カテゴリー別アーカイブ: 研究

JASELE2015熊本大会発表資料

こんにちは。明日から始まる全国英語教育学会(JASELE)熊本研究大会で,同じ名古屋大学大学院の後輩と,一応先輩の福田さんとの共同研究プロジェクトの発表があります。2日目(8月23日)の朝10:30から第5室(1141)です。anomaly detection(異常検知)の手法を用いずに,統語的に表される等位接続詞の複数(e.g., the boy and the girl)と,複数形態素によって表される複数(e.g., the teenagers)の処理が異なることを示した研究です。元にしているのは,以下の論文です。

Patson, N. D., & Ferreira, F. (2009). Conceptual plural information is used to guide early parsing decisions: Evidence from garden-path sentences with reciprocal verbs. Journal of Memory and Language, 60, 464–486. http://doi.org/10.1016/j.jml.2009.02.003

当日使用する投影資料はslideshareからアクセスできますので御覧ください。なお,当日印刷した資料を配布する予定はありません。ご了承ください。

なお,私が第二著者として参加しているライティング関係の共同研究プロジェクトの発表もあります。こちらは2日目(8月23日)の朝一番,9:30から第12室(1242)です。

川口勇作・田村祐・福田純也 「推敲時の筆記ランゲージングにおける学習者の注意配分とライティングの質の向上―フィードバックの有無に焦点をあてて―」第41回全国英語教育学会熊本研究大会. 熊本学園大学.

こちらの発表資料は,代表者の福田さんにご連絡いただければスライドをお送りします(たぶん)。

JSLS2015@大分

今週末に大分の別府で開催される言語科学会の研究大会で共同研究のポスター発表があります。1年前から追いかけているthere構文における主語と動詞の一致についてです。今回のポスターには盛り込めませんでしたが,別で取ってるデータもあるのでそれもまとめて今年中にどこかに論文を投稿予定です。

昨年JABAETで発表したときの資料はこちら。

 

今回のポスターはこちら。

CELES2015和歌山大会発表資料

中部地区英語教育学会和歌山大会で,同じ名古屋大学大学院の後輩である西村くんと,共同研究の発表があります。語彙のネットワークモデルである階層改訂モデル(Kroll & Stewart, 1994)に基づき,文法の情報である複数素性がどのように処理されているかをL2英単語をみてからL1翻訳のマッチングを判断する課題と,L2英単語をみたあとに写真を見るという課題で検討したものです。資料のPDFはslideshareからアクセスできるようになっていますので御覧ください。なお,当日印刷した配布資料の用意はありませんのでご了承ください。

Schulz (2001)の感想

6/6に,名古屋大学にて第14回日英・英語教育学会(JABAET)研究会が開かれることになりました(詳しい内容はこちらから)。

そこで,論文批評というのがあり,私が文法指導のビリーフに関する次の論文の概要報告を担当することとなりました。

Schulz, R. A. (2001) Cultural differences in student and teacher perceptions concerning the role of grammar instruction and corrective feedback: US – Colombia. Modern Language Journal, 85, 244 – 258. doi: 10.1111/0026-7902.00107

私の概要報告のあと,JABAETの会長である安間一雄先生(獨協大学)より論文の批評があります。私に与えられたのは15分のみで,私のコメントは本番で話すことはなさそうなので,ここに論文を読んだ私の感想を書いておきます。

