カテゴリー別アーカイブ: 研究

SLA批判のXポストを読んで考えたこと

はじめに

SNSで「SLAの知見で授業が刷新されるなら,学習者の熟達度はもっと上がっているはずだ」という投稿を見ました。もっともに聞こえます。ただ,読み終えたあと,批判の照準が少しズレているのではないかと感じました。この記事では,その自分が感じた違和感を整理し,誰にどの問いを投げるべきかを書いてみます。

何が問われているのか(論点の整理)

この投稿から私が感じたことは次のとおりです。

  • 授業内の言語活動をいくら精密に記述しても,短期には熟達度上昇につながらないのではという疑問
  • 「適切に研究してその成果が適応されていれば能力は上がるはずだ」という短絡的な因果推論への違和感
  • SLAはそもそも授業の即効性を直接示す分野なのか,という素朴な問い

SLAとISLAの役割の仕分け

(私が思う)SLAはメカニズムの説明に重心があり,ISLAは教室(または指導環境)という条件での因果検証に重心があります。SLAの役割は,第二言語がどのように習得されるかという仕組みを記述・説明することです。これにより,介入の設計図に相当する理論的コンパスを提供することもできますが,それは第一義的な目標ではないでしょう。

一方で,ISLAの役割は,教室(指導場面)という条件のもとで,タスクやフィードバックなど,教育的介入や学習方法の違いがどの程度効くかを検証することでしょう。よって,件のポストに対しての一次的な応答責任はここにあります。

ポスト主の方がおっしゃるディスコース研究の価値もあるでしょう。それは,学習の過程を可視化する「街灯」です。どんな学習環境なのか、そこで実際にどんな指導・学習が起こっているのかを記述することは,そこを明らかにできるでしょう。街灯そのものは目的地ではないですが,道を安全に歩かせることができます。こういう研究には,即効性のあるなんらかの処方箋的なものは期待できません。

要するに,「SLAの知見では英語教育は変わらない」という問いを投げるなら,まずISLAの設計と測定に向けて問うのが筋であって,SLA研究に向けられる批判なのかなという気がしてしまいました。

効果検証の設計(ISLAが明示すべきこと)

言語の熟達度というのは,そんなに即効性をもって観察できるようなものでは本来ないはずです。発達は,遅いんです。よくある実証研究であるような短期的な観察で効果を断じるなら,観測設計に対する説明責任が生じますよね。そうなると,ISLAが明示すべき最小セットはこんな感じではないでしょうか。

  • 成果指標は何か(テストスコア,パフォーマンス,転移など)
  • どの時間幅で測るか(短期,中期,追跡)
  • どの比較を置くか(統制群,対照群,事前事後)
  • 効果量と不確実性の示し方をどうするか
  • 測定が中間過程の所見(ディスコース)とどのように結び付くか

これらを明示すれば,「役に立つ/立たない」という印象論から,検証可能な議論へと移行できるのではないかなと思います。それはISLA研究者だけの問題ではなく,その研究の成果を受け取る側も,こういった視点で研究を読むことで,研究の成果に対して過度な期待を抱くことも抑制できるのではないかなと思います。

研究の成果が能力が大きく向上させることはそもそもない

そもそも,私はなんらかの言語教育研究の成果が,何かの能力を大きく向上させる結果を生み出すということはないと思っています。そんな単純なことではない。一般化可能なレベルの知見なんて誰でもわかるような「そりゃそうだろう」クラスのことだと思いますし,新しい発見!なんてものはおそらく別の要因でかき消されてしまうような小さな効果しか生み出さないでしょう。件のポスト主の方も,だからこそ教室ディスコースの大事さを訴えているのかもしれませんが。

おわりに

SLAは仕組みを語り,ISLAは効果を測るのだ,というような役割分担がある気がしています。「SLA」というおおざっぱな括りでの批判の照明を当て直し,誰の主張にだれがどう答えるべきかを私は整理したいのです。SLA一般への不信ではなく,授業の有効性に一次的に答えるのはISLAであって,SLA=メカニズムの説明,ISLA=指導環境での因果検証という前提は,言語教育に関わる人,SLA研究をやっている人,そして得にISLA研究をやっている人,それを広めようとしている人には自覚的であってほしいです。そしてもう一つ大事なこと。言語教育研究が熟達度の大きな向上という結果を教育現場に広く行き渡らせることはないのだ(それは相当に実現可能性の低いことだ)という自覚も同時に必要なのだと思います。SLAだろうがISLAだろうが,研究はそんなに単純なものではないし,それが社会に適応される過程だってそんなに単純なものではないのですから。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

どんな研究が必要か

はじめに

私の所属する関西大学外国語教育学研究科には,博士論文研究の計画書を提出し,その計画について口頭試問を行う「研究基礎能力試験」があります。この記事は,その発表を聞いて私自身が考えたことを整理したものです。あらかじめ強調しておきますが,ここで述べるのは特定の方の研究や指導に対する批判ではなく,あくまで一研究者としての私のスタンスです。

当たり前を疑う

私は常々,研究者には「既存の研究を乗り越える視点」を持っていてほしいと思っていますし,自分自身もそうありたいと考えています。本当に面白い研究というのは,多くの人が「当たり前」だと思ってきた前提を揺さぶり,新しい視点を提示するものだと感じています。そうした挑戦がなければ,研究の発展には限界があるでしょう。なぜなら,もし前提に誤りや誤解が含まれていれば,その上に積み上げられる研究も十分な価値を持たなくなってしまうかもしれないからです。

もちろん,先行研究は大切です。しかし「大切である」と「常に正しい」は同義ではありません。すべてを疑ってかかる必要はありませんが,「本当にそうなのか」という視点は,博士論文のような規模の研究プロジェクトでは特に必要だと思います。

既存の枠組みに従って研究を進めるのは比較的容易です。たとえば「先行研究ではA → Bという関係が示されているが,AがCに影響している可能性もある。さらにA → Dの関係は検討されていない。そこで本研究ではA → CやA → Dも扱う」といった展開は典型的です。このように要因の組み合わせを増やしていく研究は確かに進めやすいのですが,それだけを積み重ねても,背後にある本質的な法則や仕組みの理解につながるのかは常に問い直す必要があると思います。

