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採択率の低い学会誌

はじめに

ある特定の学会誌の話をします。学会の中でどんな議論がされているのかは全く知りません。

学会誌はなんのために?

学会誌って,学会員の成果を発表する場ですよね。たくさん投稿してもらって,その中から選ぶプロセスが多少あったとしても,1本しか載らないような学会誌に私は投稿しようとすら思いません。また,存在意義もわかりません。

そんな低い採択率突破したところで,語弊を恐れずに言えば「たかが」学会誌です。著者の知り合い以外に大して読まれもしないでしょうし,ごく少数の論文を除いては誰にも引用されない可能性だってありうるのではないでしょうか。

そうであるならば,それなりに通りやすい国際誌に出した方が,そもそも届けられる読者の数が段違いですし,国際誌に載った,という「箔」もつきます。そういう状況ならそっちに出すでしょう。そういうひっくり返しようのないヒエラルキーを認めたら学会誌として価値がなくなってしまうんでしょうか。私はそうは思いません。学会は発表してもらって,論文投稿してもらってなんぼでしょう。

論文の質=著者の評価

「ヤバい」論文を載せたら学会誌の評価が下がるとか,学会の評判が悪くなる,とかそうした考えがあるのかもしれません。それが全くわからないわけではないし,何でもかんでも載せていいとは思いません。

ただ,論文の質が低かったらそれは著者の責任でしょうし,論文の評価は著者の評価に最も直結するのではないでしょうか。質の悪い論文があったら,いの一番に著者が批判にさらされるべきでしょう。そういう議論だって表立って行われれば健全な学術コミュニティのあるべき姿とも言えるはずです。

少なくとも今の段階では,多くの国際誌のように,インパクトファクターがついていて,どれだけ引用されるかといった指標で評価されたりランキングされたりするわけではないわけです。

どういう査読してるのだろう

自分自身が国際誌の査読をしてても,結果としてリジェクトになる率の方が多いです。そういう現実があっても,論文の質(研究の質)を引き上げる役目も査読のプロセスの中にはあるはずでしょうし,学会誌を出している学会にはそうした役割もあるはずです。

いい研究がどんなものか,という評価はある程度さまざまな観点があると思います。それ自体が悪いとはと思いません。でも,どちらかというと査読って,これはダメだよね、というのを弾いて(またはそこを修正してもらって)あとはどんどん載せればいいのではないでしょうか。もしも,これがいい研究なんだ,というのを対外的に示したいのであれば、その中から論文賞のようなものを選べばいいでしょう。

上で貼ったX(旧Twitter)で話題になった学会誌の査読委員や編集委員が論文書いていないとか論文指導していないってことはないような気もしますが(知らんけど),こういう意見もあります↓

学会をこの先どうしたい?

今後,学会がしぼんでいって終いにはたたむ予定,というのなら,今の方針でも全く問題ないと思います。ただし,「若い人が減っている」みたいなことを嘆くようなら,やってることちゃんちゃらおかしいと思います。

昔の名残りなのか驕りなのかわかりませんけど,時代が変わっていることを認識して学会のあり方みたいなのも変えていかないと,ただでさえ存続が難しい学会が多いのに小規模学会はもっと厳しくなること間違いないと思います。

おわりに

学会誌の査読って(というより査読システム全般って),そろそろ見直す時期に気ていると思います。こういう意見もあります↓

シンポジウム面白そうなんですけど,登壇者を誰にするか,っていうのは結構難しい問題だよな〜というのは具体的な企画をイメージして思いました。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

2023年の振り返り

毎年恒例の振り返り記事です。これまでの振り返り記事も興味がお有りの方はどうぞ。

過去の振り返り記事

ブログのこと

この記事を書いている2023年12月30日時点でのこのブログのpage viewは183,189です。年間のアクセス数は21,444で,2021年に近い数字になりました。2022年で落ちたのが戻ったという感じです。今年は投稿数が昨年と同じくらい(1本減少)です。ただ,記事の分量は昨年より増えて2021年度と同じくらいです。一本書くのに結構ハードル高いなと感じるのは分量ですかねぇ。

今年の記事で閲覧数が多かったのは以下のような記事でした。

1番目の話は,雑誌『英語教育』に記事を書いたのですが,2ページの原稿では書ききれない補足をブログ記事にしたという感じです。まあブログ記事の方が本体の雑誌原稿より長いんですけどね。2本目はquerie.meの質問に答えたものです。聞く人ちゃうやろ〜ってやつですね。3本目の話は後述するとして,4本目は読んだ本の話,5本目は学会のシンポジウム登壇後の雑感です。こうやって振り返ると,2023年度は自分的には反響がある記事を書けなかったんだなと思いますね。2023年のアクセス数1位はいまだに2022年の記事ですし。まあブログ記事ってview数稼ぎでやってるわけじゃないのですが,やっぱり読まれる記事かどうか,というのは気になっちゃいますよね。

仕事のこと

2023年の仕事での大きな変化は,大学院の科目を教えるようになったこと,3つの大学で非常勤をやるようになったことかなと思います。

これが変化として大きいのは,初めて英語科目やゼミ以外の講義科目を教えることになったからです。どの授業もとにかく授業の準備がとても大変で,講義科目を自分が満足できるレベルで教えるにはまだまだ勉強が足りないことを思い知らされました。来年度以降改善を重ねていきたいです。

非常勤のうちの一つは教職科目の英語科教育法です。この授業の担当は個人的にもすごく感慨深いものがあって,その事を書いた記事が上記の「はじめての英語科教育法 」でした。詳しくはブログ記事をお読みください。

授業以外では,これまでのように同僚の先生についていくだけではなくて,自分がリードしていくような仕事をいくつか任されたというのも仕事面での変化かなと思います。今までは誰かの決断にいい意味で乗っかっていれば仕事をが進みました。ところが,今年経験した仕事のいくつかは自分が決断をして周りをリードしていけないというものでした。もう6年目なのでそういう仕事もこれから増えていくと思いますし,小さいことでもそれが経験できたのは自分をまた成長させてくれたかなと思います。

昨年の振り返り記事で次のような事を書いていました。

来年度は,また学内で今とは違う役割になることや,授業の担当で大学院の科目をもつようになることなど,今から不安なくらいたくさんのことが待ち受けているので,チャレンジングな2023年になるだろうなと思います。自分の中でも,そこが一つの分岐点というか,一皮むけるために必要な,色々耐える年になるだろうと思っているので,そういうのを楽しみつつ,それらを乗り越えた先に自分が成長したと思えるようになっていたいと思います。

正直なところ,自分の中で分岐点になるというほど何か大きな自分の成長があったのかというとどうなんだろうと思います。ただ,2023年が始まる前にはそれくらい大きくとらえていた事を乗り越えて,そのことを後から低く見積もっているというのは,自分が成長したということなのだと捉えるようにしたいと思います(実際は大したことをしなかっただけという可能性もあるんですけどね)。

2023年は,研究という意味では単著論文が1つと共著論文が1つ,出版されました。そして,共編著書も出ました。

第二言語研究の思考法:認知システムの研究には何が必要か

本の方は福田さんが担当編集者と著者陣のお尻を叩きまくって頑張ったからこそこのタイミングで出版されたと思います。そうじゃなかったらあと1年かかっててもおかしくなかったのではないかと。その他にも学会ワークショップ,学会シンポジウムの登壇,学内の全学FDでの登壇,併設校での講演等々の喋る仕事も結構やったなと振り返ってみると思います。お腹いっぱいです。

運動習慣と健康面

2023年も自転車と筋トレの2本柱をある程度継続してやっていくことができました。今年も腰の調子が悪くなったりもしましたが,整骨院に通ってメンテナンスをしているからか,そこまで酷くはならずに1年過ごせたかなと思います。夏にサボったのはありますが,今でも毎週ちゃんと運動しているのでそういう意味での健康面については維持できていそうです(7月に声が出なくなるくらい喉がおかしくなりましたけど)。

