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Yu Tamura について

第二言語習得の研究者。博士(学術)。英語教育のことや統計・データ分析に関わること、趣味のサッカーのことなどについて書いています。

[宣伝] タスク・ベースの英語教科書:Getting Things Done Book1

【2022年度新刊】タスクで教室から世界へ[ブック1]

はじめに

このたび,私が編著者として関わる英語の教科書が三修社さんから出ることになりました。その宣伝記事です。以前,三修社さんから『コミュニケーション・タスクのアイデアとマテリアル:教室と世界をつなぐ英語授業のために』というタスク教材集が出ました。この本では,いわゆるメインタスクの部分が中心として紹介されています。そのメリットとしては,「料理」の仕方でどのようにも使えるということがあります。目の前の学習者に合わせて様々な調整を加えて使ってほしいというのが著者陣の願いです。とはいっても,やっぱり準備にも時間がかかるし,どうやって1コマ分の授業を構成するのかというのは悩むところでもあると思います。そこで,その素材を「料理」して「一食分の食事」という形でパッケージングした教科書を作りました。それが,Getting Things Done (GTD)です。この本で言われているタスク(Tasks)というのは,タスク・ベースの言語指導(Task-based Language Teaching)の文脈でのタスクですので,コミュニケーション活動のようなものとほぼ同義で使われるゆるい「タスク」とは違うというのは強調しておきたいです。

ちょっとした背景

もともと,「教師用ブック」と「学生用ブック」という形で先生向けのものと学生向けのものを2つ作るという構想のもとで制作がスタートしました。教師用ブック(『コミュニケーション・タスクのアイデアとマテリアル』)は先生が購入し,必要に応じて素材をコピーするなどして教室で使うことが想定されていました。それに対応させる形で学生用ブックを作ったわけですが,この教科書だけで完結するものがよいのかどうかというのはかなり議論を重ねました。構想段階では,教師用と学生用が合わさってはじめて使えるようなものが考えられていました。つまり,教師用ブックの購入が前提だったわけですね。なぜなら,もしも学生用ブック単体で利用できるのであれば,教師用ブックが売れなくなってしまうのではないかということを懸念したからです。かといって,教師用ブックを別途購入しなければ使えない教科書であったとすれば,すでに教師用ブックを購入されている人にはいいけれども,教師用ブックは買っていない人が学生用ブックを教科書として授業で使おうとするのはハードルが高くなりますよね。

こういった議論を重ねたあとで,あくまで学生用ブック単体で「教科書」という体裁をとりながらも,教師用ブックに掲載されているオリジナリティのある「アイデア」の部分は教師用ブックを参照してもらうという方向性にしました。イメージとしては,教師用ブックのほうは「唐揚げ」みたいな感じで載っていて,付け合せのヒントみたいなのも載っている感じ。学生用ブック(GTD)の方は,唐揚げ定食というユニットになってるというか。唐揚げって書いてあるだけだと,他に何品か作ってあって,「あと一品なにかないかなー」というときに,「あ,冷凍の唐揚げチンして出しちゃおうか」みたいな使い方もできますし,「今日のメインはこの冷凍の唐揚げで酢鶏にしちゃおう」というのもできますよね。素材っていうと唐揚げというよりは「鶏もも肉」と例えるほうが適当だとは思うのですが,それはまあ置いておきましょう。

一方でGTDは前述のとおり,唐揚げ定食です。「今日のご飯は何にしようかな,あ,唐揚げ定食でいいか」,という。献立はもうあるので,何を作るかは考えなくていいわけですね。それが嫌いな人もいるだろうし,楽な方が良いという人もいるでしょう。それはやっぱり万人受けするものを作るのは難しいですからね。アレンジが大好きな人は教科書はなし,教師用ブックに載っている素材で15回分の献立を考えてもらって構いません。ただ,15回分の献立を考えるのは難しいという方はGTDを教科書として採用してもらったらいいですよということです。

中身の話

GTDの中身ですが,なんと三修社さんのGTD紹介ページから期間限定(2022年3月31日まで)で全ページサンプルがダウンロードできます。

https://www.sanshusha.co.jp/text/isbn/9784384335101/

教科書のサンプルってだいたい1つのユニットだけ限定とかが多いと思いますが,三修社さんは全ページのPDFが見れます。この方式は,GTDのような教科書の採用を検討される際にはぴったりだと思います。ぜひこの機会にサンプルPDFを見ていただければと思います(もちろん見本の請求もできます)。なぜ全ページ見れるといいのかというと,ユニットのメインタスクによって,プレタスクやポストタスクでどのようなことをやるのかもまったく異なるからです。

多くの場合,教科書の構成というのはユニット間で統一感があり,ユニットの一番最初にやるのは単語の確認とか,最後はミニプレゼンとか,やることが決まっていることが多いと思います。しかしながら,GTDはセクションタイトルは全ユニット共通(下記参照)ですが,そこで学習者は多種多様な活動に取り組むことになります。

  1. Getting warmed-up: トピックの導入
  2. Getting ready: メインタスクへの準備
  3. Getting into it: メインタスク
  4. Getting better at it: 言語形式に焦点をあてた振り返り
  5. Getting further: タスクの繰り返しや発展
  6. Getting it done: まとめ(多くの場合ライティング)

実はこうした構成になっていることがGTDの特徴である一方で,制作段階では逆にハードルになりました。つまり,活動のアイデアは一度出せば全ユニット共通で使えるものでないわけですから,すべてのユニットでそのユニットのメインタスクを最も引き立てるプレ・ポストタスクを考えなければいけなかったということです。毎回最初はきんぴらごぼうで最後はゆずシャーベット,みたいなわけにはいかないということですね。もちろん全部が全部異なっているわけではないのですが,それでも殆どのユニットで学習者は飽きることなく様々な活動に取り組むことになると思います。こうした教科書を作ることができたのも,合計6人の著者陣がいたからだと思います。1人や2人だと,アイデアもなかなか多く生まれにくいところでしたが,6人いることでそれぞれが自分の特徴を最大限に発揮し,個性豊かなユニットを作り上げることができたと考えています。私は編著者として,そこにゆるやかな統一感をもたらし,教科書としての質を高めることに注力しました。

もう一つのGTDの特徴は,教授用資料(Teacher’s Manual)の充実具合だと思います。当初は,答えが必要になるもの(間違え探しの答えなど)だけを提示した簡素な冊子体を教授用資料とするという方向で進めていました。そうすることで,詳しいことは教師用ブックを買って読んでくださいねという販促が可能だからです。ただ,私はこのGTDはタスク・ベースの考え方に馴染みがない(またはそうした授業展開を経験したことがない)先生方にとっては非常にハードルの高い教科書になってしまわないかということを懸念していました。

前述のとおり,この教科書はユニットごとに各セクションで行われる活動が異なります。つまり,大枠での意図(メインタスクへの準備等)は同じでも,その中で実際に学習者が取り組むことが語彙にフォーカスを当てているのか,あるいは自分の意見を考えるアイデア・ジェネレーションなのか,というのが異なってくるわけです。それはサブタイトルという形で教科書本体に記載されています。しかし,それだけでは不十分ではないかと思ったのです。そこで,そのセクションがどういった意図をもってデザインされているのか,そしてそこで気をつけるべきことはどういったことなのかということを説明することで授業準備の負担を軽減したいと思いました。また,教室内でどのようなことが起こるか,あるいは教員はどう振る舞うべきなのかなどを事前にシミュレーションすることもTMを読むことで可能になると思います。

かといって,TMもついているから教師用ブックは買わなくてもいいね,ということにはならないようにしました。活動のバリエーションや活動条件,タスクを成功させるためのtipsやタスク・ベースの言語指導に関する基本的な知識などについてはやはり教師用ブックを読んでいただかなくてはいけません。ちなみに,GTDを50部以上採用いただいた先生には三修社さんから教師用ブックを献本いただけるということです。詳しくは三修社さんにお問い合わせください。

TM内では,各ユニットの冒頭で授業前に必要な準備というセクションをつけました。これも,各ユニットで毎回同じ準備をすればよいわけではない教科書だからこそ必要になるものです。そこに「とくになし」とあれば,実際に何も準備をせずに「えいやっ」と教科書を持って教室に行くこともできます。そして,印刷物があれば印刷が必要だというのが一瞬でわかります。そうやって,まずはTMの一番最初の部分を見るというクセができたとしたら,おそらくそこに書いてある他のことも見てもらえるでしょうし,見てもらえれば必ず授業がよくなる情報を提供しているという自負があります。もしかすると,TMはあまり読まれないかもしれませんが,著者陣全員が,そして編集担当の方も,教科書本体に向けた情熱と同じかそれ以上の情熱をTMにも注いでいると思います。TMに書いてあることは見る人によっては「そんなこと言われなくてもわかる」というようなことかもしれません。ただ,タスク・ベースの言語指導に馴染みのない先生方にも安心してGTDを使っていただくことを念頭に置いてTMを作ったということはご理解いただければと思います。TMに書かれていることは,必ずしもGTDを使っていただく一人ひとりの先生方の自由な発想を制限するものではありませんので。

最後に

このブログ記事には書いていないGTDのコンセプトについては,見本PDF(https://www.sanshusha.co.jp/text/isbn/9784384335101/に期間限定でリンクがあります)のpp. 1-5に書いてありますので,そちらをお読みいただければと思います。すでにお気づきの方もいらっしゃるかとは思いますが,Book1というのがタイトルについていまして,Book2も鋭意製作中です。来年度の冬には同じように宣伝ができると思います。もうすでに来年度のシラバスや教科書の採用が決まってしまっているかもしれませんが,ぜひGTDの採用をご検討いただき,また実際に使ってみての感想等もお寄せいただければ幸いです。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

