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Yu Tamura について

第二言語習得の研究者。博士(学術)。英語教育のことや統計・データ分析に関わること、趣味のサッカーのことなどについて書いています。

SLA批判のXポストを読んで考えたこと

はじめに

SNSで「SLAの知見で授業が刷新されるなら,学習者の熟達度はもっと上がっているはずだ」という投稿を見ました。もっともに聞こえます。ただ,読み終えたあと,批判の照準が少しズレているのではないかと感じました。この記事では,その自分が感じた違和感を整理し,誰にどの問いを投げるべきかを書いてみます。

何が問われているのか(論点の整理)

この投稿から私が感じたことは次のとおりです。

  • 授業内の言語活動をいくら精密に記述しても,短期には熟達度上昇につながらないのではという疑問
  • 「適切に研究してその成果が適応されていれば能力は上がるはずだ」という短絡的な因果推論への違和感
  • SLAはそもそも授業の即効性を直接示す分野なのか,という素朴な問い

SLAとISLAの役割の仕分け

(私が思う)SLAはメカニズムの説明に重心があり,ISLAは教室(または指導環境)という条件での因果検証に重心があります。SLAの役割は,第二言語がどのように習得されるかという仕組みを記述・説明することです。これにより,介入の設計図に相当する理論的コンパスを提供することもできますが,それは第一義的な目標ではないでしょう。

一方で,ISLAの役割は,教室(指導場面)という条件のもとで,タスクやフィードバックなど,教育的介入や学習方法の違いがどの程度効くかを検証することでしょう。よって,件のポストに対しての一次的な応答責任はここにあります。

ポスト主の方がおっしゃるディスコース研究の価値もあるでしょう。それは,学習の過程を可視化する「街灯」です。どんな学習環境なのか、そこで実際にどんな指導・学習が起こっているのかを記述することは,そこを明らかにできるでしょう。街灯そのものは目的地ではないですが,道を安全に歩かせることができます。こういう研究には,即効性のあるなんらかの処方箋的なものは期待できません。

要するに,「SLAの知見では英語教育は変わらない」という問いを投げるなら,まずISLAの設計と測定に向けて問うのが筋であって,SLA研究に向けられる批判なのかなという気がしてしまいました。

効果検証の設計(ISLAが明示すべきこと)

言語の熟達度というのは,そんなに即効性をもって観察できるようなものでは本来ないはずです。発達は,遅いんです。よくある実証研究であるような短期的な観察で効果を断じるなら,観測設計に対する説明責任が生じますよね。そうなると,ISLAが明示すべき最小セットはこんな感じではないでしょうか。

  • 成果指標は何か(テストスコア,パフォーマンス,転移など)
  • どの時間幅で測るか(短期,中期,追跡)
  • どの比較を置くか(統制群,対照群,事前事後)
  • 効果量と不確実性の示し方をどうするか
  • 測定が中間過程の所見(ディスコース)とどのように結び付くか

これらを明示すれば,「役に立つ/立たない」という印象論から,検証可能な議論へと移行できるのではないかなと思います。それはISLA研究者だけの問題ではなく,その研究の成果を受け取る側も,こういった視点で研究を読むことで,研究の成果に対して過度な期待を抱くことも抑制できるのではないかなと思います。

研究の成果が能力が大きく向上させることはそもそもない

そもそも,私はなんらかの言語教育研究の成果が,何かの能力を大きく向上させる結果を生み出すということはないと思っています。そんな単純なことではない。一般化可能なレベルの知見なんて誰でもわかるような「そりゃそうだろう」クラスのことだと思いますし,新しい発見!なんてものはおそらく別の要因でかき消されてしまうような小さな効果しか生み出さないでしょう。件のポスト主の方も,だからこそ教室ディスコースの大事さを訴えているのかもしれませんが。

おわりに

SLAは仕組みを語り,ISLAは効果を測るのだ,というような役割分担がある気がしています。「SLA」というおおざっぱな括りでの批判の照明を当て直し,誰の主張にだれがどう答えるべきかを私は整理したいのです。SLA一般への不信ではなく,授業の有効性に一次的に答えるのはISLAであって,SLA=メカニズムの説明,ISLA=指導環境での因果検証という前提は,言語教育に関わる人,SLA研究をやっている人,そして得にISLA研究をやっている人,それを広めようとしている人には自覚的であってほしいです。そしてもう一つ大事なこと。言語教育研究が熟達度の大きな向上という結果を教育現場に広く行き渡らせることはないのだ(それは相当に実現可能性の低いことだ)という自覚も同時に必要なのだと思います。SLAだろうがISLAだろうが,研究はそんなに単純なものではないし,それが社会に適応される過程だってそんなに単純なものではないのですから。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

