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「先行研究を乗り越えること」の自己目的化

はじめに

以下のツイートを読んで考えたことを書きます。もともとの投稿日時はだいぶ前なのですが,最近寺沢さん自身がリポストされて目に止まりました。

なぜ目に止まったのか

私自身もどちらかというと,先行研究に乗っかっていくよりも先行研究を乗り越えていこうとするようなことを考えるようになってきているという自覚があるからだと思います。

研究キャリアの初期がだいたいどれくらいの時期を指すのかはわからないけれど,一応いまでもまだ私は初期(若手にギリギリ出せるくらいなので)だと考えています。もしかすると初期が終わったくらいなのかもしれませんが。大学院生時代+博士号取得直後くらいがキャリア初期だとすると,もうその時期は終わっていますね。まあそれはともかく,先行研究を乗り越えることそれ自体が自己目的化しすぎてしまうというのは注意しなければいけないなと思います。

寺沢さんの指摘は,先行研究を乗り越えることが悪いということではなくて,それを意識しすぎると,視野が狭くなってしまって,自分の都合のいいようにデータや現実を解釈してしまうので注意が必要だということだと思います。都合のいいように解釈しすぎないようにすることっていうのは大事だと思っていますが,でも,どこかで確証バイアスかかってないかっていうのは気にしないといけないなと思いますよね。

「学術書」というところがポイントなのかなと

おそらくですが,学術書だと,そういうアイデアを批判的に検討してもらう機会がないんですよね。学術雑誌に載るプロセスのような査読があるわけではないので。出版されるかどうかというのは学術的正しさとは別のところで決まるものだと思っています。

そうなると,上の投稿の用語で言う「セルフ査読」はもちろん,やっぱり外部査読(というシステムの是非はおいておいて)とか学会発表とかで,批判を受けながら研究を進めていかないといけないよなという気持ちは結構あります。

「先行研究を乗り越える」というときの「乗り越える」は結構多義的だと思いますが,そういう目的もあった『第二言語研究の思考法』は,身内というか届いている範囲だと好意的に受け止められてはいるのかなとは思いますが,一方で,あそこで論じたことも,「確証バイアスとチェリーピッキングだ」という批判が当てはまらないのかどうか,そう感じられた人がいたらそういう批判は受けたいなと思います。

同じように,昨年11月の外国語教育メディア学会(LET)の全国大会で発表した内容についても同じ気持ちです。発表後には一定程度の共感をもらえた一方で,批判も大いにありうる主張だと思うので,そこは批判も受けながら議論を進めていきたいなという思いです。

こちらはブックチャプター原稿をベースにした発表でしたが,一応原稿自体は”peer review”も受けてはいます。とはいえ,学術雑誌に投稿論文として出したら同じままで通るかと言われるとあまり自信はありません。

明示・暗示については,いま査読中の論文が1本あるのですが,そちらも,かなり,「先行研究を乗り越える」という強い気持ちで書いたものです。何年後にその原稿のことを自分自身がどう評価するかは未知数ですが,自分の中ではマイルストーンと呼べるような論文になるような気がしています(原稿の「思考の種」自体はこのブログで過去に書いた記事の内容も含まれています)。何回リジェクトされても,必ずどこかに載せないといけないですね(cf. 名詞の数の処理に関する実験の論文が出ました)。

おわりに

春休みになるとめちゃくちゃブログ書いちゃいますね。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

名詞の数の処理に関する実験の論文が出ました

はじめに

日本語を第一言語とする英語学習者の数の処理について,International Journal of Bilingualismから論文が出ました。

https://journals.sagepub.com/doi/10.1177/13670069261422017

Tamura, Y. (2026). Singular–plural asymmetry in L2 English number processing: A sentence-picture matching study of Japanese learners of English. International Journal of Bilingualism. https://doi.org/10.1177/13670069261422017

オープンアクセスですので,どなたでも全文ご覧いただけます。論文の要約は私の個人ウェブサイトに記事を書いたので,そちらを引用しておきます。

日本語を第一言語とする英語学習者が,英語の単数・複数形を文処理中に自動的に概念的意味へとマッピングできているかどうかを調べた研究です。

先行研究(Jiang et al., 2017)では,文中に単数形名詞が出てきたとき,それが複数の物が写っている写真とペアになると,母語話者の反応時間が遅くなることが示されていました。これは,文処理中に単数形の意味(=1つ)が自動的に活性化され,写真の内容との概念的な不一致が干渉を生んでいることを意味します。ただし,Jiang et al. の研究では「単数名詞×複数の写真」という一方向のミスマッチしか検討されていませんでした。では逆方向,つまり「複数形名詞×1つの物の写真」ではどうなのか,については誰も調べていなかったのです。

本研究では,文と写真のマッチング課題を用いて,この両方向のミスマッチを同時に検討しました。実験の仕掛けはこうです。まず参加者に写真(物が1つか3つ写っているもの)を見せ,続いて写真の内容(物の位置や色)を説明した英文を提示します。参加者は「文が写真を正しく説明しているか」をできるだけ速く判断します。肝心なのは,ターゲット試行では単数・複数のミスマッチが仕込まれていること,そして参加者には「数のズレは気にしないでいい」と明示的に教示している点です。それでも反応時間に遅れが生じるならば,数の処理は意識的な注意とは独立して自動的に行われている,ということになります。L1英語話者32名と日本語がL1の英語学習者96名を対象に実施し,反応時間データを逆ガウス分布の一般化線形混合モデルで分析しました。

結果として,L1英語話者は両方向のミスマッチで反応時間の遅れを示しました。単数名詞が複数の写真とペアになっても,複数形名詞が1つの物の写真とペアになっても,どちらも干渉が起きていたわけです。一方,L1日本語英語学習者は,単数名詞が複数写真とペアになった条件では反応時間の遅れが見られたものの,複数形名詞が1つの写真とペアになった条件では有意な遅れが見られませんでした。

この非対称性の説明として,本研究では意味的有標性(semantic markedness)の概念を援用しています。単数形の意味(=正確に1つ)は精確で特定性が高いのに対し,複数形の意味(=1より多い)は本来ぼんやりしていて,特定の数を指すわけではありません(Sauerland et al., 2005; Patson et al., 2014)。学習者にとっては,この「単数のクリアさ」があるからこそ自動的な概念マッピングが成立するが,「複数の意味のぼんやりさ」に加えて,日本語には義務的な複数形形態素が存在しないという母語の影響(Morphological Congruency Hypothesis; Jiang et al., 2011)も重なり,複数形と複数概念のリンクが自動化されるに至っていない,という解釈です。

この結果がとくに重要なのは,これまでの研究の解釈に修正を迫る点です。Tamura (2025)でも論じたように,先行研究で見られてきた学習者の複数形態素への「非敏感性」は,複数形を処理できていないとか意味が載っていないということを必ずしも意味しません。本研究の文脈では,単数形から複数形への方向ではきちんと干渉が生じていることから,問題は形式と意味のマッピングの有無ではなく,その自動化の度合いや方向性によって異なる,という可能性を示唆しています。両方向のミスマッチを一つの実験で検討したのは本研究が初めてであり,この非対称性を明らかにした点に独自の意義があると考えています。

https://tamurayu.wordpress.com/2026/02/27/tamura-2026/

出版に至るまでの裏話

最初は,元の研究になっているJiang et al. (2017)の追試研究として書きました。もともと博論を構成する研究のうちの一つだったのですが,そのときは実験2つを組み合わせた解釈をしてたから割といけたんですが,この実験だけ取り出して新規性とか議論を膨らませるのが結構難しくて,全然書き進められていなかったのが原因でした(5000語くらいでずっと塩漬けになっていました)。

そこで開き直って追試として論文書いたら,元研究との比較を軸にディスカッションできるなと思ったのです。ところがまあそれはリジェクトされてしまいまして。そのアプローチはうまくいかんかー。ということで,元々書いていた追試ではないオリジナルリサーチの方向でなんとか最後まで書き切って別のジャーナルに投稿しました。しかしそれもまた落ちまして。

どうするかーと悩んでいたところで,Jiang et al (2017)が掲載されているIJBに出そうかなと考えました。IJBは語数制限が厳しいので,イントロもコンパクトに,ディスカッションもコンパクトにという感じで,逆にそれがこの研究には良かったのかもしれません。

