カテゴリー別アーカイブ: 研究

パイロットスタディはなんのためにやるか

なんでもいいけれど,パイロットスタディの結果から何かの効果を示したいとか母集団への一般化をしたいとかいうことなら統計的仮説検定なりモデリングなりすればよいでしょう。
だけれども,「パイロットだから一般化線形モデルで結果を一般化するのはどうなの」とかいうのを聞くと,じゃあなんでt検定はいいの?となるわけです。一般化線形モデルの一般化(generalized)というのは結果を一般化しますという意味ではないでしょう?正規分布しか扱えない一般線形モデルの拡張という意味で「一般化」と呼ばれているのです。結果を「一般化」することを目的としているのは統計的仮説検定でもモデリングでも一緒でしょう。それぞれにアプローチの仕方が違うだけで,得られた標本から別の集団や標本にも適応される何かを見つけるということですよね(ものすごくおおざっぱにいうと)。

パイロットスタディの結果はパイロットスタディでの標本にいえることのみで議論するのだという立場をとるなら記述統計のみで議論すれば良い話。なんのためにパイロットスタディするのか。なんのためにに統計的仮説検定やモデリングをするのか。というかなんのために研究するのか。そういうことをよくよく考えないといけない,ということを再確認したのでした。

なにをゆう たむらゆう

おしまい

lmer関数とglmer関数(Nagoya.Rの発表の補足)

もう2ヶ月くらい前の話ですが,Nagoya.R #12で発表しました。

今更って感じなのですが,ちょっと今お手伝いでLMEをやっていて,自分でも理解があやふやな点がぼろぼろと出てきたのでメモ的に。

僕は発表中にlmer関数と,モデル比較に使えるstep関数の使い方を説明したのですが,どうやらstep関数はlmer関数で出力したもののみに対応している模様。というか,正規分布を仮定したモデルにしか適用できないみたいです。なので,lmerでfamily指定を使ってポアソン分布(poisson) や二項分布(binomial)を指定した場合には出力がされません。また,lmer関数でfamily指定すると警告メッセージでglmer関数を使うようにと言われます。なので,正規分布以外でやるときはglmer関数を使うほうがいいかもしれません。回帰の式の入力はほぼ一緒です。

ただし,glmer関数は結果の出力の解釈が実はちょっと難しくて,一発だけじゃ全水準の多重比較までみれないんですよね。なので,ダミー変数にいれたものの順番を入れ替えて計算を回していくようなのですが,それに使う引数がstartってやつっぽいのですよね。そんないちいちダミー変数入れ替えるなんてめちゃめんどくさいわけで,これで引数指定して一番最初にいれる水準を指定できるようになっているみたいなのです。ただしちょっと使い方がまだよく理解できていなくてですね…

実際に自分の研究でちゃんと使えるようになるにはここは避けて通れないわけなのですが,そっちばっかりに手を回しているわけにもいかず,RのヘルプやマニュアルとにらめっこしてはGoogle検索して…とかやってたらなんか1日終わっているみたいな幸せなのか不幸せなのかわからない昨日今日です。

いろいろ終わってません

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

 

文法の明示的指導研究について思うこと

明示的指導について前々から思っていたことを書きます。

文法に対する明示的指導の有効性は,文法指導研究における主たる関心のひとつです。明示的知識が自動化されるという立場でも,明示的知識が間接的に暗示的知識の習得に寄与するという立場でも,「明示的知識の習得には意味がある」→「それを促進するであろう明示的指導をやる」という流れにすごく雑にまとめるとなると思いますので,その有効性を主張しようとするのは(とりあえず)ここでは問題にしません。私がずっと疑問に思うのは,その前提の部分です。

研究の対象に,大学生が選ばれるケースは結構あります。これはいろんな研究に当てはまるでしょう。大学生以上のある程度熟達度の高い学習者を見たい,あるいはそうでないと見れないものを見たいという動機のばあいもあるでしょう。それは問題ありません。私が気になるのは「中高6年間の英語教育を受けた大学生でも誤用がある」みたいなケースです。これが,「ある程度熟達度が高くても誤用がみられるのでその原因を理論的に探る」とかいう研究の出発点になるならそれはすごく面白いと思います。このモデルでその原因の説明つくとかそういう研究。そういうことは大いにやるべきだと思います。しかし,その「大学生でも誤用が見られる」という現象に対して「教わったことがないのだ」という解釈をしようとする(あるいはそうだと言い切ってしまう)のはちょっと待ってと思います。その教わったことがないっていうのはどうしてわかるの?という問題です。それが,「参加者がそう言っていた」という程度の証拠に基づいた発言ならば,それを信頼できるデータとして疑うことってないのですか?と聞きたくなるわけです。「教わったことがない」というのは,「学習していない」という意味でしょうが,それは「指導していない」と必ずしも同じことを意味しないのではないでしょうか。「指導は受けたけれど学習しなかった(色々な要因があってまじめに取り組んでいなかった)」ということもあるでしょう。また,「学習はしたけれど,覚えていない(のでできない)」ということもあるでしょう。さらに、明示的な知識が一回の指導介入で長期的に伸びるということは,先行研究で支持されていることでしょうか?