プライベートのこと

2023年の年明けすぐに再婚をしました。1年近くお付き合いをしていた方です。それがまず大きなことでしたね。それから,家を建てたこともすごく大きな出来事でした。同棲を考えたときに,ふたりとも家のことにこだわりがあって,その家にあったものを揃えるタイプだったので,賃貸で暮らすよりも家買ったほうがよくない?と考えました。そして,8月くらいから家を探し始めました。基本的に私が物件を探しました。いろんな会社から資料を取り寄せたりInstagramの広告に出てくる会社に登録して物件を見つけては妻と共有しているEvernoteにクリップしていきました。最終的に注文住宅を建てることになり,家の設計的なところは妻がInstagramでたくさん調べてどういうところを抑えないといけないのかとかどういう間取りが便利なのかとか,妻が主導で決断していった感じです。「家を建てる時奥さんとはどんな風に意見を出し合ったんですか?うちはなかなか夫婦で揉めることが多くて難航してます。」という質問に答えたこともあります。4月に完成して引っ越しました。そこから色々買い揃えたり等々で家の環境が整うまでには結構時間がかかった気もしますね。でも,本当に家を買ってよかったなと思います。QOLが爆上がりです。

おわりに

2023年も多くの方々に支えられて,幸せな1年を過ごせたと思います。公私ともに,たくさんの方にお世話になりました。直接お会いできた方も,できなかった方も,本当にありがとうございました。学会で初めてお会いして,ブログ読んでますと言われることもあって,嬉しいけど恥ずかしくて「あわわ」って感じになりますが,そういう出会いがあるのもブログを書いていることの良さかなと思っています。

このブログを読んでいただいている方も,そうでいない方にも,私に関わるすべての方に感謝申し上げます。

今年も1年お世話になりました。来年もよろしくお願いします。皆様,良いお年をお迎えください。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

「生徒のレベルの差があるとうまくいかないのでは」という懸念についての疑問

はじめに

特急サンダーバード50号の中で書いています。

タイトルのような話は非常勤でやっている英語科教育法の授業でよく聞かれる質問です。

これはできる子には楽しいかもしれないけれど,できない子はなかなか発言ができないのでは。

できない子が「何もできなかった」と劣等感を覚えるのではないか。

できる子ができない子の分も頑張って損するのではないか。

というような。一語一句この文言ではなかったとしても,そういうたぐいの懸念を学生は抱くようです。これはおそらく学生に限った話ではなく,ある程度広く共有されることであるのかもしれません。学校教育に限らず,高等教育でも同じような懸念を持たれている人がいても驚きません。

私は,その根本をとりあえず考え直してみようという話をいつもしています。

以下,この記事では,便宜的に「できる子」「できない子」とか「上の子」「下の子」といった書き方をしますが,それは単純に,「英語が得意・不得意」とか,「英語の熟達度が高い・低い」という意味でそれ以外のことで人を序列化する意図は全くありませんのでその点はご留意ください。

根本の問題

上述の懸念が発生するときに,教師として,差があってもうまくいくような仕組みを作ろうとか,あるいは,熟達度が同じくらいの学習者同士が一緒に課題に取り組むようにしようと考えること,それ自体は全く悪いことではないし,むしろ授業をより良い方向に持っていこうとする営みとして奨励されるべきことでしょう。しかしながら,私はその手前の「そもそも論」を考えてみたいのです。

その「そもそも論」とは,なぜ学習者の熟達度にギャップがあるときに,できる子ないしはできない子が学習に対してネガティブな感情をいだいてしまうのか,ということです。そして,その原因となっているattitudeというか考え方というか,そこに対してアプローチしてあげたくない?ってことなんですね。

そもそもそれはペアワーク・グループワークでやるべき活動か

その原因を考える前に一つだけ述べておくと,そもそもそれってペアワークが適している?みたいなのは考えたいです。ペアやグループでやることが目的化してしまうと,この問題にぶち当たるでしょう。
一緒にペアワークをさせるでも,結局は「個人ワーク」をペアワーク「風」にしただけなら,できる子ができない子に教えてあげて終わり,ですよね。もしそういうレベルの活動を想定しているのであれば,そもそもその活動の仕掛け自体を見直すべきでしょう。一方で,「コミュニケーション活動」とか「タスク」と言われるようなものをやるときに,レベルの差があるから「難しい」と感じるのだとしたら,それはなぜそう考えるのか,ということを解きほぐしたいです。

なぜうまくいかないと思うのか

とりあえず英語の授業で何らかのペア/グループ・ワークをすることを考えてみます。その際に,学習者の英語熟達度に差がある,というのは,次の二つのケースが想定できるはずです。それぞれについて,どういう懸念なのか,それの根本はどういうことなのかを考えてみます。

  • できる子を”demotivate”してしまう可能性
  • できない子を”demotivate”してしまう可能性

レベルを下に合わせるのは損?

できる子ができない子の「レベルに合わせてあげる」ことが,できない子にとってはマイナスだという認識があるのではないか,というのが1つ目の論点です。確かに,できる子ができない子をただただ「待ってあげる」というのは,できる子にとっては「時間の無駄」と感じられてもおかしくないでしょう。でもそうではなかったとしたら,つまり,二人で協力してなにかに取り組み,一つのゴールに辿り着く,というような設定がされているのであれば,そこに対する取り組みは,「それぞれのレベルで,自分のベストを尽くしていればそれでよくない?」と私は思っています。

冒頭の,

できる子ができない子の分も頑張って損するのではないか。

みたいなのは,貢献度がイーブンじゃないときに上の子が損した気持ちになってしまうっていう話ですよね。で,この問題を解決するために,ターンを固定したり,一人何回は発言しようと目標を決めたり,とすると思うんです。その工夫自体はあってもいいと思いますし,その制限のかけ方がいい方向に作用することもあると思います。ただ,それをやる方がむしろ,できる子にとっては自分がどんどん発言できるのに,それが抑制されてしまう,ということにもなりかねません。また,その事自体が,「自分だけが頑張っている」という気持ちにさせてしまう可能性もあるわけです。そういうときに,レベルが上の子が,下の子をうまく引き上げられるかどうか,が問われてくるし,そのレベルを求めることは,上のレベルの子をさらに一段上に引き上げることにもつながるわけです。

これは私がいつも授業で言うことなのですが,基本的には,英語教師はクラスの中で一番英語のスキルがある存在だからこそ,このタスクを私と一緒に行うことになったら,必ずタスクを達成できるに決まっているし,私が誰と組んでもそうできる自信がある。さらに,英語の熟達度が高い人とやることによって自分のレベルも必ず引き上げられるよって言うんですね。

ペアワークのときに割り切れなかったらもちろん3人グループを作ることもありますが,どうしてもペアでやりたいなというときには教員が入ってペアの相手になります。そうすると,やっぱり学習者としては,先生とペアだと緊張するとかそれは避けたいとか思うわけじゃないですか。でも,そうじゃなくてむしろレベルが高い人は苦手な人を引き上げられる存在だし,そうであるべきじゃない?って私は思います。どんな言語のコミュニケーションでも,母語話者同士でなければ(母語話者同士でももしかしたら),熟達度の差が大なり小なりあるのはある種当たり前,という環境のほうが多いのではないでしょうか。その時に,レベルが上の人は,「なんだ,この単語も知らないの?」とか,「こんなにゆっくりはっきり喋ってるのに伝わらないの?」とか,普通の言語コミュニケーション環境では思わないはずです。むしろ,伝わりやすい語彙選択をするようにするだろうし,難しい単語が理解されなかったらそれを説明するでしょう。相手のレベルに合わせることが当然のように求められるし,そのことを不満に思う人がいたとしたら,それってその人の「人間性」みたいな部分を疑いたくなっちゃいませんかっていう。

本来私達の社会は,そうやってみんながみんなを助け合って,得意なところと苦手なところを組み合わせながら生きているはずです(もしそうなっていないとしたら私はそれは理想の社会ではないと思います)。教室環境もある種小さな社会だと考えたら,そこでも同じ論理が適用されていいのではないでしょうか。というのが私の考えです。

