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Yu Tamura について

第二言語習得の研究者。博士(学術)。英語教育のことや統計・データ分析に関わること、趣味のサッカーのことなどについて書いています。

リサーチ・クエスチョンの見つけ方

はじめに

Querie.meでいただいた質問シリーズ。

質問

文法習得にフォーカスするSLAの研究で、自分のリサーチクエスチョンに至るには、先行研究を読んでまとめることを繰り返して、そのまとめたものから、リサーチ・ギャップを見つけるというかたちで進めればよいのでしょうか。 4月から進学する学生なのですが、「これまでに何がわかっていて、何が課題なのか」という部分をまとめるのがすごく苦手な気がしていて、お尋ねする次第です。アドバイスをよろしくお願いします。

回答

おっしゃられている方法(「先行研究を読んでまとめることを繰り返して,そのまとめたものから,リサーチ・ギャップを見つける」)は,文法習得とかSLAとか関係なく大事なことなのかなと思います。リサーチ・ギャップを見つけてそれを埋めるより,既存のリサーチの前提を問い直す研究の方が本当は大事なことなんですけどね(参照:『面白くて刺激的な論文のためのリサーチ・クエスチョンの作り方と育て方』)。「進学」が修士課程への進学だとしたら,そういう研究をするのはかなりハードルが高いので,個人的には目指さなくてもいいと思います(もしできるのならそれは素晴らしいこと)。もし博士課程に進学されるのなら,単なるギャップを埋める研究ではなくもっと野心的な研究に挑戦してみてください。

あとは,個々の論文だけ読んでいても、いわゆるbig pictureというか,それがより大きな領域・分野のどういうところに貢献するのか,みたいなことがわからないままになってしまうと思います。だからこそ,いわゆる教科書的な本は何冊でも読んだら読んだだけ得るものがあると私は思っています。

「これまでに何がわかっていて,何が課題なのか」というのは,たいていの場合論文のイントロに書いてあると思います(私は少なくともそういう意識でイントロを書くようにしています)。イントロがなく,いきなりliterature reviewから入る論文でも,本研究に入る前のところで,研究の意義とか目的みたいなものを書いているパラグラフがあると思います。それが,「これまでに何がわかっていて,何が課題なのか」に関係していますよね。

また,「何が課題なのか」については,論文の最後の方,”future directions”てきなのが書いてあるパラグラフがあると思います。あるいは,limitationsの部分に,今回の研究の限界が書かれていると思います。その限界というのは,今後の課題につながる部分でもあるはずですよね。例えば,今回の結果Xの効果が見られたが,実際にはこういう実験をしてみないとYの影響がある可能性もある,というような話があれば,「こういう実験」というのが次にその領域でやるべきこと,でしょう。そういうののなかで,自分がやってみたい,と思うことがリサーチクエスチョンになるんじゃないでしょうか。

私の場合は,修士論文も博士論文も,「なんかこれおかしくない?」みたいなのが動機というかスタート地点でした。修士論文のときは,読解中に線引いたらそれすなわち”noticing”みたいになってるけど線引いたときに何考えてたかわからなくない? -> 刺激再生法でインタビューしてみよう,みたいな感じでした。博士論文は,複数形形態素の習得ではよく数の一致現象が取り上げられるけど,数の一致は処理が複雑だから,それができない=複数形形態素の習得ができないとかそういうことじゃないんじゃないの? -> もっとダイレクトに複数形形態素とその意味のマッピングを「習得」と定義して,そのマッピングを調べる実験をやってみよう,みたいな感じでした(参照:Tamura, 2023)。

所属する研究科や指導教員の先生のやり方等もあると思うので,そういうのを入ってから学びながら,という側面も結構あると思います。こうやってリサーチ・クエスチョンを立てなさい,というような具体的な指導があるかもしれませんしね。上で書いたことはあくまで「私はこう考えている」ということなので,大学院に入ったら実際には私が書いたこととは全然違ったみたいなこともあるかもしれません。そこはご理解ください。

ちょっとした昔話

最後に,ゼミや授業その他でいろんな論文や研究について色々ディスカッションする中で研究のアイデアが生まれることもあると思います。私が大学院(博士課程)のときは,喫煙所でいくつものアイデアが生まれたような記憶があります。

今でもすごく自分の記憶に残っているのは次の研究です。

Nishimura, Y., Tamura, Y., & Hara, K. (2017). How do Japanese EFL learners elaborate sentences complexly in L2 writing? Focusing on clause types. Annual Review of English Language Education in Japan, 28, 209–224.

2017に出た論文ですが,2016年にやった研究だと思います。草薙さんや福田さんという私がすごくお世話になった先輩が名大からいなくなって,自分が引っ張る立場になりました。そんなとき,後輩の西村くんと帰り道に理系の方の喫煙所に寄って,研究の話をしました。彼は当時から統語的複雑さというものに興味を持っていました。そこで,統語的複雑さの指標(節の数とか従属節の割合とか)があがったさがったとか,そういうのよりも,「どうやって統語的に複雑な文を書くのか」に注目したらどうかという話になりました。普通にライティングをさせてもそこまで複雑な文は出てきませんし,明示的に複雑な文を書いてください,と指示しても,その指示の中に複雑な文の具体例を出さなければならず,実験としては成り立ちません。そこで,6コマ漫画の描写課題で書ける文の数を制限させるという条件を課すことで,限られた文の中に多くの情報を詰め込まなければいけない状況を生み出しました。「一番複雑な文を書く大会」というプロジェクト名で,もう一人の後輩(原くん)も誘って3人で研究をしました。中部地区英語教育学会で発表して,全国英語教育学会紀要に投稿し,無事採択されたというわけです(引用されたことないんですけどね….)。

こんな風に,誰かと話している中からアイデアが生まれて,それが研究になる,ということもあると思います。もちろん,こうやって形になった研究なんてほんの一部で,考えていった結果としてこれじゃ研究にならないな,といわゆるボツになったものも数え切れないくらいあると思います。進学される大学院にフルタイムの学生がたくさんいて,毎日毎日研究の議論をたくさんする,というような環境ではないかもしれません。そんなときは,研究会や読書会に参加したり,学会に参加したりしてみると,そういう議論の機会も得られると思います。