「教わったことがない」という人たちはそういった可能性は考えないのでしょうか。「教わったことがないっぽいから教えました。うまくいきました。明示的指導効果ある!」という主張の研究をみると,じゃあとりあえず1年後に遅延テストやってみましょうかねとか言ってみたくなります。ものすごくマニアックな項目(例えば僕がCELESで発表した「非断定的述語」とか)なら教わってないだろうとか言ってもまあまあ説得力があるかもしれません(だって「英語教育研究者」すらなにそれって感じでしょうから)。

しかし例えば自動詞・他動詞みたいなのは本当に「教わらなかった」のかなとか思ってしまいます。ある個別の文法項目に対する明示的な指導が中学や高校時代にあったかなかったかは調べようがないので,「インプットが少ない」というならまだわからなくはありません。教科書に登場する回数が少ないというようなことがデータによって示されるケースです。それでもこの手の論の運び方の問題は,「そもそも教科書に書いてあるものがどれだけ中高生のインプットになっているのか」ということと,「教科書に書いていないことは教えていないのか」ということです。ある特定の項目に対する介入効果をみようとするとき,それが「規則の明示的説明」という明示的指導を指すことは少なくありません。そこで私はこう問いたいです。それやるならもっと面白い「明示的指導」を考えませんか,と。

研究の結果に対して中立的になるならば,「今回の結果は明示的指導の効果があったというだけであって,明示的指導を推進することはしない」という主張もあるのかもしれません。しかしそうであるとすれば,その研究って誰がハッピーになるのだろうかと。明示的指導の効果を検証する研究のゴールはそういった研究を蓄積していって最終的には項目間の差を明らかにするということだと私は思っています。ということは,最終的には,明示的指導に効果のある項目は明示的指導をしましょうとかなっていくはずですよね。しかしながら,その明示的指導がプリントにただただ規則が書いてあってそれを渡して教員が読むなんてそんな工夫のくの字もないような指導のことだったとしたらー規則が与えられるだけでいいのだとしたらーその辺に売ってる文法書を読んだ人はその文法マスターするはずじゃないのと思うわけです。

また,明示的指導の効果としての明示的知識は長続きしないと言われています。しかしながら,明示的知識にもその後のインプット中の気づきの機会を増やすという役割が主張されることがあります。であるとするならば,そういった明示的知識の役割に焦点をあてた研究のほうが,教育的示唆もあるのではないでしょうか?あるいは,明示的知識が維持されるような継続的な介入法を探るというのも1つの方法かもしれません。

要するに,「授業としての指導介入」という視点をまったくもたないような(もっているのか疑わしいような)文法指導研究は,その結果をどこに還元したいの?という点で非常に疑問が多いということです。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

パフォーマンスとしての授業

昨日,「マイクロティーチング&マイクロリサーチ」という題目のワークショップで,授業者を担当させていただくという機会をいただいた。大雑把な主旨は,

その場で事前事後テストデザインの指導介入を行い,その介入効果を実際にデータ分析して示す

というのを90分でやるというもの。基礎研チームでテストの実施からトリートメント,理論的な背景の説明,分析結果の提示と解釈,考察までをやるというワークショップで,誰がミスってもうまくいかないというものだった。結果として,表面的には成功したように見せることができた。その意味での達成感と充実感はある。ただし,それは表面上の話。このワークショップの詳細は,別の機会にまとまった文章をしかるべきところで書かせていただくとして,自分がやった授業のことを少し振り返っておきたい。

私個人としては,授業は大失敗。そもそも,今まで何百回と授業をやってきて,成功した試しなど一度もないので,授業はそもそもうまくなどいかないものであると思っている。そうではあるにしても,到底納得のいく授業はできなかった。しかし,終わったあとにはお招きいただいた先生にお褒めいただき(お世辞かもしれないが),授業に参加していただいた学生さんからは授業がうまいと声をかけていただくこととなった。僕は失敗したと思ったのにもかかわらずである。まずは,その辺のことを考えてみたい。

私がマイクロティーチングでどのようなことをしたかというと,まず基本は”All English”での授業。日本語は一切使用しなかった。また,文法の明示的説明も一切なし。pre-taskとしてSpot the differenceをやったあと,絵を見せながら学生とインタラクションをしつつ目標構文の暗示的訂正フィードバックを行う。というのが授業の一連の流れ。とにかくハイテンションで,いわゆる「馬鹿」になるということに最初から最後まで徹した。

失敗した点は,次の1点に集約されると考えている。それは,学生に目標言語項目の産出をさせる,学生から目標言語項目を使用した発話を引き出す(elicitation)ということができなかったという点である。

