作成者別アーカイブ: Yu Tamura

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Yu Tamura について

第二言語習得の研究者。博士(学術)。英語教育のことや統計・データ分析に関わること、趣味のサッカーのことなどについて書いています。

AIで言語教育は終わるのか?(献本)

同僚の水本先生より,『AIで言語教育は終わるのか?:深まる外国語の教え方と学び方』を献本いただきました。ありがとうございます。まず,このご紹介が遅くなってしまったことをお詫びします。

水本先生の「AIとライティング教育」の章は,ライティングの授業で生成AIの利用を促している自分にとって「必読」の内容でした。同じ授業(ライティングの授業ではなく,学部1年生向けの文法と語彙の力を伸ばす目的の授業)を水本先生と分担している関係で知っていた話もありましたが,それ以上に新たな気づきが多く,自分の授業実践を振り返るきっかけになりました。特に「学生に使わせる仕掛けや練習の不足」が,自分が授業で感じていた“いまひとつ感”の原因だったのではないかと実感しました。ガイダンスや説明だけでなく,実際にAIを使う練習を組み込むことの重要性を改めて認識しました。

また,長谷部陽一郎先生の第2章(AIと言語研究)第4節の「記号接地問題」に関する議論も大変興味深く拝読しました。生成AIの登場以降,(おそらくですが個人的な印象では)今井むつみ先生の影響で身体化の観点から語られることが多い「記号接地問題」というテーマですが,本書ではラネカーの認知文法を参照しながら,身体化に依拠しない定義を提示し,身体的な「記号接地」ができないAIも記号接地しているのではないかという視点が展開されています。この多角的な切り口は,自分にとって新鮮な学びとなりました。

言語教育に携わる人は,ぜひ一度手に取ってみる価値があると思います。興味のある章だけでも読んでみてほしい一冊です。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

The snoop detective school(献本)

鈴木祐一先生より The snoop detective school を献本いただきました。ありがとうございます。まず,このご紹介が遅くなってしまったことをお詫びします。

この教科書の大きな特徴は,ユニットを貫くストーリー性と,RPG的な「レベルアップ感」です。学生は簡単なことから徐々に難しいことへ,ストーリーを追いながら自然に挑戦できる仕組みになっています。私が編著で関わった,TBLT型の教科書であるGetting Things Done(GTD)のように,「順番に縛られない」タスク型(どのユニットから取り組むか,どんな順番で取り組むかは自由な教科書)とは異なり,この本は物語の流れに沿って進むことで「次に進んでいる実感」が得られる点が魅力だと感じました。

また,Task first と Practice first の両アプローチを想定しているところも大きな特徴です。つまり,どのセクションを先に取り組むかで,TBLT的にも使えるし,PPP的にも使える教科書になっているというのも,前述のGTDとの大きな違いです。いや~商売がうまいな,と思いました!笑 そういう柔軟性をもたせておけば,タスクやりたい!という先生にも,タスクは無理だけどPPPでコミュニカティブにやりたい!という人にも使ってもらえますからね。

特に活動ベースで学ぶことが好きな学生には親和性が高い印象です。著者の「How to use this textbook」にあるように,ミックスレベルやビギナーにも対応できる構成ですが,しっかり説明を聞いてから取り組みたいタイプの学習者よりも,まず体験から学ぶことを楽しむ学生にフィットするのではないでしょうか。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

読書会の中身/形式ってどのようなものなのでしょうか

はじめに

querie.meでいただいた質問です。質問の全文は以下のとおりです。

質問

(自分一人だと読めない本があるため,自分だと選ばない本を読んでみたいため)学術書の読書会に参加してみたい,ゆくゆくは開催してみたいと思います。一概には言えないとは思いますが,読書会の中身/形式ってどのようなものなのでしょうか。Tamさんが参加された或いは開催されたものはどのような流れでしょうか。あるいは開催されるとしたらどのような流れで行われますか?

回答

経験談

最初に私が読書会と呼ばれるものに参加したのは,院生時代のSkype読書会かもしれません。最初にやったSkype読書会は,私がアメリカにいるときで,学部時代にお世話になっていた先生に誘われて,Rod EllisのLanguage Teaching Research and Language Pedagogyを読む読書会だったと思うのですが,私だけひとりアメリカからSkypeで参加していました。たしか単発で私は一度だけ参加したとおもいます。

その後,私が名古屋大学大学院で博士後期課程をやっているときにも日本と世界をつないだ読書会をやっていました。あれは定期的にやっていましたね。当時は,非対面の集まりそれ自体が珍しい時代でしたので(10年前くらい),その珍しさで,大修館書店の『英語教育』に遠隔地をつなぐSkype読書会というようなタイトルで短い記事を寄稿したくらいです。