  • 質問紙調査というものを用いた調査としては極めて質が低いと言わざるを得ない。結果的に質問紙の1項目ずつのパーセンテージを恣意的に定めた10%という基準の差がみられたか否かの報告に終始していて,結局なにを測りたかったのが不明のまま。
  •  本来,質問紙によってある構成概念を測定することを試みる場合,それが適切に測定できているかの検証を行う必要がある。Schulz(1996)においてもそのような手順を経て質問紙の開発を行ったという記述が一切ない。また,文化的に異なる2群と,学習者・教師という2群が設定されているが,それぞれの質問紙が同じ構成概念を測定しているのかどうかも定かではない。したがってそのような質問紙を用いて得られた結果を比較することに本当に意味があるのかどうかも疑わしい。
  • 質問紙項目のワーディングにかんしても,”formal study of grammar”と”study of grammar”が指すものは同じなのか違うのか,あるいは”communicative ability”と聞いたときに回答者が思い浮かべるものは同じであるのかが疑問。
  • さらに,タイトルに有るのは”role of grammar instruction”であるのにもかかわらず,質問紙ではinstructionという言葉は使用されていない。教員側の質問では,なぜか”学習者がどう思っているかを教師がどう思うか”というような質問項目があり,これがなぜ”the role of instruction”に関する教師のビリーフを測定しているといえるのかも不明。学習者側からのlearningと,教師側からのteachingが完全に一致することはないとはいえ,教師側の設問文をみると教師の指導観に関する質問であったり学習者の教師観に関する質問であったり,一見してこれらが教師のビリーフを測定しているのかが疑問である。ただし,理論的な背景に基づいて教師の指導観という構成概念の下位尺度として,教員の指導観と学習者が教師や教師の行う指導に対してどのように感じていると思うか,という2つの構成概念を仮定するならば話は別であるが。
  •  誤りの訂正に関しても同様で,recastsのような暗示的訂正から,規則の説明までも含むようなかなり明示的訂正までかなり幅がある上に,スピーキングとライティングというモードの違いでも訂正の出し方,またその訂正のあと学習者になにを要求するかもかなり変わってくる。2001年時点でもCFでこのような区分がされていなかったということはないはず。
  •  「明示的指導」にも様々なバリエーションがあるのと同様に「誤り訂正」にもバリエーションは豊かである(むしろ前者のバリエーションはかなり無視されている感があるが)。これらの指導効果のメタ分析をするにあたっても,調整変数分析で細かく検討されるわけで,「明示的指導」や「誤り訂正」に対するビリーフといった構成概念を測定する場合にも,これらが捨象されてはかなりぼやけたものしかみることができないはずだ。
    こうした「粗さ」がすべてと言っても過言ではない。何度もいうが,結果的になにが明らかになったのかがわからない。この項目ではこっちの差があってこの項目では差がなかったとか言われても質問紙(とも呼べない代物だが)の1項目の1反応(の5段階をさらに3段階に圧縮している)の差(10%だったら差ありで9%だったらなしという恣意的基準に基づく)なんてもので何かを言おうとするな。私自身が「測ること」に対して厳しいところにいるからとかそういう問題ではなく,この質問紙に何も思わないって人がいたら結構ヤバイだろうと思う。
  • この研究の成果を結局どこに還元したいのかが不明瞭。実際に教室で言語を教える実践者に対して,学習者と教師自身のビリーフが異なっているようなことはないか,そこに気をつけるべきであるということなのかと思って読み進めると,最後には教員養成のおいての,というような話も出てくる。教師のビリーフがSLAの文献に基づいているかそれとも自身の学習経験に基づいているか,というアメリカとコロンビアの比較も,そもそも文化的差異というよりかは教員養成プログラムにおいてSLAや応用言語学,外国語教育研究の文献を読んだ経験があるかどうかが大きいはずである。研究の成果はほとんど英語で書かれているわけであるから,教えている言語は違えど,アメリカの教師(英語母語話者)がそのような文献にアクセスして読むことと,英語を外国語または第二言語として学習した教師が英語の文献を読むことを比べれば,明らかに前者の方がハードルが低いはずである。日本に限って言えば和書でSLAや外国語教育研究の概説書もそれなりに出版されているわけだが,英語教員の中で,教員養成の段階で(実際に教壇に立ってからでもいいが)どれほどの人が「研究の成果を参照しながら自分の指導を考える」というような経験をしてきたのだろうか。修士課程を出て教員になったり,または大学院に戻って勉強したという教員ならば,学術書や専門書を手にとることもあるだろうが。
  • 自身の経験に基づいて教えることがなぜダメで(ダメとははっきり言っていないがこういう対比されるとそう読めてしまうのは深読みし過ぎかもしれない),どうしてSLAを参照している方がよいのかという観点も述べられておらず,外国語環境で教える語学教師は自身のビリーフに依っていてアメリカではSLAちゃんと参照しているとか言われても(しかもそれが少人数のインタビューと自分の身の回りにおいての話だけに基づく主張),だからなんなのかとなるしそれが明らかになったところで分野がどうなるのかと思う。常に知識をアップデートし続けるべきなのだというのならばそれはうなずけるわけだが,SLAといっても玉石混交で細かい部分では「ジャスティス大会」がずっと続いており,「どの文献を参照すべきか」は研究者でも難しい問題なのではないだろうか(いわんや教師をば)。