この原因は2点ある。1点目は,学生の背景知識の推定と,教材の選択を誤ったという点である。私は,この間違い探しタスクは,場所を表す前置詞句や,there構文の産出を促すタスクとしてよく用いられていると考えていた。実際に,中学2年次でthere構文が導入される際,この間違い探しタスクを用いるという中学校教員の方は少なくないだろう。ましてや,授業参加者の学生の殆どは英語教育ゼミに所属している学生である。私は,このtask自体の持つ性質と,pre-testにおいてthere構文の項目が多く含まれるということから,task中にthere構文が多く産出されるだろうと予想していた。それを前提に,次の絵描写を含めたインタラクションを行う予定だった。しかしながら,実際にはそのようなことは起こらなかった。教材として選んだ間違い探し自体の問題である可能性もある。その絵がthere構文の産出を促すようなものではなかったということである。そのような教材選択も含めて,このpre-taskは失敗だった。「想定通りにthere構文の産出を引き出せなかった」という点においては。学習者同士が活発に英語でインタラクションをしていた点や,その後に,間違いを多く見つけられたペアに,教室後ろにあったリフレッシュメントのお菓子をポケットから出して渡すということで「ひと笑い」取ったことは教室の雰囲気を良くしたということはあったかもしれない。

原因の2点目は,絵描写とインタラクションにおいて,there構文を引き出すための義務的文脈を作り出せなかったという点である。私は,impressiveというソフトウェアのスポットライト機能を使い,部屋の写真を見せた。その後,停電したという設定で,その部屋にあるものをスポットライトで映しながらそのスポットライトに映るものを描写させるということをした。この設定が,果たしてthere構文の産出を引き出すために適切な設定であったのかどうかは考えなおさなくてはいけないと思っている。さらに重要な事は,インタラクションの際に,どのような質問で学習者の発話を引き出すかという点である。wh疑問文なのか,yes / no疑問文なのか。私は,はじめに,”What do you see?”という疑問文をとっさに使ってしまった。これでは,”I see”….という肯定文か,あるいは,単に”Two pens.”という名詞句しか引き出せない。では,どのような疑問文が適切だったのか。”What are there?”という疑問文が思い浮かぶ方もいるだろう。これなら,”There are….”と答える学習者もいるかもしれない。しかしこれであっても,spontaneousな反応が求められる場面では,”Two pens.”という名詞句だけでも意味的に伝わる上にコミュニケーションのbreakdownが発生しない。さらにいえば,違う場所に同じようなものがあった場合(床と机にCDが置いてある場合)でも,場所の前置詞句を加えるだけでもコミュニケーションができてしまう。日本人は,there構文を習うとやたらとthere構文を連発するというが,there構文が正しく使われる場面とはどのような場面なのか,この構造の機能はなんなのかということを熟考した上で展開を考えるべきであった。そしてそれこそが,授業を準備する際のポイントであると思う。

私はそもそも,この場面にインタラクションを絡めることの必要性というかインタラクションが必須であったかということも考えた。実際,私は絵を見せながらのナラティブでdemonstrationを数回見せるはずが,ほとんどすべてをナラティブで説明してしまいそうになった。そして慌ててインタラクションの必要性を思い出して学生に質問を投げかけたのである。それほどに,ナラティブでの語りでなにも問題が発生しない状況設定であったということである。結果として,私は学生から一度もthere構文の産出を引き出すことができず,終始there構文を私が発話するというinput enhancementに近い指導をせざるを得なかった。学生の発話を私が引き取って,there構文で言い換えて発話するという具合である。この点では,corrective feedbackといえなくもないが,そもそも名詞句のみの発話が間違いではない以上,correctiveであったかどうかは疑わしい。しかし面白いのは,そのfeedbackが学習者の頭のなかにある明示的知識に対してcorrectiveに機能したという点ではある。

そのような「失敗」を犯したにも関わらず,実際には介入効果が認められるという結果になった。それは,学生が「空気を読んでくれた」結果だと思っている。pre-postで結果が図られるということで,「どこに注意するべきか」というように学生が構えていた可能性がある。この点に関する考察もまた別の機会に。

最後にひとつだけ。今回私のことを「授業がうまい」だとか「英語がうまい」とか「すごい」とか思った学生さん(が万が一いるとすればだが)にこれだけは言っておく。私は普段あのような授業はしていない。私は現在専門学校で英語の授業を担当しているが,その授業において,”All English”で,ハイテンションで,「ピエロに徹する」,そんな授業はやったことがない。昨年度,臨時的任用教員として中学校に勤務していたときでさえ,そのような授業はやったことがない。