2021年の振り返り

毎年恒例の振り返り記事です。今年はギリギリの更新になってしまいました。これまでの振り返り記事も興味がお有りの方はどうぞ。

過去の振り返り記事

ブログのこと

この記事を書いている2021年12月31日時点でのこのブログのpage viewは143,927です。2020年はこのブログを開設して以来の最多view数(26,805)でしたが,2021年は21,592と少し減りました。20,000は超えたのでよかったかなと個人的には思っています。ただ,投稿数はむしろやや増えていて,月2本よりも少し多いペースでした。年々一つの記事あたりの分量は増えていて,長文の記事が多くなってきているなぁというのが感覚としても,そして実際の記録を眺めてみていても思うことです。

今年の記事で閲覧数が多かったのは以下のような記事でした。

2つとも,研究に関わる記事ですね。前者のほうが閲覧数が後者の倍くらいはあります。

仕事のこと

今の所属先にきてから4年目になり,初めての業務を担当しています。授業のコマ数もそれまでよりも少なかったのもあって,割と研究にも時間を割くことができるようになったと感じます。

教科書の編集作業に携われたことは,自分としては貴重な経験になったなと思います。

Getting Things Done [Book 1] Tasks for Connecting the Classroom with the Real World

論文を投稿するプロセスもようやく回り出してきて,これまで溜めてしまっていたものを少しずつではありますが出版に近づけられているという感覚はあります。とはいえ,夏以降にはプライベートでショッキングな出来事があったのと,その時期に2週連続でまったくテーマの違う講演の依頼があったことで研究にまったく手をつけられなくなってしまいました。

共同研究の論文は私のせいでとめるわけにはいかないのでなんとかしてますが,査読中の自分が第一著者の論文二編は結局年内に修正を終えて再投稿するところまでいきませんでした。1月以降はまずこれを最優先にしてやっていきたいです。

運動習慣

2020年に身につけた運動習慣は,2021年も継続してできました。ただ,2020年はかなりランニングをやっていたのですが,股関節痛を発症してしまい一年近く整骨院に通っていて,走ると痛みが出るのでほとんど走らなくなってしまいました。その代わり,通勤で自転車に乗る機会が増えたことと,筋トレの強度をあげるようになりました。対面授業でキャンパスに出勤するときでも,研究室においてあるダンベルを使って筋トレをすることや,雨の日など自転車に乗れないときは最寄り駅を使わずに2キロ歩くということを寒い・暑い関係なく億劫ならずにできたことは自分を褒めて上げてもいいのではないかなと思います。

8月から体重が6キロ近く落ちて,体脂肪率も5%近く落ちたので,かなりしまった身体にはなってきている実感があります。腹筋も見え始めているので,この調子で心の目で見なくてもしっかりと腹筋が見えるような締まった身体づくりを2022年は目指したいなと思います。一時期はお酒を飲まずには寝られないというレベルでお酒に依存していましたが,今はそういうこともなくなりました。やっぱり健康は大事ですね。

おわりに

2021年は,とくに最後の数ヶ月で自分が周りの方たちにどれほど支えられているのかを強く実感しました。このブログを読んでいただいている方も,そうでない方も,私に関わるすべての方たちに,感謝の気持ちを届けたいです。ありがとうございます。

最後になりましたが,みなさん,今年1年お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。

今年の大晦日は,だいぶ久しぶりに一人で過ごすことになりました。なんか勢いでこれから映画を見ます。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

2021シーズンに観戦したG大阪の試合

2021シーズンに観戦したG大阪の試合をまとめる完全自分用のメモ記事です。過去の記事↓

2020シーズンに観戦したG大阪の試合

2019シーズンに観戦したG大阪の試合

リーグ戦

  1. 4/7 vs. 福岡(Home)△ 0-0
  2. 4/18 vs. 清水(Home)△ 0-0
  3. 7/21 vs. 神戸(Home)● 1-2
  4. 7/24 vs. 鹿島(Home)● 0-1
  5. 7/27 vs. 大分(Home)○ 2-1
  6. 8/6 vs. 横浜F(Home)● 2-3
  7. 8/21 vs. FC東京(Home)△ 0-0
  8. 8/28 vs. C大阪(Home)● 0-1
  9. 9/12 vs. 仙台(Home)● 2-3
  10. 9/26 vs. 柏(Home)○ 2-1
  11. 10/2 vs. 札幌(Home)● 1-5
  12. 10/23 vs. 鳥栖(Home)○ 1-0
  13. 11/20 vs. 名古屋(Home)●1-3
  14. 12/4 vs. 湘南(Home)△ 0-0

カップ戦

  1. 6/16 vs. 関学大 ○3-1(天皇杯2回戦)
  2. 8/18 vs. 松本 ○ 2-0(天皇杯3回戦)
  3. 9/5 vs. C大阪 ● 0-4(ルヴァンカップ準々決勝第2戦)
  4. 9/22 vs. 湘南 ○ 4-1(天皇杯ラウンド16)
  5. 10/27 vs. 浦和 ● 0-2(天皇杯準々決勝)

今年もアウェイ戦は一試合も行かず。合計で19試合でした。2019シーズンはホームとアウェイ合わせて17試合,2020シーズンはホームだけで14試合だったので,ファンクラブ入会以降では最多となりました。2021シーズンも年間チケットは発売されなかったので,毎試合チケットを購入して,有観客試合はカップ戦含めて全試合観戦することができました。来シーズンからは年間チケットが復活するので,毎試合チケットの発売日を気にする必要がないのはありがたいなと思っています。

つらかったシーズン

昨年度はリーグ戦で2位となり,元日は天皇杯決勝で川崎に0-1で惜敗でシーズンが終わりました。ACL出場権も獲得して補強も積極的に行い,2021シーズンこそはタイトル奪還ということでスタート。リーグ開幕前のゼロックス・スーパーカップでは新システムの4-3-3で川崎相手に破れはしたものの好ゲームを披露して,開幕に向けて期待感をもたせてくれました。開幕戦はアウェイでの神戸戦で0-1で負けてしまいました。しかし,その後チーム内で新型コロナウィルスのクラスターが発生してチームの活動が停止。4/3のアウェイ広島戦まで1ヶ月近く試合ができませんでした。ホームでの開幕は4/7の福岡戦となりましたが,これはスコアレスドロー。そこからは緊急事態宣言によるリモートマッチが続き,なんとパナソニックスタジアム吹田でガンバ大阪の勝利を目の前で見ることができたのは6/16の天皇杯2回戦の関学大戦でした。実に開幕戦から4ヶ月弱。そこからはセントラル開催のACLに入り,夜中まで起きていてACLの試合をDAZNで見る日々が続きました。残念ながら予選リーグ敗退となってしまい,けが人も続出。そして,リーグ戦にいたってはACLから帰国後の7/27大分戦でホーム戦初勝利となりました。

この試合は,0-1とリードされる展開から後半終盤に追いつき,後半ロスタイムにエース宇佐美選手の劇的決勝弾で勝利。宇佐美選手は試合後涙を流すという今シーズンのハイライトにもなったゲームだったのではないかと思います。

決勝ゴールは5:59あたりからです

印象に残っていること

現地で見ていた劇的勝利ですので,上の大分戦の宇佐美選手のゴールが最も記憶に残っている試合だと思います。それ以外だと,10/23の鳥栖戦での電光石火のカウンター攻撃でしょうか。

CK後の高速カウンターは,ロシアW杯の「ロストフの悲劇」を彷彿とさせました

若手の活躍

生で観戦していたわけではありませんが,関学大から特別指定選手として加入してプレーしていた山見選手の2つの決勝ゴール(8/13清水戦と9/1C大阪戦)はガンバの未来を明るく照らしてくれたような気がします。

実際,6/16の天皇杯で関学大チームで出場していた山見選手を見て,これはプロでもやっていけるというプレーを見せてくれていました。出場時間は短い試合が多く,1試合を通して,またはシーズンを通して安定したパフォーマンスを見せてくれるかどうかというところは今後に期待したいところかなと思いました。来季は正式にガンバの一員なので,もっとパナスタでプレーを見せてほしいですね。

昨シーズンブレイクした山本選手は,今シーズンはスタメンに定着しきれない時期もありました。不用意なボールロストや球際で劣勢になる部分が散見されたのが原因かなと思いますが,ボールロストについてはチームのビルドアップによる部分が多く,彼がリスクを負って相手を剥がせないとボールを運べない(つまり失敗したらピンチになる)状況だったからだと思っています。そこで相手を剥がして前向ける技術は彼にはあるので,それが成功すればチャンスになるのですが,そこだけに頼ると狙われてしまいますよね。

連戦が続いたこともあり,関大出身の左SBである黒川選手はリーグ戦,カップ戦ともに出場時間を大きく増やしました。ただ,藤春選手が復帰して以降はコンディション不良もあって試合に絡むことが少なくなってしまったのが残念でした。ビルドアップ時にボールを持って運べる貴重なSBですが,攻撃時のクロスの精度等が課題かなと思います(ガンバはSBの選手のアシストがリーグ戦では今シーズンはゼロなので,黒川選手だけではないと思いますが)。

他には,アンダー世代の日本代表にも入ってる中村仁朗選手にも期待しています。

新クラブコンセプト

ガンバ大阪は30周年を迎えて新しいクラブのコンセプトを打ち出しました。

ロゴ,エンブレムを刷新して,サッカーファンだけでなく,より広い層に愛されるクラブを目指していることが伺えます。これはかなり大きな変化で,グッズもより普段遣いを意識したスタイリッシュなものがいくつか発売されています。私もいくつか注文したので,今から届くのが楽しみですね。

最後に

シーズンも終わり,選手の退団・加入の報道が出てくる時期になりました。私としては,小野選手の退団が残念でした。ガンバ大阪には少ない気持ちを全面に出して戦う選手で,ファンの心を掴んでいたと思います。怪我が多くなかなか試合に貢献できていなかったことが原因なのかもしれませんが,それでも小野選手のプレーにはいつも心を動かされました。ガンバに来てくれてありがとうございました。