どんな研究が必要か

はじめに

私の所属する関西大学外国語教育学研究科には,博士論文研究の計画書を提出し,その計画について口頭試問を行う「研究基礎能力試験」があります。この記事は,その発表を聞いて私自身が考えたことを整理したものです。あらかじめ強調しておきますが,ここで述べるのは特定の方の研究や指導に対する批判ではなく,あくまで一研究者としての私のスタンスです。

当たり前を疑う

私は常々,研究者には「既存の研究を乗り越える視点」を持っていてほしいと思っていますし,自分自身もそうありたいと考えています。本当に面白い研究というのは,多くの人が「当たり前」だと思ってきた前提を揺さぶり,新しい視点を提示するものだと感じています。そうした挑戦がなければ,研究の発展には限界があるでしょう。なぜなら,もし前提に誤りや誤解が含まれていれば,その上に積み上げられる研究も十分な価値を持たなくなってしまうかもしれないからです。

もちろん,先行研究は大切です。しかし「大切である」と「常に正しい」は同義ではありません。すべてを疑ってかかる必要はありませんが,「本当にそうなのか」という視点は,博士論文のような規模の研究プロジェクトでは特に必要だと思います。

既存の枠組みに従って研究を進めるのは比較的容易です。たとえば「先行研究ではA → Bという関係が示されているが,AがCに影響している可能性もある。さらにA → Dの関係は検討されていない。そこで本研究ではA → CやA → Dも扱う」といった展開は典型的です。このように要因の組み合わせを増やしていく研究は確かに進めやすいのですが,それだけを積み重ねても,背後にある本質的な法則や仕組みの理解につながるのかは常に問い直す必要があると思います。

新しい道筋を示す研究の好例

私は常に,「既存の前提を問い直し,そこから新しい道筋を示す」研究には強く惹かれます。実際,最近の研究でその好例と言えるのが,『Revisiting Universal Grammar in L2 acquisition: Weak conformity and linguistic dissonance resolution』という論文です。この研究では,第二言語習得における普遍文法(UG)の役割を見なおし,「UG」が学習者の中間言語(interlanguage)に一時的に現れるUG非整合的なルール(いわゆる “wild grammars”)を検出し,修正へと導く「モニター装置」として機能するという枠組みを提示しています。従来のUGに対する理解を単純に否定するのではなく,より包括的な枠組みとして再定義することで,説明力を拡張しようとするこのアプローチには,非常に示唆を受けました。既存理論の限界を踏まえつつ,新たな理論的視野を開拓する好例だと思います。

研究の成果を社会に直接役立てることは重要ですが,それだけが研究の価値ではありません。研究そのものの営みをより良いものにすること,それ自体が大きな社会的意義を持つはずです。人文学の研究はまさにそうした側面を強く持っています。「SLAは役に立つのか」という議論も,しばしば「役に立つ」という言葉を狭い意味でとらえすぎているのではないかと感じます(関連:英語教育学会に平和を!「教育的示唆」という用語は禁止!)。

おわりに

私が大事にしたいのは,「当たり前」に見える前提を一度立ち止まって問い直す姿勢です。それが回り道に見えても,長い目で見れば研究の厚みや意義を広げていくのだと思います。そういう営みに貢献できる研究者を目指したいですね。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

【新装改訂版】外国語学習に潜む意識と無意識(献本)

私がもっとも敬愛する友人であり尊敬する研究者の福田純也先生(※「もっとも」が修飾するのは友人としての敬愛です)より『【新装改訂版】外国語学習に潜む意識と無意識』(開拓社)を献本いただきました。ありがとうございます。そして,このご紹介が遅くなってしまったことをお詫びします。

私はこの本(厳密に言うと,新装改訂版の前の本)を,私が3年次ゼミを担当することに決めた年からずっとゼミの教科書に指定しています。数年前に1人ゼミに入ってきた学生と使い始めた当初は,誤字脱字も散見され,難しいことを難しく書いてある印象もありました。私が補足をしながらゼミをする感じで,それはそれで,「読んだら全部わかる」というわけでもなかったので私がいる意味があったという感じではあったのですが。今回の改訂版では版が一回り大きくなりました。また,情報の提示順序が整理され,研究紹介もボックス形式でまとめられていて,初学者にとって格段に読みやすくなったと感じます。福田先生がご自身で書かれているようにかなり力の入った改訂であるなという印象です。