投稿したらエディターに,「うちはもうSLAの論文載せてないのよ〜バイリンガリズムとSLA研究は違う分野になっちゃったからさ」(大意)みたいなことを言われて,「まあでもconvince meしてくれたら査読回すよ」(大意)と言われたので「いやバイリンガリズムの観点からも意義ありまんがな」と必死にアピールして査読に回してもらい,査読自体は時間はかかりましたが,さほど査読プロセスは厳しくなくminor revision -> acceptとなりました。

この実験の着想

英語には,名詞の単数・複数を形で区別する仕組みがあります。この複数形形態素の習得というのは,簡単そうに見えて実は数の一致の誤りにはなかなか気づけないこともあるなど,第二言語習得研究の関心事でした。私の博士論文は,「数の一致」の誤りに気づけるかどうか,という,いわゆる誤文反応検知(anomaly detection)
先行研究(Jiang et al., 2017)では,「単数形の名詞と複数の絵を見せると,母語話者は処理が遅くなる」という結果が示されていました。つまり,頭の中で「あれ,合ってないぞ」という衝突が起きるわけです。

ところが,Jiang et al. (2017)では,「単数形名詞 vs. 複数の絵」という実験はありましたが,「複数形名詞 vs 1つの絵」(実験3)では常にseveralやtwo,manyのような語彙的な複数を表すマーカーが含まれていて,これがあると不一致条件で遅れが出る(例:several paper bagsと読んでbagが一つだけなら遅れる)という結果が出ていました。しかしながら,こうした語彙的サポートがない複数形名詞の処理で反応時間が遅れるのかということは実験されていませんでした。私は,それをやって初めて,複数形の形態素をどう処理しているのかがわかるのではないか?と考えて,今回のような実験をするに至りました。だって,「単数形名詞 vs. 複数の絵」の条件では,実際には言語として複数形名詞を処理していないわけですから。

リジェクトされた原因

2回のリジェクトの割と大きい理由のひとつは,元の研究と実験の手順を微妙に変えたことなんです。この課題の肝は,上の要約にも書きましたが,絵と英文の位置関係を判断する課題の中で,物体の数が異なったりしているという条件があることです。例えば,

(a)The red onion is right above the yellow cup.

という英文を読んで,でも実際に見えている画像には黄色いカップが3つあるという単数名詞不一致条件と,

(b)The birds are on the right side of the orange cups.

という英文を読んで,実際に見えている画像にはオレンジ色のカップは1つしかないという複数名詞不一致条件がありました。

このような数が一致しない条件でも,「カップの上に玉ねぎ」とか,「カップの右に鳥」というような位置関係は一致していました。

英文が表している空間的な位置関係は正しいが,名詞の単数・複数に違いがあり,その時に,この「数の違い」に反応して,「あれ?数が違うぞ?」となって反応時間が遅れるかどうかというところがポイントです。オリジナル研究のJiang et al. (2017)では,「位置関係だけに着目して「絵と英文がマッチしているかどうか」を判断するように求められていました。

ところが,私がこの実験をやる前に行ったパイロット調査で,「数が違うときに,合っていると判断したらいいのか,どうしたらいいのか迷った」というコメントが英語母語話者からも日本語話者からも複数聞かれました。指示の曖昧性がある状態で実験をするよりも,思い切って,明示的に,「数が一致しなくても無視して,絵と英文の一致を判断する」としたほうが良いだろうと判断して,私は実験前に,名詞の単複の違いは無視するように参加者に伝えました。

結果として,Jiang et al. (2017)では学習者群で反応時間の遅れが見られなかった(a)の条件で反応時間の遅れが見られたんですよね。ところが,(b)の条件では遅れが見られなかったのです。この結果をどう解釈するのかというのが結構難しくて,最終的に意味的有標性という概念を使いました。これは博論でも使っています。

ところが,査読者(おそらくNan Jiang先生かあるいはあの研究の著者のどなたか)からは,指示を変えたのが結果が変わった大きな要因だ。元の研究と同じ条件でもう一度実験をやり直すべきみたいな感じで言われました。「練習試行で慣れさせれば,明示的な指示を与える必要はない(私たちはそうだった)」みたいな。私としては,でも,母語話者は指示があってもどっちの不一致条件でも遅れているわけで,その指示が母語話者には影響しなくて学習者にだけ影響したのか,どうやって説明するんですかという気持ちでした。さらに,その指示の影響でどちらの条件でも有意差が出たり出なかったりするのならまだしも,片方は有意差があり,片方の条件では出なかったという非対称性についてもなぜそうだったのかの説明が必要になります。

やめないこと

博論を構成する研究は,未出版のものであることというのがまあ約束としてあったのですが,それは,就職して間もないころは忙しいので,すでに出来上がった研究を投稿論文にすることでとりあえずは「食いつなげるように」ということだったわけですが,私はそれすらもできずに,結局この研究を8年間も引っ張ることになってしまいました。情けないなと思う気持ちもある一方で,辞めなかったことだけはポジティブにとらえています。そんだけ時間が経っていたら内容のことも記憶から薄れてしまっていますし,時間とともにモチベーション自体もやっぱり下がってきます。この論文の投稿プロセスについて相談していたGeminiには次のような厳しいことも言われましたしね…苦笑

昔,私の先輩である草薙さんが,

研究者は自分を「書けないタイプ」だとみなしたら終わり。せいぜい「たくさんは書けないタイプなだけ」とか「今はまだ書けないだけ」と思うこと

というアドバイスをしてくれました。たぶん,このブログでも何回か書いたことのある話ですね。

私は就職してからずっと,自分はたくさん論文を書けるタイプではないと思っていました。就職後2年間は本当にそうでしたし,コロナ禍後に心がボロボロになったときも,「今はまだ」と思っていました。でも,とにかく辞めない,書いて投稿することをどんなにペースが遅くてもやり続けようと思ってここまでやってきました。私の場合,研究をデザインして出版までいくのに平均して3-4年はかかっているので,時間はかかりすぎているとは思います。でも,何もやらないよりは100倍ましだと思ってやっています。私は一流の研究者でもないし,たくさん引用されるような論文を書いているわけでもない,人より優れた才能があるわけでもない,平々凡々なただの人ですが,とにかくやめないこと,これだけはこれから何十年も続けたいと思います。

最近,「博士課程で連続的に成長する」というnote記事を読みました。

私はもう「まずは一本だ出す」とかそういう段階は通り過ぎた研究者ですが,「前に進んでいない感覚」は今でも持っています。関連するようなことをnoteの方にも書いています。

同じ4年間と違う4年間と次の4年間

「次の4年間」

前に進んでいる感覚はないけれど,とにかくやり続けて,最後に最終講義(というようなものが未来に存在するかわからないですが)とかで,自分のこれまでの研究人生を振り返ったときに,「まあ,なんかやったっちゃやったわな」と思えたらそれで御の字だなと思います。

おわりに

最後はなんかちょっと論文の紹介からズレてしまいましたが,これからもほそぼそとやっていきます。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

2025年の振り返り

毎年恒例の振り返り記事です。これまでの振り返り記事も興味がお有りの方はどうぞ。

過去の振り返り記事

ブログのこと

この記事を書いている2025年12月26日時点でのこのブログのpage viewは219,415です。年間のアクセス数は17,706で,昨年よりもさらに微減,2022年よりも低い数字になりました。2023年で増えたのがまた少し落ちたという感じです。投稿自体は23本と昨年よりも増えて,平均で月2本くらいのペースだったので,一つの記事あたりの閲覧数が少なかったという感じですね。

今年の記事で閲覧数が多かったのは以下のような記事でした。

1番目は,ここ数年で自分の仕事の一部になったノートアプリ関係の記事です。Obsidianは研究のために使っているのと,授業関係のメモを残すのに特化して使っています。基本的に,デバイスすべてにアプリが入っているし,常に開いています。ToDoリストではなく,終わったことをリスト化していく,というやつです。これも,結構毎日やっていたのが最近はあんまり毎日デイリーノートにやったことを書いておくみたいな週間はとぎれとぎれになって来てしまっているかもしれません。理由は簡単で,「仕事終わり」の時のクールダウン的な時間が一切取れていないからですね。そんな暇ねーって感じで帰宅しています。

