タグ別アーカイブ: 大学院生

考え方真反対でいいじゃない

はじめに

秋学期がそろそろ始まりますが,春学期の終わり頃に聞いて嬉しかった話。

「考え方が真反対」

大学院の授業で,「別の曜日に受けている実践系の授業の先生と考え方が真反対」みたいなことを言われました。その話を聞いて,私自身も,「あー。その先生とは(理論と実践という対立ではなく実践レベルで)考え方違うだろうな」とは思ったんです。でも,それをその学生さんがネガティブに捉えていなかったのが素晴らしいことだなと思いました。

学部生とかだとまだやっぱり,同じ現象に対して違う意見を持つ人に出会ったら,どっちが正しいの?ってなって,混乱することもあると思うんです。

私はよく,特に研究寄りの授業であればあるほど,Aという説明もあるしBという説明もあるし,Bという説明の中にもB1という見方とB2という見方があって…みたいな感じで,「この現象はAで説明できます」みたいな断定的な言い方をしない(できない)んですよね。そんなに確定的なことが言えることのほうが少ないと思っているというか…。英語授業の話であればそんな回りくどくする必要はないんですよね。「私はAが正しい実践だと信じている(ただし,その「正しさ」は英語熟達度の伸長を確約するという意味ではない)」と言えばいいので。でも,なんか研究に関しては,「自分がこの立場が正しいと思っている」と言えるだけの自信というか,深め方が足りていないんだろうなと。それが授業のわかりにくさの話にもつながると思うんですけど。

ただ,そんな一意に決まるものではないっていう理解が大事だよねという思いも同時にあります(世の中のほとんどの問題には正解がないと思っている)。その中で,大事なのは自分(学生)自身がどういう選択をするか,その価値観をどうやって教員側が育んでいくのかってことなのかなと思います。

正解のパフォーマンスをするのではなく

誰かに教わった正解のパフォーマンスするんじゃなくて,自分で正しいと思ったことをしたらええやないのと。それが周りにどう受け止められるかは別の話というか,それも考えていいけど,一番優先されるべきことではないと思うんです。正解が一つに決まらないからこそなおさら。その,自分が大事にしていることは何で,それはどういう理由で大事なのかっていうのを見つけるのも大学院で学ぶことの意味なのかなと思います。

ちょっと話は違いますが,選挙に行って投票するのだって似たようなところがあると思います。投票に正解とかないですよね。その中でも,自分が考えて,一番納得できる候補者や政党の名前を書くんでしょう。大事なのはそこでしょう。と思うわけです。

そうやって考えると,冒頭の学生さんのように,私の意見を客観視して,別の先生とは言ってることが違うという見方をした上で,自分の考える方法を自分は選ぶ,という選択をできる(実際にそういう趣旨の発言があったと記憶しています),そういう発言は私からしたら素晴らしいというか,「こうであって欲しい」を体現されてるなと思いました。それが自分の所属する研究科の学生さんだったことが嬉しかったです。

おわりに

もちろん,カリキュラム的な一貫性とかを考えたら,いろんな授業で言ってることが違うっていうのはどうなんだっていう見方もあるとは思います。ただ,私はみんながみんな同じことを教科書みたいに伝えるような授業ばっかりだったらそれはそれでつまらないし,逆にそういう授業ばかりだったら考えも凝り固まっていってよくないと思うのです。

そんな関西大学外国語教育学研究科に興味が少しでもお有りのみなさん,10月と11月に進学説明会がありますよ。

2026年度4月入学の入試(12月募集・2月募集)のスケジュールはこんな感じですよ。

https://kansaigradsch.kansai-u.ac.jp/admission/graduate/fl.html

お待ちしております。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

研究者になれる人とそうでない人の違いは、個人の資質によるか指導教員の指導力によるか、どちらだと思いますか?