その読書会は,毎回報告の担当になる人が決まっていて, その報告者の人が資料を準備してレビューを行い,その都度質問を挟んでいったり,あるいは後の方でまとまってディスカッションをしたり,という形でやっていたのではないかと記憶しています。もうあれも私がD2かD3くらいのときじゃないかと思うので,10年近く前ですね。信じられない豪華メンバーだったと思います。このときは,本というよりも論文のレビューも結構やっていたと思います。

あとは,発表者のいないパターンの読書会もありましたね。福田さんが呼びかけて,LangackerのCognitive Grammarを読むことになりました。あれはまじで1人では到底読めない重厚さと難解さでした。そのときは,日時とその回に何ページから何ページを扱うのかを決めて集まり,個々にわからなかったことや重要だと思ったことについて自由にコメントし合ってディスカッションするという形式だったと思います。司会的なものを設けたりもしていなかったですねおそらく。主催者の福田さんが回す役を担っていたところはあるとは思いますが。

Cognitive Grammarを読み終わった流れで,たしかGoldberg本の訳書を読み,その後に読書会に参加していたメンバーの一部で用法基盤モデルをベースにした実証研究の論文もいくつか読んで,そこから着想を得て研究プロジェクトというかたちになり,2023年度にEuroSLAで発表した研究(現在投稿中)につながりました(Goldbergの本と論文は読んだ順番が逆かもしれないです)。

発表者がいるかいないか

発表者がいるパターンといないパターン,どっちにもメリットとデメリットがありますよね。発表者がいるパターンだと,自分が発表ではない回に参加者それぞれがどれだけエンゲージメントを高められるかというのが重要になります。変な話,自分が発表ではない回に,一部の参加者が「聞くだけ」でも別にそこまで問題になったりはしません(もちろん,読書会に参加している人数にはよりますが)。

一方で,発表者がいないパターンの読書会だと,自分から積極的にディスカッションに貢献しようという気持ちが全員になければそもそも成り立ちません。その意味で,事前に読むという段階でのエンゲージメントもそれなりにないとそもそも発言することすらできないでしょうし,誰かの言ったことに対して誰も反応しなければ会そのものが成り立たないという時点で,そのメンバー間の関係性みたいなものも結構重要になるでしょう。全然見ず知らずの人達と,自由にディスカッションをする,というのは,トピックがなんであれそんなに簡単なものではないでしょうから。

自分が開催するってことが今後あるのかどうかわからないですが,その時のメンバーとか,目的に合わせて形態は決めることになるのかなと思います。

おわりに

最近は,なかなか時間がなくて読書会に参加する時間もとれないスケジュール感なんですが,読書会があるから読む・読める本っていうのは絶対にあると思うので,参加したいですね…。子どもがもう少し大きくなって保育時間が伸びたらそういうこともできるのかなぁ…。

私に質問したい方は下記URLからどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

構想する段階と書く段階をわける

はじめに

いままで,パソコンを開いて原稿のファイルを開く,ということを自分の書くきっかけにしてきていたのですが,そもそもそれはうまくいきづらいってことに気づけたというお話。

構想と執筆を分離する

どう書くかとか何を書くかとか構成とか構造みたいなものを考えるのと,実際に文字を打ち込む作業を私は一体化させて論文を書いてきていました(書いてきてましたと言っても全然書けていないんですが)。私が愛用しているScrivenerはまさに,『考えながら書く人のためのScrivener入門』という書籍があるように,考えることと書くことを一体化させることによって書くことを効率化させようという思想だと思います(cf. 論文執筆環境を教えてもえらえますか?特に論文執筆中に活用しているアプリやツールなど)。

生成AIが登場する前というのは考えるのも自分1人だし,書くのも自分1人だったんです(もちろん共同研究の場合は違います)。やっぱり1人だと,どんなにスマホ版のアプリがあったとしても,ラップトップ上でやっているような「考えながら書く」をスマホ版のアプリでやるには限界がありました。そうなると結局,机に向かってファイルを開く時間を取れなかったら,全然論文執筆は進まないんですよね。しかも,ファイルを開いても,「思い出す」ための時間もかかってしまうので,思い出してはまた忘れ,思い出してはまた忘れの繰り返しみたいな。

考えるのは生成AIとスマホでやる

アイデアを考える作業自体は,スマホの生成AIアプリで壁打ちしまくるのが個人的には一番しっくりきています。それなら電車の中とかお風呂の中とか,ちょっとした隙間時間にできます。そうすると,連続性が確保されていて間隔が開きすぎないので,頭の隅っこに原稿のことがいつもあるという状態をキープできます。そうすると,論文執筆についての考えが浮かびやすくなりますし,浮かんだらすぐにまた壁打ち,というループに持っていくことができます。

