カテゴリー別アーカイブ: 英語教育

ライティングにおいて文の数を制限するとどうなるか

はじめに

下記のanf先生のブログ読んで考えたことを書きます。今まであまり深く考えたことがなかったんですが,以前に自分が関わった研究と,高校ライティングの入試問題の形式って,直接的ではありませんが,つながるところがあるかもしれないなという話です。

2020年度埼玉県公立高校入試問題のライティング問題から読み取るメッセージ

ライティング問題における文の数の指定

上の記事中の中では埼玉県公立高校入試でのライティング問題で文の数の指定が近年では5文以上となっていたものが,今年度は3文以上という指定になったという話があります(それだけがメインじゃないんですけど)。一見すると,書かなければいけない文の数が減るというのは要するに求められる分量が減ったと捉えられると思います。ちょっと別の角度から文の数の指定を考えてみたら面白いかもしれないということを以下で考察してみたいと思います。

文の数の上限をつくるという発想

あくまで,入試問題での指定は,「◯文以上で」という最低ラインを示しているものです。つまり,3文はいいけど2文ではいけないと。これも「制限」ですが,文の数の制限は別のやり方もあります。それは,上限を設けるということです。文の数の下限を設けるというのは,ある一定以上の流暢さ(ここでは入試という限られた時間内である程度の分量が書けること)を求めているというメッセージになると思います。

一方で,同じ内容を表現するにあたって文の数の上限をつけるとどのようなメッセージになるでしょうか。これは1文の中にどれだけ節(または句)を埋め込めるのか,つまり,どれだけ複雑な文が書けるのかを見ますよというメッセージになるでしょう。もちろん,意識的に節を増やそうと考えることを求めているわけではありません。ただ,伝える内容が同じ時,文の数が減るというのは1文の統語的複雑さ(簡単に言うと1文に含まれる節の数が多いことや1文に含まれる語数が多いこと)が必然的に(そして意識するかは別として)あがることが見込まれます。

本当に節は増えるのか?

以前,大学生・大学院生を対象に以下のような研究をしたことがあります。

How Do Japanese EFL Learners Elaborate Sentences Complexly in L2 Writing? Focusing on Clause Types

論文の概要は以下のとおりです。

ライティングによる絵描写タスクを日本語を母語とする英語学習者に課し,その際に用いる文の数に制限をかけることで統語的に複雑な文の産出を誘発し,学習者がどのような節を用いて文を複雑に書こうとするのかを明らかにしようとした論文です。別途行ったエッセイライティング課題をライティングの熟達度として操作的に定義し,熟達度によって用いられる節の数が異なるのかも検討しました。結果として, 文の数が制限されることにより等位節,関係節,非定型節の産出が増え,これらの節は文を複雑にするために学習者がよく用いることが明らかになりました。また,非定型節は熟達度が高くなるほど多く用いられる傾向にありました。これらの結果に基づき,節の数や節の長さなどの指標を用いるのだけではなく,節の種類にも着目することで,学習者のライティングをより詳細に捉えられる可能性について論じました。

https://tamurayu.wordpress.com/2017/02/27/nishimura-et-al-2017/

この研究では,上限を決めるというより,6コマの絵描写を6文で書くよう指示した場合と,そのような制限をつけなかった場合を比較しています。したがって「◯文以内」という上限をつけたわけではありません。よって,上限をつけた場合も同じようなことが期待できるとは限らないという点には注意が必要です。

入試問題へそのまま応用できるというわけではないが…

文数の下限ではない指定という方法が,入試問題の形式として応用可能かというとあまりそうは思っていません。ただ,文数の制限という操作は必ずしも流暢さを引き出す目的ではなく,複雑さを引き出すことにも応用できるのではないかという示唆が上記の研究にはあると思っています。

課題として,それなりに内容的な分量を求めるように工夫すれば,5文以内という制限よりも短い文数で書くことを難しくすることはできそうです。それを例えば2文とかで書いていた場合には,内容的な点でのタスクのゴールを満たしていないということで減点することができます。そして,同じ文数でも…and…but…のように等位接続詞で文をつないでいるのか,Even though…,…のような従属節を使っているのか,the places where the students can learn…のように関係節を使っているのかで,文法知識の発達段階をみることができそうです。もちろん,節だけではなく,節を句で表すことができるかどうかというのも複雑さを上げるという意味ではポイントになります。ただし,特に主語位置でのnominalizationは文理解がしづらくなるので要注意と言われることもあります(https://owl.purdue.edu/owl/english_as_a_second_language/esl_students/nominalizations_and_subject_position.html)。

また,埼玉県入試問題のように,最低ラインがあるような場合でも,うまく比較できれば有益な知見を生み出すこともできるかもしれません。

例えば,3文という最低ラインの作文と,5文という最低ラインの作文を比較することを考えます。この時,もし産出される文数が減るのであれば,そのときに1文の統語的複雑さはどうなるのか,また,そのときにどのような手段で複雑さをあげるのか,というのは面白い観点になり得ます。もちろん,作文で求められる課題があまりにも異なっていると比較としての意味はなしませんが。

おわりに

この記事では,文の数を制限する(下限or上限)を設けるという操作と,それがどのような言語産出を誘発するのかということについて考えてみました。私はこの記事で,「複雑さ」とか「統語的複雑さ」といった用語を割とゆるく使いましたが,それが一体何なのか,そしてどういった指標でそれを捉えるのかといった問題は,それだけで本1冊が書けるくらいの研究領域になっています。よって,あまり安易にこの分野に足を踏み入れると危険ではあるのですが,文数の制限と言語産出というのは,教育的示唆にも繋げやすいかなと思うので,ライティングに興味のある院生さんがいたらぜひ掘り下げていってもらいたいなと思ったりもします。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

顕在的「脱落者」と潜在的「脱落者」

adolescent adult beauty blur

Photo by Pixabay on Pexels.com

はじめに

タスクみたいなことだったり,あるいはもっと広くペアワークさせたとき,うまくいかないことはしょっちゅうあると思います。その原因を1つに決めることは不可能なことですが,それが「タスク」そのものだったり「ペアワーク」そのものだったりに帰せられるときの問題点についてです。話を単純化するために,この記事でいう「タスク」や「ペアワーク」は理想的なもの(ある目的をもった教室内活動として行われるもの)であることとします。一方で,教師は言葉は悪いですが「平均的」な教師を想定していて,どんな状態でも完璧な授業をする理想的な教師は想定していません。教師の力量を出すとすべてがそれで解決するという議論が可能になるためです。そしてこれは教師個人の資質の問題(つまり問題を解決できない教師が悪い論)にもすり替えられてしまいます。これは私が望んでいることではありませんので,そういった意味でも教師の力量はここでは問わないことにします。

基本的に言いたいことは,福田さんが過去に言っていたことと重なる部分が多いかなと思います(『タスク・ベースの言語指導:TBLTの理解と実践』の第3章の中に書いてあったはずですので本をお持ちでしたらご参照ください。実は過去にブログ記事にも書いてあったような気がしたので探したのですが見つけられませんでした)。こうやって言っておくのは,アイデア自体が私のオリジナルではないということを言っておくためです。ただし,この記事自体は私が書いていますので,以下で述べられることについての文責はもちろん私にあります。

「脱落者」

カギカッコつきです。「脱落者」という言葉がぴったり当てはまっているとは思っていませんが,ここでの意味としては「授業についていけなくなってしまった学習者」くらいの意味で捉えてもらえればと思います。顕在的と潜在的は文字どおりで,教師にとって明らかにそれと分かる状態かどうかの違いと言えます。つまり顕在的「脱落者」は「教室の中で授業についていけなくなってしまったということが教師の観察などに基づいて判断ができる状態の学習者」をここでは指します。一方で潜在的「脱落者」とは,「実際には授業についていけなくなってしまってはいるけれども,教師がそのことに気づけていない状態の学習者」です。なお,「授業についていけない」というのは,求められている課題が学習者の能力を上回っていて,課題の遂行が困難である状態であることとします。よって,そもそも課題に取り組まない,などは含まないということです。

可視化されただけ

この記事で一番言いたいことはこれ以上でもこれ以下でもありません。何らかの言語産出や,協同作業が求められるような授業を行った時に,授業についていけていない状態が明らかになった学習者がいたとき,それはその教室の中に教師が目標としていることを遂行できない学習者がいることが可視化されただけであり,そのことだけをもって「タスク」であったり「ペアワーク」であったりという方法が問題であるということにはならないということです。

「脱落者」をどうするか?