2番目の記事は,匿名質問への答えをブログ記事にしたものです。最近は,あんまり質問が来ないのと,質問もらっても長文ブログを書くような気力がないことも結構多いです。

3番目はXの投稿に触発されたものですが,これも別にそこまで閲覧数伸びなかったなーって感じです。

仕事のこと

2025年は,昨年度の秋学期に始まった執行部の仕事を年間通してやるというのが結構自分の中ではハードでした。特に,広報の仕事は,ルーティン的にできる部分(Xへのポストなど)と,クリエイティブさが要求される仕事(広報媒体の企画や動画の企画)があって,後者が自分の中で全然しっくり来なかったというか,自分がこの学部の何を誰にアピールしたいのか,というはっきりしたビジョンを持っていないことを痛感した1年に感じています。今年で8年目なわけで,いろんなポジションで仕事をこなしてきてはいるし,学部もどんどん変化していっているわけなのですが,それでも自分は学部のことをまだまだわかっていないし,この学部をどうしたいのかっていうのも明確な答えを持っていないのだなと。ずっとこの職場に居続けるのだとしたら,そういうことを考えずにやっていけるわけがないと私自身は思っています。でも,そういうことを考えるのは,誰でもやることでもないのかもしれないと思うこともあります。執行部に入ったからこそそういう意識の変化が生まれたのかもしれませんが,任されるのにはそれなりの理由があるのだと勝手に自分の中で腹落ちした感覚もあります。

授業に関しては,今年はゼロから新しい授業を担当しているってことはないのですが,昨年度初めて担当することになった学部の講義科目(心理言語学研究)を,180度やり方を変えて取り組んでいるので,それなりに大変さを感じています。ただ,昨年度よりは遥かに自分の中でも手応えを感じられている部分はあります。毎回反省はありますが,この方向性をどんどん追求していけばもっと良い授業ができるという見通しはたったような気がしています。あとは,久しぶりに学部のゼミ生が入ってきてくれて,嬉しいですね。何か少しでも自分の研究に関する知見を還元できたらいいなと思っています。お酒をやめてしまったので,お酒を飲みに行けないのが残念なのですが。

そして,修士課程の学生を受け入れられるようになりました。ついに〜という感じです。着任10年目くらいでようやくそこにたどり着けるかなと思っていましたが,それよりは少し早まったという感じです。それでも,着任して割とすぐに院生指導をするような同世代の人たちもいることを考えたら,私は院生指導という意味では随分とスタートが遅いような気もしています。そういうキャリアパスは見えていて納得したうえで着任したし,院生を持つようになればそれはそれで授業の時間数が単純増になるので,「学部のゼミも持って大学院のゼミも持って,学部の講義科目と大学院の講義科目と学部のスキル科目と教養外国語の科目と….そりゃ半期10コマとか担当する先生がいるわけだ…」みたいな感覚です。ただ,初めて学部の科目を担当した2024年に,担当しないとわからないことがあるなと思ったことと同じように,きっと院生の指導もやらないとわからないことがたくさんあるだろうと思います。何回も繰り返せば繰り返すだけ良くなる気がするっていうのはどんな仕事でも思っていることなので,経験を重ねて良い研究指導ができるようになれたらと思います。自分のウェブサイトにこういうページも作ったので,私の指導を希望される方はお読みください。

研究指導で思い出したこととして,今年強く思い出に残っていることは,博士論文試験の副査を務めたことです。M院生の指導よりも先にそちらを担当したということがもしかしたらあまりないことなのかもしれませんが,とても光栄なことでした。信頼して任せてくださった新谷先生には(常にいろんなことで感謝しまくっているのですが)本当に感謝しています。部屋に入って同じく学外審査員の超大御所の先生が座っているのを見て,「ふぁ!?!?対面で!?」ってなったのも含めていい思い出でした。

2024年の記事を見返していたら,研究のことをなにも書いていませんでしたw 研究をやっていなかったわけではなくて,学会発表もしたし,論文を書いて投稿したりもしていましたが,ファーストの論文は結局採択ゼロになってしまいました。2025年も,結局アクセプトサンタは来なかったのでファーストの論文は結局ゼロなのですが,投稿中の本数は3本なので,来年はこの3本がどどんと出るといいなと思います。杉浦先生の退官記念論集や,福田さんが若林先生たちと編者になっている本(後述する口頭発表の元の原稿が掲載される予定の書籍)も順調にいけば2026年に出そうだという話なので,そちらも合わせて,全然研究できなかったと思うような年ではなかったです。直近では外国語教育メディア学会(LET)の全国大会で口頭発表しました。実は,LET全国大会で第一著者として口頭発表したのは今回が初めてでした。

私の研究はこんなに満員御礼になんてなったことがないので,きっと最初で最後の満員御礼だろうと思いますw 明示的知識・暗示的知識はいま科研費をもらっているので,精力的にアウトプットしていこうと思います。と書いて思い出しましたが,今年は3回目の正直で基盤Bが採択されたのでした。夏の集中講義でお世話になっている神戸市外国語大学で以前,ランチにお蕎麦を食べていたときに,濱田さんに,予算規模が大事だとアドバイスをいただき,満額で2000万まで申請できる基盤Bの半分くらいの額で申請したら通りました。濱田さんにはめちゃくちゃ感謝しています。明示・暗示といえば,この前タイムラインのおすすめの方にこんなポストが流れてきました。

反射的に,私が昔書いた同じ本のレビューブログのリンクをリプライしそうになりましたが,やめました。

運動習慣と健康面

運動は,ChatGPTに筋トレ相談というプロジェクトを作って,そこでメニューとか食事の提案をしてもらいながらするというのを秋学期からやり始めました。きっかけは,妻から,「私と出会ったときは,腹筋割れてたよね?」と言われたことです。最近,なかなか体脂肪が落ちないなと思っていたのもあって,気合を入れ直したっていう感じです。腰痛とか,体の疲労感,睡眠なども報告して,今は無理しなくていいとか,今日はこのトレはやめておこうとかそういう細かい調整をしてもらえるので,パーソナルトレーナーを雇っているような感覚です。ちなみに,ChatGPTとのやりとりで,補食に羊羹がいいというのを教えてもらって,30個くらい箱買いして研究室においています。1, 2限がある月曜などは,出勤してから筋トレして,そこから昼までに空腹が長く続いてしまうので,1限の始まる前に羊羹を摂取しています。あとは,5限のある金曜は夕方にガス欠になりがちなので,そこでも羊羹を入れたり。脂肪がなくて炭水化物が手軽に取れるので,重宝しています。3ヶ月くらいで体脂肪率が3%くらい落ちました(体重は3キロくらい)。筋トレ自体はいつも10分くらいで,本務校授業日の3日間だけしかやっていないので,これくらいの習慣は続けていきたいなと思います。

健康面だと,7月末に入院して足裏の小さな腫瘍を切除する手術をしました。入院自体は大学生時代に腰椎椎間板ヘルニアで歩行困難になって2回入院したことがあるので,それ以来かなと思います。手術の前日は,論文書けるぜ〜とか余裕ぶっこいていたのですが,術後は痛すぎてそれどころではなかったのと,退院後すぐに出勤しないといけない用事があって足を引きずりながら出勤したのもいい思い出です。経過観察をちょうど今日もしてきて,特になんの問題もありませんでした。

プライベートのこと

子どもが4月から保育園に通い始めました。最初は保育園の給食を全く食べることができず,これでは保育園に預けられないということで,妻の仕事復帰を先延ばしにして,退園させるかどうかみたいなことも真剣に検討したこともありました。また,保育園の洗礼というやつで,とにかく毎週のように小児科に通い,親もくらって耳鼻科の大行列に並び,みたいなことも5, 6月くらいはありました。鼻水がやばすぎて,関学の非常勤に行ったときにマスクの下で鼻水ぐっちゃぐちゃだったことが一度ありました。帰りに仁川のマツキヨでティッシュと鼻炎薬買いました。息子は保育園の先生方のおかげで徐々に保育園に慣れていき,今ではむしろ保育園の給食では野菜やお肉などもよく食べるけれども家では米とパンとフルーツしか食べないみたいな状態です。保育園で頑張っているから,という気持ちもありつつ,家でもなんでも食べてくれたら嬉しいなと思ってしまっています。

