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研究者になれる人とそうでない人の違いは、個人の資質によるか指導教員の指導力によるか、どちらだと思いますか?

はじめに

querie.meでいただいた質問です。質問の全文は以下のとおりです。

質問

研究者になれる人とそうでない人の違いはは(※原文ママ)、個人の資質によるか指導教員の指導力によるか、どちらだと思いますか?どちらとは言いきれいないのは承知ですが、任意の教員が着任した途端に、学会で名前を見るようになるのを見たり、特定の研究室から大量に研究者が出ているのを見ると,教える側の要素が大きのかなと思うところもあります。研究指導する側になって、よくわからなくなってます😢

回答

「研究者」の定義について

「大学教員になる」というのと「研究者になる」は個人的には分けたいな〜と思っちゃうところはありますね。学生の時は頑張っていても,大学教員になったら研究活動が滞ってしまう人だっていますしね。

指導教員側の要因:個人の力量 vs 環境

あとは教える側の要因というのは,その教員個人の力量だけではなくて,それ以外の環境要因との掛け算なのかなと思うところもあります。その環境でどうやったら学生のパフォーマンスを最大化できるのか,みたいな。例えば,教員の研究費だけに依存せず,学内的な院生への支援(ソフト面もハード面も)が充実しているということであったり,共同研究の機会が豊富にあるのかどうか(学内外のネットワークだったり,異分野交流であったり)とか,どれだけ研究に時間を割くことができるか(授業負担や学内業務負担がどれだけあるのか)みたいなのも,もちろん教員個人の力量もあるとは思いますが,やはりその組織がどういう仕組みで動いているのかに依存するでしょう。

組織・「ブランド力」の影響

あとは,一度「あのゼミからは優秀な人材が輩出される」となったら,そこにもっともっと優秀な人が集まりやすくなるという効果もあると思います。また,なんだかんだで組織の力というか所属している大学ってのは大きいでしょう。やっぱりうちの分野(どこの分野とは言わない)(注)なら特定の国立大(旧帝大)や私立大の出身者がある種の「派閥」的強さを見せている側面があるように思います。

研究テーマ,分野特性の影響,個人的な問題意識

研究テーマの要因もあるでしょう。どの分野の方からの質問かはわかりませんが,私の分野(どこの分野とは言わない)だと,ある要因と要因の関係性を調べるアプローチで無限に研究を量産している人たちがいて,まあそれが世の中の潮流でもあるようだしトップ誌に載るし引用もたくさんされるし,みたいな。いや,論文載るのはすごいんですよ。テーマもそんなにポンポン思いつかないですし普通は。でも,この分野(どこの分野とは言わない)は既存の枠組みの微調整や概念の再定義によって研究を展開しやすい分野特性があって,それって最強なんですよね。概念間の関係性を統計的に検証するアプローチで,比較的安定して研究成果を生み出せる仕組みになっているので。

これは何も自分を除く他者に向けているわけではありません。私も,院生時代の多くの研究が「明示的・暗示的知識」というパラダイムに乗っかったものでした。当時は測定法の議論が隆盛していたこともありましたし,ある文法項目に対して,明示的・暗示的知識を測っていると考えられる測定具のテストを二つ実施して(あるいは同じテストに対して違う条件を課して),違いが見られたり見られなかったりしたら,それを議論することで論文1本になったんですよね。私が初めて採択された筆頭著者の論文がまさにそれでした。

Tamura, Y. & Kusanagi, K. (2015a). Asymmetrical representation in Japanese EFL learners’ implicit and explicit knowledge about the countability of common/material nouns. Annual Review of English Language Education in Japan, 26, 253–268. https://doi.org/10.20581/arele.26.0_253

今見たらなんかもう目も当てられないようなひどい論文で読み返すことも憚られます。こういうアプローチをするにせよ,もう少しフレームワークは今なら工夫するだろうなと思います。ただ,私はそういうアプローチで研究を量産できるような人間ではないですし,こうしたアプローチで研究(者)を量産するのが本当にいいことなのかな,とよく思っています。こういう意見も,結局はパブリケーションが強い人からしたら,私のような考えが同じ土俵に乗ってこなかったら相手をする理由もないでしょうから,難しいなぁとずっと思っています。