はじめに

querie.meでいただいた質問です。質問の全文は以下のとおりです。

質問

研究者になれる人とそうでない人の違いはは(※原文ママ)、個人の資質によるか指導教員の指導力によるか、どちらだと思いますか?どちらとは言いきれいないのは承知ですが、任意の教員が着任した途端に、学会で名前を見るようになるのを見たり、特定の研究室から大量に研究者が出ているのを見ると,教える側の要素が大きのかなと思うところもあります。研究指導する側になって、よくわからなくなってます😢

回答

「研究者」の定義について

「大学教員になる」というのと「研究者になる」は個人的には分けたいな〜と思っちゃうところはありますね。学生の時は頑張っていても,大学教員になったら研究活動が滞ってしまう人だっていますしね。

指導教員側の要因:個人の力量 vs 環境

あとは教える側の要因というのは,その教員個人の力量だけではなくて,それ以外の環境要因との掛け算なのかなと思うところもあります。その環境でどうやったら学生のパフォーマンスを最大化できるのか,みたいな。例えば,教員の研究費だけに依存せず,学内的な院生への支援(ソフト面もハード面も)が充実しているということであったり,共同研究の機会が豊富にあるのかどうか(学内外のネットワークだったり,異分野交流であったり)とか,どれだけ研究に時間を割くことができるか(授業負担や学内業務負担がどれだけあるのか)みたいなのも,もちろん教員個人の力量もあるとは思いますが,やはりその組織がどういう仕組みで動いているのかに依存するでしょう。

組織・「ブランド力」の影響

あとは,一度「あのゼミからは優秀な人材が輩出される」となったら,そこにもっともっと優秀な人が集まりやすくなるという効果もあると思います。また,なんだかんだで組織の力というか所属している大学ってのは大きいでしょう。やっぱりうちの分野(どこの分野とは言わない)(注)なら特定の国立大(旧帝大)や私立大の出身者がある種の「派閥」的強さを見せている側面があるように思います。

研究テーマ,分野特性の影響,個人的な問題意識

研究テーマの要因もあるでしょう。どの分野の方からの質問かはわかりませんが,私の分野(どこの分野とは言わない)だと,ある要因と要因の関係性を調べるアプローチで無限に研究を量産している人たちがいて,まあそれが世の中の潮流でもあるようだしトップ誌に載るし引用もたくさんされるし,みたいな。いや,論文載るのはすごいんですよ。テーマもそんなにポンポン思いつかないですし普通は。でも,この分野(どこの分野とは言わない)は既存の枠組みの微調整や概念の再定義によって研究を展開しやすい分野特性があって,それって最強なんですよね。概念間の関係性を統計的に検証するアプローチで,比較的安定して研究成果を生み出せる仕組みになっているので。

これは何も自分を除く他者に向けているわけではありません。私も,院生時代の多くの研究が「明示的・暗示的知識」というパラダイムに乗っかったものでした。当時は測定法の議論が隆盛していたこともありましたし,ある文法項目に対して,明示的・暗示的知識を測っていると考えられる測定具のテストを二つ実施して(あるいは同じテストに対して違う条件を課して),違いが見られたり見られなかったりしたら,それを議論することで論文1本になったんですよね。私が初めて採択された筆頭著者の論文がまさにそれでした。

Tamura, Y. & Kusanagi, K. (2015a). Asymmetrical representation in Japanese EFL learners’ implicit and explicit knowledge about the countability of common/material nouns. Annual Review of English Language Education in Japan, 26, 253–268. https://doi.org/10.20581/arele.26.0_253

今見たらなんかもう目も当てられないようなひどい論文で読み返すことも憚られます。こういうアプローチをするにせよ,もう少しフレームワークは今なら工夫するだろうなと思います。ただ,私はそういうアプローチで研究を量産できるような人間ではないですし,こうしたアプローチで研究(者)を量産するのが本当にいいことなのかな,とよく思っています。こういう意見も,結局はパブリケーションが強い人からしたら,私のような考えが同じ土俵に乗ってこなかったら相手をする理由もないでしょうから,難しいなぁとずっと思っています。