2021シーズンは,リーグ戦の有観客試合でのホーム戦勝利がなんと3試合がなかったことに加え,得点数もリーグワースト3位の33点。2022シーズンは,もっと多くのゴール,そして勝利を期待したいと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

失敗に寛容な社会

はじめに

学内の広報誌に原稿を書きました。字数の制限があったので,結構削って以下のツイートで言及していただいているような文章になりました。

記事執筆の構想は,主にツイッターにいくつかつぶやいたことがもとになっています。

迷惑と寛容さ

政治的なことと社会の「雰囲気」

初稿

削る前の初稿は以下のとおりです。

私の専門は第二言語習得と言われる分野です。人間は,障害があるなどの場合を除いて第一言語の獲得に失敗することはありません。この文章を読んでいる方も,私の書いた日本語の文章を理解することにほとんど苦労することはないと思います。しかしながら,第一言語を身につけたあとに学習する第二言語(日本で生まれ育つ多くの人にとってはおそらく英語)の学習は,私達が日本語を身につけたように英語を身につけた人たちのようにはなかなかなりません。そして,なかなか身につかない英語に対して苦手意識をもったり,英語を使うときに間違うことを恐れるようになったりします。しかしながら,どのような言語を身につける赤ん坊や幼児であっても,言語を身につける過程で誤りを犯します。誤りを犯しながら,ときにはそれを周りの大人から(優しく)修正されながら(大人は修正しているという意識すらないこともあるでしょう),ときには自然と,言語の知識を身に着けていくのです。そのことに対して,間違ってはいけないと厳しく叱りつけたりする大人はいないはずです。言語の習得,もっと言えば広く学習とは誤りを犯しながらも知識を拡張していく営みだからです。
翻って,学校で英語を学んだ(多くの)人達は,子どものように間違いを犯せなくなります。間違ったら恥ずかしい,間違ったら怒られるという意識が出てきてしまうからです。考えてみると,間違うこと,失敗することに対する否定的な考え方はなにも英語に限らず,社会のあらゆる場面にはびこっているような気がします。学生の皆さんでいえば大学受験に失敗すること,就活に失敗することは避けたほうがいいことだと思う人が多いでしょうしょう。大学を卒業してからも,就職してすぐ会社を辞めることを否定的に思う人が多いと感じる人が(実際に否定的な考えのヒトが多いかはともかく)多いでしょうし,結婚をして,その後離婚をすることになった人についてもネガティブなイメージがつきがちです(本当は我慢して婚姻関係を継続している人より「バツ」のついた人のほうが幸せかもしれないのに)。
人間は,失敗して,そこから学び,そして成長していくものですし,人生とはそういうものだと思います。それなのに,社会は周りと同じペースで同じステージに進まなかった人に対してあまりにも否定的すぎると思います(結婚はまだか,子どもは作らないのか,みたいな発言も,言っている人は善意だったり相手を心配しているのかもしれませんが,そもそも「世間一般」と違うことを心配するんじゃあないよと)。私が死ぬまでには,もう少し失敗すること,そこから学びを経て前に進もうとする人に優しい社会であってほしいと願っています。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

教育と研究と学問と

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はじめに

以前,「なんでゼミやるの?」というブログ記事を書きました。それに関連するような話かなと思います。もしかすると,どこかに以下に書くようなことと同じような意見が書いてあるかもしれません。それを私が昔に見たことがあって,そのことが自分の思考を形作っているのかもしれません。ただ,一応自分の頭で今考えた(と思っている)ことを,今の自分の言葉で書きます。

最近,学部のこれからをどうするのかみたいな話が会議の話題にあって,それ以降ぼんやりと考えていたことを書こうと思います。自分の中で結論が出ていたりするわけではないのですが,書くことで考えをまとめようというような意図で書き始めています。話が大学教育というような大きな語り口になっていますが,基本的には私の所属先のことを念頭において書いています。

教育と研究は別?

よく,「研究大学」というような言葉である特定の大学を指すことがあります。国内の大学の中でも研究をリードしていく大学というような意味合いで使われると思います。じゃあそういう大学は教育はやっていないのかというとそういうことではなく,そうした大学でも教育は行われているはずです。一方で,私の所属先は人によってどういう形容をするかは変わるでしょうし大学を偏差値的な意味でランク付けする発想も好きではないですが,二流私立大学とか中堅私立大学とか言われるようなところだと思います(有名私大という呼び方もあるかもしれませんね)。で,そういうところでは研究だけやってればいいわけじゃなくて,教育もしないといけないみたいなことが話として出てくると,そういうことなのかな?と思ってしまいます。ここでは教育というのを授業(または授業の体系としてのカリキュラム)として考えています。そうしたときに,授業っていうのは研究に基づいているものなのではないのかなと思うわけです。

教育というのを学生目線で「社会」に出て役に立つようなものとか,就職に役に立つようなものとかっていうふうに考えてしまうと,それは大学の,そして大学教員の価値や立場を自ら貶めるようなことにつながってしまうのではないかということを少し危惧しています。私たち大学教員がやるべきことは,というか私の所属学部の教員のような人文系の研究者がやるべきことは,自分たちが授業で扱うことがどうやって社会人になったときに役に立つかを語ることではなく,私たちの学問はこんなに面白いし,学問に真摯に向き合うことそれ自体に意味がある,そしてそのことは君たちの今後の人生を豊かにする,ということではないでしょうか。

就職も大事だけど

学部,ひいては大学としては,卒業していく学生たちが「社会」で活躍することを対外的に示したいというのは現実的な話として理解できます。そして,それがいわゆる就職率だとか,就職先の企業名だとかいうものにわかりやすく現れるのだということも理解できます。そして,大学についての評価を下す側の人たち,そして大学を選ぶ側の人たちも,それを一つの判断材料にしているという現実も大いにあるでしょうし,そこを一切無視していては大学の運営は成り立たないでしょう。しかしそれはあくまで「建前」的なものであるということを教員が思っていなければ,入ってくる学生も,そして在籍している学生も,それが大学に求められることであるという態度でカリキュラムをこなすのではないでしょうか。

「就職」というものをゴールとして設定することは,その先の学生の人生については君たち次第だという突き放した態度のようにも思います。今は,最初に就職した先でずっと退職まで働き続けるような時代でもありません。最初に就職した先が名の知れた「良い」企業であればその後の人生の幸せが保証されるわけでもなければ,就職が決まった時点ではその学生が満足していたとしても実際に働いてみたら全然幸せではなかったということだって当然のようにあるはずです。

また,就職がうまくいかなければ「失敗である」というメッセージを暗に学生に伝えてしまうことになるような気もしています。私は,それはあまり好ましいことであるとは思いません。それは,ある意味では先の見えない不安な状況に学生を追い込むような面もあるかもしれません。そして,そのことは一見すると学生に意地悪をしているように見えるかもしれません。

しかしながら,私たち大学教員が伝えなくてはいけないのは,「そうじゃないんだよ」ということです。そういう不安な状況とか,先の見えない不安とか,あるいはある意味での人生の挫折を味わうような状況になってしまったときに,そこで自分で考え,決断をし,そして勇気を持って自分の人生を切り開いていけるようになってほしいということではないでしょうか。

長い目で見たい

大事なことはもっと長いスパンでの学生の人生の幸福です。大学で学ぶことというのは,そういう人生の財産となるべきものではないでしょうか。というよりも,教育というのはそうした営みのことではないでしょうか。どのような学校種であったとしても,出口のすぐ先の未来だけを見据えるのではなく,その後に続く長い人生のことを見据え,そして願わくばそこを見つめさせることができるような場所が教育の場であってほしいと思います。理想論だという一言でこのことを片付けてしまうのは簡単ですが,それでもそうした理念的なことを大真面目に語ることが教育者としての役割だというようにも思っています。

それをやめてしまったら,「社会」から要請されるままの,そして「政治」から要請されるままの機関になってしまうような気がします。それは本当に大学のあるべき姿なのかというと,私としてはそうでないと言いたいです。

外国語学部ならではの問題

はじめに言及したブログの過去記事の中でも書きましたが,私の所属する外国語学部という組織自体が,文学部との差別化という側面も(おそらく)あって,いわゆる実学的な側面を組織のアイデンティティとして持っているという点は無視できないと思います。

5つあるプログラムの中で「通訳・翻訳プログラム」が最も人気があるのは,学生にとっても役に立ちそうな感じであるとか,それが自分のキャリアに直結するというイメージがしやすいことが要因ではないかと思います。ただし,そのことは通訳・翻訳のプログラムがただただ通訳や翻訳のトレーニングであるということではないはずです。あくまで大学で開講される授業であり,通訳も翻訳も研究があるわけです。担当する教員もそうした研究に基づいて授業をそしてプログラムとしてのカリキュラムを作り上げているはずです。

言語教育プログラムも達人技とか現場で役立つスキルだけを授けるわけではないでしょう。言語を教えるには言語そのものの知識も必要ですし,言語の学習に対する理解も必要です。そしてこれらのことも研究に基づいた蓄積があるわけです。それらをすべて理解させ身につけさせなければいけないとは言いません。しかしながら,ただただ外国語の運用能力があがればそれで「外国語のプロフェッショナル」だなんていう考えをぶち壊し,上っ面だけの異文化理解とかではない学問の世界を学生に見せつけることが外国語学部の教員の使命であるように思います。

4年間全力で学業に励んでもまだまだこんなにも知らないことがあり,そのことを胸に卒業後も学び続けられる学生を私は送り出したいです。そして,学び足りないと思ったらいつでも研究科に「戻って」学べるんだよということを伝えたいです。学びたいという欲求を全力で受け止める環境を私たちは用意していますよと。もちろん,うちの研究科でなくてもどこでもいいですし,学ぶ続ける場所が研究科(大学院)である必要もありません。どこかの学部に入り直したっていいでしょうし,海外の大学に行くことだってアリだと思います。

