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自分の生い立ち

NHKテキストから出てるブルデューのディスタンクシオンの解説を読んだ。100分de名著シリーズ。こういう社会学の話を読むと,やっぱり自分という存在がどう作られたのかを振り返ることになる。

自分が若い時はそういう社会学的視点というか,メタ的な視点がないので,自分が育った環境についてあまり考えたことがなかったし,自分が環境の影響を受けているという視点を持ってなかった。でも,自分のハビトゥスはこうやって作られていったのだなと思う要因はたくさんある。

正直,小さい時は自分の家系のこともよくわからなかった。母方は祖母も祖父も学校の先生で,祖母が家庭科,祖父は社会科の先生だったと思う。祖父が先生だったのはよく知っていて,それは家に写真が飾られてあったりしたからだ。また,母の姉にあたる叔母も音楽の先生だった。はなれにピアノが置いてあったし,それはいつしか客間に置かれるようになって,それでたまに練習していた従妹は幼稚園の先生になった。

叔母の子どもである従兄姉とは歳が8つ?とかは離れていたけど昔からよく一緒に遊んだり旅行に行ったりしていた思い出もある。2人とも勉強がよくできて,埼玉県の進学校を出ていて,従兄の方は都内の国公立大学に進学して修士課程まで出ていたんじゃなかったかなと思う。理系だったので,大学に進学することが決まった時に入学に際してどんなパソコンを買ったらいいか相談に乗ってもらったのを今でも覚えている。

とまあ自分が教職を志すというか,少なくとも勉学に取り組む事に何らかの価値を置いて生きてきたのは,自分の選択ではなく,母方の親戚の影響が大きいのかもしれない。

最近までそうやって思っていたのだが,実は父方の,というか,父の影響も大きいということに最近になって気づいた。父方は商売人の家系で(といっても祖母の父だか祖父だかが東京に出てきて始めたくらいでそれより前のことはよく知らない),祖父母が始めたお店を父が継いで,街の小さな食堂をやっていた。お新香とお味噌汁とご飯に焼き魚とか,あるいはフライ,生姜焼きとか何かのメインのおかずが,キャベ千とからしの効いたマカロニサラダの載った皿に載って出てくるような。短冊に書かれたメニューがずらっと壁に貼ってあって,ホッピーのポスターやビールのポスターが貼ってあるような。ガラスケースの冷蔵庫には瓶のコーラやオレンジジュースが入っていて,たまに遊びに行ったら飲んでいた。厨房の裏には地下への急な階段があって,そこを下るとホシザキの冷凍庫があったと思う。

昼は定食屋で,夜は飲み屋のようにもなっていたので,父の帰りはいつも23時くらいだったと思う。自分が起きてる時に帰ってきたら,今日は暇だったのかなと心配したような気がする。昼の営業が終わってから夜の営業が始まるまでは父は家に帰ってきていて,多摩川にウォーキングしに行ったり,家で自重トレーニングをしたり,ダイニングテーブルで本や新聞を読んでたりしていたと思う。

そういう父の姿を見ていると,自宅でヨガをしたり筋トレしたり,神崎川沿いに走りに行く今の自分とダブる。でもそれだけではない。父は飲食店を営んでいたが,だからといって決して勉強することの価値を低くみるようなことはなかった。むしろ,そのことの価値を家族の中で最も高く見積もっていたのではないかと今になっては思う。驚くべきなのは,それでも私が父親に勉強をしろと言われた記憶がないからだ。

新聞を読めとは言われたことはあるような気がするし,新聞の切り抜きが自分の勉強机の上に定期的に置いてあったり,なんなら新聞の切り抜きをノートに貼り付けたものを渡されたこともあったかもしれない。でも,勉強しろとか,いい学校に行けとか,学歴が大事だなんて言われたことがなかったと思う。むしろそういうことを言うのは母親のイメージで,父親はあまり口うるさいタイプではなかった。そうやってバランスを取っていたのかもしれない。

でも背中を見せるではないけれど,行動としてそれを示してくれていたようにも思う。思い返してみれば,小学校の低学年の頃から,よく図書館に行っていた記憶もある。手提げ袋をもって,姉と一緒に図書館に行っていた。家でダラダラしていると,図書館にでも行ってきたらと母親に言われたような記憶もある。姉は昔から読書が好きで,私がまだ読むのが難しいような本を読んでは面白いと言っていて自分も負けじと挑戦するのだが難しくて内容がわからなかったみたいなこともあった気がする。

小学校の高学年の時だったか,姉の部屋にあった『おいしいコーヒーのいれ方』シリーズの小説を興味本位で読んだら,刺激が強すぎて頭が沸騰して眠れなくなったような記憶もある。そのまま自分の部屋の机の上に置いておいたら何も言わずに姉が没収していたと思う。

中学校と高校はとにかくバスケに明け暮れていて,自分から進んで本を読むなんてことはまったくといっていいほどしていなかったように思う。でも,それはとにかく自分の最優先がバスケがうまくなることだったからひたすら部活に精を出していたから本なんぞ読んでる暇がないというだけで,本なんか読んだってしょうがないということではなかったと思う。

話を戻そう。父は私が大学生の頃だったか,いきなりタイ語を勉強し始めた。もともと若い時にアメリカに語学留学した経験があって,多少は英語ができるのだが,それにしたって新しい言語,それも書記体系の全く異なるタイ語の勉強をするなんて。へー趣味ができてよかったねなんて思っていたが,そこから地道に勉強を重ね,現地の長期滞在も何度もするうちに「タイの看板はほぼ全部読めるようになった」と豪語するまでになった。すごすぎる。

私がアメリカに留学していた頃は東南アジアのバックパック旅行にハマっていて,アメリカで住んでたアパートに綺麗な写真と汚い字の絵葉書が定期的に届いていた。「今は〇〇にいて,□□から△△を経由して今度は◇◇に行きます」とか聞いたこともない地名が列挙されていて,Googleマップでいちいち調べていたような気がする。当時にもTwitterで,父が冒険家のような人生を生きてることを呟いていた気がする。

還暦を超えた今では体力的にしんどくなったことと,祖母の面倒を見ないといけないということで海外にはしばらく行ってないと思うが,それでもあくなき探究心というか,自分が知らない世界を見たい,もっといろんなことを知りたいという欲が滲み出ている人生を送っているように感じられるのは息子としても嬉しい。自分が育ってきた間,きっといろんなことを我慢して仕事して自分の好きなこともなかなかできなかったであろうから,こうして私も,そして姉も一人前のおとなとして生きている今は(自分の母親の心配をしないといけないというのはあるだろうけど)それでも自分の好きなような生きていって欲しいなと思う。