おわりに

4月からの大学院生活,楽しんでくださいね。応援しています。

質問したい方はどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

Shiny Appsでランダムグループ分けアプリ

はじめに

私って,授業でグループ・ディスカッションとかよくすることがあるんです。そのときに,ランダムにグループ分けをしています(そうしないほうがいいときもあるでしょうけど)。そこで,いつもは下記のサイトにあるRコードを使って,その場でRを回しています。

(続)Rで学生・生徒を指定した人数のグループに分ける関数

ただ,Rを開いて,コードと名前リストをコピペして,っていうのがやや面倒なんですよね。それから,クラスの人数を把握して,何グループ作ったら何人のグループがいくつできるのかとか,そういうのを瞬時に頭の中で計算できた試しがありません。ぱっとその場で計算の得意な学生に聞くこともあるのですが,ややもたつきます。そこで,機械にやらせちゃおう,というお話。

作りました(機械が)

ChatGPTに,こういうのを作りたい,と相談してコードを書いてもらい,修正したい部分が出てきたらその都度コードを書き換えてもらいながら1時間位で作りました。

https://yutamura.shinyapps.io/RandomGroup

名前リストをコピペして貼り付けて,グループ数を調整したらグループ分けがされます。

こだわりポイントはこんな感じで,今いる人数を計算して,何人のグループがいくつできるのかを提案してくれることです。

最初は,グループの数のあとに「つ」がついてたのですが,例えば,「5人のグループが10つできます」みたいな時が出てしまいます。数が二桁超えると「つ」はつかないですよね。もちろん,グループ数が多くなったら変えるみたいなロジックを追加することもできるっちゃできるわけですが,ちょっとめんどくさいなと思って(いや自分でコード書いてるわけじゃないんですけど),全部「個」にしました。「個」最強。ちょっと違和感あるにはありますけど。

100行まで名前リストを入力できるようにしているので,100人サイズのクラスまでは対応できるかなと思います。それより多くなったら2回に分けてもらう感じですかね。

インタラクティブな仕様にしたので,グループ数を変えていけば,その下の提案も変化して,自分で何人のグループがいくつにできるのかいくつか候補を見たうえでグループ分けができます(俺得)。

お試し用名前リスト

ChatGPTに,お試し用にコピペして使える名前リストを出してもらったので,このリストをコピペして実際にどんな感じか使ってみてください。

Alex Smith
Sam Johnson
Charlie Williams
Taylor Jones
Jordan Brown
Skyler Davis
Morgan Miller
Casey Wilson
Jamie Moore
Avery Taylor
Alex Smith
Sam Johnson
Charlie Williams
Taylor Jones
Jordan Brown
Skyler Davis
Morgan Miller
Casey Wilson
Jamie Moore
Avery Taylor
Alex Smith
Sam Johnson
Charlie Williams
Taylor Jones
Jordan Brown
Skyler Davis
Morgan Miller
Casey Wilson
Jamie Moore
Avery Taylor
Alex Smith
Sam Johnson
Charlie Williams
Taylor Jones
Jordan Brown
Skyler Davis
Morgan Miller
Casey Wilson
Jamie Moore
Avery Taylor
Alex Smith
Sam Johnson
Charlie Williams
Taylor Jones
Jordan Brown
Skyler Davis
Morgan Miller
Casey Wilson
Jamie Moore
Avery Taylor

※名前被ってたりして芸がない

おわりに

いや,こんなことやってる場合じゃないんだ本当は…

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

採択率の低い学会誌

はじめに

ある特定の学会誌の話をします。学会の中でどんな議論がされているのかは全く知りません。

学会誌はなんのために?

学会誌って,学会員の成果を発表する場ですよね。たくさん投稿してもらって,その中から選ぶプロセスが多少あったとしても,1本しか載らないような学会誌に私は投稿しようとすら思いません。また,存在意義もわかりません。

そんな低い採択率突破したところで,語弊を恐れずに言えば「たかが」学会誌です。著者の知り合い以外に大して読まれもしないでしょうし,ごく少数の論文を除いては誰にも引用されない可能性だってありうるのではないでしょうか。

そうであるならば,それなりに通りやすい国際誌に出した方が,そもそも届けられる読者の数が段違いですし,国際誌に載った,という「箔」もつきます。そういう状況ならそっちに出すでしょう。そういうひっくり返しようのないヒエラルキーを認めたら学会誌として価値がなくなってしまうんでしょうか。私はそうは思いません。学会は発表してもらって,論文投稿してもらってなんぼでしょう。

論文の質=著者の評価

「ヤバい」論文を載せたら学会誌の評価が下がるとか,学会の評判が悪くなる,とかそうした考えがあるのかもしれません。それが全くわからないわけではないし,何でもかんでも載せていいとは思いません。

ただ,論文の質が低かったらそれは著者の責任でしょうし,論文の評価は著者の評価に最も直結するのではないでしょうか。質の悪い論文があったら,いの一番に著者が批判にさらされるべきでしょう。そういう議論だって表立って行われれば健全な学術コミュニティのあるべき姿とも言えるはずです。

少なくとも今の段階では,多くの国際誌のように,インパクトファクターがついていて,どれだけ引用されるかといった指標で評価されたりランキングされたりするわけではないわけです。

どういう査読してるのだろう

自分自身が国際誌の査読をしてても,結果としてリジェクトになる率の方が多いです。そういう現実があっても,論文の質(研究の質)を引き上げる役目も査読のプロセスの中にはあるはずでしょうし,学会誌を出している学会にはそうした役割もあるはずです。

いい研究がどんなものか,という評価はある程度さまざまな観点があると思います。それ自体が悪いとはと思いません。でも,どちらかというと査読って,これはダメだよね、というのを弾いて(またはそこを修正してもらって)あとはどんどん載せればいいのではないでしょうか。もしも,これがいい研究なんだ,というのを対外的に示したいのであれば、その中から論文賞のようなものを選べばいいでしょう。

上で貼ったX(旧Twitter)で話題になった学会誌の査読委員や編集委員が論文書いていないとか論文指導していないってことはないような気もしますが(知らんけど),こういう意見もあります↓

学会をこの先どうしたい?