おわりに

本当は,私の所属先の看板である留学プログラムについても書こうと思ったのですが,それはそれでまた長くなりそうなので,またそれについて考えがある程度まとまったら別の記事で書こうと思います。かといってこの記事がまとまっているのかというとまだまだ消化不良な部分もありますが,今の私の考えとしてここに記録として残しておきたいと思います。5年後,10年後に(どこで何やってるか,生きてるかはわかりませんが),もしこの記事を私が見直したらどんなふうに思うのか,若かったなぁあの頃は思うのか,それを楽しみにしたいと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

2021.10.18 訂正

通訳・翻訳プログラムが最も人気のあると書きましたが,実際には最も人気があるのが異文化コミュニケーションプログラムでした。お詫びして訂正します。

11/6に連続公開講座「データサイエンス時代の言語教育」(2)で講演します

2021年11月6日土曜日に,名古屋大学大学院人文学研究科英語教育分野主催の連続公開講座『データサイエンス時代の英語教育』(2)で『一般化線形混合モデルの実践 — 気をつけたい三つのポイント』というタイトルの講演をします。

名古屋大学大学院人文学研究科は私が所属していた研究科ではありませんが,大学院の再編があり私がお世話になった先生方が所属している研究科であり,私の後輩にあたる院生も人文学研究科に所属しています。そういう縁もあってお話をいただきました。私が統計の話をするというのはかなりハードルが高い(統計の専門家ではないですし知識と技術に自信があるわけでも正直ない)と思ったのですが,こういう機会をいただくことでまた自分の知識を更新し,さらにレベルアップする機会にもなると思ったので,お引き受けすることにしました。

フライヤーに要旨も載っていますが,私が名古屋大学大学院国際開発研究科博士後期課程に進学した2014年にNagoya.Rというイベントで『一般化線形混合モデル入門の入門』というタイトルで発表をしました。

ちょうど2012年に下記のレビュー論文が出ていて,それをもとにRでどうやってやるかというのをただただ紹介したみたいな感じでした。

Cunnings, I. (2012). An overview of mixed-effects statistical models for second language researchers. Second Language Research, 28(3), 369–382. https://doi.org/10.1177/0267658312443651

一般化線形混合モデルという発表タイトルでしたが,実際は一般化ではなく線形混合モデルのやり方で,私はその後の院生生活で,反応時間を扱う研究ではガンマ分布や逆正規分布,容認性判断のような二値データを扱うデータでは二項分布を使った一般化線形混合モデルを扱うようになっていきました。

7年前はそこまでウェブ上でも特に日本語では資料が多くなかったこともあり,分野を問わず上記のスライドシェアの資料は結構閲覧されていて,D2で学振の申請書を書いたときには「Googleで一般化線形混合モデルというキーワードで検索すると上に来るのは私の資料です」みたいなことを書いたこともありました(笑)

2016年にはおもにロジスティック回帰に焦点をあてたテクニカルレポートを書きました。

田村祐(2016)「外国語教育研究における二値データの分析-ロジスティック回帰を例に-」『外国語教育メディア学会中部支部外国語教育基礎研究部会2015年度報告論集』29–82. [リンク]

そして,このテクニカルレポートで書いた内容をもとにして2019年には統計のワークショップ講師をしたこともありました。

https://github.com/tam07pb915/JACET-SIG_GLMM-Workshop

そういった流れのなかで,一般化線形混合モデルのレビュー論文のようなものもいくつか新しく出版されているので,そうしたものをまとめた内容にしようと思っています。今回はワークショップではなく「講演」なので,ハンズオンで実際に分析ができるようになるということを目指すわけではなく,(1) 分析の方法,(2) 分析結果の報告,(3) 再現性の確保,という3つの観点から一般化線形混合モデルという分析の手法について話すつもりです。(3)の再現性については,昨今の再現可能性という問題を意識してのものであり,特にこの分析手法だけに当てはまるものではありません。ただ,自分が特に強い関心を持っているのであえて今回の話に盛り込むことにしました。特に,国内の学会紀要などはこういったデータ・マテリアルの公開・共有に関してガイドラインの設定がされていません。このことは今後の研究の発展を大きく阻害すると思いますので,そういったメッセージも入っています(資料はまだアウトライン程度しかできていませんが)。

資料ができたらこの記事の最後に資料へのリンクを追記する予定です。

参加申込は下記のURLから可能で,申込みの締め切りというのは特に設けられていないということです。

https://forms.gle/Ez4GmQC2JpS4j2R49

興味のある方はぜひご参加ください。よろしくお願いします。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。


2021.11.07 追記

当日の資料です。

10/30に関西大学外国語教育学会秋季研究会で講演します

http://kufler-s.jp/?action=common_download_main&upload_id=168

下記の要領で,所属に関係する研究会でオンラインの講演をすることになりました。

関西大学外国語教育学会秋季研究会 2021

■日       時           2021 年 10 月 30 日(土) 13:00~15:50

■会       場           オンライン(Zoom)

■参加費              会員・非会員(無料)

■内       容

12:30~ 受付開始

13:00 開会式

13:10~14:00       タスク・ベースの言語指導とはなにか、どうやって実践するか(理論編)

14:00~14:10       休憩

14:10~15:30       タスク・ベースの言語指導とはなにか、どうやって実践するか(実践編)

15:30~15:40       質疑応答

15:40~ 閉会の挨拶

タスク関係では過去にも何回かセミナーだったりワークショップだったりというのをやったことがありますが,講演という形で単独でやるのは初めてなので今から割と緊張しています。依頼があったときに理論と実践両方ということだったので,その両方をやることになり,結構長めのイベントになっています。実践編の方はワークショップ形式でやるつもりです(自分はあまりワークショップ形式が得意な方ではないですがワークショップ的なことをやってほしいという依頼で受けたのでやります)。要旨は以下のとおりです。

本講演は,タスク・ベースの言語指導(Task-based LanguageTeaching, TBLT)について,それがどういった考え方に基づいているかを理解する理論編と,その理解に基づいて実際の授業を構想する実践編から構成されます。後半の実践編では,まずタスクを活用するという観点から,(a)教科書に掲載されている活動をアレンジしてタスクにする,(b)教室で実際にタスクを使う際に教師に求められるであろうスキルを考える,という 2 つを参加者の方と一緒に考えていきたいと思います。

申し込みは下記のURLから可能で,期間は,2021 年 9 月 30 日(木)10:00~10 月 29 日(金)17:00となっています。

https://forms.gle/M1HCjVa4Az91WFzD6

ご興味のある方はぜひご参加ください。資料も後日このページからアクセスできるようにするつもりです。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。


2021.11.01 追記

当日使用した投影資料をspeakerdeckで公開しました。

『外国語学習での暗示的・明示的知識の役割とはなにか』を読みました

Photo by Vanessa Garcia on Pexels.com

はじめに

大修館書店から発売されている,下記の書籍についての記事です。

まず一言でこの本の感想を言うと,多くの人にこの本は「そのまま」読まれるべきではないと感じました。したがって,忖度なしで書きます。

また,以下の記事では私が読んで考えたことに加え,私を含めた4名の研究者で行ったこの本の読書会で話題にあがったことも含めます。読書会で議論になったことは,その都度そのように言及しますので,そうでない限りは私の主張であると考えてもらって構いません。

ちなみに,私は過去にこの本で取り上げられている暗示的・明示的知識(英語ならimplicit/explicitだと思いますけど日本語だと明示的・暗示的という人のほうが多いような)についていくつか記事を書いています。

どれも院生時代の記事ですが,私のスタンスというか立場,見方はこれらの記事に現れていると思いますのでぜひお読みください。また,本記事の以下の内容は,自己批判を多く含んでいます。それは,私が初めて「論文」というものを発表した時期にやっていた研究(2014-2015あたり)は明示的知識や暗示的知識といったものを対象としていて,測定や構成概念に対する認識の点であまりにもナイーブすぎたと思っているからです。

初学者には非推奨

もしも,「暗示的・明示的知識ってなんだろう?」とか,帯に書いてあるような「規則を知っていても使えないのはなぜ?」という疑問を持っている人がこの本を読もうとしているのを見かけたら,私は止めたほうがいいとアドバイスすると思います。なぜなら,そういった疑問は解決されるどころか余計に頭の中がこんがらがってしまうからです(理由は後述)。

そういった意味で,この本は批判的に検討できる者のみが読むべきだと思います。初学者が読むと余計にわけわからなくなってしまって悩んでしまうか,または逆に誤った知識を身につけてしまう可能性すらあるかもしれません。よって,学部や大学院生レベル,または研究職に従事しない方が手に取るべき本だとはあまり思えません。

なにがこの本の価値を下げているか

この本に対して私が否定的な印象をいだく理由を端的に言えば,この本は「だからだめだよSLA」の典型例だと思うからです。帯に「第二言語習得研究×認知心理学×脳科学」というように,この本に書かれていることがいかにも「科学的である」ような装いがありますし,真理・真実が明らかになっているかのような書き方がされている部分もあります。しかしながら,実際には曖昧性を多分に含んでいて,その最たるものは明示的知識とはなにか,暗示的知識とはなにかについて執筆者全員の定義が一致しておらず,その測定方法も違うからです。このことについては後述します。