あれはあくまでワークショップという形式の中の,マイクロティーチングとしてのパフォーマンスの授業である。普段の授業とは全く別物なのだ。初めて会った人たちに,あのような形でやったから,それなりに「面白かった」かもしれないし「うまい」と思ったのかもしれない。しかし考えてほしいことは,本当に教員として授業をやる場合,出張授業などの特別な場合をのぞいては,1回きりの授業などはないということだ。中学校であれば週4時間も授業があるわけで,大学でも毎週1時間で半期15回はある。あの授業を週4回,あるいは半期15回受けたとき,1回目と同じような感想を15回目にも抱いているだろうかということをもう一度考えてみてほしい。たいていはあのような「ノリ」に任せた授業はウケても2度目くらいまでだろう。本当に授業がうまい教員は,言語材料の選択,タスクの選択,授業の組み立て,などなど様々な要素と,生徒・学生との信頼関係などを絶妙に組み合わせていい授業を作り上げる。もちろん,特に中学校であれば「ピエロ」的な要素はとても大事な授業スキルにはなってくるとは思う。ただし,それだけで良い授業は作れないということは肝に命じておくべきだと私は思っている。ワークショップにおいて,草薙さんが話していたこととも重なるが,授業も研究と同じで,あのワークショップで見えたものはほんの10%ほど。ここで少し述べたように準備段階の方がむしろ授業の成否を分けることは多い。今回は特に,そこで失敗したと言っても過言ではない。私の授業力が足りなかった。その一言に尽きる。

以上,長くなったが,昨日からずっともやもやしていたのでここに書いた。静岡では学生さんの卒論発表を聞き,なにか頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。忘れかけていた何かを思い出させてもらえたような気がしている。ありがとうございました。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

JABAET2014発表資料

明日,法政大学にて行われる第20回日英・英語教育学会研究大会において,名古屋大学大学院の福田さん,西村くん,草薙さんとの共同研究を発表します。タイトルは,”Japanese EFL Learners’ Implicit/Explicit Knowledge of Subject-Verb Agreement in existential there: A Self-Paced Reading Study”です。当日配布する資料をスライドシェアにアップロードしましたので御覧ください。研究の概要としては,いわゆるThere構文における主語と動詞の一致に着目し,日本人英語学習者の数の一致に関する知識を自己ペース読み課題と誤文訂正課題という2種類の課題を用いて測定し,明示的・暗示的知識という枠組みでの議論を試みたものです。当初の構想段階からかなり方向転換したところがあり,荒削りな状態ですが,よろしくお願いします。

「本当の〆切」

なんとなくふと思い立ったのでちょっと書いておく。お仕事のこと。〆切とか。長いので読まないことをおすすめする。
大学院生(学生)が仕事とか抜かすなとおっしゃる方もいるかもしれない。それは理解した上で書いているのでご了承いただきたい。
一応私達(私の周りの人と私の事)は日々の業務(トド,あるいはTo doといってもいい)をこなすことを勝手に仕事と呼んでいる。研究室に行くことを出勤と呼ぶ。もちろん出勤簿があるわけもないし勤務時間を管理されているわけではない(ただしRAやTAなど賃金の発生する仕事はもちろん出勤簿もあるし勤務時間も管理されている)。賃金の発生しない業務を仕事と呼ぶなということであればルーティーンワークとでも呼べばよいのだろうか。それはともかく。

どんな仕事をやっていても,〆切というのは必ずあるだろう。それこそ学校生活でも〆切は山ほどある。例えば小学校でも各教科の提出物や,保護者と学校のやりとりの書類の提出の〆切があるだろう。

私達大学院生も〆切というのはある。私達の生活の上で大事なものの〆切といえば,例えば学会発表の申込みと,論文の投稿が大きなものかと思う。他にも研究助成金や奨学金への応募や,非常勤があれば授業準備や成績処理などの仕事がある。今回は特に学会発表や論文投稿の話。

大学院生の仕事の多くは,この学会発表と論文投稿になると考えている。というか研究とはなにかを考えた時,その成果を発表して,そしてそれが認められて初めて研究の意義が出てくる。だから学会に赴いて発表をするし論文を書いて投稿するのだろう。もちろん,業績づくりという意味もある。大学などをはじめとした研究機関への就職を考える場合,研究業績は欠かせない。もちろん教育歴も大事な要素であるが,研究業績で足切りされる場合も多いと聞く。特に私の分野(外国語教育学とか広く言えば応用言語学とか)は文系の中でもそういう志向が強いのではないかと思う(あくまで印象)。共同研究も含めて年に10件近く発表などというのは私の周りでは普通に行われているし,論文の投稿も複数回するのが普通である。というか今しかそういうことができないのでそうするということもあるかもしれない。少し話がずれた。とにかく,学会発表や論文投稿は私達の大事な仕事なのである。それは研究者の大事な仕事とも言えるだろう。ただし,大学教員になると研究する時間はフルタイムの大学院生と比べて圧倒的に減る。
そんな大事な仕事だからこそ,必死にやるわけである。本来であれば〆切間際に焦ってやることがないように計画的に進めるべきではあるが,どうしてもそうはならないことがある。〆切との戦いがある。

しかしながら,「オトナ」の世界には,「本当の〆切」なるものが存在するらしい。私は聞いたことしかないのでよく知らないが,聞くところによると,公になっている〆切を過ぎても「なんとかなる」場合が存在するらしいのである。守らなくてもいい〆切。しかしどうしてその公にはなっていない本当の〆切なるものの存在が流布しているのだろうか。そんなものは本当に存在するのだろうか。

