかすると参考になるかもしれません。いや,ならないかもしれません。

もう一つ断っておくと,私自身はいわゆる一般的な意味での企業への就職を目指した就職活動を経験したことがありません。採用の面接の経験というのは,教員採用試験時の面接と,現在の勤務先の採用面接のみです。よって,タイトルの「AIに代替されるぞ」も聞いただけの話(後述)です。

背景

先日(といっても結構前),弊学のキャリアセンターの方から,近年の就職状況の話みたいなのとともに,うちの学部生の就活に関する「ホンネ」というような話も聞きました。その中で,「語学をアピールしようとしても,『そんなのAIに代替されてしまう』と言われてしまう」(大意)みたいなのがありました。

これに対してのアプローチは私の中ではとりあえず2つあって,1つは語学×somethingのsomethingを就活の前までに身につけようというものです。やっぱり語学とあとなにか一つ自分の強みがあれば,そしてその掛け合わせを持っている人があまりいないのであれば,それは自分の強みになるし,需要もあると思います。ただ,今回はそちらの話はあまりしません。むしろ,「AIって言葉にビビらないように知識を持っておこう」という話です。

今回の記事では,外国語学部の学生とか,自分の語学力をアピールポイントにして就活をしようと考えている学生さんを念頭に書くので,AI(人工知能)というのも,画像認識とかよりも言語理解が関わるようなところにだけフォーカスします。

川添愛さんの本を読め

とりあえず,難しい専門書とかをいきなり読む必要はないかなと。まずはこの本を読んでおけば,AIのこととか,言語を理解することとはどういうことなのかというのが理解できると思います。同時に,いま現段階でのAIの限界点もわかってくると思うので,そうなれば「AIに代替されるぞ」なんて言われても,少しは反論(就活で反論していいのかは知らない)もできるかと思うのです。見た目が結構難しそうなのですが,かなり易しく書かれているので就活に臨む段階の学部生の知識レベルであれば問題なくついていけると思います。むしろ,後半部分の言語に関わる部分で理解が難しいと感じるならば,メタ言語的知識というか,言語学的な知識をつけることが必要かもしれません。

うちの学部に限って言えば,カリキュラム上1年生で語学のスキル系の授業を履修し,2年次に留学し,という感じで,どちらかというと「言語を使う」方を重視する傾向にありますが,言語に関する知識を持っているというのは,AIがこれからもっと精度があがっても重要となる知識だと思います(今のカリキュラムはそれはそれでいいところもあるし,現状2年になったときに留学に耐えられる英語力を身に着けさせようと思ったらやむを得ないところもあるので否定はしませんけども)。

あとは,以下の本(物語)も面白いです。

これを読むと,機械への命令(入力する言葉)がいかに重要か,そして機械は世の中の誰でもが使いこなせるものでもない(もちろん訓練すればできるようになるわけですけど)ということが理解できると思います。できれば,物語を読む中で王子の命令がうまくいかないのはなぜか,自分なりの答えを考えてから先に読み進めていってもらいたいなと思います。そういう思考訓練をすると,自分の言語の知識も再構築されるのではないでしょうか。そして,その知識は「AIに(簡単には)代替されないだろう」ということもわかると思います。

別に,私はAIについて楽観論というか,別に大したことないという意見を持っているわけではなくて,言語の理解ってめちゃくちゃ難しくて,まだまだ明らかにされていないことだらけなのだということを言っています。

そもそも,人間の言語に関わる謎って,めちゃくちゃいっぱいあるんですよ。もちろん,それが全部明らかにならないと人工知能がうまくいかないわけではないのですけど。でも今のディープラーニングの技術でいくのであれば,中身は人間にも理解できない仕組みで動くわけですから,エラーが起こったときの原因を突き止めたりできません。これは色んなところでも指摘されていることですね(上述の『ヒトの言葉・機械の言葉』の72-75ページとか)。

入力と出力の関係がわかってないということはつまり,出力がうまくいっているのかを人が判断しないといけない場面はどれだけディープラーニングを使った翻訳ソフトが発展してもなくならないということではないでしょうか。その判断ができるのは,言語の知識を持っている人に限られるわけで,その知識がある,と言えるのであれば,就活で脅されても対応できるのではないでしょうか。