つい先日,

第二言語習得研究(者)はなぜ「誤解」されたか

という記事を書きましたが,この記事で批判したことのいくらかも当てはまっている本ではないかと思います。

さて,本題です。本の中で気になるポイントを一つ一つ指摘していくときりがないくらいたくさんありますが,以下ではいくつかの論点にしぼって書きます。

論点1: 全体を統一する視点に欠ける

この本が全体を通して非常に残念な仕上がりになってしまったと感じる最も大きな理由は,各章の独立した論考をまとめて統一感をもたせる構成になっていないことでしょう。「はじめに」と「終章」はありましたが,本の意義のアピールが多く,全体を俯瞰的にまとめきれていたようには感じませんでした。このことは,何もこの本に限ったことではないと思います。他の分野の本がどうかはよくわかりませんが,私がこれまでに自分の研究に関わる専門書をそれなりの数読んできた印象は,多くの執筆者が各章に独立した論考を書いているパターンの書籍は質があまり高くないことが多いというものです(特に洋書)。一冊の中で扱われるトピックに多様性をもたせようとした結果,一冊の本のまとまりを欠いてしまうというのはしばしば見かけます。この本もそういう系統だというのが私の印象で,それだけであればそういう本のうちのone of themだということでスルーしていたかもしれません。

ただし,この本のテーマは一つの「概念」(明示的・暗示的を別個にカウントすれば2つ)です。暗示的・明示的知識という目に見えない概念を扱っています。それがこの本の各章に通底するテーマであるわけです。だからこそ,編者はこの本で言う「暗示的・明示的知識」が指すものを冒頭で(操作的定義も含めて)定義するべきであり,その定義に沿って各章の執筆者に執筆を依頼するか,または原稿を受け取った時点で章の間の記述の齟齬を解消するような修正作業を行うべきだったと思います。この点は読書会に参加した全員が同じような印象でした。

そういう調整がなされていないのは,すべての章で著者が独自に概念的・操作的定義を述べていることからも明らかです。結果として,第3章では暗示的知識の測定具として適切ではないと言われていた文法性判断課題が第5章や第6章では暗示的知識の測定具だとして論じられています。

百歩譲って,それが不可能である,つまり,暗示的・明示的知識を定義することは不可能であるという態度でこの本を世に送り出すのであれば,そのことを正直に書くべきでした。私がもしもこの本の編者に入っていたらそうすると思います(終章の151ページに測定具の問題への言及はありますが,全部読み終わって最後にそれ言われると詐欺っぽいので本来であれば先に言及するべきで,その意味では終章を読んでから各章を読むほうが良いでしょう)。なぜなら,この記事を執筆している2021年現在でも,研究者間ですら,暗示的知識と明示的知識がどのような測定具を用いて測定されるものであるかについての合意には至っていないからです。例えば,以下の論文は第3章(第二言語環境で日本語の文法知識はどのように発達していくかー文法項目の特徴と学習者の個人差の影響)で提示されるような明示的・暗示的知識の測定方法の分類とは異なり,時間制限つきの文法性判断課題なども暗示的知識の測定具としています(よってどちらかというとRod Ellisの分類に近い)。

Godfroid, A., & Kim, K. (2021). THE CONTRIBUTIONS OF IMPLICIT-STATISTICAL LEARNING APTITUDE TO IMPLICIT SECOND-LANGUAGE KNOWLEDGE. Studies in Second Language Acquisition, 43(3), 606-634. doi:10.1017/S0272263121000085

最新の研究ですらそういった状態なわけですから,そもそも明示的知識とはなんなのか,暗示的知識とはなんなのか,そしてそういった2種類の知識をどうやって測定仕分けるのか(より大きな問題は,そういう知識2つの実在を仮定して良いかどうか)ということについては科学的な真実があると言える状態でも,その確信度が高いと言えるような状態でもないというのが現状というのが,この文法知識の二元性というトピックを研究を初めたときから追いかけている(とはいっても研究のキャリアは修士をスタートとしてまだ10年ほどですが)私の現状認識です。

にもかかわらず,この本の「はじめに」では,次のような記述があります。

(前略)明示的知識と暗示的知識の区別はSLAの中心的課題であるが,同時に,問題もいくつか抱えている。たとえば,日本人の英語習得を扱った研究が少ないこと,研究対象が文法習得に限られていること,個人差や情意に関する研究がほとんどないこと,近接領域(たとえば,認知心理学や脳科学)の最新の手法を取り入れた研究が少ないこと,などである。本書の目的は,これらの問題点を網羅し,科学的証明を行うことにある。

はじめに iv

このパラグラフだけでツッコミどころはたくさんあって,なぜ日本人の英語習得を扱った研究が少ないとそれがSLAの問題となるのか,とか近接領域の最新の手法を取り入れていないとSLAの何がどう良くない状態になるのか,とか色々思うところはあります。また,たかだが本一冊で解決できる問題ではないだろうとも思いますが,それはおいておきます。それよりも私が驚いたのは,「科学的証明を行う」という記述です。「科学的証明」という言い方は私は人文科学の中では非常に強い主張だと思います。しかし残念ながら,「科学的証明」には失敗していると思います。全員が同じ概念なり現象なりを同じ方法で測定するというのは科学の最も基本的かつ重要な部分であると思いますが,それが成立していないからです。

一方で,1万歩くらい譲ってもう一度この本のタイトルを思い出してください。そうなんです。この本のタイトルは,『外国語学習での暗示的・明示的知識の役割とはなにか』であって,「暗示的・明示的知識とはなにか」ではありません。よって,この本は暗示的・明示的知識とはなんなのかの答えを与えるものではないのですと言われたら,まあそういう解釈もありえますよね,とは思います。ただ,そういう政治家みたいなことばの使い方は読者に対して不誠実だと思います。そしてそのことは,本の中で一切語られていないからこそ罪が重いです。本の冒頭または最後で暗示的・明示的知識というのは非常にcontroversialなトピックである,ということが明示的に書いてあり,その整理をある程度の紙幅を割いて試みた上で(この役割が第2章だったのかもしれませんが)の各章の内容であれば,私のこの本に対する評価は変わっていたと思います。

論点2: 用語・定義がカオス

知識,処理,意識

論点1と関連しますが,まずもってこの本は各章でそれぞれの著者がそれぞれの概念的定義で暗示的・明示的知識という用語を使っています。また,類似する概念である宣言的知識(declarative knowledge),手続き的知識(procedural knowledge)であったり,「手続き化」(procedualization),「自動化」(automatization)といった用語も含めて,それが何を指すのかも章ごとにばらつきがあります。また,「意図的」(intentional)という用語が「意識的」(conscious)という用語と同じような意味で使われているのではと思う箇所(pp.52-53あたり)もありました(意識という用語関連の整理については福田(2018)がわかりやすいです)。

例えば,第4章では語彙の知識という観点から暗示的・明示的知識についての議論がされています。p.58に 「手続き的知識の習得を促す…」とありますが,ここまでの流れで読むと「手続き的知識=暗示的知識」と読めると思います。つまり,暗示的知識=手続き的知識であり,この2つはinterchangableであるという使い方になってると解釈できると思います。しかしながら,これは第2章2.3節の「明示的・暗示的知識と宣言的・手続き的知識の関係」の内容や第9章の「第二言語習得研究で言うところの暗示的・明示的知識の区分と,脳科学で言うところの手続き・宣言的記憶の説明に多少ずれがある」(p.137)という記述と矛盾することになるのではないかと思います。

こうした用語が意味するもののズレが生じてしまう大きな原因として,「知識」(つまり脳内に保存されている情報)と「処理」(保存されている情報へのアクセス)を分けて議論できていないことが大きな問題(これはSLA全体に言える問題)なのではないかという話も読書会でありました。そして,「処理の話」と「意識の話」を切り分けることも重要です。

SLAでは,暗示的知識というのは母語話者が言語使用に用いるものであるという理解があります。言語学者でなければ,ほとんどの人間は自分の持っている言語の知識について意識することもありませんし,その情報へのアクセスを意識的にすることもないわけです。そして,第二言語学習者と比較して圧倒的な速さで言語の処理ができます。このことから,暗示的知識の概念的定義に速いことと無意識であることが含まれるようになりました。この章(第4章)のpp.53-54の最後の段落の記述を見ると,「学習者はjunctionの意味的表象に素早くアクセスする能力を有しているとみなすことができるだろう」とあります。こういう部分に,速い=無意識,という前提があることが現れています。「処理の話と意識の話」が混ざってしまっているわけです。つまり,持っている知識に対して,そのことを意識しているかどうか(自分がその知識を有していることを自分が認識しているかどうか)と,その知識にどれくらいのスピードでアクセスできるのかどうかということを分けて議論できていないように感じました。Tamura et al. (2016)で主張したように,スピードが早い=無意識,スピードが遅い=意識という単純な関係ではありません。

小学生の暗示的知識?

話をまた「はじめに」に戻します。この本の最初のページはこのように書いてあります。

(前略)たとえば,多くの小学6年生は,英語の疑問文における倒置の規則を知らないのにもかかわらず,英会話で”What color do you like?”, “What would you like?”, “Do you like soccer?”と正しく発話することができる。(中略)また,明示的知識はないが暗示的知識があると考えられるため,小学生が正しく英語を使うことができるということになる。

はじめに iii

端的に言いましょう。小学生が疑問文生成に必要な倒置の規則の暗示的知識を持っているわけありません。これはただの模倣です。仮に知識として持っているとすれば,Do you like X?で「Xが好きですか」という意味をなすというくらいのものでしょう。

こういうのを読むと,言語を「使う」の意味も多義的でコミュニケーションを難しくしているなと思います。これと同じような意味で,第6章のp.83には 「小学校英語教育の第一義的な目標は英語表現を使えるようになること(強調は筆者)」とあります。もしも小学生が暗示的知識を持っていて英語が使えるのであれば,第2章の「『使える』文法知識」について考えなくてもいいんじゃないでしょうか,となります。だって小学生でもう暗示的知識あるのですから。たしかに,小学生の言語習得はその他の章の議論と噛み合いません。なぜなら,2章では前提として多くの学習者がたどるプロセスとして「知る」->「使える」のようになっているからです。そうであれば,そうしたケースと比較して小学生がどういった学習のプロセスをたどるのか,どういった文法知識を持っているのかは議論すべきポイントです。

そしてp.84を読むわけですが,そこに書かれている内容は首をかしげるものでした。そもそもこの著者の言っている「文法知識」なるものは他の著者の言っている文法知識と指しているものが異なるように感じました。例えば,What X do you like?のX部分を様々に入れ替えて質問ができる,質問の内容を理解して答えることができる,といったとき,この小学生はいったいどのような文法の知識を持っているということになるのでしょうか。Wh句が前置されて疑問文が生成されるという知識?do挿入の知識?Xの要素を引き連れてwhを前に移動させるという知識?そうではなく,似た構造のインプットをたくさんうけることによって,構造的な類似性をヒントに構文を構築していくというような用法基盤モデルのような考え方を採用しているのであれば,そういった説明が必要でしょう。

論点3: 言語・テストが良くない

これは特に第5, 第6章の内容に関連するものですが,知識測定の道具として使用される刺激文の質が悪く,これでは測定したい知識が測れているかどうかも怪しいと思いました。

読書会で挙げられたことを1つ出せば,81ページにある刺激文の一覧をみると,

  • 正文: I have a cat.
  • 誤文: *I like animal.