下の子が劣等感を覚える原因

上の子が損した気分になる,ということは,下の子が劣等感を覚えるということのコインの裏表だと思います。つまり,下の子が「私なんかとペアになって,相手の人は迷惑じゃないだろうか」と思ってしまうのは,「上の人と下の人が組むと上の人が損する」というのがどこかで内面化されているからではないかなと思うのです。

何らかの活動の中で,自分の中にも与えられた役割があり,自分のレベルで何らかの貢献をして,その結果として相手と一緒に何かのゴールを達成できたのだとしたら,それは下の子の自信につながると思うのです。

例えば,間違い探しのタスクをやったときに,とにかくできる子がたくさん”There are two cups on the right end of the desk. Is your picture the same?”, “The man on the left has long hair. What about your picture?”とかたくさん質問して,できない子はその質問に対して”yes” or “no”という短い応答でしか答えられなかったとします。で,確かに,一人ひとりのパフォーマンスを評価したら,できない子は全然質問してないから評価が低くなる,のかもしれません。実際に成績をつけるとなればこのペアの二人に同じ評定はつかないでしょう。それでも,下の子は上の子の質問を正確に聞き取って理解し,相手から受け取った情報と自分の手元にある情報を照らし合わせて,yes or no(あるいは別の短い応答)を返していたのだとしたら,それはそれでその子は意味理解の部分ではすばらしいパフォーマンスを見せていたと言えると思うのです。そこを評価してあげた上で,じゃあ今度は自分の持っている絵の情報を一つでも相手に伝えられるようにしようね,と声がけをして,その上でそのために必要なサポートを教師が提供してあげれば,その子の自尊心が傷つけられることなく,前向きに課題に取り組めるのではないでしょうか。

おわりに

もちろん,私の言っていることは理想論だとは思います。実際にはそんなにうまくいくわけないとおっしゃる方もいると思います。人と比べるのではなく,過去の自分と比較するんだよなんて言ったところで,大人だって他人と比べて羨んだり蔑んだり落ち込んだりする気持ちをコントロールすることは容易ではないわけです。それを児童・生徒・学生に求めたってそんなうまくいかないよってこともあるとは思います。しかしながら私は,そういう自分にフォーカスする練習というのは早く始めたっていいと思うしむしろおとなになってからその壁にぶち当たって病むよりはもっと若いうちからそういう経験したっていいんじゃないとすら思います。

そうやって,学校の中でのよい関係性がどんどん社会に広まっていくことで,世の中がもっといい場所になればいいなと思っています。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

サッカーをやっている息子さんについての相談

はじめに

Querie.meでいただいた質問シリーズ。子どもがいない私がこの質問にどう答えたらいいのか,かなり難しいのですが,頑張って回答を書いてみます。

質問

小2の息子についてですが、夏から強豪チームに移籍して週5練習です。前は息子だけが上手くて井の中の蛙状態で、舐めプばかりしていましたが、今のチームでは上手い子ばかりで、息子は弱腰です。親としてどうやってかかわっていったらよいでしょうか。チームメイトはみんな上手いし毎日サッカーをしているので彼らに追いつく方法もわかりません。自信をもってプレーしてほしいです。

回答

私の経験

まず,少しだけ私の話を書かせてください。私はサッカーが好きというのは知られていることかと思いますが,サッカーをプレーしていたのは幼稚園の年長から小学校の6年生までの7年間です。中高の部活はバスケ,大学でもバスケサークルに所属していました。サッカーは体育でやったり,あるいは大学に入ってからはフットサルをやったり程度でした。

この質問を読んで最初に思い浮かんだのは自分が中学から高校に進学したときのことです。中学のときは,自分自身,バスケがそれなりにうまいと思っていました。中学は人数が少なかったので井の中の蛙状態で,チームは別に強くなくていつも3回戦くらいで地域の強い中学校と当たったら負ける,という程度でした。でも,バスケが強い学校でやりたいと強く思っていたので,バスケの強い高校(二個上はIH,WC両予選で東京優勝,自分たちの代はIH予選東京4位)に進学しました。人数も1学年20人くらいました。東京中から,中学時代はキャプテンだったツワモノ達が集まってきていて,それこそ「弱腰」でしたね。それでも,自分なりに勉強して,自主練はしていました。全体練習のあとにトレーニング・ルームに行って,帰れと言われるまで筋トレしたり,朝早く来て坂道ダッシュしたり,昼にシュート練習をしたり。自分なりにはその時にできる精一杯をやったつもりでいましたが,今考えればがむしゃらさが足りなかったな,気持ちが弱かったな,と思います。

結果的に,公式戦の試合は一度しか出たことがありません。それも,3年生の時の最後の夏の予選の一回戦とかで何十点も差がついた第4ピリオドの残り1分くらいです。一度だけボールに触って,スリーポイントシュートを打って,無様に外れました。それが私が高校三年間で出た最初で最後の公式戦の思い出です。それでも,レベルの高い高校でやったことで自分自身,バスケがうまくなったのは間違いありません。大学はサークルに入っていました。普段の活動はバスケ初心者もいたし,まあ「ぬるい」と1年生のときは思っていました。それでも,夏はサークルの中でも「ガチ」の人たちで集まって,大会合宿に出ていましたし,市民大会に出れば本気の大人たちとの真剣勝負でした。勝ったり負けたりで,別にチームもそんなに強くはなかったし,自分自身もその中で特別うまいわけではありませんでしたが,程よい緊張感の中でバスケができたことは本当に楽しかったという記憶があります。

なぜサッカーをやっているのか

いただいた質問だけでは,なぜサッカーをやっているのかはわかりませんが,当然,「サッカーが楽しいから」という理由があると思います。また,夏から強豪チームに移籍したとのことですので,もっとサッカーがうまくなりたい,そのためにサッカーが強いチームでやりたい,という気持ちがあったのではないかと推察します。

となると,「サッカーがうまくなる」のが目的なのであって,「他のチームメイトに追いつく」,ことが目的ではないように思います。周りに仮に追いつけるかどうかよりも,どうやったらサッカーがうまくなるのかを息子さんと一緒に考えてみてはどうでしょうか(と子どものいない私がアドバイスをするのも失礼な話ですが)。もちろん,小学校2年生の子どもに,「周りと比べないで,自分の成長にフォーカスしよう」って声かけたところでそれがうまくいくとも限りません。大人でも周りと比べずに自分に矢印を向けるのは難しいことですから。

自信を持ってプレーするためには,自分の得意なことを伸ばす,というのも一つの方法かもしれません。私は普段Jリーグをよく見ていますが,やっぱりサッカー選手って何かこれっていう特徴がありますよね。ダワン選手だったら跳躍力がすごくてヘディング強い,食野選手なら両足で強烈なシュートが打てる,山本選手は相手を剥がしたり決定的なパスを通すのがうまい,黒川選手はドリブル突破,みたいな。

本人がどうしたいか

夏の移籍が自分の意志によるものだったとすると,移籍したいと自分の希望でしてはみたものの,うまくいっていないことに本人もどうしたらいいのかわからなくなっているのかもしれません。自分に矢印を向けて,その(より厳しい)環境で頑張れるのであれば,それを応援したいですよね。

ただ,もしかすると,移籍が失敗だったと思っている可能性もあります。そうはいっても自分で移籍したいと言いだしたのだし,ここで,「やっぱりここは嫌だ」といってしまったらそれが「逃げ」とか,「弱虫」だとか思われてしまうかもしれない。あるいは,せっかく親に移籍を実現してもらったからこそ,また環境を変えるということに二の足を踏んでいる可能性もあります(迷惑をかけたくないとか)。私は地域のサッカー・クラブのことはよくわかりませんが,もしも,他にもっと息子さんのレベルにあった場所で楽しくサッカーができる場所があるのなら,そういう場所に移ってもいいのかもしれません。私は,スポーツは自分のレベルにあった場所で楽しく取り組めることが一番だと思っていますし,やっぱり試合に出てなんぼだよなとも思っています。

おわりに

自分にもし子どもができて,こういう状況になったら自分はどう考えるのだろうなと色々思いながら書きました。相談者の方が,お一人で息子さんを育てているのではなく,パートナーの方がいるのであれば(そういうのもわからないので言い方が難しいです),パートナーの方ともこのことを話し合ってみてはいかがでしょうか(もう話し合った上で質問いただいているのかもしれませんが)。また,いちばん大事なのは息子さん本人の正直な気持ちだと思いますので,まずは親が子どもを全力でサポートするという姿勢を見せた上で,本音を聞いてあげてください。息子さんが楽しくサッカーを続けていくことができるよう願っています。

あまり有益なことは書けませんでしたが,私からは以上です。

質問したい方はどうぞ。

なにをゆう

たむらゆう。

https://querie.me/user/tam07pb915

おしまい。

この数年で博士号をとったり、大学教員になった先生方に望むものはなんですか?