おまけ

で,もう少しビジネス方面にも目を配っておこうとしたら,次の新書も読んだらどうでしょうか。

こちらの本はもっと人工知能の実装の部分の話も多いですが,基本的な理解の部分では『ヒトの言葉・機械の言葉』の第一章と重なる部分もあります。こういう話でもっと知識を得たいと思ったら,参考文献欄に載ってる本を読んでみたらいいのではないでしょうか。

おわりに

別にここで紹介した本を読んだら万事解決ってわけではないんですけど,AIって言われたら全知全能の神みたいな存在だと思ってしまってる人って採用側の人にもいたっておかしくないと思うのです。そのときに,怯まず冷静に会話できるくらいの知識はもっていてほしいなというのが私の願いですね。知識だけ知ってたって現場じゃ役に立たないぞとか言われるのかもしれないんですが,人工知能のことをよくわかってもいないのにAIのことを語る人のほうがよっぽど役に立たないんじゃないのかなとか思いますけどね。

この記事で言いたかったのは,新書レベルでも本を読んで知識を持っておくことは(それがある程度自分の専門である「言語」という部分にも関わるのであるからなおさら)大事ですよということが1つです。もう一つは,「言語のプロフェッショナル」という謳い文句を体現しようと思ったら,言語そのものについての知識(言語学的知識)も大事ですよということです。うちの学部でも言語学系の科目は開講されてますし,曜限があわないとかだったら文学部の授業に出させてもらうとかもありだと思いますよ。私も学部のときに,ゼミで扱ってた統語論の授業に興味を持って,違う学部の言語学の授業に出させてもらったことがありました。そこまで熱意をもってやるのは難しいなぁという方は,『ヒトの言葉・機械の言葉』だけでも読んでみてほしいなと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

「(オンラインになって)授業の質が下がるのではないかと不安」という学生さんへ

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はじめに

タイトルのようなコメントを自分が担当しているクラスの受講生からもらいました。授業が始まる前にインターネット環境等について尋ねるアンケートをして,その中の自由記述の設問に対しての回答でした。色々不安に思っていることがある中で授業の質に関心を持っている学生がいることにまず感謝したいなと思います。

で、まあそもそも「授業の質」ってなんなんだろうなとか,学生が思う授業の質ってなんなんだろうかとか,教員からみた授業の質ってなんなんだろうかとか,二つはどれくらい重複する概念なんだろうか,みたいなことを考えるのも面白いんですが,今回はこれはしません。

授業の質は下がらないんじゃないかということを言います。

なぜ授業の質は下がらない?

ここでは,とりあえず思いついた2つの点について考えてみます。

教室で見えないものが見やすくなる

例えば,教室ではスピーキングをさせても,そのすべてを見ることは教員にはできませんよね。オンライン授業でスピーキングの形が変わるとしても例えばオンラインで録音したものを提出させるようにしたとすれば,その音声ファイルを教員は全員分聞くことができますよね。それについてどんなフィードバックを出すかは教員次第ですが,少なくとも教室内の1/40と,課題の1/40は全然違うと思うんです。課題だと厳密には1対1×40ですからね。その状態であれば,教員側も教室では注意が向かなかったものに気づける可能性もありますし,気づいたことをフィードバックする可能性も教室内よりも高くなるのではないかと思います。研究とかやったら面白いかもしれませんね(簡単に言うけどちょっと考えただけでいくつもの問題が思い浮かびますけども)。

授業外での個別対応が増える

個人的には,対面の授業がない分個別対応の重みが増して,特に語学の授業は逆にクオリティがあがるのではないかなと思ったりしています。対面の授業だと,授業が終わったらみんな終わりって感じになるし,それは教員もそういうケースが多いのではないかと思います。

ところが,オンラインだと例えばオフィスアワーみたいなものの概念もなくなると言ってもいいですよね。そりゃ24/7で学生対応することが教員に求められているということではないんですが,学生からのコンタクトがあればオンライン上でなら対応するという教員は少なくないのではないでしょうか。また,普段はメールかアポ取って研究室しか選択肢がないけれど,オンラインだから学生からの質問を受け付けやすくしている(手段を複数用意して提示している)教員も多いかもしれません。

学生もオンラインのやりとりに否が応でも慣れてくるはずですので,メールだったり掲示板だったり,質問する手段を使うハードルも低くなるような気がします。そうすれば,対面授業のときにはあまり教員にコンタクトをとったり質問したりしなかったような学生も個別対応での教育機会が増えるかもしれません。