そういう父親の生き様みたいなものが,私の人生に与えた影響は無限大だろうし,母親とその親戚も含めて,私のハビトゥスをそこに感じずにはいられない。

教職を志したことについては,もちろん自分が受けた学校教育の影響もあるのは間違いない。小学校の高学年で自分のクラスの担任になった先生のインパクトはすごかった。なんでもできる,なんでも知ってる。話も面白いし,本当に好きな先生だった。こんな人になりたい,学校の先生になりたいと思ったのはそこからだと思う。現に,数年前に小学校の同窓会で集まった時,自分の思っていた以上に先生をやってる人が多くて驚いた。一般的にどれくらいなのかとかわからないし,地域的なものとかいろんな要因はあるだろうけれど,やっぱりあの先生(ともうひとクラスの先生もいい先生だったし人気だった)の影響はあったんじゃないだろうか。

中学校では,中三の時にお世話になった先生達のことをよく覚えている。私の通っていた中学校は,当時は市内ではまあ割と有名な荒れた学校だったので,いわゆる不良な生徒も多かったし,「ヤバい」奴も結構いた。中三になった時,学年団の先生が主任以外全員入れ替わるという前代未聞の配置換えで,他校から指導力のある先生が何人も来た。私は学級委員長をしていて,そのやんちゃな学年をまとめる役割を仰せつかっていたのだけれど,不良ともまあまあ仲が良かったので,立場上難しいこともあった。トイレでタバコを吸うことを注意しないといけないけれど,なかなか難しいだったりとか。

ある日,何かの時に教室に置いてあった自分のカバンがなくなり,担任の先生と探したらトイレの小便器の中に置いてあったというようなこともあった。あれ地味に結構きつかったな。でも,なんて言われたかは覚えてないけどその先生のことは信頼していて,味方でいてくれているのがわかったから乗り越えられたんだと思う。サバサバしてる人だったけど,めちゃくちゃ感謝してるからその先生の影響もある。

修学旅行の時も,持ってきてはいけない携帯持ってきてる奴がいるとか,自由行動で酒飲んでる奴がいるとかいうのがあって,そういうのも正義感で先生に報告してたらハブられるみたいな感じになった。まあ当然と言えば当然なんだが,友達として仲良くすることと,誰かがルールを破ることに対する責任感みたいなのが自分の中でぐっちゃぐちゃになって,夜に先生たちの部屋に呼び出されてもう辛いですって先生たちの前で号泣したの今でも覚えてる。主任の先生は英語科の先生で,その人が唯一一年生の時から見てくれてる先生だった。いわゆるオーラルイントロダクションをしてPPP型の授業をするいい先生で,新聞の見出しを解説するコーナーだったり,映画を見せてフレーズを解説するコーナーとかがあって授業も工夫されてる方だった。「一人で抱え込まなくていいんだぞ」ってその先生に言われてさらに涙が止まらなくなった。

中学を卒業して,高校に行って,3年の時だったかに中学校の進路イベントみたいなのに先輩として呼ばれて話すことになって久しぶりにお世話になった先生達に会ったのも嬉しかった。中3の時の担任の先生と,あともう一人キャラがめちゃくちゃ濃かった女性の体育の先生。修学旅行の実行委員会とかでお世話になった気がする。「次に田村に会う時は教採の面接練習かな?」みたいなこと言われた気がするんだけど,結局大学4年の時には教採は受けず,アメリカから帰ってきて受けた教採では面接練習もしてもらわずに2次で撃沈しちゃいました。もし練習してもらえてたら教採に受かって,今とは全く違う人生を歩んでいたかもしれない。

中学校の時のその修学旅行の実行委員会で,今でも覚えてる学びがあって,そういう先生や学校で過ごせて幸せだったなと今だから思うできごとがあった。ある時,修学旅行先の京都でのルール作りみたいなことをしていたときのこと。修学旅行中の班別自由行動では,昼食時をのぞいて,いわゆる食べ歩きみたいなことは禁止というのが基本線でした。お菓子を持っていくことも確かできなかったんじゃないかなと思う。そこで私は,京都でしか食べられないものもあるはずだし,そういうものを味わうことだって修学旅行の趣旨に反していないはずだから,節度を守っていれば昼食時以外にも例えば抹茶ソフトクリームとか食べたっていいんじゃないですかと言った。聞く人が聞いたら「昔からそういう性格なんだね」とか言われそうな発言だなと今は思う。そこで,その私の担任だった先生と,前述の女性の体育の先生に言われたのが,「自由には責任が伴うんだよ」ということだった。これを教わったことはその後の私の人生にものすごい影響を与えたと思うし,学校の生徒指導のほとんどの問題(は言い過ぎかもしれないが)ってこの一言に集約されるんじゃないかなと今は思う。当時の私にもビビッと響いて,何でもかんでもあれがいいこれがいいあーしたいこーしたいじゃだめで,自由を求めることはその結果生じたことに自分が責任を負うことなんだと学んだわけだ。まあ結果として,今考えたらこのことを重く受け止めすぎたからこそ,自由度をあげたことに対して生じた問題の責任を強く感じすぎて号泣するハメになったんだろうと思うのだが。

推敲せずに飲みながらiPhoneでダラダラ書き殴ったらまあまあな長さになったので,とりあえずここでやめて人知れず夜中に公開します。あとで読み直して消すかもしれないし,続きを加筆するかもしれないですけど。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。


2021.02.12 追記

途中から文体が「です・ます」になっていたり,主語に僕と私が混ざっていたり,「、」と「,」が混ざっていたりしたので直しました。

2020年の振り返り

毎年恒例の振り返り記事です。28日に仕事納めの予定が今日まで出勤して実験やったので,ブログも今日のうちに書いてしまおうということで30日に更新です。これまでの振り返り記事も興味がお有りの方はどうぞ。

過去の振り返り記事

ブログのこと

この記事を書いている2020年12月30日時点でのこのブログのpage viewは121,733です。ついに累計10万アクセス超えました(祝100,000PV)。2019年は年間20,000アクセス切っていましたが,今年は25,000アクセスを超えてこのブログを始めてからの最多アクセスを記録しました。ありがたいことです。

今年も昨年と同様に,平均すると月2本のペースでブログを更新しました。ただ,今年の前半あたりに投稿が集中していたので,毎月2本書いていたわけではありません。主に,新型コロナウィルスの影響で春学期がすべて遠隔授業となったことで,それに関する記事をたくさん書いたことでそうなりました。私はSlackを授業で使ったので,主にそれ関係の記事を多く書きました。

閲覧が多かった記事の上位も,R関連の記事だけではなく下記のような記事も入ってました。

42.5インチディスプレイの記事も今年に入って急にアクセスが増えたので,今年ディスプレイを新調した方が多かったのかもしれませんね。個人的には,もうあの大きさより小さい画面で仕事できないですね。