はじめに

久しぶりにブログ記事で回答します。

質問

ヤットさんに憧れ、宇佐美選手と同年代です。 次節、勝ちましょう!!!! (中村俊輔選手の引退試合も熱いです!!!) ここ数年に権力がある世代は、英語教育を研究として成立させるために尽力していただいた世代(学会の偉い先生方など)。次の世代は、ネットを駆使して英語教育を一般化した世代だと思っています(発信力が強い先生方)。そこで、この数年で博士号をとったり、大学教員になった先生方に望むものはなんですか?

回答

ヤットさんは代表でずっと見ていて好きな選手でした。ガンバを好きになったのもヤットさんを生で見れるというのも大きな理由としてありましたね。実際に,初めて買ったユニはヤットさんのでしたし。宇佐美選手と同年代ということはプラチナ世代ですか。私は倉田選手・藤春選手と同い年です。

私は味スタの近くが地元なので,中学生のとき,鹿島,浦和,横浜FM,ガンバなど,強豪チームが来るときにはによく500円でアウェイ・ゴール裏席に行っていました(当時はFC東京もヴェルディも強くなかった)。横浜FM戦に行って,眼の前で中村俊輔選手の直接FKを見たこと,今でも覚えています(ゴールは決まらなかったんですが)。ちなみに,一番怖いなと思ったのはガンバ大阪のゴール裏でしたね笑 今はそこに自分もいつも座っている(立っている)わけですが。

さて,急に英語教育の話になったのでサッカー界隈の人ではなく英語教育界隈の方ですかね。私個人が他人になにかを「望む」ようなことはないですね。以前,querie.meで「大学教員が求める小学校外国語科の授業の在り方は?」と聞かれたときに,「求めたりしない」とブログに書きました。

自分自身に求めて行かないといけないと思っているのはこれまでの英語教育研究を顧みて反省することでしょうか。私自身は英語教育研究のど真ん中にいるとは思っていないですが。英語教育研究とはやや異なりますが,この前出た本は一つ,そういう仕事かなと思ったりしています。

第二言語研究の思考法:認知システムの研究には何が必要か

質問したい方はどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

主な著作は、まだない

久しぶりにブログ記事を書く。思ったように書く。

私は,論文や書籍などの著作のbio欄(著者紹介)を書くのが苦手である。できれば書きたくないといつも思っている。なぜそう思うのかと考えていると,そこには自分はこんな本を書いたことがあるとか,こんなジャーナルに論文を載せたことがあるとか,そういうことを書くことが慣例になっているからかなと思う。

もちろん,新しく論文が出版されればX(旧Twitter)にポストするし,誰かがポストしてくれていたらリポストする。自分のウェブサイトにも新しく出版された論文等の情報は更新するし,researchgateやresearchmapなどの更新もする。

それでも,私はいつでも「自分は何者でもない」と思っている。 “no one”というやつだ。私には人様にお伝えするような輝かしい経歴や,多くの人に読まれるべきと自分で思う著作などない。私のことを知らない人からすれば,本を手に取り,どんな人が書いたものなのかと著者紹介のページを見て,そこに何が書いてあるのかは重要な情報だろうということはわかる。私も,自分が存じ上げない方であれば著者紹介を見るし,どんな書籍だろうと著者紹介の部分は読む。

そうはいっても,私はそれを自分で書くのが嫌なのだ。かと言って人に勝手に書かれたものが載るのはどうなのかというと,気持ち的にはそちらのほうが幾ばくかは楽かもしれない。それは,例えば講演で講演者として自分が紹介されるときに,「田村先生は名古屋大学大学院で博士号を取得され….」といった具合に紹介されるのと似たような感覚だからである。

ちなみに,これは人が何を書いているかという問題ではない。誰かが何かを書いているのが気に入らないとか,書く内容の慣例が気に入らないとか,そういうことではない。他の人のことはどうでもいい。これは私の個人的な問題である。

そのようなことの解決策として私が考えついたのが,このブログ記事のタイトルである,「主な著作は,まだない。」なのだ。私のような凡人には,人様にお伝えするような主な著作は「まだない」。そういうのが一つでも書けるように,死ぬまでには,自分で自信を持って,これはぜひ紹介したい,ここで言及したいと思えるような自分の書籍や論文を書けるよう,頑張っている。しかしながら,「今の時点では」,私の業績表にあるものは私が胸を張れるようなものではない。

最近書籍情報がウェブに出たとある本の原稿の著者紹介にも,私は,「主な著作は,まだない」と書いた。「ふざけてんのか」って思われるなら,「ふざけてんのか」と言われる方が良い。そうなったら,「まあはい、さーせんした」となる。ところが,そういうやりとりもなしに,私の著者紹介のうち,「主な著作は,まだない」という一文はしれっと削除されていた。再校のときまでは,特に何もなかった。三校になって,急に削除された。そして,削除しましたとも言われなかった。削除されたということは,それはだめだという判断なのだろうということは理解している。ただし,何の連絡もなく,共編著者の方がお気づきにならなければ,私も気づくことはなかったと思う。

最初は書籍情報がウェブに出たときにそこで削れられていたので,さすがにウェブサイトには載せられなかったのか,と思った。

ところが,実際の原稿でも削除されていたのだ。

これがオリジナル版。
末尾に青い印があるのは,共編著者に促されて他の方々と同じようなことを最終的に書き足したからである。

別に本文じゃないのだけれど,何の相談もなしにしれっと削除するのは、書き手からすると編集者への信頼がゼロになる。正直に言って,もう絶対に一緒に仕事したくないなと思う。こういう書籍を出版させていただいたことには本当に感謝はしています。しかしそれとこれとは話が別。書いている内容(消された内容)がどうこうという問題ではなく,人の書いたものを勝手に削除するという行為が,どれほど侮辱的な行為なのか,こういう仕事に関わっているならそのことをどうかご理解いただきたい。

余談だが,ChatGPTは次のように言っていた。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

はじめての英語科教育法

はじめに

本当はブログ記事を書いている場合ではないんですが,酔っているのと,この気持ちは今書いて残しておいたほうがいいと思うので書きます。

今週木曜日に,今年度から担当することになった非常勤の英語科教育法の授業をやりました。講義科目を担当したこともなく,ましてや教科教育法の授業も初めての自分が,英語科教育法の授業を教えたということが,なんというかすごく嬉しいというか,誇らしいというか,今までいろんなことを頑張ってよかったなというか,すごく感慨深い気持ちになりました。そんな話です。

どんな授業をすることにしたか

1~4とかA~Dとか,色々名前の付け方はあるでしょうが,教科教育法は4つあって,基本的には1やAから順に受けていくことになります。私の担当しているのはDです。Dで何をやるかというのも大学のカリキュラムによって色々変わると思いますが,私が依頼を受けたのは,実践系というよりはどちらかというと理論系でということでした。

ちなみに,複数の先生が割と自由に各科目を担当する関係上,他の英語科教育法科目とのつながりを意識するということもなかなかできず,実践->理論みたいな流れくらいで,授業の内容での関係を持たせるということはできないと最初の段階で思いました。非常勤ですし,私にできるのは与えられた科目で精一杯頑張ることです。