とにかく表が多くて項目ごとにパーセンテージをひたすら比較するだけで読みづらく,何がわかったかもあやふやで,それがどう説明されるということもなく,悶々させられました。10年以上も前だからしょうがないよねって感じでもないしModern Language Journalは昔は今ほどレベル高くなかったというのはこういうことなんだなぁと思ったのでした(遠い目

おしまい。

なにをゆう たむらゆう

 

書けなかったacknowledgement

ご無沙汰しております。新年度が始まり,大学院のゼミ,非常勤の授業,自分の研究,と,慌ただしい生活が始まりました。

そんな中,昨年度acceptされた論文が,ついにpublishされて手元に届きました。全国英語教育学会の紀要であるAnnual Review of English Language Education in Japanです。

先輩の草薙さんとの共著で,

Asymmetrical representation in Japanese EFL learners’ implicit and explicit knowledge about the countability of common/material nouns.

という論文です。合格点ギリギリで通ったので,査読者との相性も含めて,「ラッキー」だったのだなと思っています。今年は本数も多くて紀要自体分厚めでしたし。その反動で,来年はちょっと厳しくなるのではないかなと邪推しています。

Anyway. 私自身,論文をすっきりと書くのがどうもニガテで,うまくまとめることができず,いつも規定の語数(またはページ数)におさめるためになんとか削って削ってギリギリにおさめるということを繰り返しています。ARELEに載った論文も例外ではなく,正直16ページにおさめるのに相当苦労しました。その関係で,謝辞を書く余裕もなくなってしまいました。というわけで,あの論文のacknowledgementをこの場を借りて書きたいと思います。

まず,あの論文は,昨年度の全国英語教育学会徳島研究大会での口頭発表をもとにしたものです。台風で天候も悪い中,朝一番の私の発表に来てくださった方々,またコメントをいただいた方々にまずはお礼を申し上げます。

また,データを取って口頭発表する前の段階で,名城大学の松村先生が主催する勉強会でも発表させていただきました。その勉強会でもコーパスの頻度データの話などに関して有益なコメントをいただきました。松村先生をはじめ,桃山学院大学の島田先生,静岡文化芸術大学の横田先生,愛知教育大学の藤原先生に感謝を申し上げます。

学内のゼミの方々にもご指導頂きました。口頭発表の後,論文の体裁として書き上げたものを,木下先生のゼミで発表させていただきました。もうデータも取って論文の形になっていたものでしたから,あとは「どう書くか」というところだったわけですが,うまく伝わっていない部分が明らかになり,そこを修正した上で最終的には提出しましたので,木下先生をはじめ,ゼミでコメントをいただいた方々にもお礼を申し上げます(指導教官のY先生のゼミでは一切発表もせずにsubmitしたものというのがヒィィという感じではあります)。

最後に,同じ研究室の隣の隣の席の福田さん。彼の論文(彼の論文もARELEの同じ号に掲載されています!)の謝辞には私の名前が入っていたので(さらにはARELEに掲載された論文を引用していただいてもいる…!),私の論文で彼に対する謝辞を述べられなかったことはとても残念でなりません。毎日のように意見交換し,彼と話す中で自分の考えが整理されていったことは言うまでもありません。その過程がなければ,あの論文が採択されていたかどうかはわからないといっても過言ではありません。本当に感謝しています。そして,これからも一緒に(あと1年しか同じ研究室で過ごす時間はないかもしれませんが),切磋琢磨していきましょう。彼と共著の論文を出版することが,私の今年度の目標でもあります。

同じ大学院生で,単著でARELEに掲載されている方がたくさんいる中で,このようにブログで謝辞を綴るなどというのは「舞い上がっている」のかもしれません。しかし,私にとっては初めての第一著者としての掲載論文であり(査読なしの論文を含めても),私の出発点ともなる論文になることでしょう。これからも,「一発屋」だとか,「草◯の名前がないと載らない」等々言われないよう,一層研究に励んでいきたいと思います。

ということで,これからもご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします。

IMG_3280

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

読解や聴解と語彙サイズ

Language Teachingにまたこれ系の論文出ましたね。

Schmitt, N., Cobb, T., Horst, M., & Schmitt, D. (2015). How much vocabulary is needed to use English? Replication of van Zeeland & Schmitt (2012), Nation (2006) and Cobb (2007). Language Teaching. Advanced online publication. doi: 10.1017/S0261444815000075