となっていて,この項目で測定したいのは「名詞の単数形・複数形」となっています。正しくはI like animals.と複数形形態素がついていないといけないということでしょう。問題は2つあります。まず,このときの複数形形態素が欠如していることというのは,*I have two car.のような誤りとは訳が違います。なぜなら,後者の文であれば,「名詞が表すモノが複数なら-sをつける」という知識があれば対応できるでしょうが,I like animalに-sをつけるというのは,「種類を表す場合は裸の名詞の複数形(bare plurals)である」という知識が求められるからです。これは,単に複数=-sの知識とは言えません(名詞周りの知識ではあるのでそれも含めて複数形の知識という点で誤りではないですが,それでも対になってるとは言い難いと思います)。catは具体物を表しますが,animalは動物というカテゴリの名詞ですから,そういう意味でもこの2つは対になっているとは言えません。

2つ目の問題は,「名詞の単数形」が正文であり,「名詞の複数形」が誤文になっていることです。本来であれば,名詞の単数形について正文と誤文をつくり,名詞の複数形について正文と誤文をつくるべきでしょう。この章では文法性判断課題の正文への反応は「暗示的知識」を測っていて,誤文への反応は「明示的知識」という立場をとっています。そうなると,「単数形の知識」は暗示的知識しか測っていないし,「複数形の知識」は明示的知識しか測っていないことになります。

第6章でもこうした問題が散見されます。例えば,pp.88-89では動詞フレーズの獲得状況についての調査をした浦田他(2014)という研究が紹介されています。p.89の表1をみると,*I can play piano.という英文があります。これ以外の誤文はすべてcanの後ろに動詞がない(*I can soccer),動詞とcanの語順が異なる(I play can kendama.)など,canと動詞に焦点が当てられているものの,play pianoは「playの後ろに楽器が来る場合はtheがくる」という知識です。それって全然違うことなのでは?というのが読書会でも話題になりました。元論文を読むとTomaselloが引用されていたりして,用法基盤モデルの考え方を採用しているのだなと思いながら読めば,can VPみたいなものを見ているのかなとか思ったりもしました(それでもこの章の説明だけでは違和感を覚える人は少なくないはず)。4.2節の物井他(2015)も,正答率の低かった問題について「最初に,問題2については,rhinocerosesという児童に聞き慣れない語がふくまれていたことが原因である」と書いていて,文法性判断課題で未知語が含まれていたらその影響が出るのは当然で,そうなると語順の知識は測定できないのではと思います。元論文を読むと,以下のような記述があります。

rhinoceroses(サイ)という児童に馴染みのない単語を挿入しており,未知の単語と遭遇した場合に,その意味を推測しながら文の正誤を判断できるかを確認する意図があった。(p.88)

物井尚子・矢部やよい・折原俊一(2015)『外国語活動を経験した児童の語順に関する理解度調査 ―SVOに焦点をあてて―』千葉大学教育学部紀要, 63, 85-94.

ちなみに,このことが書いてあるのは結果部分の88ページであり,テスト作成部分には,未知語が入っているという説明は出てこず,次のように書いてあるのみです。

使用する単語についてであるが,Sは1・2人称に限定しI,youのみ, Vは外国語活動で使用頻度が高いと考えられるhave, eat,play,likeの4動詞,Oに用いる名詞はapples, baseball,lunch,pen,soccer,tennisに上位語のcolor,sportの8語,句動詞としてgo to school,get upの2種, 時間を表す前置詞を含む表現としてat six,at eightを用いた。(p.87)

物井尚子・矢部やよい・折原俊一(2015)『外国語活動を経験した児童の語順に関する理解度調査 ―SVOに焦点をあてて―』千葉大学教育学部紀要, 63, 85-94.

私の感覚からすると,テスト作成の段階の記述と言ってることが違うというのはありえないです。これはまあ本の批判ではないんですが。

第5, 第6章で紹介されている研究すべてに当てはまる指摘ですが,テストに使われる刺激文だけではなく,そもそも問題数が少なすぎるという問題もあります。小中学生に大量の項目のテストを行うことの実行可能性などを考慮すれば,問題数を増やすことが難しい事情は理解できます。しかしながら,文法性判断課題とはテストである以上,なにかを測定するためには測ろうとする文法のターゲットについて1つや2つの項目だけでは学習者が安定して判定を行えているのかどうかを判断することはかなり難しいといえます。ましてや二択の問題であるからなおさらです。「文法知識」というからには,1つの事例にだけ適用ができるものではなく,複数の事例に適用可能な規則であるはずです。そういうものを測ろうとするのであれば,1つや2つの項目に正しい回答をしただけでは,単に「それとほとんど同じ文を聞いたこと(見たこと)があった」という記憶だけでも正答にたどり着く可能性も十分にあります。また,5, 6章で出てくる「正答率」とは,1人の学習者の正答率ではなく,参加者全体の中で正答した学習者の割合であることも注意が必要でしょう。つまり,ここでは学習者個人ではなく,集団の問題となっているということです。

このことは,結果の解釈とも関わります。第5章の結果の考察については,そもそも二択の問題で5割を切っている部分の「伸び」になにか有益なものがあるようにはあまり思えません。さらに言えば学習者個人ではなく集団の話であるわけで,正答できる学習者の人数が増えた事をもって,学習が進んだというように解釈するのは少し違和感があります。

第6章でも同様に,

全体の正答率は5年生が44.5%,6年生は51.6%で,6年生のほうが高く,この差は統計的に有意であった。つまり,物井らの研究と同様,5年生よりも6年生のほうが全体として暗示的知識をより多く持っていることが明らかになった」(p.95)

とあります。ところが,p.89では,

GJTの分析では,正答率をチャンスレベル(当て推量で解答した際に期待される確率)と比較する場合が多い。GJTは提示された文が文法的かどうかを判断する二者択一のテストであるため,チャンスレベルは50%,(中略)したがって,GJTはでは正答率が50%よりも高いかどうかが重要である

という旨の記述があるのです。こういうことを書いておきながら,50%を下回っている正答率や50%をわずかに上回る程度の正答率に対して,「知識がある」という判定を下している。これはあきらかに矛盾していないでしょうか。全体の結果から「GJTで語順の正答率が5年生でも高い(特に正文)ことから,5年生でも語順に関する暗示的知識は身についている児童は多いことがわかる」(p.96)という結論も同意できません。カッコ内の「特に正文」という部分が絶妙に不誠実だと思いました。なぜなら,p.95の表2を見れば,非文とされている(10)過去形, (2)be動詞, (4)語順, (6)can, (8)want toの5項目の5年生の正答率をみると,語順の正答率はたったの32.1%しかないからです。これは他の非文の正答率25.6%~48.8%と比較しても高くない上に,50%を大幅に下回っています。そして正答率が「高い」と解釈されている正文反応の方を見ても,2択で答えられる問題(しかもたったの1回の反応)で,66.1%の学習者が正解したことをもって,暗示的知識は身についている児童は多いと結論づけるのはあまりにもナイーブすぎないでしょうか。言語の暗示的知識をもつ母語話者は正文を正文と判断することも,非文を非文だと判断することも暗示的知識を使ってやっていると思います。よって,本文に明示的に書かれてはいませんが,もし仮にGutiérrez (2013)をもってきて,非文への反応は暗示的知識なので,明示的知識は持っていないが暗示的知識はあると考える,というように言われてもちょっと納得がいきません。

場外戦: そもそも明示・暗示は厳密には教育には役に立たない

終章の3節「教育的な示唆」には,明示的・暗示的知識の測定が教育・指導上役に立つとして以下の3点が挙げられています。

  1. 暗示的知識は学習者が気づかない(意識できない)知識であるが,この暗示的知識の習得こそが学習上のゴールであると考える教員や研究者が多いため,暗示的知識が測定可能になったことは重要
  2. 明示的・暗示的知識の測定方法が確立してきた事によって,教育場面でも応用可能
  3. 明示的・暗示的知識の習得プロセスにおける諸要因の役割がわかりつつあるため,教師がフォーカスすべきところが明確になってきた。

まず1について。そもそも,今のSLAで仮定される暗示的知識というものが実際に人間の頭の中に実在すると仮定して,心理学的な考え方でそれを測定することができるという意味でいうと,「測定可能」になっていると言い切れるほどではないと思います。まだまだ不確実なことが多い状況で,あまり確定的な記述をすることは逆に教育現場に誤った理解を広めたり,そのことが教育現場に余計な軋轢を生んでしまうかもしれない可能性を危惧しています。