教師がリソースを割いて考えるべきはむしろ,できない学習者が授業内の目標を達成できるようにするにはどのような手立てが必要なのかということでしょう。このことは,どのような指導方法にもついてまわる問題です。どんなやり方であっても授業についていけない学習者が出てくることは起こりえます。そのことが目に見えてわかりやすいのが「実際に言語を使わせる」であるとか,「自分の考えをペアで話し合う」のような活動であるだけです。使わせようとして使えないことが明らかになったら,どうやったら使えるようにしてあげられるのか(=同じタスクをもう一度やらせたときにできるようになるのか)を考えてそれを次の授業(または活動の直後)ですれば良いだけではないでしょうか。「自分で考えないからペアでの意見交換もできない」と考えたのであれば,じゃあどんな仕掛けをすれば自分で考えるようになるだろう,という発想で授業を構成していくということです。もちろん,「言語を使ってなにかできるようになってほしい」とか,「自分で考えて意見を表明できるようになってほしい」ということを教師が願っていて,それを目標として授業をやっているということが前提ですが。「言語を使って何かできる必要はないし(どうせできないだろう)」とか,「自分で考えて意見を述べる必要はない(しどうせできないだろう)」と思っているのであれば話は別です。そういう人がもし仮にいるとすれば,「何を教えているんですか?」と聞いてみたいです。

聞いている=できている?

ペアワークとかではうまくいかないので,教師主導で講義型スタイルでないと授業が成り立たない,と考えている教師がいたとします。これが一般的かどうか,どれだけ多いのか,というのは置いておくとして,このときに私が問いたいのは,

講義型スタイルで授業が成り立っているというとき,そのクラスの中に「潜在的脱落者」はいないと思いますか?また,ペアワークのときに顕在化する「脱落者」の数と比べて少ないと思いますか?

ということです。別にペアワークをやらせないといけないというわけではありません。大事なことは,脱落していないかどうかを確認する手立てがどれだけ授業の中に仕込んであるかどうかではないかと思います。教師-学習者のやりとりでもいいです。「脱落者」がゼロの授業というのができればそれに越したことはありませんが,学習者の数が多くなればなるほどそれはかなり難しくなるでしょう(人数が1人でも課題の難易度設定を誤れば容易に「脱落者」は発生しますしね)。つまり,潜在的であれ顕在的であれ「脱落者」が出てしまうことを避けるのは非常に難しいことなのです。そのうえで教師に求められることは,いかに「脱落者」の存在を把握し,その学習者に対して何らかの手助けを提供することでしょう。文字通り潜在的な「脱落者」は教師の目からは見えにくいので,それを把握することも難しくなります。そうなれば,おのずと手助けを講じることも難しくなるでしょう。一方で,「顕在的脱落者」は教師が見て躓いていることが把握できるわけですから,その躓き具合に応じて指導を行うことが可能なわけです。「脱落者」が出ることよりも,「脱落者」を見逃して放置してしまうことのほうが私は重要な問題だと考えていますので,そうならないように授業を構成しようとします。そうすると,多かれ少なかれ学習者に何らかの反応(言語的やりとりだけに限りませんが)を求める授業スタイルに変化していくのではないかと思います。そして,そのようなことが可能なスタイルの1つとしてタスクだったりペアワークだったりというものも位置づけられるのではないでしょうか。

脱落してもよい

脱落というと諦めてしまうという意味も入ってくるような気がしてしまうので,言葉が良くはないかもしれません。ただ,教室の中ではすべてが完璧にできなくてはいけないということを教師自身や学習者自身が思っていれば,躓いていることが明るみに出るようなことは避けたいと思うのは当然でしょう。周りの学習者よりも自分が劣っていると感じるのは誰だって嫌なことなはずです。そうならないように,つまり見せしめになったりしないように気を使いながら,学習者の状態を観察して適切な指導を行える人こそが良い教師だと思います。

ありきたりな言葉になってしまいますが,教室では躓いてもいいのです。もちろん,あまりにも躓く頻度が高くなれば学習への意欲そのものが削がれていってしまうわけですが,躓いて転んでも起き上がり,一歩でも半歩でも前に進んでいることを実感できる,そんな教室環境が私は理想だと思っています。教師が適切な介入を行うことで意欲を削がずに躓く頻度を減らし,そして成長した部分にはポジティブなフィードバックを行い,教室でともに学ぶ学習者集団としてその過程を肯定的にとらえてみんなで切磋琢磨できるような環境づくりこそが教師には求められるのではないかと思っています。

おわりに

私は別にタスクがすべてとかペアワークは絶対などと思っているわけではありません。ただ,どのような指導の形態であろうとも,教師がすべきことは学習者の状態を観察して,把握し,適切な手立てを施すことだと思っています。大事なのはその部分なのに,タスクやペアワークというのはその言葉だけで批判の対象にされてしまうことも多いので,今回の記事を書きました。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

インプット仮説とアウトプット仮説ってそういうことか?

はじめに

Twitterに流れてきた下記の記事を読みました。

4技能の英語民間試験を大学入試に導入」の根拠とされる学習指導要領改訂のポイントとは?

入試にスピーキングだったりライティングだったりの産出技能を取り入れることに関連して,第二言語習得研究におけるインプット仮説とアウトプット仮説が紹介されています。そして,そこからアウトプットの重要性が導き出されます。この2つの紹介の仕方に語弊があるというか,当該記事の筆者と同様に第二言語習得研究を専門としている者として納得がいきませんでした。この記事でどこに語弊があって,なぜ納得がいっていないのかを書いておきたいと思います。私がここで取り上げる事自体は,上記記事の中心的話題というわけでは必ずしもないですが,理論的な援用がされていると考えられる部分に問題があるのではという意味で指摘する必要があると考えた次第です。

インプット・ファースト?

この記事ではインプット仮説はインプットの重要性を主張したもの,そしてそれに対比されるようにアウトプットの重要性を説いたのがアウトプット仮説だと紹介されています。それについては異論ありません。ただし,インプット仮説=「インプット ・ファースト」と表現することは語弊があると思います。つまり,インプット仮説とアウトプット仮説の対立は,

なぜ英語学習の早い時期からアウトプットが必要なのでしょう?最初はインプット(リスニング・リーディング)だけでは駄目なのでしょうか?