僕自身語彙とかの研究やっているわけではないのですが,「現場受け」しそうだよなぁという印象はありますこういうの。Language Teachingは明示的にreplicationとうたっている研究が最近多い感じしますね。それはいいことだと思います。

ちなみに,今年度後期の授業でvan Zeeland & Schmitt (2012)のレビューをしました。資料はこちら

読解にしろ聴解にしろ,「読めた」「聞けた」「理解できた」とするためには正答率何%が適切なのか?またそれはどのような基準で決めるのか。というのがすごく難しい問題だよなという印象です。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

パイロットスタディはなんのためにやるか

なんでもいいけれど,パイロットスタディの結果から何かの効果を示したいとか母集団への一般化をしたいとかいうことなら統計的仮説検定なりモデリングなりすればよいでしょう。
だけれども,「パイロットだから一般化線形モデルで結果を一般化するのはどうなの」とかいうのを聞くと,じゃあなんでt検定はいいの?となるわけです。一般化線形モデルの一般化(generalized)というのは結果を一般化しますという意味ではないでしょう?正規分布しか扱えない一般線形モデルの拡張という意味で「一般化」と呼ばれているのです。結果を「一般化」することを目的としているのは統計的仮説検定でもモデリングでも一緒でしょう。それぞれにアプローチの仕方が違うだけで,得られた標本から別の集団や標本にも適応される何かを見つけるということですよね(ものすごくおおざっぱにいうと)。

パイロットスタディの結果はパイロットスタディでの標本にいえることのみで議論するのだという立場をとるなら記述統計のみで議論すれば良い話。なんのためにパイロットスタディするのか。なんのためにに統計的仮説検定やモデリングをするのか。というかなんのために研究するのか。そういうことをよくよく考えないといけない,ということを再確認したのでした。

なにをゆう たむらゆう

おしまい

lmer関数とglmer関数(Nagoya.Rの発表の補足)

もう2ヶ月くらい前の話ですが,Nagoya.R #12で発表しました。

今更って感じなのですが,ちょっと今お手伝いでLMEをやっていて,自分でも理解があやふやな点がぼろぼろと出てきたのでメモ的に。

僕は発表中にlmer関数と,モデル比較に使えるstep関数の使い方を説明したのですが,どうやらstep関数はlmer関数で出力したもののみに対応している模様。というか,正規分布を仮定したモデルにしか適用できないみたいです。なので,lmerでfamily指定を使ってポアソン分布(poisson) や二項分布(binomial)を指定した場合には出力がされません。また,lmer関数でfamily指定すると警告メッセージでglmer関数を使うようにと言われます。なので,正規分布以外でやるときはglmer関数を使うほうがいいかもしれません。回帰の式の入力はほぼ一緒です。

ただし,glmer関数は結果の出力の解釈が実はちょっと難しくて,一発だけじゃ全水準の多重比較までみれないんですよね。なので,ダミー変数にいれたものの順番を入れ替えて計算を回していくようなのですが,それに使う引数がstartってやつっぽいのですよね。そんないちいちダミー変数入れ替えるなんてめちゃめんどくさいわけで,これで引数指定して一番最初にいれる水準を指定できるようになっているみたいなのです。ただしちょっと使い方がまだよく理解できていなくてですね…

実際に自分の研究でちゃんと使えるようになるにはここは避けて通れないわけなのですが,そっちばっかりに手を回しているわけにもいかず,RのヘルプやマニュアルとにらめっこしてはGoogle検索して…とかやってたらなんか1日終わっているみたいな幸せなのか不幸せなのかわからない昨日今日です。

いろいろ終わってません

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

 

文法の明示的指導研究について思うこと

明示的指導について前々から思っていたことを書きます。

文法に対する明示的指導の有効性は,文法指導研究における主たる関心のひとつです。明示的知識が自動化されるという立場でも,明示的知識が間接的に暗示的知識の習得に寄与するという立場でも,「明示的知識の習得には意味がある」→「それを促進するであろう明示的指導をやる」という流れにすごく雑にまとめるとなると思いますので,その有効性を主張しようとするのは(とりあえず)ここでは問題にしません。私がずっと疑問に思うのは,その前提の部分です。