原稿ファイルを定期的にアップロードしておく

そうやってある程度の分量を書くことができたら,その段階で一旦ファイルをチャットにアップロードしておきます。そうすれば,あとはその原稿に書いてある内容について,そのファイルを開くことなく(スマホでファイルを開くとやっぱり見づらいです)ディスカッションすることができるようになります。こういうことをやっていると,自然に,書きたいことが頭の中に溜まっている状態になります。原稿ファイルについてのやりとりをしていたら,修正すべき箇所がみつかるとか。そういうのが見つかると,「早く修正しておきたい」っていうむず痒い気持ちになるので,パソコンに向かう時間があったらそれをとにかく早く原稿ファイル(私の場合はScrivener)に打ち込んでおきたいという気持ちになります。パソコンを開くのを待てずに,ScrivenerをiPhoneのアプリで開いてメモっておいたり修正しておいたりということもありますし,それすらも手間に思えるときはもうノートアプリ(私の場合,研究はObsidian)に生成AIとのやりとりをコピペして貼り付けておくこともあります。

他のことをブロックする

こういうことを続けていると,何か別のやらないといけないことがあっても自然と時間を「ブロック」して(cf. How to write a lot),集中して執筆できる気がしています。もちろん,「ああ,あの課題の採点がまだだ」,とか,「あのメール返してないな」とか,後回しにしていることは山程あるんですけど。それよりもむしろ,「論文書こうぜ書くなら今だぜこの熱を逃すな!」っていう気分になりやすいんですよね。というか,その気持ちを持てなかったら,一生論文は後回しで一生書かないですよね。だって,別に絶対にやらないといけないことではないわけですから。

Scrivenerは不要?

こうやって考えると,いわゆる「練る」機能が満載で,私が愛用しているScrivenerみたいなツールや,「考えながら書く」という思想自体が,生成AIというツールの登場で重要さを失ってしまったのかもしれないとも思うようになりました。練るのは生成AIとの壁打ちで済ませるのだとしたら,それこそ書くという段階では,むしろ「書くことに集中できる」というツールのほうが望ましいとすら言えるわけですからね。そうなると,それこそ論文を書くのはWordでいいし,なんならテキストエディターでもいいわけですしね。

とはいえ,完全に考えることと書くことを分離することもできません。なぜなら,書いているときに考えることもあるからです。書いているときに考えていることも逃すことなく保存しておきたいじゃないですか。そうなったら,Scrivenerまではいかなくても,書くと考えるをつなげる機能のついたアプリケーションというのは価値があるなと思います。

おわりに

この記事では,「考える」と「書く」は統合したほうがいいのか,分けたほうがいいのかということについて書きました。個人的には,分けたとしても書けるような体勢を取りつつ,書くときに考えることができる環境にしておく,というのが一番大事なのかなというのが結論です。

最近めっちゃブログ記事を書けているなという気がしているのですが,これは間違いなく,「思いついたことをメモしておく」という作業をNotionでやれているからだなと思います(できねーよと過去記事で書きましたけど以外にできている)。Notionいいぞ。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

ノート探しの旅(番外編):Notionでインフォメーションギャップタスクの情報をシェアする

はじめに

ノート関係の記事の派生で,Notionを使いだしてから,「あ,これ,英語の授業でインフォメーション・ギャップタスクやるときに役に立つな」と気づいたお話。

インフォメーション・ギャップタスクの情報分割

英語の授業でインフォメーション・ギャップ型のタスクをやるときって,AとBのワークシートにそれぞれの別の情報を載せたりしますよね。それを相手に見せないようにねみたいな感じで。あるいは,ワークシートとは別に,Aの学生だけ,Bの学生だけに別の参照資料みたいなものを渡すとか。

こういうときに,わざわざ紙に印刷しないで,NotionでAの人が参照するページ,Bの人が参照するページを作って,そのページへのリンクをQRコードにしてAとBのワークシートにそれぞれ載せておけば,「ペアの人に見られないように」みたいな制限をつける必要もないんじゃないかな?という気がしたんですよね。実際に,授業でも試してみましたし,授業準備の手間的にも追加の資料を用意したりする必要がないし,ワークシートのスペースを無駄に圧迫する必要もないのでかなり気に入っています。

向いているタスクと向いていないタスク

このNotionの使い方は,タスク中にその「分割された情報」を見ながらタスクをやることが必須の場合(例:間違い探しや描写課題)にはあまり向いていません。向いていないといいうと語弊があるかもしれませんが,「真価」は発揮できないですね。むしろ,タスク中にはオリジナルの情報をできるだけ参照しないようにしてほしいような課題(例:リーディング素材の間の相違点を見つける課題)のときに力を発揮すると思います。