という問いに対する答えを与えてくれるようなものではないし,研究者たちもそのような主張をしているわけではないということです。

この2つの仮説の対立は,必ずしも「先にインプットがあってからアウトプット」ということではありません。言語習得にはまずはインプットというのは大前提の話なのでそこは否定しようがないはずで,アウトプット仮説を提唱したSwainもそのように主張したわけではありません。

インプット仮説はインプットのみ(正確にいうと理解可能なインプット)で習得がされるとした(注1)のに対して,アウトプット仮説は,インプット理解のみでは言語の形式面に注意を向けなくても意味の理解が可能な場合が多く,インプットのみでは限界があるということを指摘したわけです。この主張の背景にはカナダのイマージョン環境でフランス語を学ぶ学習者たちの存在がありました。イマージョン環境でフランス語を学び,フランス語を理解すること,そしてフランス語を使って対話相手に理解されることができるようにはなっても,産出技能ではまだ母語話者とは差があり,非母語話者としての痕跡が残ってしまったのです。この状態からさらに上のレベルに到達するためにはアウプットを通して言語の形式面に注意した処理が必要になるのではないかというのがSwainの考えでした。

初期段階からアウトプットも大事だという主張には同意

私も,学習の初期段階でアウトプットをさせるべきではないとは思っていませんし,インプットだけで良いとは思っていません。インプット・ファーストの原則は守りながらも,アウトプットもさせれば良いだけです。このことを,学校の授業展開を例に取って考えてみましょう。

マクロな視点で見た時に,例えば最初の3年間はインプットしかやらず、その後3年間でアウトプットだけやるというのが「インプット・ファースト」であれば,私は反対です。また,これの方がいいという研究者もあまりいないのではないでしょうか。

大事なことは,インプットの方が簡単だから先でアウトプットの方が難しいから後なのではないということです。インプットにも,アウトプットにも,難易度の差はあるわけです。つまり,簡単なインプットがあれば難しいインプットもあり,簡単なアウトプットもあれば,難しいアウトプットもあるということです。私が大事だと考えるのは,簡単なインプット→簡単なアウトプットという難易度の順番です。つまり,インプット→アウトプットということだけではなく,まずは難易度の低いものから徐々に難しいものへという大きな流れも考える必要があるのです。この点において,私は学習の初期段階でもアウトプットさせることは可能だし,むしろ学習者のレベルにあっているのであればどんどんさせていいと思っています。

ミクロなレベルでの授業の構成では,インプット->アウトプットになることは十分にありえますし,むしろアウトプットを取り入れている授業のほとんどはこうした形態になっているのではないでしょうか。例えば最初の1時間目はインプット,2時間目はアウトプットというように「インプット・ファースト」になっていることは当然あるでしょう。あるいは1時間の中で最初の30分はインプットでその後の30分でアウトプットということもあるかもしれません。そして,このことを私は何ら間違っているとは思っていません。むしろ,「インプット・ファースト」は大原則であるとさえ思っています。

「インプット・ファースト」とPPPは違う

ただしここで注意したいのは,このインプットからアウトプットという流れは,必ずしも直前に受けたインプットがその場で習得されてその直後のアウトプットで完璧な形で表出すると想定しているわけではないということです。Presentation, Practice, Production (PPP)の授業構成のように,その日に教えた文法をその日のうちに正しく産出させるような考え方を私は採用しません。むしろ,第二言語の発達はある側面を1回または数回の授業で完璧にして,完璧である側面を増やしていくのではなく,不完全ではあるけれども総体としての形を作っていくという過程を辿るからです。このような考え方でいくと,次の記述にも同意できません。

「インプット・ファースト派は「まずはしっかりと文法を理解してから、アウトプットの練習をしよう」と考えます。

前述のように,ミクロな視点でインプットは先にすべしという考え方を「インプット・ファースト派」と呼ぶのであれば,私は間違いなく「インプット・ファースト派」だと思います。しかしながら,私は「まずはしっかりと文法を理解してからアウトプットの練習をしよう」などとは考えません。これは過去に書いたいくつかのブログ記事であったり,下記の本に収録されている拙稿を読んでいただければわかるかと思います。

タスク・ベースの英語指導―TBLTの理解と実践 

まとめ

ここまでの議論から明らかなように,上記記事中のインプット仮説・アウトプット仮説の説明の仕方は,学術的に不適切であると言えます。一般向けに書かれた記事ですので,ある程度噛み砕いて説明する必要があったことは十分に理解できますが,それでも上記記事は読者にインプット仮説を誤った形で伝えています(注2)。

「インプット・ファースト」はインプット仮説の主張のことを指しているのではなく,私の主張は誤読に基づいているという反論もあり得るかもしれません。しかしながら,それはかなり無理筋でしょう。インプット仮説を紹介する節の最後に、「この『インプット・ファースト』の法則」と書いてあるにもかかわらず,「この『インプット・ファースト』の法則」がインプット仮説を指しているわけではないと読むほうが困難です。だとすれば,「この『インプット・ファースト』の法則」の「この」が指しているのはなんでしょうか。

おわりに

「第二言語習得研究者のコミュニティはあまり身内の批判をしないけれど,誤ったものを誤っていると指摘することも研究者の大事な責務である」,というような話を寺沢さんとポッドキャスト収録で話したので,今回はこういった記事を書きました(注3)。それ以上でもそれ以下でもありません。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

 

注1.英語ではcomprehensible inputと言いますが、これも抽象的な概念なので、実際に何が学習者にとってのcomprehensible inputとなるのかとかを操作的に定義するのは結構難しいという問題があります。ここではこの問題には触れません。また,インプット仮説の意義はこれだけではなくて,習得(acquisition)と学習(learning)を分けたというところにもあると個人的には思っています。詳しくはまた別の機会に論じたいと思いますが,このような考え方自体は形を変えて今でも受け継がれているといえると思います。例えば,明示的・暗示的知識もこの流れでしょう。

注2.アウトプット仮説の説明自体(気づきと文法の意識化の話など)は問題ないかと思いますが,インプット仮説との対比の仕方は語弊があると思います。

注3.英語教育2.2CAST2月号ではこの話にはなっていませんが,寺沢さんとの対談の最終回にこの話をしています。

 

ライティングの授業でビデオフィードバックをやった話

はじめに

私は過去の記事で,自分のライティングの実践について何回か書いてきました。その中でもフィードバックをどう出すかということは常に悩みのタネでした。

Word Onlineを活用したライティング活動

ピアフィードバックの話(ライティング)

ライティングの授業

Word Onlineを使って書いている最中にフィードバックを出しつつも,授業中の書いている時間だけでは私のフィードバックが追いつかないですし,学生も授業外の時間を使って次週までに仕上げてくるということも多いので,授業外でもフィードバックをする必要はありました。もちろんフィードバック出さないという選択肢もアリなんですけどね。私はコミットする方を選びました。Wordのコメント機能で普段はフィードバックをして,最終稿はPDFで出してもらっていたのでそこにiPad×Apple Pencilで書き込みをして返却していました。

とはいえ,書くのってめんどくさいんですよね。タイプするにしろApple Pencilで書くにしろ,とにかくめんどくさい。そこで,「これもう書くのめんどくさいから喋っちゃえばいんじゃね?」,「ドラフト見ながら直すべきところについて喋ってそれを画面キャプチャで録画して,その動画を見てもらうほうが効率よくフィードバックが返せるんじゃね?」と思ったのでやってみたわけです。

これは画期的なことを思いついたなと思いました。しかしですね,そんなに甘くなかったよというのが今回のお話です。

ビデオフィードバックのほうが時間がかかる

結論から言いますと,ビデオフィードバックのほうが普通にWordやPDFに書き込みするより時間と労力がかかりました。毎週やらないにしても,私は2クラス合計で30人以上を担当していたので,この人数に対してビデオフィードバックは無理がありました。もちろん,隔週で1クラスごとにしたり,あるいはビデオフィードバックを希望する学生の締め切りを早めに設定して人数を少なくしたり,最終的にはSlackのPollでビデオフィードバックがいいと回答した学生のみにビデオフィードバックをするというようにして対象となる学生の人数を意図的に減らそうとしました。学生にとっては申し訳ない気持ちもありますが,このためだけに研究室に泊まったこともあったので,正直そこまでしてやれないなというのが感想です。今後同じようにビデオフィードバックをするのであれば,500語以下のエッセイであれば10人,150語程度のエッセイであれば15人くらいでないとやらないと思います。それくらいしんどかったので,はっきり言ってビデオフィードバックは全くおすすめできません。