今後,学会がしぼんでいって終いにはたたむ予定,というのなら,今の方針でも全く問題ないと思います。ただし,「若い人が減っている」みたいなことを嘆くようなら,やってることちゃんちゃらおかしいと思います。

昔の名残りなのか驕りなのかわかりませんけど,時代が変わっていることを認識して学会のあり方みたいなのも変えていかないと,ただでさえ存続が難しい学会が多いのに小規模学会はもっと厳しくなること間違いないと思います。

おわりに

学会誌の査読って(というより査読システム全般って),そろそろ見直す時期に気ていると思います。こういう意見もあります↓

シンポジウム面白そうなんですけど,登壇者を誰にするか,っていうのは結構難しい問題だよな〜というのは具体的な企画をイメージして思いました。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

LME/GLMMで変量効果の相関を外すときのアレコレ

はじめに

線形混合モデル(LME)・一般化線形混合モデル(GLMM)で,変量効果をデザイン上で最も複雑なものにする最大モデルを作って,それでだめなら切片と傾きの間の相関パラメータを除いたモデルにトライする,という提案(Bates et al., 2015)をやろうとするとき,相関を除くのは”||”(double-bar syntax)なんですが,単に”|”を”||”に変えるだけじゃうまくいかないのどうすんだろうなと思っていたら解決策が見つかったぽいというお話です。

ちなみに,この方法はdata-drivenで探索的な側面があり,best practiceというわけではありません。

問題とは

具体的なコードとかは参考のところにも挙げたReduction of Complexity of Linear Mixed Models with Double-Bar Syntaxを見てください。

要するに,

m1 <- lmer (res ~ factorA + factorB + (1+factorA | ID), data =dat)

みたいになってるとして,factorAが因子型だとするじゃないですか。そのときに,「相関を外そう」ということで

m2 <- lmer (res ~ factorA + factorB + (1+factorA || ID), data =dat)

としてもうまくいかないよ,というお話です。これ,私もなんかうまくいかないなと思っていたんですが,解決策わからないので放置してました。「うまくいかない」というのはどういうことかというと,ただ単に”|”を”||”で置き換えるだけだと,切片とfactorAの第一水準(どういうコーディングしたかにもよりますけど)との相関パラメータは排除されるけれども,第一水準と第二水準の相関パラメータは残っちゃいますってことなんですね。でも,本当は全部の相関パラメータをなくしたいわけですね。

解決策

単純で,相関ありでfitさせたモデルの入った変数から,model.matrix()関数を使って変数名を直に取ってくる,ということです。m1という変数に相関ありのモデルが入ってるとすると,

model.matrix(m1)

とやってみます。そうすると,モデルの中に入ってる変数の列がガーッと出てきます。その中で,自分が使いたい列名をモデル式にいれる,ということですね。例えば,factorAが事前,事後,遅延テストという3つの水準からなっているとすると,

pre_post <- model.matrix(m1)[,2] #列番号は適当です
pre_del <- model.matrix(m1)[,3] #列番号は適当です

みたいな感じで一旦変数に代入した上で,

m2 <- lmer (res ~ factorA + factorB + (1+ pre_post + pre_del || ID), data =dat)

のようにさきほど代入した変数を使うと,”||”の指定によって相関パラメータがすべて除外されたモデルが作れるよ,ということのようです。

おわりに

詳しくは下記の参考記事を御覧ください。lme4長いこと使ってますが,知らないことまだまだありますね…。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

参考記事

The Correlation Parameter in the Random Effects of Mixed Effects Models

Reduction of Complexity of Linear Mixed Models with Double-Bar Syntax

2023年の振り返り

毎年恒例の振り返り記事です。これまでの振り返り記事も興味がお有りの方はどうぞ。

過去の振り返り記事

ブログのこと

この記事を書いている2023年12月30日時点でのこのブログのpage viewは183,189です。年間のアクセス数は21,444で,2021年に近い数字になりました。2022年で落ちたのが戻ったという感じです。今年は投稿数が昨年と同じくらい(1本減少)です。ただ,記事の分量は昨年より増えて2021年度と同じくらいです。一本書くのに結構ハードル高いなと感じるのは分量ですかねぇ。

今年の記事で閲覧数が多かったのは以下のような記事でした。

1番目の話は,雑誌『英語教育』に記事を書いたのですが,2ページの原稿では書ききれない補足をブログ記事にしたという感じです。まあブログ記事の方が本体の雑誌原稿より長いんですけどね。2本目はquerie.meの質問に答えたものです。聞く人ちゃうやろ〜ってやつですね。3本目の話は後述するとして,4本目は読んだ本の話,5本目は学会のシンポジウム登壇後の雑感です。こうやって振り返ると,2023年度は自分的には反響がある記事を書けなかったんだなと思いますね。2023年のアクセス数1位はいまだに2022年の記事ですし。まあブログ記事ってview数稼ぎでやってるわけじゃないのですが,やっぱり読まれる記事かどうか,というのは気になっちゃいますよね。

仕事のこと

2023年の仕事での大きな変化は,大学院の科目を教えるようになったこと,3つの大学で非常勤をやるようになったことかなと思います。

これが変化として大きいのは,初めて英語科目やゼミ以外の講義科目を教えることになったからです。どの授業もとにかく授業の準備がとても大変で,講義科目を自分が満足できるレベルで教えるにはまだまだ勉強が足りないことを思い知らされました。来年度以降改善を重ねていきたいです。

非常勤のうちの一つは教職科目の英語科教育法です。この授業の担当は個人的にもすごく感慨深いものがあって,その事を書いた記事が上記の「はじめての英語科教育法 」でした。詳しくはブログ記事をお読みください。