保育園に通わせるというのは,送り迎えや保育園の準備といった今までに経験したことのないことをするということを意味します。今ではだいぶそれが自分の日常に刻み込まれてきている感覚がありますが,慌ただしさは増した感じがします。会議を途中で抜けなければいかなかったり,息子が保育園を休まないといけないときには授業を休講にしたりしないといけないというのもあります。昨年度の秋学期はまだ妻が育休中だったので,そういう意味では仕事に集中すればよいという状態でした。春学期はとくに,授業を休講にすることへの躊躇というか,絶対にそれはしたくないという気持ちが非常に強く,妻とそれで口論になったことも何度もありました。今では,それはやむを得ないこととして自分の中でもうまく処理できるようになってきたと思います。

それでも,子育ては悩みがつきないですね。

買ってよかったもの

最後におまけ。

パナソニック電動自転車

除湿機

自転車のリンク先は最新モデルなので,私が買ったやつと同じではないですが,当時の最上位機種を買いました。自転車の鍵がボタン一つで解除できるのが気に入っています。保育園の送り迎えや,近所の公園やスーパーに行くのにも必需品で,これなしでは生きていけません。子育て世代の強い味方です。

除湿機は,夏の寝室の快適さが爆上がりしました。エアコンの除湿機能を使うと温度のコントロールが難しいなと感じていたんですよね。子どもも同じ部屋で寝ているので,ガンガン冷房効かせて布団かぶって寝るみたいなことはできません。でも,除湿機をかけると,冷房でそこまで温度を下げなくてもめっちゃくちゃ快適に眠れるんですよね。本当に買ってよかったです。冬の今の時期は,洗濯物がなかなか乾きづらくなってきたので,洗面所に部屋干ししているときにサーキュレーターに加えて除湿機もかけるようにしています。

おわりに

2025年は,もしかすると,飲み会に一度も行かなかったかもしれません。いや,それは言い過ぎですね。たぶん,2月に中崎町に飲みに行ったっきりです。お酒を飲むのをやめたのは10月の終わりからなので,それまではお酒は飲んでいましたし,妻の友人家族と外で食事するみたいなのは何回かありましたが,私が夜に1人で出かけたのはたぶんその1回だけですね。サッカーを夜に観に行ったのは何回かあったとは思いますが。サッカーも,年間チケットは買っていますが,半分以上はリセールしてますねおそらく。

子どもと離れるのが嫌だという気持ちと,夜の時間帯のワンオペの大変さがわかっているので,それを妻に任せるのが申し訳ないという気持ちが両方あると思います。きっと,あと数年は泊まりがけの出張や飲み会は避けることになるだろうな,いや,数年どころか何年経っても夜に出歩くのが憚られるぞ?というのが正直な気持ちです。

たくさんの方に気を使っていただいて,だからこそ,仕事も子育ても両立できていると思うので,そういう方々への感謝の気持ちを伝えないといけないんですけどね。夜に出歩けないとなったら,そうか昼にTRATTORIA TAMURAを開業すればいいんですね。そうだそうだ。

ではでは,毎年の事になりますが,このブログを読んでいただいている方も,そうでいない方にも,私に関わるすべての方に感謝申し上げます。

今年も1年お世話になりました。来年もよろしくお願いします。皆様,良いお年をお迎えください。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

SLA批判のXポストを読んで考えたこと

はじめに

SNSで「SLAの知見で授業が刷新されるなら,学習者の熟達度はもっと上がっているはずだ」という投稿を見ました。もっともに聞こえます。ただ,読み終えたあと,批判の照準が少しズレているのではないかと感じました。この記事では,その自分が感じた違和感を整理し,誰にどの問いを投げるべきかを書いてみます。

何が問われているのか(論点の整理)

この投稿から私が感じたことは次のとおりです。

  • 授業内の言語活動をいくら精密に記述しても,短期には熟達度上昇につながらないのではという疑問
  • 「適切に研究してその成果が適応されていれば能力は上がるはずだ」という短絡的な因果推論への違和感
  • SLAはそもそも授業の即効性を直接示す分野なのか,という素朴な問い

SLAとISLAの役割の仕分け

(私が思う)SLAはメカニズムの説明に重心があり,ISLAは教室(または指導環境)という条件での因果検証に重心があります。SLAの役割は,第二言語がどのように習得されるかという仕組みを記述・説明することです。これにより,介入の設計図に相当する理論的コンパスを提供することもできますが,それは第一義的な目標ではないでしょう。

一方で,ISLAの役割は,教室(指導場面)という条件のもとで,タスクやフィードバックなど,教育的介入や学習方法の違いがどの程度効くかを検証することでしょう。よって,件のポストに対しての一次的な応答責任はここにあります。

ポスト主の方がおっしゃるディスコース研究の価値もあるでしょう。それは,学習の過程を可視化する「街灯」です。どんな学習環境なのか、そこで実際にどんな指導・学習が起こっているのかを記述することは,そこを明らかにできるでしょう。街灯そのものは目的地ではないですが,道を安全に歩かせることができます。こういう研究には,即効性のあるなんらかの処方箋的なものは期待できません。

要するに,「SLAの知見では英語教育は変わらない」という問いを投げるなら,まずISLAの設計と測定に向けて問うのが筋であって,SLA研究に向けられる批判なのかなという気がしてしまいました。

効果検証の設計(ISLAが明示すべきこと)

言語の熟達度というのは,そんなに即効性をもって観察できるようなものでは本来ないはずです。発達は,遅いんです。よくある実証研究であるような短期的な観察で効果を断じるなら,観測設計に対する説明責任が生じますよね。そうなると,ISLAが明示すべき最小セットはこんな感じではないでしょうか。

  • 成果指標は何か(テストスコア,パフォーマンス,転移など)
  • どの時間幅で測るか(短期,中期,追跡)
  • どの比較を置くか(統制群,対照群,事前事後)
  • 効果量と不確実性の示し方をどうするか
  • 測定が中間過程の所見(ディスコース)とどのように結び付くか

これらを明示すれば,「役に立つ/立たない」という印象論から,検証可能な議論へと移行できるのではないかなと思います。それはISLA研究者だけの問題ではなく,その研究の成果を受け取る側も,こういった視点で研究を読むことで,研究の成果に対して過度な期待を抱くことも抑制できるのではないかなと思います。

研究の成果が能力が大きく向上させることはそもそもない

そもそも,私はなんらかの言語教育研究の成果が,何かの能力を大きく向上させる結果を生み出すということはないと思っています。そんな単純なことではない。一般化可能なレベルの知見なんて誰でもわかるような「そりゃそうだろう」クラスのことだと思いますし,新しい発見!なんてものはおそらく別の要因でかき消されてしまうような小さな効果しか生み出さないでしょう。件のポスト主の方も,だからこそ教室ディスコースの大事さを訴えているのかもしれませんが。

おわりに

SLAは仕組みを語り,ISLAは効果を測るのだ,というような役割分担がある気がしています。「SLA」というおおざっぱな括りでの批判の照明を当て直し,誰の主張にだれがどう答えるべきかを私は整理したいのです。SLA一般への不信ではなく,授業の有効性に一次的に答えるのはISLAであって,SLA=メカニズムの説明,ISLA=指導環境での因果検証という前提は,言語教育に関わる人,SLA研究をやっている人,そして得にISLA研究をやっている人,それを広めようとしている人には自覚的であってほしいです。そしてもう一つ大事なこと。言語教育研究が熟達度の大きな向上という結果を教育現場に広く行き渡らせることはないのだ(それは相当に実現可能性の低いことだ)という自覚も同時に必要なのだと思います。SLAだろうがISLAだろうが,研究はそんなに単純なものではないし,それが社会に適応される過程だってそんなに単純なものではないのですから。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

どんな研究が必要か

はじめに

私の所属する関西大学外国語教育学研究科には,博士論文研究の計画書を提出し,その計画について口頭試問を行う「研究基礎能力試験」があります。この記事は,その発表を聞いて私自身が考えたことを整理したものです。あらかじめ強調しておきますが,ここで述べるのは特定の方の研究や指導に対する批判ではなく,あくまで一研究者としての私のスタンスです。