どんなビデオフィードバックをしていたか

少しだけ,実際にどのような方法を実践していたのかについて簡単に述べます。ドラフトのWordファイルは学生と教員でOneDrive上で共有されていますので,毎週指定した日時までに,その週までに書き上がっているべきところまで書けている者に対してビデオフィードバックをするようにしていました。方法としては,Macにデフォルトで入っているQuickTime Playerの動画キャプチャ機能を使って動画を録画していました。ファイルを開き,一旦読んでコメントしようと思っている場所にマーカーをつけたり,あるいは意味が理解できない場所に「???」とコメントを挿入したのち,その画面を見ながら,iPhoneについてくる純正のマイク付き有線イヤフォンを使ってフィードバックを一通り喋って録画し,その動画ファイルを個別に学生とOneDriveで共有するという方法をとっていました。次の授業時に学生はそのフィードバックを見て修正をするという感じです。たまに画面をスワイプして辞書の用例を見せたり,あるいはGoogle N-Gram Viewerでコロケーションの頻度を見せたり,iwebコーパスのコンコーダンスラインを見せたりしながらフィードバックをすることもありました。

指定の日時より遅れてファイルが更新された学生については,時間が遅すぎれば何もコメントしませんでしたし,少しの遅れくらいならWord上でコメントするだけにしていました。Final DraftはPDFなので,iPadで動画キャプチャを取りながら書き込みをすることもありましたし,Wordファイルのときと同じようにMacでPDFファイルを開いてそこにマーカーつけたりしたものに対してしゃべることもありました。

なぜ時間がかかるのか

上記の説明を読んでいただければ,それだけで,「これは時間かかるだろうな」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。ただ,様々なリソースを参照する作業については私の英語力不足もあって結構頻繁に行っていました。間違ったことは教えたくありませんし,自分の感覚だけでは自信がないなと思える部分もあったからです。

しかしそれ以上に私が感じたのは,しゃべるほうが丁寧に言葉を尽くすから時間がかかるということです。つまり,コメントを書き込むだけだとスペース的にも時間的にも最小限の言葉で伝えようとするので,1箇所に対して長くコメントをつけることにはなりません。ところがしゃべるのは書くより楽なので,1箇所に対してすごく丁寧にコメントするんですね。これ自体はいいことで,私は学生から「コメントがきつい」「怖い」とそれまでは言われることもあったんですが,動画のフィードバックだと「優しい」「わかりやすい」というポジティブな感想しかもらわなかったです。私の労力を度外視して単純に学生の満足度という観点だけを考えれば,ビデオフィードバックをやったほうが学生には受けると思います。これはどんな先生がやってもそうでしょうね。でも考えてみればそりゃそうだろうという感じで,ビデオとはいえ学生からしたら長いときで15分くらい1対1の感覚で先生から指導を受けるわけですから,その手厚い指導のほうが,Wordのコメントを読むよりも丁寧な指導を受けていると感じるに決まっています。普段の授業で学生1人に対してそんなに長い時間つきっきりで指導することなんてできないわけですしね。

また,なぜか動画になると,「このイントロのところはすごくいい流れだと思う」とか「全体の構成としては前よりは良くなっているなと思う」みたいなポジティブなコメントをしている自分に気づいたりもしました。WordやPDFでのコメントだとほとんどそんなことはしていなかったと思います。ポジティブなフィードバックを出すこと自体はいいことなのですが,そういうコメントもしている分ビデオフィードバックは時間が余計にかかりました。

また,それ以外にも読みながらコメントをしゃべることができないため,(1)読む,(2)コメントすべき箇所に目星をつける,(3)実際に動画を収録する,という3つのプロセスを経ないといけませんでした。したがって,読みながら,たまにコーパスや辞書にあたったりしながらコメントをしていくよりも時間がかかるということもあります。本当に即興でコメントを喋ろうとすると,当然ながら沈黙が空いてしまったり,話す内容があっちこっちにいったりして見る側からしたらわかりづらいものになってしまいます。かといって,収録したあとにあとから編集なんぞしようもんなら余計にめんどくさい作業が増えてしまいますよね。その意味でも,ビデオフィードバックはハードルが高いなと思いました。

時間をかけただけの効果があるか

データを取って分析したわけではないので,これはあくまで私の印象論になりますが,学生が「わかりやすい」というような感想を述べたところで,それすなわち身になっているとは限りません。そして,正直言ってビデオフィードバックにしたから学生が伸びた,とは少なくとも秋学期のだいたい半分手前くらいから始めた実践の短い間(おそらく10週くらい)では感じられませんでした。ライティングのクオリティがあがっているなと感じた学生はビデオフィードバックでなかったとしても伸びていただろうなと思いますし,ビデオフィードバックで丁寧に指導しようが,それがドラフトに反映されてこない学生がゼロになることはありませんでした。つまり,時間と労力を注ぎ込んでも(そのつぎ込み方の問題だと言われたら何も言い返せませんけど),それに見合った成長が見られたという実感は正直ありません。もちろん,短期的には見えなかっただけで、この先に何か変化が見られるかもしれませんし,今後の彼らの学習経験に何か影響を及ぼすかもしれません。

おわりに

ということで,ビデオフィードバックは人数が非常に限られたライティングのクラスでなければ,教員の負担だけ倍増して,フィードバックするのすら嫌になってくる(のに学生からはもっとほしいと求められる)のでおすすめできませんという話でした。正直,ビデオフィードバックができるくらいクラスサイズが小さいのであれば,いちいちビデオフィードバックにせずとも授業中に1人ずつ呼んで10分間面談するのでいいと思います。授業外でフィードバックを出さなくてはいけないからこそ負担感が増えるわけですので。授業内でフィードバックをできるのであれば,それに越したことはありません。

私は来年度からはライティングの授業をメインで担当しない予定ですが,おそらく来年度はビデオフィードバックはやらないと思います。とはいえ,最小の労力で効用を最大化する方法については引き続き考えていきたいなと思っているので,なにか別の方法で有益なフィードバックができたらいいなと考えています。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

 

だからやり方を縛るなよ

たくさんの先生が教えるような環境で,教員間でのクオリティを一定程度に維持しようと考えたとき,なんで抽象的な目標の部分をぼやっとしたままにして,やり方だけを強制しようとするんでしょうね,というお話。

学習指導要領で「英語は英語で」とかアクティブ・ラーニングとか,そういうやり方縛りってほんと悪手だと思うんですよね。そもそも目標というか目指すべきところから具体的な行動がいまいちピンとこないような抽象的なレベルものを掲げておいて,それに全員が到達できるようにすること自体が間違っているわけです。だって,到達できたかを確認する方法は自分たちで考えろ。でも日々の授業のやり方はこっちで決める。ってことでしょう?やり方を縛ったらその目標が達成されるように考えるの(いやそうは思ってないのかもしれないですけど),あれ大人の事情以外になんかあるんでしょうか?