こういう課題って,印刷したものをそれぞれに配って,それを裏返しにさせたり,あるいは情報を学習者が読み取る時間を確保したあとに教師が回収したりして,オリジナルの情報へのアクセスを制限するわけです。

こういう場合に,その分割された情報がスマホ(あるいはその他のデバイス)上で閲覧する前提になっていれば,紙の資料をわざわざ配って回収みたいなことをしなくてもいいわけです。もちろん,タスク中に資料を見ようと思えば見えてしまうわけですが,それは机間巡視しているときにスマホ画面を見ていたりする学習者がいないかどうかを気をつけて観察すればよいだけです。

もう一つのメリットとして,学習者側のメリットもあります。紙の資料で配られていたら,それを処理するために,辞書でわからない単語を調べたりなどの作業が必要になる場合もありますよね。もちろん辞書を引くという行為自体は大事なのですが,単語の意味を調べるために,印刷された情報をデバイスに入力させる必要はあまりないと思います。資料をオンラインで提供していれば,その情報はデバイス上で資料を読めるわけですから,わからない単語を調べたりその発音をチェックしたりみたいなことも,随分やりやすくなります。

おわりに

別にNotionではなくても,例えばWordファイルをDropboxやOneDriveなどのクラウドストレージサービス上において,それの共有リンクを作ってQRコードにすれば同じことなのですが,インフォメーション・ギャップ型のタスクで使うような情報って,別にWordみたいな印刷を前提にしたフォーマットにする必要がないんですよね。だったらもっとシンプルなmarkdownでいいわけです。となると,こういう用途にNotionは活用がかなりできそうだな,ということで,そういう用途で結構使い倒しています。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

非常勤の話

はじめに

3年目に入った関学と追手門の非常勤,教えてる内容は基本的に同じなので,自分の中であんまり変化がないように感じることがたびたびありました。それが理由で,そろそろ辞めどきかなと思うことが何回かありました。ところが,続けていると毎年毎年新しい学びが自分にもありますし,やっぱり教えてる学生さんが違えば交互作用があって受け止め方だったり,思考の発展していく方向性だったりも違うのでそれが面白いなと思って続けてるところがあるんですよね,というお話。

第二言語習得の授業

追手門の第二言語習得は,フルオンデマンド開講ですので,これまでに一度も学生さんたちに会ったことはありませんし,読むための資料教材ベースで授業を作っています。それでも,学生さんたちも必死に理解しようとしてくれていて,自分のことと引きつけながら色んな内容を咀嚼してくれています。第二言語習得研究の面白さだったり,研究という営みそれ自体に対する理解だったりが伝わっているのが毎回のリアクション・ペーパーから伝わってきます。そらを全部読んで、毎回60ほどのリアクション・ペーパーに全て返事を書いています。フルオンデマンドな分,インタラクティブな要素を唯一もてるのがそこなので。学生さんに刺激をもらって,こちらも毎週頑張ろうと思えています。

もちろん,フルオンデマンドなので,「全然資料を読まずに生成AIにキーワードだけ伝えて文章作ったでしょ」と思ってしまうような,資料に全く関係ないことを書いている人もいます。それ自体は,どういう授業をやっても一定数出てきてしまうものだと思うので諦めているところはあります。

英語科教育法の授業

関学の英語科教育法の非常勤も,当たり前ですが,学生が変われば反応も違うし,どこが「刺さるか」みたいなのも年によって違います。例えば最初の頃は,主にピアフィードバックに対して,「生徒の能力の差があったらうまくいかない」,「できない子は何もフィードバックできなくて,できる子が損する」,みたいな意見が結構あって,そこをときほぐすようにしていました。その次は,「入試があるから」,という入試要因に強く反応する学生が多くいました。そこで,「でも実際には4大進学率自体がそもそも高校生の半分ほどで,さらに大学進学者の中でもいわゆる受験勉強が必要な一般受験が必要な割合はこのくらいで、最近は流れ的に年内入試の割合も増える方向に(主に大学側の都合で)シフトしているよ?それでも入試のために授業はあるべき?」みたいな話をしたり。

この春学期に教えている学生たちは,実践に対する関心が高くて,学習者の立場ではなく,教師の立場でTBLTを体験したいという声が出たので, これまでやったことのなかった模擬授業的なことを取り入れたりもしました。本来は,私の受け持つ科目は理論重視のはずで,実践は他の授業でカバーされていると聞いていたんですけどね。

教師役が学生だと,学習者の立場でタスクをやる学生たちも,タスクそのものに熱中するのはもちろんのこと、同じ学生の立場でありながらも教師役をやる学生たちのパフォーマンスを見ていますし,実際に教師役をやったら気づけたということにもたくさん思考がふくらんでいるように思います。