授業以外では,これまでのように同僚の先生についていくだけではなくて,自分がリードしていくような仕事をいくつか任されたというのも仕事面での変化かなと思います。今までは誰かの決断にいい意味で乗っかっていれば仕事をが進みました。ところが,今年経験した仕事のいくつかは自分が決断をして周りをリードしていけないというものでした。もう6年目なのでそういう仕事もこれから増えていくと思いますし,小さいことでもそれが経験できたのは自分をまた成長させてくれたかなと思います。

昨年の振り返り記事で次のような事を書いていました。

来年度は,また学内で今とは違う役割になることや,授業の担当で大学院の科目をもつようになることなど,今から不安なくらいたくさんのことが待ち受けているので,チャレンジングな2023年になるだろうなと思います。自分の中でも,そこが一つの分岐点というか,一皮むけるために必要な,色々耐える年になるだろうと思っているので,そういうのを楽しみつつ,それらを乗り越えた先に自分が成長したと思えるようになっていたいと思います。

正直なところ,自分の中で分岐点になるというほど何か大きな自分の成長があったのかというとどうなんだろうと思います。ただ,2023年が始まる前にはそれくらい大きくとらえていた事を乗り越えて,そのことを後から低く見積もっているというのは,自分が成長したということなのだと捉えるようにしたいと思います(実際は大したことをしなかっただけという可能性もあるんですけどね)。

2023年は,研究という意味では単著論文が1つと共著論文が1つ,出版されました。そして,共編著書も出ました。

第二言語研究の思考法:認知システムの研究には何が必要か

本の方は福田さんが担当編集者と著者陣のお尻を叩きまくって頑張ったからこそこのタイミングで出版されたと思います。そうじゃなかったらあと1年かかっててもおかしくなかったのではないかと。その他にも学会ワークショップ,学会シンポジウムの登壇,学内の全学FDでの登壇,併設校での講演等々の喋る仕事も結構やったなと振り返ってみると思います。お腹いっぱいです。

運動習慣と健康面

2023年も自転車と筋トレの2本柱をある程度継続してやっていくことができました。今年も腰の調子が悪くなったりもしましたが,整骨院に通ってメンテナンスをしているからか,そこまで酷くはならずに1年過ごせたかなと思います。夏にサボったのはありますが,今でも毎週ちゃんと運動しているのでそういう意味での健康面については維持できていそうです(7月に声が出なくなるくらい喉がおかしくなりましたけど)。

プライベートのこと

2023年の年明けすぐに再婚をしました。1年近くお付き合いをしていた方です。それがまず大きなことでしたね。それから,家を建てたこともすごく大きな出来事でした。同棲を考えたときに,ふたりとも家のことにこだわりがあって,その家にあったものを揃えるタイプだったので,賃貸で暮らすよりも家買ったほうがよくない?と考えました。そして,8月くらいから家を探し始めました。基本的に私が物件を探しました。いろんな会社から資料を取り寄せたりInstagramの広告に出てくる会社に登録して物件を見つけては妻と共有しているEvernoteにクリップしていきました。最終的に注文住宅を建てることになり,家の設計的なところは妻がInstagramでたくさん調べてどういうところを抑えないといけないのかとかどういう間取りが便利なのかとか,妻が主導で決断していった感じです。「家を建てる時奥さんとはどんな風に意見を出し合ったんですか?うちはなかなか夫婦で揉めることが多くて難航してます。」という質問に答えたこともあります。4月に完成して引っ越しました。そこから色々買い揃えたり等々で家の環境が整うまでには結構時間がかかった気もしますね。でも,本当に家を買ってよかったなと思います。QOLが爆上がりです。

おわりに

2023年も多くの方々に支えられて,幸せな1年を過ごせたと思います。公私ともに,たくさんの方にお世話になりました。直接お会いできた方も,できなかった方も,本当にありがとうございました。学会で初めてお会いして,ブログ読んでますと言われることもあって,嬉しいけど恥ずかしくて「あわわ」って感じになりますが,そういう出会いがあるのもブログを書いていることの良さかなと思っています。

このブログを読んでいただいている方も,そうでいない方にも,私に関わるすべての方に感謝申し上げます。

今年も1年お世話になりました。来年もよろしくお願いします。皆様,良いお年をお迎えください。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

「生徒のレベルの差があるとうまくいかないのでは」という懸念についての疑問

はじめに

特急サンダーバード50号の中で書いています。

タイトルのような話は非常勤でやっている英語科教育法の授業でよく聞かれる質問です。

これはできる子には楽しいかもしれないけれど,できない子はなかなか発言ができないのでは。

できない子が「何もできなかった」と劣等感を覚えるのではないか。

できる子ができない子の分も頑張って損するのではないか。

というような。一語一句この文言ではなかったとしても,そういうたぐいの懸念を学生は抱くようです。これはおそらく学生に限った話ではなく,ある程度広く共有されることであるのかもしれません。学校教育に限らず,高等教育でも同じような懸念を持たれている人がいても驚きません。

私は,その根本をとりあえず考え直してみようという話をいつもしています。

以下,この記事では,便宜的に「できる子」「できない子」とか「上の子」「下の子」といった書き方をしますが,それは単純に,「英語が得意・不得意」とか,「英語の熟達度が高い・低い」という意味でそれ以外のことで人を序列化する意図は全くありませんのでその点はご留意ください。

根本の問題

上述の懸念が発生するときに,教師として,差があってもうまくいくような仕組みを作ろうとか,あるいは,熟達度が同じくらいの学習者同士が一緒に課題に取り組むようにしようと考えること,それ自体は全く悪いことではないし,むしろ授業をより良い方向に持っていこうとする営みとして奨励されるべきことでしょう。しかしながら,私はその手前の「そもそも論」を考えてみたいのです。

その「そもそも論」とは,なぜ学習者の熟達度にギャップがあるときに,できる子ないしはできない子が学習に対してネガティブな感情をいだいてしまうのか,ということです。そして,その原因となっているattitudeというか考え方というか,そこに対してアプローチしてあげたくない?ってことなんですね。