新しい道筋を示す研究の好例

私は常に,「既存の前提を問い直し,そこから新しい道筋を示す」研究には強く惹かれます。実際,最近の研究でその好例と言えるのが,『Revisiting Universal Grammar in L2 acquisition: Weak conformity and linguistic dissonance resolution』という論文です。この研究では,第二言語習得における普遍文法(UG)の役割を見なおし,「UG」が学習者の中間言語(interlanguage)に一時的に現れるUG非整合的なルール(いわゆる “wild grammars”)を検出し,修正へと導く「モニター装置」として機能するという枠組みを提示しています。従来のUGに対する理解を単純に否定するのではなく,より包括的な枠組みとして再定義することで,説明力を拡張しようとするこのアプローチには,非常に示唆を受けました。既存理論の限界を踏まえつつ,新たな理論的視野を開拓する好例だと思います。

研究の成果を社会に直接役立てることは重要ですが,それだけが研究の価値ではありません。研究そのものの営みをより良いものにすること,それ自体が大きな社会的意義を持つはずです。人文学の研究はまさにそうした側面を強く持っています。「SLAは役に立つのか」という議論も,しばしば「役に立つ」という言葉を狭い意味でとらえすぎているのではないかと感じます(関連:英語教育学会に平和を!「教育的示唆」という用語は禁止!)。

おわりに

私が大事にしたいのは,「当たり前」に見える前提を一度立ち止まって問い直す姿勢です。それが回り道に見えても,長い目で見れば研究の厚みや意義を広げていくのだと思います。そういう営みに貢献できる研究者を目指したいですね。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

【新装改訂版】外国語学習に潜む意識と無意識(献本)

私がもっとも敬愛する友人であり尊敬する研究者の福田純也先生(※「もっとも」が修飾するのは友人としての敬愛です)より『【新装改訂版】外国語学習に潜む意識と無意識』(開拓社)を献本いただきました。ありがとうございます。そして,このご紹介が遅くなってしまったことをお詫びします。

私はこの本(厳密に言うと,新装改訂版の前の本)を,私が3年次ゼミを担当することに決めた年からずっとゼミの教科書に指定しています。数年前に1人ゼミに入ってきた学生と使い始めた当初は,誤字脱字も散見され,難しいことを難しく書いてある印象もありました。私が補足をしながらゼミをする感じで,それはそれで,「読んだら全部わかる」というわけでもなかったので私がいる意味があったという感じではあったのですが。今回の改訂版では版が一回り大きくなりました。また,情報の提示順序が整理され,研究紹介もボックス形式でまとめられていて,初学者にとって格段に読みやすくなったと感じます。福田先生がご自身で書かれているようにかなり力の入った改訂であるなという印象です。

私がこの本をゼミ(参照:ゼミ選びのプロセスでこのページに来た人へ)で使う理由は,言語習得研究や言語研究「そのもの」の面白さを学生に伝えたいという私の目的にぴったり合っているからです。初学者向けの第二言語習得のいわゆる「王道」的入門書は割と内容が似通っていてしばしば退屈です。私個人は,もちろん「王道」第二言語習得研究を通過して,「第二言語習得研究ってすげー!!」ってなってこの道に進んだ者ではあるのですが,その道に入っていくにつれて,「なんか違うぞ?」「本当に知的好奇心をくすぐられるところってそこじゃないよな?」って気持ちになっていったんです。その私にとっては,「そう!面白いのはそこ!」っていうポイントがたくさん詰まってるんですね。

本書では「王道」のインプット仮説やアウトプット仮説といった「有名」仮説にもさらっと触れられています。これらの仮説は正直,私が思っているSLA「研究」にとって大きな情報量を持つわけではありませんが,全く無視するのもどうかと思うところで(いわゆる「教育的示唆」的な受けはいいと思いますが,研究仮説としてはオワコン),本書のようにうまく位置づけて触れている点は,テキストとして非常にバランスがよいと感じています。

既存の「王道」SLAに違和感を覚える方にはもちろん,むしろ王道派の方にこそ「言語習得研究の面白さはここにもある」と知っていただきたい一冊です。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

構想する段階と書く段階をわける

はじめに

いままで,パソコンを開いて原稿のファイルを開く,ということを自分の書くきっかけにしてきていたのですが,そもそもそれはうまくいきづらいってことに気づけたというお話。

構想と執筆を分離する

どう書くかとか何を書くかとか構成とか構造みたいなものを考えるのと,実際に文字を打ち込む作業を私は一体化させて論文を書いてきていました(書いてきてましたと言っても全然書けていないんですが)。私が愛用しているScrivenerはまさに,『考えながら書く人のためのScrivener入門』という書籍があるように,考えることと書くことを一体化させることによって書くことを効率化させようという思想だと思います(cf. 論文執筆環境を教えてもえらえますか?特に論文執筆中に活用しているアプリやツールなど)。

生成AIが登場する前というのは考えるのも自分1人だし,書くのも自分1人だったんです(もちろん共同研究の場合は違います)。やっぱり1人だと,どんなにスマホ版のアプリがあったとしても,ラップトップ上でやっているような「考えながら書く」をスマホ版のアプリでやるには限界がありました。そうなると結局,机に向かってファイルを開く時間を取れなかったら,全然論文執筆は進まないんですよね。しかも,ファイルを開いても,「思い出す」ための時間もかかってしまうので,思い出してはまた忘れ,思い出してはまた忘れの繰り返しみたいな。

考えるのは生成AIとスマホでやる

アイデアを考える作業自体は,スマホの生成AIアプリで壁打ちしまくるのが個人的には一番しっくりきています。それなら電車の中とかお風呂の中とか,ちょっとした隙間時間にできます。そうすると,連続性が確保されていて間隔が開きすぎないので,頭の隅っこに原稿のことがいつもあるという状態をキープできます。そうすると,論文執筆についての考えが浮かびやすくなりますし,浮かんだらすぐにまた壁打ち,というループに持っていくことができます。