また,教員側も,オンライン授業の鍵は学生へのフィードバックである(というかこれがないのではだめだとさえされている)というのは重々承知の上で授業をデザインしているはずですから,いつもよりもフィードバックにリソースを割くのではないかと私は思っています。もちろん,準備の時点で燃え尽きてしまうようだとフィードバックまで手が回らないということになる可能性も考えられますが,授業に費やしているエネルギーがフィードバックにいく可能性は十分にあるのではないかなと。この点は異論がある方もいらっしゃるかもしれませんけど。

おわりに

というわけで,授業の質が下がるかもしれないと思っている学生さんに言いたいのは,とにかくわからないことはガンガン教員に質問しようということですね。教員から与えられるものを待っているだけでは,授業の質が下がるということもあるかもしれません。したがって,自分から学習機会を積極的に確保しにいく姿勢が,通常時以上に求められていると言えるでしょう。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

オンライン授業と対面授業の差分から見えるもの

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はじめに

こんな忙しいときにのんきに個人ブログなんか更新してる場合かと怒られるかもしれないですが,今このタイミングだからこそ更新したいと思った記事なので書きます。あるいは,「あれこの人躁状態かな」と思われるかもしれませんが,それでも書きます。

新型コロナウィルスの影響で,多くの大学が教室での対面式授業をやめて,オンラインで行う授業形態に移行することを表明してきています。その中で,大学教員も試行錯誤をしながらどうやって授業するか日々奮闘しています。この状況は,普段以上に自分の授業(スタイル)を見直すいい機会なのではないかという話です。

オンラインにできるものとできないもの

対面をオンラインに移行するとき,うまく移行できるものと移行できないものがあると思います。もちろん,実現できるツールの存在を知らなかったり,あるいはツールを知っていてもその使い方がわからないので,実はオンラインでも教室と同じようにできるという可能性もあります(注)。そうはいっても,どうしても教室の中でやっているようなことをオンラインではできないという場合もあるでしょう。そうした課題や活動は,対面だからこそできるものだと言えます。

オンラインでもできたらなぜ教室で?

授業の移行を考えたとき,わりと簡単にオンライン上でも同様の活動ができるということであれば,それって本当に教室の中でやる必要あるの?と問い直したいですよね。今までは教室で授業することが当たり前だったので疑う必要もなくやっていたけれど,これって教室に学生全員が揃っていて,前に教師がいて,リアルタイムで,という条件でやらないといけないことなのだろうか,と。

もちろん,例えばただの答え合わせ的な活動であっても,教室の中でやれば教師と学生のインタラクティブなやりとりから学びが生まれたり,あるいは他の学生の発言から学びが生まれることもあると思います。そうやって,何かしら学びの機会を確保しようという意図があるなら教室でやることにも意味があるでしょう。というより,教室の中で行うことに意味をもたせることができると考えたほうがいいかもしれません。

逆に,なんとなく当たり前のように教室でやっていた活動も,実はオンラインで同じような学びに置き換えられるのであれば,これからは対面授業であっても積極的にそのような活動は予習や復習としてオンラインでの授業外課題にしてしまっていいのかもしれません。

私個人としても,大学で教え始めてからは常にそういう意識でやっています。教科書に問題があり,それに学生が答える,というような活動はほとんどLMSに移行し,答えが必ずしもひとつに決まらない問題をベアやグループで考えたり,あるいは教科書の内容は理解した前提で発展的なタスクに取り組ませたりしています。

一方で,オンライン授業ではなかなかそうしたインタラクティブなペア・グループ活動をすることが難しくなります。しかしながら,発想を転換すれば,オンライン授業への移行が難しいなと感じる状況というのは,もしかすると自分の技術不足でもなんでもなく,教室という場に学生が集められ、そこで授業が行われるという環境を生かした授業を普段できているということを意味しているかもしれません。

そのことについては自信を持ちつつ,かといって「私はオンライン授業は無理です」と諦めてしまっては仕方がないので,教室での学びをどうオンラインで表現するかを考える日々になります。全く同じことをオンラインでやることは無理ですし,それは教員にとっても学生にとっても大きな負担を強いることになります。そこで大事になってくるのは具体的な課題や活動の移行ではなく,そこで学生はいったい何を学んでいるのかということなのでしょう。そうやって,具体的な活動を少し抽象的なレベルで捉えることができれば,実は一見まったく違う課題のようにみえるオンライン上での課題が対面授業の課題と同じような学びを誘発できるかもしれません。