研究の対象に,大学生が選ばれるケースは結構あります。これはいろんな研究に当てはまるでしょう。大学生以上のある程度熟達度の高い学習者を見たい,あるいはそうでないと見れないものを見たいという動機のばあいもあるでしょう。それは問題ありません。私が気になるのは「中高6年間の英語教育を受けた大学生でも誤用がある」みたいなケースです。これが,「ある程度熟達度が高くても誤用がみられるのでその原因を理論的に探る」とかいう研究の出発点になるならそれはすごく面白いと思います。このモデルでその原因の説明つくとかそういう研究。そういうことは大いにやるべきだと思います。しかし,その「大学生でも誤用が見られる」という現象に対して「教わったことがないのだ」という解釈をしようとする(あるいはそうだと言い切ってしまう)のはちょっと待ってと思います。その教わったことがないっていうのはどうしてわかるの?という問題です。それが,「参加者がそう言っていた」という程度の証拠に基づいた発言ならば,それを信頼できるデータとして疑うことってないのですか?と聞きたくなるわけです。「教わったことがない」というのは,「学習していない」という意味でしょうが,それは「指導していない」と必ずしも同じことを意味しないのではないでしょうか。「指導は受けたけれど学習しなかった(色々な要因があってまじめに取り組んでいなかった)」ということもあるでしょう。また,「学習はしたけれど,覚えていない(のでできない)」ということもあるでしょう。さらに、明示的な知識が一回の指導介入で長期的に伸びるということは,先行研究で支持されていることでしょうか?

「教わったことがない」という人たちはそういった可能性は考えないのでしょうか。「教わったことがないっぽいから教えました。うまくいきました。明示的指導効果ある!」という主張の研究をみると,じゃあとりあえず1年後に遅延テストやってみましょうかねとか言ってみたくなります。ものすごくマニアックな項目(例えば僕がCELESで発表した「非断定的述語」とか)なら教わってないだろうとか言ってもまあまあ説得力があるかもしれません(だって「英語教育研究者」すらなにそれって感じでしょうから)。

しかし例えば自動詞・他動詞みたいなのは本当に「教わらなかった」のかなとか思ってしまいます。ある個別の文法項目に対する明示的な指導が中学や高校時代にあったかなかったかは調べようがないので,「インプットが少ない」というならまだわからなくはありません。教科書に登場する回数が少ないというようなことがデータによって示されるケースです。それでもこの手の論の運び方の問題は,「そもそも教科書に書いてあるものがどれだけ中高生のインプットになっているのか」ということと,「教科書に書いていないことは教えていないのか」ということです。ある特定の項目に対する介入効果をみようとするとき,それが「規則の明示的説明」という明示的指導を指すことは少なくありません。そこで私はこう問いたいです。それやるならもっと面白い「明示的指導」を考えませんか,と。

研究の結果に対して中立的になるならば,「今回の結果は明示的指導の効果があったというだけであって,明示的指導を推進することはしない」という主張もあるのかもしれません。しかしそうであるとすれば,その研究って誰がハッピーになるのだろうかと。明示的指導の効果を検証する研究のゴールはそういった研究を蓄積していって最終的には項目間の差を明らかにするということだと私は思っています。ということは,最終的には,明示的指導に効果のある項目は明示的指導をしましょうとかなっていくはずですよね。しかしながら,その明示的指導がプリントにただただ規則が書いてあってそれを渡して教員が読むなんてそんな工夫のくの字もないような指導のことだったとしたらー規則が与えられるだけでいいのだとしたらーその辺に売ってる文法書を読んだ人はその文法マスターするはずじゃないのと思うわけです。

また,明示的指導の効果としての明示的知識は長続きしないと言われています。しかしながら,明示的知識にもその後のインプット中の気づきの機会を増やすという役割が主張されることがあります。であるとするならば,そういった明示的知識の役割に焦点をあてた研究のほうが,教育的示唆もあるのではないでしょうか?あるいは,明示的知識が維持されるような継続的な介入法を探るというのも1つの方法かもしれません。

要するに,「授業としての指導介入」という視点をまったくもたないような(もっているのか疑わしいような)文法指導研究は,その結果をどこに還元したいの?という点で非常に疑問が多いということです。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。