仕事のこと

3年目は2年目よりももっと仕事をうまく回せるようになるというか,学内の業務だったり授業準備の負担も減って研究に割ける時間が増えるだろうと思っていました。ところが,前述のように遠隔授業の実施に伴ってすべてが一変したので,昨年度の継続を活かすことはほとんどできなかったと言っていいかもしれません。自分のことだけでも手一杯でしたが他の先生達のヘルプもしなければいけない立場でしたので,毎日掲示板をチェックして,メールの問い合わせに返信して…みたいなことも春学期はやっていました。自分の授業に関しても,同じ教科書を使っていたとしても遠隔ではできることがまったく異なるので,すべて新しく準備することになってしまいました(多くの先生がそうだったでしょう)。

対面授業に戻った秋学期も,これまでの対面授業のようにはできない部分が多く,この状況下でできる対面授業というのを考えなくてはいけなくなりました。加えて,担当している授業がすべて異なるので(担当数=タイプ数),それもあって授業の負担感は2年目の昨年度よりもやや高かったなと思っています。

ただし,今年度は時間割のことにメインで関わっていないので,秋学期にその仕事で時間を奪われるということはなくなりましたし(たまに心苦しい気持ちになりつつ見守っています),学部のライティングの授業も持っていないので,3年目にして初めて研究室で徹夜した日数がゼロになりました(これまでも年間数日というレベルでしたけど)。

研究の面では,今年は学会がなくなったりオンラインになったりしたこともあって,停滞した感じがあります。昨年度,SLRFに行ってるときに申請書を書いていた科研費(若手研究)が採用されて,関大に着任してからようやく科研費を初めて獲得しました。それで意気込んでいたところでしたが,2020年度は研究をほとんど進められず。ウェブ実験をできるようになっておいたほうが今後データ収集がしやすくなるだろうと思って,jsPsychを勉強し始めました。

ガンバ大阪のこと

今年もガンバ大阪の年間チケットを購入していましたが,新型コロナウィルスの影響でJリーグも中断し,再開後は座席の間隔をあけたり入場人数が制限されていたので,年間チケットは払い戻しになりました。それでもホーム戦は最終節の清水エスパルス戦以外は行きました。この話題については別に記事を書いたのでそちらをお読みください。

2020シーズンに観戦したG大阪の試合

運動習慣

今年に起こった最大の変化といえば,Apple Watchを買って肉体改造に取り組んだことかなと思います。Apple Watchを買う前から,Nike Training ClubやNike Run Clubで筋トレだったりランニングだったりはたまにしていましたが,Apple Watch Series3が安価で手に入るようになり,4月初旬にそれを購入してからはとにかくApple Watchのアクティビティリングを完成させることと,毎月の「チャレンジ」を達成することが生きる目的みたいになりました。特に,春学期はほとんど在宅ワークで体を動かす機会が激減したこともあって,意識的に体を動かす機会を作り出さないといけないと強く感じていました。やっぱり一日中家にこもっているのってメンタル的にもよろしくないんですよね。体を動かすことでリフレッシュするようになって,それが習慣になったので対面授業になって平日は毎日職場に来ないといけないようになっても自転車に乗る,走る,筋トレする,ヨガ,のうちのどれか2つ以上は必ずするようになりました。

だいぶ流行に乗り遅れてリングフィットアドベンチャーを買ってからは,家での運動も気軽にできるようになりました。雨の日に走りに行ったことも夏の時期は何回かありましたが,冬の雨の日のランニングはハードルが高くてなかなか行けません。そういうときに,ゲーム感覚で身体を動かして,しかもそれなりに負荷の高いことができるのはいいですね(最近リングフィットはあまりやれてませんけど)。

あとは,自転車も寒いから冬は無理だと以前は思っていましたが,意外と乗れています。漕ぎ出したらあったまるぞということと,家を出る前にウォームアップすればよいという2つを自分が学習したことが大きいと思っています。自転車だと電車通勤の半分くらいの時間で行けるので,いつもより遅い時間に家を出ても間に合います。そうしてできた時間でヨガをやるようになりました。まず10分弱のヨガ(私はいつもNTCのSimple Morning Energy Flowをやってます)をやって身体をあたためてからいくと,自転車を漕ぎ出してすぐに身体が温かくなるのでそこまで辛さを感じていません。もちろん,まだそこまで寒くないというのもあるでしょうけれど。あとは,筋肉がついて基礎代謝があがったので寒さに強くなったというのもあるかもしれません。

健康維持という目的に加えて,こういう社会情勢の中で,なにか1つでもいいから継続してやっていることで,自分の精神的な支えとしているということもあります。自己肯定感を保つために意識してやっているといいますか。続けていることが自信になってくるというのは大いにありました。運動ってなかなか継続してやるのが難しかったのですが,2020年はそれを継続してできるようになったのが自分の中で成長したと感じる部分です。

2021年度も対面授業が継続になるので,特に春学期中にどうやって運動を継続していけるのかは正直まだ全然わかりませんが,2021年度も継続していければと思います。

おわりに

最後になりましたが,みなさん,今年1年お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

「(オンラインになって)授業の質が下がるのではないかと不安」という学生さんへ

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はじめに

タイトルのようなコメントを自分が担当しているクラスの受講生からもらいました。授業が始まる前にインターネット環境等について尋ねるアンケートをして,その中の自由記述の設問に対しての回答でした。色々不安に思っていることがある中で授業の質に関心を持っている学生がいることにまず感謝したいなと思います。

で、まあそもそも「授業の質」ってなんなんだろうなとか,学生が思う授業の質ってなんなんだろうかとか,教員からみた授業の質ってなんなんだろうかとか,二つはどれくらい重複する概念なんだろうか,みたいなことを考えるのも面白いんですが,今回はこれはしません。

授業の質は下がらないんじゃないかということを言います。

なぜ授業の質は下がらない?