普通に考えて,逆なんですよ。つまり,まずやるべきことは,全員が到達できたことを確認できて,そのことにある程度合意が取れるだろうというレベルで具体的な目標を設定し,それを測定できるようなテストなりタスクなりを作ることでしょう。それで,評価はそれに基づいてやればいいんですよ。そうしたら,それが達成されるように授業をやらなければいけないわけですから。もちろん,そんなことやるには尋常じゃないリソースが必要ですよ。ちょちょっと文言をいじって会議をいくつか通すだけじゃだめなんですから(いやそれだってそんな簡単じゃないわけですけど)。「ほら,ここにこう書いてあるんだからちゃんと守りなさい!」なんてもうまるっきり文科省のやってることじゃないですか。このやり方に見習うべきところなんかゼロでしょう。

具体的な目標を設定するなんてそう簡単なことじゃないですし,ある程度幅をもたせたりいくつかのタスクを用意しようと思ったら異なるタスクで同じものが測定できているのかを確認しないといけません。本気でやろうと思ったら,そのことだけに集中して取り組める専門家集団とソルジャー人員と予算が必要なわけです。それか,もういっそのこと逆方向に振り切って「全員TOEIC800点」にするとか。でもこれやるにしたって全員に同じテスト受けさせるのってそう簡単なことじゃないしお金だってかかりますしね。それは無理だと思うのであれば,やっぱり地道にやっていくしかないと思うんですよね。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

※この話はフィクションであり,実在の人物や団体とは一切関係ありません。

私の音声メディアとの付き合い方

前回,英語教育2.2CASTというウェブマガジンをスタートさせたことについて宣伝記事を書きました。その12月号の販売が開始になったのですが,その宣伝を兼ねて私の音声メディアとの付き合い方みたいなものについて書こうと思います。

本題に入る前に少し宣伝させてください。12月号には”TASK TALK Vol.2 「タスクがもたらすイイコトって?」”と題して前回の無料版の続きの対談があります。この他にも【編集「中」記】というanf先生の一人語りもあります。【TASK TALK】は毎週水曜更新予定で,Vol2の続きもこれからアップロードされていきます。300円の有料マガジンとなりますが,noteにアカウント登録をしてクレジットカード決済で簡単に購入できますのでよろしくお願いします。下記リンクからどうぞ。

英語教育2.2CAST201912月号】

さて,通常「マガジン」といえば文字や写真,つまり視覚情報による媒体ですが,anf先生と私の試みは音声での配信,つまり聴覚情報を提供している媒体です。読む,見る,に比べると聞くというのは結構ハードルが高いようです。1番組は10分程度にして,できるだけそのハードルを低くするようにはしているのですが,やはり慣れてないと耳から情報を得るって難しいのかもしれません。

私が文字ではなく音声で情報を入れたいと思うときは,基本的に画面を見続けることができない状態のときです。そんなときにまでわざわざなんか聞いたりせんわって思われる方もいるかもしれませんが。具体的には,家事をしているときに聞く事が多いです。例えば洗濯物を干しているときや料理をしているときは,なかなか画面を見続けることはできませんよね。ウェブ記事のような文字媒体を読むことはおろか,テレビのようなメディアを見ることもあまりできません(デュアルタスクが苦手なだけかもしれませんが…)。ただ,耳で聞き続けることは他の作業をしながらでもできるんですよね。そういうときは音声が向いているところだなと思います。洗濯物を干すくらいの時間だと(家族の人数等々によるでしょうが)だいたい10分くらいですし,料理はそれ以上時間がかかることが普通なので1番組を聞き終わることはは十分に可能だと思います。

私は昔からいわゆるクリッピングが好きで,Twitterに流れてきて面白そうだなと思った記事や,RSSでフォローしているブログ記事なんかで面白そうだなと思った記事はPocket(昔はRead It Laterという名前でした)というアプリに飛ばすようにしています。

Pocketとは?今見ているページを保存してあとで読めるツールを解説
Pocket(旧・Read It Later)、InstapaperReadability…人気の「あとで読む」系サービスを徹底比較!

ウェブの記事から余計なところを排除して記事の部分を読みやすく表示してくれるサービスなわけですが,少し前のアップデートで読み上げに対応してくれるようになりました。そもそもPocketでうまく表示されないページは無理ですが,Pocketで記事がうまく表示されるのであれば英語でも日本語でも自動で記事を読み上げてくれます。その場では読めないけどあとでチェックしときたいなという記事をPocketに保存して家事しているときに音声読み上げで「聞いて」,聞いたらそれをEvernoteにドンドン保存していくというのがルーティンです。正直Evernotenに保存した記事を見る機会はそこまで多いわけではありませんが,「あーどっかでこういう話読んだなー」みたいなときにとりあえずEvernoteで検索したり,とにかく情報のヒントを探すときにEvernoteで探してみるというような使い方をしています。iPad版のアプリで試しに読み上げ機能を使ってみたスクリーンレコーディングの動画を貼っておきます。

 

noteはウェブが基本ですが,アプリもあるのでアプリで聞く事もできます。読むと聞くではアクセスするのに適したタイミングがあるわけで,音声メディアのアドバンテージは何か別のことをしながらでもよいという点です。昔からラジオ番組ってそういう位置づけでしたよね。車運転しながら聞いたりとか。内容的にも英語教育2.2CASTは身構えて頭をフル回転させて聞くことが求められるものではないと個人的には思っていますし,ぜひみなさんにも「ながら」で聞いていただければと思います。では,これから収録に臨みます!今日の収録が配信されるのをお楽しみに!(笑)

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

英語教育2.2CASTスタート

私のこのブログ名の由来(?)でもある「英語教育2.0」というブログを運営しているanfieldroad先生と,英語教育2.2CASTというポッドキャストを始めることになりました。

前から,anf先生が対談形式の番組をやれたらなぁという話をされていて,私もそういう試みに興味があったので,呼んでください!と見境もなくアピール試続けていたら,なんとコラボでポッドキャストをやっていこうという話になりました。

私が実践的な部分で興味のあるTBLTの話を最初はしていこうということでやっています。収録はお互いに離れた場所で会話しているので,なかなか難しいところがあったり,なるべく専門的な話をわかりやすく伝えられるように言葉を選んだりと難しい部分も多いです。ちなみにですが,台本とかは特になく,話す内容だけ大まかに決めたら後は即興でやっています。anf先生の振り方とかがまたいやらしくて,「絶対わかってるでしょ!」みたいなこととかも「これってどうなの?」とか聞いてくるんですよね笑 でも,そういう視点はむしろリスナー目線の質問だと思うので,そこにどうやって僕が答えるのか,というところがとりあえずのところはポイントなのかなと思います。

noteのマガジン機能を使っていて,初回は無料で聞くことができます。

英語教育2.2CAST

第2回目以降は300円の有料で,「12月号」を購入いただくと,4回分の放送を聴くことができます(1回の放送は10分くらいです)。最初はTBLT関連の話ですが,ゆくゆくはもっと広く英語教育の話題について議論したり,さまざまなゲストの方も交えて英語教育について語っていけたらいいなと思います。アウトリーチ活動的な意味では有料にするのはどうなんだという意見もあると思います。その辺りについては、上記のnoteのページにある下記のエントリをお読みいただくと,anf先生の狙いもご理解いただけるかなと。

英語教育を語るポッドキャスト始めます!

私もまだまだ未熟なところがあるとは思いますが,こういう形で英語教育に貢献できたらなと思っています。このブログをお読みいただいてる方にも是非聞いてもらいたいなと思っています。よろしくお願いします。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

ライティングの採点の不備と一緒に学習者の心ぶった斬ってませんか

民間試験導入の問題がわーっとなったとき(あるいはその少し前),ちょくちょくTwitterで,

こんなのでこの点数!!