ここからはほとんど私の想像で書く。

私達は,学会発表や論文投稿が主な仕事だと先ほど書いた。しかし,大学の先生方は他にもたくさんの「書き物」,「作文」と呼ばれるお仕事があったりするそうだ。詳しくは知らない。どうもそういったお仕事に「本当の〆切」なるものがあるようだ(他にもあるかもしれない。私の想像による)。

少し考えてみた。その「本当の〆切」が使えるのは,提出先の人が知り合いの同業者の場合なのではないだろうか。だからこそ,「ちょっとくらい遅れても許してもらえるだろう」と考えるのではないだろうか。そしてそう考える本人も,きっと別の仕事で「本当の〆切」の存在を知っているのかもしれない。そうやって,色んな所がそういう仕組みで動いているのかもしれない。確かに,〆切は余裕を持って設定しておくものであろう。全体の仕事に支障をきたさないように,万が一なにかあったときのために,安全策として早めに〆切が設定されると考えるのは自然なことである。

ここからは自分へのブーメランも含む。

その「本当の〆切」をアテにして仕事をするのはどうなのだろうということを考えた。「本当の〆切」があることによって,「どうにかなる」ということはあっていいだろうとは思う。

頑張ったけどもどうしても間に合わずにダメ元覚悟で土下座して出して受け取ってもらえた→次からはちゃんと〆切守ってよね→ありがとうございます!

みたいなのならなんかいいような気もしてくる。そんなことを言っても実際にこの遅れた人が「本当に頑張ったけどダメだったのか」「もともと遅れてもいいやと思ってやっていたのか」はわからないのだけれども。いやそうだとしてもだ。私は,個人的に,最初から〆切を守ろうとしない「ああ,あれは遅れても大丈夫(だろう)」みたいなのは好きではない。遅れて大丈夫かどうかは遅れる人が決めることではなく遅れたものを受け取る側が決めることだからだ。

もっとひどいのは,そうやって,自分がなにかをするときに遅れることは棚に上げて,「あれがまだ来ない」「あそこは仕事が遅い」とか人の仕事にケチをつけだす場合である。

これも程度問題なのかもしれないが。

権威主義的になるつもりもないし,年齢や役職で人を判断して,そこに媚びへつらうような生き方は私も好きではない。生きていくためにはそういうことも必要であるというのは認める。人間関係は大事であるしそれがこの先大事だとも思う。

ただし私は「本当の〆切」なるものの存在を見込んで仕事をしようとは思わないし,そこに関わる人達をみて仕事の質を変えるようなことはしたいとは思わない。少なくとも今は。何事にも100%で臨めない場合もある。自分の限られたリソースを振り分けてなんとか乗り越えなければいけないときに,そういう手段を取らざるをえない場合もあるかもしれない。私はまだない。それは業績がたりないからだと,もっと発表してもっと論文を書けと言われればなにも言い返せない。ただしそれは「本当の〆切」なるものを見込んで仕事をすることを正当化はしない。それを当てにしないとできない量の仕事ならば単純に減らせばいい。

大学院生は忙しいという。確かに忙しいとは思う。しかし先程も述べたように大学教員の先生方よりフルタイム院生の方が時間的余裕は絶対に多い。拘束時間も短い。守るべき家族がいるわけでもない(いる人もいるだろうが)。「本当の〆切」なるものの中で仕事を動かしている人たちとは条件が違うのだ。立場も違う。必要なときは立場が違えど物申すこともあるだろうし,研究の場では年齢や役職に関係なく対等に戦うべきであろう。しかし,「本当の〆切」なるもので世の中が動いていることを知り,そうやって仕事をする人たちを間近に見て,そしてその話が聞ける,ということと,私達が同様に「本当の〆切」なるものを見込んで仕事をするというのは違う。その「本当の〆切」なるもののが非常に特殊な条件(交互作用といってもいい)で効果を発揮することは想像に難くない。だれでもいつでもどんなときでも使えるものとはとうてい思えない。それに,単純に失礼であろう。取引先(という言葉が適切かはわからないが)の人たちの仕事をなめていると思われても仕方がないのではないか。どのような学会であれ,どのような学術誌であれ,そこに投稿する(発表を申し込む)ということは私達のためにプラスになる可能性があるからそうしているはずだ。国際誌,全国誌,地方学会の紀要,学内紀要,のようにランク付けがなされていたり,IFや知名度で泊がついたりつかなかったりすることもある。そうであっても,発表ができれば,論文が掲載されれば,私達は喜んでCVに1行書き足すであろう。だからこそ,「受け入れていただく」側の謙虚さはいつでも忘れずにいたいのだ。強気に出るのならば,〆切を守った上で,研究の内容で勝負しようじゃないか。そこで戦おうではないか。