そもそもそれはペアワーク・グループワークでやるべき活動か

その原因を考える前に一つだけ述べておくと,そもそもそれってペアワークが適している?みたいなのは考えたいです。ペアやグループでやることが目的化してしまうと,この問題にぶち当たるでしょう。
一緒にペアワークをさせるでも,結局は「個人ワーク」をペアワーク「風」にしただけなら,できる子ができない子に教えてあげて終わり,ですよね。もしそういうレベルの活動を想定しているのであれば,そもそもその活動の仕掛け自体を見直すべきでしょう。一方で,「コミュニケーション活動」とか「タスク」と言われるようなものをやるときに,レベルの差があるから「難しい」と感じるのだとしたら,それはなぜそう考えるのか,ということを解きほぐしたいです。

なぜうまくいかないと思うのか

とりあえず英語の授業で何らかのペア/グループ・ワークをすることを考えてみます。その際に,学習者の英語熟達度に差がある,というのは,次の二つのケースが想定できるはずです。それぞれについて,どういう懸念なのか,それの根本はどういうことなのかを考えてみます。

  • できる子を”demotivate”してしまう可能性
  • できない子を”demotivate”してしまう可能性

レベルを下に合わせるのは損?

できる子ができない子の「レベルに合わせてあげる」ことが,できない子にとってはマイナスだという認識があるのではないか,というのが1つ目の論点です。確かに,できる子ができない子をただただ「待ってあげる」というのは,できる子にとっては「時間の無駄」と感じられてもおかしくないでしょう。でもそうではなかったとしたら,つまり,二人で協力してなにかに取り組み,一つのゴールに辿り着く,というような設定がされているのであれば,そこに対する取り組みは,「それぞれのレベルで,自分のベストを尽くしていればそれでよくない?」と私は思っています。

冒頭の,

できる子ができない子の分も頑張って損するのではないか。

みたいなのは,貢献度がイーブンじゃないときに上の子が損した気持ちになってしまうっていう話ですよね。で,この問題を解決するために,ターンを固定したり,一人何回は発言しようと目標を決めたり,とすると思うんです。その工夫自体はあってもいいと思いますし,その制限のかけ方がいい方向に作用することもあると思います。ただ,それをやる方がむしろ,できる子にとっては自分がどんどん発言できるのに,それが抑制されてしまう,ということにもなりかねません。また,その事自体が,「自分だけが頑張っている」という気持ちにさせてしまう可能性もあるわけです。そういうときに,レベルが上の子が,下の子をうまく引き上げられるかどうか,が問われてくるし,そのレベルを求めることは,上のレベルの子をさらに一段上に引き上げることにもつながるわけです。

これは私がいつも授業で言うことなのですが,基本的には,英語教師はクラスの中で一番英語のスキルがある存在だからこそ,このタスクを私と一緒に行うことになったら,必ずタスクを達成できるに決まっているし,私が誰と組んでもそうできる自信がある。さらに,英語の熟達度が高い人とやることによって自分のレベルも必ず引き上げられるよって言うんですね。

ペアワークのときに割り切れなかったらもちろん3人グループを作ることもありますが,どうしてもペアでやりたいなというときには教員が入ってペアの相手になります。そうすると,やっぱり学習者としては,先生とペアだと緊張するとかそれは避けたいとか思うわけじゃないですか。でも,そうじゃなくてむしろレベルが高い人は苦手な人を引き上げられる存在だし,そうであるべきじゃない?って私は思います。どんな言語のコミュニケーションでも,母語話者同士でなければ(母語話者同士でももしかしたら),熟達度の差が大なり小なりあるのはある種当たり前,という環境のほうが多いのではないでしょうか。その時に,レベルが上の人は,「なんだ,この単語も知らないの?」とか,「こんなにゆっくりはっきり喋ってるのに伝わらないの?」とか,普通の言語コミュニケーション環境では思わないはずです。むしろ,伝わりやすい語彙選択をするようにするだろうし,難しい単語が理解されなかったらそれを説明するでしょう。相手のレベルに合わせることが当然のように求められるし,そのことを不満に思う人がいたとしたら,それってその人の「人間性」みたいな部分を疑いたくなっちゃいませんかっていう。

本来私達の社会は,そうやってみんながみんなを助け合って,得意なところと苦手なところを組み合わせながら生きているはずです(もしそうなっていないとしたら私はそれは理想の社会ではないと思います)。教室環境もある種小さな社会だと考えたら,そこでも同じ論理が適用されていいのではないでしょうか。というのが私の考えです。

下の子が劣等感を覚える原因

上の子が損した気分になる,ということは,下の子が劣等感を覚えるということのコインの裏表だと思います。つまり,下の子が「私なんかとペアになって,相手の人は迷惑じゃないだろうか」と思ってしまうのは,「上の人と下の人が組むと上の人が損する」というのがどこかで内面化されているからではないかなと思うのです。

何らかの活動の中で,自分の中にも与えられた役割があり,自分のレベルで何らかの貢献をして,その結果として相手と一緒に何かのゴールを達成できたのだとしたら,それは下の子の自信につながると思うのです。

例えば,間違い探しのタスクをやったときに,とにかくできる子がたくさん”There are two cups on the right end of the desk. Is your picture the same?”, “The man on the left has long hair. What about your picture?”とかたくさん質問して,できない子はその質問に対して”yes” or “no”という短い応答でしか答えられなかったとします。で,確かに,一人ひとりのパフォーマンスを評価したら,できない子は全然質問してないから評価が低くなる,のかもしれません。実際に成績をつけるとなればこのペアの二人に同じ評定はつかないでしょう。それでも,下の子は上の子の質問を正確に聞き取って理解し,相手から受け取った情報と自分の手元にある情報を照らし合わせて,yes or no(あるいは別の短い応答)を返していたのだとしたら,それはそれでその子は意味理解の部分ではすばらしいパフォーマンスを見せていたと言えると思うのです。そこを評価してあげた上で,じゃあ今度は自分の持っている絵の情報を一つでも相手に伝えられるようにしようね,と声がけをして,その上でそのために必要なサポートを教師が提供してあげれば,その子の自尊心が傷つけられることなく,前向きに課題に取り組めるのではないでしょうか。