みたいな投稿についた画像で学習者のライティングプロダクトとその点数の写真を見かけることがありました。私のタイムラインは英語教育関係者が多いですし,民間試験導入の問題についても声を上げている人がたくさんいらっしゃって,関連したツイートが比較的頻繁に流れてくるので目についただけかもしれません。おそらく,一般的なレベルでいえば認知度が高まったのはほんの最近のことで,下記のことを考えたのはおそらく私くらいだと思います。「なーに言ってんだばかか」と思われてもいいです。

私は上記のようなツイートを見るたびに,「試験の採点がおかしい」とか,「こんな試験を入試に導入なんてありえない」とか,そういうことの問題提起は理解していても,やっぱり学習者の実際のライティングをもってそういう主張をすることには賛同できないという気持ちになりました。本人が(「こんなんでいいの?」というようなノリで)画像をあげていることもあるかもしれないので難しいですが,試験の不備と一緒に学習者の心までぶった斬ってはいないでしょうか。その本人だけではなく,似たような質のライティングをした学習者がそうやってオトナが叩きまくっているのを見て(叩いているのは試験そのものだとしても)どう感じるだろうというのは私の考えすぎでしょうか。

水をさすつもりはまったくありません。標準化された試験としてやっていて採点基準どうなってるのという批判はそのとおりだと思います。ただ,元のツイートにぶら下がっていたコメントなんかがとくにですが,「正確さ」に対して過剰に反応しすぎではないですかね,誤りに対しての不寛容さみたいなのも一緒にそこに投影されていませんかね,と思わずにはいられないのです。

たしかに,たしかに,お世辞にもうまく書けているとは言えないようなものだったりもします。文法的なエラーやつづりのエラーも含まれています。なんとかかんとか文意を汲み取ろうとこちらが最大限の努力をして,意味解釈はできるかな,というレベルのものです(私が見たものは)。それでも,問いが与えられて,その問いに答えるために自分の持っているリソースを最大限に活用して,英語を書いたということと,その学習者が現時点でそのレベルの発達段階であるということは何も悪くないと思うのです。

あまり具体的なことを言うとどの画像見たかとかになってしまうので詳しく言及することは避けますが,評価できるポイントだって見つけようと思えば見つけられるように私には思いました(一つの観点でいえば流暢さとしての語数)。課題が何を求めているのかや,何を測定しようとしているのかにもよりますが,同様のライティングプロダクトに対して私はこれまでにゼロをつけたことはないなと思いましたし,意味のわからない単語の羅列ではなく英語の文を表出しようとしたことを評価したいなと思いました。何度も言いますが,そういう性格のテストではないとか,誰も書かれたものそのものへの批判はしていないとか,そういうのはすべて,「そうだろう」と思っています。そのうえであえてこういうことを書いているのです。

杞憂であってほしいと思っていますし,実際に杞憂なのだと思います。それでも,それでもやっぱり,「ああやっぱりこれじゃ全然だめなんだ」と思う学習者がいたら,それは英語教育にとって良いこととは言えないと思います。「あれでいい」と言っているのではありません。もっと良い英文が書ければそれに越したことはありません。私はただ,英語を使ったときに少しでも誤りだったり誰かから見て不自然と感じられるようであったらすごい勢いで寄ってたかってあーだこーだ言う,そういうのが本当に嫌いなのです。そして,ライティングの採点基準についての批判を真摯にする人の周りに,意図せず人の誤りを笑うそういう人たちが集まっているのではないかと思ってしまったのです。

なにをゆう。

たむらゆう。

 

「知っている」事の影響を排除するための2つのアプローチ

思いついたことを書き留めておくだけのメモ記事です。粗いところもあるかもしれませんがご容赦ください。

「狭義の」(文法の)第二言語習得研究が目指していることは,母語話者が持っているのと同じ知識を第二言語学習者も身につけることができるのか,できるとすればそれはなぜか,できないとすればそれはなぜか,というのが分野の抽象的で大きな問いであるというのがざっくりとした私の理解です。

で,この問いに迫ろうとしたときに問題となるのが,いかにして「知っている」ことの影響を排除するのかなという点です。母語話者は基本的には言語の規則を意識的には知らない(説明はできない)という状態で,でもある法則に従って規則的な振る舞いをするわけですよね。その規則的な振る舞いを言語理論で説明しようというわけです。そういうことを見ようとすると,学習者が意識的に知っていること(言葉で規則を説明できること)を対象にしていては意味がないじゃん,ということになります。知っているだろうよ,というような現象を対象としている限り,「知っている」からできるという可能性を排除することができません。よって,習っているはずもないのに母語話者と同じような振る舞いを見せる現象があるよ,とか,あるいはそれが第一言語によって同じような振る舞いを見せたり見せなかったりするよ,というような方向性で研究をデザインしていくことになります。そして,それを生成文法の理論から予測していこうとすると。生成ベースの第二言語習得研究をやっている人たちの基本的な考え方はそういうことなのかなというのが私の個人的な印象です(もちろんそうじゃない人もいるとは思いますけれど)。

一方で,SLAの初期からずっとSLA研究者が関心を持ち続けてきたことは,「知っている(=規則は説明できる)のにも関わらず,産出などをさせると間違いが頻繁に起こってしまう」という第二言語学習者に典型的な現象についてどのような説明を与えるのか,ということです。この関心を説明するために生まれたのが,明示的・暗示的という2つの知識源を仮定する考え方でしょう。つまり,知っている=明示的知識はあるけれども,産出などの課題で主に使用されると考えられている暗示的知識が不十分であるために,誤りが生じてしまうというようなロジックです。この考え方でいくと,そもそもの出発点が「知っているのにできない文法項目」(典型的なのが三単現の-s)の振る舞いについての説明を与えることになります。よって,知っていることの影響を排除しようとしたときに,「習っていないであろう項目を対象とする」という理論ベースの考え方は採用されえません。そこでどうなるかというと,測定の方法としてできるだけ「知っている知識」が作動しないような課題を用いるというアプローチを取ることになります。文法性判断課題に時間制限をつけたり,elicited imitationを使ったり,その後の反応時間パラダイム(自己ペース読み課題やword monitoring課題)や視線計測,そして脳系の測定具を使うというように,測定具によって「知っている」ことの影響を排除しようとしてきた,というのがもう一つのアプローチとしてあるのかなと考えています。

私も最初の関心は後者のアプローチにあり,どうすれば明示的知識の干渉を抑えた知識の測定ができるのか,という点にありました。ところが,それでは拉致があかない部分もあります。明示的・暗示的知識系の研究の重大な欠陥だと思っている部分で,それは,「意識的かどうか」についてを直接的に測定してこなかった(できなかった)という点です。反応時間や視線計測というパラダイムを用いたとしても,何らかの反応の違いが観察されたときに,それが「おやっ?」という意識にのぼるレベルの知識を使ったから反応時間や注視時間が長くなったのか,はたまた自分では全く気づいてもいなかったけれどもそうなってしまったのか,については測定していませんでした。よって,暗黙の了解として「反応時間や注視時間の条件間差は無意識なものである」だとか,「因子分析したら文法性判断や誤り訂正課題とは違う因子にローディングするからと自己ペース読み課題や視線計測で測られているものは暗示的知識であるのだ,みたいな想定をしてきたんですよね。それってなんかちょっとそこを当然のことのように受け入れちゃってもいいのかしら。という疑問が生まれてくるわけです。そういうこともあって,私が博士後期課程時代に扱ってきた文法現象は(もちろんこれは草薙さんの影響を大いに受けているのですが),どちらかというと前者の「知っているはずもないような文法」を対象にしているものが多くなっていきました。今必死にディスカッションを書いているthere構文の数の一致 (当時はこれも明示・暗示に当てはめようとしてたんですが今は違う方向性で書こうとしてます)だったり,tough構文の研究  なんかはまさにそういうことだったと言えます。conceptual numberの研究(これは言語習得よりは文処理ですが)も,「そんなことは習っているはずもないけどなんかガーデンパス回避しちゃう」というような話でもあります。

別にどちらがいいとか悪いとかいうわけではないのですが,同じように第二言語の文法習得を対象にしている研究で,「知っていることの影響をできるだけ排除したい」という目的は共有していたとしても,そのときに知っているはずもない現象を対象とするのか,はたまた当然知っているだろうというような現象を扱って測定具の工夫によって知っているという知識の干渉を極力抑えるというアプローチに行くのか,そういう違いが出てくるのは結構興味深いことなんじゃないかなぁということを考えたのでした。

もちろん,これはただの思いつきなので,そもそもの前提が間違っているとか,2つのアプローチは別に同じ方向を向いているわけではないとか色々あるかもしれませんが,こういう整理の仕方ってどうですか?というような投げかけ的な記事でした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