初めての取り組みだったので,改善のしようはあると思うのですが,今後も継続的にやろうかなという気持ちではいます。実際に教師役を授業の一部でも体験してもらうと,こちら側としても,普段の授業ではみえないような教師としての適性を感じることもあります。

また,実際に教えてみたら自分には無理だと思ったという感想もありました。そういう感想は少し残念ですが,なんていうか,「TBLTは難しい。無理だ」っていう気持ちも理解できます。それはある意味では真理というか,実際に学習者に即興を求めるのであるからこそ,教師の側も即興の能力を求められることは間違いないと思います。ただ,だからTBLT「の方が」難しいみたいに思われてしまうと自分の意図とは違う方に行っているなという気はします。そもそも,授業をやることそれ自体がそんな簡単なはずはないですしね。机間巡視してる中でどうやってフィードバック出すか,どこは説明してどこは説明せずにいくか,早くタスクが終わった学習者を退屈させないためにどうするか,沈黙が続いてるペアにはどんな介入をするか,とかそういうのはTBLT関係なく,英語の授業を成り立たせるために必要なことですからね。方法論に全く関係なく。「そうだとしたら,そもそも英語教師は私には無理だ、こんなことはできない」と思われてしまってもちょっと違うという気もしています。

「英語教師は簡難しくないよ。誰だってなれるよ」なんてことは言いたくないです。専門職ですし,自分の職業にプライドも持ってほしい。でも,なんていうか最初から完璧に何もかもこなせないとやってはいけない仕事でもないわけですよね。むしろ,そういう仕組みにもそもそもなっていないわけですし。私が彼ら・彼女らが教師になってからその成長をサポートできるわけではないので(求められたらそりゃ全力でしますけども),大丈夫だ頑張れっていうのも無責任なんですけどね。

おわりに

最後に脱線しましたけど,今やっている非常勤の授業も,毎授業自分にとって新しい発見があるし,毎学期,その時の受講生にプラスになるような内容を提供できている部分もあるかな思うことができている,というポジティブなお話でした。もちろん,今に満足せずにもっといい授業にしていくための営みは止めることなく続けていきます。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

研究者になれる人とそうでない人の違いは、個人の資質によるか指導教員の指導力によるか、どちらだと思いますか?

はじめに

querie.meでいただいた質問です。質問の全文は以下のとおりです。

質問

研究者になれる人とそうでない人の違いはは(※原文ママ)、個人の資質によるか指導教員の指導力によるか、どちらだと思いますか?どちらとは言いきれいないのは承知ですが、任意の教員が着任した途端に、学会で名前を見るようになるのを見たり、特定の研究室から大量に研究者が出ているのを見ると,教える側の要素が大きのかなと思うところもあります。研究指導する側になって、よくわからなくなってます😢

回答

「研究者」の定義について

「大学教員になる」というのと「研究者になる」は個人的には分けたいな〜と思っちゃうところはありますね。学生の時は頑張っていても,大学教員になったら研究活動が滞ってしまう人だっていますしね。

指導教員側の要因:個人の力量 vs 環境

あとは教える側の要因というのは,その教員個人の力量だけではなくて,それ以外の環境要因との掛け算なのかなと思うところもあります。その環境でどうやったら学生のパフォーマンスを最大化できるのか,みたいな。例えば,教員の研究費だけに依存せず,学内的な院生への支援(ソフト面もハード面も)が充実しているということであったり,共同研究の機会が豊富にあるのかどうか(学内外のネットワークだったり,異分野交流であったり)とか,どれだけ研究に時間を割くことができるか(授業負担や学内業務負担がどれだけあるのか)みたいなのも,もちろん教員個人の力量もあるとは思いますが,やはりその組織がどういう仕組みで動いているのかに依存するでしょう。

組織・「ブランド力」の影響

あとは,一度「あのゼミからは優秀な人材が輩出される」となったら,そこにもっともっと優秀な人が集まりやすくなるという効果もあると思います。また,なんだかんだで組織の力というか所属している大学ってのは大きいでしょう。やっぱりうちの分野(どこの分野とは言わない)(注)なら特定の国立大(旧帝大)や私立大の出身者がある種の「派閥」的強さを見せている側面があるように思います。

研究テーマ,分野特性の影響,個人的な問題意識

研究テーマの要因もあるでしょう。どの分野の方からの質問かはわかりませんが,私の分野(どこの分野とは言わない)だと,ある要因と要因の関係性を調べるアプローチで無限に研究を量産している人たちがいて,まあそれが世の中の潮流でもあるようだしトップ誌に載るし引用もたくさんされるし,みたいな。いや,論文載るのはすごいんですよ。テーマもそんなにポンポン思いつかないですし普通は。でも,この分野(どこの分野とは言わない)は既存の枠組みの微調整や概念の再定義によって研究を展開しやすい分野特性があって,それって最強なんですよね。概念間の関係性を統計的に検証するアプローチで,比較的安定して研究成果を生み出せる仕組みになっているので。