ここでは,とりあえず思いついた2つの点について考えてみます。

教室で見えないものが見やすくなる

例えば,教室ではスピーキングをさせても,そのすべてを見ることは教員にはできませんよね。オンライン授業でスピーキングの形が変わるとしても例えばオンラインで録音したものを提出させるようにしたとすれば,その音声ファイルを教員は全員分聞くことができますよね。それについてどんなフィードバックを出すかは教員次第ですが,少なくとも教室内の1/40と,課題の1/40は全然違うと思うんです。課題だと厳密には1対1×40ですからね。その状態であれば,教員側も教室では注意が向かなかったものに気づける可能性もありますし,気づいたことをフィードバックする可能性も教室内よりも高くなるのではないかと思います。研究とかやったら面白いかもしれませんね(簡単に言うけどちょっと考えただけでいくつもの問題が思い浮かびますけども)。

授業外での個別対応が増える

個人的には,対面の授業がない分個別対応の重みが増して,特に語学の授業は逆にクオリティがあがるのではないかなと思ったりしています。対面の授業だと,授業が終わったらみんな終わりって感じになるし,それは教員もそういうケースが多いのではないかと思います。

ところが,オンラインだと例えばオフィスアワーみたいなものの概念もなくなると言ってもいいですよね。そりゃ24/7で学生対応することが教員に求められているということではないんですが,学生からのコンタクトがあればオンライン上でなら対応するという教員は少なくないのではないでしょうか。また,普段はメールかアポ取って研究室しか選択肢がないけれど,オンラインだから学生からの質問を受け付けやすくしている(手段を複数用意して提示している)教員も多いかもしれません。

学生もオンラインのやりとりに否が応でも慣れてくるはずですので,メールだったり掲示板だったり,質問する手段を使うハードルも低くなるような気がします。そうすれば,対面授業のときにはあまり教員にコンタクトをとったり質問したりしなかったような学生も個別対応での教育機会が増えるかもしれません。

また,教員側も,オンライン授業の鍵は学生へのフィードバックである(というかこれがないのではだめだとさえされている)というのは重々承知の上で授業をデザインしているはずですから,いつもよりもフィードバックにリソースを割くのではないかと私は思っています。もちろん,準備の時点で燃え尽きてしまうようだとフィードバックまで手が回らないということになる可能性も考えられますが,授業に費やしているエネルギーがフィードバックにいく可能性は十分にあるのではないかなと。この点は異論がある方もいらっしゃるかもしれませんけど。

おわりに

というわけで,授業の質が下がるかもしれないと思っている学生さんに言いたいのは,とにかくわからないことはガンガン教員に質問しようということですね。教員から与えられるものを待っているだけでは,授業の質が下がるということもあるかもしれません。したがって,自分から学習機会を積極的に確保しにいく姿勢が,通常時以上に求められていると言えるでしょう。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

祝100,000PV

気づいたらこのブログのpage viewが100,000を超えていました。2013年にこのブログを始めてから,100,000というのは1つ目標にしていた数字だったので嬉しいです。このブログをどんな形であれ読んでくださっている方々に感謝するとともに,これからも頑張ろうと思います。

私のブログ名は英語教育0.2で,「本家」英語教育2.0の1/10程度の認知度&影響力しかないんですが,細々とでもブログ記事を書き続けていてよかったなと思います。正直言って,ブログのアクセス数は年々伸び続けているわけではありませんので,そもそもブログというメディアの位置づけも5年前とは変わってきて,プラットフォームも移り変わっているのだなという気はします。でも個人的にはこのブログに愛着があって,そこに自分の考えを定期的に投稿していくことも自分のライフスタイルの一部になりつつあるので,簡単にやめたりはしづらいです。

ブログを書くことは自分のためにやっているところもありますが,だったらパーソナルな日記帳でいいわけで,やっぱりインターネット上で公開するということは人に見られたいと思ってやっているわけです。その意味では,訪問者数とかPVとかいうのは気にしたりしますよね。まだまだたくさんの人に読まれるようなクオリティの文章が書けるようにはなっていないので,私自身の文章力を磨くことも沢山の人に読まれるようになるためには必要だと感じています。

この機会に,私のブログ名等について簡単に。「英語教育0.2」は,英語教育2.0という先駆的ブログタイトルをもじっています。捉えようによっては揶揄しているように思われてしまうかもしれませんが,そういう意図はありません。2.0というのはweb 2.0からきていると思いますが,0.2ってもはやweb 1.0より時代遅れじゃないかと。そういうことです。単に時代遅れとか昔に戻すとかそういうことじゃなく,私はまだまだweb1.0にも遠く力及ばない未熟な存在であるという意味があります。というのはあとづけで,単にブログ名をTwitterで募ったときに出てきた候補の一つが英語教育0.2で,なんか面白い名前だからそれにしたというだけです。ちなみに,”Tamn it!”はもちろん”Damn it!”をもじっていますが,”Tamn it!”自体には特に意味はありません。ブログ名の候補に”Tamn it!”があったけど,ブログ名にするのはちょっとなと思ったのでサブタイトル的なところにつけているだけです。”なにをゆう たむらゆう”も同様で,ブログ名にするのはちょっと違うけど,なんかいつも使う締めの言葉としてちょっといいかなと思ったので,毎回記事の最後につけています。匿名でやっているブログではないので,名前を覚えてもらうのにもいいかなというのもありますしね。

というわけで,死ぬ前に1,000,000PV目指して今後も頑張りたいと思います。よろしくお願いします。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

顕在的「脱落者」と潜在的「脱落者」

adolescent adult beauty blur

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はじめに

タスクみたいなことだったり,あるいはもっと広くペアワークさせたとき,うまくいかないことはしょっちゅうあると思います。その原因を1つに決めることは不可能なことですが,それが「タスク」そのものだったり「ペアワーク」そのものだったりに帰せられるときの問題点についてです。話を単純化するために,この記事でいう「タスク」や「ペアワーク」は理想的なもの(ある目的をもった教室内活動として行われるもの)であることとします。一方で,教師は言葉は悪いですが「平均的」な教師を想定していて,どんな状態でも完璧な授業をする理想的な教師は想定していません。教師の力量を出すとすべてがそれで解決するという議論が可能になるためです。そしてこれは教師個人の資質の問題(つまり問題を解決できない教師が悪い論)にもすり替えられてしまいます。これは私が望んでいることではありませんので,そういった意味でも教師の力量はここでは問わないことにします。

基本的に言いたいことは,福田さんが過去に言っていたことと重なる部分が多いかなと思います(『タスク・ベースの言語指導:TBLTの理解と実践』の第3章の中に書いてあったはずですので本をお持ちでしたらご参照ください。実は過去にブログ記事にも書いてあったような気がしたので探したのですが見つけられませんでした)。こうやって言っておくのは,アイデア自体が私のオリジナルではないということを言っておくためです。ただし,この記事自体は私が書いていますので,以下で述べられることについての文責はもちろん私にあります。

「脱落者」

カギカッコつきです。「脱落者」という言葉がぴったり当てはまっているとは思っていませんが,ここでの意味としては「授業についていけなくなってしまった学習者」くらいの意味で捉えてもらえればと思います。顕在的と潜在的は文字どおりで,教師にとって明らかにそれと分かる状態かどうかの違いと言えます。つまり顕在的「脱落者」は「教室の中で授業についていけなくなってしまったということが教師の観察などに基づいて判断ができる状態の学習者」をここでは指します。一方で潜在的「脱落者」とは,「実際には授業についていけなくなってしまってはいるけれども,教師がそのことに気づけていない状態の学習者」です。なお,「授業についていけない」というのは,求められている課題が学習者の能力を上回っていて,課題の遂行が困難である状態であることとします。よって,そもそも課題に取り組まない,などは含まないということです。

可視化されただけ

この記事で一番言いたいことはこれ以上でもこれ以下でもありません。何らかの言語産出や,協同作業が求められるような授業を行った時に,授業についていけていない状態が明らかになった学習者がいたとき,それはその教室の中に教師が目標としていることを遂行できない学習者がいることが可視化されただけであり,そのことだけをもって「タスク」であったり「ペアワーク」であったりという方法が問題であるということにはならないということです。

「脱落者」をどうするか?