色々逡巡した挙げ句,Task-based Language Teaching(TBLT)をテーマにしようと決めました。このテーマは,私の二足のわらじのうちのひとつと個人的には認識していて,もし教科教育法を担当する機会があるのであれば,このネタで授業をやってみたいと思っていました。実践と関わりの深い科目で,私が提供できることを最大化できるのはTBLTだと思ったからです。

そこで,テキストは

タスク・ベースの英語指導―TBLTの理解と実践

にしました。洋書を選ぶのは学部生向けの授業にしてはハードルが高く,かといって和書ってこれしかないよね?という消去法で。個人的には,自分の名前が入っている書籍を教科書に指定するのってなんかはばかられる感じがするというのはあり,その事自体は素直に学生にも言いました。

初日

非常勤というのは大学院生のときに4年間やっていたわけですが,関大に就職してからは初めてで,つまり2017年度以来ということになります。ということで,なんかめっちゃくちゃ緊張したんですよね。やっぱり非常勤って場所もそうだしいろんな仕組みもそうだし,自分の慣れない場所で授業をすることになるので,いつも以上にいろんなことが気になるわけです。

場所は関学の上ケ原キャンパスなんですが,いつだったか学会で一度だけ行った記憶がありますがそれ以来という感じでした。甲東園の駅で電車を降りたら学生の数がすごくて,そこから「こんな坂道だった?」っていう坂道を学生に紛れてゾロゾロと登っていき,キャンパスの正門に就く頃には若干汗ばむ感じでした。着いてすぐに,事務方に挨拶に行ったところ,授業開始5分前くらいなのに(その時間に着いているのもどうかと自分でも思います),控室やメールボックスを案内されて,その後に,教室の定員を上回る履修登録があったことを知らされます。椅子が足りない分は運び入れると伝えられました。

履修登録者数が47名というのは授業の前に確認はしていましたが,教室のサイズはわからなかったので人数が多いということは想定外でした。もちろん,関大の英語科教育法は10〜20数名なので,それに比べたら遥かに履修者数が多いとは思っていました。ただ,教室の定員を超えるということは事務方が予想していたより多いということで…。

教室に着くと,私に声をかけてくださった名大時代の先輩(他ゼミですが私もそのゼミに出ていました)が待っていてくださって,授業開始前ぎりぎりでバタバタとご挨拶をしました。ちょうどチャイムが鳴るくらいのタイミングで教室に入ると,満員御礼といった形で席が埋まっていました。

「ギリギリになってすみません」と言いながらMBAを開いてHDMIにつなげようとしたところで,かばんにアダプタが入っていないことに気づきます。研究室から持ち帰ってはいたのですが,いつものかばんとは別のかばんで行くことに当日決めたため,入れ忘れてしまっていたのです。やらかした〜と思いながらその場でkeynoteをPDF化してLMSにあげて,学生さんには各自のデバイスで資料を見てもらおうと思いました。そんな私の様子を廊下から心配そうに事務の方が見守っていたの,今も目に焼き付いています(笑)

椅子を運び入れるために動き回っていた事務の方に,HDMI->USB-Cの変換アダプターがないか尋ねたところ,あると思うとのことで持ってきてもらえました。「ありがとうございます!」と見せてもらうと,まさかのVGA<->HDMIのやつ。これじゃないんですよねぇとUSB-A->USB-Cのケーブルを見せて、「この細いやつに繋げるやつです」と伝えたら,また探してきてもらえるということで。事務の方にご迷惑をおかけして本当に申し訳ない気持ちでいっぱいの中,時間通りに始められなくて申し訳ないということや自分の自己紹介をしました。

授業でやったこと

その後,念願のアダプタが届いてスクリーンに資料を写しながら授業ができるようになりました。まずはシラバスの確認をして,その後はアイスブレーキングを兼ねて,学生にタスクを体験してもらおうということで,GTD Book2のUnit7にある”Lie through your teeth”をやりました。3つのstatementのうちの1つは嘘で,その嘘を見破るというやつですね。実は,GTD Book1には同様の活動が,”The truth about me”という名前で収録されています。”Lie through your teeth”は,嘘を見破る・見破られないようにするという攻防がメインになるので質問をすることとそれに答えることになります。やりとりの力が要求されるわけですね。一方で,”The truth about me”はそうした質問の機会はなく,8つのstatementのどれが嘘でどれが本当かを当てるguessing gameになっています。今回は,英語科教育法というそれなりに英語ができると考えても良いだろうという集団に対して行う授業でしたので,よりチャレンジングな方を選びました。

まずは自分のことについて3つのstatement(これはworksheetにすでに記載済)について,嘘か本当かを見破るための質問をできるだけたくさん学生に考えてもらう時間をペアで取り,その後wheel of namesを使ってルーレット形式であたった学生を指名して質問をしてもらいました。

ある程度3つのstatementにまんべんなく質問が出てきたところで学生にどれが嘘かをワークシートに書いてもらって答え合わせをしました。その後,じゃあ今度はみんなの番だよということで,各自3つのstatementを書いてもらい,その後グループを作ってクイズをし合うという流れでやりました。3つのstatementは”something what you did during the spring break”と縛りをつけました。学期の一番最初なので自己紹介の要素をもたせてもよかったのですが,自己紹介で何を言うかって結構難しくて,相手との関係性とかによって何を伝える変わるんですよね。それで,いろんな可能性を考えさせることによって内容を考える負荷がかからないように,「春休みにやったこと」という直近の過去の事実についてに限定しました(こういう限定の仕方をすると,過去形を自然に引き出すこともできるよねなんていう話もあとに入れようかなという意図もありました)。

英語が得意な学生から少し苦手かもなという学生まで様々いて,机間巡視しながら英語的なサポートをしたり,質問が止まっていたらこちらから質問を投げかけてみたりしました。最初は5分Q&Aを設定していたのですが,長すぎたなと途中で思って4分で切り上げ,次のラウンドは,3分30秒で,4分のときと同じ数の質問ができるようにしよう,というように時間を徐々に短くしていきました。

ちなみに,ここまではすべて英語でやりました。最後に,今回のタスクをやってみての感想と,自分がこれを授業でやろうとする際に気をつけたほうがいいことを書いてもらって終わりました。

自分が英語の授業でこういうタスクをするのであれば,タスク後のlanguage-focusの活動は外さないのですが,今回は時間の都合もあって省きました。

授業の最後に学生からの意見を聞いたところ,

  • 英語ができる人はたくさん質問できるけれど,苦手だと質問ができずに終わってしまうのでは
  • 嘘を見破るための質問を考えるのは難しいので,質問の仕方を事前に教えるほうがいいのでは

といった意見が出ました。こういう意見が出てくることにまず感動しましたし,こういうことを学生と一緒に考えられることもなんというか嬉しかったです。自分にとっての学びにもなりますしね。

1つ目については,私はこれは表裏一体であるという話をしました。質問ができずに終わるというのは,「うまくできなかった」という気持ちで終わってしまう可能性は確かにある。他方で,それはつまり,質問が自分からできないのであればしなくても活動が成立するし,ゴールは嘘を見破ることなので,仮に質問できなくても,他の人の質問とそれに対する答えを聞いて,「1つ目が嘘かもしれない」のようにできるのであれば,それはその学習者の熟達度にあった参加ができているとも言えるよねと。

授業後のリフレクション・ペーパーでは,「質問がうまくできないと,英語が苦手な生徒はモチベーションが下がってしまうのでは」というコメントがありました。鋭い。素晴らしい。こういう観点で私の話を聞いてくれる学生がいること,本当に感謝です。