私がこの本をゼミ(参照:ゼミ選びのプロセスでこのページに来た人へ)で使う理由は,言語習得研究や言語研究「そのもの」の面白さを学生に伝えたいという私の目的にぴったり合っているからです。初学者向けの第二言語習得のいわゆる「王道」的入門書は割と内容が似通っていてしばしば退屈です。私個人は,もちろん「王道」第二言語習得研究を通過して,「第二言語習得研究ってすげー!!」ってなってこの道に進んだ者ではあるのですが,その道に入っていくにつれて,「なんか違うぞ?」「本当に知的好奇心をくすぐられるところってそこじゃないよな?」って気持ちになっていったんです。その私にとっては,「そう!面白いのはそこ!」っていうポイントがたくさん詰まってるんですね。

本書では「王道」のインプット仮説やアウトプット仮説といった「有名」仮説にもさらっと触れられています。これらの仮説は正直,私が思っているSLA「研究」にとって大きな情報量を持つわけではありませんが,全く無視するのもどうかと思うところで(いわゆる「教育的示唆」的な受けはいいと思いますが,研究仮説としてはオワコン),本書のようにうまく位置づけて触れている点は,テキストとして非常にバランスがよいと感じています。

既存の「王道」SLAに違和感を覚える方にはもちろん,むしろ王道派の方にこそ「言語習得研究の面白さはここにもある」と知っていただきたい一冊です。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

AIで言語教育は終わるのか?(献本)

同僚の水本先生より,『AIで言語教育は終わるのか?:深まる外国語の教え方と学び方』を献本いただきました。ありがとうございます。まず,このご紹介が遅くなってしまったことをお詫びします。

水本先生の「AIとライティング教育」の章は,ライティングの授業で生成AIの利用を促している自分にとって「必読」の内容でした。同じ授業(ライティングの授業ではなく,学部1年生向けの文法と語彙の力を伸ばす目的の授業)を水本先生と分担している関係で知っていた話もありましたが,それ以上に新たな気づきが多く,自分の授業実践を振り返るきっかけになりました。特に「学生に使わせる仕掛けや練習の不足」が,自分が授業で感じていた“いまひとつ感”の原因だったのではないかと実感しました。ガイダンスや説明だけでなく,実際にAIを使う練習を組み込むことの重要性を改めて認識しました。

また,長谷部陽一郎先生の第2章(AIと言語研究)第4節の「記号接地問題」に関する議論も大変興味深く拝読しました。生成AIの登場以降,(おそらくですが個人的な印象では)今井むつみ先生の影響で身体化の観点から語られることが多い「記号接地問題」というテーマですが,本書ではラネカーの認知文法を参照しながら,身体化に依拠しない定義を提示し,身体的な「記号接地」ができないAIも記号接地しているのではないかという視点が展開されています。この多角的な切り口は,自分にとって新鮮な学びとなりました。

言語教育に携わる人は,ぜひ一度手に取ってみる価値があると思います。興味のある章だけでも読んでみてほしい一冊です。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

The snoop detective school(献本)

鈴木祐一先生より The snoop detective school を献本いただきました。ありがとうございます。まず,このご紹介が遅くなってしまったことをお詫びします。

この教科書の大きな特徴は,ユニットを貫くストーリー性と,RPG的な「レベルアップ感」です。学生は簡単なことから徐々に難しいことへ,ストーリーを追いながら自然に挑戦できる仕組みになっています。私が編著で関わった,TBLT型の教科書であるGetting Things Done(GTD)のように,「順番に縛られない」タスク型(どのユニットから取り組むか,どんな順番で取り組むかは自由な教科書)とは異なり,この本は物語の流れに沿って進むことで「次に進んでいる実感」が得られる点が魅力だと感じました。

また,Task first と Practice first の両アプローチを想定しているところも大きな特徴です。つまり,どのセクションを先に取り組むかで,TBLT的にも使えるし,PPP的にも使える教科書になっているというのも,前述のGTDとの大きな違いです。いや~商売がうまいな,と思いました!笑 そういう柔軟性をもたせておけば,タスクやりたい!という先生にも,タスクは無理だけどPPPでコミュニカティブにやりたい!という人にも使ってもらえますからね。

特に活動ベースで学ぶことが好きな学生には親和性が高い印象です。著者の「How to use this textbook」にあるように,ミックスレベルやビギナーにも対応できる構成ですが,しっかり説明を聞いてから取り組みたいタイプの学習者よりも,まず体験から学ぶことを楽しむ学生にフィットするのではないでしょうか。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

読書会の中身/形式ってどのようなものなのでしょうか

はじめに

querie.meでいただいた質問です。質問の全文は以下のとおりです。

質問

(自分一人だと読めない本があるため,自分だと選ばない本を読んでみたいため)学術書の読書会に参加してみたい,ゆくゆくは開催してみたいと思います。一概には言えないとは思いますが,読書会の中身/形式ってどのようなものなのでしょうか。Tamさんが参加された或いは開催されたものはどのような流れでしょうか。あるいは開催されるとしたらどのような流れで行われますか?