原稿ファイルを定期的にアップロードしておく

そうやってある程度の分量を書くことができたら,その段階で一旦ファイルをチャットにアップロードしておきます。そうすれば,あとはその原稿に書いてある内容について,そのファイルを開くことなく(スマホでファイルを開くとやっぱり見づらいです)ディスカッションすることができるようになります。こういうことをやっていると,自然に,書きたいことが頭の中に溜まっている状態になります。原稿ファイルについてのやりとりをしていたら,修正すべき箇所がみつかるとか。そういうのが見つかると,「早く修正しておきたい」っていうむず痒い気持ちになるので,パソコンに向かう時間があったらそれをとにかく早く原稿ファイル(私の場合はScrivener)に打ち込んでおきたいという気持ちになります。パソコンを開くのを待てずに,ScrivenerをiPhoneのアプリで開いてメモっておいたり修正しておいたりということもありますし,それすらも手間に思えるときはもうノートアプリ(私の場合,研究はObsidian)に生成AIとのやりとりをコピペして貼り付けておくこともあります。

他のことをブロックする

こういうことを続けていると,何か別のやらないといけないことがあっても自然と時間を「ブロック」して(cf. How to write a lot),集中して執筆できる気がしています。もちろん,「ああ,あの課題の採点がまだだ」,とか,「あのメール返してないな」とか,後回しにしていることは山程あるんですけど。それよりもむしろ,「論文書こうぜ書くなら今だぜこの熱を逃すな!」っていう気分になりやすいんですよね。というか,その気持ちを持てなかったら,一生論文は後回しで一生書かないですよね。だって,別に絶対にやらないといけないことではないわけですから。

Scrivenerは不要?

こうやって考えると,いわゆる「練る」機能が満載で,私が愛用しているScrivenerみたいなツールや,「考えながら書く」という思想自体が,生成AIというツールの登場で重要さを失ってしまったのかもしれないとも思うようになりました。練るのは生成AIとの壁打ちで済ませるのだとしたら,それこそ書くという段階では,むしろ「書くことに集中できる」というツールのほうが望ましいとすら言えるわけですからね。そうなると,それこそ論文を書くのはWordでいいし,なんならテキストエディターでもいいわけですしね。

とはいえ,完全に考えることと書くことを分離することもできません。なぜなら,書いているときに考えることもあるからです。書いているときに考えていることも逃すことなく保存しておきたいじゃないですか。そうなったら,Scrivenerまではいかなくても,書くと考えるをつなげる機能のついたアプリケーションというのは価値があるなと思います。

おわりに

この記事では,「考える」と「書く」は統合したほうがいいのか,分けたほうがいいのかということについて書きました。個人的には,分けたとしても書けるような体勢を取りつつ,書くときに考えることができる環境にしておく,というのが一番大事なのかなというのが結論です。

最近めっちゃブログ記事を書けているなという気がしているのですが,これは間違いなく,「思いついたことをメモしておく」という作業をNotionでやれているからだなと思います(できねーよと過去記事で書きましたけど以外にできている)。Notionいいぞ。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

研究者になれる人とそうでない人の違いは、個人の資質によるか指導教員の指導力によるか、どちらだと思いますか?

はじめに

querie.meでいただいた質問です。質問の全文は以下のとおりです。

質問

研究者になれる人とそうでない人の違いはは(※原文ママ)、個人の資質によるか指導教員の指導力によるか、どちらだと思いますか?どちらとは言いきれいないのは承知ですが、任意の教員が着任した途端に、学会で名前を見るようになるのを見たり、特定の研究室から大量に研究者が出ているのを見ると,教える側の要素が大きのかなと思うところもあります。研究指導する側になって、よくわからなくなってます😢

回答

「研究者」の定義について

「大学教員になる」というのと「研究者になる」は個人的には分けたいな〜と思っちゃうところはありますね。学生の時は頑張っていても,大学教員になったら研究活動が滞ってしまう人だっていますしね。

指導教員側の要因:個人の力量 vs 環境

あとは教える側の要因というのは,その教員個人の力量だけではなくて,それ以外の環境要因との掛け算なのかなと思うところもあります。その環境でどうやったら学生のパフォーマンスを最大化できるのか,みたいな。例えば,教員の研究費だけに依存せず,学内的な院生への支援(ソフト面もハード面も)が充実しているということであったり,共同研究の機会が豊富にあるのかどうか(学内外のネットワークだったり,異分野交流であったり)とか,どれだけ研究に時間を割くことができるか(授業負担や学内業務負担がどれだけあるのか)みたいなのも,もちろん教員個人の力量もあるとは思いますが,やはりその組織がどういう仕組みで動いているのかに依存するでしょう。

組織・「ブランド力」の影響

あとは,一度「あのゼミからは優秀な人材が輩出される」となったら,そこにもっともっと優秀な人が集まりやすくなるという効果もあると思います。また,なんだかんだで組織の力というか所属している大学ってのは大きいでしょう。やっぱりうちの分野(どこの分野とは言わない)(注)なら特定の国立大(旧帝大)や私立大の出身者がある種の「派閥」的強さを見せている側面があるように思います。

研究テーマ,分野特性の影響,個人的な問題意識

研究テーマの要因もあるでしょう。どの分野の方からの質問かはわかりませんが,私の分野(どこの分野とは言わない)だと,ある要因と要因の関係性を調べるアプローチで無限に研究を量産している人たちがいて,まあそれが世の中の潮流でもあるようだしトップ誌に載るし引用もたくさんされるし,みたいな。いや,論文載るのはすごいんですよ。テーマもそんなにポンポン思いつかないですし普通は。でも,この分野(どこの分野とは言わない)は既存の枠組みの微調整や概念の再定義によって研究を展開しやすい分野特性があって,それって最強なんですよね。概念間の関係性を統計的に検証するアプローチで,比較的安定して研究成果を生み出せる仕組みになっているので。

これは何も自分を除く他者に向けているわけではありません。私も,院生時代の多くの研究が「明示的・暗示的知識」というパラダイムに乗っかったものでした。当時は測定法の議論が隆盛していたこともありましたし,ある文法項目に対して,明示的・暗示的知識を測っていると考えられる測定具のテストを二つ実施して(あるいは同じテストに対して違う条件を課して),違いが見られたり見られなかったりしたら,それを議論することで論文1本になったんですよね。私が初めて採択された筆頭著者の論文がまさにそれでした。