『第二言語研究の思考法』はそういう気持ちもあって携わった本ですが,特に話題にもされていない(という認識でいます)し,その提案について批判も特にもらってないと思うので,既存の研究パラダイムへの根本的な問いかけは議論されにくい傾向があるのだなと感じます。それでも,今後も細々と,この問題提起について継続的に発信し続けていくのが自分の人生なんだろうなと思います。今年度採択された科研費の研究も,そういう路線です。

なんか脱線しましたね。

最後に,これも言っておかないといけないなと思ったことですが,生存バイアスもあるんだと思います。結局生き残るのはなんだかんだ優秀な人なわけで,その陰で数多の優秀な人にカテゴライズされずに去っていった人だっているんじゃないのかなという気もしています。

おわりに

久しぶりに,面白い質問だなぁ,ブログ記事にしたいなと思わされる質問でした。ありがとうございました。

私に質問したい方は下記URLからどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915¥

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注:寺沢さん話法

関西大学の院生向けキャリア関係イベントでトークしました

はじめに

関西大学キャリアセンターのイベント(主催は学内のプロジェクト)に声をかけていただき,関大の院生の方々に向けてトークをしました。

「多様な博士のキャリア」と銘打ったイベントで大学教員が呼ばれている理由はよくわかっていませんでしたが,事前の打ち合わせで,第1弾では企業に勤められている方がゲストだったということを聞いて納得しました。主に博士課程の院生さん向けのイベントで,自分の所属先の研究科の院生さんも何名か参加されていました。私の話は博士課程のうちにこういうことをやっておいたらどうですかという内容です。一緒に登壇されたおふたりの先生のお話もとても面白くて,他分野の方々の考え方やキャリアのことを聞けてとても新鮮でした。

将来を見据えて注力しておくべきこと

私のトークの話をすると,この部分が半分くらいの内容を占めています。正直,生存バイアスなので,話半分くらいで聞いてもらうのがいいかなと思って話しました。自分はこうしたほうがいいと思っているし,それが今の自分に繋がっているとは思っていますが。

得意なことの掛け算を意識

これは結構意見が分かれるかもしれません。得意なことでとがりまくれという意見もあるかもしれません。私は凡人なので,そういう生き方は無理でした。何か一本でここにいるというよりは,英語授業の実践(タスク),第二言語習得,心理言語学,統計,R,みたいな色々なことの掛け合わせで自分の強みになっているかなと思います。それぞれどれをとっても自分より知識・技術に優れた人はいるでしょうけれど,それを複数持っている人っていうと,あまりいないのかなという。アカデミアに就職するとなったら,狭い専門性しかなければ担当できる授業も限られてしまいますし,出せる公募の数も少ないでしょう。

博論にまっすぐ進むな

この話は実は先日,関学のT先生と話したことでもあります。博論に直接関係ないことは「必要ないこと」として切り捨ててしまう人がいるけど,それってどうなの,みたいな話だったと記憶しています。例として出てきたのはたしか,データ分析のために統計が必要だけど,統計を学ぶことそれ自体は直接関係ないから自分の手持ちのデータを分析するツールの使い方とその解釈だけ分かればいい,というようなことでした(たぶん)。

フルタイムの職を持ちながら博士課程をやるとなると,なりふり構わずやるしかないみたいな感じなのかもしれませんが,私としては博士課程の時って直接的に関係ないことでも全力でやるからこそその後につながるということばかりな気がしています。勉強でも研究でも,やれるものはとにかくなんでもやる,というスタンスでいる人のほうが,博論だけに集中している人よりも道が開けているように,名大時代の後輩を見ていても思います。むしろ,博士課程にいて博論の研究しかできなかったら,アカデミアで就職してから研究を続けていくことなんて到底できないのではとすら思います。どのような就職先でも,1つの研究だけをやれる環境であることなんてないわけですから。