回答

経験談

最初に私が読書会と呼ばれるものに参加したのは,院生時代のSkype読書会かもしれません。最初にやったSkype読書会は,私がアメリカにいるときで,学部時代にお世話になっていた先生に誘われて,Rod EllisのLanguage Teaching Research and Language Pedagogyを読む読書会だったと思うのですが,私だけひとりアメリカからSkypeで参加していました。たしか単発で私は一度だけ参加したとおもいます。

その後,私が名古屋大学大学院で博士後期課程をやっているときにも日本と世界をつないだ読書会をやっていました。あれは定期的にやっていましたね。当時は,非対面の集まりそれ自体が珍しい時代でしたので(10年前くらい),その珍しさで,大修館書店の『英語教育』に遠隔地をつなぐSkype読書会というようなタイトルで短い記事を寄稿したくらいです。

その読書会は,毎回報告の担当になる人が決まっていて, その報告者の人が資料を準備してレビューを行い,その都度質問を挟んでいったり,あるいは後の方でまとまってディスカッションをしたり,という形でやっていたのではないかと記憶しています。もうあれも私がD2かD3くらいのときじゃないかと思うので,10年近く前ですね。信じられない豪華メンバーだったと思います。このときは,本というよりも論文のレビューも結構やっていたと思います。

あとは,発表者のいないパターンの読書会もありましたね。福田さんが呼びかけて,LangackerのCognitive Grammarを読むことになりました。あれはまじで1人では到底読めない重厚さと難解さでした。そのときは,日時とその回に何ページから何ページを扱うのかを決めて集まり,個々にわからなかったことや重要だと思ったことについて自由にコメントし合ってディスカッションするという形式だったと思います。司会的なものを設けたりもしていなかったですねおそらく。主催者の福田さんが回す役を担っていたところはあるとは思いますが。

Cognitive Grammarを読み終わった流れで,たしかGoldberg本の訳書を読み,その後に読書会に参加していたメンバーの一部で用法基盤モデルをベースにした実証研究の論文もいくつか読んで,そこから着想を得て研究プロジェクトというかたちになり,2023年度にEuroSLAで発表した研究(現在投稿中)につながりました(Goldbergの本と論文は読んだ順番が逆かもしれないです)。

発表者がいるかいないか

発表者がいるパターンといないパターン,どっちにもメリットとデメリットがありますよね。発表者がいるパターンだと,自分が発表ではない回に参加者それぞれがどれだけエンゲージメントを高められるかというのが重要になります。変な話,自分が発表ではない回に,一部の参加者が「聞くだけ」でも別にそこまで問題になったりはしません(もちろん,読書会に参加している人数にはよりますが)。

一方で,発表者がいないパターンの読書会だと,自分から積極的にディスカッションに貢献しようという気持ちが全員になければそもそも成り立ちません。その意味で,事前に読むという段階でのエンゲージメントもそれなりにないとそもそも発言することすらできないでしょうし,誰かの言ったことに対して誰も反応しなければ会そのものが成り立たないという時点で,そのメンバー間の関係性みたいなものも結構重要になるでしょう。全然見ず知らずの人達と,自由にディスカッションをする,というのは,トピックがなんであれそんなに簡単なものではないでしょうから。

自分が開催するってことが今後あるのかどうかわからないですが,その時のメンバーとか,目的に合わせて形態は決めることになるのかなと思います。

おわりに

最近は,なかなか時間がなくて読書会に参加する時間もとれないスケジュール感なんですが,読書会があるから読む・読める本っていうのは絶対にあると思うので,参加したいですね…。子どもがもう少し大きくなって保育時間が伸びたらそういうこともできるのかなぁ…。

私に質問したい方は下記URLからどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

構想する段階と書く段階をわける

はじめに

いままで,パソコンを開いて原稿のファイルを開く,ということを自分の書くきっかけにしてきていたのですが,そもそもそれはうまくいきづらいってことに気づけたというお話。