おわりに

このように考えてみると,オンライン授業を考えるというのは,普段の課題や活動によって学生は一体なにを学んでいるのか,を問い直すいい機会にもなるなと思っています。実際は,こんなことを書きながら授業準備は一向に進まず先の見えない日々が続いているんですが。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注:ただ,何でもかんでもツールでどうにかすればよいという状況でもありません。教員側が使うツールが多様化すればするほど,学生がそのツールの習熟に費やす労力が負担になるからです。

顕在的「脱落者」と潜在的「脱落者」

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はじめに

タスクみたいなことだったり,あるいはもっと広くペアワークさせたとき,うまくいかないことはしょっちゅうあると思います。その原因を1つに決めることは不可能なことですが,それが「タスク」そのものだったり「ペアワーク」そのものだったりに帰せられるときの問題点についてです。話を単純化するために,この記事でいう「タスク」や「ペアワーク」は理想的なもの(ある目的をもった教室内活動として行われるもの)であることとします。一方で,教師は言葉は悪いですが「平均的」な教師を想定していて,どんな状態でも完璧な授業をする理想的な教師は想定していません。教師の力量を出すとすべてがそれで解決するという議論が可能になるためです。そしてこれは教師個人の資質の問題(つまり問題を解決できない教師が悪い論)にもすり替えられてしまいます。これは私が望んでいることではありませんので,そういった意味でも教師の力量はここでは問わないことにします。

基本的に言いたいことは,福田さんが過去に言っていたことと重なる部分が多いかなと思います(『タスク・ベースの言語指導:TBLTの理解と実践』の第3章の中に書いてあったはずですので本をお持ちでしたらご参照ください。実は過去にブログ記事にも書いてあったような気がしたので探したのですが見つけられませんでした)。こうやって言っておくのは,アイデア自体が私のオリジナルではないということを言っておくためです。ただし,この記事自体は私が書いていますので,以下で述べられることについての文責はもちろん私にあります。

「脱落者」

カギカッコつきです。「脱落者」という言葉がぴったり当てはまっているとは思っていませんが,ここでの意味としては「授業についていけなくなってしまった学習者」くらいの意味で捉えてもらえればと思います。顕在的と潜在的は文字どおりで,教師にとって明らかにそれと分かる状態かどうかの違いと言えます。つまり顕在的「脱落者」は「教室の中で授業についていけなくなってしまったということが教師の観察などに基づいて判断ができる状態の学習者」をここでは指します。一方で潜在的「脱落者」とは,「実際には授業についていけなくなってしまってはいるけれども,教師がそのことに気づけていない状態の学習者」です。なお,「授業についていけない」というのは,求められている課題が学習者の能力を上回っていて,課題の遂行が困難である状態であることとします。よって,そもそも課題に取り組まない,などは含まないということです。

可視化されただけ

この記事で一番言いたいことはこれ以上でもこれ以下でもありません。何らかの言語産出や,協同作業が求められるような授業を行った時に,授業についていけていない状態が明らかになった学習者がいたとき,それはその教室の中に教師が目標としていることを遂行できない学習者がいることが可視化されただけであり,そのことだけをもって「タスク」であったり「ペアワーク」であったりという方法が問題であるということにはならないということです。

「脱落者」をどうするか?

教師がリソースを割いて考えるべきはむしろ,できない学習者が授業内の目標を達成できるようにするにはどのような手立てが必要なのかということでしょう。このことは,どのような指導方法にもついてまわる問題です。どんなやり方であっても授業についていけない学習者が出てくることは起こりえます。そのことが目に見えてわかりやすいのが「実際に言語を使わせる」であるとか,「自分の考えをペアで話し合う」のような活動であるだけです。使わせようとして使えないことが明らかになったら,どうやったら使えるようにしてあげられるのか(=同じタスクをもう一度やらせたときにできるようになるのか)を考えてそれを次の授業(または活動の直後)ですれば良いだけではないでしょうか。「自分で考えないからペアでの意見交換もできない」と考えたのであれば,じゃあどんな仕掛けをすれば自分で考えるようになるだろう,という発想で授業を構成していくということです。もちろん,「言語を使ってなにかできるようになってほしい」とか,「自分で考えて意見を表明できるようになってほしい」ということを教師が願っていて,それを目標として授業をやっているということが前提ですが。「言語を使って何かできる必要はないし(どうせできないだろう)」とか,「自分で考えて意見を述べる必要はない(しどうせできないだろう)」と思っているのであれば話は別です。そういう人がもし仮にいるとすれば,「何を教えているんですか?」と聞いてみたいです。

聞いている=できている?