スピーキングの授業の話

はじめに

私は,1年生対象の共通教養科目のListening&Speakingの授業を昨年度から担当しています。昨年度色々と試行錯誤を重ねて,今年度からはその反省も踏まえて改善できていると感じています。一方で,自分の中で授業の型はそれなりにできてきてはいるのですが,課題もそれなりに感じています。この記事では,授業の進め方と今感じている課題の両方についてまとめておこうと思います。

授業の概要

教科書はPearsonのImpact Issues2というものを使っています。版が新しくなったのですが,色々あって(学務的な意味で)新版ではなく旧版を使っています。細かいミスがちょくちょくあったりとかしておいおいと思うところもあるのですが,なんといっても掲載されているトピックというか「ネタ」がとても面白くてタスク向きなので,それが気に入って使っています。

教科書の構成はおもに,次のようなものです。

  1. 会話や語りのリスニングパート
  2. 内容確認
  3. 4人の視点からそのユニットの問題についてのopinionが提示される
  4. 主にペアやグループで行うディスカッション系のタスク
  5. スピーチ

私は授業では1しか扱っていません。2の内容確認はLMSで予習として行わせていて,授業中では教科書に載っている内容確認問題とは少し違う問題をいくつか提示してその答えに注目して聞くようなリスニング活動をやっています。そして,それ以降はスピーキングタスクのための時間です。スピーキングタスクが終わったら,どのような意見にまとまったか,どういった解決策にたどり着いたかなどを教室全体でシェアし,言語的なフィードバックを与えて授業は終了です。

スピーキングタスク

スピーキングタスクの題材は教科書で扱われているものを元にオリジナルで作っています。例えば,「クラスメイトから嫌がらせをされて困っているが,事を荒立てたくないので黙っていようとする女の子と,誰かに相談したほうがいいよと提案する友達」の話であれば,第三者の視点からこの問題を考えるタスクを作ります。2人の共通の友人という設定で,この問題を解決するためにはどうしたらよいかをペアで話し合い,お互いが納得する解決策を出せたらタスク達成というようなものです。

言いたかったけど言えなかったことリスト

授業で使うワークシートには,毎回「言いたかったけど言えなかったこと」を記入するスペースを設けています。授業中にここに書かれたものを見ながらフィードバックを決めたりしています。ただし,もちろん全部を取り上げることはできないので,あとで集めてリスト化して英訳と簡単な解説を付けたものを「言いたかったけど言えなかったことリスト」として翌週に配布するようにしました。最初はワークシートに直接書いていたのですが,同じようなことを書いている学生もいて同じことを何度も書くのは面倒だし,どうせなら全員で共有したほうが学生にとっても有益だろうと考えてこの形にしました。学生には,「自分が思ったこと」をそのまま書くのではなく,できるだけ日本語で「意味順」の形に落とし込むところまではやるように言っています(なかなか浸透していかないのですが…)。

授業の中で,同じタスクを繰り返してやることは時間の制約上なかなか難しいのですが,中には汎用的な表現も出てきたり(「絶対に嫌だ」みたいなのとか)するので,そういう表現は翌週や翌々週の違うタスクで使ってみている学生がいたりします。また,テストでは同じユニットのタスクにあたる可能性もあるので,こういったリストがあることでスピーキングテストのテスト勉強にも少しは役に立っているのかなと思っています。それ覚えさせて言わせているだけじゃんと思われる方もいるかもしれませんが,私は「覚えろ」という指導は一切していませんし,授業中に表現の口頭練習なども一切していません。ただリストを渡しているだけです(注1)。また,どの場面でどの表現を使うかは完全に学習者にゆだねていますし,会話の流れも流動的なので覚えたら必ず使う場面が訪れるとも限りません。

私が重視しているのは,なにか言えなかったことがあっても,それをワークシートに書けばフィードバックが与えられ,そこで新たなリソースを得て次に少しでも「言えた」と思える機会を増やすチャンスが与えられるということです。手間は確かにかかるのですが,学生からも結構好評なので継続してやろうと思っています。

テスト

このテキストは全20ユニットの構成なので,15回の授業やそれを通年で使うことを考えると微妙に回数が合わせずらいということがあったりします。私はむしろそれを逆手にとって,中間と期末をそれぞれ2週に渡って行うように設定しています。テストはペアでのスピーキングとリスニングテストです。

スピーキングテスト

前述のように,私の授業では,各ユニットごとにそのユニットでの話題に関連したなんらかのスピーキングタスクに取り組むことになります。テストの週では,それまでに授業でやった各ユニットのタスク(具体的にはロールプレイ型の意思決定や問題解決タスク)と同じ内容でやや性質の異なるようなタスクに取り組むことになっています。内容は似ているので表現などはそのまま流用できますが,到達すべきゴールやロールプレイの状況設定が異なっているというようなものです。

ペアは毎授業でランダムに組んでいて,テストのときもこちらがランダムに決めたペアでやってもらっています。ただ,当日になるまで誰とやるのかわからないというのは不安もあるだろうということで,テスト1週目の前の週にはテストの実施要領や評価方法の詳細(ルーブリックの観点は後述)とともに2回のテストで誰とペアになっているかのリストを渡しています。

テストを2週に渡って行うことの理由として15週の授業とテキストのユニット数の数合わせという問題に触れましたが,それよりも大事な理由があります。それは,一度ではどのタスクにあたるかでパフォーマンスが変わるという点と,ペアがランダムなのでペアの相手によってもパフォーマンスが変わってしまうという2つの点への配慮です。

中間テストまでは5つのユニットをこなしますので,5種類の中から2つのタスクにテストとして取り組むことになります(中間テスト後から期末テストまでも同様に5ユニットです)。もちろん各ユニットで難易度に差が出ないように作っているつもりですが,学生によっては内容的な親密度や自分の関心などで自分の言いたいことをパッと思いつくようなタスクとそうではないようなものがどうしても(例え内容は授業である程度カバーされていたとしても)出てきてしまいます(この問題については後述)。そこで1度きりではなく,チャンスを2回与えるというわけです。ペアの問題も同様で,さまざまな要因で話がうまく進んだり進まなかったりということは容易に起こり得ます。ただし,自分が話しやすい人とばかり話すのも私としてはいいことだとあまり思っていません。また,友達は考え方も似ている場合が多いので,特に意思決定タスクのように自分の考えと相手の考えを共有してすり合わせていく必要があるようなタイプのタスクでは情報のギャップが生まれづらいという面もあります。

こうしてスピーキングテストを2週に渡って中間と期末で行う,つまり合計で学期中に4回のスピーキングテストがあることで,学生は授業中でも意欲的にスピーキングタスクに取り組んでくれています。授業で一度も経験したことのない話題についてをいきなりテストで話すのは難しいわけですから当然です。結局,授業中でスピーキングタスクをやらせるだけだとなかなかうまくいきませんが,評価のうちの少なくない割合を占めるテストがスピーキングだということを明示し,それが授業中のタスクに基づいているものだということを繰り返し伝えていくことで,授業中の取り組み具合も変わってくるなというのを今学期は実感しています(昨年度は秋学期からこのやり方を導入)。

ピア評価

スピーキングテストでは,学生同士の評価も取り入れています。よって,ペア2組で1つのグループとして,どちらか一方がタスクに取り組んでいる場合にはもう一方のペアはタスクに取り組むペアを観察し,教員が評価するのと同じルーブリックで評価をつけるようにさせています。評価の観点は,(a) 日本語の使用,(b) 沈黙,(c) 共同的なやりとり,(d) タスクの達成の4観点で,(a) ~ (c)は0-2の3段階,(d)のみは0-3の4段階評価にして重み付けしています。これは私がタスクの達成を重視しているからです。このことはもちろん学生にも伝えています。