おわりに

もちろん,私の言っていることは理想論だとは思います。実際にはそんなにうまくいくわけないとおっしゃる方もいると思います。人と比べるのではなく,過去の自分と比較するんだよなんて言ったところで,大人だって他人と比べて羨んだり蔑んだり落ち込んだりする気持ちをコントロールすることは容易ではないわけです。それを児童・生徒・学生に求めたってそんなうまくいかないよってこともあるとは思います。しかしながら私は,そういう自分にフォーカスする練習というのは早く始めたっていいと思うしむしろおとなになってからその壁にぶち当たって病むよりはもっと若いうちからそういう経験したっていいんじゃないとすら思います。

そうやって,学校の中でのよい関係性がどんどん社会に広まっていくことで,世の中がもっといい場所になればいいなと思っています。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

「教師の職権濫用では?」というご相談

はじめに

最近なんか連投してますね。質問コーナー。

先生たちが職権を濫用し、講義を好きなようにすることができる事に腹立たしく思ってしまいます。教員が職権を濫用している例として)休講の場合、必ず補講を入れるべきであると思いますし、それができないのであれば、一講義の授業分のお金を返金することが普通であると思ってしまいます。学生がレポートを書く時間や最終プレゼンの練習に一講義の授業を全て費やす先生もいらっしゃいますが、それもどうなのかなとも思ってしまいます。この考え方っておかしいでしょうか?

回答

おかしいとは思いません。すでにそのようにされているかもしれませんが,補講の問題を解決したいと考えているのであれば,ご自身の大学のしかるべき部署に連絡した方が問題が解決される可能性が高いと思います。後者の授業形態の話は担当者に直接伝えるのが良いかと思います。実際に直接伝える機会がなくとも(あるいはそれが難しいと感じられるようであれば),授業評価アンケートなどで学生から意見を送ることはできると思いますので。

休講に対する補講

さて,休講に対する補講ですが,これが職権濫用と言えるかはともかく,休講の補講をしないのは良くないですね。私が関大に着任して学務委員をやっていたときには,休講の場合に補講してるかチェックした資料が会議に出ていたような記憶があるので,組織によってはそこを徹底していると思います。お金を返せという気持ちはわかりますが,授業料を返すというのは難しいでしょうね。1講義いくら,という形で授業料を払っているわけではないので,1コマ分がいくらという計算ができないでしょう。

授業中にレポート書いたりプレゼン準備したり

学生がレポートを書く時間やプレゼンの練習というのは休講の補講とまた違うレベルの話かなと思います。授業形態の話なので,こちらはより教員個人の裁量が大きいと思います。授業の中で書いたり準備をする時間を取ることに意味があるならともかく,質問者さんがこういうことを私に問うということは,受講者の中にそのように感じられていない人がいるということですね。教員の説明不足か,活動の組み方が有効ではないのでしょう。

私は,英語ライティングの授業で,授業内に書く時間を取っていました。それは,その授業の中で書いている途中に即時フィードバックをするためでしたね。書いているその場でフィードバックがもらえる,ということに学生側のメリットがあるということでそのようにしていました。
個人的には,授業形態は学生も関与できる部分だしどんどんしていいと思っています。教員が全べてを決めるのではなく,学生とともにいい授業を作っていく,つまりある程度の教員側の権威を手放す勇気が求められていると思っています。学生側の要求がすべて認められるべきとかそういうことではなく,学生の要求を教員が検討し,妥当であれば授業にそれを反映させる,ということをしてもいいと思うし(逆に言えば妥当ではないと考えるのであればそう説明すればよい),それは学生側の権利でもあるよな,ということですね。

おわりに

個別具体的な事情が色々あると思うので,質問者の方からの断片的な情報だけでそれぞれのケースについてなにか言うことはできないと思っています。したがって,上に書いたことはあくまで一般論として,休講したら補講すべきだし(そういう運用になってる大学がほとんどではないかと),授業形態や授業の活動に対して学生が不満に思う現象があるのであればそれはうまくいっていないので何らかの形で改善が必要だろうと思う,という話でした。

質問したい方はどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう

たむらゆう。

サッカーをやっている息子さんについての相談

はじめに

Querie.meでいただいた質問シリーズ。子どもがいない私がこの質問にどう答えたらいいのか,かなり難しいのですが,頑張って回答を書いてみます。

質問

小2の息子についてですが、夏から強豪チームに移籍して週5練習です。前は息子だけが上手くて井の中の蛙状態で、舐めプばかりしていましたが、今のチームでは上手い子ばかりで、息子は弱腰です。親としてどうやってかかわっていったらよいでしょうか。チームメイトはみんな上手いし毎日サッカーをしているので彼らに追いつく方法もわかりません。自信をもってプレーしてほしいです。

回答

私の経験

まず,少しだけ私の話を書かせてください。私はサッカーが好きというのは知られていることかと思いますが,サッカーをプレーしていたのは幼稚園の年長から小学校の6年生までの7年間です。中高の部活はバスケ,大学でもバスケサークルに所属していました。サッカーは体育でやったり,あるいは大学に入ってからはフットサルをやったり程度でした。

この質問を読んで最初に思い浮かんだのは自分が中学から高校に進学したときのことです。中学のときは,自分自身,バスケがそれなりにうまいと思っていました。中学は人数が少なかったので井の中の蛙状態で,チームは別に強くなくていつも3回戦くらいで地域の強い中学校と当たったら負ける,という程度でした。でも,バスケが強い学校でやりたいと強く思っていたので,バスケの強い高校(二個上はIH,WC両予選で東京優勝,自分たちの代はIH予選東京4位)に進学しました。人数も1学年20人くらいました。東京中から,中学時代はキャプテンだったツワモノ達が集まってきていて,それこそ「弱腰」でしたね。それでも,自分なりに勉強して,自主練はしていました。全体練習のあとにトレーニング・ルームに行って,帰れと言われるまで筋トレしたり,朝早く来て坂道ダッシュしたり,昼にシュート練習をしたり。自分なりにはその時にできる精一杯をやったつもりでいましたが,今考えればがむしゃらさが足りなかったな,気持ちが弱かったな,と思います。