これは何も自分を除く他者に向けているわけではありません。私も,院生時代の多くの研究が「明示的・暗示的知識」というパラダイムに乗っかったものでした。当時は測定法の議論が隆盛していたこともありましたし,ある文法項目に対して,明示的・暗示的知識を測っていると考えられる測定具のテストを二つ実施して(あるいは同じテストに対して違う条件を課して),違いが見られたり見られなかったりしたら,それを議論することで論文1本になったんですよね。私が初めて採択された筆頭著者の論文がまさにそれでした。

Tamura, Y. & Kusanagi, K. (2015a). Asymmetrical representation in Japanese EFL learners’ implicit and explicit knowledge about the countability of common/material nouns. Annual Review of English Language Education in Japan, 26, 253–268. https://doi.org/10.20581/arele.26.0_253

今見たらなんかもう目も当てられないようなひどい論文で読み返すことも憚られます。こういうアプローチをするにせよ,もう少しフレームワークは今なら工夫するだろうなと思います。ただ,私はそういうアプローチで研究を量産できるような人間ではないですし,こうしたアプローチで研究(者)を量産するのが本当にいいことなのかな,とよく思っています。こういう意見も,結局はパブリケーションが強い人からしたら,私のような考えが同じ土俵に乗ってこなかったら相手をする理由もないでしょうから,難しいなぁとずっと思っています。

『第二言語研究の思考法』はそういう気持ちもあって携わった本ですが,特に話題にもされていない(という認識でいます)し,その提案について批判も特にもらってないと思うので,既存の研究パラダイムへの根本的な問いかけは議論されにくい傾向があるのだなと感じます。それでも,今後も細々と,この問題提起について継続的に発信し続けていくのが自分の人生なんだろうなと思います。今年度採択された科研費の研究も,そういう路線です。

なんか脱線しましたね。

最後に,これも言っておかないといけないなと思ったことですが,生存バイアスもあるんだと思います。結局生き残るのはなんだかんだ優秀な人なわけで,その陰で数多の優秀な人にカテゴライズされずに去っていった人だっているんじゃないのかなという気もしています。

おわりに

久しぶりに,面白い質問だなぁ,ブログ記事にしたいなと思わされる質問でした。ありがとうございました。

私に質問したい方は下記URLからどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915¥

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注:寺沢さん話法

ノート探しの旅②:アイデアを書き留める

はじめに

ブログ記事のネタになりそうだなみたいな,そういうパッと浮かんできた思考みたいなのを書き留めておく,そういう目的のために使うノートアプリでNotionが「個人的には」うまく使えないというお話。下のポストに書いたことが端的に言いたいことです。

自分がノートアプリに求めていること

自分がどういうノートアプリを求めているんだろうなと思って書き出してみたら,次のような感じになりました。

  • デバイス間のシームレスな同期
  • ノートをカテゴリ分けできること
  • Markdownが使える
  • ノートを自由に共有できること
  • とにかくメモしておきたいという欲求にダイレクトに答えてくれて、それをあとで整理しやすいこと

最後のとにかくさっとメモしたいというときにNotionっていまいちだなって思うのですよね。その一方で,Evernoteの「スクラッチパッド」はめっちゃ神機能だと個人的には思っています。スマホでもブラウザでも,ホーム画面にどしんと構えていて,そこになんでもとにかく形式だのなんだのとかはとりあえず置いていて思考を書き留められる。バーっと書いたら,あとはそれをノートに変換しておけば,ホーム画面のスクラッチパッドはまた空になる。変換されたノートは変換するときにカテゴリ分けしておいて,授業メモならその授業のノートにいれるし,ブログネタならブログネタのノートにいれるという感じ。スマホでObsidianを使っていない私にとって,こういう使い方のできるノートアプリでの最強はEvernoteです。結構なお値段するし色々すったもんだありましたけど,なんだかんだでもう10年以上使い続けているという愛着もあって気に入っています。あれ,もう全部Evernoteでいいのかな?という気もしますが,階層性をもたせた共有というのはEvernoteにはできません。アカウントがあれば,ノートブック単位で共有ができるし,権限を閲覧のみにすれば,私が思っているような共有ができます。ただ,こういう用途でゼミとかならまだしもそうではない授業で全員にアカウントを作らせるっていうのはちょっと気が引けます。よって,その用途ではNotion一択。