当たり前を疑う

私は常々,研究者には「既存の研究を乗り越える視点」を持っていてほしいと思っていますし,自分自身もそうありたいと考えています。本当に面白い研究というのは,多くの人が「当たり前」だと思ってきた前提を揺さぶり,新しい視点を提示するものだと感じています。そうした挑戦がなければ,研究の発展には限界があるでしょう。なぜなら,もし前提に誤りや誤解が含まれていれば,その上に積み上げられる研究も十分な価値を持たなくなってしまうかもしれないからです。

もちろん,先行研究は大切です。しかし「大切である」と「常に正しい」は同義ではありません。すべてを疑ってかかる必要はありませんが,「本当にそうなのか」という視点は,博士論文のような規模の研究プロジェクトでは特に必要だと思います。

既存の枠組みに従って研究を進めるのは比較的容易です。たとえば「先行研究ではA → Bという関係が示されているが,AがCに影響している可能性もある。さらにA → Dの関係は検討されていない。そこで本研究ではA → CやA → Dも扱う」といった展開は典型的です。このように要因の組み合わせを増やしていく研究は確かに進めやすいのですが,それだけを積み重ねても,背後にある本質的な法則や仕組みの理解につながるのかは常に問い直す必要があると思います。

新しい道筋を示す研究の好例

私は常に,「既存の前提を問い直し,そこから新しい道筋を示す」研究には強く惹かれます。実際,最近の研究でその好例と言えるのが,『Revisiting Universal Grammar in L2 acquisition: Weak conformity and linguistic dissonance resolution』という論文です。この研究では,第二言語習得における普遍文法(UG)の役割を見なおし,「UG」が学習者の中間言語(interlanguage)に一時的に現れるUG非整合的なルール(いわゆる “wild grammars”)を検出し,修正へと導く「モニター装置」として機能するという枠組みを提示しています。従来のUGに対する理解を単純に否定するのではなく,より包括的な枠組みとして再定義することで,説明力を拡張しようとするこのアプローチには,非常に示唆を受けました。既存理論の限界を踏まえつつ,新たな理論的視野を開拓する好例だと思います。

研究の成果を社会に直接役立てることは重要ですが,それだけが研究の価値ではありません。研究そのものの営みをより良いものにすること,それ自体が大きな社会的意義を持つはずです。人文学の研究はまさにそうした側面を強く持っています。「SLAは役に立つのか」という議論も,しばしば「役に立つ」という言葉を狭い意味でとらえすぎているのではないかと感じます(関連:英語教育学会に平和を!「教育的示唆」という用語は禁止!)。

おわりに

私が大事にしたいのは,「当たり前」に見える前提を一度立ち止まって問い直す姿勢です。それが回り道に見えても,長い目で見れば研究の厚みや意義を広げていくのだと思います。そういう営みに貢献できる研究者を目指したいですね。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

家族との時間(夫としての時間、父としての時間)、授業準備、研究とをどのようにバランスを取られているのか

querie.meでいただいた質問です。ずばりタイトルの通りの質問です。

回答

まず,同じような質問に過去に答えたことがあります。

ということで,過去の記事読んでくださいで終わってもいいのですが,子どもができたというのはとても大きな変化だったので,そのことについて書こうかなと思います。

私は何も考えなければ仕事に全振りする性格なので,意識的に仕事を諦めることにしています。例えば,毎晩子どもを寝かしつけたらそこからは全部自分の時間にして仕事をすることもできなくはないと思います。でもそれは本当にその日の夜に絶対にやらなければいけないというときだけにしています。それ以外は,妻と二人でお酒を飲みながら,子どものことやその他他愛もない話をする時間にしています。妻と家飲みしているときが一番日常って感じなんですが,それが一番幸せだなって思いますね。そういう時間は大事にしています。妻の誕生日には子どもを預けて二人だけで食事をするというのも,子連れで食事にいくのが大変なうちはやろうかなと思っています。やっぱり,子どもができても夫婦ふたりだけの時間は大切なので。

父としての時間は,昨年度の秋学期に復帰してからの学期中はなかなか難しかったです。仕事のブランクもあるし,初担当の講義科目も複数あったしで準備が大変でした。そういうなかでも,仕事に行く時間をできるだけ遅くしてなるべく家で子どもと一緒にいるようにはしていました。また,休みの日であれば妻が友人と出かける際には私がワンオペを積極的に引き受けるということもやっています。子連れ同士で出かけるほうがいいということもあるようで,その回数自体はあまり多くないのですが。

家族との時間という意味では,夕食時以降はできるだけ仕事をしない,土日も仕事はしない,ということを意識しています。スマホでちゃちゃっとメール返したりとかくらいはしても,パソコンに向かってなにかやる,というのは,「やりたいなぁ」くらいならやらないって感じです。「まじで今やらないとやばい」というものなら,妻に断って仕事させてもらっています。

これから子どもが保育園に行って,そこから学校に通うようになったら,家族以外の人たちと過ごす時間のほうが長いくらいにだんだんなっていきますよねたぶん。そうなったらもっと,夕食後の時間や土日は大事な家族との時間になるのだと思います。そういう意味では土日に入る仕事(学会仕事とか)は極力避けたいですよね。アドミン仕事は仕方ないっていうのもあるのでやりますけど。あと泊まりの出張もできれば行きたくないというのが本音です。今後,学会は全部近畿圏でやってほしい(ただし運営はしたくない)みたいなめちゃくちゃワガママな気持ちですね…。家族で出張行けば解決だと思った人は,0-1歳児の旅行どれだけ大変か知らないな?って感じですね。あと,現地で学会行ったとして旅行先で妻にワンオペさせるってことでしょ?無理だろって私は思っちゃいますわ。

おわりに

質問したい方はどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

2024年の振り返り

毎年恒例の振り返り記事です。これまでの振り返り記事も興味がお有りの方はどうぞ。

過去の振り返り記事

ブログのこと

この記事を書いている2024年12月25日時点でのこのブログのpage viewは201,463です。年間のアクセス数は18,184で,2022年に近い数字になりました。2023年で増えたのがまた少し落ちたという感じです。今年は投稿数自体がそもそも少なく,関大に就職してからもっとも少ない17本でした(就職以降だと2018年の23が最小)。

今年の記事で閲覧数が多かったのは以下のような記事でした。

1番目と4番目の話は,X(旧Twitter)で見かけたポストを発端にガーッと書いたことでした。2番目の話は研究関連の自分のメモ代わりです。3番目はQuerie.meでの質問に答えたものです。たぶん,ここ1, 2年は匿名の質問への答えをブログ記事にする,というのがかなり多いと思います。書きたいことがないわけではないのですが,ブログの記事にするっていうのも結構なdriveが必要ですからねぇ。とはいえ,今年はそれよりもプライベートでの大変化(後述)の影響だと思います。

仕事のこと

2024年は仕事面での大きな変化といえば,休業したことですね(後述)。あとは,10月から学部・研究科の執行部に入ったこともかなり大きな変化かなと思います。休業のことはプライベートなので後述するとして,執行部の話は,個人的にはいつか来るとは思っていましたが思っていたより早かったかなという感じです。いつか来ると思っていたというのは,自分がそこに入るくらい仕事ができるとかそういう意味ではまったくありません。単純に学部執行部を固定された人たちだけで回していることは健全ではないので流動化するのかなと思っていたのと,私もゆうて今年で着年して7年目ですから,もう中堅といっていいくらいのキャリアなので。正直,今執行部会や全学の会議(今までも全学の会議に出たことはもちろんありますが)に出ていると戸惑うことが多く,まだまだ全然仕事に慣れていないし勝手がわかっていないこともたくさんあって凹むこともあります。

ただ,学部や研究科をどういう方向に進めていくのか,という舵取りの一端を自分が担っているという実感は強くあって,そこにコミットできるというのは仕事としてのやりがいはとても感じます。もちろん,毎週会議があるうえに執行部会は長丁場(それでも昔よりは教授会も執行部会もだいぶスリム化されていると思いますが)なのは大変だなと思いますが。任期は2年ですが,2期は確実にやることになるので,執行部2期終わったあとに自分がどんな見方で学部や研究科のことを見ているのか,というのは少し楽しみな気持ちもあります。