ペアワークとかではうまくいかないので,教師主導で講義型スタイルでないと授業が成り立たない,と考えている教師がいたとします。これが一般的かどうか,どれだけ多いのか,というのは置いておくとして,このときに私が問いたいのは,

講義型スタイルで授業が成り立っているというとき,そのクラスの中に「潜在的脱落者」はいないと思いますか?また,ペアワークのときに顕在化する「脱落者」の数と比べて少ないと思いますか?

ということです。別にペアワークをやらせないといけないというわけではありません。大事なことは,脱落していないかどうかを確認する手立てがどれだけ授業の中に仕込んであるかどうかではないかと思います。教師-学習者のやりとりでもいいです。「脱落者」がゼロの授業というのができればそれに越したことはありませんが,学習者の数が多くなればなるほどそれはかなり難しくなるでしょう(人数が1人でも課題の難易度設定を誤れば容易に「脱落者」は発生しますしね)。つまり,潜在的であれ顕在的であれ「脱落者」が出てしまうことを避けるのは非常に難しいことなのです。そのうえで教師に求められることは,いかに「脱落者」の存在を把握し,その学習者に対して何らかの手助けを提供することでしょう。文字通り潜在的な「脱落者」は教師の目からは見えにくいので,それを把握することも難しくなります。そうなれば,おのずと手助けを講じることも難しくなるでしょう。一方で,「顕在的脱落者」は教師が見て躓いていることが把握できるわけですから,その躓き具合に応じて指導を行うことが可能なわけです。「脱落者」が出ることよりも,「脱落者」を見逃して放置してしまうことのほうが私は重要な問題だと考えていますので,そうならないように授業を構成しようとします。そうすると,多かれ少なかれ学習者に何らかの反応(言語的やりとりだけに限りませんが)を求める授業スタイルに変化していくのではないかと思います。そして,そのようなことが可能なスタイルの1つとしてタスクだったりペアワークだったりというものも位置づけられるのではないでしょうか。

脱落してもよい

脱落というと諦めてしまうという意味も入ってくるような気がしてしまうので,言葉が良くはないかもしれません。ただ,教室の中ではすべてが完璧にできなくてはいけないということを教師自身や学習者自身が思っていれば,躓いていることが明るみに出るようなことは避けたいと思うのは当然でしょう。周りの学習者よりも自分が劣っていると感じるのは誰だって嫌なことなはずです。そうならないように,つまり見せしめになったりしないように気を使いながら,学習者の状態を観察して適切な指導を行える人こそが良い教師だと思います。

ありきたりな言葉になってしまいますが,教室では躓いてもいいのです。もちろん,あまりにも躓く頻度が高くなれば学習への意欲そのものが削がれていってしまうわけですが,躓いて転んでも起き上がり,一歩でも半歩でも前に進んでいることを実感できる,そんな教室環境が私は理想だと思っています。教師が適切な介入を行うことで意欲を削がずに躓く頻度を減らし,そして成長した部分にはポジティブなフィードバックを行い,教室でともに学ぶ学習者集団としてその過程を肯定的にとらえてみんなで切磋琢磨できるような環境づくりこそが教師には求められるのではないかと思っています。

おわりに

私は別にタスクがすべてとかペアワークは絶対などと思っているわけではありません。ただ,どのような指導の形態であろうとも,教師がすべきことは学習者の状態を観察して,把握し,適切な手立てを施すことだと思っています。大事なのはその部分なのに,タスクやペアワークというのはその言葉だけで批判の対象にされてしまうことも多いので,今回の記事を書きました。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

専門領域の魅力

前回の記事で自分が専門としている領域の話を書いたということをここで宣伝しました。実は,私の所属先のウェブサイトでも,同様の記事がアップロードされました。

教員が語る専門領域の魅力

上記のリンク先には,私が所属している関西大学外国語学部の教員が,それぞれ自分の専門領域について語るページがあります(私のページはこちら)。『英語教育』の記事では,ある程度英語教育研究やその周辺分野についての背景知識もあるだろうと想定される読者向けに書きましたが,上記のリンク先はどちらかというと関西大学外国語学部への入学を考えている方向けかなと思います。もちろん,在学生がゼミを選ぶ際にも参考として閲覧しているかもしれません(私はまだゼミを担当していませんが)。