Tamura, Y. & Kusanagi, K. (2015a). Asymmetrical representation in Japanese EFL learners’ implicit and explicit knowledge about the countability of common/material nouns. Annual Review of English Language Education in Japan, 26, 253–268. https://doi.org/10.20581/arele.26.0_253

今見たらなんかもう目も当てられないようなひどい論文で読み返すことも憚られます。こういうアプローチをするにせよ,もう少しフレームワークは今なら工夫するだろうなと思います。ただ,私はそういうアプローチで研究を量産できるような人間ではないですし,こうしたアプローチで研究(者)を量産するのが本当にいいことなのかな,とよく思っています。こういう意見も,結局はパブリケーションが強い人からしたら,私のような考えが同じ土俵に乗ってこなかったら相手をする理由もないでしょうから,難しいなぁとずっと思っています。

『第二言語研究の思考法』はそういう気持ちもあって携わった本ですが,特に話題にもされていない(という認識でいます)し,その提案について批判も特にもらってないと思うので,既存の研究パラダイムへの根本的な問いかけは議論されにくい傾向があるのだなと感じます。それでも,今後も細々と,この問題提起について継続的に発信し続けていくのが自分の人生なんだろうなと思います。今年度採択された科研費の研究も,そういう路線です。

なんか脱線しましたね。

最後に,これも言っておかないといけないなと思ったことですが,生存バイアスもあるんだと思います。結局生き残るのはなんだかんだ優秀な人なわけで,その陰で数多の優秀な人にカテゴライズされずに去っていった人だっているんじゃないのかなという気もしています。

おわりに

久しぶりに,面白い質問だなぁ,ブログ記事にしたいなと思わされる質問でした。ありがとうございました。

私に質問したい方は下記URLからどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915¥

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注:寺沢さん話法

jsPsychで自己ペース読み課題を作りました

はじめに

querie.meで次のような質問をいただいたのがきっかけで,この記事を書いています。ただ,今回は直接的な回答をブログ記事にしたというわけではありません。

Jspsychで自己ペース読解を作りたいと思っているのですが、なかなか良いリソースにたどり着けません。 何を参考にして作成されましたか。

https://querie.me/answer/FoiIeOGRo0FxWcSAnwvx

参考までに,私が作ったものを公開しましたというお話です。

jsPsychというJavaScriptのライブラリを使って,Webブラウザ上で実験を行うことができます。私もコロナ禍以降,オンラインでできる実験プログラムの構築を色々と模索していて,様々なものに手を出したりしたのですが,最終的にはjsPsychでいくことにしました。特に理由はないんですが,コードベースだとやっぱり細かいところに手が届くっていうのが大きいかなと思います。心理学分野だと,心理学の様々な実験のサンプルを見ることができるのですが,残念ながら言語実験はあまりサンプルがないんですよね。そこで,jsPsychで私が作った自己ペース読み課題をGitHubに公開しました。

https://github.com/tam07pb915/spr-jspsych-experiment

詳しくはこのレポジトリを見てもらえたらと思いますが,補足的なことをこのブログ記事にも書いておこうと思います。

メインの部分

自己ペース読み課題にはいろいろなバージョンがありますが,私が作ったのは単語提示・移動窓方式と呼ばれるもので,一語ずつ,左から右に読み進めるタイプのものです。以下のリンクから短いデモができます。

https://tamura-jspsych-demo.netlify.app/spr-demo.html

自己ペース読み課題のトリッキーなところは,刺激は文として作るけれども,それを単語に分割して提示するっていう部分なんですよね。その仕組みのところは,

Week 4 practical | Online Experiments for Language Scientists

というページがかなり参考になりました。これをベースに,ChatGPTやClaudeに手伝ってもらいながらカスタマイズをしたという感じです。Githubには,私が実際のデータ収集に使ったフル実験のバージョンと,上のリンク先のデモ課題の2つを載せています。フル実験の方には,単なる自己ペース読み課題だけではなく,同意取得や質問紙のページがあったりします。また,異なるリストのランダム化や,途中で休憩を挟む,プログレスバーを入れる等々の違いがあります。

基本的には,

  1. 下線のみが画面に提示される
  2. スペースキーを押すと下線の1つが単語に変わる
  3. スペースキーを押して読み進めると,読んだ単語はまた下線に戻る
  4. 最後までいくと,次の画面でTrue/Falseの理解質問が出るので,FまたはJキーで回答する
  5. 試行と試行の間には「スペースキーを押して次にいってください」みたいな文言がある

という流れで進むようになっています。フル・サンプルのどちらにも練習セクションとメインタスクセクションがあり,練習セクションでは理解質問の回答に対して,CORRECT/INCORRECTのフィードバックがあります。メインタスクセクションではフィードバックはありません。

少しコードをいじれば、任意の記号(例えば”|”)で区切られた英文をその区切りごとに例えばフレーズ単位で提示することもできると思います。

全体的なこと

Firebaseとの連携

私は実験をfirebaseと連携させて,そこにデータを蓄積するという感じでデータ収集をしています。よって,firebaseと連携するための仕組みもコードの中に入っています。ただ,firebaseをどう使うのかみたいなところはウェブ上にたくさん資料が転がっているので,それを見て自分で勉強してみてくださいという感じにすみませんが今のところはなっています。

データ分析

jsPsychで得られたデータはJSONフォーマットになっています。これはそのままではデータ分析に適していないので,JSONデータをテーブルデータに変換する必要があります。これはそこまで難しくなくて,オンライン上でフォーマットを変換してくれるサービスもありますし,今なら生成AIに頼んだら多分やってくれる(またはコードを提案してくれる)と思います。とはいっても,その部分も結構大事ではあるので,一応サンプルの出力をRで読み込んで整形する過程もRmarkdownでドキュメントにしました。下記リンクからご覧いただけます(もとの.Rmdも含めてGithubのレポジトリに入ってます)

https://tam07pb915.github.io/spr-jspsych-experiment/sample-experiment/sample-data-transformation.html

使っている刺激

フル実験のメインタスク部分は,number attractionを見るための刺激文が入っていて,私の自作です(まだ発表すらできていないデータ…)。サンプルの方は,下の論文の実験1に使われた英文の一部を使っています。