とはいっても,あれこれ手を出した結果として博士論文がずっと書けないということになっては本末転倒であることは確かです。よって,博士論文をおろそかにしてもいいということでは決してありません。でも1年中,3年間ないしは4年間の博士後期課程の間,ずっと博士論文のことだけを考え続ける,それしか時間がない,なんてことあるのだろうかと思います。

もう一つ,博論関係のアドバイスでいうと,完璧な博士論文を目指さないということです。そもそも完璧な研究などないし,完璧な学位論文などありません。完璧を求めていたら一生終わらないし,完璧でないと博士号がもらえないわけでもありません。これは私自身が博士論文執筆中に副査の先生だった方にも言われたことです。博論はpassかfailなんだから,passしたらいいだけだと言われました。博士号を取ったあともずっと長く研究人生は続いていくわけで,そのプロセスの中で少しでも良いと思える研究ができるように頑張るということでいいと思います。

パネルディスカッション

パネルディスカッションでは登壇者3人にいくつか質問が投げられて順に答えるという感じでした。私が印象に残っているのは,「これからの博士に求められること」という質問でした。印象に残っている理由は,私以外の2人の先生は,社会にインパクトを与える研究ができるかどうかや社会実装ができるかどうか,という点を挙げられていたことです。私は人文科学の代表として,別に社会に自分の研究成果を直接的に還元しようと思わなくてもいいと思っていると言いました。念頭にあったのは,それを意識しすぎてなのか,そこまで言えないでしょう,もっと抑制的にならないと,というような発言してしまうことがこの分野だと散見されるという私の個人的な認識でした。ただ,じゃあ自分のやりたいことをやりたいようにやっていればいいかというとそういうわけではなくて,自分の研究が社会に直接役に立つわけではなかったら何に貢献しているのかを考えることがとても重要だと思います。以前参加した学内の科研費獲得セミナーでも,人文科学系では申請書の評価の際に社会実装・社会へのインパクトの重要度が他分野と比較して高くないという話を聞いたので,そういうのも頭にあったからこその発言ではあるなと今振り返って思います。

懇談会

社会科学,人文科学,自然科学の3つの領域から1人ずつ登壇したので,最後にそれぞれのグループに分かれてコーヒーを飲みながら懇談会がありました。私は一応人文系代表ということで、外国語教育学研究科,文学研究科,心理学研究科,東アジア文化研究科の院生さんたちと話をしました。話をするといっても,一人ひとりに今の不安とか悩みとかを聞いたり,質問をもらったりという感じでした。先の見えない不安だったり,自分が何をやりたいかわからなくなっていたり,というのが話題でした。

おわりに

もっと院生さんたちと話したり,終わった後に登壇者の先生方と話をしたかったのですが,アウェイ大阪ダービー参戦という大事な用事があったので,時間を少しすぎたところでお暇しました。すごく良いイベントだと個人的には思ったので,院生さんたちにも参加して良かったと思ってもらえていたら良いなと思います。

ちなみに大阪ダービーは0-1で敗戦したので,この記事を書くことで心を沈めています。今から反省会です。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

大学院進学セミナーの開催責任者になったら?

はじめに

久しぶりの,質問に答えるブログです。以下の質問です。

学部の3,4年生を対象に大学院進学に関するセミナーを実施する際の開催責任者になったとして。セミナーにはどのような項目をスケジュールされますか?また、各項目に望み通りのスピーカーをお願いできるとしたら、誰に依頼されますか?