教師がリソースを割いて考えるべきはむしろ,できない学習者が授業内の目標を達成できるようにするにはどのような手立てが必要なのかということでしょう。このことは,どのような指導方法にもついてまわる問題です。どんなやり方であっても授業についていけない学習者が出てくることは起こりえます。そのことが目に見えてわかりやすいのが「実際に言語を使わせる」であるとか,「自分の考えをペアで話し合う」のような活動であるだけです。使わせようとして使えないことが明らかになったら,どうやったら使えるようにしてあげられるのか(=同じタスクをもう一度やらせたときにできるようになるのか)を考えてそれを次の授業(または活動の直後)ですれば良いだけではないでしょうか。「自分で考えないからペアでの意見交換もできない」と考えたのであれば,じゃあどんな仕掛けをすれば自分で考えるようになるだろう,という発想で授業を構成していくということです。もちろん,「言語を使ってなにかできるようになってほしい」とか,「自分で考えて意見を表明できるようになってほしい」ということを教師が願っていて,それを目標として授業をやっているということが前提ですが。「言語を使って何かできる必要はないし(どうせできないだろう)」とか,「自分で考えて意見を述べる必要はない(しどうせできないだろう)」と思っているのであれば話は別です。そういう人がもし仮にいるとすれば,「何を教えているんですか?」と聞いてみたいです。

聞いている=できている?

ペアワークとかではうまくいかないので,教師主導で講義型スタイルでないと授業が成り立たない,と考えている教師がいたとします。これが一般的かどうか,どれだけ多いのか,というのは置いておくとして,このときに私が問いたいのは,

講義型スタイルで授業が成り立っているというとき,そのクラスの中に「潜在的脱落者」はいないと思いますか?また,ペアワークのときに顕在化する「脱落者」の数と比べて少ないと思いますか?

ということです。別にペアワークをやらせないといけないというわけではありません。大事なことは,脱落していないかどうかを確認する手立てがどれだけ授業の中に仕込んであるかどうかではないかと思います。教師-学習者のやりとりでもいいです。「脱落者」がゼロの授業というのができればそれに越したことはありませんが,学習者の数が多くなればなるほどそれはかなり難しくなるでしょう(人数が1人でも課題の難易度設定を誤れば容易に「脱落者」は発生しますしね)。つまり,潜在的であれ顕在的であれ「脱落者」が出てしまうことを避けるのは非常に難しいことなのです。そのうえで教師に求められることは,いかに「脱落者」の存在を把握し,その学習者に対して何らかの手助けを提供することでしょう。文字通り潜在的な「脱落者」は教師の目からは見えにくいので,それを把握することも難しくなります。そうなれば,おのずと手助けを講じることも難しくなるでしょう。一方で,「顕在的脱落者」は教師が見て躓いていることが把握できるわけですから,その躓き具合に応じて指導を行うことが可能なわけです。「脱落者」が出ることよりも,「脱落者」を見逃して放置してしまうことのほうが私は重要な問題だと考えていますので,そうならないように授業を構成しようとします。そうすると,多かれ少なかれ学習者に何らかの反応(言語的やりとりだけに限りませんが)を求める授業スタイルに変化していくのではないかと思います。そして,そのようなことが可能なスタイルの1つとしてタスクだったりペアワークだったりというものも位置づけられるのではないでしょうか。

脱落してもよい

脱落というと諦めてしまうという意味も入ってくるような気がしてしまうので,言葉が良くはないかもしれません。ただ,教室の中ではすべてが完璧にできなくてはいけないということを教師自身や学習者自身が思っていれば,躓いていることが明るみに出るようなことは避けたいと思うのは当然でしょう。周りの学習者よりも自分が劣っていると感じるのは誰だって嫌なことなはずです。そうならないように,つまり見せしめになったりしないように気を使いながら,学習者の状態を観察して適切な指導を行える人こそが良い教師だと思います。

ありきたりな言葉になってしまいますが,教室では躓いてもいいのです。もちろん,あまりにも躓く頻度が高くなれば学習への意欲そのものが削がれていってしまうわけですが,躓いて転んでも起き上がり,一歩でも半歩でも前に進んでいることを実感できる,そんな教室環境が私は理想だと思っています。教師が適切な介入を行うことで意欲を削がずに躓く頻度を減らし,そして成長した部分にはポジティブなフィードバックを行い,教室でともに学ぶ学習者集団としてその過程を肯定的にとらえてみんなで切磋琢磨できるような環境づくりこそが教師には求められるのではないかと思っています。

おわりに

私は別にタスクがすべてとかペアワークは絶対などと思っているわけではありません。ただ,どのような指導の形態であろうとも,教師がすべきことは学習者の状態を観察して,把握し,適切な手立てを施すことだと思っています。大事なのはその部分なのに,タスクやペアワークというのはその言葉だけで批判の対象にされてしまうことも多いので,今回の記事を書きました。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

ヤットさんコーナー

研究室の一角に,遠藤選手のコーナーを作りました。昔から個人的に好きな選手で,ガンバ大阪のなかでもプレーを見るのをいつも楽しみにしている選手です。色紙のサインはファンクラブの来場ポイントで交換したもので、ポストカードと缶バッジはルクアのポップアップストアのイベントでもらったものです。飾ってあるキャップはストアで購入した物です。いつも試合を観に行く時に来てるユニホームも研究室には飾ってあります。

