タグ別アーカイブ: 大学院

考え方真反対でいいじゃない

はじめに

秋学期がそろそろ始まりますが,春学期の終わり頃に聞いて嬉しかった話。

「考え方が真反対」

大学院の授業で,「別の曜日に受けている実践系の授業の先生と考え方が真反対」みたいなことを言われました。その話を聞いて,私自身も,「あー。その先生とは(理論と実践という対立ではなく実践レベルで)考え方違うだろうな」とは思ったんです。でも,それをその学生さんがネガティブに捉えていなかったのが素晴らしいことだなと思いました。

学部生とかだとまだやっぱり,同じ現象に対して違う意見を持つ人に出会ったら,どっちが正しいの?ってなって,混乱することもあると思うんです。

私はよく,特に研究寄りの授業であればあるほど,Aという説明もあるしBという説明もあるし,Bという説明の中にもB1という見方とB2という見方があって…みたいな感じで,「この現象はAで説明できます」みたいな断定的な言い方をしない(できない)んですよね。そんなに確定的なことが言えることのほうが少ないと思っているというか…。英語授業の話であればそんな回りくどくする必要はないんですよね。「私はAが正しい実践だと信じている(ただし,その「正しさ」は英語熟達度の伸長を確約するという意味ではない)」と言えばいいので。でも,なんか研究に関しては,「自分がこの立場が正しいと思っている」と言えるだけの自信というか,深め方が足りていないんだろうなと。それが授業のわかりにくさの話にもつながると思うんですけど。

ただ,そんな一意に決まるものではないっていう理解が大事だよねという思いも同時にあります(世の中のほとんどの問題には正解がないと思っている)。その中で,大事なのは自分(学生)自身がどういう選択をするか,その価値観をどうやって教員側が育んでいくのかってことなのかなと思います。

正解のパフォーマンスをするのではなく

誰かに教わった正解のパフォーマンスするんじゃなくて,自分で正しいと思ったことをしたらええやないのと。それが周りにどう受け止められるかは別の話というか,それも考えていいけど,一番優先されるべきことではないと思うんです。正解が一つに決まらないからこそなおさら。その,自分が大事にしていることは何で,それはどういう理由で大事なのかっていうのを見つけるのも大学院で学ぶことの意味なのかなと思います。

ちょっと話は違いますが,選挙に行って投票するのだって似たようなところがあると思います。投票に正解とかないですよね。その中でも,自分が考えて,一番納得できる候補者や政党の名前を書くんでしょう。大事なのはそこでしょう。と思うわけです。

そうやって考えると,冒頭の学生さんのように,私の意見を客観視して,別の先生とは言ってることが違うという見方をした上で,自分の考える方法を自分は選ぶ,という選択をできる(実際にそういう趣旨の発言があったと記憶しています),そういう発言は私からしたら素晴らしいというか,「こうであって欲しい」を体現されてるなと思いました。それが自分の所属する研究科の学生さんだったことが嬉しかったです。

おわりに

もちろん,カリキュラム的な一貫性とかを考えたら,いろんな授業で言ってることが違うっていうのはどうなんだっていう見方もあるとは思います。ただ,私はみんながみんな同じことを教科書みたいに伝えるような授業ばっかりだったらそれはそれでつまらないし,逆にそういう授業ばかりだったら考えも凝り固まっていってよくないと思うのです。

そんな関西大学外国語教育学研究科に興味が少しでもお有りのみなさん,10月と11月に進学説明会がありますよ。

2026年度4月入学の入試(12月募集・2月募集)のスケジュールはこんな感じですよ。

https://kansaigradsch.kansai-u.ac.jp/admission/graduate/fl.html

お待ちしております。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

研究者になれる人とそうでない人の違いは、個人の資質によるか指導教員の指導力によるか、どちらだと思いますか?

はじめに

querie.meでいただいた質問です。質問の全文は以下のとおりです。

質問

研究者になれる人とそうでない人の違いはは(※原文ママ)、個人の資質によるか指導教員の指導力によるか、どちらだと思いますか?どちらとは言いきれいないのは承知ですが、任意の教員が着任した途端に、学会で名前を見るようになるのを見たり、特定の研究室から大量に研究者が出ているのを見ると,教える側の要素が大きのかなと思うところもあります。研究指導する側になって、よくわからなくなってます😢

回答

「研究者」の定義について

「大学教員になる」というのと「研究者になる」は個人的には分けたいな〜と思っちゃうところはありますね。学生の時は頑張っていても,大学教員になったら研究活動が滞ってしまう人だっていますしね。

指導教員側の要因:個人の力量 vs 環境

あとは教える側の要因というのは,その教員個人の力量だけではなくて,それ以外の環境要因との掛け算なのかなと思うところもあります。その環境でどうやったら学生のパフォーマンスを最大化できるのか,みたいな。例えば,教員の研究費だけに依存せず,学内的な院生への支援(ソフト面もハード面も)が充実しているということであったり,共同研究の機会が豊富にあるのかどうか(学内外のネットワークだったり,異分野交流であったり)とか,どれだけ研究に時間を割くことができるか(授業負担や学内業務負担がどれだけあるのか)みたいなのも,もちろん教員個人の力量もあるとは思いますが,やはりその組織がどういう仕組みで動いているのかに依存するでしょう。