『第二言語研究の思考法』はそういう気持ちもあって携わった本ですが,特に話題にもされていない(という認識でいます)し,その提案について批判も特にもらってないと思うので,既存の研究パラダイムへの根本的な問いかけは議論されにくい傾向があるのだなと感じます。それでも,今後も細々と,この問題提起について継続的に発信し続けていくのが自分の人生なんだろうなと思います。今年度採択された科研費の研究も,そういう路線です。

なんか脱線しましたね。

最後に,これも言っておかないといけないなと思ったことですが,生存バイアスもあるんだと思います。結局生き残るのはなんだかんだ優秀な人なわけで,その陰で数多の優秀な人にカテゴライズされずに去っていった人だっているんじゃないのかなという気もしています。

おわりに

久しぶりに,面白い質問だなぁ,ブログ記事にしたいなと思わされる質問でした。ありがとうございました。

私に質問したい方は下記URLからどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915¥

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注:寺沢さん話法

教育と研究と学問と

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はじめに

以前,「なんでゼミやるの?」というブログ記事を書きました。それに関連するような話かなと思います。もしかすると,どこかに以下に書くようなことと同じような意見が書いてあるかもしれません。それを私が昔に見たことがあって,そのことが自分の思考を形作っているのかもしれません。ただ,一応自分の頭で今考えた(と思っている)ことを,今の自分の言葉で書きます。

最近,学部のこれからをどうするのかみたいな話が会議の話題にあって,それ以降ぼんやりと考えていたことを書こうと思います。自分の中で結論が出ていたりするわけではないのですが,書くことで考えをまとめようというような意図で書き始めています。話が大学教育というような大きな語り口になっていますが,基本的には私の所属先のことを念頭において書いています。

教育と研究は別?

よく,「研究大学」というような言葉である特定の大学を指すことがあります。国内の大学の中でも研究をリードしていく大学というような意味合いで使われると思います。じゃあそういう大学は教育はやっていないのかというとそういうことではなく,そうした大学でも教育は行われているはずです。一方で,私の所属先は人によってどういう形容をするかは変わるでしょうし大学を偏差値的な意味でランク付けする発想も好きではないですが,二流私立大学とか中堅私立大学とか言われるようなところだと思います(有名私大という呼び方もあるかもしれませんね)。で,そういうところでは研究だけやってればいいわけじゃなくて,教育もしないといけないみたいなことが話として出てくると,そういうことなのかな?と思ってしまいます。ここでは教育というのを授業(または授業の体系としてのカリキュラム)として考えています。そうしたときに,授業っていうのは研究に基づいているものなのではないのかなと思うわけです。

教育というのを学生目線で「社会」に出て役に立つようなものとか,就職に役に立つようなものとかっていうふうに考えてしまうと,それは大学の,そして大学教員の価値や立場を自ら貶めるようなことにつながってしまうのではないかということを少し危惧しています。私たち大学教員がやるべきことは,というか私の所属学部の教員のような人文系の研究者がやるべきことは,自分たちが授業で扱うことがどうやって社会人になったときに役に立つかを語ることではなく,私たちの学問はこんなに面白いし,学問に真摯に向き合うことそれ自体に意味がある,そしてそのことは君たちの今後の人生を豊かにする,ということではないでしょうか。

就職も大事だけど

学部,ひいては大学としては,卒業していく学生たちが「社会」で活躍することを対外的に示したいというのは現実的な話として理解できます。そして,それがいわゆる就職率だとか,就職先の企業名だとかいうものにわかりやすく現れるのだということも理解できます。そして,大学についての評価を下す側の人たち,そして大学を選ぶ側の人たちも,それを一つの判断材料にしているという現実も大いにあるでしょうし,そこを一切無視していては大学の運営は成り立たないでしょう。しかしそれはあくまで「建前」的なものであるということを教員が思っていなければ,入ってくる学生も,そして在籍している学生も,それが大学に求められることであるという態度でカリキュラムをこなすのではないでしょうか。

「就職」というものをゴールとして設定することは,その先の学生の人生については君たち次第だという突き放した態度のようにも思います。今は,最初に就職した先でずっと退職まで働き続けるような時代でもありません。最初に就職した先が名の知れた「良い」企業であればその後の人生の幸せが保証されるわけでもなければ,就職が決まった時点ではその学生が満足していたとしても実際に働いてみたら全然幸せではなかったということだって当然のようにあるはずです。