構想と執筆を分離する

どう書くかとか何を書くかとか構成とか構造みたいなものを考えるのと,実際に文字を打ち込む作業を私は一体化させて論文を書いてきていました(書いてきてましたと言っても全然書けていないんですが)。私が愛用しているScrivenerはまさに,『考えながら書く人のためのScrivener入門』という書籍があるように,考えることと書くことを一体化させることによって書くことを効率化させようという思想だと思います(cf. 論文執筆環境を教えてもえらえますか?特に論文執筆中に活用しているアプリやツールなど)。

生成AIが登場する前というのは考えるのも自分1人だし,書くのも自分1人だったんです(もちろん共同研究の場合は違います)。やっぱり1人だと,どんなにスマホ版のアプリがあったとしても,ラップトップ上でやっているような「考えながら書く」をスマホ版のアプリでやるには限界がありました。そうなると結局,机に向かってファイルを開く時間を取れなかったら,全然論文執筆は進まないんですよね。しかも,ファイルを開いても,「思い出す」ための時間もかかってしまうので,思い出してはまた忘れ,思い出してはまた忘れの繰り返しみたいな。

考えるのは生成AIとスマホでやる

アイデアを考える作業自体は,スマホの生成AIアプリで壁打ちしまくるのが個人的には一番しっくりきています。それなら電車の中とかお風呂の中とか,ちょっとした隙間時間にできます。そうすると,連続性が確保されていて間隔が開きすぎないので,頭の隅っこに原稿のことがいつもあるという状態をキープできます。そうすると,論文執筆についての考えが浮かびやすくなりますし,浮かんだらすぐにまた壁打ち,というループに持っていくことができます。

原稿ファイルを定期的にアップロードしておく

そうやってある程度の分量を書くことができたら,その段階で一旦ファイルをチャットにアップロードしておきます。そうすれば,あとはその原稿に書いてある内容について,そのファイルを開くことなく(スマホでファイルを開くとやっぱり見づらいです)ディスカッションすることができるようになります。こういうことをやっていると,自然に,書きたいことが頭の中に溜まっている状態になります。原稿ファイルについてのやりとりをしていたら,修正すべき箇所がみつかるとか。そういうのが見つかると,「早く修正しておきたい」っていうむず痒い気持ちになるので,パソコンに向かう時間があったらそれをとにかく早く原稿ファイル(私の場合はScrivener)に打ち込んでおきたいという気持ちになります。パソコンを開くのを待てずに,ScrivenerをiPhoneのアプリで開いてメモっておいたり修正しておいたりということもありますし,それすらも手間に思えるときはもうノートアプリ(私の場合,研究はObsidian)に生成AIとのやりとりをコピペして貼り付けておくこともあります。

他のことをブロックする

こういうことを続けていると,何か別のやらないといけないことがあっても自然と時間を「ブロック」して(cf. How to write a lot),集中して執筆できる気がしています。もちろん,「ああ,あの課題の採点がまだだ」,とか,「あのメール返してないな」とか,後回しにしていることは山程あるんですけど。それよりもむしろ,「論文書こうぜ書くなら今だぜこの熱を逃すな!」っていう気分になりやすいんですよね。というか,その気持ちを持てなかったら,一生論文は後回しで一生書かないですよね。だって,別に絶対にやらないといけないことではないわけですから。

Scrivenerは不要?

こうやって考えると,いわゆる「練る」機能が満載で,私が愛用しているScrivenerみたいなツールや,「考えながら書く」という思想自体が,生成AIというツールの登場で重要さを失ってしまったのかもしれないとも思うようになりました。練るのは生成AIとの壁打ちで済ませるのだとしたら,それこそ書くという段階では,むしろ「書くことに集中できる」というツールのほうが望ましいとすら言えるわけですからね。そうなると,それこそ論文を書くのはWordでいいし,なんならテキストエディターでもいいわけですしね。

とはいえ,完全に考えることと書くことを分離することもできません。なぜなら,書いているときに考えることもあるからです。書いているときに考えていることも逃すことなく保存しておきたいじゃないですか。そうなったら,Scrivenerまではいかなくても,書くと考えるをつなげる機能のついたアプリケーションというのは価値があるなと思います。

おわりに

この記事では,「考える」と「書く」は統合したほうがいいのか,分けたほうがいいのかということについて書きました。個人的には,分けたとしても書けるような体勢を取りつつ,書くときに考えることができる環境にしておく,というのが一番大事なのかなというのが結論です。

最近めっちゃブログ記事を書けているなという気がしているのですが,これは間違いなく,「思いついたことをメモしておく」という作業をNotionでやれているからだなと思います(できねーよと過去記事で書きましたけど以外にできている)。Notionいいぞ。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