Trueswell, Tanenhaus, & Garnsey (1994) Semantic influences on parsing: Use of thematic role information in syntactic ambiguity resolution. Journal of Memory and Language, 33(3), 285-318. https://doi.org/10.1006/jmla.1994.1014

理解質問は自作です(Copilotが勝手にサジェストしたものを使いました)。

刺激はコードの中に埋め込まず,別ファイルで用意してそれを読み込むという方法もあると思います。しかしながら,今回はすべてコードの中に刺激を埋め込む形にしています。Excelファイルで一般的には実験刺激は管理されるでしょうから,そこからjsPsychで扱われる形式への変換が必要です。これもおそらくはそこまで難しいことではないと思いますが,いずれRの例を作ろうと思っています。

注意点

私が公開したコードを,様々な実験に応用しようとすると,刺激の部分を入れ替えるだけではおそらくうまく動かないと思います。というのは,読み込んだ刺激の形に応じて,記録されるデータを選択しているからです。例えば,サンプルの実験では,実験要因として主語名詞句の有生性しか入れていません。1要因の実験というわけです。よって,そのサンプルコードを使って2要因以上の実験を行おうとすると,記録されるデータに反映されない要因が出てくることになります。もちろん,事後的に復元することは可能ではありますが。そのあたり,ここをいじったらここも必ず変えてねみたいな丁寧なコメントアウトまでは残念ながらできていません。ご了承ください。汎用性を意識してどんどん機能を追加して選べるようにするみたいなのはちょっと素人の私には難しいです。

おわりに

この記事では,心理言語実験で使う自己ペース読み課題のプログラムをjsPsychで実装して、GitHubに公開しましたという記事を書きました。冒頭の質問者様の役に立ちますように。自己ペース読みよりロジックは簡単ですが,プライミング語彙性判断課題のプログラムも手元にあるので,反響があればまた公開しようと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

専門書についても通読した方がよいですか

はじめに

Querie.meでいただいた質問シリーズ。

質問

修論をやっていて、論文はともかく専門書については、関係するチャプターだけ読むとか、関係するところをindexからさかのぼって読む、ということは多くやっています。他方で、専門書についても通読した方がよいのかな、と思うことも多くあります。何をうかがいたいかというと、①通読はどれぐらいするべきか、②通読する機会はどうやって確保しているか、③最後まで読むためのノウハウ的なものを教えていただければ幸いです。

回答

これ,矢野さんにも全く同じ質問されてましたよね…?矢野さんの回答でご自身の満足する回答を得られなかったために私にも質問されていると思いますが,さすがに質問丸コピはわざわざ答えてくださった矢野さんにも失礼ではないかと思いました(もちろん,丸コピの質問を横流しされた私もいい気はしないです)。

よって,この質問には答えるかどうかめちゃくちゃ迷ったのですが,ブログで答えることにします。普段こんなこと絶対言わないですが,この手間をかけて質問に答えることに色々思いを馳せてくださいね。

「専門書」の認識が一致しているか

まず,専門書って言ったときに,何を想像するのかっていうのは一義的に決まらない気もするので,そこから。論文との対比なので,論文以外の書物が専門書に含まれるのかな,と最初に解釈しました。そうなると,いわゆる分野をざっくり概観するような書籍,例えば私の分野であれば,Second Langauge Acquisitionがタイトルに含まれていて,大学の授業のテキストにも採用されそうな第二言語習得をある程度網羅的にさらっているような書物も含まれそうだなと思ったのです。もちろん,そういった書籍の中にもかなり入門向けのものなから,割と歯ごたえのあるものまで多少の幅はあると思います。

もし仮に,そういう分野を概観するようなものも質問者の方の「専門書」に含まれるとしたら,次のセクションをお読みください。そうではなくて,もっとトピックを限定して,そのトピックだけをかなり掘り下げて書いているような書物のことを「専門書」と呼んで質問しているなら次のセクションはスキップしてもらって構いません。

概論書は何冊でも読んでいい

ガチガチの専門書ではなく,ある程度ライト層(大学院生や学部生)も読者層として考えられているような,いわゆる入門書レベルの本(とは言っても新書とか一般書ではなく)であれば何冊でも読んだ方がいいと思います。

というのは,論文何本読んでもその分野の全体像が見えて来ないので,自分のやってる研究が全体のどこに位置していて,全体で解決すべき問題のうちのどの部分を扱っているのは論文を読んでいるだけでは把握できません。学術論文であれば,そんな広いところがイントロのスタート地点にはならないでしょうけど,学位論文になったらある程度広いところからスタートすると思うんですよね。その方がディスカッションも広がると思うし(ここは議論分かれそうですが)。なんでその研究が大事なの?とか,その研究の意義とかっていうのは,私は俯瞰的な視点からも考えられるべきだと思っています。よって,特に研究を始めて間もない頃ほど入門書読み漁るのがいいと思います。

専門書を読むかどうか

いや,入門書じゃなくて,もっと扱ってるトピックが狭い専門書のことです,ということであれば,その専門書がどんなものなのかとか,なんの目的でその本を読むのか,みたいなところも関係するかなと思います。どの分野の修士課程やられているかわからないので,例えにしっかりきてもらえるかわからないのですが、私の例でいいますね。

私は修士論文が意識高揚タスクと呼ばれる類のタスクを行うことにより、目標言語項目への「気づき」が促されるのかというものでした。このとき、意識高揚タスクが自分のフォーカスだからといって、例えばもっと大きな枠組みのTask-based Language Teachingの専門書を通読したことがない、というのはちょっと心許ない感じがしますよね。Ellis (2003)くらい読んでるだろう普通みたいな。この領域の研究をするなら,これは誰しもが読んでいるだろうみたいな専門書って割とある気がするんですよね。スピーキングの研究やってるならLeveltは絶対に読んでいるはずとか,Lingua Franceの研究やっているならJenkinsは読んでいるはずとか。とくに,複数著者がチャプターを書いているcollectionぽいものではなくて,単著または共著で一冊の本を書いているタイプのやつです。チャプターごとに著者が異なるやつだと,割とチャプターごとに話が変わるので,チャプターつまみ食い的な読み方でもいいのかなとは思うのですが。自分の領域の論文を読んでいて,多くの論文で引用されるような文献が書籍であったら,それは読んだほうがいい専門書だという気がしています。