授業に関していうと,また今年新しい科目を担当することになりました。それが自分が今までに経験したことのない学部の講義科目でした。これが本当に,今までで一番しんどいなと思ってここまでやっています。心理言語学研究という科目なんですが,そもそも自分は心理言語学ど真ん中の研究者ではないので,とにかく圧倒的に知識量が足りないんですよね。自分でゼロから教科書となるような授業資料を書き上げるような知識は当然ないし,「体系的な」知識がないんです。心理言語学という授業を自分が取ったことないから当たり前なんですけど。「第二言語習得」の授業ですら,体系的な授業を構築しようと思えばまあまあな準備が必要なわけですが(どういう「第二言語習得」の授業をやるかにもよりますが),心理言語学となるともうとにかく毎週必死で,金曜は大学院の第二言語習得の授業(これも今期から初めて担当)の授業もあるので昼飯食う暇もなく,授業行く前には緊張で吐きそうになりながらやっています(それでも色々追いついていなくて学生には本当に土下座して謝りたいです)。

講義科目って担当してみたいなっていう憧れやっぱりあるじゃないですか。それがやっぱり自分の研究にもつながりますし。ただ,普通の英語の授業を同じコマ数やるほうが10倍楽だなと今は思います。いやこれもどういう授業やるかにも依存するとは思います。私は今はとにかくガッツリ90分講義する感じでやっていますが,これが例えば内容は半分にしてグループ・ワークみたいなのをもう半分にする,とかしたらもう少し自分の負担は減るかなと思います。

大学院の授業も,いわゆる「王道SLA」(インプット仮説,アウトプット仮説とかが出てくるような)だったら,そんなに難しくないと思うんですよね。ただ,私はあえて,言語学系SLAのテキストを採用して,それを毎週1章ずつ読み進めるということにしました。私は文法習得系のSLA研究者ですし,学部で統語論のゼミや授業をとっていたのである程度言語学の基礎的な知識はあります。文法現象をターゲットにした習得研究とかもわかるのですが,それでもたぶん普通の王道SLAよりは準備が大変で,なおかつ学生も言語学の基礎的な部分のサポートも必要(これが全然足りてないことを大反省しているので来年度はもっと手厚く言語学部分の資料を用意する予定)なので,そこが大変です。自分で選んでそうしたとはいえ,授業の持っていき方も含めて毎週かなり苦労しています。

運動習慣と健康面

2024年は休業(後述)の影響で運動習慣は途絶えてしまいました。7月末にコロナに感染して1週間ダウンしていたり,腰がやばくなって整骨院で針を打ったりもしましたし,ちょっとよくない年だったと思います。秋学期に職場復帰してからは自転車も筋トレもゆるく続けてはいますが,ここ数年の強度は保てていないなと思います。特に,復帰後はそもそも仕事にもう一度身体を慣らすだけでなく,新しい講義科目2つの準備が本当に大変で,筋トレを短時間でもいいからやるっていう心の余裕がほとんどなかったです。今までは授業全部終わって帰り際に筋トレをしていたのですが,授業終わりは毎日ダッシュで帰らないといけなかったというのもあるかもしれません。

プライベートのこと

はい,先程から後述後述と何度も書きましたが,5月に息子が生まれました。これが2024年の一番大きな出来事で,それに伴って育児休業を取得しました。それで,仕事面でも大きな変化がありました。

子どもが生まれたときのことや育児休業についてはnoteに記事を書いたのでそちらをお読みください。

子どもが産まれました

育休を取ると決めたこと

育休の振り返り(1)

育休の振り返り(2)

育休の振り返り(3)

育休の振り返り(4)

子どもができたことは,とにかく自分に「愛」とか「愛しさ」みたいなことを教えてくれたなと思います。そういう気持ちを感じたことがないとか,家族や妻にそういう感情がないということではなくて,親から子への愛情ってこんなものなんだ,ということを毎日感じています。なんていうか,本当に子どもの存在って尊くて,愛しくて,たまらないんですよね。大変なこともめちゃくちゃいっぱいあるんですが,それが全部チャラになってさらにお釣りどころか逆に儲かっちゃうくらいのプラスがあるなと思います。どんだけへとへとで帰ってきても,息子の笑顔を見たら全部吹っ飛びます。

もう一つのプライベートの大きな出来事は,父方の祖母が9月に亡くなったことです。父方の祖母は私が育った実家の近くに住んでいたので幼い頃からお世話になっていますし,大人になってからも父が祖母の面倒を見ていたので,毎年最低でも1度は食事に行っていました。それだけではなく,私が人生で本当に辛い時期に直筆の手紙を送ってくれたりと,離れて暮らしていても気にかけてもらっていました。

私は,妻が妊娠したとわかったときから,子どもが生まれたら絶対に祖母に自分の子供を見せて,一緒に写真を撮りたいとずっと思っていました。写真館でプロに,家族写真を撮ってもらうのが夢だったのです。息子は5月生まれで,夏休みに東京に行って祖母に会おうと思っていたのですが,夏の暑さだったり,乳児を連れての移動の大変さだったりということもあって,東京に会いに行くことは結局できませんでした。テレビ電話をつないで,画面越しで息子を見てもらって,話をすることはできました。祖母は画面越しでもひ孫の顔がよく見えていたようで,「話をちゃんと聞いているね」などと話しかけていました。父は,100歳まで生きると思うと言っていました。そのほんの数週間後に,祖母の体調が急変したという連絡を父から受け,急いで息子と妻と3人で東京に行きましたが,コロナに感染していたことから隔離されていて,私の妻と息子は結局祖母に会うことができませんでした。私が姉と父といっしょに,防護服を着て祖母に面会したときにはすでに脈も弱くて会話もできておらず,口を動かすことが精一杯という状況でした。私はそのときただ一人号泣して「○○くんとおばあちゃんといっしょに写真を取るのが夢だったのに」と言いました。その日の夜に祖母は亡くなりました。今でも後悔していますが,祖母のお葬式には息子にも立ち会ってもらい,一緒にお別れをしました。この時(葬式は亡くなってから何日か後だったので,一旦大阪に戻ってもう一度東京に行ったので2回の大阪-東京旅行)が子連れで旅行に行った初めてのタイミングだったのですが,子連れの旅行は本当に疲労感がぜんぜん違うということもその時にはじめて知りました。急なことだったにも関わらず,一緒についてきてくれた妻にも本当に感謝しています。話は逸れましたが,祖母が亡くなったことは私の中でも結構気持ちが落ち込む出来事でした。

買ってよかったもの

最後におまけ。

LOWYA 着る毛布 GROONY グルーニー

パネルヒーター 北国のこたつ

この2つは寒い時期の必須アイテムになりました。着る毛布は多分色んなところで出していると思うのですが,商品の比較とかはできません。私は妻におすすめされたものを買いました。とにかくこれ着るだけで全然違いますね。夜お風呂上がりから寝るまでと,朝起きてから着替えるまでは基本的に着ています。

パネルヒーターは,研究室にはあるのですが自宅の書斎にはなくて,新しく自宅の書斎に導入したのですが,3面ではなく上下にもパネルがあるタイプにしました。これだと,靴を脱ぐような環境だと最適ですね。研究室にも置こうかと思いますが,基本的に靴(スリッパ)を履いているので,その着脱をするのが少しめんどくさいかなと思っています。ただ,やっぱり包みこまれる感じがあるので,膝下まで全体的に温かくて気に入っています。

昨年はまるでこたつソックスがよかったので,あったかグッズを求めているのかもしれません。

おわりに

2024年は,子どもが生まれたこともあって飲み会や学会で多くの方とお話するという機会もめっきり少なくなってしまい,とくに育休中なんかはX(旧Twitter)に流れてくる同僚先生たちの飲み会写真を見て少し悲しい気持ちになったこともありました。でも,今はそういう時期だと割り切ることもできていますし,会えないからといってお世話になっていないわけでもないし,大事にされていないわけでもないことは自分も実感できているので,そういう気持ちでいれることも幸せな環境に入れているんだなと思います。公私ともに,たくさんの方にお世話になりました。直接お会いできた方も,できなかった方も,本当にありがとうございました。

毎年の事になりますが,このブログを読んでいただいている方も,そうでいない方にも,私に関わるすべての方に感謝申し上げます。

今年も1年お世話になりました。来年もよろしくお願いします。皆様,良いお年をお迎えください。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