また,就職がうまくいかなければ「失敗である」というメッセージを暗に学生に伝えてしまうことになるような気もしています。私は,それはあまり好ましいことであるとは思いません。それは,ある意味では先の見えない不安な状況に学生を追い込むような面もあるかもしれません。そして,そのことは一見すると学生に意地悪をしているように見えるかもしれません。

しかしながら,私たち大学教員が伝えなくてはいけないのは,「そうじゃないんだよ」ということです。そういう不安な状況とか,先の見えない不安とか,あるいはある意味での人生の挫折を味わうような状況になってしまったときに,そこで自分で考え,決断をし,そして勇気を持って自分の人生を切り開いていけるようになってほしいということではないでしょうか。

長い目で見たい

大事なことはもっと長いスパンでの学生の人生の幸福です。大学で学ぶことというのは,そういう人生の財産となるべきものではないでしょうか。というよりも,教育というのはそうした営みのことではないでしょうか。どのような学校種であったとしても,出口のすぐ先の未来だけを見据えるのではなく,その後に続く長い人生のことを見据え,そして願わくばそこを見つめさせることができるような場所が教育の場であってほしいと思います。理想論だという一言でこのことを片付けてしまうのは簡単ですが,それでもそうした理念的なことを大真面目に語ることが教育者としての役割だというようにも思っています。

それをやめてしまったら,「社会」から要請されるままの,そして「政治」から要請されるままの機関になってしまうような気がします。それは本当に大学のあるべき姿なのかというと,私としてはそうでないと言いたいです。

外国語学部ならではの問題

はじめに言及したブログの過去記事の中でも書きましたが,私の所属する外国語学部という組織自体が,文学部との差別化という側面も(おそらく)あって,いわゆる実学的な側面を組織のアイデンティティとして持っているという点は無視できないと思います。

5つあるプログラムの中で「通訳・翻訳プログラム」が最も人気があるのは,学生にとっても役に立ちそうな感じであるとか,それが自分のキャリアに直結するというイメージがしやすいことが要因ではないかと思います。ただし,そのことは通訳・翻訳のプログラムがただただ通訳や翻訳のトレーニングであるということではないはずです。あくまで大学で開講される授業であり,通訳も翻訳も研究があるわけです。担当する教員もそうした研究に基づいて授業をそしてプログラムとしてのカリキュラムを作り上げているはずです。

言語教育プログラムも達人技とか現場で役立つスキルだけを授けるわけではないでしょう。言語を教えるには言語そのものの知識も必要ですし,言語の学習に対する理解も必要です。そしてこれらのことも研究に基づいた蓄積があるわけです。それらをすべて理解させ身につけさせなければいけないとは言いません。しかしながら,ただただ外国語の運用能力があがればそれで「外国語のプロフェッショナル」だなんていう考えをぶち壊し,上っ面だけの異文化理解とかではない学問の世界を学生に見せつけることが外国語学部の教員の使命であるように思います。

4年間全力で学業に励んでもまだまだこんなにも知らないことがあり,そのことを胸に卒業後も学び続けられる学生を私は送り出したいです。そして,学び足りないと思ったらいつでも研究科に「戻って」学べるんだよということを伝えたいです。学びたいという欲求を全力で受け止める環境を私たちは用意していますよと。もちろん,うちの研究科でなくてもどこでもいいですし,学ぶ続ける場所が研究科(大学院)である必要もありません。どこかの学部に入り直したっていいでしょうし,海外の大学に行くことだってアリだと思います。

おわりに

本当は,私の所属先の看板である留学プログラムについても書こうと思ったのですが,それはそれでまた長くなりそうなので,またそれについて考えがある程度まとまったら別の記事で書こうと思います。かといってこの記事がまとまっているのかというとまだまだ消化不良な部分もありますが,今の私の考えとしてここに記録として残しておきたいと思います。5年後,10年後に(どこで何やってるか,生きてるかはわかりませんが),もしこの記事を私が見直したらどんなふうに思うのか,若かったなぁあの頃は思うのか,それを楽しみにしたいと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

2021.10.18 訂正

通訳・翻訳プログラムが最も人気のあると書きましたが,実際には最も人気があるのが異文化コミュニケーションプログラムでした。お詫びして訂正します。

なんでゼミやるの?