②通読する機会はどうやって確保しているか

私自身を振り返ると,やっぱり授業のテキストとして指定されているから読むとか,研究会で輪読するから読む,が多かったかもしれません。修士課程のときは読むことしかやることがなかったというかとにかく暇さえあれば図書館に行って読むという日々だったので自分のど真ん中ではない本も読んでいたと思いますが(それこそ言語政策の本とか)。D1の時でもM生の人たちと一緒に授業とってテキストに指定された本を通読していましたし,同じSLAの授業でも別の先生が担当している授業を複数取ったりしていました(今考えると,そんな贅沢な環境にいた,とも言えますね)。

あとは矢野さんもおっしゃっていたように,仲間を誘って読書会開くのもありだし,すでに開催されている読書会に参加するのもありでしょう。指導教員の先生にそういった会の開催を相談してみるのもありなんじゃないかと思います。私がもし自分のゼミ生にそういう相談をされたら自分が忙しくてもやろうやろうってなると思います(ゼミ生を持つことが今後あればの話ですが)。

③最後まで読むためのノウハウ

これを聞くということは,ノウハウがなければ通読はできないっていうことなんでしょうかね。正直,それは知的体力みたいなものかなと思うのでなかなか難しいですね。研究者を目指していなかったとしても,本を通読する知的体力がない人よりは絶対にある人のほうが今後の人生にその力が活かせるでしょうし,それを養うのも大学院という場所かなという気もしています。

通読できないのはなんでその本を読むのかという目的がはっきりしないという可能性もありますので,その本を読むのはなぜなのか,どういうことを理解するために必要なのかを最初に明確にしてから読み始めることも有効かもしれません。

あとは,私はブログ書くというアウトプットを目指して論文や本を読んでいた時期もありました(今はちゃうんかい)。レビューのようなレベルまで行ってたわけではなくて,単なる読書感想文止まりの拙い文章でしたけど。アウトプットするために読もうとなると,自分の理解も必然的に深まりますしね。これは単なるアウトプットではなくて,誰かに見られる文章を書くというのがポイントです。自分しか見ないのであれば適当になってしまいますから。それに,業績にはならなくても自分が何からの本を読んでその概要や考えたことをまとめたものというのは,公開したら絶対に誰かに読まれてどこかで誰かの役に立つことがあると私は思っています。

おわりに

質問者の方の知りたいことにストレートに答えられているかはわかりませんが,私からの回答は以上です。修論頑張ってください。

質問したい方はどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

どういうスタンスで学会と向き合うか

はじめに

たまたまTLに流れてきた下記のポストについて思ったことを書きます。この投稿をされた方に何か言いたいというよりも,この投稿を見て,学会に参加することとか学会で発表することについて考えたことを書く,というスタンスです。

私はフォローしていない(けど向こうから私はフォローはされている,という方)のポストです。私がフォローしている方が引用ポストされていたので目にしました。

上のポスト中の「外国語教育学会の大会」というのは,外国語教育メディア学会(LET)関西支部2024年度春季研究大会を指しているというのはこの方の下記のポストから明らかです。

率直に思ったこと

まあ,気持ちはわからなくないというか,自分が若い時(博士課程の院生時代とか)には,同じようなことを思っていたとしても不思議じゃないなと思います。学会に参加して,不満を持つということが自分自身なかったことが過去を振り返ってみて一度もなかったわけじゃないので,まあそういうこともあるよね〜というのが率直に思ったことです。

もう少し見方を変えてみる

とはいえ,私は2018年度からLET関西支部の運営委員に入っていて,2022年度からは事務局長をやっています。ということで,まあ「中の人」なわけですね。そういう立場からすると,最初の投稿のような評され方というのは,少し残念な気持ちになりました。ちなみに,私は現在育児休業中のため,事務局長という立場であるにもかかわらず,今回の支部研究大会には参加しませんでした(実際できなかったし,無理して参加しようともしなかった)。というわけで,実際に大会の雰囲気を自分自身がこの目で見て肌で感じて,というわけではありません。

以下,気になった点についていくつか個別に取り上げますが,通底するのは,学会にもっと主体的に参画してほしいな,ということです。学会に参加することはもちろん参加する人にとって利益があることが大前提というか,そういう場所でなければならないのはそうなんです。ただ,参加する人が自分の利益だけを考えて,学会全体として良い大会にしていこうよという主体性がまったくなかったら,それは学界(学会ではなく)としていい方向にはいかないんじゃないかなと思います。学会を運営する側,登壇する側からなにかしら知識だったり情報だったり,そうしたものを提供されることをサービスとして受け取る,そういう受け手の意識だけではなくて,一緒に学会を盛り上げる,そういうスタンスでいる人が増えてくれたら,と私は常々思っています。

気になったこと

最初に示したポストの中で,私が気になったことがいくつかあります。

「誰も質問しない講演」

質問が出ない,というのは,講演の内容の要因(難しすぎて理解されていないとか,逆に質問する隙がなさすぎて質問が出ないとか),聴衆の要因(そもそもちゃんと聞いていないとか,自分の関心領域とは離れていて背景知識に乏しいので質問ができないとか),両者の交互作用,その他にもたくさんの要因が絡まっていると思います。さらに,どの要因で「質問が出ない」という事象が発生するかを事前に予測して対策をすることは難しいでしょう。どういう人が参加するかもわからないし(基本的には会員がほとんどだとしても,会員の興味関心は多種多様です),講演者がどういう講演をどういう流れでするかは,タイトルと要旨レベルでしかわかりません。

また,個人的には誰も質問しない,ということが絶対に悪かどうかというと,そうでもなくて,大事なのはその後に何が起こるのか,だと思っています。講演者の立場の人が,自分のトークのなにかに問題があって議論を喚起できなかったのかと振り返ることも大事ですし,聴衆側は,「質問が出ないということはこの講演って簡単に質問が出るようなものでもないのか」というメッセージが暗に共有されることにもなると思います。いずれにせよ,大事なのは全員が当事者意識を持っているかどうかだと思います。全員が,自分が質問しようと思って聞いているかということですね。このポストをされた方が質問をされたかどうかわからないですけど,もしされていなかったとしたら,この方が指導を受けた先生(と私が思っている人)が日頃口癖のように言ってるように,「自戒を込めて」って付記しないと自分は「外野だ」という認識が現れてしまっているのではと思います。