前述の通り,2つの媒体は想定される読者が違います。したがって,学部のウェブサイトには『英語教育』の記事とはまったく違う話を書きました。ざっくりいうと,意識的・無意識的知識(あるいは明示的・暗示的知識)の話です。執筆にあたり,担当授業に関連付けてほしいというリクエストもあったので,Task-based Language Teachingの話をしようかとも思いましたが,私としてはTBLTはあくまで実践者で,現段階ではそれについて研究しているとは思っていないので,「専門領域」の話ではないと考えてやめました。

英語に限らず,また英語教育に限らず,たくさんの専門家が関西大学の外国語学部にはいますので,興味がある方はぜひいろいろな先生の語りを読んでほしいなと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

「しっかり」っていうの禁止

はじめに

前々から思っていたことなのですが,何度も言うのも嫌になってきたのでここにまとめて日本語で書いておきます。

私自身も「しっかり」という言葉を使っていることはあるかもしれません。よって,以下に書くことは,「自戒も込めて」ということになります。

言いたいことはとてもシンプルで,

「しっかり」,「ちゃんと」,「うまく」あたりの副詞って何か言っているようでほとんどなにも言っていないのと同じだから使用禁止

というだけです。「しっかり」・「ちゃんと」に比べると,「うまく」は事情が若干異なる場合もありますが,それでも別の言葉で言い換えたほうが良いことには変わりないと思います。幅広いコンテクストに当てはまることだと思いますが,特にこの記事で私が念頭に置いているのは,自分の思考を言語化したり,目標設定をしたりするときです。そうした場面では,「しっかり」系の言葉を使わないほうがよいでしょう。

なぜ「しっかり」はだめか

私は学生に,その授業で学んだことだったり,学んだことを次にどう生かしていくかという目標設定だったりを,いわゆる「振り返りシート」に書くことを毎週の授業で求めています。そういうときに,例えば,以下のような例が散見されます。

来週は課題をちゃんとやる

AとBの比較をしっかり書けるようにする

こうした記述を見ると,「ちゃんと」とは,課題で求められている事に対してのをあげていきたいということなのか,あるいは,極端に言えば質はともかくとして定められた期限までに提出するということなのかがわかりません。最悪のケースだと,「課題をちゃんとやる」の「ちゃんと」が何を意味しているのかについて無自覚であるということもあるかもしれません。そこが曖昧であれば,「ちゃんとやれたのか」の評価もできませんし,目標に対して自分がどう行動すべきであるのかも見えてきません。

「しっかり書けるようにする」のケースも同様で,「しっかり書く」とはいったいどういうことなのかがわかりません。つまり,どのようなプロダクトができあがれば,「しっかり書けた」のかがわからないということです。ただの,「AとBの比較を書けるようにする」と「AとBの比較をしっかり書けるようにする」の間にはどのような違いがあるのでしょうか。この部分がわからなければ,「しっかり書ける」ようになるためには何が必要で,そのために自分はどうすべきなのかがわかりません。これこそが,何か言っているようで何も言ってないのと同じであるということの意味です。目標を立てたところで,そのことを達成するためにどうすればよいかや,達成できたかどうかをどう評価できるのかがわからなければ,その目標は立てる意味がないと言ってもいいでしょう。

同じことは,学んだことについて書く場合も同様です。

○○さんのエッセイは,AとBの比較がよくできていたので,自分も真似したい

さて,「比較がよくできた」とはどういうことなのでしょう。それは,「何と何を,どういった観点から切り取って比較したものなのかがわかりやすい」というようなことなのか,それとも,「In contrast, On the other hand, whereasといった比較を導入する表現を使って書けていた」ということなのでしょうか。ここまで具体的に言語化できれば,「自分が真似する」ときに何を真似すればよいのかがより明確になってきていることがわかると思います。

なぜ「うまく」はだめか

「しっかり」や「ちゃんと」と根本的には同じで,「うまい」の示していることが抽象的すぎるというのが問題です。

言いたいことをうまく英語で言えなかった

くらいであれば,頭に浮かんだ内容を英語で表現できなかったということだとわかります。ただし,それは日本語では一語で言い表せることを英語では単語で表現しないので失敗してしまったのか,はたまた関係節を使えば言いたいことを言えたのに関係節が使えなかったのか,といったことについてはわかりません。もしかすると,英語に言い換えもできた,そして関係節も使えた,それでも自分にとっては納得のいくような流暢さで言えなかった,ということなのかもしれません。これがわからなければ,次に何を改善すれば「言いたいことをうまく英語で言える」状態になれるのかがわかりません。それがわからなければ,自分を向上させることは難しいですよね。