回答

研究科の構成員になったのが今年からなので,なかなか難しい質問ですね。うちの研究科って学部生向けに進学セミナーとかやってたかな?というのもあります。あとは,このイベントが任意参加なのかとか,対象が自分のところの学部だけなのか,あるいは広く学部や大学を問わずに学部3,4年生対象なのかとか。

という前置きをした上で,自分のところの学部生対象で,任意参加(ただし結構な人数集まってくれるという希望的観測),という想定で以下考えました。また,スピーカー依頼の個人名を挙げるのはちょっと憚られるのでしてません。うちうちに話すならまだしも,こういうところで名前をあげられた人にもあげられなかった人にもあまり良くないかなと思いますので。質問者の方的にはその人選にも興味がおありかもしれませんが,申し訳ありません。

  1. 大学院とはどういうところか
  2. うちの研究科で学べる事
  3. 奨学金制度等の紹介
  4. 現役学生の声(M, D)
  5. 現役院生のポスター発表会

みたいな感じですかね。セミナー参加学部生の人数にもよりますが,4はグループ分けして各グループに院生を1人割り振って,学部生からの質問に答えてもらうみたいな方式にしてもいいかもしれないなと思いました。参加する院生は大変かもですし,院生によって言ってることが違うとかそういうことがあって誤解が生まれてしまうとそれはそれで良くないということもありますけど。ただ,院生のリアルな声を学部生に聞いてもらうことは,すごく効果的だと思いますし,全体に対して話すような形式よりもグループでやった方がフランクになるんじゃないかなと思いますね。

1, 2, 3のそれぞれにスピーカーをお願いするとしたら,というのは難しいですねぇ。3については誰が適任というのを決めにくいですが,1と2で検討するべき要因としては,(a)男性と女性が半々になること,(b)言語教育,異文化コミュニケーション,通訳翻訳の3つの領域の多様性が確保されていること,(c)言語の多様性が確保されていること,があるかなと思っています。

3を入れている理由は,やっぱり大学院進学を決断するにあたって,経済的な要因が影響するかなと思っているからです。いろんな制度を利用することができて,負担ゼロとはいかなくても負担を減らせることがわかれば,それなら進学しようかなと思ってもらえる人もいるかもしれません。

5のポスター発表は,大学院生って結局なにしてるの?っていうところを学部生に身近に感じてもらうために,やってみたら面白そうだなというところです。これは,研究がまだまだ固まっていてもいなくてもよいと思っています。こんなことを考えているよとか,最近こんな論文を読んだよとか,そういうのでもいいなと。ただ,聴衆が学部生であるということを念頭に,院の授業やゼミで発表するのとは違う,伝える難しさを院生に経験してもらうことは,その院生にとってもメリットがあることだと思います。また,ポスター発表がきっかけで関連した内容に興味を持った学部生がゼミでそのことについて調べたりなど,学部生と院生の学術的交流が生まれる可能性も期待できます。院生からしても,自分が発表したことで興味を持って大学院に行こうと思う人が1人でもいたら,めちゃくちゃ嬉しいですよね。もちろん,それが出なかったら失敗だとかいうことでは全くないということは伝えておかないといけませんが。

個人的なポイントは,院生の皆さんにも協力を(もちろん有償で)お願いするということです。そして,院生さんたちがこういう進学セミナーに携わることを「めんどくさいこと」とか「やらされること」ではなく,自分たちが研究科(の現在と未来)に貢献しているという気持ちを持ってやってくれることが大事かなと思います。また,その取り組み事態が自分の学位論文や大学院で学んでいることとも直接的・間接的につながっているということを感じでもらえたらいいですね。

というわけで,以上が私が考えた企画です。実現可能性等々は全然考えていませんし,実際に実現しようと思ったら色々なハードルがあると思いますが,たたき台くらいにはなるのでは…と思って考えました。

質問したい方はどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

後輩の原稿を読んであげてほしい

はじめに

この記事は,主に現在大学院に在学していて,そして同じ大学院に(大きなくくりでの分野が同じ)先輩・後輩の関係があるような人(主に私の後輩なんですがそれ以外の人にも)向けで書いています。ただし,私が博士後期課程時代を過ごした環境はかなり特殊な環境だったので,どんなところでも実践可能なわけではないかもしれないという点だけご留意ください。

最近,発表や論文投稿などを意欲的に行っている後輩の話を聞いて,先輩が後輩の成果物が他の人の目に触れる前に見てあげるというようなことが私がいたときのようには行われていないのかなと感じることがありました。それはもったいないなと思うと同時に,きっといろんな要因があるかなと思うので,いくつか論点をあげてみたいと思います。