専門書についても通読した方がよいですか

はじめに

Querie.meでいただいた質問シリーズ。

質問

修論をやっていて、論文はともかく専門書については、関係するチャプターだけ読むとか、関係するところをindexからさかのぼって読む、ということは多くやっています。他方で、専門書についても通読した方がよいのかな、と思うことも多くあります。何をうかがいたいかというと、①通読はどれぐらいするべきか、②通読する機会はどうやって確保しているか、③最後まで読むためのノウハウ的なものを教えていただければ幸いです。

回答

これ,矢野さんにも全く同じ質問されてましたよね…?矢野さんの回答でご自身の満足する回答を得られなかったために私にも質問されていると思いますが,さすがに質問丸コピはわざわざ答えてくださった矢野さんにも失礼ではないかと思いました(もちろん,丸コピの質問を横流しされた私もいい気はしないです)。

よって,この質問には答えるかどうかめちゃくちゃ迷ったのですが,ブログで答えることにします。普段こんなこと絶対言わないですが,この手間をかけて質問に答えることに色々思いを馳せてくださいね。

「専門書」の認識が一致しているか

まず,専門書って言ったときに,何を想像するのかっていうのは一義的に決まらない気もするので,そこから。論文との対比なので,論文以外の書物が専門書に含まれるのかな,と最初に解釈しました。そうなると,いわゆる分野をざっくり概観するような書籍,例えば私の分野であれば,Second Langauge Acquisitionがタイトルに含まれていて,大学の授業のテキストにも採用されそうな第二言語習得をある程度網羅的にさらっているような書物も含まれそうだなと思ったのです。もちろん,そういった書籍の中にもかなり入門向けのものなから,割と歯ごたえのあるものまで多少の幅はあると思います。

もし仮に,そういう分野を概観するようなものも質問者の方の「専門書」に含まれるとしたら,次のセクションをお読みください。そうではなくて,もっとトピックを限定して,そのトピックだけをかなり掘り下げて書いているような書物のことを「専門書」と呼んで質問しているなら次のセクションはスキップしてもらって構いません。

概論書は何冊でも読んでいい

ガチガチの専門書ではなく,ある程度ライト層(大学院生や学部生)も読者層として考えられているような,いわゆる入門書レベルの本(とは言っても新書とか一般書ではなく)であれば何冊でも読んだ方がいいと思います。

というのは,論文何本読んでもその分野の全体像が見えて来ないので,自分のやってる研究が全体のどこに位置していて,全体で解決すべき問題のうちのどの部分を扱っているのは論文を読んでいるだけでは把握できません。学術論文であれば,そんな広いところがイントロのスタート地点にはならないでしょうけど,学位論文になったらある程度広いところからスタートすると思うんですよね。その方がディスカッションも広がると思うし(ここは議論分かれそうですが)。なんでその研究が大事なの?とか,その研究の意義とかっていうのは,私は俯瞰的な視点からも考えられるべきだと思っています。よって,特に研究を始めて間もない頃ほど入門書読み漁るのがいいと思います。

専門書を読むかどうか

いや,入門書じゃなくて,もっと扱ってるトピックが狭い専門書のことです,ということであれば,その専門書がどんなものなのかとか,なんの目的でその本を読むのか,みたいなところも関係するかなと思います。どの分野の修士課程やられているかわからないので,例えにしっかりきてもらえるかわからないのですが、私の例でいいますね。

私は修士論文が意識高揚タスクと呼ばれる類のタスクを行うことにより、目標言語項目への「気づき」が促されるのかというものでした。このとき、意識高揚タスクが自分のフォーカスだからといって、例えばもっと大きな枠組みのTask-based Language Teachingの専門書を通読したことがない、というのはちょっと心許ない感じがしますよね。Ellis (2003)くらい読んでるだろう普通みたいな。この領域の研究をするなら,これは誰しもが読んでいるだろうみたいな専門書って割とある気がするんですよね。スピーキングの研究やってるならLeveltは絶対に読んでいるはずとか,Lingua Franceの研究やっているならJenkinsは読んでいるはずとか。とくに,複数著者がチャプターを書いているcollectionぽいものではなくて,単著または共著で一冊の本を書いているタイプのやつです。チャプターごとに著者が異なるやつだと,割とチャプターごとに話が変わるので,チャプターつまみ食い的な読み方でもいいのかなとは思うのですが。自分の領域の論文を読んでいて,多くの論文で引用されるような文献が書籍であったら,それは読んだほうがいい専門書だという気がしています。

②通読する機会はどうやって確保しているか

私自身を振り返ると,やっぱり授業のテキストとして指定されているから読むとか,研究会で輪読するから読む,が多かったかもしれません。修士課程のときは読むことしかやることがなかったというかとにかく暇さえあれば図書館に行って読むという日々だったので自分のど真ん中ではない本も読んでいたと思いますが(それこそ言語政策の本とか)。D1の時でもM生の人たちと一緒に授業とってテキストに指定された本を通読していましたし,同じSLAの授業でも別の先生が担当している授業を複数取ったりしていました(今考えると,そんな贅沢な環境にいた,とも言えますね)。

あとは矢野さんもおっしゃっていたように,仲間を誘って読書会開くのもありだし,すでに開催されている読書会に参加するのもありでしょう。指導教員の先生にそういった会の開催を相談してみるのもありなんじゃないかと思います。私がもし自分のゼミ生にそういう相談をされたら自分が忙しくてもやろうやろうってなると思います(ゼミ生を持つことが今後あればの話ですが)。

③最後まで読むためのノウハウ

これを聞くということは,ノウハウがなければ通読はできないっていうことなんでしょうかね。正直,それは知的体力みたいなものかなと思うのでなかなか難しいですね。研究者を目指していなかったとしても,本を通読する知的体力がない人よりは絶対にある人のほうが今後の人生にその力が活かせるでしょうし,それを養うのも大学院という場所かなという気もしています。

通読できないのはなんでその本を読むのかという目的がはっきりしないという可能性もありますので,その本を読むのはなぜなのか,どういうことを理解するために必要なのかを最初に明確にしてから読み始めることも有効かもしれません。

あとは,私はブログ書くというアウトプットを目指して論文や本を読んでいた時期もありました(今はちゃうんかい)。レビューのようなレベルまで行ってたわけではなくて,単なる読書感想文止まりの拙い文章でしたけど。アウトプットするために読もうとなると,自分の理解も必然的に深まりますしね。これは単なるアウトプットではなくて,誰かに見られる文章を書くというのがポイントです。自分しか見ないのであれば適当になってしまいますから。それに,業績にはならなくても自分が何からの本を読んでその概要や考えたことをまとめたものというのは,公開したら絶対に誰かに読まれてどこかで誰かの役に立つことがあると私は思っています。

おわりに

質問者の方の知りたいことにストレートに答えられているかはわかりませんが,私からの回答は以上です。修論頑張ってください。

質問したい方はどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

乳幼児3人子育てしていてなかなか研究が進められないというご相談

はじめに

Querie.meでいただいた質問への回答シリーズです。長文の回答ではないですが,なんとなくブログに残しておきたいなと思ったのでこちらに書きます。

質問

はじめまして。私は4年前に英語教育の修士号を取得し現在4コマの大学非常勤をしている30代です。乳幼児3人子育てをしており、なかなか研究を進められません。今後、任期付きの仕事か博士後期に進むのか将来分かりませんが、いずれにせよどのように研究を続ければよいかアドバイスいただきたいです。今は大学紀要論文をなんとか書き進めてるところです。

回答

質問ありがとうございます。乳幼児3人の子育てに加えて非常勤4コマ担当されているなんて,それだけで尊敬に値します。私は育児休暇を取得して,仕事量を大幅にセーブしたうえで(継続している研究プロジェクトや学会業務はほそぼそとやっていたのでゼロにはなっていませんでしたが)子ども一人育てるのだけで精一杯ですから。

質問者の方は子育てと非常勤に加えてさらに論文も書かれているなんて,それだけで研究やってる人だと私は思いますよ。国際ジャーナル,学会紀要,大学紀要など媒体は関係なく,亀の歩みでもやり続けること,書き続けること,それ以外に研究を続ける方法はないかなと私は思っています。私も就職してから常に研究ができていないという悩みを抱えながらここまでやってきています。自分は超人ではないし,人と比べて何かに優れているわけでもないし,それでもやっていくためには,とにかく「やめないこと」それしかないなという気持ちでいます。大学院博士後期課程時代に,私の先輩はこんなことを言っていました。