長くなった。ここに書いたことは私の想像に基づく。想像に基づいて正論(ぽいこと)を書いた。糞真面目に正論と理想論語ってるだけじゃ生きていけないのはわかっている。こんなことを書いておいて10年後(いや半年後かもしれない)に「あそこは遅れても大丈夫」と言っているかもしれない。それはわからない。ただしここに自分が書いたことは忘れずにいたい。大学院生としてどうとか,研究者としてどうとか,そういうこと以前に,仕事をする人間として,〆切を守る。守ろうとする。そういう「オトナ」になりたいと私は思う。そうして初めて,誰かに〆切を守ってもらえると思うから。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

LET全国とJASELEの旅

先週末から学会の旅でした。4日から6日は福岡で外国語教育メディア学会の全国大会,9日から10日は徳島で全国英語教育学会でした。九州も四国も初上陸。観光という観光をすることはできませんでしたが,美味しいラーメンや美味しいラーメンを食べることができたのでとても満足しています。

福岡から徳島行く前に香川県高松市でうどん三昧してきました。いや高松市いいですね。僕の住みたい街ベスト5に食い込んでくる素晴らしい街でした。商店街を歩いているだけでも楽しくて,うどん美味しくて,美味しそうな居酒屋もたくさんありました。今回は1人居酒屋できませんでしたが。高松で行ったうどん屋さんは,黒田屋,竹清,さか枝,バカ一代の4店舗でした。

黒田屋の野菜天うどん

黒田屋の野菜天うどん大

竹清のかけうどん1.5玉,ちくわ天,たまご天

竹清のかけうどん1.5玉,ちくわ天,たまご天

さか枝のぶっかけ小

さか枝のぶっかけ小

バカ一代の冷ぶっかけ大(3玉)とかき揚げ

バカ一代の冷ぶっかけ大(3玉)とかき揚げ

あったかいうどんもいいですが,やはり冷たいぶっかけうどんが暑い夏にはいいですね。うどんのコシもすごいですし。でも,その店ごとにどんなうどんをチョイスしたらいいのかというのはとても難しい問題でした。それもつきつめていくとジャスティス大会なんでしょうけれど。またいつかうどん三昧しに行きたいですね。

徳島は台風11号が直撃して雨と風がすごく,宿泊していたホテルの前の川も増水して溢れそうでした(というかちょっと低くなってるところはあふれてました)。避難勧告の緊急速報も飛び込んできましたが,時間を短縮したりプログラムを同時進行にするなどの対応がとられ,なんとか学会は無事に終了しました。大会運営にあたった先生方,本当にお疲れ様でした。

ブログでも宣伝しましたが,私は1日目に,“Countability of Normal / Material Nouns in Japasene EFL Learners’ Explicit and Implicit Knowledge”というタイトルで口頭発表がありました。日本人英語学習者の名詞の可算性に関する知識のうち,とくに普通名詞と物質名詞に焦点をあてた研究です。名詞周りでは,冠詞や可算性の習得困難性の研究はこれまでにもかなり行われてきています。しかしながら,「困難」というのは実際には明示的知識(簡単にいえば「知っている」知識)としてなのか,あるいは暗示的知識(簡単にいえば「使える」知識)としてなのか,という枠組みでは議論されてきていませんでした。そこで,時間制限のない文法性判断課題(untimed GJT)と,「読み直しせず早く解答してください」という指示をした文法性判断課題(speeded GJT)の2種類を用いてそれぞれの名詞に関する知識がどのように表象されているのかを検証した,というのが研究の概要です。

本番の発表後の質疑では,反応時間の分析手法に関して,ex-gaussian分布へのフィッティングという手法を用いた理由についての質問がありました。この研究では,反応時間の平均値を比較してどっちが有意に早かったとかそういう議論はしませんでした。そもそも,反応時間は正規分布をしないため,正規性を仮定した平均値の比較検定に適さないから,というのがその理由のひとつです。もうひとつの理由は,反応時間データをあくまで分布の確認として使ったというのもあります。ex-gaussian分布は反応時間の分布に近似すると言われているため(参考: RT分布のex-Gaussianによる分析 ―データ解析演習―),ex-gaussian分布にフィットさせて,各条件間の反応時間分布の違いを見たかったという感じでしょうか。反応時間データの分析と図示に関しては,広島大学の阪上先生の発表資料もweb上で見つけました。

反応時間データをどう分析し図示するか

この中では,一般化線形混合モデルを用いた反応時間データ分析の提案がされています。

というわけで,1週間ぶりに名古屋に帰ってきました。もう大学は夏休みではありますが,明日から通常営業に戻ります。

なにをゆう たむらゆう

 

 