ノート探しの旅(番外編):Notionでインフォメーションギャップタスクの情報をシェアする

はじめに

ノート関係の記事の派生で,Notionを使いだしてから,「あ,これ,英語の授業でインフォメーション・ギャップタスクやるときに役に立つな」と気づいたお話。

インフォメーション・ギャップタスクの情報分割

英語の授業でインフォメーション・ギャップ型のタスクをやるときって,AとBのワークシートにそれぞれの別の情報を載せたりしますよね。それを相手に見せないようにねみたいな感じで。あるいは,ワークシートとは別に,Aの学生だけ,Bの学生だけに別の参照資料みたいなものを渡すとか。

こういうときに,わざわざ紙に印刷しないで,NotionでAの人が参照するページ,Bの人が参照するページを作って,そのページへのリンクをQRコードにしてAとBのワークシートにそれぞれ載せておけば,「ペアの人に見られないように」みたいな制限をつける必要もないんじゃないかな?という気がしたんですよね。実際に,授業でも試してみましたし,授業準備の手間的にも追加の資料を用意したりする必要がないし,ワークシートのスペースを無駄に圧迫する必要もないのでかなり気に入っています。

向いているタスクと向いていないタスク

このNotionの使い方は,タスク中にその「分割された情報」を見ながらタスクをやることが必須の場合(例:間違い探しや描写課題)にはあまり向いていません。向いていないといいうと語弊があるかもしれませんが,「真価」は発揮できないですね。むしろ,タスク中にはオリジナルの情報をできるだけ参照しないようにしてほしいような課題(例:リーディング素材の間の相違点を見つける課題)のときに力を発揮すると思います。

こういう課題って,印刷したものをそれぞれに配って,それを裏返しにさせたり,あるいは情報を学習者が読み取る時間を確保したあとに教師が回収したりして,オリジナルの情報へのアクセスを制限するわけです。

こういう場合に,その分割された情報がスマホ(あるいはその他のデバイス)上で閲覧する前提になっていれば,紙の資料をわざわざ配って回収みたいなことをしなくてもいいわけです。もちろん,タスク中に資料を見ようと思えば見えてしまうわけですが,それは机間巡視しているときにスマホ画面を見ていたりする学習者がいないかどうかを気をつけて観察すればよいだけです。

もう一つのメリットとして,学習者側のメリットもあります。紙の資料で配られていたら,それを処理するために,辞書でわからない単語を調べたりなどの作業が必要になる場合もありますよね。もちろん辞書を引くという行為自体は大事なのですが,単語の意味を調べるために,印刷された情報をデバイスに入力させる必要はあまりないと思います。資料をオンラインで提供していれば,その情報はデバイス上で資料を読めるわけですから,わからない単語を調べたりその発音をチェックしたりみたいなことも,随分やりやすくなります。

おわりに

別にNotionではなくても,例えばWordファイルをDropboxやOneDriveなどのクラウドストレージサービス上において,それの共有リンクを作ってQRコードにすれば同じことなのですが,インフォメーション・ギャップ型のタスクで使うような情報って,別にWordみたいな印刷を前提にしたフォーマットにする必要がないんですよね。だったらもっとシンプルなmarkdownでいいわけです。となると,こういう用途にNotionは活用がかなりできそうだな,ということで,そういう用途で結構使い倒しています。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

非常勤の話

はじめに

3年目に入った関学と追手門の非常勤,教えてる内容は基本的に同じなので,自分の中であんまり変化がないように感じることがたびたびありました。それが理由で,そろそろ辞めどきかなと思うことが何回かありました。ところが,続けていると毎年毎年新しい学びが自分にもありますし,やっぱり教えてる学生さんが違えば交互作用があって受け止め方だったり,思考の発展していく方向性だったりも違うのでそれが面白いなと思って続けてるところがあるんですよね,というお話。

第二言語習得の授業

追手門の第二言語習得は,フルオンデマンド開講ですので,これまでに一度も学生さんたちに会ったことはありませんし,読むための資料教材ベースで授業を作っています。それでも,学生さんたちも必死に理解しようとしてくれていて,自分のことと引きつけながら色んな内容を咀嚼してくれています。第二言語習得研究の面白さだったり,研究という営みそれ自体に対する理解だったりが伝わっているのが毎回のリアクション・ペーパーから伝わってきます。そらを全部読んで、毎回60ほどのリアクション・ペーパーに全て返事を書いています。フルオンデマンドな分,インタラクティブな要素を唯一もてるのがそこなので。学生さんに刺激をもらって,こちらも毎週頑張ろうと思えています。