暗示的知識の習得プロセスを学習者に示す事ができるということの例として第8章が言及されていますが,この章で紹介されている単語学習は,まず単語を見せて訳語を思い出してもらい,その上で正解を見て到達度を「良い」「もう少し」「だめ」「全然だめ」という4段階で評定するものです。単語を学習せよという指示はしていないから意図的学習ではなく,「潜在記憶レベルの語彙学習」と書いてありますが,この学習で単語を覚えようとしないわけがないと思います。意図的学習と偶発的学習を比較して,ここでフィーチャーされている学習が後者の学習だと論じられていますが(p.128),本来の偶発的学習(意味理解を目的とした言語処理時に未知語の知識を獲得するような学習)とは明らかに異なります。また,この評定値があがっていくことが語彙の暗示的知識であるとすれば,それは4章で議論されたようなアクセスのスピードの速さを暗示的知識とする理論的枠組みともずれます。

こういうズレは,教育場面でのテストや測定と,研究としてのテストや測定に求められる厳密さが異なるということを意味していると思います。このことは,2番目の論点にも関わります。

2の教育場面での応用については,時間制限付きの文法性判断課題を用いたりelicited imitation(誤りの含まれた英文を復唱させ,復唱の際に誤りを直すかどうかで知識の有無を判定するテスト)をすることだと書かれています。ところが,その前の節(p.151)では,これまでのSLA研究で用いられてきた課題は問題点も指摘されているという記述もあります。そういうのを読んだあとで,「測定方法が確立してきた」(p.152)と言われると,え?本当に「確立」しているのでしょうか?と読者は疑問に思わないでしょうか。私は思いました。さらに,終章第2節でもたびたび,暗示的知識の測定具は実際の言語使用とは大きく異なるものであるという問題点も指摘されています。この点については私も「明示・暗示の測定と指導法効果研究」という記事の中で指摘しました。であるならば,そうした実際の使用場面からかけ離れたテストをしてまで暗示的知識を測定する必要が教育現場にあるのかどうかということは問いたいです。そのことが,英語の授業や指導においてどういったメリットを持つかを考えずに持ち込もうとすることは,私はSLA研究者は避けるべきだと思います。私個人としては,明示的知識と暗示的知識という概念は純粋な認知科学としての第二言語習得研究でのみ追究されるべきであり,指導現場への導入は少なくとも今の段階ではメリットがないと思っています。第二言語習得研究では,母語話者と第二言語学習者の差が生まれる要因を解明することが研究の大きな目的ですから,厳密な暗示的知識の測定具を開発することは必要なことです。詳しくは過去記事をお読みください。

3については,明示・暗示という知識の二元論を導入するまでもなく,言語学習というのは非常に時間のかかるプロセスです。そのことは知識の二元論という余剰な概念を持ち出すことで初めて可能になることではありません。であれば,シンプルに「言語学習とは時間のかかるものである」といえばいいだけではないでしょうか。

科学的というような装いで,その内実が非常に曖昧なものに教育場面での有用性があるように断定的に研究者が言ってしまうことのリスクは研究者が考えるべきでしょう。「先週やったよね?」と教員が学習者に言わなくなったとしても,教員同士で「あなたの期末テストって暗示的知識を測定するものじゃありませんよね?」「これは明示的知識しか反映されていない問題ではないでしょうか」みたいなカオスが生まれてしまわないことを願うばかりです。

おわりに

この記事では,『外国語学習での暗示的・明示的知識の役割とは何か』という本の内容について,いくつかの観点から批判的に検討しました。私の記事の内容についても,批判的な検討をよろしくお願いいたします。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。


2021.09.22.03:24 更新

読解上やや不自然な部分や読みづらい部分などについて,軽微な文言の加筆修正等を行いました。最初に公開したものと内容的な変更はありません。

第二言語習得研究(者)はなぜ「誤解」されたか

Photo by Matheus Bertelli on Pexels.com

はじめに

今日は,「外国語教育研究の再現可能性2021」というオンライン開催のシンポジウムに参加しました。久しぶりに,集中して興味深く全ての話を聞けたなと思うイベントでした。開催にあたっては登壇者・発表者の皆様と,運営をされたプロジェクトメンバーの方々にまずお礼申し上げます。

さて,この記事では第二言語習得研究者を自称する者として感想がてらに,前半のシンポジウムで批判にあがっていたことについて私見を述べます。

私の質問の意図

私はシンポジウム後のディスカッションで,以下のような内容(書いた内容を保存していなかったので覚えている限りの内容)の質問を登壇者の一人である柳瀬先生宛にしました。

モデルが真実ではないというのはそのとおりだと思いますが,そのことはモデル自体が有用でないということを意味しませんし,モデルの精度をあげていくという営み自体を否定しないと個人的には思いますがいかがでしょうか。

柳瀬先生の答え(として私が受け取ったものは),受け取る側がモデルとして提示されたものを真実だと思っている(ように見えるのがよくない)。ということと,モデル構築の方法としてナラティブのほうが良いと思っている,という2点だったと記憶しています。

まず,2点目については,そういうアプローチもあっていいだろうと思います。また,非常に狭義の第二言語習得(SLA)研究者からすれば,そもそも大半の研究はモデルすら構築できてませんけどねって言われるような気もしますが,そこは一旦置いておきます。私がこの記事で焦点を当てたいのは1点目です。

私が上記のような質問をした意図は,柳瀬先生の発表を聞いて,モデルを作ることやモデルそのものを科学的に追求するという営み自体が否定されているというように感じてしまったことに起因しています。私としては,そもそも科学というのは絶対的な真理にたどり着くための永遠の営みのようなものだと思っています。草薙さんの言葉で言えば可謬主義を受け入れています。というか,人文社会系の研究者であれば(もっといえば自然科学の研究者であっても),研究によって世の中の真理が明らかになる,真実が一つに決まる,と思っている人ってほとんどいないのではないかと思っています。

それにも関わらず,モデル(研究の成果の結果として構築された現実の近似)を世の中の真理として受け取っている人がいる(あるいはそうやって広く受け入れられてしまっている),と研究者が考えてしまうのはなぜかということが重要な問題なのではないかと思いました。

ディスカッションで私の質問をとりあげていただく前だったかあるいは草薙さんの発表のときだったかは記憶が曖昧ですが,SLAの教科書と言われるような本にはすべて科学的事実かのように記述されているというような内容の発言があったかと思います。

よって,SLA研究者がどうやって自分たちのことを認識しているかは別として,「外から」はそう見られているということは間違いなさそうです。そして,それは柳瀬先生も草薙さんにしても(私は柳瀬先生の過去の研究のことは存じ上げておりませんで亘理先生の話を聞いて知ったわけですが)どちらかというと「そっち寄りだった」人からそう思われている,ということです(草薙さんは私が博士課程の2年間文字通り毎日一緒にいて共同研究もたくさんやったのでよくわかっているつもりです)。

研究者・実践者双方に研究に対しての態度を改める必要あり

上記のような問題,つまり研究の知見と言われるようなものをどう捉えるのか,という点についての私の意見は短くまとめれば以下のツイートのようなものです。

以下では,便宜的に「研究者視点」「実践者視点」に分けて良くなかった点を考察します。これはそれぞれが別の人物であることを必ずしも意味しない(一人の人間として研究者であり実践者である可能性も当然あるという認識がある)ことは言及しておきます。

研究者がやってしまったこと

上述の「SLAの教科書と言われるような本にはすべて科学的事実かのように記述されている」みたいな発言(実際にそうかは置いておいて他の研究者からそう思われてしまうこと)は,SLAという研究分野を立ち上げ,そしてそれを研究として他の分野と同等の価値があるものだということを社会に認識してもらわなくてはいけなかったという先人たちの苦労の結果として起きてしまった不幸なのではないかと思います。

SLAは学際領域だっていうことがよく言われますが,それは私は「表面」で,「裏面」は研究として確立することに非常に苦労したし,研究,または学問としての体をなすために試行錯誤してきたのがこれまでの歴史だというようにも思っています。

その結果として,私達のやっていることはscienceなんだ,ということを周りにアピールする必要がありました。そうではないと,研究として認めてもらえないからです。そういう苦労の結果として,様々な学会が立ち上がり,多くの学術雑誌が誕生し,そしてこれまでにたくさんの研究者を世に送り出すことに成功しました。一方で,そういった「アピール」が,意図的であるかどうかは別として誤解を生んでしまった面もあると思います。

世間に自分たちのやった研究の成果を発表する際に,本来であれば,そこまで確定的なことを言うべきではない,結果の解釈には慎重になるべきところを,研究ではこういうことが明らかになっている,というようにしてしまったこともあるのではないかと思っています。これはもちろん私自身も過去にそういった過ちをしている可能性も認識した上で言っています。メタ分析だろうが同じことです。研究の結果の解釈には必ず留保がつくべきはずなのに,そこをもし丁寧に説明しようとするとそもそも紙幅の関係で無理だし読者にも「結局何がわかったの?」と思われてしまう。だからわかりやすくしようとした。結果として,誤解を生んでしまうような知見が広まってしまった可能性もあるのではないかと思います。

余談ですが,いまや胡散臭い語学系広告にも「第二言語習得」という言葉が権威付け的に使われるようになってしまったことも,真摯に第二言語習得研究をしている人たちが望まない結果だと思います。もう一つ余談をすると,自分が先人の苦労に乗っかって今の職業的地位と安定を得ていることに最大限のリスペクトを払った上であえていうのは,英語教育「学」や外国語教育「学」という「学問」へのこだわりは,中身のほうが追いつかずにここまで来てしまったのではないかというのも思っているということです。私達世代(より下)の使命は,このことについて一度立ち止まって考えることだと思います。

実践者がやってしまったこと

研究の知見を解釈する側の実践者の視点からいうと,「科学的」ということばに過剰な信頼を置いてしまったことを反省する必要があるのではないかと思います(これは教育実践者のみならず一市民としての科学リテラシーも絡むでしょう)。