2つ目に関しては,事前に教えてしまうとタスクとは言えなくなってしまうのだけれど,それはタスクの定義を参照するところでまた戻ってきますと伝えました。教科書の内容にはまだ入っていないので,学生にはタスクとはなにか,タスクの定義とは,というような話は一切していません。まずはタスクを体験してもらい,その後にそれがどういうもので,それはどういった理論に基づいているのか,を学んでもらおうという私の狙いです。今後,学期中に何回かは別のタスクも体験してもらった上でまた今回のように指導上気をつけるべきことだったりを考えてもらうおうと思っています。

まだ1/4くらいしかリアクション・ペーパーは提出されていませんが(その場で集めたのではなくオンラインで提出なので),それでも個人的に,応答のしがいがあるコメントがたくさん並んでいて,こういうコメントを引き出せたこともそうですし,それに対して自分がどう応答するのかを考えられることも含めて,この授業を充実したものにしていけそうな感触があります。そう思えるのも,学生さんが本当に協力的で,私の授業の意図を理解しようとしてくれているからであるということも強く感じています。

教員養成課程出身者だから思う教科教育法への思い

これはなんていうかわかる〜っていう人もいるかもしれないしいないかもしれないんですが,地方国立大学の教員養成課程出身者としては,なんていうか英語科教育法って自分の教師としてのコアになっている気がするんですよね。そして,大学教員というのをぼんやりと意識したとき,自分もそういう,英語教師になるような人に向けて授業をやりたい,みたいな気持ちって結構あったなと思うのです。ただ,望めば与えられるわけでもないですし,教科教育法を教える人の数には限りがあるので,これまでそういう授業を担当する機会にも恵まれて来ませんでした。もちろん,就職先を選ぶ時点で教員養成系を選べばよかったわけですが,最初の就職先を選ぶ余裕とかないですし,待遇の話とかを聞いていたら,国公立に勤めようと思う気はよっぽどの覚悟とその業務へのやりがいを感じていないと無理だなと思います。

ただ,なんていうか,もともと学校英語教員を目指していて,そこからアメリカの大学院で挫折したり,教員採用試験に落ちて挫折したり,一念発起で進学した名大の博士課程でもたくさん挫折をしたりして,就職しても自分の思うようにいかない日々を過ごして,そうやって学部を卒業してから干支一回りしてこの歳になって,自分がお世話になった埼玉大学の及川先生が教えていたあの英語科教育法を,自分も教える,そういう授業を任されるくらいには成長したのかなと。まだまだ全然未熟ではあるのですが,素晴らしい学生と一緒に英語科教育法の授業をやっていけるということ,そういう存在になったということは,B4的全能感に溢れていたりTwitterでイキっていた12年くらい前の自分や,教採の2次試験に落ちて電車の中で涙をこらえてずっと上を向いていた10年くらい前の自分よりは,ちょっとは成長してるのかなと思えたら,今まで自分がやってきたことも,無駄じゃなかったのかなと思えますし,自分が本当に若かったときから知ってくれている人にこれまでたくさんお世話になってきたこととかも思い出して,涙でハイボールがしょっぱいです。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

研究だけができるか授業だけができるかを選ぶとすれば、どちらを選びますか?

はじめに

Querie.meでいただいた質問シリーズ。質問はタイトルのとおりです。「もしも」の話だというのは当然理解した上で以下の回答は書いていますが,真面目に考えすぎたかもしれません。

回答

私は自分が担当する授業の中に,語学,講義科目,ゼミ,という3つの種類があります。よって,語学の担当がない大学教員の方と私では,大学の授業に対する考え方や,あるいはどのように大学教員の仕事を捉えているか,自分の大学教員としての今後のキャリアに対する考え方も違うのかなと思います。

何が言いたいかというと,「授業だけ」といったときに,それが語学の授業だけなのか,講義科目だけなのか,ゼミだけなのか,またはいずれかの組み合わせなのか,色々なパターンが考えられますよね。よって,「授業だけ」と言ったときのイメージって人によって違いそうだなということです。また,「だけができる」というのを私は「それしかできない」と読みましたので,授業だけしかできない(研究はやりたくてもできない),研究だけができる(授業はやりたくてもできない),という環境は,大学教員という職業を前提に考えたときには前者はあっても後者は少なくとも私の分野ではないのではと思います。

さらに,前者の場合でもその場合の「授業」というのは語学の授業のみを指すことがおそらくほとんどで,講義科目やゼミだけしかできないというのはありえないのではないかと思います。もしそういうのがあるとしたら,それは授業だけしかできないのではなく,「研究はできるけれども授業だけしかやっていない」ということでしょう。そして,私はそうなっちゃいけない,なりたくないと思っています。もちろん,勉強と研究は違いますから,めちゃくちゃ勉強すれば良い講義はできると思いますが,それをする意欲や時間はあっても研究をする意欲や時間はないっていうのはあまり想像できません。さらに,ゼミとか研究の指導とかをするのであれば,研究をやっていないのに研究の指導をすることはできないのではと思います。

したがって,私は英語教員としてのアイデンティティはありますが,英語の授業だけをやっていればいい環境があったとしても,そちらは選ばないと思います。英語だけ教えるのでいいのであれば,この職業を選んでいないというか。最初の動機というか,学校教員にならなかった理由の一つとしては,自分には授業以外の部分の教育活動が向いていないと思った(つまり,授業を中心にやっていたかった)という部分が大きいです。しかしだからといって,英語を教えることだけをやりたいがために博士課程までわざわざ行きませんよね。

それはやはり,自分には研究者としてのアイデンティティも備わっているということだと思います。また,研究者というのは研究コミュニティの維持と発展というのも仕事の一部だと思っています。そのためには,研究コミュニティに参画する人を増やしたり,そのコミュニティに属する人たちの知識やスキルを上げていくことにコミットすることも必要になると思います。そして,教育というのはまさにそこに繋がる仕事だと思っています。したがって,教育はできないけど研究だけはできる,という状況は,研究者としての仕事の一部を奪われているとも言えるのではないかと私は思います。

(私の分野の)世界的に有名な研究者をどれだけ思い浮かべてみても,その人達って絶対にそこで学生を指導して,そしてその人達がまた活躍していく,そういうところに絶対いるように思います。派閥的なことになっていくとそれが良いか悪いかみたいな議論も出てくるかと思いますし,そんなことあんのかよっていう話を聞いたこともないわけではないですが,ようするに研究だけじゃなくて教育活動もやってるよね,ということです。分野の特性ももちろんあるでしょうけれども。

さらに,自分に研究者としてのアイデンティティがあると言っても,それだけで今と同じ待遇を得られるほど研究者としての才が秀でているというようにも思えません。となると,やはりそれ以外の部分での自分のスキルも生かすことのできる仕事だからこそ(裏を返せば授業をやらなければいけない仕事でもあるからこそ),今の待遇で仕事をできているのだろうなと思います。

ということで,一言でまとめると,どっちも選びたくない,選べない,ということですかね。どちらかを選ばないといけないとしたら,相当な覚悟を持っていずれかを選択することになるだろうなと思います。

なんだか回答しているようで全然回答になっていないかもしれませんが。とりあえずこんなところで。

質問したい方はどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

先行研究のレビューや良い批判の仕方は、どうすれば学べますか?