リスニングテスト

リスニングテストは,1週目は内容理解を中心としたもの,2週目はディクテーションのテストにしています。詳しい内容は割愛。

スピーキングテスト後の書き起こし

順番が前後しますが,スピーキングテストが終わったらリスニングテストの前に書き起こしをさせています。書き起こしの目的は主に2つあります。1つは文法的または音声的誤りに注意を向けさせることです。テスト中はどうしてもタスク達成のためのやり取りに夢中なため,なかなか言語的な側面に注意を向けることが難しくなります。そこで,録音したものを書き起こす機会を作ることで,発話の内容以外の言語的側面に注意を向けさせようという狙いです。

書き起こしといっても全てを書き起こしさせるのは時間的にも無理ですし,10分となるとかなり長くなるので作業自体もしんどくて飽きもきますので,書き起こす部分を一部分に限定する必要があります。限定するには,どの部分を書き起こすようにするかを選択する必要が出てきます。「最初の数分」というような指定ももちろんできますが,せっかくなのでもう少しこの選択に意味を持たせようと考えました。そこで2つ目の目的として,やりとりの中でうまくできた部分に目を向けさせるようと考えました。こう考えたのにもいくつか理由があります。

1つ目は,やりとりのポジティブな部分に目を向けさせることです。なんとかタスク達成できても,どうしてもできなかった部分にばかり目がいってしまうことはよくあります。これ自体は,「もっとうまくできたのに!」とか「なんでこうできなかったんだろう」のように,次への向上心があるという部分もあるので,一概に悪いことだとは思っていません。そうはいっても,うまくできたポイントに目を向けさせることで,タスク後にネガティブな感情だけが残ってしまうことを防ごうという狙いがあります。

もう1つ,いい側面を書き起こさせる理由は,教員が評価する際に聞くポイントを絞るという点です。学生には,「会話の中で,ここの部分はよくできたので,ぜひこのやりとりに注目してほしい,というハイライト部分を書き起こす」ように指示を出しています。こうすることで,「自分の意見を伝えつつ,相手の意見も尊重しながら解決策を見つけることができた」のように,やりとりの内容的な側面に学生の注意を向けさせることもできます。そして,教員が評価をする際にもその部分は特に注意をして聞くようにすることで,ある程度の採点の負担を軽減する狙いがあります。

課題

採点つらい

これが一番の悩みです。正直,ここの部分以外はかなりうまく授業設計ができてきたなという実感があります。しかしながら,どうしても36人~38人のクラスでスピーキングのテストをやろうとすると個別に呼んでというような方法はなかなか時間的にも制約が厳しく,それ以外の時間を有効活用するのも現状では難しいです。そうなると,授業中に録音させたものをあとから聞いて評価するということをせざるをえません。まだペアにしているので18ペアの10分間で済んでいますが,それでも2週に渡ってやっているので,採点にはかなりの時間がかかります。コメントは聞きながら書いているのでそこまで負担には感じませんが,15回目にやるテスト以外は翌週に結果を返す必要があるので1週間という時間的制約の中で採点するのはどうしても自分の時間の他の部分を犠牲にする必要が出てきます(注2)。LMSを活用して効率化を図りたいなと思う部分もありますが,LMSではペアリングして同じ採点を同時に2人に与えるというところが不得意なのでうまい解決策が見つかっていません。

課題の難易度のばらつき

前述したように,テストに用いるタスクは教科書の内容に基づくので内容的な難しさにどうしても差が出てきます。しかしながら,「難易度」を調整することは非常に困難です。なぜなら,どのような内容を難しいと思うかに個人差があるからです。ある学生はUnit5が一番簡単だと思っていても,別の学生はそのUnit5は話しにくいと思うということは起こりえますし,実際にそういうことが起こっていると思います。教科書で扱われる内容に差があるため,それに基づいた課題を作成するとどうしても内容面やトピックに対しての親密度(どれくらい馴染みのある話か)である課題が別の課題よりも難しいと思ったり簡単だと思ったり,ということが発生してしまいます。テスト作成時にも,なるべく難易度の差がでないように工夫してはいますし,これからその精度をより高めていく努力はするつもりですが,どうしても難易度が同一のタスクを作ることはできません。

この問題の解決のためには全員が1つのタスクに取り組むということが考えられます。しかしながら,そういう形を取ることで,「1度うまくいかなくても次はもっと頑張ろう」,という2度取り組むことのメリットを失ってしまいます。私としては,難易度の問題を解消するためにテストタスクを1つにすることで生じるデメリットよりも,2回取り組むことができるということのメリットを重視しており,2回取り組むことで生じるデメリット(課題の難易度の差)についてはやむを得ないと考えています。

テスト用に教科書の内容とは関係のないものをやろうとすると,語彙や表現のレベルで授業でやったことを活かしづらくなり,授業とテストを関連付けることが難しいという別の問題も発生するため,その方向での改善も難しいかなと思っています。

ペアリングとタスクの組み合わせが複雑

ペアリングとタスクの割り当てをランダムにすると言っても,完全なランダムにはできません。なぜなら次のようなことを考える必要があるからです。

  1. 同じタスクを2週続けてやらない
  2. 同じグループの別のペアがやったタスクはやらない
  3. 同じ相手と2週続けてやらない

1をしてしまうと,相手は違うとはいえ同じタスクを繰り返す方が設定や流れがわかっている分難易度が下がってしまうのであり得ません。また,2についても誰かがやっているのを見ていればやりやすいでしょう。もちろん,原理的には1週目が終わった時点で自分が当たらなかったタスクをやったクラスメイトに内容を聞くことは可能です。そうではあっても,やりとりをすべて聞いた状態と内容だけ聞いた状態ではやはり違うと思いますので,前者は現実的に対応可能なので対応するが後者は目をつむるというようにしています。3は内容的な側面以外でのやりやすさへの考慮です。現実的には,学期の中で1度でもペアになったことがあるのとないのとでも違うと思いますが,さすがにそこまでコントロールすることは不可能なのでその部分にも目をつむっています。また,上の1~3を考慮すると,2週目にスピーキングテストに取り組む際には自分がやったものと相手がやったものは絶対にあたらないことになるので,2週目にどのタスクに当たるのかは3つに絞られます。そうした意味でも2週目のほうが対策を立てやすくなりますが,この点についても全員が同じ条件なので学生間の不公平は生まれないと考えています。

3はそこまで確認が難しいわけではないのですが,誰がどのタスクをやったのか,あるいはやっているのを見たのかを確認して,1と2の条件を満たしてタスクを割り当てるのは多少めんどくさいなと思っています。RやExcelの関数を駆使してある程度自動化できないかなと考えたこともあるのですが,ぱっと思いつかないので手作業でやっています。この部分ももっと楽にできたらいいのになというところで,課題だなと思っています。

おわりに

この記事では,私が2018年度,2019年度と取り組んできた1年生向け共通教養科目のListening&Speakingの授業について書いてみました。タスク中心にするという点と,指導・テスト・評価に一貫性をもたせるという点を意識して作ってきて,ある程度形になってきたかなと思っていますが,まだまだ課題も多いです。余談ですが,テキストが来年度は新版になるので,ベースは維持しつつタスクやテストは1から作り直す必要があるので来年度はまた少し大変になるかもしれません。授業での気づきを反映させながら,自分自身にとっても学生にとっても良い授業になるように,これからも考えていきたいなと思います。

こうして書いていて,Twitterで実践(研究)に興味なくなってきたとかつぶやいたのに「自分だいぶ実践に興味あるな」と思い始めています笑

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

 

注1. 本当なら少しくらい口頭練習してもいいかなとも思いますし,LMSとかで音声モデルを提示するだけでもやったほうがいいかなという思いは多少あります

注2. やはり採点してフィードバックして2回目はそこを改善してほしいというところもありますし,学生からしてもそうでないと何をどうすれば良い評価になるのかがわからないので2回目に臨むモチベーションも上がりにくいだろうと考えています。