「あすの授業に役に立つ」というのは,実践者にとって有益であることを表すスローガンのように用いられている風潮があると思いますが,私としては少なくとも学会発表や一論文レベルで,それがそのまま「あすの授業に役に立つ」研究ということはほとんどないんじゃないかと思います。授業を考えるヒントになる可能性はたくさんあると思いますが。即効性をもって「あすの授業に役に立つ」のは研究ではなく,授業のアイデアレベルのことではないでしょうか。

再現可能性を思考したプロジェクトの先に研究の蓄積がなされたうえで,「あすの授業に役に立つ」のではなく,より広く授業を考える際のなにかのタイミングでの意思決定の基準の一つになりうるような研究の知見を出す,というのは可能だと思いますし,それこそがプロジェクト(の目標ではないと思いますがその先の)目標になっているのではないかと思っています。そのことについては賛同します。

ここで強調したいのは,私は実践者を責めているわけではないということです。実践者の方々の多くが置かれている環境に,余裕がない,これが最も重大な,そして喫緊の課題でしょう。余裕がないからこそ「あすの授業に役に立つ」ことを求めてしまうわけです。本来なら,1週間先,1ヶ月先,1年先,自分の教えている学習者が自分の所属している教育機関を離れるとき,まで見据えて授業は考えるべきです。ところが,それができない。そんな余裕がないからです。そういう状況まで追い込まれたら,藁にもすがる思いで何かを「信じたい」と思うことは当然のように思います。私も8ヶ月間という短い間で,なおかつ担任ももっていませんでしたが,公立の中学校教員として勤務していたことがありました。その時を振り返ってみると,あの時より忙しかったことはこれまでの人生でないし,この先の人生でもおそらくないだろう,と確信を持って言えるほどには激務でした。もちろん経験がゼロだったので非効率な働き方をしていたと思いますし,手の抜きどころも全くわかりませんでした。むしろ,手を抜いたら絶対にいけないという強迫観念で,自分という人間のあらゆるリソースをすべて仕事に振り向けていたとすら思います。悲劇的なことは,そこまでやっても自分にとって満足のいく授業に到底及ばない出来だったことです。

本当に辛かった。だから私は,教育実践者を責めるつもりはありません。そのうえで敢えてここで言わなければいけないのが,「研究」というものはたった一つの真実を教えてくれるものとは限らないということです。研究者が,わかりやすさを重視した部分がある。そしてそのわかりやすさが受け入れられる環境が実践者側にあったのではないかと。このことは,間接的にですが今回のシンポジウムが扱っていた再現可能性のテーマに非常に大きく関連していると思います。

不確実さへの不寛容

これはなにも英語教育の分野に限らないことかもしれません。人間ははっきりしないことをはっきりさせたがる生き物なんじゃないかと思います。曖昧なことや不確実さのあることを受け入れることが難しい。なぜなら,それでは自分がどうすべきかわからないからです。しかしながら,世界は不確実さに満ちあふれているわけです。そこで,その世界の不確実さを多少ましにする,人々の不安を和らげようとする営みが研究と言ってもいいかもしれません。「多少ましにする」とはつまり,研究が明らかにしたことには必ず確からしさのグラデーションがあるということです。今受け入れられていることがのちに否定されるというようなことは起こりえます。研究者がやっている営みは,その現時点での確からしさを高める努力をすることと,その努力を続けていくことだと思っています。そのことをいくら研究者が認識していたとしても,研究者が発信する情報を受け取る側とそういった合意形成が取れていなければミスコミュニケーションが起こってしまいます。この状況こそが,私は解決されるべき根本的問題だという認識を持っています。

わかりやすさの弊害

とはいえ,世間の風潮としても,わかりやすいことは人々が最も価値を置いていることの一つではないかと思えるほどに,この世の中は(人々は)わかりやすさを求めているように思います。その態度が,わかりやすくないものにたいしての否定的な感情や排除を生んでいるように思うのです。だからこそ,わかりやすくない研究というのは金の無駄だと言われ,意味がないと思われてしまう。そう言われると研究者は,無駄なことに意味がある,と反論します。ところが,これはそもそもの前提の部分でずれているのではないかと思います。わかりにくさは無駄ではない,というのが一つ。そもそも世の中はわかりづらいものです。人間が何年もかけて一生懸命時間とお金と労力を費やしても謎だらけなわけです。つまり,そもそもわかりにくいものなのだ,という認識を共有すべきだと思います。研究のブレイクスルーというのは,このわかりにくい状況を一瞬にしてわかりやすいものに変えるものなんじゃないかという気もします。しかしながら,それはそんなに頻繁に起こるものではありません。

また,私達は短期的なものを重視しがちです。中長期的なことは見えづらいし想像が及びづらいからです。だからこそ,すぐに得られる結果(「目に見える成果」)を重視します。研究もそういう枠組みに絡み取られてしまっています。多くの研究者が,自分が貢献できる部分はその研究分野のゴールから見てものすっっっっっっごくちっぽけなものであることを自覚しているはずです。自分が生きているうちにはまず解明されないだろうなぁという大きな課題を前に,それを切り分けて,切り分けて,切り分けて,その一部を多くの研究者で分担しながら明らかにしようと試みています。だから本当は,一つの研究で世の中を変えることなんて殆どの場合無理だし,一人の研究者が生涯で変えることのできることも,世間一般の人の感覚からすればよほど小さいわけです。このことを理解してもらうのがすごく難しいのではないでしょうか。

おわりに

思考を垂れ流すように書いていたらずいぶんと話が大きくなってしまいました。私が言いたかったのは,「科学」や「研究」ということばに対する認識をすり合わせていく必要がありそうですね,ということです。いちおう未熟ながら研究者の端くれですので研究者目線の記述になってしまい,それが自己保身のように解釈されてしまう面もあったかもしれません。私としては,研究者がのらりくらりしていて良いわけではないですし,研究の知見を世の中に伝える際にわかりやすさは度外視していいとも思いません。人生をかけたプロジェクトに挑みつつ,真摯な態度で,慎重に話をするべきだと思います。こういうのはおそらくサイエンス・コミュニケーションということばで語られるものだと思いますので,そういった本をいくつかAmazonで注文した次第です。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

「自律」の基盤的な部分

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さて,恒例の酔っ払ったので過去のことを振り返ってみるブログ記事の更新です。今回は「自律」という部分について,それを自分がどのように身に着けていったのかなというのを考えてみます。

幼少期のサッカーの経験

これはかなり大きいと思います。私は幼稚園の年少から地域のサッカークラブに入っていて,小学校の6年生までそのクラブでサッカーをやっていました。途中,サッカーの練習に行くのが嫌だと思ったこともありましたが,続けてました。このサッカークラブでの経験が大きかったなと思うのは親元を離れて合宿を毎年していた経験だったのではないかなと思います。

毎年夏と春に一泊二日ないしは二泊三日での合宿がありました。おそらく,ほとんどの小学生にとって親元を離れて過ごす機会というのは学校での宿泊行事(移動教室とか修学旅行とか)がメインになると思います。ただし,私は小学校の低学年のときからサッカークラブの行事を通じて宿泊行事に慣れていました。持ち物の準備,部屋で身の回りの整理整頓をすること,規則正しく行動することなどは,きっと幼少期からサッカークラブに所属していたことがきっと大きいんだなと思います。おねしょも割と大きくなってからもしてた記憶がありますが,宿泊行事では絶対しませんでした。

宿泊行事となると,様々な場面でいろいろな管理を求められるようになります。朝何時に起きるかだけではなく,何時に試合があるからそこから逆算してこの時間にはウォーミングアップを済ませておくとか,昼食のあと何時間後に試合だからそれを見据えて食事を摂るとか。もちろん朝早いから寝る時間も考えないといけませんし。「あれがない,これがない」ということがないように,荷物を常に整理整頓して自分が必要となるものがすぐにみつかるようにしたり。そういうことを,個人,そして仲間とともに経験したことは,自分が意識していないレベルで自分のベースになっていると思います。そういう費用を負担してくれた親には感謝しないといけません。

親が離婚したこと

20歳(大学2年次の夏)の時に両親が離婚して母親が出ていきました。この頃から,食事を基本的に自分で作るようになりました。朝は食べないか車での通学途中にコンビニに寄ってサンドイッチを買って運転しながら食べるみたいな感じでした。余裕があれば朝起きて自分でサンドイッチを作っていったりもしていました。もちろん食費は与えられていましたけど,自分の飯は自分で用意する,みたいな環境で過ごしました。そりゃぁ大学生ですから友達と夜ご飯を食べたり,飲み会があったりということも頻繁にはあったわけですけど。どっかで書いた記憶もあるんですが,サークルの友達は一人暮らし組が多かったので,「実家組はいいよなぁ」なんて言われたりして,「いや俺実家だけど帰ってもご飯は自分で作らないとないけどね」って思っていました。大学3-4年生くらいのときは大学近くで家庭教師をやっていました。家庭教師っていうと夜ご飯をごちそうになってみたいなエピソードを聞くこともありましたが,缶コーヒーくらいでしたね(別にそのことは全く不満に思ってもないです)。ただ,サークル終わりに家庭教師をやって21時くらいに帰途についてそこから御飯作るみたいなのは結構しんどかったです。もちろん帰り道に外食して帰るとか弁当買って帰るみたいな選択肢だってあったしたまにはそうしていたわけですけどね。

自分の飯は自分で用意するというのはすなわち食料品の買い出しも自分で考えてしないといけないわけで,帰り道の国道添いにある業務スーパーに寄って保存期間の長い食品を買ったり,西友で安い食料品を見繕って買って帰ったりすることが日常的にありました。そういう経験は,のちにアメリカで自立した生活を送る(もちろんルームメイトはいましたけど親に頼らないで生きる)ことや,その後名古屋で4年間の大学院生生活を過ごす際の基盤になったと思います。

こういう経験は人間として生きていくうえで身についていてよかったなと思います。自分のケツは自分で拭く精神が身についたというか。

What doesn’t kill you makes you stronger

ですね。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。