「最新でもないアプリの紹介」

外国語教育メディア学会(LET)という名前のついた学会だからこそこういうコメントが出てくるのかもしれないし,私は当日の発表を見ていないので本当に何もわからないのですが,最新のツールでなければ発表してはいけないわけではないし,さらに自分にとってそれが既知の情報だったら参加したすべての人にとってもその発表は意味がないのか,っていうとそうとも限らないのではないか,とも思います。また,この方が「自分たちの発表のため」とおっしゃっていますが,その観点でいえば発表すること自体は発表者にとっての利益ともなるわけです。そういう視点にたてば,「最新でもないアプリの紹介」であったとしても,この発表者の方が発表してくれたことに対して,その人にとって発表したことが有益な経験となりうるように関わるのが聴衆としての役割なのではないかなと思います。

「今回の参加は自分達の発表のため」

発表する人のほとんどは,発表するのは自分たちのため(業績づくりのためだったり発表してコメントをもらうためだったり)と思っているとは思います。でも,この視点で臨むことが許容されるとなると,一つ前の,自分にとって得るものがないとも取れるような捉え方をしている発表(「最新でもないアプリの紹介」)も許容しないと矛盾してしまうような気がします。だって,それを聞いてくれる人たちになにかを届けたいと思うのではなく,あくまで自分たちが発表したいと思ってるだけで,発表者の利益しか考えないというわけですから。もちろん実際にはそういう意識でやってるわけではないと思いますし,これは「先輩の発言」であって投稿者がそう思っているというわけではないのでしょうけど(ただ,そういう誰かの発言を引用して「大会としてあれでよかったのか」と揶揄するのは個人的にはうーん,て感じですね)。

今回の大会は結構特殊だった

今回の大会は,Classroom tipsという他の学会ではあまりない発表枠での発表が多く,そのことがもしかすると他の学会の大会のイメージと異なるイベントになった可能性は十分にあるかなと思います。以下関連するポストをいくつか。

おわりに

正直,運営委員だけで学会を「回す」のも結構限界に来てるところあると思っています。発表してくれる人がいるだけでありがたいみたいなところもありますし,そういう人たちをdemotivateするようなスタンスよりは,そういう人たちに発表してよかったと思ってもらえるようにするには,どうしたらいいかを一緒に考えてほしいです。そして,発表してみようかなとか,学会に参加してみようかなと思う人が増えるにはどうしたらいいのか,そして,学会に参加する人たちがもっとメタ的な視点で主体的に「盛り上げよう」と思ってもらえるようにするためにはどうすればいいのか,そういったことをぜひ学会に参加する方々といっしょに考えていきたいと思っています。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

Rmarkdownからファイル生成するときに日付を入れたい

はじめに

タイトルのとおりです。Rmarkdownをknitしたとき,ファイル名に日付を入れたい場合にどうするかというお話。自分用メモです。

関連した話

ファイルの中身の日付は,YAMLヘッダーをいじることで対応可能です。

参考:自動で日付を変更する R markdown tips https://qiita.com/masato-terai/items/50afd48ad741aa8b7bb6

今回は,knitした際に生成されたWordやHTMLのファイルに日付をいれたいので,上記の話とはちょっと違います。

方法

私が調べた感じだと,YAMLヘッダーの指定でファイル名に日付をいれるのは無理そうでした(ChatGPTはいけるって感じで説明してきましたが,そのやり方でやってもだめでした)。そこで,rmarkdown::render関数の中のoutput_fileの引数で明示的に日付を指定してあげるという方法をとります。下記のような感じです。

指定するのは,

  • レンダリングするRmdファイル
  • アウトプットされるファイル名にいれる文字列
  • 拡張子

の3つのみです。2つ目のファイル名の部分に,”Sys.Date()”をいれて,paste0()でくっつけることで,最終的なファイルが上の例だと”Experiment1_2024-04-26.html”のようになります。knitボタンを使う代わりに上のコードを実行すると,ファイルが生成されます。

もちろん,YAMLヘッダー上で,”output:html”の指定は必要ですし,wordにするならwordにしないといけません。その部分の指定と,ファイル名の拡張子の指定が一致していないとおかしなことになると思います。

ちなみに,上のコード部分のRコードチャンクに”include=F, eval=F”等の指定をしてあげないと,最終的に出力されるファイルのなかにコードが残るので注意が必要です。

おわりに

Rmarkdownからknitすると,基本的にファイル名=Rmarkdownのファイル名で,生成されたファイルのファイル名を自分で変えないと,基本的には上書きされてしまいます。よって,ログを残す意味でも日付を入れたいよねというのが動機でした。もちろん,同日内で何度もレンダリングすれば同じ日付で上書きされてしまいますので,その場合はSys.Date()ではなくSys.time()にする必要はあります。

以上,メモでした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

SLA研究における反応時間の扱い(Hui & Jia, 2024)

はじめに

以下の論文のレビューというと大げさですが,まあ読んで思ったことなどを書きます。

Hui, B., & Jia, R. (2024). Reflecting on the use of response times to index linguistic knowledge in SLA. Annual Review of Applied Linguistics, 1–11. doi:10.1017/S0267190524000047

X(旧Twitter)につぶやいたことの再構成という形で以下いきます。反応時間はReaction Timeなので,RTと省略して記述します。

RTと正確性

正確さ見ずにRTだけ見たら本質を見誤るというのが1つ目の論点です。RTは,例えば判断課題のRT(語彙性判断課題,文法性判断課題等(Grammaticality Judgment Task; GJT))が使われることがよくありますが,その場合には,誤答(誤った判断)の試行は一般的には除外されます。よって,正答率が低いような文法知識を扱う際には誤答が多ければ除外される試行が多くなり,それだと分析で見たいものが見れなくなってしまうのではというのが著者の主張。