ではどうすべきか

もうおわかりかと思いますが,問題点は共通で,言っていることが「抽象的すぎる」ということです。よって,解決策はシンプルです。「しっかり」・「ちゃんと」・「うまく」といった単語を自分が使っているということに気づいたら,「しっかりってどういうことだろう?」というような疑問を自分に投げかけ,より具体的な言葉で言い換えるようにします。上述のだめな例は,例えば以下のように書き換えられます。

来週は課題をちゃんとやる->来週は,期限に遅れないように課題を出す

来週は課題をちゃんとやる->来週は,○語以上という指定を守る

AとBの比較をしっかり書けるようにする->AとBについて比較する理由を明確に書き,その上でどの観点で両者を比べているのかがわかるようなイントロダクションを書く

言いたいことをうまく英語で言えなかった->同棲を英語でなんと言えばよいのかわからなかった

もちろん,「しっかり」系の言葉を使うよりも,具体的に書くほうが何倍も頭を使うことになると思います。ただし,それこそが私が求めているものであり,その具体性があることでこちら(教員)も学生の課題を把握することができ,適切な方法で課題を克服する手助けをすることが可能になります。もちろん,自分の思考を言語化することで自分自身についての理解を深め,それを自律的に自分の行動につなげられるようになってほしいという思いもあります。そういう練習を大学生のうちに積んでおけば,卒業後にあらゆるところで役に立つはずです。

おわりに

上に書いたような現状については,私の責任もあると正直思っています。授業の最後の時間に振り返りということになると,やはり学生としては「さっさと終わらせて早く教室を出たい」と思うのが普通でしょう。あるいは,深い思考を促すに十分な時間を提供できていないという面もあるかもしれません。また,私の「意図」がしっかり (誤解のないように、間違いなく) 伝わっていなければ,そもそもなんのために振り返りをするのかもわからず,「具体的に言語化せよ」といってもそれがなぜ必要なのかがわかりません。この点も私の指導力不足だと思います。以上の点については,今後,私が改善すべきであると認識しています。

学生のみなさまにおかれましては,この記事に書いたようなことを意識して,「何か言っているようで何も言っていない」状態にならないよう努めてもらいたいと思います。これは,もちろん私の信念であることは間違いないですが,それ以上にそうでなければやっても意味がないからです。せっかくやる(やることを求められている)のだから,自分がやったことで得られるものが多いほうがよいですよね。というわけで,よろしくお願いします。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

答えは渡さない理由

タイトルは,答えを「渡せない」理由と言ってもいいのかもしれません。何か問題があって、その答えが1つに決まるようなものの時,私個人としては,学生や生徒に答えやあるいは全訳を渡してしまってもいいと思っています。

ところが,答えを学生が所有している状態をひどく嫌う先生というのが世の中にいるようです。「授業時に渡すのならいいが、授業が終われば回収する」ということもあるようです。残念ながら,私にはどうしてそのことが禁じられるような事なのか理解できていません。よくある理由としては,「学生が答えを写してしまう」であるとか,「学生の間で答えが出回るとよくない」というようなものでしょうか。

私は個人の指導観や授業観のようなものとして,「教師は答えを教え,それを学習者は学ぶ」という形態があまり好きではありません。好きではないというより,それが授業の重要な部分を占めるようなものに否定的といった方が良いでしょうか。

もちろん,学習者が教師の知識を必要とする場面は授業の中にたくさんあるでしょうし,そうした場面がなければ教師は必要ありません。ただし,「答えを知っている存在」というのが教師の存在意義だというような考え方にどうしても馴染めないのです。

「答えを渡したくない」と考える人は,それこそが自分の存在価値であるというように考えているか,あるいは授業とは教師が学習者に答えを教えるという活動がメインであると考えているのかなと思ってしまいます。

しかし,教師だけの責任であるとも思いません。学習者も答えを欲しがります。訳を欲しがります。だからこそ,教師は答えをあげることや自分が訳してあげることに意味があると思ってしまうのかもしれません。あるいは,答えを教えるのが学習者のエンゲージメントを最大化するのだという判断のもとなのかもしれません。