JASELE徳島発表資料

8/9-10に徳島大学にて行われる第40回全国英語教育学会(JASELE)にて口頭発表があります。私が第1著者で第2著者は同じ名古屋大学大学院の草薙さんです。発表資料をslideshareにアップしました(発表直前まで変更される可能性があります)。研究の概要としては,2種類の文法性判断課題を用いて,学習者(日本人大学院生)の普通名詞と物質名詞の知識を測定し,それぞれの項目に対してどのように知識が表象されているのかの記述を試みたというところでしょうか。

slideshareからもDLできると思いますが,google driveのリンクも貼っておきます。

https://drive.google.com/file/d/0BzA9X1kZX185SUh6VFA1Wk1TRFE/edit?usp=sharing

発表はなんと1日目の1番目で9:30から第11室です。台風も近づいているようで心配ですが,よろしくお願いいたします。

「英語教育の今―理論と実践の統合」第7章の記述の誤りを指摘する

週末だけ実家に戻り,ようやく私も例の本を手にとった。全国英語教育学会から先日発行された「全国英語教育学会第40回研究大会紀要特別誌 英語教育の今―理論と実践の統合」という雑誌(というより本?)である。自分の専門に関わるところで気になる記述があったので,ここでいくつか指摘をしたい。無論,この書物自体にケチをつけるつもりは毛頭ないのだが,間違った記述が正しいものだとして広く普及することは避けるべきであるという認識のもと,筆をとった次第。具体的には第7章の2.3の「気づき」の箇所について。以下,pp.184-185にある記述の間違いを指摘しながら,第二言語習得研究でいわれるところのnoticingという概念について説明していく。もちろん,私の理解が間違いであるということも十分に考えられるので,その際にはコメント欄にてご指摘願いたい。

この節の著者は,まず気づき(noticing)や気づき仮説(the Noticing Hypothesis)の定義の確認として,Schmidt (1990)で言及されているconsciousnessの3分類に言及している。ここで,「Schmidt (1990)は,意識を3つのレベルに分けている」という記述がある。これが,この部分の記述の根幹にかかわる決定的な間違いである。Schmidt (1990)では,確かにconsciousnessをawareness, intention, knowledgeという3つにわけて論じているが,これは意識の「レベル」の話では全くない。consciousnessという語を使って議論する場合には,それをawareness (意識),intention(意図),knowledge(知識)の3つの意味で使い分けなければならず,どの意味でconsciousnessを使っているのかを明確にすべきであるという指摘である。つまり,consciousnessという語が包括しうる概念の整理といったところであろう。
よって,このあとの議論において,consciousness as awareness, consciousness as intention, consciousness as knowledgeを意識のレベルとして議論をすることは間違いである。これらはconsciousnessの機能であるというほうが適切だろう。図7.2も完全にconsciousnessの議論を誤って解釈しており,Schmidtをはじめ,第二言語習得研究において気づきや意識といった問題をこのような図で捉えている研究者はいないのではないだろうか。ちなみに,この7.2の図の引用元は未出版の博士論文である。
awarenessのレベルが3つに分けられるというのは,Schmidt(1990)でも言及されていることであり,この記述は正しい。perception(知覚)は常にconsciuosnessを伴うわけではなく,サブリミナルであることもあるというのがSchmidtの主張だ。

次に,Schmidt(1990)を批判的に取り上げた論文として知られる,Tomlin and Villa(1994)に関する記述が見られる。Tomlin and Villa(1994)は,attention(注意)という概念からこの問題に取り組んでいる。この論文の主張の根幹は,attentionの構成要素としてalertness, orientation, detectionという3つを取り上げている点である。さらに,彼らの主張によると,alertness,orientation,detectionのいずれもawarenessがなくとも起こりうるとしている点である。Tomlin and Villa (1994)の重要な指摘は,言語習得にとって必要になるのはdetectionであるが,それはawarenessを必要としないという点である。つまりdetectionにはawarenessが伴うこともあるが,awarenessは言語習得に必須ではないということだ。

著者はここで,Schmidtのいうperceptionと,Tomlin & Villa のいうdetectionは「同義であると考えて問題ない」と述べている。しかしながら,これは大問題である。noticingについて語るとき,絶対にしてはならない誤りをおかしている。つまり,attentionとawarenessという2つの概念をごちゃ混ぜにしているのである。これはSchmidtの提唱したnoticingという概念や,認知科学ではあまり用いられないconsciousnessという言葉を用いたSchmidtが招いたことであるのかもしれないが,attentionは人間のもつ認知資源の方向性(意味に向けるか形式に向けるかなど)のことであり,awarenessはその意識の程度の話である。例えば,同じように言語の形式的側面に注意を向けていても,その際の意識レベルはSchmidtの分類に則るならばperception, noticing, understandingというものが有り得るということである。noticingを測定したという研究でも,実際に測っているのはnoticing as attentionか,noticing as awarenessかのどちらかであろう。