個人的には,そもそもRT使うのは正確さでは弁別できない事象を扱いたいからです。明示的知識・暗示的知識の枠組みでRTを使った課題が用いられているのも,正確さでは母語話者と変わらなくても,RTでは母語話者と差がある文法項目がある,というような前提があるわけです。よって,知識が獲得される初期段階や,そこからの熟達度による変化を対象にするのであれば,RTは使わずに正確性(正答率)を従属変数にするでしょう。もし見るなら正確さの「変化」とRTの「変化」ですね。この論文でもそういう話をしていますが,つまりは複数の観測点を設けて,正確さとRTの関係性を分析するということです。

ということで,それって当たり前体操では…?と思いました。初期段階で正確性を見るというのは,私が共同でやった下記の研究でも論じています。

Terai, M., Fukuta, J., & Tamura, Y. (2023). Learnability of L2 collocations and L1 influence on L2 collocational representations of Japanese learners of English. International Review of Applied Linguistics in Language Teaching. https://doi.org/10.1515/iral-2022-0234

RTの差分を個人の指標とすることの問題

RTを使う分析は,基本的には条件間におけるRTの差分の大きさに焦点があります。例えば,自己ペース読み課題(Self-paced reading task; 以下SPRT)で文法的な文を読んだときと非文法的な文を読んだときを比較し,非文法的な文でのRTが長い(読みが遅れる)ことを比較します。ポイントは,グループレベルで統計的に有意かどうか,というのが結果の解釈のポイントであることです。つまり,差分が小さい人もいれば,逆方向の人(文法的な文を読むときのほうが遅い人)もいるなかで,全体的な傾向としては非文法的な文の方のRTのほうが長いよね,ということをももって,その実験の参加者集団が何らかの文法的な知識を有していると推論するというわけです。

こういう前提はありながらも,実はSLA研究ではRTの差分が個人の知識や能力を反映しているように解釈している研究が存在しています。つまり,何らかのペーパーテスト的なもので測られる正答率と同じ扱いをしてしまっている,ということですね。例えば,何らかの文法性判断課題みたいなものをやったとします。すると,そのテストのスコアが高い人ほど,文法知識を有している(または文法知識が安定している)と解釈すると思います。この点は多くの研究で暗黙的に了解されていることでしょうし,母語話者がテストを受ければ,真面目にやっていないというような場合を除いて一貫して高い正答率が期待されるはずです。ところが,RTは前述のようにこうした個人の能力の反映とみなすことはできません。あくまでグループレベルで結果を解釈するのであって,非文法的な文を読んだときのRTの遅れが大きい人のほうがより文法知識を有している(または文法知識が安定している)と解釈することはできないはずなのです。繰り返しになりますが,母語話者を対象にしてSPRTをやっても,全員が非文法的な文の方に大きな遅れが見られるとは限りません。では,その時に母語話者の中にもその文法の知識がない人がいると考えるでしょうか。

それにもかかわらず,RTの差分をSEMに使ったり,あるいは独立変数や従属変数として扱って回帰分析をしてしまっている,これは問題だよね,ということです。この問題は個人的には超重要で5年以上前から思っていました(しSLRF2019でGodfroid先生にも質問しました)。

このセクションでは個別具体的な研究に対して批判的な言及をしているわけではありませんが,明示・暗示の測定具関係の研究でRTを用いた課題を構造方程式モデリング(SEM)に入れているような研究にはこの2つ目の論点の問題点がつきまといます。

あえて個別に名前や研究をここで挙げたりはしませんが,論文で引用されている研究の中にこの批判が当てはまる研究がいくつもあります。こういう大事な指摘を論文として国際誌に載せる力は私には残念ながらなかったので,こういう論調が出てきたことはいいことだと思いました。

RTの差分を使ってる研究ってどんなのがあるだろうと思われた方は,レビュー的なものが同じ第一著者の次の論文の中にあるのでこれを読まれるといいかと思います。

Hui, B., & Wu, Z. (2024). Estimating reliability for response-time difference measures: Toward a standardized, model-based approach. Studies in Second Language Acquisition46(1), 227–250. doi:10.1017/S027226312300027X

上記論文ではRT差分の利用について概念的な問題点を指摘しているというよりは,RT指標そのものの信頼性が低いという問題に焦点をあてているので,差分を使うことのぜひについてはそこまで論じられていませんが(福田先生とやりとりしている中で論文読み直してこのことに気づいたのでgracias)。

RTは様々なプロセスを反映している

これが最後の論点です。SPRTやGJTには様々なプロセスが入ってるので、RTはピュアに知識を反映してると言えないのではないか,という話です。これ,まあそれはそうというか,それはわかったうえでやっていますけどね,というのが正直な感想です。他の要因が極力入りこまないように,条件間での刺激文の違いをできるだけ最小限に抑える工夫がされます。文法構造によってはそれができない場合もあるわけですが,その場合でも単語の長さを揃える,文法構造を揃える,というように実験前の統制が肝になるわけです。それでも単語の長さが違ってしまう場合などは,単語長(文字数で操作化されることが多いです)を回帰分析に入れて残差読み時間(Residual RT)を計算してそれを従属変数にしたり,あるいは単語長を共変量(covariate)として回帰モデルに組み込んだりします。よって,RTを盲目的に何かを表すものとしているのではなく,一応妥当な推論たりうるように実験上の工夫は施されていると思っています。

最後に次の引用の一節で述べられているとおり,「それが何を反映しているのか」,というのは別にRTに限らずあらゆる課題・テスト・測定具についてまわる問題でしょう。

These are perhaps not problems unique to RT research. The key message here is that to ensure validity of their measures (i.e., to make accurate interpretations of their results), SLA researchers should be mindful of the psychological processes involved in completing the tasks. While no measure is a pure measure of anything, knowing what is or can be underpinning a numerical result that we interpret is of paramount importance.

そんなこと言われなくても当たり前のことでしょうと思っている人がほとんどだと私自身は思っていますが,もしそうじゃないとしたらこの基本が頭になくてSLA研究やってるのやばすぎでしょと思ってしまいました。

おわりに

個人的には1つ目と3つ目の論点は別に対して重要じゃないというか当たり前だよな〜って話でした。ただ,2つ目の論点はとても重要なので,ここだけに焦点をあてたconceptual review articleみたいなのだったらもっとよかったのにと思いました。論文を読んでブログ書いたのめちゃくちゃ久しぶりかもしれない。

なにをゆう

たむらゆう。

おしまい。