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はじめに

「そんなにゼミやりたいんすか?」と言われて,それめっちゃいい質問だなと思ったので,私(33歳私学外国語学部准教授)の今の気持ちを書き留めておこうと思います。

所属先の環境

私は今,関西大学外国語学部というところに所属しています。ゼミの話をする前に,弊学部の特徴を少し。カリキュラムの特色は2年次の留学プログラムです。

  • 1年次:専門の導入科目,アカデミックスキル養成,留学に向けて語学力をバチバチに鍛える
  • 2年次:留学
  • 3,4年次:留学先で培った語学力を維持しつつ専門を深める

ざっくりいうとこんな感じのカリキュラムです。おそらく一般的な大学のゼミ(演習)は3年次春学期(前期)からスタートすると思いますが,弊学部では留学から帰ってくる時期の関係でゼミ選択を3年次の春学期にせざるを得ず,よって3年次秋学期と4年次にゼミの1年半がゼミ履修ということになります。2年次にプレゼミ的なのがあったりするところもあると思いますが,2年次に1年間留学をしても4年間で卒業できることを売りにしているので,専門的な教育としては3, 4年次に詰め込んでいる感があり,そこは教員間でも課題として認識されているのが現状だと思います。

そういう事情の中で,いわゆるゼミは教授のみ必須,准教授と助教は希望者のみ開講しても良いということになっています。他の学部は知りませんが,私の所属している関西大学外国語学部は若手教員の授業負担や学内業務負担をできるだけ軽減し,研究によりエフォートを割いてもらうみたいなことが制度設計として実現されています。ゼミ開講のことについても,そういう配慮があると思います(もしかすると,准教授や助教はゼミで指導生を持つような能力がまだないと思われてるのかもしれませんが)。

さらに,学部定員(170くらい)と教員の人数(50)の割合が極めて高いのも特徴です。一人の教員が受け入れられるゼミ生の人数を制限しているので,少人数の演習でみっちり指導しますよ,というのも学部の特徴です。

なんでゼミやるの

「そんなにゼミやりたいんですか?」はすごくいい問いだなと思いました。特に,私の所属先のように義務としてゼミを開講しなくてはいけないわけではなく,開講しないという選択肢が与えられているのだから,別にやらなくてもいいのではというのは理解できます。現に,開講の義務がない准教授,助教の先生でゼミを開講しているのは少数派だと思います。

まずひとつは,やっぱり大学教員という仕事の醍醐味の一つとしてゼミの運営があるというのはあると思います。自分も学部時代,博士課程時代にゼミを通してたくさんのことを学んだというポジティブな経験があります(博士課程時代は国立大学でなおかつ独立大学院だったので学部のゼミにはあまり直接的つながりはなかったですが)。

学部時代に教員と少人数の学生で密にコミュニケーションしながら突っ込んだ話について議論を深めたりしたことや,難解な洋書の専門書をみんなで協力しながら読み進めた経験は確実に今の自分の基盤となっています。それは当然ながら,今の自分のキャリアがその延長線上にある(ゼミで学んだことと無関係な仕事をしていない)ということも大いに影響しているでしょう。そういう意味でいうと,教員養成課程というマジョリティが教員になるという道を選ぶ環境と,私の今の環境ではゼミのあり方も異なって当然であるとは思います。

ゼミの活動を見ていると,活動系のことを大きく宣伝しているゼミも多いですし,むしろそういうゼミが人気を集めているようにも思います。学生にとって,その後の人生に役立つことが直感的にわかりそうなゼミを選ぼうとする気持ちも,昨今の就活事情を鑑みると理解もできます。それ自体を責める気もありませんし,結果として優秀な人材を世に送り出しているといえますからゼミの募集に誰も来ない教員よりもよほど学部,そして社会に貢献しているといえるでしょう。