隣のユニホームは2018年シーズンのガンバEXPOの日に配られた記念ユニホームです。

今年はゴール裏の年間チケットを購入したので,今からJリーグの開幕が待ち遠しいです。今年は誰のユニホームを買おうかも悩みますね。

というわけで久しぶりにゆるい投稿でした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

2019年の振り返り

毎年恒例の振り返り記事です。今年は少し早めの更新です。これまでの振り返り記事も興味がお有りの方はどうぞ。

過去の振り返り記事

ブログのこと

この記事を書いている2019年12月30日時点でのこのブログのpage viewは95,047です。2017年,2018年と20,000viewは超えていたはずなので,2019年は少しアクセス数が少ない年となりました。おそらく2020年には100,000に届くのではないかと思います。月2本弱ペースで更新してるのは変わりないので,2019年のアクセス数が減ったのは記事のインパクトに欠けるということなのかなと思います。あとは過去のR系の記事の情報が古くなりつつあってアクセスが減ってるのかもしれません。はたまたもしかすると,ブログを読むことで情報を得るという形が変わってきているということもあるのかもしれませんね。最近はネットの媒体も多様化していて,伝えたいことを伝える手段はブログだけに限りませんし。とはいえ,私はもうしばらくはこのブログというメディアで発信し続けていくつもりです。この場所は,私のアイデンティティの一部のようなものだと感じていますから。

また,ブログではありませんが,anfieldload先生と一緒に「英語教育2.2CAST」という番組をnoteで音声配信するという試みをはじめました。有料配信で,月に300円で様々な音声コンテンツを聞くことができます。こちらもたくさんの方に聞いていただけたら嬉しいです。創刊準備号は無料ですのでまずはこちらを試しに聞いてみてください。

仕事のこと

『2年目のが忙しい説』というブログ記事でも書きましたが,昨年度よりは2019年度の方が仕事面では余裕ができてきたように思います。まだ2019年度は終わっていませんが。昨年度は本当に研究に割く時間を作ることができませんでした。論文を書くこともほとんどできずじまいで,コンスタントに研究の時間を作れていませんでした。2019年はそれに比べればある程度研究以外の仕事を後回しにしてでも研究に時間を割けるようになってきていると感じています。春学期はかなり良いペースで,毎週この時間は必ず研究するということを守りながらできていたように感じます(決して時間として多かったわけではなく,習慣的にやれていたということですが)。秋学期の方が色々リズムが崩れてきてしまっていると感じています。それでもなんとか年末に駆け込みで2014年にスタートしたプロジェクトの研究を2年越しで別のジャーナルに再投稿できました。年始当初の計画通りには進みませんでしたが,それでも少しずつ前進はしていると自分に言い聞かせています。

また,2019年は初めて海外の学会に参加して発表することもできました。そういう意味でも2018年からは前進しているのかなと(院生時代と比べるとそこで前進と感じていることがもはや後退のような気もしていますが)。学会で発表すること自体が久しぶりで,振り返ってみると自分がファーストで発表したのは2016年以来でした(それ以外にも話す機会はあったのですが,学会発表という意味では2017年,2018年はありませんでした)。ここ数年は「学会」というものに参加することやそこで発表することの意義みたいなことについて考えることも多く,あまりポジティブになれない時期だったなと思います。ただ,参加するとやっぱりモチベーションは上がります。アメリカのSLRFで発表したときには,研究テーマが非常に近い方の発表を聞けましたし,その方にApplied Psycholinguisticsの論文読みましたよって言われて嬉しかったです。すごくマニアックな内容の研究なんですが,やっぱり読まれるジャーナルに出版されれば読んでもらえる人は世界にいるんだなと感じました。

研究以外の仕事でいうと,昨年度と同じ業務が多いので,物事がどのように進んでいくかもだいぶ見通しが立つようになってきましたし,会議に出ているときもただ聞いているだけではなく発言するべきときには発言するということも少しずつできるようになってきたような気がします。また,いい意味でも悪い意味でも組織のことがだんだんわかってきたように思います。

授業もある程度自分の中に型とでもいうべきものができてきたと感じることもある一方で,うまくいったと思える授業というのはなかなかできません。毎時間おわったあとには反省点が数多く見つかります。その都度メモするようにはしているのですが,1年後に同じ内容の授業をするときになって,「これうまくいかなかったような気がするけど何がうまくいかなかったのか思い出せないな…」ということも何回かありました。もう少し授業のリフレクションを体系立てて蓄積していって,良いものに変えていけるようにする必要があるとも感じています。

その他

プライベートでの大きな変化かなと思うところは,やはりガンバ大阪のファンクラブに入って年間チケットも購入したことかなと思います(笑)。もともとサッカー観戦は好きで,昨シーズンの終わりにも何回か通っていましたが,今年は思い切って年間チケットを買いました。そうすると,休日はサッカーを観に行くという予定があるので休みの日に仕事をしようとしなくなりました。前半戦はアウェイ遠征で仙台,鳥栖,札幌にも行きました。やっぱり趣味があるって大事なことで,良い気分転換にもなります。意識的にオンとオフを切り替えるようにもなるので,仕事のことばかり考えてしまう毎日からは抜け出せるようになったのかなと思います。

また,6月には結婚式をしました。やったこと自体はよかったと思っていますが,もう一度やりたいかと言われたら正直やりたくないです(笑)。そして,8月には新婚旅行でヨーロッパに行きました。ロンドン,パリ,バルセロナの3都市を回りました。今までヨーロッパには行ったことがなかったので,いろいろな発見がありました。個人的には3都市の中ではバルセロナが一番好きだなと思いました。気候もよくて料理も美味しくて,また行ってみたいし家族を連れていきたいと思える街でした。

夏休みの間にヨーロッパ,カナダ,アメリカと3回も長距離移動があり(カナダとアメリカは出張),その間に義実家に行ったり長野の母親を訪ねたり,実家に帰ったりとかなり忙しい日々を送ったので,来年はもう少しゆっくり過ごせたらいいなという思いもしています。

おわりに

最後になりましたが,みなさん,今年1年お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

「英語教育を変えたい」みたいな素朴信念の先へ

はじめに

昔から,「そんなの研究じゃない」って思うような発表をいろいろな場所で見たり聞いたりして,そのたびに「問題点がどこにあるか」を指摘することは容易にできたし,してきていたという自負があります。しかしながら,なぜそういう発表があるのか,どうして「そんなの研究じゃない」と私が(そしておそらくは多くのちゃんと研究している人が)思ってしまうことを「研究だ」と思い込んでしまうのかについてはあまり深く考えたことがありませんでした。このことについて考えてみると,その一因は英語教育についての素朴な信念なのかもしれないと思うに至りました。以下,英語教育系の研究を始めようと思う学部生や大学院生の方に特に読んでほしいなと思いながら書きます(※ただ,書き始めたらただのナラティブみたいになったので研究の参考にしようという気持ちであまり期待せず暇つぶし程度に読んでください)。