では,アイデアを書き留めるっていう目的でNotionは使えないのか?っていうのをちょっと試行錯誤しました。以下,その手順。

1. Scrachpadというページを用意

まずScrachpadというページを用意して,それをお気に入りにしておきます。そうすると,左側のバーの一番上にそれが表示されるのでアクセスしやすくなりますし,スマホアプリでもそれが上に表示されます。お気に入りにしていると,iPhoneのウィジェットに Notionを入れておけば,アプリを開かなくてもワンタップでそのページを開けます。

2. Scrachpadページにとにかく書く

まっさらなノートにバーっとメモします。

3. テキストを選択してページに変換

そして,そのメモを全選択して,ページに変換をするわけです。そうすると,そのメモが新しい独立したページになって,Scrachpad内にはその新しいページへのリンクができます。最初は箇条書きで書いていて,その箇条書きを全選択してページ変換しようとしたら,その一つ一つが独立したページになってしまって,いやそういうわけじゃねーよとなりました。よって,書き込みを一つの段落にしました。これで大丈夫だ,と。そしてリンク先に飛ぶとそれが….

こんな感じで,書いたやつが全部タイトルにされてしまうんです。いやそういうことじゃねーなー感が満載ですよね。タイトルって最初に考えるんじゃなくて,文章を書いて最後に考えるじゃないですか?だって,メモし始めたときには思考がどこに着地するのかもわからないわけですから。

有料版だと解決する?

もしかすると,有料版にしたらホーム画面を自由にカスタマイズできるようになって,私が求めているEvernoteでいうScrachpadみたいなものが設置できたりするんでしょうか?正直,もしそうなら課金してもいいくらいには考えています。かといってEvernoteを完全に辞められるかどうかはまだわからないのですけどもね(禁断症状)。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

ノート探しの旅①:書き込めない問題

はじめに

「①」とつけましたが,いくつまで続くかはわからないまま書き始めています。先日,Obsidian publishを使ってみた感想という記事を書きました。その記事内で,次のように書きました。

この状況を考えると,授業関連のメモをそもそもObsidian上で集中的に管理し,それをPublish機能で公開するという運用自体が,私の使い方には合っていないのかもしれません。Notionならこういうことができるんですかね。となると,授業関係のメモは全部Notion使ったほうが良いのかもしれません(識者情報求む)。

すぐに,「識者」の方から情報提供が寄せられました。

直面した問題

その後,Notionを実際に使ってみて,Obsidian Publishingではできなかったような,授業ごとに資料を独立させて,その中に個別のノートへのリンクを貼っておくというようなことができるようになりました。しかしながら,授業でそういった使い方をしようしたその瞬間に,あることに気づきました。

これだと,学生は資料に書き込みしたりハイライトしたりできないな?

アカウントがあって,共有の設定を工夫すれば,もしかすると学生が自分でPDFにエキスポートしたりできるのかもしれません。しかしながら,それでは元の資料との「断絶」を生むことになります。教員側が行った更新は,コピーした学生の資料には反映されないわけなので。

これに対して従来のPDF形式の資料には,学生が自由にハイライトを付けたり,メモを書き込んだりできるという利点があります。多くの学生にとって,この機能は学習過程において必要不可欠なものかもしれません。

Notionのいいところ

私がNotionでの共有に魅力を感じた理由の一つは,Markdownでの資料作成との相性の良さでした。Obsidianでは,PDFへのエクスポートには様々な不便さが伴います。例えば,1ページに収めたい内容が微妙に2ページ目にはみ出してしまい,文字サイズの調整が必要になることがあります。さらに、修正のたびにPDFを作り直してLMSにアップロードし直す必要があるという手間も気になっていました(Notionで書いたものをPDFにしようとすれば同じ問題にぶちあたります)。

Notionのページを直接見てもらえれば,こういった手間を省くことができます。修正が必要になったときにさっと修正して,それが学生側の資料にも反映されます。教員側からすれば,自分が見ている資料と同じものを学生と共有できれば効率的です。しかし,これは教員側の視点であって、学生側からすれば、LMSから外部リンクへの遷移が必要になることは余計な手間に感じられるかもしれないということも考える必要があるかもしれません。

適した資料と適さない資料

書き込み問題に対するtentativeな解決策は,書き込みが必要になるであろうというようなそういうタイプの資料はNotionのリンクを共有するというのは避けるということになるかと思います。逆に,参照型資料や,なにかの指示のような「読んでおくだけ」と考えられるようなものは,積極的にNotionに移行していくことがいいのかな,というのをなんとなく考えています。そうなると,授業の「メイン」となる資料はどうしようかな,というところが悩みどころです。