はじめに

Querie.meでいただいた質問シリーズ。質問は以下です。

先行研究のレビューや良い批判の仕方は、どうすれば学べますか? 参考になる本や、ご自身がどうやっているか教えてほしいです。

これまた私に聞くの?ってやつですね。私に「良い批判の仕方」を聞くのはちょっと良くないですね。私,「良い批判」ができないことで有名ですから…(ウッ

回答

とにかく大量のインプット

人から学ぶ

自分がどうやって学んだかっていうことを考えると,誰かと一緒に論文や本をたくさん読む経験をしたっていうことが一番大きいような気がします。「誰かと一緒に」がポイントです。自分一人で論文や本を読みまくって,鋭い視点でコメントができるようになる人もいるとは思いますが,そういう人は一部だと私は思っています。私のような凡人は,誰かから学んでいくしかありません。授業でもゼミでも,学外の研究会や勉強会でも,ときにはお酒の席でも,とにかく自分より研究キャリアの長い人がどうやって論文や本を読んで,どういうところに着目しているのか,そういうことを学びながら,だんだん自分もそういう読み方ができるようになっていったのではないかなと思います。

私が博士課程を過ごしたときの環境は,別に自分から求めなくても毎日延々と研究のことを喋り続ける人がいたので,夏の暑い日も,冬の寒い日も,雨の日も風の日も,雪の日も,そういう人たちの話を一生懸命聞いて,その話になんとか自分もついていくということに必死だった記憶があります。

私が博士後期課程1年目の春だったか夏前くらいだったか,先輩が「例えばな,この男と付き合いたいと思うか思わないかっていうのを0/1で考えるロジスティク回帰をするとするだろ。こういう曲線だな」みたいなことを言ったとき,頭の中で「ロジスティック回帰ってなに???」って思ってわけがわからなかったの,今でも鮮明に覚えています。そのあと必死に勉強して,その2年後くらいにRでロジスティック回帰をやるテクニカルレポートを書くことになったわけですけど。

学会でも,発表を理解することとともにどのような質問があがるのかということにすごく意識を集中させて聞いていました。すべての質問が良い質問ではもちろんないわけなのですが,そういうところでも,学びの機会はあります。オンラインの学会だとなかなか「会場の雰囲気」みたいなものを感じることもないですし,そもそも質問も出てきづらいことも多いので難しいかもしれません。ただ,2023年度からは対面開催の学会もまた戻ってくるでしょうし,行くのはめんどくさいですけど行ったら絶対に学び(と出会い)があると思って学会に行きましょう(自分にも言い聞かせる)。

学会のような大きなイベントではなくても,小規模の勉強会や読書会のようなものがあれば,勇気を出して飛び込んでみることをおすすめします。知り合いからそういう話を聞いたら,とりあえず行ってみる,若いうちはとくに誘われたら基本は参加,でいいと思います。英語教育系の院生さんや若手の研究者の方で(いや別に若手である必要もまったくないですが),私が毎月参加している研究会(輪読+アルファ)に興味がある方がいたら,ご連絡いただければ詳細お伝えします。たしか3月の開催日は28日だったかなと思います。

概説書を読む

大量のインプットというのは,自分の知識量を増やすという意味もあります。結局,その分野の枠組みみたいなものを理解していないと,個別の研究をそこに位置づけることもできませんし,それができなければその研究の価値も評価できないわけです。そういう状態では,「良い批判」はおそらくできないのではと思います。そのためには,個別の論文を読むことよりもむしろ概説書を何冊も何冊も読むことが大事なのではないかと,これは博士課程終わる頃くらいに思うようになりました。

後か不幸か,英語教育とか第二言語習得という分野は入門とか概論とかIntroductionというのがつく本が大量にあります(cf. 英語科教育法 「僕・私のこの一冊」 懐かしい思い出と未来への展望と)。中には同じ話をしていることもありますが,同じ話でもどういう文脈でその話が出てくるのかというのは著者のスタイルというか分野の眺め方によって違うわけで,同じ事象を別の角度から眺めることを繰り返すことで知識が深まっていくし,そのベースがあるからこそ個別の研究を批判的に読むことができるようになるのではないかと思います。

むかし,ある人が,「俺が学部生のとき,指導教員だった○○先生は論文より本を読みなさいってずっと言ってて,でも俺は論文を読みたかったんだ…!」って言ってたのを覚えています。彼がいま,このことをどう思っているのかはわかりませんが。私は,その先生の指導があってこそのいまの彼なんじゃないかなと思っています。概説書に書いてあるものは全部知ってることなんだから,新しい知識を得られないじゃないかって思いがちですし,概説書だけ読んでればいいってことはないわけですが,論文読むのと同じくらいそれは大事なことでは?って思うようになりました。

最初からうまくはいかない

誰かと一緒に論文を読むとか,学会に参加するとか,そういう場所では最初はなかなかコメントできずに周りの話に圧倒されるかもしれませんが,それでも声には出さなくても頭はフル回転させて「何を言ったらいいか」を考え続ける事が大事かなと思います。もちろん黙っているだけよりは何か言ったほうがいいわけですが,最初のうちは私も全然議論に参加できていなかったこともありましたから。場数を踏めばそのうち何かコメントできるようになるはずです。それが「良い批判」かどうかはわかりませんが,最初からなにかクオリティの高いものが出せると考えているほうが間違いです。どんなに有名な研究者でもoutput -> feedback -> revisionというプロセスを経て良いものを作り上げていくはずです。そういうことを繰り返していくうちに最初のoutputの質もあがっていくのだと考えたら良いでしょう。私もまだまだ修行の身です。

私は,自分が日々考えていることを文章としてウェブ上に残すという作業を10年以上続けてきました。そのことは,思考->言語化の部分の訓練にはなったと思います。その中には,読んだ本や論文などのレビューも含まれていたと思います。決してうまくまとめられていたとは思いませんが。それでも,ただ読んで考えて終わり,だけではなく,メモ書きで残して終わりでもなく,ある程度まとまった文章にするという作業をすることは,先行研究のレビューにもつながる練習ではあるかなと思います。

もしも,身近に誰かから学びをえるような環境がなかったり,ブログ書くとかそういうのはちょっとハードルが高い…と思うようであれば,書評だったり論文のレビューなんかをウェブ上で発信している人の記事を読むのも有意義だと思います。今はブログで発信している人の数も私の周りでは減ってきてしまっていますけれど。それでも,とにかく色んな人の色んな意見を読むというのは大事ですから。

また,「先行研究のレビュー」というのが,自分の研究に関連する先行研究に関するレビューを書くということを指しているのだとすれば,自分の先行研究のレビューが一番参考になるように思います。もちろん,自分の領域とは違う論文でも,論文を出しまくっている人はレビューが上手なことが多いですから,この人のパブリケーションすごいな,と思う人の論文を読んで,その人がどうやってレビューをしているのかを分析してみるのも良いのではないでしょうか。

このときに,論文のレビューセクションがどういう構造になっているのかを読み解く必要があるわけですが,その際の基礎的な知識として,下記の本は参考になるかと思います。

論文の書き方指南書ですが,「ムーヴ」(Move)という概念を獲得することにより,レビューの構造を把握しやすくなると思います。

それから,分野は違いますが,こんな本もあります。

文学の批評は論文や研究に対して批判的なコメントをすることとはまた異なるものですが,文章の読み方や書き方に関するヒントはたくさんあると思います。

おわりに

あとなにかまだ書こうと思っていたことがあったような気がするのですが,忘れてしまったのでこのへんでおしまいにします。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

論文執筆環境を教えてもえらえますか?特に論文執筆中に活用しているアプリやツールなど

はじめに

Querie.meでいただいた質問シリーズ。このサービスを始めた当初は別に質問をいただいたらブログ記事を書こうなどとは微塵も思っていなかったのですが,気づいたらブログに書くのがルーティンみたいになってきました。いつの日か,質問に答えるのもめんどくさくなる日が来るのかもわかりませんが,そういう日が来るまでは今のスタイルで行きます。質問はズバリタイトルのとおりです。

回答

まず質問を見て思ったのは,「それ聞く人あってる?」です。こういう質問が来る人って,すごくproductiveでめちゃくちゃ論文書きまくってる人なんじゃないかっていう勝手なイメージがあるんですよね。こういう質問をする方っておそらくですが自分のproductivityをあげたいと思っていて,そのために便利なツールやアプリを知りたいっていう動機なのではないかと思うわけです。それを質問するのが全然論文出していない私っていうのはもうなんというか私以外のもっとproductiveな皆さん質問箱でもマシュマロでもQuerie.meでもやってくださいって思います。それか,私だったらなんでも答えてもらえるからまあ聞いておくかみたいな感じなのかもしれないですね…。