B4的全能感

英語教育系で,大学の学部生くらいまたは大学院に入りたての修士1年生くらいで,ちょっと研究に興味出てきたくらいの頃って,「日本の英語教育を変えたい」みたいな素朴な信念を持つことってよくあると思うんです。ほとんどは自分の受けてきた英語教育の経験だったり自分が見聞きする範囲の話だったりあとは世間一般で根拠もなく言われるような話に基づいてるようなものです。私はその素朴な信念を持つようになることって発達段階みたいなもので,誰しも(は言い過ぎだとしても多くの人が)通るようなものだと思うのです。かくいう私も恥ずかしながら,学部を卒業して修士号取得のためにアメリカに行った時はまさにそういうことを本気で思っていた時期がありました。

日本の英語教育はてんでダメだ。教え方が間違ってるんだ。そして入試がいけないんだ。

みたいなやつです(注1)。もっといい教え方をしたら,もっと入試が変わったら,日本の英語教育は良くなるに違いないみたいなの。もしこれを読んでくださっている方が学部生や大学院生だとしたら,そういうことを思っていたりしているかもしれません(その事自体は私は「発達段階」だと思っているので全く悪いことだと思っていません)。また,「確かに昔はそんなこと思っていた時期もあったなぁ」みたいなことを思っているオトナの方もいるかもしれません。これってB4的全能感みたいなものかなと。

私は特に身近に英語教育の大学院生が活発に研究しているような学部に所属しておらず,そしてそもそも大学院生の人がどんな研究しているのかすら知る機会はありませんでした(あったのかもしれませんがおそらく当時はあまり興味もなかったので覚えていないのだと思います)。そういう中で,「大学院に行く」と決意したくらいですから,周りの学部4年生よりも自分には知識があると思いこんでいました。少しは,本当に少しは本を読んでいたし,ゼミでも結構鋭い意見を出す学生っていう自意識みたいなのもあったんです。うぬぼれですね。今振り返ると。いや,素朴信念を持っている人がすべてそういう人だと言いたいわけではないのです。ただ,「英語教育を変えたい」みたいなことを思うのって,「英語教育がだめだという認識」と「英語教育を変えられる、そして変えた方が絶対に良いという認識」の2つから来ていると私は思っています。この2つについて詳しく解きほぐすみたいなことをやっていると日が暮れてしまうのでここではやりませんが,結論からいうとどっちの認識についても「そんな簡単な問題じゃあねぇよ」っていう話なのです。そのことに気づける機会があった(ある)のかどうか,というのが大きいのではないかなと思います。

私の昔話

えらそうなこと書いていますが,前述の通り私も「素朴英語教育改革論者」みたいなこと言ってたんですね。むかーしむかしは。このブログのメニューにあるTogetterまとめで過去のものを見てもらうと,そのことが少しはわかるかなと思います。そのような過去をもつ私が,今客観的に当時の自分を振り返ることができるのはなぜなのか,という話を少しさせてください。

私は,2011年にTwitterを初めて,当時はTwitterでフォロワー数増やしたいみたいな願望持っていました。そこで,どうやったらTwitterでフォロワー数増やせるかなとか思って調べていたときに,誰が言ってたのかもはや思い出せないのですが「Twitterのプロフィール欄にはデカイ夢を書け」みたいなアドバイスを読んだんです。それを思いっきり真に受けた私は「日本の英語教育を変えたい」とかってプロフィール欄に書いてたんですね。いや,若かったからとかでは片付けられないくらい恥ずかしくて,おええええええええええって感じになりますね。その当時のことを知っている方からは,今でも当時のことをいじられることが今でもよくあります。

話が少し脱線しましたが,私はそうやってTwitterというメディアで恥ずかしげもなく「英語教育をがえ“だい“!!!」って叫んでいたわけです。一方で,その今となっては恥ずかしい過去というのが,実は幸いなことだったなと思うこともあるのです。それはなぜかといえば,私が持っていた「英語教育をがえ“だい“!!!」みたいな素朴な信念に対して「いや,世の中そんな単純じゃあねぇよ」と言ってくれる大人の人がたくさんいたからなんですね。名前はあえて出しませんけども色々な人とやりとりして,言語政策の本を読んでみたらとか,言語帝国主義の本を読んでみたらとか言われて(注2),「そうか俺は何も知らないのに意気がってたんだ」みたいになるわけです。自分の視野が狭すぎるってことに,全然気づいてなかったんです(注3)。

素朴さに気づけないと…

私は運良く,自分が抱いていたような英語教育に対する思いがすごく素朴な信念であることに気づくことができました。ところが,その素朴信念を相対化する機会に恵まれないままに大学院に進んで研究を始める人も当然ながらいて,そういう人ってたいてい「◯◯の効果」みたいな研究をやりたいというようなケースが多いような気がしています(具体例挙げると誰かの個人的批判になりかねないのでなにか具体的な指導法とかを◯◯に入れてご想像ください)。オブラートに包まずにいうと,自分が信仰しているやり方に対して「科学的な」根拠を与えたいタイプの人が多いというのが勝手なイメージです。別に実践的な示唆を目指したい研究がダメとかではありません。例えば,フィードバックの研究とかって最初は実践的な疑問から生まれてきてますよね。そして分野の1領域を形成するような大きなフィールドになった。「明示的指導」なんかもそうだと思います。

でも,たいてい「自分の興味あること」から出発する研究って研究と呼べる代物にならないことが多い気がします。というか,最初からバイアスかかってないですか?というのは常に問いたいです。例えば、「シャドーイングの効果に興味あります」という人がいたとき、「シャドーイングに効果があると思ってるからそれを確かめたい」って思ってませんか?って。自分が信じてることと逆の結果が出たときに、信じてることが支持された時と同じ態度で論文書けますか?っていうことですね。そういう中立的な態度って結構大事だと個人的には思っています。

自分の関心と分野の関心の往復運動をしながら研究課題を見つけられるといいのですが,あまりにも前者ドリブンすぎると独りよがりになるというか。もちろん、実践研究みたいなものもあるのでそういうアプローチを否定したりはしないのですが。

まとまらないけど

 全くまとまらないんですが,何かを変えようと思って簡単に変わるものじゃないし,その理由がいくつかの個別の要因に還元できるほど世の中単純になってないよねってことを頭の片隅に入れておくことって大事だと思うんです。それから,とにかく自分の持ってる素朴な信念を相対化する意識を持っていることも大事なんじゃないかなと。うまく言葉にできている自信はないんですが,まあたまにはこういうまとまりのない話でも公開してしまいます。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注1. これこじらせたままオトナになってしまった人もまれに見るのですが,そういう人はあまり研究の舞台で目立つことはないのでとりあえず置いておきます。

注2. 金髪の写真をアイコンにしたよくわかんねぇ若者が「英語教育をがえ“だい“!!!」とかいって絡んでも,おすすめの本を教えてくれるほどに当時のTwitterはまだいいところだったんですね。今だったらブロックされているかもしれないところです。それから,自分がいま若い時の自分みたいな人を見た時,自分がしてもらったような対応できるかと言われると自信はないです。