おわりに

ObsidianからNotionへと移行して,いいところはあったので,そこからObsidianに戻るという選択肢はいまのところありません。ただ,資料共有と階層性の問題は解決できた一方で,書き込み可能性という新たな課題が浮上してきました。資料共有の試行錯誤はまだまだ続きそうです。

ブログのアイデアを書き溜めるという用途でのNotionの利用も試行錯誤しているので,それについてもまた別記事で書こうかと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

論文を読むときは、全文読まないのが普通なのでしょうか

querie.meでいただいた質問です。質問の全文は以下のとおりです。

質問

論文を読むときは、全文読まないのが普通なのでしょうか。よくネットなどで論文の読み方を検索すると、効率的な読み方として、①結論を読んで主張が何かを探す、②イントロを読んで論文の問いを探す、ここからは必要に応じて③研究の方法や結果などのデータを扱っているところを見て批判的に検討する、という紹介がなされています。もし、何か論文を読む際に実践されていることがあれば、教えてもらえませんか。

回答

端的にいえば,「目的によるのでは?」ですね。あとは,どれくらいの時間がかけられるかも重要です。

拾い読みのケース

私自身が論文を読む際に実践していることについてお答えすると,「なんの目的のためにその論文を読むか」に大きく依存するのかなと思います。

実証研究の論文で,とりあえず「何をやって何がわかったのか」という核心部分を素早く把握したいのであれば,おっしゃるように,それが書いてある場所を拾い読みすることになるでしょう。私の場合は,まずアブストラクト(要旨)を読みます。そして,「これはもう少し詳しく読んだ方が良さそうだ」と感じたら,多くの場合、結論部分よりもディスカッションの最初のパラグラフを読むことが多いです。なぜなら,ディスカッションの冒頭部分で,著者が研究の目的を改めて述べ,どのような結果が得られたのかを要約してくれていることが多いからです。これは,私自身が論文を書く際にも,読者に分かりやすく伝えるために意識している構成でもあります。

自分があまり馴染みのない研究領域でどんなことがこれまでされているのかをまとめたいとか,そういった目的の場合も,拾い読み的なことをするでしょう。「ざっと領域全体の傾向やこれまでに何が分かっていて何がわかっていないのかをまとめたい」という場合には,論文を通読する必要はないからです。もちろん,時間がたくさんあれば全文読めるでしょうけれど。

全文を読むケース

一方で,そういった「つまみ食い」的な読み方とは異なり、自分の研究テーマ(または今書いている論文)に非常に近い論文を読む場合は,もっと丹念な作業になります。その論文がどのようにして研究課題を導き出しているのかというロジック,採用されている研究方法の妥当性,そして得られた結果の解釈など,細部にわたってじっくりと読み解いていきます。もちろん,全文読むケースでもとりあえずは拾い読みをしたうえで,「これは読んだほうが良さげだ」という判断をするので,拾い読みでふるいにかけられたものを精読するって感じでしょうか。

優れた論文には,やはり一本筋の通ったストーリーがあります。ですので,そういった論文を読む際には,できるだけ頭から順を追って読み進め,そのストーリーを追体験するように意識しているかもしれません。「拾い読み」だけを繰り返していると,確かに情報は効率よく集められるかもしれませんが,いざ自分が論文を書く側になったとき,果たしてストーリー性のある,説得力のある論文が書けるのだろうか,と思ってしまいますね。論文の構成力やロジックの組み立て方というのは,やはり質の高い論文を通読する経験を通じてこそ身についていく部分が大きいのではないでしょうか。

実証研究ではない論文はどうするの?

また,ご質問で触れられていた「結論→イントロ→必要に応じて詳細」という読み方は,主に実証研究の論文には有効な手法だと思います。しかし,例えば特定のテーマに関する既存の研究を幅広くまとめたレビュー論文や,理論的な考察が中心となる論文などには,そのままでは適用しにくいケースもあるでしょう。そういうタイプの論文のときには,別の読み方が必要になると思いますし,レビュー論文こそストーリーが大事なので,小説をつまみ食いしないのと同じように最初から最後まで読むのではないかなと思います。

おわりに

結局のところ,論文の読み方は「目的」と「投入できる時間」の2つの要因で決まるものだと思います。まず要旨(と私の場合だとディスカッションの冒頭)を読み,短い時間でざっくり「何をやって何がわかったか」を把握します。その中で,読む価値が高いと判断した論文は精読しています。精読時には序論から順に論理展開を追い,方法の妥当性だったり結果の解釈だったりを検討します。メモはZoteroなどの文献管理ソフト上でハイライトしたりメモつけたりその訳をしたりとか色々したうえで,自分が研究目的で使っているObsidianに残しています。ローカルにメモを残さないと不安なので(cf. 過去記事)。

私に質問したい方は下記URLからどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915¥

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。