自分がどういう経験をしてきたか

私が所属していた大学院では,いわゆる講座制のような形で,ある研究室(ゼミ)に所属して,そのゼミのトップである教授のもとで研究を行っていくというスタイルではありませんでした。主の指導教官は決まっていても,その先生以外のゼミに出ることは当たり前に行われていて,縦と横の相互交流が非常に活発な環境でした。また,学生の自主性を尊重する土壌があったので,学生同士で縦に横につながって共同研究をすることもたくさんありました。一方で,先生主導で研究をやるということは私はほとんど経験しませんでした(別にこのことにまったく不満はないです念の為)。そうした環境だったからか,先輩が後輩の面倒を丁寧に見てあげるということも,明文化されないルールのようなものとしてありました。ゼミ発表前のレジュメチェックから,口頭発表申し込み前のアブストラクトのチェック,投稿論文のチェックなど,後輩は先輩にチェックをしてもらっていました。それだけにとどまらず,同期同士で見せあったり,ときには先輩(n=1)から読んでほしいと頼まれることもまれにありました。余談ですが,私が見聞きする範囲では,現所属先の研究科(厳密に言うと私は大学院の担当になっていないので私の所属は学部ですが)は人数もそこまで多くないのと,フルタイムの院生が多くないのでそういったことがあまり行われていないのかなと思いました。

後輩からしたら先輩にお願いはしづらい

普通に考えて,ただでさえ忙しそうに見える先輩ですし,自分の論文を読んでもらおうと思うのは躊躇して当然です。投稿論文はどこに投稿するかで長さは変わってきますが,それなりの量の論文をまず読んで理解しなければいけませんし,その問題点を指摘したり,質をあげるためのコメントをすることはそれなりに労力がかかることです。学年が近かったり,いつも行動をともにするような親密度があればハードルはいくらか下がるかもしれませんが,それでも後輩からは頼みづらいでしょう。

後輩の立場にある人に言いたいのは,先輩は忙しそうに見えるかもしれませんが,先輩だって後輩に頼られることは嬉しいことなので,勇気を出してお願いしてみてほしいということです。もちろん,締め切り直前に送るとか,「明日までにお願いします」みたいな無理なお願いはNGです。余裕を持って仕上げて,そしてある程度時間の猶予をもって「○○日が投稿の締め切りですので,○○日までにコメントいただければと思います」みたいな感じで依頼するのがいいでしょう。こうしたやりとりは1度ではなく,何度も繰り返せるのが理想的です。

先輩の立場にある人は,そういう後輩からの声のかけづらさを考慮して,積極的に後輩に声をかけてあげてほしいなと思います。「最近論文書いてる?」「今度の○○は投稿するの?」とか,そういう日常的な会話の中で後輩の事情を聞いてあげていれば,「実は今○○に投稿する論文を書いてるんです」みたいなことをもあるはずです。そうなったら,「投稿する前に送ってもらえたら読むよ~」とかって言ってあげれば,後輩が感じるハードルはぐっと下がるでしょう。

後輩の指導をするというのは自分のためになる

正直,自分が論文を書いていなかったら人の論文にコメントするなんてできませんよね。だからこそ,先輩は自分が論文を書いている姿を積極的に後輩に示してあげるとともに,自分が経験したことを少しでも後輩に還元できるようにしてほしいなと思います。もちろん,自分のことに使える時間を人のために費やすわけですから,めんどくさいと思ったりするかもしれません。ただ,私はこうしたことも次にあげる3点で研究者としての自分の成長に必ずつながると思っています。

1. 自分のこの先のキャリアで役に立つ

あまり将来の利益という観点で語るのは好きではありませんが,そういうことも2つあるかなと思います。1つは,大学教員で指導生を持ったとき。もう1つは,査読者になったときです。