もちろん,フルオンデマンドなので,「全然資料を読まずに生成AIにキーワードだけ伝えて文章作ったでしょ」と思ってしまうような,資料に全く関係ないことを書いている人もいます。それ自体は,どういう授業をやっても一定数出てきてしまうものだと思うので諦めているところはあります。

英語科教育法の授業

関学の英語科教育法の非常勤も,当たり前ですが,学生が変われば反応も違うし,どこが「刺さるか」みたいなのも年によって違います。例えば最初の頃は,主にピアフィードバックに対して,「生徒の能力の差があったらうまくいかない」,「できない子は何もフィードバックできなくて,できる子が損する」,みたいな意見が結構あって,そこをときほぐすようにしていました。その次は,「入試があるから」,という入試要因に強く反応する学生が多くいました。そこで,「でも実際には4大進学率自体がそもそも高校生の半分ほどで,さらに大学進学者の中でもいわゆる受験勉強が必要な一般受験が必要な割合はこのくらいで、最近は流れ的に年内入試の割合も増える方向に(主に大学側の都合で)シフトしているよ?それでも入試のために授業はあるべき?」みたいな話をしたり。

この春学期に教えている学生たちは,実践に対する関心が高くて,学習者の立場ではなく,教師の立場でTBLTを体験したいという声が出たので, これまでやったことのなかった模擬授業的なことを取り入れたりもしました。本来は,私の受け持つ科目は理論重視のはずで,実践は他の授業でカバーされていると聞いていたんですけどね。

教師役が学生だと,学習者の立場でタスクをやる学生たちも,タスクそのものに熱中するのはもちろんのこと、同じ学生の立場でありながらも教師役をやる学生たちのパフォーマンスを見ていますし,実際に教師役をやったら気づけたということにもたくさん思考がふくらんでいるように思います。

初めての取り組みだったので,改善のしようはあると思うのですが,今後も継続的にやろうかなという気持ちではいます。実際に教師役を授業の一部でも体験してもらうと,こちら側としても,普段の授業ではみえないような教師としての適性を感じることもあります。

また,実際に教えてみたら自分には無理だと思ったという感想もありました。そういう感想は少し残念ですが,なんていうか,「TBLTは難しい。無理だ」っていう気持ちも理解できます。それはある意味では真理というか,実際に学習者に即興を求めるのであるからこそ,教師の側も即興の能力を求められることは間違いないと思います。ただ,だからTBLT「の方が」難しいみたいに思われてしまうと自分の意図とは違う方に行っているなという気はします。そもそも,授業をやることそれ自体がそんな簡単なはずはないですしね。机間巡視してる中でどうやってフィードバック出すか,どこは説明してどこは説明せずにいくか,早くタスクが終わった学習者を退屈させないためにどうするか,沈黙が続いてるペアにはどんな介入をするか,とかそういうのはTBLT関係なく,英語の授業を成り立たせるために必要なことですからね。方法論に全く関係なく。「そうだとしたら,そもそも英語教師は私には無理だ、こんなことはできない」と思われてしまってもちょっと違うという気もしています。

「英語教師は簡難しくないよ。誰だってなれるよ」なんてことは言いたくないです。専門職ですし,自分の職業にプライドも持ってほしい。でも,なんていうか最初から完璧に何もかもこなせないとやってはいけない仕事でもないわけですよね。むしろ,そういう仕組みにもそもそもなっていないわけですし。私が彼ら・彼女らが教師になってからその成長をサポートできるわけではないので(求められたらそりゃ全力でしますけども),大丈夫だ頑張れっていうのも無責任なんですけどね。

おわりに

最後に脱線しましたけど,今やっている非常勤の授業も,毎授業自分にとって新しい発見があるし,毎学期,その時の受講生にプラスになるような内容を提供できている部分もあるかな思うことができている,というポジティブなお話でした。もちろん,今に満足せずにもっといい授業にしていくための営みは止めることなく続けていきます。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

研究者になれる人とそうでない人の違いは、個人の資質によるか指導教員の指導力によるか、どちらだと思いますか?