結果的に,公式戦の試合は一度しか出たことがありません。それも,3年生の時の最後の夏の予選の一回戦とかで何十点も差がついた第4ピリオドの残り1分くらいです。一度だけボールに触って,スリーポイントシュートを打って,無様に外れました。それが私が高校三年間で出た最初で最後の公式戦の思い出です。それでも,レベルの高い高校でやったことで自分自身,バスケがうまくなったのは間違いありません。大学はサークルに入っていました。普段の活動はバスケ初心者もいたし,まあ「ぬるい」と1年生のときは思っていました。それでも,夏はサークルの中でも「ガチ」の人たちで集まって,大会合宿に出ていましたし,市民大会に出れば本気の大人たちとの真剣勝負でした。勝ったり負けたりで,別にチームもそんなに強くはなかったし,自分自身もその中で特別うまいわけではありませんでしたが,程よい緊張感の中でバスケができたことは本当に楽しかったという記憶があります。

なぜサッカーをやっているのか

いただいた質問だけでは,なぜサッカーをやっているのかはわかりませんが,当然,「サッカーが楽しいから」という理由があると思います。また,夏から強豪チームに移籍したとのことですので,もっとサッカーがうまくなりたい,そのためにサッカーが強いチームでやりたい,という気持ちがあったのではないかと推察します。

となると,「サッカーがうまくなる」のが目的なのであって,「他のチームメイトに追いつく」,ことが目的ではないように思います。周りに仮に追いつけるかどうかよりも,どうやったらサッカーがうまくなるのかを息子さんと一緒に考えてみてはどうでしょうか(と子どものいない私がアドバイスをするのも失礼な話ですが)。もちろん,小学校2年生の子どもに,「周りと比べないで,自分の成長にフォーカスしよう」って声かけたところでそれがうまくいくとも限りません。大人でも周りと比べずに自分に矢印を向けるのは難しいことですから。

自信を持ってプレーするためには,自分の得意なことを伸ばす,というのも一つの方法かもしれません。私は普段Jリーグをよく見ていますが,やっぱりサッカー選手って何かこれっていう特徴がありますよね。ダワン選手だったら跳躍力がすごくてヘディング強い,食野選手なら両足で強烈なシュートが打てる,山本選手は相手を剥がしたり決定的なパスを通すのがうまい,黒川選手はドリブル突破,みたいな。

本人がどうしたいか

夏の移籍が自分の意志によるものだったとすると,移籍したいと自分の希望でしてはみたものの,うまくいっていないことに本人もどうしたらいいのかわからなくなっているのかもしれません。自分に矢印を向けて,その(より厳しい)環境で頑張れるのであれば,それを応援したいですよね。

ただ,もしかすると,移籍が失敗だったと思っている可能性もあります。そうはいっても自分で移籍したいと言いだしたのだし,ここで,「やっぱりここは嫌だ」といってしまったらそれが「逃げ」とか,「弱虫」だとか思われてしまうかもしれない。あるいは,せっかく親に移籍を実現してもらったからこそ,また環境を変えるということに二の足を踏んでいる可能性もあります(迷惑をかけたくないとか)。私は地域のサッカー・クラブのことはよくわかりませんが,もしも,他にもっと息子さんのレベルにあった場所で楽しくサッカーができる場所があるのなら,そういう場所に移ってもいいのかもしれません。私は,スポーツは自分のレベルにあった場所で楽しく取り組めることが一番だと思っていますし,やっぱり試合に出てなんぼだよなとも思っています。

おわりに

自分にもし子どもができて,こういう状況になったら自分はどう考えるのだろうなと色々思いながら書きました。相談者の方が,お一人で息子さんを育てているのではなく,パートナーの方がいるのであれば(そういうのもわからないので言い方が難しいです),パートナーの方ともこのことを話し合ってみてはいかがでしょうか(もう話し合った上で質問いただいているのかもしれませんが)。また,いちばん大事なのは息子さん本人の正直な気持ちだと思いますので,まずは親が子どもを全力でサポートするという姿勢を見せた上で,本音を聞いてあげてください。息子さんが楽しくサッカーを続けていくことができるよう願っています。

あまり有益なことは書けませんでしたが,私からは以上です。

質問したい方はどうぞ。

なにをゆう

たむらゆう。

https://querie.me/user/tam07pb915

おしまい。

この数年で博士号をとったり、大学教員になった先生方に望むものはなんですか?

はじめに

久しぶりにブログ記事で回答します。

質問

ヤットさんに憧れ、宇佐美選手と同年代です。 次節、勝ちましょう!!!! (中村俊輔選手の引退試合も熱いです!!!) ここ数年に権力がある世代は、英語教育を研究として成立させるために尽力していただいた世代(学会の偉い先生方など)。次の世代は、ネットを駆使して英語教育を一般化した世代だと思っています(発信力が強い先生方)。そこで、この数年で博士号をとったり、大学教員になった先生方に望むものはなんですか?

回答

ヤットさんは代表でずっと見ていて好きな選手でした。ガンバを好きになったのもヤットさんを生で見れるというのも大きな理由としてありましたね。実際に,初めて買ったユニはヤットさんのでしたし。宇佐美選手と同年代ということはプラチナ世代ですか。私は倉田選手・藤春選手と同い年です。

私は味スタの近くが地元なので,中学生のとき,鹿島,浦和,横浜FM,ガンバなど,強豪チームが来るときにはによく500円でアウェイ・ゴール裏席に行っていました(当時はFC東京もヴェルディも強くなかった)。横浜FM戦に行って,眼の前で中村俊輔選手の直接FKを見たこと,今でも覚えています(ゴールは決まらなかったんですが)。ちなみに,一番怖いなと思ったのはガンバ大阪のゴール裏でしたね笑 今はそこに自分もいつも座っている(立っている)わけですが。

さて,急に英語教育の話になったのでサッカー界隈の人ではなく英語教育界隈の方ですかね。私個人が他人になにかを「望む」ようなことはないですね。以前,querie.meで「大学教員が求める小学校外国語科の授業の在り方は?」と聞かれたときに,「求めたりしない」とブログに書きました。