普通,誰かの論文を見てコメントをするというのは指導生をもつ大学教員しかやらないような仕事だと思います。それを大学院時代に経験できるというのは,大学教員としてそのようなポジションについたときに間違いなく役に立つでしょう。また,論文をそれなりに書いていて,それなりに研究者として認知されるようになれば国内の学会誌であったり国際誌であったりの査読を頼まれることがあります。これも研究者の重要な責務の1つです。出版前の論文を読んで,論文の問題点,評価できるポイント,どうしたらもっと良くなるかを指摘するというのは,まさに査読者が行うことだと思います。研究者を目指すのであれば研究コミュニティへの貢献という観点でも良い査読者になったほうがいいに決まっていますので,人の論文を読んでコメントすることは査読者になるための練習でもあると思います。

2. 自分の論文を読む目線が変わる

1つ目のポイントは長期的な視点で役に立つという話でしたが,もちろん短期的にも人の論文を読むことの意味はあります。それは,人の論文を読むとより客観的に自分の論文も読めるようになるということです。議論の流れがちぐはぐなことに気づいたり,結果の解釈の問題に気づいたり,本当にいろいろなところに「論文を書く」ということに対しての学習のポイントが転がっています。そういったことは,出版された論文を読むだけ,あるいは自分で書いた論文を読み直すだけではなかなか経験できません。後輩の論文を良くするためには何が必要なのか,ということを考えることは,必ずや自分の論文を良くすることにもつながってきます。そしてこれは,いままさに自分が書いている論文であったり,直近の未来に論文を書く際にも生きてくることなのです。

3. 自分の幅を広げる

自分の研究に関わる論文だけを読んでいたりすると,なかなか他の領域の話を読む機会に出会うことはできません。同じ分野の後輩といえど,自分とそこまで近い領域の研究ではない研究をしている後輩の論文を読めば,その領域のことを勉強する機会にもなります。そうすれば,自分の視野も広がりますし,少しメタ的な目線で複数の研究領域の関連性を考える機会にもなります。

これは私も院生時代に経験したことがあるのですが,ある程度研究テーマが決まってくるとどんどん細部にのめり込んでしまって,そこから派生的に別の研究テーマを生み出そうとしがちになってしまいます。そうすると,なんでその研究やっているのだろうとか,その研究が分野にどう貢献できるのだろうという視点を取ることが難しくなってきます。こういうときに,少し離れた分野の研究を読むと,その視点を1つ抽象的なレベルにもっていくことができると感じています。自分の専門と言える領域で一流を目指すのはもちろんですが,私が見ていて一流だなと感じる人は,その領域外についても豊富な知識を持っていて,やろうと思えばその領域で質の高い研究ができるだろうなという人です。これは私の個人的な意見ですが,そういう研究者って憧れませんか?

時間はかかるかもしれないが誰でも経験できることでもない

繰り返しになりますが,いくら自分にメリットがあるといっても時間はかかります。それは間違いありません。ただ,先輩と後輩の交流が活発に行われているという環境でなければ,そもそも後輩の研究論文を読むという機会はないわけです。そう考えると,どこの大学院でも,そして誰でもが経験できることではありません。自分を成長させてくれる機会が周りにあるのであれば,それは積極的に活かしてほしいなと思います。

ただ後輩の論文を読むだけではなく,一緒に共同研究をやるというのも非常に有効な手段でしょう。この話はまた別の機会にできれば書きたいなと思います。

おわりに

私はまだまだペーペーなので,こんな偉そうなことを言う立場でもないのは重々承知の上ですが,投稿前に論文を読み合う文化というのはそのコミュニティの研究力を上げるということを私は信じて疑わないので,こういう記事を書きました。研究ってやっぱり一人じゃできないというか。願わくば,私のところの研究科もそうやって活発になってほしいなぁと思っているのですが,私はまだまだそちらの運営に関わるほど偉くないので,いつかそういう仕事をするようなときが来たら,頑張りたいなと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。