そういったゼミを運営する先生やそういったゼミに入る学生が学問を軽視しているとは言いません。ただ,やはり私はやっぱり研究者でいたいと思っています。私は良くも悪くも学問の専門家であり,もちろん産学連携とか地域貢献も大学の大事な役割ではあるとはいえ,それが自分の専門であるというようには考えていません(しそこに今から自分のリソースを投じることが有益であるともあまり思えない)。もちろん,いわゆる「現場」といわれるような学校に呼ばれて,その学校の教育を良くするために力を貸してほしいと言われたらそれは全力でコミットします。ただ,そのことを自分のメインの仕事として捉えることはおそらく今後ないだろうと思います。それは,その仕事については手を抜くということではなく,それは自分がもっとも力を発揮できる場所であるという自信がないということです(かといって研究なら力が発揮できるかと言われるとそれも自信があるわけではないですが,ただ研究者ならそこで力を発揮できないなら辞めたほうがいい)。

所属先の構造でいうと,研究科が上にある場所にいる(所属先が外国語学部で,同じ組織の構成員の外国語教育研究科がある)ので,やっぱり学術的なことを扱うゼミをやりたいという思いもあります。学部の上に研究科がある,ましてや修士課程だけではなく博士課程まであるというのは一般的とは言えないと思います。そうした環境で職を得ているからには,そこも見据えたいという思いもあります。もちろん,現実的には学部から修士課程に上がる学生の数は数えるほどで,そこから博士後期課程までとなるといるかいないかレベルで,後期課程はほとんど外部から人が来るというのが現実だと思います。

学部長・研究科長が竹内先生で,英語教育で言えばその名前を知らない人はいないのではみたいな人(e.g., 水本先生,新谷先生,to name a few)が一人ではなく何人もいるみたいな環境です。いやいやこの先生がその仕事してる場合ちゃうやろっていうのを思ったことは就職してから数え切れないほどあります。

「まあだから自分はゼミやんなくてもいいや」という思いもある一方で,自分がそこに割って入る気持ちでいないでどうするという気持ちや,自分をチャレンジングな状況に意識的に置くことで成長したいという気持ちもあります。

自分と近い分野の先生が多いということはすなわち,ゼミを開講しても分野がかぶる可能性が高いということを意味します。さらに,弊学部は1学年のゼミの受け入れ人数上限が二桁になることはないわけですから,そのばらつきを考えればなおさら他の先生たちのとの差別化ができないと,若くて経験も浅い私のゼミを選ぶ可能性は低くなります。だからこそ,ニッチかもしれないけれども自分のキャラクターを生かそうという発想になりました。結果としてそれはうまく機能しなかったわけですが…

もう一つは,ゼミをやることが自分を成長させてくれるという気持ちがあります。学生から見たら,貴重な教育の機会をお前の成長のために使うんじゃあねぇという声も聞こえてきそうですが。これは冗談抜きで亘理先生がいいからやってみんしゃいと言ってくださったことが大きいです。もしかしたらそんなことは言ってないかもしれないんですが,個人的にはどっかでそういうメッセージをもらった気がしています。私が,ゼミやろうかどうか迷うというようなことをツイートしたときにかけられた言葉だと記憶しています(念の為書いておきますが,だからといって履修者ゼロだったことは亘理先生のせいでもなんでもないです)。

自分が経験したことないことを経験することによって,自分が成長できるというのはゼミを開講しようとするメリットだと思いました。また,今の私はどちらかというと英語を教える科目の担当がメインなので,自分の専門に関わることを授業を通じて教える機会はありません。そういった自分の専門に関連する科目の担当はそれはそれで大変だとは思いますが,その授業を担当できる(任される)ということは,すなわちそれだけの研究者であるということを意味すると思います。そういった授業の担当は自分が希望すればできるわけではない以上,ゼミというのは自分次第でそういった環境への直接的アクセスが可能な手段でもありました。

学生からすると経験が薄い教員のゼミに入るのはリスクも大きいと思うでしょうし,先輩からの情報が得られる先生だったり,就職に強い先生のゼミを選びたいと思うのは当然だと思います。それを上回るようなメリットを自分自身がシラバスで提示できなかったということが,自分の未熟さや至らなさなんだろうなと思います。また,ある程度その学年の学生にも顔が知れている(学年の多くの学生の授業を担当している)にもかかわらず,私のゼミの希望者がいなかったというのは,学生からの授業の評判も良くないということの表れでもあるかもしれないと思っています。