オンラインの測定法に限っていえば,前者の注意の程度(あるいは量)を測る方法として,(a)読解中に下線を引かせる(Izumi & Bigelow, 1999; Izumi, Bigelow, Fujiwara, and Fearnow, 1999; Uggen, 2012),(b)ノートを取らせる(Hanaoka, 2007; Izumi, 2002)(c)視線計測装置(Godfroid, Boers, and Housen, 2013; Godfroid and Uggen, 2013; Winke, 2013; Smith, 2012)などの手法が用いられている。これらの手法だけでは,学習者の注意を分析することはできるが,意識の程度を観察することはできない。一方で,例えば学習者のタスク遂行中の思考を実際に声に出してもらい,それを録音して書き起こして分析するような思考発話法(think-aloud protocol)という手法がある。この手法は,学習者の意識のレベルを測るものとして用いられる。言語形式に関するエピソードがあるかないか,あるいはあったとしてそれがnoticingレベルなのかunderstandingレベルなのかといったように学習者の意識レベルを切り分けていくのである(e.g., Hama and Leow, 2010; Leow, 1997, 2000; Rosa and Leow, 2004; Rosa and O’Neill, 1999)。

このように,attentionとawarenessというのは密接に関連してはいても研究するときには慎重に分けて考えなくてはいけないものなのである。そうであるのにもかかわらず,awarenessとして議論しているSchmidtのperceptionを,attentionで議論しているTomlin & Villaのdetectionと同義と考えるのは,「問題ない」どころか大問題なのである。

p.185の最終段落においては,実践的な活動における気づきに関する記述があり,ここで2種類の気づき「穴への気づき(noticing a hole)」と,「形式への気づき(noticing a form)」の関係が述べられている。自分の伝えたい意味内容を自分のもつ言語知識によって表現できないというnoticing a holeが起こったあとに,その穴を埋めるためのインプットが与えられるとnoticing a formが起こるということのようである。しかしながら,この記述はいわゆるアウトプットが気づきを促進するかを測定する研究(e.g., Izumi and Bigelow, 2000; Izumi et al,1999; Uggen, 2012)でよく見られる気づきの発生に関するものである。よって,noticing a holeがなければnoticing a formが発生することはないともとれるこの記述は誤りであろう。インプット中の言語形式への気づきは,どのような状況においても起こりうるものである(例えばインプットに含まれる未学習の語彙や文法項目への気づきなど)。教師側の働きかけとしては,上記のようなアウトプット→noticing a hole→インプット→noticing a formの指導は一例にすぎないということは最後に指摘しておきたい。

以上,「全国英語教育学会第40回研究大会紀要特別誌 英語教育の今ー理論と実践の統合」の第7章2.3の「気づき」に関する論考の間違いを指摘した。具体的には,(1)consciousnessの機能をawarenessのレベルとして捉えること,(2)attentionとawarenessを混同すること,(3)noticing a formはどのような状況においても発生すること,の3点について指摘した。このあたりの議論はややこしく,見開き1ページで説明するのは非常に困難であったであろうことは想像に難くない。しかしながら,間違った認識に基づく議論が広まることは,学問の発展を妨げるものであることは間違いないだろう。最後にもう一度述べておくが,私はこの書籍が刊行されたことを英語教育研究に携わる者として非常に喜んでいる。また,この書籍を執筆された先生方,刊行に携わった先生方への尊敬の念もやまない。この気持ちは,本記事で指摘した箇所を担当された先生に対しても同様である。私の批判は書かれた内容に対するものであり,いかなる人物への批判でもないことは最後に申し添えておきたい。

最後に本記事で引用した文献を以下に記す。

なにをゆう たむらゆう

おしまい

参考文献

Godfroid , A. , Boers , F. , & Housen , A . (2013). An eye for words: Gauging the role of
attention in incidental L2 vocabulary acquisition by means of eye tracking . Studies in
Second Language Acquisition, 35, 483 – 517

Godfroid , A. , & Uggen , M. S . ( 2013 ). Attention to irregular verbs by beginning learners
of German: An eye-movement study . Studies in Second Language Acquisition , 35 , 291 – 322 .

Hama , M. , & Leow , R. P . ( 2010 ). Learning without awareness revisited: Extending Williams
(2005) . Studies in Second Language Acquisition , 32 , 465 – 491 .

Hanaoka , O . ( 2007 ). Output, noticing, and learning: An investigation into the role of spontaneous attention to form in a four-stage writing task . Language Teaching Research ,
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Izumi , S . ( 2002 ). Output, input enhancement, and the Noticing Hypothesis: An experimental study on ESL relativization . Studies in Second Language Acquisition , 24 , 541 – 577 .

Izumi , S. , & Bigelow , M . ( 2000 ). Does output promote noticing in second language acquisition? TESOL Quarterly , 34 , 239 – 278 .

Izumi , S. , Bigelow , M. , Fujiwara , M. , & Fearnow , S . ( 1999 ). Testing the output hypothesis:
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Leow , R. P . ( 1997 ). Attention, awareness, and foreign language behavior . Language Learning47 , 467 – 505 .

Leow , R. P . ( 2000 ). A study of the role of awareness in foreign language behavior: Aware
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Rosa , E. , & Leow , R. P . ( 2004 ). Awareness, different learning conditions, and L2 development . Applied Psycholinguistics , 25 , 269 – 292 .

Rosa , E. , & O’Neill , M. D . ( 1999 ). Explicitness, intake, and the issue of awareness: Another
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