長文はScrivener一択

おそらくですが2016年くらいから,論文や本のチャプターなどの長文を書くのはScrivenerというアプリを使っています(MacもWindowsもありますし後発でiOSアプリもできました)。安いものではないので院生さんのような方におすすめするというのはちょっと躊躇します。また,今値段見たら私が買ったときよりももっと高くなっていて,円安か…と思ったりしています。ただ,サブスクのようなシステムではなく一度買ったらずっと使えるという感じなので,その価値はあるかなと個人的には思っています。無料のトライアルもあるので,それで30日間使ってみるというのもありでしょうね。

Scrivenerを一度使い始めたら他のアプリでは論文を書けなくなりました。最後の最後の段階までScrivenerで書いて,最終的にはWordファイルに出力して整えるって感じの使い方をしています。

機能を色々使いこなせているかというとたぶんそういうわけでもないのですが,一番いいのはセクションごとにターゲットの語数を決められることと,全体のターゲットの語数を決められることですね。自分がそのセクションでどれだけ書いているのか,全体の目標語数までどれくらいなのかがわかって,執筆のモチベーションになります。執筆のデッドラインの目標とかも作れます。執筆日は週何日で,いつまでに何語書かないといけないのかとかを入力すると,執筆日に何語書かないといけないのかを計算してくれます。サボったらその分だけ1日のノルマが増えるとかもやってくれるのです。そういう設定を利用しなくてもその日に何語書いたのかとかもわかるので,「今日は100語だけしか書いていないけど,でも何もしていないよりよっぽどマシじゃないか。ビール飲もう」とか,「今日はディスカッションのうちの1節のターゲット語数をクリアできたぞよしよしビール飲もう」とか,そうやってお酒を飲むきっかけ作りにもなります(すな

もちろん構成を考えたりとか,文章の別の箇所や全体像を参照しながら書くとかもすごくやりすいと個人的には思います。やっぱり論文は頭から書くものじゃなくて,書けるところから書いていき,同時に各パートの一貫性も整えながら,最終的に一本に仕上げるっていう感じだと思うんですよね(もちろん人によりますけど)。そういう書き方で進める文章にとって,パーツを自分の好きなように作れるということと,それを好きなように積み上げられること,そしてそのパーツに書く本文とメモ的なものを分けられるっていうのはすごくメリットがあることだと個人的には思っています。

『考えながら書く人のためのScrivener 入門』(https://amzn.asia/d/eNtvvSN)という本も買って読みました。使いながら慣れるっていう感じだと時間がかかる人もいると思うので,Scrivenerを買ってた人にとってはこの本は買って損はないと思います。ウェブ検索するとScrivenerについて書いている記事も結構見つかるのでそれらを読んでみてからScrivenerの購入を検討するのもありでしょうね。以下,検索して上位に出てきた記事3本です。

高機能アウトラインプロセッサ『Scrivener』のメリット・デメリット

Scrivener3徹底レビュー:小説・論文作成のベストアプリ【使い方も解説】

文章執筆統合ソフト「Scrivener3」を使ってみた

3つ目の記事でもあるように,合う人と合わない人がいると思います。機能はモリモリですが,直感的に使いやすいというわけではありませんので。ただ,基本的な機能を一通りマスターしたら全然Wordで書くよりいいので私は気に入っています。プロジェクトをDropboxのようなクラウドサービスと連携させておけば異なるデバイスでも執筆できますしね。

メモ的なものはObsidian

私がメインで使っている,それこそなんでもかんでも放り込む的なものはEvernoteです。パーソナルプラン(年8,100円)で使っていて,これはもう10年以上とにかくなんでもかんでも放り込んでます。特にウェブの記事をクリップできるのがめちゃくちゃ気に入っていますね。読んだもの,あとから読むもの,とにかくなんでもかんでもEvernoteに入れています。

ただ,研究に関してのメモはObsidianにするように1年前くらいですかね?なりました。きっかけは確かanf先生が様々なツールを試していた際に言及していたことだと思います。

Obsidianという刺客が現れた→どうする?→roam researchから乗り換えた

考えるための名前のない技術(2)

思い浮かんだことはとりあえずDraftsに入れて、使いみちを考えるのはその後

私はマークダウン記法信者でもあるので,マークダウン記法が使えるエディタがいいなと思っていて,様々なノートをある程度自動的に結びつけることができる機能があるObsidianに興味が出て使い始めました。

私がScrivenerを使い始めるのは,「この論文を書く」っていうのが決まったときなんですよね。その手前のアイデア段階のものは,Scrivenerで作業し始めるほどのレベルに達していないと個人的には感じます。そうは言ってもアイデアが浮かんだらメモくらいはしておきたいなというときにObsidianを使っています。また,論文を読んだときのメモもObsidianに書くようになりました。

論文のメモは昔はMendeleyという論文管理ツールを使っていたのですが,あるとき急に同期の不具合があってそれまで自分がMendeleyを使ってとっていたメモも含めて全て消失したんですよね。復元もできなくなって。Mendeley死ねクソがと思ってそれ以来,文献管理ソフト上でメモを取るのをやめました(今はZoteroを使っています)。あまりにもリスクが大きいので。外部のソフトウェアを使えば,そのファイル自体は自分のデバイスに保存されますからね,例えばObsidianなら”.md”というマークダウンファイルで保存されますし,その保存先をDropboxやOneDriveなどのクラウドサービスにしておけば,まず間違いなくメモが消えることはありません。

表現的なものはAcademic Phrasebank

論文を書いているときに,表現のvarietyを持たせたかったり,こういうときに便利な表現ないかなーと思ったときにはAcademic Phrasebankにお世話になってます。結構有名なのでご存じの方も多いとは思いますが。

イントロ,バックグラウンド,メソッド,ディスカッション,コンクルージョンとセクションごとによく使われる表現がまとめられている上に,機能(”Being critical”, “Compare and contrast, etc.)ごとにも表現が見つけられるので便利です。ライティングの授業でも学生に紹介しているウェブサイトです。

NTCとNRCは大好きなアプリ

最後に,論文執筆と直接関係はないんですがお気に入りのアプリを2つ。

Nike Training ClubNike Running Clubです。NTCはワークアウトアプリで,ヨガからストレッチから結構ハードな筋トレまで,めちゃくちゃたくさんのメニューがあります。短いものだと5分くらいで終わりますし,自重だけでできるワークアウトも豊富なのでわざわざジムに通う必要もなく家でもできます。トレーナーの人が一緒に同じワークアウトをしている動画を見ながらできるので,パーソナルトレーナーのついた筋トレのような雰囲気を味わえるのを気に入っています。

NRCはランニングアプリで,距離や時間などに応じて多様なメニューが用意されています。今日は走りたくないけど…というときには10分程度で終わるものがあったり,距離別だと1キロ,1マイル,5キロなどもありますし,コーチが音声ガイダンスで指示してくれます。インターバルトレーニングや,マインドフルネスに特化したプログラムもあり,ただ走るだけではなく音声コンテンツを楽しみながらランニングができます。私自身は2020年は月100キロとか走っていたときもあったのですが,もともとヘルニア持ちで腰からくる股関節痛を発症してからは日常的に走ることはなくなってしまいました。ただ,NRCは本当にランニングのお供としてめちゃくちゃお世話になりました。

もともとNikeが好きということもあり,バッシュ(もう全然最近バスケしてないですが),スニーカー,アパレル(普段着も運動着も),ほぼほぼNikeという影響もあってNikeのアプリに親近感をもったこともあるとは思いますが, NTCとNRCなしでは私の運動習慣は継続していないと思います。論文執筆に直接的に関わるわけではないですが,運動することによって心も身体もリフレッシュできます。さらに,運動しているときって,自分の身体のことだけに自分の意識を集中することになるので,仕事やプライベートの雑念を頭の中から追い出すことができるんですよね。そういった「デトックス」的な時間が日常の中に埋め込まれていると,creativeな仕事も捗るんじゃないかなと勝手に思っています(※因果関係は定かではありません為念)。

おわりに

この記事は,王将で生中×3のあとに帰宅してハイボール×3をしながら書いています。

私に質問したい方は下記URLからどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

今のところは割と質問に答えるのを楽しんでいます。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。