そうであったとしても,問題には答えがあり,それを教師のみが知っていて,それを学習者に教えることが授業だという考えにはやはり同意できないところがあります。例え学習者が答えを知っていたとしてもなお,教師の役割がある,学習者が教師の助けを必要とする,そんな授業をしたいと個人的には思います。そして,答えを写すことや,問題には答えがあり,与えられた問題に答えることが学習である,というような考えから学習者を解放することも教師の役割だと思っています。

他の教科や科目のことは詳しくありませが,英語という教科はそうしたことが可能だと思います。なぜなら,言語の使用場面で答えがひとつに定まるという場合は多くないからです。もちろん,教師個人の努力ではどうにもならないこともあるでしょう。カリキュラムレベルでの目標や組織としての目標と授業設計が常にあり,全ての教師がそこに意思決定権をもたない場合もあるからです。

私は研究者の卵であると同時に,英語教師の卵でもあると思っています(後者については20代後半で卵というのもアレですが)。教員養成課程の出身だということもありますし,英語の授業も仕事だからです。授業研究の専門家ではありませんが,授業のことはこれからも考えていきたいです。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

アカデミックな議論をする能力を説明するのはインプット仮説?アウトプット仮説?

アカデミックな場面で,議論する力を身につけるにはどんな力が必要なのかなという話です。

私は例えばゼミでは,狭い意味で私の研究分野から外れるような発表でも,何かしらコメントしますし,それができないことは研究者としての能力がないことだと思っています。それから,発表資料を作って,わざわざ発表してくれた人に対して,何もコメントがないのは発表者に対しても失礼だと思っています。例えば1対1の状況なら,20分とか時間をかけて話をしてくれた人に対して何も言わないのって絶対あり得ませんよね。それがゼミとかになると普通にあり得てしまう。少なくとも私の参加しているゼミは「1人1回必ず質問」というようなルールはありませんから,90分間何も言わず,その場にいても居なくても同じような存在の人が大半です。例えばM1くらいだと,まだまだ知識や経験が足りないので議論についていけないということもあるかもしれせん。そんなこと言ってる間に修士なんか終わってしまうけどね,と個人的には思っていますけど。

よく聞くのは

  • どういうコメントや質問をしたらいいのかわからない
  • 自分の質問が的はずれで頓珍漢かもしれないから言えない

というものです。そこで,こういう人たち(多くは後輩,Dでゼミ中に一言も喋らない人ははっきり言ってDの院生としての自覚も足りないし資格もない)が,ゼミでの,または学会でのアカデミックな議論に参加できるようになるためには何が必要なのかなと考えました。

1つは先輩や先生のコメントから,どういうコメントや質問をすれば生産的な議論になるのかを「見て,聞いて,学ぶ」というもの。ゼミ中に出てくる質問やコメントが全て「良い」ものだとは限りませんが,ようするにインプット(肯定証拠みたいなもの)をたくさん受けるなかで学習されだろうという見方。この考え方だと,とにかくゼミに出て聞いてれば自然に学ばれることになると思います。そもそもインプットに注意向けてない(全然聞いてない)というのは論外だと思いますので,ゼミに参加する人はみなインプットをしっかり処理していることを前提としています。つまり,インプットさえあればいいというのが1つ目。

2つ目は,インプットだけでは不十分で,アウトプットの機会がなければいけないというもの。つまり,聞いているだけではダメで,なにかしらのアウトプットを行うことで,次第に能力が身についていくだろうという仮説です。アウトプットすれば,「自分の質問やコメントが的はずれか頓珍漢か」ということは検証できるはずです。もし的はずれなら,「いやそれは関係ない話です」というフィードバックを受けて(実際はもっとやんわりとした表現になるでしょうが),自分の質問が的はずれだったことを学習します。アウトプットすることで,否定証拠を手に入れる機会があり,その上でインプットによる肯定証拠もあるので,それによって内部のシステムが構築されていくと。インプットのみだと,「どんなコメントや質問はダメか」みたいなことはわかりません。もちろん,誰か別の人が頓珍漢な質問をして「それ頓珍漢」みたいなことを言われたというようなやり取りをインプットとして受ければ,否定証拠になる可能性はあります。それでも,自分の思考の過程から生み出された質問に対して受けるフィードバッとは違うのかなとも思います。

インプットだけでいいという立場をとると,インプットを浴び続ければ自然に議論に加われるようになるはずです。逆に,アウトプットが必要という立場だと,とにかくアウトプットを促すような介入が必要になってきます。さてどちらが正しいのでしょうか。個人差もあるかもしれませんね。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。