研究者は自分で自分を「書けないタイプ」とみなしたら終わり

せいぜい「たくさんは書けないタイプなだけ」とか「今はまだ書けないだけ」と思うこと

このことは折に触れて思い出すようにしています。

書く,ということに関していうと,書きかけのなにかがあるならとにかく毎日そのファイルを開いて目にいれる,ということを意識しています。あとは,文献を読んでいなかったら論文を書くどころか研究のアイデアすらも浮かばないと私は感じているので,やばいなぁと思ったらとにかく読むことですよね。また,学会に行くのも自分の思考が刺激されてアイデアが浮かぶことがよくあります。そうやって,ほそぼそとでも続けていくしかないなというのが今私自身が思っていることです。子育てしながらだと,自分の時間もなかなか取れないし,決まった時間に何かをしようとしてもそれが継続して習慣的にできるようにはなかなかならないですもんね。この部分に関しては私もまだ自分の中で最適解のようなものは見つけられていません。むしろ,私のほうが3人のお子さんを育てながらどうやって論文書く時間を作っていますか?とお伺いしたいくらいです。

最後に,もし博士後期への進学を検討されているのなら、ぜひ関西大学外国語教育学研究科も候補にしていただけたら嬉しいです(宣伝)。事前の申請は必要ですが,リモート履修制度というのもありますので,遠隔地から授業を履修して課程を修了できます。

https://www.kansai-u.ac.jp/fl/graduate/

おわりに

一緒に頑張りましょう。

質問したい方はどうぞ。Xのフォロワーが1000人超えたので有料質問も受け付けられるようになったのでその選択肢も出してますが,無料でも全然答えます。有料になったら気合いがもっと入ると思いますけど。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

どういうスタンスで学会と向き合うか

はじめに

たまたまTLに流れてきた下記のポストについて思ったことを書きます。この投稿をされた方に何か言いたいというよりも,この投稿を見て,学会に参加することとか学会で発表することについて考えたことを書く,というスタンスです。

私はフォローしていない(けど向こうから私はフォローはされている,という方)のポストです。私がフォローしている方が引用ポストされていたので目にしました。

上のポスト中の「外国語教育学会の大会」というのは,外国語教育メディア学会(LET)関西支部2024年度春季研究大会を指しているというのはこの方の下記のポストから明らかです。

率直に思ったこと

まあ,気持ちはわからなくないというか,自分が若い時(博士課程の院生時代とか)には,同じようなことを思っていたとしても不思議じゃないなと思います。学会に参加して,不満を持つということが自分自身なかったことが過去を振り返ってみて一度もなかったわけじゃないので,まあそういうこともあるよね〜というのが率直に思ったことです。

もう少し見方を変えてみる

とはいえ,私は2018年度からLET関西支部の運営委員に入っていて,2022年度からは事務局長をやっています。ということで,まあ「中の人」なわけですね。そういう立場からすると,最初の投稿のような評され方というのは,少し残念な気持ちになりました。ちなみに,私は現在育児休業中のため,事務局長という立場であるにもかかわらず,今回の支部研究大会には参加しませんでした(実際できなかったし,無理して参加しようともしなかった)。というわけで,実際に大会の雰囲気を自分自身がこの目で見て肌で感じて,というわけではありません。

以下,気になった点についていくつか個別に取り上げますが,通底するのは,学会にもっと主体的に参画してほしいな,ということです。学会に参加することはもちろん参加する人にとって利益があることが大前提というか,そういう場所でなければならないのはそうなんです。ただ,参加する人が自分の利益だけを考えて,学会全体として良い大会にしていこうよという主体性がまったくなかったら,それは学界(学会ではなく)としていい方向にはいかないんじゃないかなと思います。学会を運営する側,登壇する側からなにかしら知識だったり情報だったり,そうしたものを提供されることをサービスとして受け取る,そういう受け手の意識だけではなくて,一緒に学会を盛り上げる,そういうスタンスでいる人が増えてくれたら,と私は常々思っています。

気になったこと

最初に示したポストの中で,私が気になったことがいくつかあります。

「誰も質問しない講演」

質問が出ない,というのは,講演の内容の要因(難しすぎて理解されていないとか,逆に質問する隙がなさすぎて質問が出ないとか),聴衆の要因(そもそもちゃんと聞いていないとか,自分の関心領域とは離れていて背景知識に乏しいので質問ができないとか),両者の交互作用,その他にもたくさんの要因が絡まっていると思います。さらに,どの要因で「質問が出ない」という事象が発生するかを事前に予測して対策をすることは難しいでしょう。どういう人が参加するかもわからないし(基本的には会員がほとんどだとしても,会員の興味関心は多種多様です),講演者がどういう講演をどういう流れでするかは,タイトルと要旨レベルでしかわかりません。

また,個人的には誰も質問しない,ということが絶対に悪かどうかというと,そうでもなくて,大事なのはその後に何が起こるのか,だと思っています。講演者の立場の人が,自分のトークのなにかに問題があって議論を喚起できなかったのかと振り返ることも大事ですし,聴衆側は,「質問が出ないということはこの講演って簡単に質問が出るようなものでもないのか」というメッセージが暗に共有されることにもなると思います。いずれにせよ,大事なのは全員が当事者意識を持っているかどうかだと思います。全員が,自分が質問しようと思って聞いているかということですね。このポストをされた方が質問をされたかどうかわからないですけど,もしされていなかったとしたら,この方が指導を受けた先生(と私が思っている人)が日頃口癖のように言ってるように,「自戒を込めて」って付記しないと自分は「外野だ」という認識が現れてしまっているのではと思います。

「最新でもないアプリの紹介」

外国語教育メディア学会(LET)という名前のついた学会だからこそこういうコメントが出てくるのかもしれないし,私は当日の発表を見ていないので本当に何もわからないのですが,最新のツールでなければ発表してはいけないわけではないし,さらに自分にとってそれが既知の情報だったら参加したすべての人にとってもその発表は意味がないのか,っていうとそうとも限らないのではないか,とも思います。また,この方が「自分たちの発表のため」とおっしゃっていますが,その観点でいえば発表すること自体は発表者にとっての利益ともなるわけです。そういう視点にたてば,「最新でもないアプリの紹介」であったとしても,この発表者の方が発表してくれたことに対して,その人にとって発表したことが有益な経験となりうるように関わるのが聴衆としての役割なのではないかなと思います。

「今回の参加は自分達の発表のため」

発表する人のほとんどは,発表するのは自分たちのため(業績づくりのためだったり発表してコメントをもらうためだったり)と思っているとは思います。でも,この視点で臨むことが許容されるとなると,一つ前の,自分にとって得るものがないとも取れるような捉え方をしている発表(「最新でもないアプリの紹介」)も許容しないと矛盾してしまうような気がします。だって,それを聞いてくれる人たちになにかを届けたいと思うのではなく,あくまで自分たちが発表したいと思ってるだけで,発表者の利益しか考えないというわけですから。もちろん実際にはそういう意識でやってるわけではないと思いますし,これは「先輩の発言」であって投稿者がそう思っているというわけではないのでしょうけど(ただ,そういう誰かの発言を引用して「大会としてあれでよかったのか」と揶揄するのは個人的にはうーん,て感じですね)。

今回の大会は結構特殊だった

今回の大会は,Classroom tipsという他の学会ではあまりない発表枠での発表が多く,そのことがもしかすると他の学会の大会のイメージと異なるイベントになった可能性は十分にあるかなと思います。以下関連するポストをいくつか。

おわりに

正直,運営委員だけで学会を「回す」のも結構限界に来てるところあると思っています。発表してくれる人がいるだけでありがたいみたいなところもありますし,そういう人たちをdemotivateするようなスタンスよりは,そういう人たちに発表してよかったと思ってもらえるようにするには,どうしたらいいかを一緒に考えてほしいです。そして,発表してみようかなとか,学会に参加してみようかなと思う人が増えるにはどうしたらいいのか,そして,学会に参加する人たちがもっとメタ的な視点で主体的に「盛り上げよう」と思ってもらえるようにするためにはどうすればいいのか,そういったことをぜひ学会に参加する方々といっしょに考えていきたいと思っています。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。