組織・「ブランド力」の影響

あとは,一度「あのゼミからは優秀な人材が輩出される」となったら,そこにもっともっと優秀な人が集まりやすくなるという効果もあると思います。また,なんだかんだで組織の力というか所属している大学ってのは大きいでしょう。やっぱりうちの分野(どこの分野とは言わない)(注)なら特定の国立大(旧帝大)や私立大の出身者がある種の「派閥」的強さを見せている側面があるように思います。

研究テーマ,分野特性の影響,個人的な問題意識

研究テーマの要因もあるでしょう。どの分野の方からの質問かはわかりませんが,私の分野(どこの分野とは言わない)だと,ある要因と要因の関係性を調べるアプローチで無限に研究を量産している人たちがいて,まあそれが世の中の潮流でもあるようだしトップ誌に載るし引用もたくさんされるし,みたいな。いや,論文載るのはすごいんですよ。テーマもそんなにポンポン思いつかないですし普通は。でも,この分野(どこの分野とは言わない)は既存の枠組みの微調整や概念の再定義によって研究を展開しやすい分野特性があって,それって最強なんですよね。概念間の関係性を統計的に検証するアプローチで,比較的安定して研究成果を生み出せる仕組みになっているので。

これは何も自分を除く他者に向けているわけではありません。私も,院生時代の多くの研究が「明示的・暗示的知識」というパラダイムに乗っかったものでした。当時は測定法の議論が隆盛していたこともありましたし,ある文法項目に対して,明示的・暗示的知識を測っていると考えられる測定具のテストを二つ実施して(あるいは同じテストに対して違う条件を課して),違いが見られたり見られなかったりしたら,それを議論することで論文1本になったんですよね。私が初めて採択された筆頭著者の論文がまさにそれでした。

Tamura, Y. & Kusanagi, K. (2015a). Asymmetrical representation in Japanese EFL learners’ implicit and explicit knowledge about the countability of common/material nouns. Annual Review of English Language Education in Japan, 26, 253–268. https://doi.org/10.20581/arele.26.0_253

今見たらなんかもう目も当てられないようなひどい論文で読み返すことも憚られます。こういうアプローチをするにせよ,もう少しフレームワークは今なら工夫するだろうなと思います。ただ,私はそういうアプローチで研究を量産できるような人間ではないですし,こうしたアプローチで研究(者)を量産するのが本当にいいことなのかな,とよく思っています。こういう意見も,結局はパブリケーションが強い人からしたら,私のような考えが同じ土俵に乗ってこなかったら相手をする理由もないでしょうから,難しいなぁとずっと思っています。

『第二言語研究の思考法』はそういう気持ちもあって携わった本ですが,特に話題にもされていない(という認識でいます)し,その提案について批判も特にもらってないと思うので,既存の研究パラダイムへの根本的な問いかけは議論されにくい傾向があるのだなと感じます。それでも,今後も細々と,この問題提起について継続的に発信し続けていくのが自分の人生なんだろうなと思います。今年度採択された科研費の研究も,そういう路線です。

なんか脱線しましたね。

最後に,これも言っておかないといけないなと思ったことですが,生存バイアスもあるんだと思います。結局生き残るのはなんだかんだ優秀な人なわけで,その陰で数多の優秀な人にカテゴライズされずに去っていった人だっているんじゃないのかなという気もしています。

おわりに

久しぶりに,面白い質問だなぁ,ブログ記事にしたいなと思わされる質問でした。ありがとうございました。

私に質問したい方は下記URLからどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915¥

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注:寺沢さん話法

リサーチ・クエスチョンの見つけ方

はじめに

Querie.meでいただいた質問シリーズ。

質問

文法習得にフォーカスするSLAの研究で、自分のリサーチクエスチョンに至るには、先行研究を読んでまとめることを繰り返して、そのまとめたものから、リサーチ・ギャップを見つけるというかたちで進めればよいのでしょうか。 4月から進学する学生なのですが、「これまでに何がわかっていて、何が課題なのか」という部分をまとめるのがすごく苦手な気がしていて、お尋ねする次第です。アドバイスをよろしくお願いします。

回答

おっしゃられている方法(「先行研究を読んでまとめることを繰り返して,そのまとめたものから,リサーチ・ギャップを見つける」)は,文法習得とかSLAとか関係なく大事なことなのかなと思います。リサーチ・ギャップを見つけてそれを埋めるより,既存のリサーチの前提を問い直す研究の方が本当は大事なことなんですけどね(参照:『面白くて刺激的な論文のためのリサーチ・クエスチョンの作り方と育て方』)。「進学」が修士課程への進学だとしたら,そういう研究をするのはかなりハードルが高いので,個人的には目指さなくてもいいと思います(もしできるのならそれは素晴らしいこと)。もし博士課程に進学されるのなら,単なるギャップを埋める研究ではなくもっと野心的な研究に挑戦してみてください。