はじめに

querie.meでいただいた質問です。質問の全文は以下のとおりです。

質問

研究者になれる人とそうでない人の違いはは(※原文ママ)、個人の資質によるか指導教員の指導力によるか、どちらだと思いますか?どちらとは言いきれいないのは承知ですが、任意の教員が着任した途端に、学会で名前を見るようになるのを見たり、特定の研究室から大量に研究者が出ているのを見ると,教える側の要素が大きのかなと思うところもあります。研究指導する側になって、よくわからなくなってます😢

回答

「研究者」の定義について

「大学教員になる」というのと「研究者になる」は個人的には分けたいな〜と思っちゃうところはありますね。学生の時は頑張っていても,大学教員になったら研究活動が滞ってしまう人だっていますしね。

指導教員側の要因:個人の力量 vs 環境

あとは教える側の要因というのは,その教員個人の力量だけではなくて,それ以外の環境要因との掛け算なのかなと思うところもあります。その環境でどうやったら学生のパフォーマンスを最大化できるのか,みたいな。例えば,教員の研究費だけに依存せず,学内的な院生への支援(ソフト面もハード面も)が充実しているということであったり,共同研究の機会が豊富にあるのかどうか(学内外のネットワークだったり,異分野交流であったり)とか,どれだけ研究に時間を割くことができるか(授業負担や学内業務負担がどれだけあるのか)みたいなのも,もちろん教員個人の力量もあるとは思いますが,やはりその組織がどういう仕組みで動いているのかに依存するでしょう。

組織・「ブランド力」の影響

あとは,一度「あのゼミからは優秀な人材が輩出される」となったら,そこにもっともっと優秀な人が集まりやすくなるという効果もあると思います。また,なんだかんだで組織の力というか所属している大学ってのは大きいでしょう。やっぱりうちの分野(どこの分野とは言わない)(注)なら特定の国立大(旧帝大)や私立大の出身者がある種の「派閥」的強さを見せている側面があるように思います。

研究テーマ,分野特性の影響,個人的な問題意識

研究テーマの要因もあるでしょう。どの分野の方からの質問かはわかりませんが,私の分野(どこの分野とは言わない)だと,ある要因と要因の関係性を調べるアプローチで無限に研究を量産している人たちがいて,まあそれが世の中の潮流でもあるようだしトップ誌に載るし引用もたくさんされるし,みたいな。いや,論文載るのはすごいんですよ。テーマもそんなにポンポン思いつかないですし普通は。でも,この分野(どこの分野とは言わない)は既存の枠組みの微調整や概念の再定義によって研究を展開しやすい分野特性があって,それって最強なんですよね。概念間の関係性を統計的に検証するアプローチで,比較的安定して研究成果を生み出せる仕組みになっているので。

これは何も自分を除く他者に向けているわけではありません。私も,院生時代の多くの研究が「明示的・暗示的知識」というパラダイムに乗っかったものでした。当時は測定法の議論が隆盛していたこともありましたし,ある文法項目に対して,明示的・暗示的知識を測っていると考えられる測定具のテストを二つ実施して(あるいは同じテストに対して違う条件を課して),違いが見られたり見られなかったりしたら,それを議論することで論文1本になったんですよね。私が初めて採択された筆頭著者の論文がまさにそれでした。

Tamura, Y. & Kusanagi, K. (2015a). Asymmetrical representation in Japanese EFL learners’ implicit and explicit knowledge about the countability of common/material nouns. Annual Review of English Language Education in Japan, 26, 253–268. https://doi.org/10.20581/arele.26.0_253

今見たらなんかもう目も当てられないようなひどい論文で読み返すことも憚られます。こういうアプローチをするにせよ,もう少しフレームワークは今なら工夫するだろうなと思います。ただ,私はそういうアプローチで研究を量産できるような人間ではないですし,こうしたアプローチで研究(者)を量産するのが本当にいいことなのかな,とよく思っています。こういう意見も,結局はパブリケーションが強い人からしたら,私のような考えが同じ土俵に乗ってこなかったら相手をする理由もないでしょうから,難しいなぁとずっと思っています。

『第二言語研究の思考法』はそういう気持ちもあって携わった本ですが,特に話題にもされていない(という認識でいます)し,その提案について批判も特にもらってないと思うので,既存の研究パラダイムへの根本的な問いかけは議論されにくい傾向があるのだなと感じます。それでも,今後も細々と,この問題提起について継続的に発信し続けていくのが自分の人生なんだろうなと思います。今年度採択された科研費の研究も,そういう路線です。

なんか脱線しましたね。

最後に,これも言っておかないといけないなと思ったことですが,生存バイアスもあるんだと思います。結局生き残るのはなんだかんだ優秀な人なわけで,その陰で数多の優秀な人にカテゴライズされずに去っていった人だっているんじゃないのかなという気もしています。

おわりに

久しぶりに,面白い質問だなぁ,ブログ記事にしたいなと思わされる質問でした。ありがとうございました。

私に質問したい方は下記URLからどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915¥

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注:寺沢さん話法