もともと授業がうまいという自己評価をしたことは一度もありませんが,だからといってこの状況を自分に対してのフィードバックとして受け取らないのは無責任すぎます。来年度も開講の希望を出すかどうかは今の時点では迷っていますが,結局私のゼミに入りたいと思うゼミ生が現れるかどうかは自分のパフォーマンス次第であると思うので,来年度以降もチャレンジしたいと思います。発想は体育会系かもしれないんですが,私は私の持てる知識の全力で向き合うので,「教えを請う」という態度ではなく,全力で私にぶつかってきてくれる人と切磋琢磨したいなって感じですね。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

2021.09.01.12:41

タイポの修正と一部加筆修正をしました。

アカデミックな議論をする能力を説明するのはインプット仮説?アウトプット仮説?

アカデミックな場面で,議論する力を身につけるにはどんな力が必要なのかなという話です。

私は例えばゼミでは,狭い意味で私の研究分野から外れるような発表でも,何かしらコメントしますし,それができないことは研究者としての能力がないことだと思っています。それから,発表資料を作って,わざわざ発表してくれた人に対して,何もコメントがないのは発表者に対しても失礼だと思っています。例えば1対1の状況なら,20分とか時間をかけて話をしてくれた人に対して何も言わないのって絶対あり得ませんよね。それがゼミとかになると普通にあり得てしまう。少なくとも私の参加しているゼミは「1人1回必ず質問」というようなルールはありませんから,90分間何も言わず,その場にいても居なくても同じような存在の人が大半です。例えばM1くらいだと,まだまだ知識や経験が足りないので議論についていけないということもあるかもしれせん。そんなこと言ってる間に修士なんか終わってしまうけどね,と個人的には思っていますけど。

よく聞くのは

  • どういうコメントや質問をしたらいいのかわからない
  • 自分の質問が的はずれで頓珍漢かもしれないから言えない

というものです。そこで,こういう人たち(多くは後輩,Dでゼミ中に一言も喋らない人ははっきり言ってDの院生としての自覚も足りないし資格もない)が,ゼミでの,または学会でのアカデミックな議論に参加できるようになるためには何が必要なのかなと考えました。

1つは先輩や先生のコメントから,どういうコメントや質問をすれば生産的な議論になるのかを「見て,聞いて,学ぶ」というもの。ゼミ中に出てくる質問やコメントが全て「良い」ものだとは限りませんが,ようするにインプット(肯定証拠みたいなもの)をたくさん受けるなかで学習されだろうという見方。この考え方だと,とにかくゼミに出て聞いてれば自然に学ばれることになると思います。そもそもインプットに注意向けてない(全然聞いてない)というのは論外だと思いますので,ゼミに参加する人はみなインプットをしっかり処理していることを前提としています。つまり,インプットさえあればいいというのが1つ目。

2つ目は,インプットだけでは不十分で,アウトプットの機会がなければいけないというもの。つまり,聞いているだけではダメで,なにかしらのアウトプットを行うことで,次第に能力が身についていくだろうという仮説です。アウトプットすれば,「自分の質問やコメントが的はずれか頓珍漢か」ということは検証できるはずです。もし的はずれなら,「いやそれは関係ない話です」というフィードバックを受けて(実際はもっとやんわりとした表現になるでしょうが),自分の質問が的はずれだったことを学習します。アウトプットすることで,否定証拠を手に入れる機会があり,その上でインプットによる肯定証拠もあるので,それによって内部のシステムが構築されていくと。インプットのみだと,「どんなコメントや質問はダメか」みたいなことはわかりません。もちろん,誰か別の人が頓珍漢な質問をして「それ頓珍漢」みたいなことを言われたというようなやり取りをインプットとして受ければ,否定証拠になる可能性はあります。それでも,自分の思考の過程から生み出された質問に対して受けるフィードバッとは違うのかなとも思います。

インプットだけでいいという立場をとると,インプットを浴び続ければ自然に議論に加われるようになるはずです。逆に,アウトプットが必要という立場だと,とにかくアウトプットを促すような介入が必要になってきます。さてどちらが正しいのでしょうか。個人差もあるかもしれませんね。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。