あとは,個々の論文だけ読んでいても、いわゆるbig pictureというか,それがより大きな領域・分野のどういうところに貢献するのか,みたいなことがわからないままになってしまうと思います。だからこそ,いわゆる教科書的な本は何冊でも読んだら読んだだけ得るものがあると私は思っています。

「これまでに何がわかっていて,何が課題なのか」というのは,たいていの場合論文のイントロに書いてあると思います(私は少なくともそういう意識でイントロを書くようにしています)。イントロがなく,いきなりliterature reviewから入る論文でも,本研究に入る前のところで,研究の意義とか目的みたいなものを書いているパラグラフがあると思います。それが,「これまでに何がわかっていて,何が課題なのか」に関係していますよね。

また,「何が課題なのか」については,論文の最後の方,”future directions”てきなのが書いてあるパラグラフがあると思います。あるいは,limitationsの部分に,今回の研究の限界が書かれていると思います。その限界というのは,今後の課題につながる部分でもあるはずですよね。例えば,今回の結果Xの効果が見られたが,実際にはこういう実験をしてみないとYの影響がある可能性もある,というような話があれば,「こういう実験」というのが次にその領域でやるべきこと,でしょう。そういうののなかで,自分がやってみたい,と思うことがリサーチクエスチョンになるんじゃないでしょうか。

私の場合は,修士論文も博士論文も,「なんかこれおかしくない?」みたいなのが動機というかスタート地点でした。修士論文のときは,読解中に線引いたらそれすなわち”noticing”みたいになってるけど線引いたときに何考えてたかわからなくない? -> 刺激再生法でインタビューしてみよう,みたいな感じでした。博士論文は,複数形形態素の習得ではよく数の一致現象が取り上げられるけど,数の一致は処理が複雑だから,それができない=複数形形態素の習得ができないとかそういうことじゃないんじゃないの? -> もっとダイレクトに複数形形態素とその意味のマッピングを「習得」と定義して,そのマッピングを調べる実験をやってみよう,みたいな感じでした(参照:Tamura, 2023)。

所属する研究科や指導教員の先生のやり方等もあると思うので,そういうのを入ってから学びながら,という側面も結構あると思います。こうやってリサーチ・クエスチョンを立てなさい,というような具体的な指導があるかもしれませんしね。上で書いたことはあくまで「私はこう考えている」ということなので,大学院に入ったら実際には私が書いたこととは全然違ったみたいなこともあるかもしれません。そこはご理解ください。

ちょっとした昔話

最後に,ゼミや授業その他でいろんな論文や研究について色々ディスカッションする中で研究のアイデアが生まれることもあると思います。私が大学院(博士課程)のときは,喫煙所でいくつものアイデアが生まれたような記憶があります。

今でもすごく自分の記憶に残っているのは次の研究です。

Nishimura, Y., Tamura, Y., & Hara, K. (2017). How do Japanese EFL learners elaborate sentences complexly in L2 writing? Focusing on clause types. Annual Review of English Language Education in Japan, 28, 209–224.

2017に出た論文ですが,2016年にやった研究だと思います。草薙さんや福田さんという私がすごくお世話になった先輩が名大からいなくなって,自分が引っ張る立場になりました。そんなとき,後輩の西村くんと帰り道に理系の方の喫煙所に寄って,研究の話をしました。彼は当時から統語的複雑さというものに興味を持っていました。そこで,統語的複雑さの指標(節の数とか従属節の割合とか)があがったさがったとか,そういうのよりも,「どうやって統語的に複雑な文を書くのか」に注目したらどうかという話になりました。普通にライティングをさせてもそこまで複雑な文は出てきませんし,明示的に複雑な文を書いてください,と指示しても,その指示の中に複雑な文の具体例を出さなければならず,実験としては成り立ちません。そこで,6コマ漫画の描写課題で書ける文の数を制限させるという条件を課すことで,限られた文の中に多くの情報を詰め込まなければいけない状況を生み出しました。「一番複雑な文を書く大会」というプロジェクト名で,もう一人の後輩(原くん)も誘って3人で研究をしました。中部地区英語教育学会で発表して,全国英語教育学会紀要に投稿し,無事採択されたというわけです(引用されたことないんですけどね….)。

こんな風に,誰かと話している中からアイデアが生まれて,それが研究になる,ということもあると思います。もちろん,こうやって形になった研究なんてほんの一部で,考えていった結果としてこれじゃ研究にならないな,といわゆるボツになったものも数え切れないくらいあると思います。進学される大学院にフルタイムの学生がたくさんいて,毎日毎日研究の議論をたくさんする,というような環境ではないかもしれません。そんなときは,研究会や読書会に参加したり,学会に参加したりしてみると,そういう議論の機会も得られると思います。

おわりに

4月からの大学院生活,楽しんでくださいね。応援しています。

質問したい方はどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。