注3. 自分で自分を少しだけかばうと,そうやって言われて素直に本買って読むくらいには真面目だったんです。

だからやり方を縛るなよ

たくさんの先生が教えるような環境で,教員間でのクオリティを一定程度に維持しようと考えたとき,なんで抽象的な目標の部分をぼやっとしたままにして,やり方だけを強制しようとするんでしょうね,というお話。

学習指導要領で「英語は英語で」とかアクティブ・ラーニングとか,そういうやり方縛りってほんと悪手だと思うんですよね。そもそも目標というか目指すべきところから具体的な行動がいまいちピンとこないような抽象的なレベルものを掲げておいて,それに全員が到達できるようにすること自体が間違っているわけです。だって,到達できたかを確認する方法は自分たちで考えろ。でも日々の授業のやり方はこっちで決める。ってことでしょう?やり方を縛ったらその目標が達成されるように考えるの(いやそうは思ってないのかもしれないですけど),あれ大人の事情以外になんかあるんでしょうか?

普通に考えて,逆なんですよ。つまり,まずやるべきことは,全員が到達できたことを確認できて,そのことにある程度合意が取れるだろうというレベルで具体的な目標を設定し,それを測定できるようなテストなりタスクなりを作ることでしょう。それで,評価はそれに基づいてやればいいんですよ。そうしたら,それが達成されるように授業をやらなければいけないわけですから。もちろん,そんなことやるには尋常じゃないリソースが必要ですよ。ちょちょっと文言をいじって会議をいくつか通すだけじゃだめなんですから(いやそれだってそんな簡単じゃないわけですけど)。「ほら,ここにこう書いてあるんだからちゃんと守りなさい!」なんてもうまるっきり文科省のやってることじゃないですか。このやり方に見習うべきところなんかゼロでしょう。

具体的な目標を設定するなんてそう簡単なことじゃないですし,ある程度幅をもたせたりいくつかのタスクを用意しようと思ったら異なるタスクで同じものが測定できているのかを確認しないといけません。本気でやろうと思ったら,そのことだけに集中して取り組める専門家集団とソルジャー人員と予算が必要なわけです。それか,もういっそのこと逆方向に振り切って「全員TOEIC800点」にするとか。でもこれやるにしたって全員に同じテスト受けさせるのってそう簡単なことじゃないしお金だってかかりますしね。それは無理だと思うのであれば,やっぱり地道にやっていくしかないと思うんですよね。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

※この話はフィクションであり,実在の人物や団体とは一切関係ありません。

私の音声メディアとの付き合い方

前回,英語教育2.2CASTというウェブマガジンをスタートさせたことについて宣伝記事を書きました。その12月号の販売が開始になったのですが,その宣伝を兼ねて私の音声メディアとの付き合い方みたいなものについて書こうと思います。

本題に入る前に少し宣伝させてください。12月号には”TASK TALK Vol.2 「タスクがもたらすイイコトって?」”と題して前回の無料版の続きの対談があります。この他にも【編集「中」記】というanf先生の一人語りもあります。【TASK TALK】は毎週水曜更新予定で,Vol2の続きもこれからアップロードされていきます。300円の有料マガジンとなりますが,noteにアカウント登録をしてクレジットカード決済で簡単に購入できますのでよろしくお願いします。下記リンクからどうぞ。

英語教育2.2CAST【2019年12月号】

さて,通常「マガジン」といえば文字や写真,つまり視覚情報による媒体ですが,anf先生と私の試みは音声での配信,つまり聴覚情報を提供している媒体です。読む,見る,に比べると聞くというのは結構ハードルが高いようです。1番組は10分程度にして,できるだけそのハードルを低くするようにはしているのですが,やはり慣れてないと耳から情報を得るって難しいのかもしれません。

私が文字ではなく音声で情報を入れたいと思うときは,基本的に画面を見続けることができない状態のときです。そんなときにまでわざわざなんか聞いたりせんわって思われる方もいるかもしれませんが。具体的には,家事をしているときに聞く事が多いです。例えば洗濯物を干しているときや料理をしているときは,なかなか画面を見続けることはできませんよね。ウェブ記事のような文字媒体を読むことはおろか,テレビのようなメディアを見ることもあまりできません(デュアルタスクが苦手なだけかもしれませんが…)。ただ,耳で聞き続けることは他の作業をしながらでもできるんですよね。そういうときは音声が向いているところだなと思います。洗濯物を干すくらいの時間だと(家族の人数等々によるでしょうが)だいたい10分くらいですし,料理はそれ以上時間がかかることが普通なので1番組を聞き終わることはは十分に可能だと思います。

私は昔からいわゆるクリッピングが好きで,Twitterに流れてきて面白そうだなと思った記事や,RSSでフォローしているブログ記事なんかで面白そうだなと思った記事はPocket(昔はRead It Laterという名前でした)というアプリに飛ばすようにしています。

Pocketとは?今見ているページを保存してあとで読めるツールを解説
Pocket(旧・Read It Later)、Instapaper、Readability…人気の「あとで読む」系サービスを徹底比較!

ウェブの記事から余計なところを排除して記事の部分を読みやすく表示してくれるサービスなわけですが,少し前のアップデートで読み上げに対応してくれるようになりました。そもそもPocketでうまく表示されないページは無理ですが,Pocketで記事がうまく表示されるのであれば英語でも日本語でも自動で記事を読み上げてくれます。その場では読めないけどあとでチェックしときたいなという記事をPocketに保存して家事しているときに音声読み上げで「聞いて」,聞いたらそれをEvernoteにドンドン保存していくというのがルーティンです。正直Evernotenに保存した記事を見る機会はそこまで多いわけではありませんが,「あーどっかでこういう話読んだなー」みたいなときにとりあえずEvernoteで検索したり,とにかく情報のヒントを探すときにEvernoteで探してみるというような使い方をしています。iPad版のアプリで試しに読み上げ機能を使ってみたスクリーンレコーディングの動画を貼っておきます。

 

noteはウェブが基本ですが,アプリもあるのでアプリで聞く事もできます。読むと聞くではアクセスするのに適したタイミングがあるわけで,音声メディアのアドバンテージは何か別のことをしながらでもよいという点です。昔からラジオ番組ってそういう位置づけでしたよね。車運転しながら聞いたりとか。内容的にも英語教育2.2CASTは身構えて頭をフル回転させて聞くことが求められるものではないと個人的には思っていますし,ぜひみなさんにも「ながら」で聞いていただければと思います。では,これから収録に臨みます!今日の収録が配信されるのをお楽しみに!(笑)

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。