自分自身に求めて行かないといけないと思っているのはこれまでの英語教育研究を顧みて反省することでしょうか。私自身は英語教育研究のど真ん中にいるとは思っていないですが。英語教育研究とはやや異なりますが,この前出た本は一つ,そういう仕事かなと思ったりしています。

第二言語研究の思考法:認知システムの研究には何が必要か

質問したい方はどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

英語嫌いと体育嫌い

はじめに

体育がきらい (ちくまプリマー新書 437)

英語と体育ってなんか似ている部分もあるのではないかと思いながら手にとって読んだ本。そこから色々考えたことを書きます。

英語と体育って似ている

英語指導って,結構体育会系のノリで,とにかく練習あるのみとか,根性とか,忍耐とか,そういうのも実際ある気がしています。そういう側面が言語学習に全くないと否定するつもりはないのですが,そういうのが前景化したときにそれに対して拒否感を覚える人がいることを忘れたくないなと思います。

体を動かすことやスポーツで全員がプロアスリートを目指すわけではないのと同じで,英語だって,みんながそれぞれそれなりのレベルで,でも英語を使うことや英語を学習することにポジティブに向き合って,自分の成長を感じられる,そうであれば良いはずだと思います。

運動は健康との繋がりがあるので,そういう,自分のペースで,自分にあったレベルで,とにかく続けることがいいと言いやすいというのはあるかもしれません。メンタル的にも運動でリフレッシュされる部分はありますしね(このあたりは非専門家なので感覚で言ってますが)。ただ,言語学習ってなかなかそういうのを感じにくい部分はあるかもしれません。運動に比べると。

運動の分野でも,どれくらいハードなトレーニングをやっているかとか何キロ挙げたとか何キロ走ったとか,そういうので競争する人たちはいるでしょう。でも,そういうのにコミットしない人もいるはずです。言語学習は何かみんなが競い合っているような感じがしてしまうんですよね。そこに,体育会系っぽい要素を感じずにはいられません。先日anf先生とお話したときに,「英語マッチョ」という表現がまさに英語と体育会系というものの親和性の高さを表しているよねなんていう話題も出ました。

本を読んで印象的だったこと

私が本を読んで印象的だったのは以下のことです。

  • 好きにならなくていい(体育好きが体育教師になるし体育を好きにさせようとする)
  • 「まずやってごらん」という先生の一言が体育が苦手な人にとってきつい
  • 体育の授業を少中高大と経験しても,大人はお金を払ってジムに通わないと自分の体をコントロールできない(体育の敗北)

どれも,英語との類似点だと思ったからこそ印象に残っています。1つ目は,英語が好きな人が英語教師になるし,英語教師は英語を好きにさせようとする,英語(言語)ってこんなに面白いんだよとアピールしてくる,というように考えると,結構当てはまるよなぁと。他の教科がどうなのかわからないですが。もちろん,そのポジティブさが英語学習に対してポジティブな態度の学習者を増やしている側面は否定できないでしょう。それ自体が悪ではありません。一方で,著者の結論は,好きか嫌いかの二択にしなくていいし,その間にグレーゾーンがあるというものです。つまり,「嫌い」にはなってほしくないけれども,「好きにならなくてもいい」ってことですね。

2つ目は,私も結構こういうスタンスで授業をやってしまっていると思いました。体育というのは,自分の体がみんなの注目を浴びることになるので,とても辛いという話です。とくに,跳び箱やマット運動など,一人ずつやるような種目だとどうしても自分がやっているところを誰かが見ていることになりますよね。そこで,苦手な子に「まずやってごらん」と言うのは体育が苦手な人にとってはとても苦痛だということです。英語でいうと,みんなの前で音読したり,みんなの前で英語で発表したり,意見を述べたり,というのが自分のことば(体の一部といってもいいでしょう)がみんなの注目を浴びるという点で類似性があると思いました。基本はペアワークやグループワークでも,その成果をクラス全体で共有したいですよね。せっかくだからそこも英語でやりたいと思いますが,クラス全員の前で英語を口にする機会,やはり結構ハードルは高いですよね。

よくある,「英語っぽい発音が笑われる」という話や,その逆で「発音に自信がないから恥ずかしい」というのもつながるものがあるかもしれません。まず,どんな言語だろうが,母語話者だろうが第二言語話者だろうが人が喋っているのを笑うなと言う話なんですけども。体育でもそうなんですが,仮に周りがどんなにサポーティブな雰囲気でいてくれたとしても,やっぱり自分自身が自分の体やその動きを「無様」なものだと思ってしまったらみんなに見られたくないと思うのは当然ですよね。

3つ目は,語学教育ビジネスと相似系だなとすぐ思い浮かぶ人も多いのではないでしょうか。小中高(大)と英語を勉強しても,お金を払って英会話学校に通ったりオンライン英会話プログラムに通わないと言語学習ができない,ということですよね。本屋さんに行けば語学関連書籍がたくさんあったり,テスト対策本もたくさんあったりしますよね。書籍があれだけあるのも,売れるから,ですよね。「痩せる」とか「ムキムキになる」とかを煽るのと,「ペラペラ」とか「ネイティブのように」を煽るのは,似ているよなとやはり思ってしまいます。ただし,書籍は基本的に自学なので,ジムに通うこととはまた違うのかなとは思います。

そうは言っても,自律的に言語学習をする術を身に着けさせることなく社会に放り出しているのかもしれない,とは言えると思います。大人がジムに通うことを体育の敗北と呼ぶならば,英語学習についての現状は「英語の敗北」と呼べるのかもしれません。

おわりに

体育も英語も,その教科に対してポジティブなイメージを持っている人が一定数いることは事実でしょう。だからこそ,そのイメージを誰しもが持っていると思い込んでしまいがちです。そこで立ち止まって,英語嫌いや体育嫌いを考えてみることが大事なのだと思います。これって別に一般的に多くのことに当てはまることで,陳腐な言い方をすれば「客観視をする」とも言えるかもしれません。「体育会系っぽい」授業を自分がしていないか,振り返って考えるいい機会になりました。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。